椿雪という少女にとって、それまでの環境と正反対の高校生活は、別世界に等しかった。更に彼女は周囲の生徒と目的の違いを敏感に察知し、颯爽と教室から退いた。退学をした訳ではない。本来の目的とは別の目的に動き出したのだ。
一年Aクラスに配属されても、教室で目立つことはなかった。クラスのムードメーカーである橋本がギャグを言えば、周囲は笑った。けれど雪は、少しも面白いと思わなかった。
Aクラスには、彼女と似た静かな生徒もいる。だが、彼女たちと交わることもなかった。例えば山村美紀は目立たないが、それでも坂柳とどこかで繋がっている。雪にはそういう相手がいなかった。
いつもそこにいるのに、別の次元にいるような、周囲と馴染むことのできないただ一人の生徒だった。それはきっと、目的が皆異なるためチグハグになってしまう組織と似た感覚なのかもしれない。組織は清廉潔白を掲げているのに、その解釈が異なるため、時に所属する人が思わぬことをしてしまったりする。そんな現象はどこにでもあった。
1
【C起 高校三年生 四月】
『ピンポーン』
寮のインターホンが鳴る。
訪ねてくる相手は分かっていた。私は受話器を取り、モニターの中で手を振る彼女を見てため息をつく。それから、普段は部屋で外してケースに収めている眼鏡をかけた。
「こんばんはぁ~。お邪魔しますよぉ」
「……何の用なの?」
天沢一夏を部屋に入れる。幼少期から付き合いのある彼女との間に、遠慮はない。一夏はいつものように、コンビニで買った飲み物を提げて入ってきた。
「ちょっと忠告に参りました。ありゃ、相変わらず殺風景な部屋ですねぇ」
ニヤニヤしながら言うと、彼女はおもむろにベッドへ腰を下ろした。ビニール袋をガサゴソと探り、缶を二つ取り出してテーブルに並べる。私が勉強机の椅子に座ると、一夏はさっそくプルタブを開けて飲み始めた。
「……いや、早く言ってよ」
「まぁまぁ、一服くらいさせてくださいよ」
そう言って、ぷはぁ、と息を吐く。
変態親父という言葉にハマっている私は、これはこれで変態親父風味があるなと思った。
一夏は手の甲で口を拭うと、ようやく本題を切り出した。
「清隆のことなんだけど……」
「──へぇ」
これは聞く甲斐があるかもしれない。
一夏の話は無駄が多い。
ホワイトルームをかなり気に入っている一夏は、高育とホワイトルームを比べ、高育がいかにぬるいかを愚痴る。話題の九割はそれだった。ここへ来てから成長した実感がない。もっと成長したい。清隆の役に立ちたい。いつも同じように息巻いている。
成長に貪欲な一面もあり、去年、私にも内緒で清隆の退学案件を実行した時には、最高傑作と本気でやり合うつもりだったらしい。さすがに止めに入ったが。
毎回、同じ話題で同じ結論に行き着くのには辟易する。ただ、その無駄話の中でも、彼女の清隆最強説だけは私の好きな話題の一つだった。
だが今回は、残念ながら残りの一割を引いたようだ。
「軽井沢恵と別れたみたい」
「ま、別に本気じゃなかったのは分かっていたし、時間の問題だと思っていたよね」
一年生の冬か、二年生の春頃から、彼は彼女を作った。
一年生の頃から周囲と馴染むことに四苦八苦していた清隆は、恋人を作ることにしたのだ。他言語を学びたければ、その言語を話す恋人を作るのが早道だと、どこかで聞いたことがある。
清隆は社会の共通言語を学ぶために、社会での彼女を作った。私はそう理解していた。
「チッチッチ……甘いよ、雪先輩」
一夏が、どこかで覚えてきたように人差し指を振る。
なんだか眉間を寄せたくなる仕草だ。
「さっき一之瀬帆波と話してきたけど、一之瀬帆波と清隆は男女の仲になったみたいだね」
それは新しい情報だった。
クラスメイトの退学か、クラスポイントを得るか。そうした選択を迫られることの多い特別試験において、退学を選ばなかった一之瀬クラスは、必然的にDクラスまで落ちた。
清隆とは時々話す機会があったようだが、そこまでの仲だとは知らなかった。
一夏には、特別な情報収集能力が備わっているに違いない。
「そう。あの一之瀬帆波ちゃんとね」
それも気になる話題ではある。だが、それ以上に気になったのは、軽井沢恵と別れたことだった。
「それで? 軽井沢恵の状況は? 調べてるんでしょ?」
「うん。ま、本人は強がっているみたいだけど、あれは相当ダメージを食らっているねぇ。学校へ来ているのが不思議なくらい」
一夏の言葉には同意しかねる。
男に振られたからといって、不登校になるなど私にはあり得ない。
私はテーブルに置かれた缶を開けた。今日はコカ・コーラという飲み物だった。喉を炭酸が通っていく。
「……フォローした方がいいのかな」
下を向いてそう言うと、一夏が呆れた目を向けてきた。
「その辺は雪に任せるって」
「相変わらず恋愛のことには疎くて分からないからね。一夏はモテるみたいだけど、どんな感じなの?」
「え? いやいや、ゴキブリに好かれたところでって感じだし」
「でも、告白されたって前に話してた」
「それくらい、雪もあるんじゃないの?」
逆に質問されてしまった。
私は言葉を慎重に選ぶ。
「ないよ、そんなの」
私にとって、誰かと付き合ったり、結婚したりすることはあり得ない。
そうしたことを考えられるのは、好きな人と釣り合えるようになってからだ。
ただ一つ共感できるとすれば、『ゴキブリ』という比喩だけは、なんとなく理解できる。
「……てかさぁ、相変わらず清隆と二人きりにしようとするの、やめてくれない? バレてるだろうし、私と清隆はそんな関係じゃないから」
一夏も私も、上下関係を重んじる。大方、私の方が先に彼と知り合っていて、一夏よりも若干総合能力が高いから、気を遣っているのだ。
ホワイトルームでは、力が強い者が正義。
私たちは最高傑作の指示に従い、生き、死ぬ運命なのだから。
考えるだけ無駄な人間は、頭のいい人間に従う。それが最も効率的だ。
犬は従順でなければ、組織として成り立たない。
彼が高育では目立ちたくないという方針を示した時から、私の役目は決まっていた。彼を目立たせないことだった。
先日の余計なお節介を指摘すると、一夏はしばらくコーラの飲み口を見つめた。それから、いつものニヤニヤ顔に戻る。
「そっかぁ。お節介してごめんねぇ~。コミュ障の雪先輩は、あたしや拓也より清隆と話す機会が少ないと思ったからさぁ。あ、別に変な意味じゃないよぉ?」
彼女が意味深に呟く。
彼女のニヤつきは意味深でなかったり、逆に全く意味がなかったりする。だが、今回のニヤつきはあまりにも意味深すぎる。
私は彼女のニヤニヤ顔を始めてみたのはいつだっただろうかと考えた。
それはきっと、幼いころの記憶。
彼女と初めて会った、沖縄での一場面だったのだろう。
2
【C’承 十二歳 夏】
合宿四日目の夜。
施設の浜辺で小さな焚火を囲むことになった。
星之宮という引率の先生が「せっかく沖縄に来たんだから♪」と言って石田先生を困らせたのが原因らしい。
私たち四人はムードが出るからと言う理由で用意された丸太に座らされ、私は清隆の隣にいた。
私たち四期生は他の期とは異なり、ハードな訓練を積んでいる。施設内で一緒にいた子供が一人、また一人と消えていく中、もう片手で数えられる程度に減った中で、別に私は優秀者とは言えなかった。
もう一人、清隆ほど優秀ではないけれどそれでも私より優秀な子が思いつく。
清隆といると守られている感覚になる。
先生方は怖いが、彼らの怖さよりも上回る不気味さを清隆が持っているからか、先生方は彼に甘かった。もっとも、その甘さが実力に見合うものだとは分かってはいたが、納得できない子も多かったように思う。
清隆がふと、興味をそそられたのか薪の組み方に凝り始めた時、私はついていこうと思ったのだが、ちょうど隣に星之宮先生が座ってくる。
「雪ちゃん、寒くない?」
「大丈夫ですよ、お気遣いありがとうございます」
二人で清隆を眺める。
拓也は薪拾いに行き、石田先生は一夏を連れて海で遊んでいた。
星之宮先生は沖縄の夜空に感動し、散歩をしに行ったかと思いきや戻ってきたのだ。
彼女はホワイトルームで接するどの先生とも違う気がする。
もしかしたら話を聞いても良いかもしれない。
いつもは大人に変な事を聞くと怒られるのだが、私はふと、ちゃんと答えてくれるかもしれないと思い、彼女のことを知りたがった。
「星之宮さんは、どうして引率を引き受けたの?」
「ん、ちょっと彼氏の紹介でね」
星之宮さんの顔がキラキラして見えた。
彼氏というのは、なんなのだろうか。友達という概念は分かるが、それよりも深い仲だというのはなんとなく察することが出来る。
「ちょっと年上の真壁くんっていうんだけど、知り合いから成績のいい子供たちの交流合宿を手伝ってほしいって頼まれたみたいでね」
「真壁くん…?」
知っている名前。
先月から施設内で別の子たちの授業を担当している、新任の教育員だ。
「彼氏に頼まれたのなら、断り辛いよね」
探り探り会話を成立させていくが、なんとなく合っていると思われた。
その成果は如実に表れる。
「そうなの。彼って真面目そうに見えるんだけど、抜けてるところがあってね。私が助けてあげなきゃなぁって感じで。この前も待ち合わせの時間を一時間間違えててね。私が怒ったら、次の日にケーキを三つも買ってきたの。私一人なのに」
「…え、三つも、ケーキを?」
ケーキなんて一年に一度のご馳走を、一度に三つ?
大人とはなんて羨ましい生き物なのだろうか。
「そうなの!どれが好きか分からなかったんだって…。かわいいでしょ?」
私が返答に困っていると、彼女はふと目の前の少年を見つめた。
清隆は相変わらず薪の組み方の調整にこだわっていた。
「雪ちゃんは、そういう人いない?」
「そういう人って?」
「会いたいって思ったり、触れ合いたいって思ったりする人のことだよ。その人の事しか考えられない。私はいつも、頭の中は彼の事で一杯なの。デートの後は彼の横顔を思い出すし、かわいい場面が浮かぶと胸がふわっと温かくなるの」
星之宮さんが満面の笑みで言ってくる内容を私は咀嚼する。
聞きたいと思っていたことが、私には少し難しくて聞いてしまったことを後悔した。
「…分かんない」
「そう?でも、今ちょっと綾小路くんを見なかった?」
「近くにいたから」
「ふぅん。でもあっちには八神くんが、いるし、天沢ちゃんもいたよね」
心の中を見られている気がした。
訓練では感情を抑制し、常に平常心でいるようにと言われている。
表に出すことすら許されない。
私は私の心がどんな形なのか分からない。
私には分からない心を、星之宮さんは分かっている風に話す。
聞きたいと思うのに、同時に見られたくない感覚になった。
どちらかと言うと見てほしくない気持ちの方が強い。
でも、私は籠の中から一歩外に出てみることにした。
「…私もね、彼氏が同じ部屋にいると、別に用事がなくても見ちゃうことあるよ」
「なんでなの?」
「好きだからね」
「好きな人は、確認する必要がなくても確認するの?」
「そうだよ。束縛とか、重い女だとは気付かれたくないんだけど、どうしても見ちゃうの。そんなジレンマを抱えながら私は生きてるの」
なんだかカッコ良さそうなセリフを吐く彼女の横顔に身震いする。
焚火に火が点き、薪が燃え始めた。
清隆は火が燃える様子をジッと見ていた。
私は彼女の言葉を反芻する。
「だから、行っておいでよ」
星之宮さんが、私の感情と言う名の金庫を開け始める。
無駄な事はしない。無駄な感情は持たない。
つまり今、動かないことが最も効率的。
隣に大人がいるのだから、大人の指示に従うのが一番自らを安全な場所に置く方法。
大人がいなければ清隆のそばにいれば良い。
悩んでいると、彼女が私の背中に手を当てて来た。
小さく、冷たい手。だけどその力は少し強め。
命令なのだろうか、そうではないのか判断が付かなかった。
鼻で息を吸って、鼻で息を吐いた。
呼吸が一度浅くなる。訓練で修正できる範囲。ただ、清隆までの数歩だけが、いつもより長く見えた。
「うん、行ってくる。星之宮さん、ありがと」
私はスッと立ち、彼女の方を見た。
彼女の瞳が弧を描いていた。
手足がスラっと長く、綺麗な女性。
私もいつか、星之宮さんのように自分の気持ちを簡単な言葉で説明できるようになるのだろうか。
焚き火の反対側。ふと、一夏が変な表情で私を見ているのが目に入った。口角が変な方向に曲がっていた。星之宮さんの口角とも異なる、嫌な気配のする表情だった。
◇
合宿終了後。
⬛︎引率者 星之宮 報告書
[椿雪は綾小路清隆の位置を、課題上の必要がない場面でも反復して確認する行為が見られる。本人は効率、指示、配置上の合理性として説明しているが、対象が他の対象者に置換された場合、同様の行動は確認できない。また、綾小路清隆からの応答後、椿雪に発話量および自発行動の増加が見られた。これは初期的な好意、あるいは恋愛情動の萌芽である可能性がある。なお、本人に自覚はない。継続的な視線記録および、対象者との相互作用の観察を推奨する──。]
⬛︎責任者 石田 追記
[対象者の自己申告は信頼性が低い。視認対象、注視時間、発話前後の反応を外部記録する。日常環境での継続運用を優先し、装着への抵抗が少ない形状を選定すること。]
彼らの報告を受け、責任者はホワイトルームの職員に対して以下を周知する。
⬛︎周知
[椿雪について、綾小路清隆との相互作用に継続観察上の有用性を認める。単独評価による離脱判定を一時保留し、共同課題時の成績を総合評価へ算入すること。]
◇
施設へ戻って数日後、私は黒縁の眼鏡を渡された。
視力検査の結果に異常はない。
それでも先生は、社会生活に必要なものだと言った。
命令なら、理由は必要ない。
私は眼鏡をかけた。
レンズ越しに最初に確認したのは、清隆だった。