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【D転 高校三年生 五月】
ケヤキモールは多くの生徒で賑わっていた。
初々しい一年生と、どこか張り詰めた二、三年生が館内に散らばっていた。
帆足ちゃんのアイスコーヒーは口に合わないらしく、さっきからほとんど減っていなかった。
「…プライベートポイントが少ないと、どうもねぇ」
先日坂柳さんの鶴の一声で私たちのクラスは半分のポイントを差し出したばかり。
使い道はバレてしまっているが誰も口を出さない。
二年生も一夏や拓也を筆頭に、三分の一を補填しているらしい。
ちなみに回収したプライベートポイントを管理しているのは拓也だった。
拓也は生徒会に所属しているためホワイトルーム生だけでなく生徒からの信頼も集めていた。
「帆足ちゃん結構ポイント消費激しいもんね」
「そうなのよ~。しばらくは好きなものを食べるのは我慢かなぁ…」
「だから今日もアイスコーヒーなんだ」
帆足ちゃんはテーブルへ両腕を伸ばし、座ったまま小さく伸びをした。
すると階段を上って一組の男女が現れた。
席はほとんど空いておらず、唯一空いている席に座った。
テーブルを一つ挟んだ斜め後ろに、幼馴染が座っていた。
振り返らなければ表情までは見えないが、会話は届く。
彼と目が合ったのか、目の前の帆足ちゃんがペコリと会釈をした。
「ねね、綾小路くんと椎名さんだよ」
帆足ちゃんが声を落とした。
「そうなんだ」
「二人でいるの珍しくない?なんか接点あったっけ」
「あまり聞いたことはないかも」
「そっかぁ…。あ、そういえばね、聞いて聞いて。この前、部活中の平田くんとね──」
*
「綾小路くんはいつも同じもの頼みますね、ホットコーヒーですか?」
「あぁ、プライベートポイントが心許ないからな」
「今日は違う物にしてみませんか?」
「そうだな、ひよりは何を選ぶんだ」
「私は紅茶にしようかと。あ、それからケーキも少し気になります」
「ケーキセットは頼んだことがないな」
「男の子でも、甘いものが好きな人は多いですよ。綾小路くんも食べてみませんか?」
「ひよりが食べ切れないなら食べてみようか」
「では、半分ずつにしましょう。その方が、ポイントの負担も少なくて済みますから」
「半分出してもらって悪いな」
「こちらこそ、半分負担していただいて助かります。私が食べたいと言い出したんですから」
*
「──雪ちゃん、雪ちゃん…」
「ごめん、どうしたの?」
「こっちのセリフだよ。どうしたの?ボーっとしちゃって」
「ううん、ゴメンちょっと他の事考えてた、えっと、平田くんの話だっけ?」
「えぇ?そこから?違うよぉ、今は司城君の話!」
*
「思っていたより、大きいですね」
「…おい、さっきの言葉とは違うんじゃないか?」
「今日はちょっぴり、別のケーキが食べたくなってしまって。ショーケースに入っているところを見ると、ここまで大きいとは思いませんでした。綾小路くんは多めに食べてください」
「半分ずつと言ったのはひよりだろう?」
「気が変わりました」
「早いな」
「乙女心と秋の空、というものです」
「今は五月なんだが…」
「では、乙女心と五月の空。です」
「随分と限定的なんだな、乙女心というヤツは」
「あ、そういえば綾小路くん」
「どうした?」
「この前お貸しした本、読み終わりましたか?」
「あぁ。ひよりが思わずネタバレをした、好きだと言っていた最後の一文は確かに意地が悪かった」
「そうですよね!」
「アレは著者の悪癖なのか?だが、最後の一文で、それまで積み上げてきた物語がすべて破綻するのは、悪くない余韻だった。」
「はい、読み手の感情が試されます」
「だが、ひよりは他の解釈をすると思っていた」
「どうしてですか?」
「最後の一文は、原文だと意味が反転するかもしれない」
「同じ文章なのにですか?」
「あぁ、古い英語では、letに『妨げる』という意味がある。現代の意味で読めば『許す』になる」
「では、あの人は戻れなかったのではなく……」
「誰にも妨げられず、戻ったとも読める」
「それなら、私はそちらを選びたいです」
清隆の行動心理を詳しく知るチャンスだと思った私は、帆足ちゃんとの会話に脳みその1割を使用し、残りの9割で清隆の会話を咀嚼する。
何の変哲もない会話に見える。だが、清隆が目的もなく誰かと時間を使うとは思えなかった。
龍園クラスは既に清隆に従う事を暗に認めたはずだ。女子グループの中では椎名ひよりを推す声も多く、私も図書館には足を運ぶためたまに会話をする仲だ。
椎名ひよりに、こんな一面があるとは知らなかった。
あの本の虫が、男子と二人でカフェへ来る。龍園くん達とカラオケルームへ行くことはあっても、それは会議のためだ。書店にすら滅多に行かず、本は図書館で済ませている筈。
「──綾小路くんは、主人公は最後に元に戻ったと思いますか?」
「戻っていないだろうな」
「やっぱり、そうですよね」
「ひよりは違うと思ったのか?」
「はい。少しだけ、戻っていて欲しいな、と」
「希望で結末を変えるタイプには見えないが」
「本の中ぐらいは、少し甘くても良いと思うんです」
「それは現実は甘くないと言っている様に聞こえるな」
「いえ、現実もたまには甘いですよ」
「ほう、ひよりがそんなことを言うなんてな。例えばお前はどんな時に現実の甘さを感じるんだ?」
清隆の方から質問をした。
これはどちらかと言うと必要のない質問なのではないか。
軽井沢恵との交際には、堀北クラスをまとめるという目的があった。一之瀬帆波との関係にも、クラス間の均衡という目的がある。どちらも清隆の行動として説明できた。
だが、今の質問は何のためだ。
ひよりが現実の甘さを感じる瞬間を知って、何に使う。
何も思いつかない。
なら、この時間はなんなのだろう。
私の知らない目標でも発生したのだろうか。
ここで私は突然、耳を塞ぎたくなった。
だが、非情なもので、椎名ひよりの声が、鼓膜を震わせる。
聞きたくないものほど大きく聞こえる。
それはホワイトルームの時の先生の叱責にも近いものがあった。
「──それで、次は何がおススメなんだ」
「私が選んで良いんですか?…では、少し考えても良いでしょうか」
「急がなくても良い」
「責任重大ですね」
「本を一冊選ぶだけだろ?」
「次に綾小路くんとお話する時間も決まりますからね」
*
「──雪ちゃん、そろそろ帰ろうか」
帆足ちゃんのアイスコーヒーは、結局ほとんど減っていなかった。
私たちは一緒に席を立つ。
近くにいた本の虫と幼馴染に軽く挨拶をして外に出た。
二人の飲み物はきれいに飲み干されていた。ケーキを食べた後の皿と二つのフォークが目に焼け付いた。
清隆の席に水のカップは置いていなかったが、椎名ひよりの席には水のカップが置いてあり、水が残っていた。
今日は、彼女がいつもまとっている古い本の匂いがしなかった。代わりに、石鹼のような清潔な香りがした。清隆の制服には、いつもなら残っている細かな埃がなかった。
特に深い意味はない。
たまたま今朝、粘着クリーナーを使ったのだろう。たまたま身なりを整えた日に、彼女と会った。それだけだ。
だが、清隆がそこまで気を遣う相手を、私はこれまで見たことがなかったのではないか。私はその仮説をすぐさま頭から消した。
◇
数日後。朝から雨が降っていた。
梅雨の時期には少し早いが、空は暗く校舎の窓に水滴が並ぶ。雨の日の高育は、人の移動が偏る。外へ出る生徒が減り、廊下が混む。傘立てでは、どれが誰の傘なのか曖昧になる。誰の傘か判別できない状態は、管理としてかなり雑。ゴキブリよりはマシだが、好きにはなれない。六時間目が終わっても、胸の内側に不具合が残った。痛みではない。呼吸は正常。心拍も測定が必要な水準ではない。何かを確認し忘れている状態に近い。提出物を机の中に残した時の感覚。
私はふと、この胸騒ぎを鎮めるのによいアイディアを思いついた。思いつくとすぐに端末を開き、図書館の蔵書検索を表示し、カフェで椎名ひよりが話していた作家名を入力する。すぐに見つかり予約をした。数分後、受取可能と表示が変わり、図書館へ行く用件が出来る。
図書館へ行き、司書に会釈をする。
雨の日は混むと思っていたが普段より人が少なかった。
「こちらで間違いありませんか?」
予約した本を受け取り、貸出カウンターを離れた。
ただ、足は出口ではなく奥の書架へ向かった。
同じ作家の本が他にもある。確認しても損失はない。
図書館へ来た以上、関連書籍を調べる行動は不自然ではない。
奥へ歩いていくと先日カフェで見かけた二人がいた。
文学の棚の前に清隆と椎名ひより。
椎名ひよりは三冊の本を抱え、清隆は二冊抱えていた。
「この作家さんも、少し似ていますかね。外国の小説らしく、ハードボイルド風味が強いです。先日綾小路くんから聞いた点を参考に、古い翻訳と現代の翻訳の二種類を…」
「今回は信用して大丈夫なのか?」
「今回は大丈夫です」
「今回は、という事は前回は違ったのか」
「意地悪な本も読んでいただきたかったので」
「なるほど」
椎名ひよりが上の棚に手を伸ばすと、腕の中の本が傾いた。清隆は何も言わずに三冊を受け取った。彼女は礼を言うことも、清隆の手元を確認することもなく、当然のように三冊を預けた。
「えーっと…」
ひよりが振り返ると、清隆は抱えていた五冊の背表紙を彼女へ向けた。
「右から二冊目です」
彼女が指差すと、清隆はその一冊を棚へ戻した。
棚の埃が清隆の肩へ落ちた。
「あ、ごめんなさい」
と、背の低い彼女がつま先を上げて清隆の肩にある埃を払った。
すると清隆がこちらを向き、私は気づかれてしまった。
「あら、椿さん。来てたのですね」
近くの棚のとある著者の本を探していた私。
別に盗み見る意図はない。
「こんにちは」
「椿も図書館に来るんだな」
「本くらい読みますよ」
「ふふ、そういう意味ではありませんよ、きっと。あの、その本借りられたんですか?」
「はい、いろいろなジャンルに挑戦してみようかと思いまして」
「そうなんですね、私もつい先日読んだばかりです」
「偶然だな」
「たまたまタイトルで検索したら、貸出中だったので、つい予約してしまって。椎名さんだったんですね」
椎名ひよりが普段は見せない笑顔を、私は正面から見た。彼女は「ふふッ」と笑った。
「良ければ、少し一緒に読みませんか?」
「誘ってくれてありがとうございます。でも、今日は借りに来ただけですから」
「そうなんですね、それは残念です」
「もう、寮に帰るのか?」
「はい」
「私たちも、もう少ししたら帰ろうかって話してました。まだ、雨は強いでしょうか」
「さっきよりは弱くなってました」
「では、今の内がいいかもしれませんね」
椎名ひよりが本を閉じる。清隆も手にしていた本を棚に戻し始めた。
二人は自然に帰る準備を進める。私は会釈をして出口に向かうと、二人も後ろから歩いて来た。
図書館の前で傘を取り出す。
「椿さんも寮へ戻られるんですよね?」
「はい」
「でしたら、一緒に帰りませんか?」
彼女がごく普通に誘う。私を拒絶していない。清隆も反対しない。彼女の笑顔は、以前、星之宮さんが見せたものに似ていた。こういった笑顔に私は弱いかもしれない。一之瀬さんと話す時も見る表情だが、椎名ひよりの笑顔にはもっと、ドキッとする何かがあった。
了承し、三人で傘をさして歩いた。
彼女を中心に、右に私、左に清隆がいた。
「椿さんは、これまで読んだ本の中では、どんなものがお好きですか?」
「……そうですね。どちらかと言えば、青春ものが好きでした」
「青春ものですか。綾小路くんはどうです?」
「自分から選ぶことは少ないな。ひよりに勧められたものなら読むが」
「では、今度は椿さんに選んでいただきましょうか」
「私が?」
「はい。三人で同じ本を読めば、今度は三人で感想を話せますから」
椎名さんは私に話を振り、清隆にも意見を求めた。
ただ、清隆が「ひよりに勧められたもの」と口にした時、二人の間には、私の知らない本が何冊も積み重なっているように思えた。
寮への道を途中まで歩いたところで、彼女は「あッ!」と声を上げた。
「どうした?」
「──すみません。図書館に、忘れ物をしました」
「忘れ物ですか?」
「はい、栞を、返却した本に挟んだままにしてしまいまして…」
栞?
栞は本の上についている紐ではないのか。それとも書店で貰える分厚い紙の栞の事なのだろうか。それは大事なものなのだろうか。雨の中、戻ってでも回収すべきものなのだろうか。司書も気にせずに書架に戻すだろうし、次借りる生徒も便利だと思いこそすれ、迷惑だと思う事はないだろう。
既にローファーは水浸しで、早く帰って乾かすべきではないか。
椎名ひよりはそんな私の思いとは裏腹に、「すみません、戻ります」と言い、綺麗に頭を下げて来た。
「オレも戻る」
と言ってきたのは清隆だった。
「椿はどうする?」
「私は帰ります」
「そうか、それじゃあ明日教室で」
「すみません、椿さん。また今度お話してください」
そういって、二人は来た道を引き返していった。
私は二人の背中を見送った。
椎名ひよりの歩幅は小さい。清隆は数歩でその差に気づき、自然に速度を落とした。
二つの影が、雨の中へ遠ざかっていく。
突然、雨に濡れたくなった。
眼鏡を外した。
傘を閉じる。
雨粒が目に当たり、景色の輪郭が崩れた。
清隆と椎名さんは、もう二つの影にしか見えない。
頬を水が伝った。拭う。
また伝った。もう一度拭う。
同じ結果が繰り返された。
停止方法が見つからない。
しばらくして、傘を差し直した。
眼鏡は掛けずに、バッグへしまう。
バッグから本を取り出して開くと、見覚えのない栞がぱらりと落ちた。
何かの花がラミネートされ、綺麗にやすり掛けまでされている。
これが椎名ひよりの栞だという証拠はどこにもない。
私はそれをハンカチで包み、バッグに入れると寮に足を向けた。
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◇
寮の帰り道で、一人の教師に声をかけられた。
「雪ちゃん、こんばんは」
目の前に、星之宮知恵が立っていた。
「ごめん。やっと思い出したの」
といって、彼女は傘から顔を出した。