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その日、坂柳有栖は運命と出会った。
幼い頃に切って捨てた、白馬の王子様とでも言うべき存在。ほんの少し前の彼女がその話を聞けば、内心では鼻で笑ってしまうぐらいには荒唐無稽な、あまりにも唐突な出会いを経て。
物心がついた時から、彼女の手には杖が握られていた。成長に合わせてサイズやデザイン、材質や重さといった部分は変わっていたものの、杖という存在そのものは変わらない。自分の体の一部と言っても、決して過言ではないぐらいに扱える。最早、扱っているという自覚もあまりないのかもしれない。
目に入った障害物は避けるか弾くか。角を曲がる時は意識せずとも注意深く。取り巻き達に先行させることもあったが、基本的には自分一人で十分に行動できる。
それでも転倒した。自分より二十センチは背の高い男子生徒と、曲がり角で衝突したのだ。十五歳の思春期真っ只中であることに加え、プライドもそれなりに高い有栖からしてみれば、その事実はあまりにも腹立たしい。
衆目の中で尻餅をついている自身の姿。まだ周囲からのイメージも固まっていない段階で、そんな間の抜けた姿を晒してしまっているのだ。周りの第一印象は「入学式の前に転けていた子」になってしまう。そんな刷り込みを嬉しいと思う人間はいないだろう。当然、彼女も例外ではない。
とはいえ、起こったことを取り消せるような能力を持っているわけでもない。彼女は間違いなく天才ではあるものの、過去改竄を行える能力者ではないのだ。平凡な少年少女達と同様、彼女も新生活という言葉の魔力に浮き足立っていたのだろう。それ故、普段ならあり得ないミスをした。その事実を嫌々ながらも受け入れつつ、有栖は視線を上げようとした。自分に尻餅をつかせた犯人の顔を認識する為。
「悪い!大丈夫か?物珍しくて余所見してて……って言い訳するのもカッコ悪いよな」
それがいけなかった。
遅かれ早かれ、認識せざるを得なかったのは間違いない。しかしながら、タイミングが良くなかった。
「どうした。何処か痛むのか?」
黒と銀が入り混じった髪。青い瞳。整った顔立ち。軽やかで涼やかな少年が目の前にいた。有栖が視線を上げるまでもなく、彼は既に視線を合わせていたのだ。
「いえ」
刹那、胸が弾けた。
「痛むというか、痛くはないのですが」
心疾患によるものではない。経験上、それはすぐに分かった。
それ以外のことが分からなかった。何故、自分の耳は周囲の音をキチンと捉えられなくなっているのか。どうして、その中でも少年の声だけは鮮明に聞き取れてしまうのか。バクバクと鼓動が騒がしくなっている理由は何なのか。自分の視線が少年の顔で固定されてしまっている訳は。自分の顔が酷く熱くなっているのは、何が原因なのか。
「違和感ってのは後から大事になったりするんだぞ。足か?指か?捻挫だと思ってたら、実は剥離骨折だった〜なんてこともあるからな」
有無を言わさず始まった足への触診に対し、抵抗もせずにされるがままになる有栖。力で振り払うことは無理でも、セクハラだ何だと騒げば一瞬で退かすことができる状態だが、それをする素振りは微塵も見られない。潤んだ瞳でポーッと彼の動きを眺めるだけだった。
「違和感でもないんです。これはその、何と言えば良いのか分からなくて」
「表現し難いよな。ヒリヒリとかズキズキはしてないか?」
言葉として、知識としては頭の中にある。体験するのが初めてだから、確証がないだけだ。
取り巻きの話を聞いていた時は馬鹿らしいとすら思っていたモノ。症状は人によって千差万別。毒にも薬にもなり得る、思春期特有の心から生じる感情の奔流。
「とりあえず保健室だな。何処にあるか分かんないけど、大人に聞けば分かるだろ。素人の触診よりは絶対に良いし」
転んだ拍子に手放していた杖と学校指定の鞄。ギリギリ頭に引っかかっていたベレー帽。有栖の思考回路が普段通り機能していたなら、まずは謝罪を。続けて、それらをどうにかしようとしていたはずだ。
だが、熱に浮かされた彼女の行動はやはりおかしかった。衝突したことについて怒りもしない。かといって、頭を下げるわけでもない。口から出てきたのは、突拍子もない言葉だった。
「あの」
「どうした!やっぱり痛むのか?」
もにょもにょと唇を数度歪ませる。躊躇、緊張、その他複数の感情が混在していた。深呼吸を挟んでも、騒ぐ心音は落ち着く気配がない。
「……な、名前を教えてくださいますか?」
口に出した後、ポカンとしたのは有栖自身だった。一体全体、自分は何を言っているのだろう。十代ながらも立派に培われた常識が、社交界である程度は獲得していた経験が、いつもならもっと回るはずの口が、それらを使って状況を簡単に打破するはずの頭脳が。どれもこれも役に立っていない。
少年もやや戸惑っている様子ではあったが、すぐに表情を切り替えた。元々爽やかな雰囲気を人一倍漂わせているのに、やや釣り上げられた唇の両端と少しだけ細められた目が作り出した笑顔は、非常に爽快感の溢れるモノだった。
「我が名はシャルルマーニュ!」
「シャルル……マーニュ?」
耳に残る良い声で紡がれたのは、義務教育ではあまり聞いたことのない人名。知識が豊富な有栖だったから、その名前と合致する伝説に辿り着くことができただけだ。
ヨーロッパの騎士道物語。確かにピッタリだと思った。その容姿と快活さは間違いなく、物語の中の騎士そのもの。少年少女が理想とする格好良い姿だ。
「なーんてな!」
パチンと叩き込まれた茶目っ気溢れる目配せに、有栖の胸がまた弾んだ。
「俺の名前は
差し出された右手を、少女は床に座ったまま握り返した。
よろしくお願いします。そう返せば良いのに、その言葉すら出てこない。男子らしいゴツゴツとした手をギュッギュッと何度も握り、シャルルと名乗った少年の顔を見つめる。手に視線を戻して、小さな柔らかい両手で包み込む。小さな哺乳類でも愛でるように、硬い手を指先ですりすりと撫でていく。
そんな奇妙な行動を二度三度と繰り返せば、大抵の人間は困惑してしまう。少年も振り解くわけにもいかず、懸命に握り返してくる小さな手の持ち主を見つめ返していた。
「えーっと」
どうしよう。そう言いたそうな動きをする青い瞳が二つ。
困らせてしまった。何か行動を起こさなくては。そう考えた有栖は咄嗟に口を開いた。
「私は坂柳有栖といいます」
違う。順番があまりにもぐちゃぐちゃだ。そんなツッコミを入れられる存在はいない。
不幸中の幸いとでも言うべきか、繰り返した奇行は熱暴走していた彼女を急速に冷やすことに寄与していた。
「お、おう!よろしくな!」
何処からどう見ても変な子だった。それを客観視できるぐらいの冷静さは取り戻せたせいで、余計に顔が熱くなっていく。
既に頭から落ちかけていたベレー帽で顔を隠し、混乱している思考回路を整えようと試みた。自分の匂いで満ちている帽子の中。深呼吸に適しているかはさておき、周りの情報をシャットアウトするには丁度良い。
「大丈夫。大丈夫です」
小声で自身に言い聞かせ、深呼吸を三度繰り返す。これでいつもの冷静で不敵な笑みを浮かべる自分に戻っているはず。そう判断した有栖が少しだけ帽子から顔を出してみれば、相も変わらず心配そうな表情で覗き込んでいるシャルルがいた。
「ひゃっ」
位置関係が変わっていないのだから、当たり前だ。彼は先程から移動していないし、有栖自身も最初に尻餅をついた状態からほぼ変わっていない。杖と鞄は未だに転がったままだ。
「本当に大丈夫か?」
心配されてしまった。その事実に心が揺れると同時に、途轍もない羞恥心が襲いかかってくる。
初対面の男性、それも自分と同じ新入生らしき男子に対して、どれだけの奇行を晒してしまっているのか。これ以上変な姿を見せたくもないのに、逃げ出すのは身体的に不可能。そもそも、まだ謝ってもいないのだ。
「やっぱり行っとこうぜ、保健室。式に遅れるかもだけど、先生には俺から伝えとくからさ。あ、でもクラスが違うかもしれないな」
「大丈夫ですから!」
普通に歩き回れる。そうアピールしようと思って杖を取ろうとするも、シャルルの方がほんの少しだけ早かった。杖と二つの鞄を指先に引っ掛けた彼は、両腕を使って有栖を持ち上げた。
所謂、お姫様抱っこである。
「シャ、シャルル君?」
「よーし、全速前進!目指せ、保健室!」
拒否権はないらしい。あったとしても、有栖にそれを行使するつもりはなかったが。再びベレー帽で顔を隠し、腕の中で縮こまる。全速前進と言いながら、彼の動きはあまり揺れないように配慮されていた。どうしようもなく、根本的にそういう人間なのだと思い知らされる。
「何なんですか……」
帽子から目だけを覗かせた。
廊下を軽やかに駆けながら、部屋の名前に目を通していくシャルル。焦っているような、困っているような顔。まだ涼しげな春とはいえ、一人の人間を抱えながら走っている影響で、汗が額からツーッと流れ始めている。
どうせなら、保健室が見つからなければ良いのに。
一瞬だけ、そんなことを考えてしまった。それを考えてしまった自分の頭に困惑し、すぐさま羞恥心が濁流のように襲い掛かってくる。
「本当に、何なんですか……」
再び顔を隠そうとして、止めた。帽子を胸に載せたまま、自分の為に表情を忙しなく変化させる少年を目に焼き付けることにした。