アレクサンドル王立高等学園の朝は早い。
高等学園に雇われて三年の使用人、マルティナは中庭の廊下を歩いていた。今年で二十二歳。平民の出ではあるが、彼女にはちょっとした自負がある。
(よし、今日も崩れてない)
すれ違うガラス窓に映る自分の姿をチェックする。端正な顔立ちに、豊かな赤髪。制服のエプロンドレスを着ていても隠しきれない発育の良い身体。実際、学園の若い男子生徒や同僚からの視線には事欠かない。
マルティナは自分の外見の価値をよく理解していた。だからこそ、危機管理も徹底している。貴種の気まぐれなお手付きになれば使い捨てられるだけ。狙うなら、それなりの実力と将来性があり、なおかつ自分を「正妻」とは言わずとも「価値ある愛妾」として長く遇してくれる、美味い食い扶持だ。男女関係なく、働いてくれれば雇用される王立学園の使用人という職場には、そういった玉の輿を狙った若い女性が数多くいた。
そんな計算高い彼女の目に、一人の異質な生徒が留まった。
「おはようございます、マルティナさん! 」
タカタカタカ、と猛烈なピッチで走りながら、ちんちくりんな少年――十字宝希が、ぺかーっとした太陽のような笑顔で挨拶を投げかけてくる。いつも通り、移動は基本ダッシュだ。
「あら、おはようございます、宝希様。ふふ、ありがとうございます」
マルティナは完璧な営業スマイルで一礼する。ひゅん。一瞬で宝希が通り過ぎていった。相変わらず、せわしない少年である。
最初は変な少年だと思っていた。ただ、平民の使用人相手に、他の貴種のように傲慢に振る舞うこともなく、常に礼儀正しく優しい。何か困っていれば手を貸してくれることも多く、悩んでいたら相談にのってくれることもあるという。そういう意味では、使用人の間で宝希は学園に入学してから、話題が絶えない存在だった。
しかし、初めのころ、マルティナは彼に興味を持っていなかった。なぜなら、彼は貴種ではなかったからだ。自分よりも弱弱しい
だがしかし、宝希は
(……ただの変人だと思ってたら、とんでもない大化け物じゃない。あの若さで人脈の作り方も容赦ないし……これ、将来的に凄まじい優良物件になるんじゃ?)
マルティナの計算高い脳細胞がフル回転を始める。今はまだ十三歳のちんちくりんだが、数年後にはどれほどの権力を握るか分からない。今から「親切なお姉さん」のポジションを築いておいて損はないはずだ。
そんな彼女の打算が、決定的な「本気」に変貌する事件が起きた。
その日の夕方。人気のない校舎の裏で、マルティナは立ち往生していた。
目の前には、冒険者科の二回生の中でも、悪い噂が絶えない貴種男子。酒が入っているのか、顔を赤くしてマルティナの腕を強引に掴んでいる。
「おい、平民の分際で俺の誘いを断るのか? ちょっと面かせよ。悪いようにはしねえからさ」
「困ります、あ、あの、離してください……!」
マルティナは内心で冷や汗をかいていた。磨いてきた危機管理能力も、暴力の行使を厭わない上位の貴種相手では無力だ。本気でマズい、そう絶望した瞬間。
「うぉおぉぉおお! 下俗なナンパに神の鉄槌ぃいいい!」
すさまじい勢いで突っ込んできた宝希が、なぜかバナナの皮を貴種男子の足元に滑り込ませた。
<ギャグLV1を習得しました>
「うわぁっ!?」
信じられないほど古典的な転び方をして、貴種男子が派手に地面に這いつくばる。
「大丈夫ですかマルティナさん!現代社会において女性の意志を無視した強引なアプローチは条例違反ですよ!次やったらSNSで晒しますからね!覚悟してください!さあ、今のうちに脱出です!」
宝希はマルティナの手を引いて、猛烈な速度でその場を走り去った。
息を切らしながら安全な場所まで逃げ延びた時、マルティナの胸は高鳴っていた。それは走ったせいだけではない。自分を助けるために、平民のためにリスクを冒して貴種に敵対してくれた少年の横顔が、妙に眩しく見えたのだ。
「……ありがとうございます、宝希様。本当に、助かりました」
今度の笑みには、いつもの計算は一切混ざっていなかった。本物の熱を帯びた視線を向けるマルティナに、宝希は「えへへ、お安い御用です!」と頭を掻いていた。
(決めたわ。私、全力でこの子を落とす。この優しさを独り占めしてやるんだから)
マルティナの胸に、歪みを含んだ恋心が芽生えた。
なお後日、この件をきっかけに宝希は二回生の貴種の男子と激突することになるのだが、最終的には激しい殴り合いになり、結果、二人はマブダチになった。これには、ああ、私のせいで宝希様が大変な目に……それでも見捨てずに頑張ってくれているなんて、なんて素敵な方なのでしょう……悲劇のヒロインを気取っていたマルティナも、最後の結末を聞いて「なんでやねん」と呟いた。
そしてマルティナの淡い夢想は、数日後の事件によって完膚なきまでに叩き壊され、歪な発露を迎えることになった。
その日、マルティナは数人の使用人たちと、訓練場近くの中庭で作業を行っていた。メンバーの中には、定年間近の腰の曲がった高齢の使用人、マルタもいた。
突如、鼓膜を裂くような爆音が響いた。
訓練場での模擬戦がヒートアップしたのだろう。防護結界の隙間をすり抜けた、巨大な炎属性魔法の流れ弾が、猛烈な勢いで中庭へ飛来したのだ。
「きゃっ……!?」
マルティナは直撃コースから外れていた。それでも風圧で地面に激しく尻もちを搗く。だが、彼女の視線の先――炎の弾頭がまさに着弾しようとしているその中心には、動きの鈍い老女、マルタが呆然と立ち尽くしていた。
(あ、死んだ――)
マルティナがそう確信したコンマ数秒の刹那。
視界の端から、光のような速度で飛び込んできた影があった。
「危ないっ!!」
十字宝希だった。彼はマルタの前に滑り込むといくつかの魔法を発動させ、自らが盾となるようにして、炎の直撃を受け止めた。
凄まじい爆炎。肉の焦げる嫌な臭い。
左腕が丸ごと消失し、さらに左半身は大きく焼け焦げ、顔も左半分がやけどすさまじいことになっていた。
「宝希ちゃん!?大丈夫かい……っ?!」
マルタは慌てて宝希に駆け寄る。そしてすぐに切り替えて、医務室に連絡をするように指示を出した。
「……強い火属性の攻撃は、外傷だけじゃなくて魂にも攻撃が届くのか……」
宝希はそれでもすぐにいつもの太陽のような笑顔を貼り付けて叫んだ。
「あちちちち!まるで前世で食べる可能性があった激辛麻婆豆腐が爆発したような熱さです! でも安心してくださいマルタさん、僕は光魔法が得意なので、これくらい実質かすり傷ですから!」
光魔法が宝希の体を包み、ゆっくりと傷口が塞がっていく。周りの使用人たちは「宝希様!?」「早く医療室へ!」と大騒ぎする中、宝希はギャグチックにその場を笑い飛ばしていた。
「馬鹿なことをいうんじゃありません……!そのケガ、とても痛いでしょうに……私のような老いぼれをかばう必要なんてなかったのに……」
宝希がどれほど明るく平気そうな素振りを見せても、そのケガがどれほどつらいものなのか、マルタは長年の経験から理解していた。
「明日、お孫さんの誕生日があるんでしょう?」
それでも宝希はにっこりと笑う。
「こういう時、僕の故郷の有名な人物はこういったんですよ。安いもんだ。腕の一本くらい……無事でよかった。って。まだまだマルタさんは長生きしなきゃダメですよ?」
「宝希ちゃん……」
地面に尻もちをついたまま、その光景を凝視していたマルティナの心の中は、爆炎よりも黒く、ドロドロとしたナニカで満たされていた。
(なんで……?)
理解できなかった。
宝希が命を懸けて守ったのは、自分ではない。
若く、美しく、将来性もあり、彼に好意を寄せていたこの「マルティナ」ではないのだ。彼がボロボロになってまで救ったのは、もう子供も産めず、労働力としても長くなく、社会的な価値などとうに終わっている、あの醜い老女だった。
(なんでそっちなのよ……っ!?)
激しい、狂おしいほどの嫉妬がマルティナの胸を焦がした。
もし彼が命を懸ける対象が「美しく価値ある自分」だったなら、それは至高のロマンスであり、自分の価値の証明になったはずだ。しかし、宝希の命の天秤は、自分のような極上の美女も、終わった老女も、完全に「平等」に扱っていた。
いや、それどころか、ただ「そこにいたから」という理由だけで、あの老人を選んだのだ。
周囲と笑い合っている少年の、太陽のような笑顔を見る。
(私を見てよ……。あんな老人じゃなくて、私を特別扱いしてよ……っ!!)
マルティナは震える手でドレスの裾を握りしめた。
宝希に向けられる彼女の瞳からは、かつての打算も、純粋な恋慕も消え失せていた。そこにあるのは、「彼にとっての特別になりたい」という、歪みに歪みきった猛烈な独占欲と、彼が救った世界への底知れない嫉妬の炎だけだった。
こんな感じで、宝希くんは関わる人間の多くの脳をこんがりと焼いています。学園の滞在期間が増えるほど、強火ファンだったり、マブダチだったり、肉食獣を増やす模様。
なお、マルティナさんが今後出てくるかは考えていません。タイトルの通り、彼女はモブなのですから。