東京へ向かう電車は、平日の昼前だというのに混んでいた。
影山茂夫は吊革につかまり、向かいの窓に映る自分の姿を見ていた。塩中学校を卒業してから、まだ一週間も経っていない。制服を着る理由はもうないが、私服の選択肢が多いわけでもなく、今日も白いシャツに黒いズボンという、ほとんど制服と変わらない格好だった。
隣に立つ霊幻新隆は、空いた手で携帯電話を操作している。
「場所は地下二階。閉鎖された連絡通路か。なるほどな」
「何がなるほどなんですか、師匠」
「地下は湿気が溜まりやすい。湿気は空気を重くする。重い空気は人間の気分を沈ませる。そこに照明不足と反響音が加われば、霊的な現象と錯覚してもおかしくない」
「霊はいないんですか」
「それを今から確かめるんだよ」
霊幻は携帯電話をポケットにしまった。
「最初からいると決めつけるのは三流。最初からいないと決めつけるのも三流だ。依頼人の話を聞いて、現場を見て、必要な処置をする。いいかモブ、社会に出たら先入観ほど危険なものはないぞ」
「はい」
正面の窓に、緑色の丸い顔が浮かんだ。
『それっぽいこと言ってるが、こいつ今まで一度も現場写真を見てなかったぞ』
エクボの声は、周囲の乗客には聞こえない。
モブは小声で答えた。
「電車の中で話さない方がいいよ」
『俺様に言ってんのか?』
「僕が独り言を言っているように見えるから」
『じゃあ念で返事しろよ』
「電車の中で超能力を使うのは、よくないと思う」
『何がどうよくねえんだよ』
「モブ」
霊幻が前を向いたまま言った。
「公共の場で妙なものと会話するな。変な勧誘を受けやすい人間だと思われる」
『お前にだけは言われたくねえ!』
モブは黙った。
隣では、買い物袋を持った老人が足を踏ん張っていた。電車が揺れるたび、袋の中で長ネギが左右に振れる。モブは自分の立ち位置を少しずらし、老人が手すりに触れられるだけの場所を空けた。
老人は何も言わなかった。
モブも何も言わなかった。
霊幻はその様子を横目で見ていたが、やはり何も言わなかった。
◇
依頼人の女性は、地下街に面した喫茶店で待っていた。
三十代の終わり頃に見えた。テーブルの上に置かれた両手は、何度も組み直されている。コーヒーにはほとんど口をつけていなかった。
「娘が、あの通路を通ってからおかしくなったんです」
女性はそう切り出した。
「最初は、誰かにつけられたと言っていました。後ろに大勢いる。みんな同じ歩き方をしているって。でも、振り返っても誰もいない。それから地下鉄に乗れなくなって……夜中に、駅の放送が聞こえるって言うんです」
「娘さんは今どちらに?」
「病院です。検査では異常がなくて、心療内科を勧められました。でも、本人は病気じゃない、あそこに何かいたんだって」
「心療内科には?」
霊幻が尋ねると、女性はわずかに視線を下げた。
「予約はしました。でも……それだけでいいのか、不安で」
「予約を取り消す必要はありません」
霊幻は即答した。
女性が顔を上げる。
「こういうものは、原因を一つに決めない方がいい。体調の問題なら医者に診てもらう。環境の問題なら環境を変える。それでも説明のつかない部分があれば、俺たちが調べる。順番に潰せばいいんです」
「でも、霊が原因だったら、病院に行っても意味がないんじゃ……」
「霊が原因でも、眠れていない人間は眠った方がいいし、食べられていない人間は食べた方がいい。治療を受けることと、こちらで現場を調べることは矛盾しません」
女性の肩から、わずかに力が抜けた。
モブは霊幻を見た。
霊幻は資料に目を落としたまま、何でもないように続けた。
「それと、娘さんに現場のことを何度も詳しく聞かないでください。思い出させるほど症状が強くなることもあります。本人が話し始めたら否定せず聞く。ただし、無理に答えを出そうとしない。今日のところはそれで十分です」
「……はい」
「現場には俺たちだけで行きます。お母さんまで影響を受けたら困りますからね」
会計を済ませ、女性と別れたあと、モブは店の外で言った。
「師匠」
「なんだ」
「病院に行くように言うんですね」
「当たり前だろ。俺は医者じゃない」
「でも、霊の仕事ですよね」
「霊がいるかどうかと、依頼人が弱ってるかどうかは別の話だ」
霊幻はネクタイを直した。
「人間は、原因が分からないと怖くなる。怖くなると、分かりやすい原因に飛びつく。霊のせいだと言い切るのも、全部気のせいだと言い切るのも、やってることは同じだ」
『今日はずいぶんまともじゃねえか』
エクボが霊幻の肩越しに浮かぶ。
「今日は、とはどういう意味だ」
『聞こえてんのかよ』
「顔を見れば分かる」
霊幻はエクボを見ていなかった。
もちろん見えてはいない。
それでも、エクボは気に入らなそうに舌打ちした。
◇
問題の連絡通路は、駅と古い商業施設をつなぐ地下二階にあった。
施設の建て替えに伴い、半年ほど前から閉鎖されている。地上から続く非常階段の入口には、工事用の白い壁と簡素な施錠がされていた。
管理会社から借りた鍵で中へ入ると、湿った冷気が二人を包んだ。
照明は三つに一つしか点いていない。
床には薄く埃が積もり、シャッターの下りた店舗が暗がりに並んでいる。かつて貼られていた広告は半分ほど剥がされ、残った紙片が空調の風でかすかに揺れていた。
「どうだ、モブ」
霊幻が声を落とした。
「まだ分かりません」
「いないのか?」
「いないというより……」
モブは通路の奥を見た。
「広すぎて、形が分かりません」
エクボが霊幻の頭上から離れ、天井近くまで昇った。
『おい、モブ。こりゃ悪霊じゃねえぞ』
「うん」
『人間の匂いがしねえ。死んだ奴の執着も記憶もねえ。ただ、気持ち悪いもんだけ固めたみてえな……』
「二人で納得するな。俺にも説明しろ」
霊幻が言った。
モブは言葉を探した。
「ここには、霊が一体いるという感じじゃありません」
「複数か?」
「それとも違います。場所全体が、何かの中みたいです」
「胃袋とか?」
「近いかもしれません」
「近いのか」
霊幻は一歩、入口側へ戻った。
「じゃあ、胃酸が出てくる前に終わらせるぞ」
そのとき、頭上のスピーカーから音がした。
ざ、と古い砂を擦るような雑音。
次いで、女の声が流れた。
『まもなく――番線に――』
途中が潰れている。
『危険ですので――まで、お下がり――』
霊幻が天井を見上げた。
「電気は生きてるのか?」
「放送設備は切られていると、管理の人が言っていました」
『来るぞ』
エクボの声が低くなる。
通路の奥で、靴音が響いた。
一つではない。
数十、数百の足が、同じ間隔で床を打っている。
暗がりの向こうから、人影が現れた。
背広姿の男。制服を着た学生。買い物袋を提げた女。杖をついた老人。
全員、顔がなかった。
皮膚があるべき場所に、黒く開いた穴だけがあった。穴の奥には、押し込まれた歯のような白いものが無数に並んでいる。
人影は互いの肩や背中に食い込みながら、一つの塊として通路を埋め尽くしていた。
「師匠、下がってください」
「もう下がってる」
霊幻はモブの三歩後ろにいた。
人の群れが一斉に走り出した。
モブが右手を上げる。
透明な壁が通路を塞いだ。
先頭の人影が衝突する。続く影が背後から押し寄せ、骨の折れるような音が重なった。それでも群れは止まらない。前の影を潰し、その上を乗り越えようとする。
モブの前髪が、圧力に揺れた。
「重い」
『力の問題じゃねえ! こいつら一体一体が本体じゃねえぞ!』
エクボが叫んだ。
モブは障壁を維持したまま、人影の一体を念動力で引き離した。
胴体が群れから千切れる。
黒い霧になって消えた。
しかし次の瞬間、床の埃と壁の染みが盛り上がり、同じ形の人影を作った。
霊幻が顔をしかめた。
「倒しても増えるのか」
「違います。たぶん、最初から個体じゃない」
「じゃあ本体を探せ」
「はい」
モブは目を閉じた。
通路を覆う異様な気配へ、意識を広げる。
普段の悪霊には輪郭がある。
怒り、悲しみ、執着、後悔。どれほど歪んでいても、その奥には生前の人間につながる何かが残っている。
だが、ここにいるものには中心がなかった。
遅刻への焦り。
乗り遅れる恐怖。
狭い車内で他人に触れ続ける不快感。
転落事故の記憶。
知らない人間の舌打ち。
出口が見つからない夢。
毎日この場所を通った何万人もの心から、薄い汚れだけを削り取り、地下の暗がりで練り合わせたようなもの。
誰の感情でもない。
だが、人間がいなければ生まれなかった。
そのことが、モブには不気味だった。
『モブ!』
目を開く。
障壁の横、閉じた店舗のシャッターが内側から膨らんでいた。
「師匠!」
モブが振り向くより早く、シャッターが破裂した。
黒い腕が伸び、霊幻の足首をつかむ。
「うおっ!」
霊幻の身体が床を滑った。
モブが念動力を伸ばす。霊幻の身体を包み、引き戻そうとする。
だが腕は床の下、壁の中、天井裏へ無数の根を張っていた。一本を引けば、通路全体が軋む。
天井から粉塵が落ちる。
「モブ、壁ごと壊すな!」
「でも」
「俺はまだ折れてない!」
「まだって言わないでください」
霊幻は床に片手をつき、もう片方の手でポケットを探った。
取り出したのは、小型のスプレー缶だった。
「喰らえ! 対悪霊用・高濃度除霊ミスト!」
黒い腕へ吹きつける。
柑橘系の匂いが広がった。
何も起きない。
『消臭スプレーじゃねえか!』
「現場での清潔感を維持するのもプロの仕事だ!」
黒い腕が霊幻を引く。
壊れたシャッターの奥で、大きな口が開いた。
人の歯、人の爪、人の目玉が、満員電車の乗客のように隙間なく詰まっている。
モブの胸の奥で、何かが上がった。
恐怖ではなかった。
自分が間に合わないかもしれないという焦り。
もっと早く正体を見抜けなかったことへの後悔。
力を使えば助けられる。
だが使い方を間違えれば、霊幻ごと建物を潰す。
その二つが同時に押し寄せる。
影山茂夫――焦燥、十二パーセント。
「エクボ」
『あ?』
「師匠の身体に入って」
『はあ!? こいつにか!?』
「筋肉を動かして、腕を振りほどいて。僕は建物を支える」
『簡単に言うな! この目隠し詐欺師、霊感がねえから俺様との相性は――』
「お願い」
エクボが一瞬、黙った。
『チッ。あとで高級プリンを要求するからな』
緑色の霊体が霊幻の背中へ飛び込む。
霊幻の身体が大きく跳ねた。
「な、なんだ!? 肩が勝手に――」
『黙って力抜け! 舌噛むぞ!』
「お前、エクボか!? 勝手に人の身体へ――」
『今だけだ!』
霊幻の腕に不自然なほど筋肉が盛り上がった。
「気持ち悪っ!」
『第一声がそれか!』
モブは両手を開いた。
床、壁、天井。
崩れかけたコンクリートの位置を一つずつ捉える。
建物全体を壊さないよう、力を細かく分けた。一本の巨大な腕で押さえるのではなく、何千本もの細い糸で支える。
「今です」
エクボに操られた霊幻が身体をひねる。
黒い腕の指が、一瞬だけ開いた。
モブは霊幻を引き寄せると同時に、通路の空気を上方へ巻き上げた。
人影の群れが床から剥がれる。
数百の身体が天井付近で一つに押し固められ、巨大な黒い球になった。
球の表面で、顔のない人々が出口を求めてもがいている。
「これが……本体?」
モブは呟いた。
『いや、まだだ!』
エクボが霊幻の身体から飛び出す。
『こいつ、周りの人間の怖がってる気持ちを吸ってやがる! 形を潰しても、感情が残ってりゃまた生えるぞ!』
「じゃあ、どうすれば」
『知るか! 俺様はこんな種類、見たことねえ!』
黒い球が脈打った。
頭上のスピーカーが一斉に鳴る。
『逃げてください』
女の声。
『逃げてください』
男の声。
『逃げてください』
子供の声。
通路中の壁に、出口を示す緑色の標識が浮かんだ。
そのすべてが、別の方向を指している。
モブの視界が歪む。
自分がどこに立っているのか分からなくなる。霊幻との距離も、天井までの高さも、念動力で捉えていたはずの建材の位置も、少しずつずれていく。
背後から、大勢の息遣いが聞こえた。
振り向いてはいけない。
そう思った瞬間、振り向かずにはいられない感覚が湧いた。
「モブ」
霊幻の声がした。
「目を閉じろ」
「でも、位置が」
「見えてるものが当てにならないなら、見るな」
「師匠の場所も分からなくなります」
「俺は動かない」
「本当ですか」
「こういうときに走り回るほど馬鹿じゃない」
モブは目を閉じた。
視覚を切る。
音も信用しない。
代わりに、自分の力が触れているものだけを確かめる。
床。
壁。
天井。
霊幻の身体。
エクボ。
そして、頭上の黒い塊。
黒い塊のさらに奥に、ひどく小さな硬い部分があった。
悪霊でいう核とは違う。
感情の中心でもない。
ただ、周囲の恐怖を引き寄せ、形にするための結び目。
「見つけました」
「よし」
「でも、壊していいのか分かりません」
「何が入ってる」
「人間はいません。霊もいません。ただ、嫌な気持ちが集まっています」
「なら、持ち主に返す必要はない」
霊幻は言った。
「ゴミは捨てろ」
モブの指が、わずかに閉じた。
黒い球の中心だけが潰れる。
爆発は起きなかった。
音もなかった。
人影の群れが、古い映像を止めたように静止した。
次の瞬間、すべてが細かな灰となって崩れた。
灰は床へ落ちる前に薄くなり、空気へ溶けて消えた。
スピーカーが沈黙する。
非常灯だけが、何事もなかったように緑色に光っていた。
モブは目を開けた。
「終わったのか?」
霊幻が尋ねる。
「たぶん」
『歯切れ悪いな』
「今まで祓った霊とは違ったから」
モブは、自分の手を見た。
力を使った感覚は残っている。
けれど、何かを成仏させたときのような感触はなかった。
人間だったものを解放したのではない。
もっと別のものを、ただ壊した。
「師匠」
「なんだ」
「あれは、何だったんでしょう」
霊幻は、壊れたシャッターと天井の亀裂を見回した。
「分からん」
「師匠にも?」
「分からないものを、分かったふりする方が危ない」
霊幻はスーツについた埃を払った。
「依頼人には、現場の異常は処理したと伝える。ただし娘さんの通院は続けてもらう。お前は念のため、残ってるものがないか調べろ。俺は管理会社に、シャッターは老朽化で壊れたと説明する」
「天井も少し割れています」
「それは最初からだ」
「さっき割れました」
「最初からだ」
「でも」
「モブ。世の中には、正直に話すことで余計に面倒になる種類の真実がある」
『こいつ、修理代から逃げる気だぞ』
◇
地上へ戻る二人を、道路の向かい側から見ている男がいた。
黒いスーツ。眼鏡。几帳面に撫でつけられた髪。
伊地知潔高は、携帯端末の画面と、地下通路から出てきた少年を交互に見た。
画面上では、先ほどまで地下に存在していた呪力反応が消えている。
弱まったのではない。
消失している。
もともと、二級相当と推定されていた呪霊だった。
近隣で複数の体調不良者が出たことから、補助監督による現地確認と帳の設置が予定されていた。伊地知が到着した時点では、一般人らしい二人がすでに地下へ入っていた。
救出を優先しようとした。
だが入口へ近づいた瞬間、内部の構造物すべてが、目に見えない力で固定された。
帳ではない。
結界術でもない。
呪力の流れもない。
それなのに、崩落寸前だった天井は一ミリも落ちなかった。
そして数十秒後、呪霊だけが消えた。
伊地知は額の汗を拭った。
少年の隣にいる金髪の男が、何かを大げさに説明している。少年は無表情に聞いているが、ときどき小さく頷いていた。
その頭上には、低級呪霊に似た緑色の霊的存在が浮いている。
しかし、少年を襲う気配はない。
むしろ金髪の男へ盛んに悪態をついているように見える。
「……報告したくないな」
伊地知は呟いた。
報告すれば、間違いなくあの人が興味を持つ。
報告しなくても、後で発覚すればもっと面倒になる。
選択肢は最初からなかった。
伊地知は連絡先を開き、最も押したくない名前を選んだ。
呼び出し音は一度で途切れた。
『はいはーい。今ちょうど生徒たちに東京観光という名の実地教育を――』
「五条さん。未登録の術師と思われる人物を確認しました」
電話の向こうが静かになった。
『強い?』
「それが……術師かどうかも分かりません」
『見える人?』
「呪霊は認識していました」
『呪力は?』
「確認できませんでした」
『確認できないくらい少ない?』
「いえ。呪力を使わず、二級相当の呪霊を消滅させたように見えます」
短い沈黙。
伊地知は嫌な予感が確信に変わるのを感じた。
『住所、分かる?』
「現場の管理会社に確認すれば、依頼者経由で――」
『違う違う。その子の』
「調査前です」
『じゃ、急いで』
「五条さん。上層部への報告が先では」
『なんで?』
「未登録の異能者であれば、監督対象となる可能性が」
『だから僕が先に会うんでしょ』
「順序が逆です」
『伊地知、世の中にはね、順序を守ってる間に偉い人が台無しにするものがいっぱいあるんだよ』
「それを五条さんが言いますか」
『僕だから言うんだよ』
通話が切れた。
伊地知はしばらく携帯電話を耳に当てたまま立っていた。
道路の向こうで、少年がふと足を止める。
こちらを見た。
目が合った気がした。
伊地知は反射的に視線を逸らした。
再び見ると、少年は金髪の男を追って歩き出していた。
◇
夕方。
「霊とか相談所」に戻った霊幻は、依頼人への報告を終え、報酬の振込予定を確認していた。
モブは事務所の隅で、紙コップの水を飲んでいる。
エクボはソファの上に浮かび、不機嫌そうに腕を組んでいた。
『気に入らねえな』
「何が?」
『あの化け物だ。悪霊でも妖怪でもねえ。人間の恐怖を材料にしてるくせに、人間だったことが一度もねえ』
「うん」
『おまけに俺様が触ったら、逆にこっちを吸おうとしやがった』
「大丈夫?」
『誰に言ってんだ。俺様ほどの上位霊が、あんな寄せ集めに食われるかよ』
エクボの身体は、普段より少し透けていた。
モブは紙コップを置いた。
「今日は休んだ方がいいよ」
『余計な心配すんな。それよりお前だ。あれを潰したとき、何か変な感じはしなかったか』
「変な感じ?」
『力を吸われたとか、頭に入られたとかだ』
「それはない。ただ……」
モブは自分の手のひらを見た。
「あれを壊しても、助けた感じがしなかった」
『そりゃ最初から助ける相手なんかいなかったんだろ』
「でも、あれも人の感情からできていた」
『だから何だ。生ゴミだって人間が出したもんだぞ』
「エクボ」
『たとえだよ』
霊幻が椅子を回した。
「モブ。今日の件は、あまり考えすぎるな」
「はい」
「今、考えるのをやめただろ」
「師匠が考えすぎるなと言ったので」
「ゼロにしろとは言ってない。お前は加減を覚えろ」
霊幻は机の上のカレンダーを見た。
四月の予定には、モブの高校入学式の日付が書き込まれている。その下には、赤字で「シフト要相談」とあった。
「来月から高校だろ。バイトも今までと同じにはいかない。まず新しい生活に慣れろ」
「相談所は?」
「土日と、平日の来られる日だけでいい。俺一人でも大半の依頼は処理できる」
『九割は肩こり相談だからな』
「聞こえてるぞ」
『嘘つけ』
入口のベルが鳴った。
予約は入っていない。
霊幻はすぐに営業用の表情を作った。
「どうぞ。霊障、人生相談、原因不明の不調まで幅広く――」
扉を開けた男は、入口の高さぎりぎりに見えるほど背が高かった。
黒い服。
白い髪。
目元には黒い布が巻かれている。
片手には、有名店の紙袋を提げていた。
「こんにちは」
男は明るく言った。
「ここ、すごい先生がいるって聞いたんですけど」
「お客様、紹介ですか?」
「うん。地下で大活躍してたって」
霊幻の笑顔が止まった。
モブは椅子から立ち上がる。
エクボが低い声を出した。
『モブ。こいつ、俺様を見てるぞ』
白髪の男は、目隠しをしている。
それでも顔は、まっすぐエクボへ向いていた。
「へえ」
男が首を傾ける。
「君、呪霊にしてはずいぶん行儀がいいね」
『誰が呪霊だ!』
「話せるんだ。面白い」
霊幻が二人の間へ入った。
「失礼ですが、同業者ですか?」
「教師」
「学校の?」
「一応」
「一応で教師を名乗らないでください」
「厳しいなあ」
男は紙袋を机に置いた。
「五条悟。東京都立呪術高等専門学校で一年生を受け持ってます」
「呪術?」
霊幻の眉が動く。
「ずいぶん物騒な校名ですね」
「実際、物騒だからね」
五条はモブへ顔を向けた。
「影山茂夫君」
モブの肩がわずかに強張った。
「どうして僕の名前を?」
「調べたから」
「それ、普通に言っていいやつですか?」
霊幻が口を挟む。
「行政機関の人間が未成年者の個人情報を勝手に調べたと?」
「学校関係者」
「もっと悪い」
「細かいこと気にするなあ、先生」
「誰が先生だと言いました?」
「この子の師匠なんでしょ」
霊幻は五条を見た。
五条も霊幻を見る。
片方は目を隠し、片方は相手の目を読もうとしている。
数秒の沈黙のあと、霊幻が椅子を勧めた。
「相談料は三十分四千円です」
「初回割引は?」
「ありません」
「さっきホームページ見たら二千円って」
「同業者への専門相談は別料金です」
「商売上手だね」
「褒めても割引しませんよ」
五条は楽しそうに椅子へ座った。
モブは霊幻の横に立ったままだった。
「それで」
霊幻が言う。
「うちの弟子に何の用です?」
「勧誘」
「宗教なら帰ってください」
「学校だって」
「学校を名乗る宗教もあります」
「否定はしづらいなあ」
五条は紙袋から箱を取り出した。淡い色の菓子が並んでいる。
「影山君。今日、君が倒したものは、一般に呪霊と呼ばれてる」
「呪霊」
「人間から漏れ出した負の感情が積み重なって生まれる。普通の人間には見えないし、普通の手段じゃ祓えない」
「悪霊とは違うんですか」
「悪霊をどう定義してるかによるかな。少なくとも、今日のあれは死者の霊じゃない」
モブはエクボを見る。
エクボは腕を組んだまま、何も言わなかった。
「君は呪霊を見た。触れた。それどころか、呪力を使わずに祓った」
五条は菓子を一つつまんだ。
「そこが変なんだよね」
「モブには超能力があります」
霊幻が言った。
「呪力だか何だか知りませんが、そちらの分類に入らないなら、それで話は終わりでしょう」
「終わらないよ」
五条の声は軽い。
だが霊幻は、笑わなかった。
「あれは今日だけじゃない。東京にはもっといる。東京以外にもいる。人間がいる場所には、だいたいね」
「それを退治するのが、あなた方の仕事ですか」
「そう」
「教師の仕事ではないですね」
「生徒もやる」
事務所の空気が止まった。
霊幻の指が、机の上で一度だけ動いた。
「生徒というのは、何歳です」
「影山君と同じくらい」
「十五歳に化け物退治をさせる学校があると?」
「十五歳でも、見える子は襲われる。力がある子は、使い方を知らない方が危ない」
「だから戦い方を教える?」
「自分と他人を守る方法を教える」
「言い換えただけでしょう」
「そう聞こえる?」
「そうとしか聞こえませんね」
モブは霊幻の横顔を見た。
声は穏やかだった。
営業中の声と同じだった。
だが、霊幻が本当に腹を立てているときほど、口調が丁寧になることをモブは知っていた。
五条は菓子を箱へ戻した。
「僕も、子供を危険な場所へ送りたいわけじゃないよ」
「なら送らなければいい」
「送らなかった結果、もっと危険な場所で一人になることがある」
「それを防ぐのが大人の仕事です」
「大人だけじゃ足りない」
「足りないから子供を使うんですか」
五条の口元から、笑みが薄れた。
霊幻は椅子にもたれなかった。
逃げるための距離を測るように、わずかに前へ重心を置いている。
この男が危険だと、もう理解している。
超能力がなくても。
呪力が見えなくても。
相手が、自分たちとは違う世界の中心にいる人間だということを、霊幻は察していた。
「影山君には、僕らの学校で学ぶ資格がある」
五条が言った。
「その力が何なのか、僕にもまだ分からない。術式じゃない。呪力操作でもない。少なくとも、普通の人間が持つ程度の呪力しか感じない。それなのに呪霊へ干渉できる」
「分からないものを、生徒にするんですか」
「分からないから観察する、とは言わないよ」
「今、ほとんど言いましたよ」
「ちゃんと守る。その上で、本人が力をどう扱うか選べるようにする」
霊幻は答えず、モブを見た。
「モブ。お前はどう思う」
突然問われ、モブは言葉に詰まった。
呪霊。
人間から生まれる、人間ではないもの。
あの地下通路と同じ場所が、他にもある。
同じ年齢の子供たちが、それと戦っている。
知りたいとは思った。
けれど、戦いたいとは思わなかった。
「僕は……」
喉が固くなる。
「僕は、自分の力を戦うために使いたくありません」
「うん」
五条は否定しなかった。
「でも」
モブは続けた。
「今日みたいなものがいて、誰かが困っていたら、何もしないのも違うと思います」
「モブ」
「分かりません」
モブは霊幻を見た。
「すみません。まだ、決められません」
霊幻は数秒、黙っていた。
それから五条へ向き直る。
「聞いたでしょう。今日は帰ってください」
「パンフレットだけでも」
「保護者を通してください」
「もちろん。そのつもり」
「本人の前に家へ行く気だったんですか?」
「順番は柔軟にね」
「二度と勝手に調べるな」
霊幻の声から、敬語が消えた。
五条は立ち上がった。
紙袋は机に残している。
「じゃあ、また来るよ」
「来なくていい」
「次はご両親も含めて話そう」
「話を聞け」
五条が扉へ向かう。
その背中へ、霊幻が言った。
「一つだけ聞かせろ」
五条が足を止める。
「あんたの学校では」
霊幻の視線が、白い髪の後頭部へ突き刺さる。
「生徒が死ぬことはあるのか」
事務所の外を、車が一台通り過ぎた。
五条は振り返らなかった。
「あるよ」
軽さのない声だった。
「だから変えたいと思ってる」
「子供に変えさせるな」
霊幻は言った。
「変えるのは、まず大人の仕事だ」
五条はしばらく黙っていた。
「そうだね」
扉が開く。
「だから、僕もやってる」
ベルが鳴り、五条の姿が見えなくなった。
事務所に沈黙が残った。
机の上には、開封された菓子の箱がある。
エクボが扉を睨んだ。
『気に入らねえ野郎だ。俺様を見てビビりもしねえ』
「エクボ」
『なんだよ』
「少し震えてるよ」
『震えてねえ! これは今日のダメージだ!』
霊幻は箱の蓋を閉じた。
「モブ」
「はい」
「今日は家まで送る」
「一人で帰れます」
「俺がご両親に話す」
「何をですか」
「変な学校の教師に目をつけられたことをだ」
「呪術高専」
「名前を覚えるな」
霊幻は上着を取った。
「いいか。あの男が言ったことを一人で考えて、一人で答えを出すな。家族にも話せ。律にも話せ。俺にも話せ」
「師匠にも?」
「俺は最初から含まれてる」
霊幻は照明を消した。
事務所が暗くなる。
モブは扉の前で、もう一度だけ自分の手を見た。
今日、あの地下で、自分は知らないものを壊した。
それが正しかったのかは分からない。
ただ、壊さなければ霊幻が傷ついていた。
ならば正しかったのだと思いたい。
けれど、それを繰り返していけば、いつか自分は、力を使うことに迷わなくなるのだろうか。
迷わない人間になってしまうことの方が、モブには怖かった。
影山茂夫――不安、十七パーセント。