東京都立呪術高等専門学校へ向かう道は、学校へ行く道には見えなかった。
駅を降りてから住宅街を抜け、坂道を上がり、さらに木々の生い茂る細い道へ入る。近くにコンビニもなければ、登校中の生徒もいない。
影山茂夫は、父と霊幻の少し後ろを歩いていた。
「本当にこの道で合ってるんでしょうか」
父が携帯電話の地図を確認する。
「向こうが送ってきた住所では、この先ですね」
霊幻は答えながら、周囲を見回していた。
「ただ、学校案内の看板が一つもない。学校法人として、どういう集客戦略をしてるんだ」
「普通の生徒を募集してないんじゃないですか」
「それは教育機関としてどうなんだ」
『霊能者を求人サイトで集めるよりマシだろ』
エクボがモブの横を漂っていた。
今日のエクボは、普段より低い位置を飛んでいる。
地下通路で消耗した影響は、もうほとんど残っていないように見えた。それでもモブが同行しない方がいいと言うと、エクボは「敵地へ行くのに偵察役を置いていく馬鹿がいるか」と言ってついてきた。
敵地と決まったわけではない。
そう言っても、聞かなかった。
「律君は、今日は?」
霊幻が振り返らずに尋ねた。
「学校の説明会があります」
父が答える。
「直前まで、こちらへ来たがっていましたが」
「来なくて正解です。相手がどんな組織か分からないうちは、関わる人間を増やすべきじゃない」
『お前はしっかり関わってるけどな』
モブはエクボに黙るよう視線を送った。
そのとき、前方の木々が途切れた。
古びた石段が現れる。
その先には、大きな鳥居が立っていた。
「……神社ですか?」
父が足を止める。
「学校だと言っていましたが」
霊幻は鳥居の奥を見上げた。
山の斜面に沿って、瓦屋根の建物がいくつも並んでいる。寺社のようにも見えるが、奥には体育館らしき建物もあった。
「宗教施設にしか見えませんね」
「宗教じゃないよ」
頭上から声が降ってきた。
モブたちが見上げると、鳥居の横木の上に五条悟が座っていた。
黒い制服の長い脚をぶらつかせ、片手には紙袋を提げている。
「こんにちは、影山君。それとお父さんと、保護者代理の先生」
「誰が先生だ」
霊幻は即座に言った。
「相談所の代表で、モブの雇用主です」
「未成年を雇ってるんだ」
「労働条件と保護者の同意に問題はありません。そちらと一緒にするな」
五条は鳥居から飛び降りた。
かなりの高さがあったはずだが、足音はほとんどしなかった。
父がわずかに目を見開く。
霊幻は五条の足元を見たあと、何も反応しなかった。
「資料は?」
霊幻が手を出す。
「挨拶より先に?」
「挨拶は今済んだ。資料を」
「はいはい」
五条は紙袋から封筒を取り出した。
「学校の概要、一般教科の履修内容、卒業資格、寮の規則。あと呪術師の等級制度と、任務中の負傷に関する規定」
霊幻はその場で封筒を開けた。
「死亡時の補償が入ってない」
「別紙の後ろ」
「一番後ろに隠すな」
「隠してないよ。順番」
「最も重要な部分だろうが」
父も霊幻の横から資料をのぞき込む。
モブは二人の少し後ろで、鳥居を見上げた。
大きな柱の間に、薄い膜のようなものが張られている。
目で見えているわけではない。
そこだけ空気の密度が違う。
夏の道路の上で景色が揺れるときに似ているが、もっと規則的だった。
「結界ですか」
モブが尋ねる。
五条が顔を向けた。
「分かる?」
「何かあります」
「どんなふうに?」
「網みたいです」
五条の口元がわずかに上がる。
「触らないでね」
「はい」
その言葉と同時に、エクボが鳥居を通り抜けようとした。
『どれどれ、俺様が――』
緑色の身体が、空中でつぶれた。
『ぶっ!』
見えない壁に顔面から衝突し、平たく伸びる。
「エクボ」
モブが駆け寄った。
『おい、何だこりゃ! 俺様だけ通さねえ気か!?』
エクボは身体を戻し、再び前へ進もうとした。
膜が波打つ。
今度は押し戻されるだけではなかった。
鳥居の周囲に立つ石灯籠から黒い線が伸び、エクボの身体へ絡みつく。
『ぬおっ!?』
「エクボ!」
モブが右手を伸ばす。
「待って」
五条の声が鋭くなる。
だが、モブは止まらなかった。
エクボを引き寄せようと念動力を伸ばした瞬間、鳥居の内側に張られた膜が、モブの力へ反応した。
空気が震える。
網目状の構造が、初めて明確に浮かび上がった。
黒い糸が何重にも折り重なり、鳥居から山全体へ広がっている。人間や動物を阻むための壁ではない。
侵入するものを見分けるための仕組み。
エクボは、その仕組みから敵と判断されている。
「モブ、力を止めろ!」
霊幻が叫んだ。
「でも、エクボが」
「今助けるのは向こうの役目だ!」
モブの手が止まった。
五条はすでに動いていた。
二本の指を立て、鳥居へ向ける。
「解除」
絡みついていた黒い線がほどけた。
エクボが弾かれ、モブの胸へ衝突する。
『いってえ! 何なんだ、この性格の悪い網は!』
モブはエクボを両手で受け止めた。
霊体に重さはほとんどない。
それでも、エクボが震えているのが分かった。
「大丈夫?」
『誰に聞いてやがる。ちょっと驚いただけだ』
五条は鳥居を見上げていた。
普段の笑みが消えている。
父が不安そうに尋ねた。
「今のは何ですか」
「高専を隠して、侵入者を判別する結界です」
「危険なものなんですか」
「普通は、登録された人間と同行していれば問題ない」
五条はモブを見る。
「普通はね」
霊幻が資料を閉じた。
「説明しろ」
「そこの彼は、呪霊に近い存在として弾かれた」
『近くねえ!』
「実際、構成はかなり似てる。ただし――」
五条はエクボへ顔を向ける。
「自我が安定しすぎてる。人間への執着がある割に、呪力の凝集体としては歪み方が違う」
『俺様は高等な悪霊だからな』
「悪霊」
五条がその言葉を繰り返す。
「死者?」
『元はな。お前らの言う呪霊とは違う』
「君、自分の成り立ちを覚えてる?」
『初対面の奴に生い立ちを語るほど安くねえよ』
「面白いなあ」
「面白がるな」
霊幻が五条の前へ出た。
「お前が通っていいと言ったから来た。それなのに、入口でいきなり攻撃された」
「僕も彼が一緒だとは聞いてなかった」
「聞かなければ安全確認をしなくていいのか」
「それは僕の落ち度だね」
五条はあっさり認めた。
霊幻は一瞬、言葉を止めた。
「……謝る気はあるのか」
「ごめんね」
五条はエクボへ向けて言った。
『軽い!』
「もう少し誠意を込めろ」
「エクボ君、申し訳ありませんでした」
『君づけすんな。気持ち悪い』
父がモブへ近づいた。
「茂夫は大丈夫か」
「僕は何ともありません」
「さっき力を使ったときは?」
「結界に触れた感じがしました」
五条が反応する。
「触れただけ?」
「はい」
「押されたとか、力を吸われたとかは」
「ありません。向こうが、僕の力を調べようとしていたような」
「調べる?」
「どこから入ってきたのか、探されている感じです」
五条はしばらく黙った。
目隠しの奥の視線が、モブの右手へ向けられているのが分かった。
「僕の許可なしで、結界が自動的に解析を始めたのか」
「それは普通じゃないんですか」
「普通じゃない」
五条の声は静かだった。
「呪力を持つものが接触すれば、結界側はある程度判別する。でも君の力には呪力の情報がない。情報がないのに、力だけが内側へ入ろうとした」
「入ろうとしたんじゃありません。エクボを引き戻そうとしました」
「方向の話じゃないよ」
五条は自分の指先を、鳥居の前へ差し出した。
「この結界は、呪力を前提に組まれてる。術式も呪具も、呪霊も、全部呪力がある。だから見分けられる」
「僕にはないんですか」
「人間なら誰でも、少しはある」
五条は答えた。
「君にも、普通の人間と同じ程度の呪力はある。でも、今使った力はそこから出てない」
モブは自分の手を見る。
それは、以前から分かっていたことではない。
呪力という言葉を知ったのが、二日前だ。
五条たちが使う力と、自分の超能力が別のものらしいことは感じていた。
しかし、実際に結界が反応しなかったことで、その違いが形になった。
「つまり」
霊幻が言う。
「モブには、そちらが管理している力とは無関係の力がある。それだけだろ」
「それだけで済ませるには、大きすぎる」
「大きさを決めるのはお前じゃない」
「社会的な影響の話をしてる」
「モブの進路の話をしろ」
霊幻と五条の間に、張りつめた沈黙が生まれた。
父が咳払いをした。
「まず、中へ入れるんでしょうか」
二人が父を見る。
「入口で立ち話を続けるのも、学校見学とは言えないと思います」
「お父さん、冷静だね」
「心配していないわけではありません」
父は五条を見た。
「ただ、危険があるなら、危険について説明してもらうために来ました。帰るかどうかは、その後で決めます」
五条は少しだけ姿勢を正した。
「分かりました」
五条が鳥居へ手を向ける。
「彼も一時的に通行許可を出す。ただし、僕から離れすぎないこと」
『俺様がこいつの許可を――』
「エクボ」
モブが呼ぶ。
エクボは不満そうに口を曲げた。
『……分かったよ』
◇
高専の敷地内は、外から見た以上に広かった。
木造の校舎。
訓練用と思われる広場。
宿舎。
倉庫。
建物同士の間隔が広く、山林がそのまま敷地へ入り込んでいる。
生徒の姿はほとんどない。
「生徒数は何人いるんですか」
父が尋ねた。
「東京校は、全学年を合わせても両手で数えられるくらい」
「少なすぎませんか」
「適性のある人間が少ないからね」
霊幻が資料をめくる。
「教師の人数は」
「常勤と非常勤を合わせて――」
「生徒より多いのか少ないのか」
「少ない」
「危険な実習があるのに?」
「現場の術師が教師を兼ねてる場合が多い」
「教育機関として破綻してるだろ」
「改善の余地はあるね」
「余地しかない」
五条が案内したのは、まず教室だった。
普通の学校と比べれば狭い。
机は三つしか並んでいなかった。
そのうち一つに虎杖悠仁が座り、隣の机へ両足を伸ばしている。釘崎野薔薇は小さな鏡を見ながら前髪を整え、伏黒恵は窓際で本を読んでいた。
「皆さん」
五条が教室の入口で手を叩く。
「見学者を連れてきました」
「遅い」
釘崎が鏡を閉じた。
「一時集合って言ったの、あんたでしょ」
「入口で少しトラブルがあって」
「またあんたが何かしたの?」
「今回は結界」
「結界は勝手に遅刻しないだろ」
伏黒が本を閉じる。
その目が、まずモブへ向き、次に霊幻と父、最後にエクボへ動いた。
「呪霊を連れてきたんですか」
「やっぱりそう見える?」
五条が言う。
『だから呪霊じゃねえ!』
エクボが叫ぶ。
伏黒の眉がわずかに動いた。
「喋るのか」
「そっちにも聞こえるんだ」
モブが言った。
「聞こえる。見えるしな」
虎杖が椅子から立ち上がり、モブの前へ来た。
「俺、虎杖悠仁。よろしく」
差し出された手が近い。
モブは一瞬遅れて握り返した。
「影山茂夫です」
「影山か。モブって呼ばれてるんだっけ」
「はい」
「じゃあモブ。俺のことは虎杖でいいよ」
「悠仁でもいいんじゃない?」
五条が横から言う。
「先生は黙ってて」
虎杖は笑った。
握手の力は強かったが、痛くない程度に抑えられている。
モブは、肉体改造部の部員たちを思い出した。
体格は違う。
表情も違う。
だが、初対面の相手との距離を迷わず縮めるところが少し似ていた。
「私は釘崎野薔薇」
釘崎は席に座ったまま、モブを上から下まで見た。
「その髪、自分で切ってる?」
「近所の床屋です」
「床屋に何て注文してるの」
「短めにしてください、と」
「それだけ?」
「はい」
「そう」
釘崎は何か言いたそうに口を開き、モブの後ろにいる父を見て閉じた。
「保護者の前だから我慢したね。偉い」
五条が言う。
「黙れ」
伏黒がモブの前へ来る。
「伏黒恵」
「影山です」
「さっき、入口で結界に干渉したのか」
挨拶の直後に質問された。
モブは少し戸惑う。
「エクボを助けようとして、触れました」
「術式で?」
「超能力です」
「術式じゃなく?」
「違うらしいです」
「らしいって」
「僕も、呪術のことを知らないので」
伏黒は五条を見る。
「説明してないんですか」
「まだ見学の途中だから」
「順番がおかしいだろ」
霊幻が口を挟んだ。
「見学者へ専門用語で質問する前に、そちらが説明するべきだ」
「この人は?」
釘崎が尋ねる。
「霊とか相談所所長、霊幻新隆」
霊幻は名刺を出した。
「モブの師匠で、今日は保護者側の立会人だ」
「霊とか相談所」
釘崎は名刺を受け取り、表と裏を見た。
「胡散臭い」
「初対面の大人に言う言葉じゃない」
「初対面の未成年に名刺を配る方がどうなのよ」
「社会に出れば名刺交換は基本だ」
「学校よ、ここ」
「その学校が社会から離れすぎてるから問題なんだ」
釘崎は霊幻を見上げた。
霊幻も引かなかった。
「野薔薇、その人に口では勝てないと思うよ」
虎杖が小声で言う。
「勝ち負けじゃないわよ」
「もう勝負になってんじゃん」
「虎杖、あんたは黙ってて」
伏黒はエクボを見ていた。
「そいつは、影山に憑いてるのか」
『憑いてねえ。同行してやってんだ』
「友達です」
モブが答えた。
エクボが振り向く。
『誰が友達だ』
「違うの?」
『……もっとこう、利害関係の一致した協力者だ』
「前は世界征服するって言ってたけど」
『今それ言う必要あるか!?』
虎杖が吹き出した。
「面白いやつだな」
『お前にだけは言われたくねえぞ。腹の中にとんでもねえの飼ってやがるくせに』
教室の空気が変わった。
虎杖の笑顔が止まる。
伏黒が一歩、虎杖の前へ出た。
釘崎の手が、制服のポケットへ動く。
父は変化に気づいていない。
霊幻は気づいた。
「エクボ」
モブが低い声で呼ぶ。
『何だよ。本当のことだろ』
「今は言わない方がよかった」
『隠してる方が不自然だ』
五条だけが、変わらない調子で言った。
「見えるんだね」
モブは虎杖を見た。
地下通路で感じたものとは違う。
虎杖自身は、人間だった。
明るく、強い身体を持つ普通の少年。
だが、その身体の奥に、別の存在がいる。
深い穴の底に座り、こちらを見上げているような気配。
悪霊とも呪霊とも違う。
エクボよりはるかに濃く、地下通路の呪霊よりも明確な意思を持っている。
そして、その存在もモブを見ていた。
「虎杖君」
モブは言葉を選んだ。
「身体の中に、誰かいますか」
虎杖は少しだけ困った顔をした。
「いる」
「危なくないんですか」
「危ないよ」
答えたのは五条だった。
「でも今は、悠仁が抑えてる」
「今は?」
霊幻が反応する。
「どういうことだ」
「あとで説明する」
「今説明しろ。生徒の身体に危険なものが入っている状態で、モブと同じ教室に入れたのか」
「宿儺は僕がいる限り、勝手なことはできない」
「お前がいないときは?」
五条は答えなかった。
虎杖が自分から言った。
「俺が抑える」
霊幻は虎杖を見る。
「君はいくつだ」
「十五」
「そうか」
霊幻の声が少しだけ低くなる。
「君が悪いわけじゃない」
虎杖が目を瞬いた。
「でも、それを十五歳本人の責任にするな」
最後の言葉は五条へ向けられていた。
五条の口元から笑みが消える。
「してないよ」
「今、本人に言わせただろ」
「虎杖は自分の意思で――」
「意思があれば、大人の責任が消えるのか」
霊幻の声は大きくない。
それでも、誰も口を挟まなかった。
「命が懸かっている場所で、本人が選びました、本人が覚悟しました。それで済ませるのは簡単だ。子供は自分の選択が正しいと思いたがる。周りに迷惑をかけたくないとも思う。そういう気持ちごと利用してないと言い切れるのか」
虎杖が霊幻を見る。
伏黒は黙っていた。
釘崎も、もう名刺をいじっていなかった。
「霊幻さん」
父が静かに呼んだ。
霊幻は一度息を吐いた。
「……すみません。見学者の前で話すことではなかった」
「いや」
虎杖が言った。
「俺は別に」
「別に、で終わらせなくていい」
霊幻は虎杖を見た。
「嫌なことを言われたなら、嫌だと言っていい」
「そうじゃなくて」
虎杖は後頭部をかいた。
「そういうふうに言う大人、あんまりいなかったから」
その言葉に、五条の指がわずかに動いた。
モブはその動きを見た。
五条が怒ったのか、傷ついたのかは分からない。
軽い調子を崩さない人間ほど、表情以外の部分に感情が出る。
それは霊幻を見て学んだことだった。
「五条先生」
モブが言った。
「はい」
「学校の案内を続けてもらえますか」
霊幻がモブを見る。
「今の話も聞きたいです。でも、虎杖君のことを、本人がいるところで僕たちが決めるのは違うと思います」
虎杖がモブを見る。
モブは自分の言葉が正しいか、自信はなかった。
ただ、今のままでは虎杖が、自分の身体の中にいるものについて説明される対象になっている。
それは嫌だった。
「そうだね」
五条は言った。
声に軽さが少し戻っている。
「じゃあ次は寮へ行こうか」
「その前に」
釘崎が立ち上がった。
「一つ確認したいんだけど」
モブを見る。
「あんた、ここに入りたいの?」
「まだ分かりません」
「呪術師になりたい?」
「なりたいとは思っていません」
「じゃあ何で来たの」
「知らないまま断りたくなかったからです」
釘崎は腕を組んだ。
「ふうん」
「変ですか」
「別に」
釘崎は教室の出口へ向かう。
「ただ、曖昧なまま入って、後からこんなはずじゃなかったって言われるのは迷惑」
「釘崎」
伏黒が言う。
「事実でしょ」
釘崎は振り返らない。
「ここ、普通の学校じゃないもの。知らなかったで済まないことがある」
その声には、拒絶だけではないものがあった。
自分へ言い聞かせているようにも聞こえた。
モブは答えた。
「はい。だから、ちゃんと考えます」
釘崎は一度だけ振り返った。
モブの顔を見て、わずかに眉を上げる。
「そういう真面目な返事、調子狂うわね」
◇
寮は、一人一部屋だった。
生活に必要な設備はそろっている。
一般の高校の教科書も用意され、授業の時間割も存在した。
父は各部屋の避難経路を確認し、霊幻は寮監の有無と門限を質問した。
五条は、答えられることには答えた。
答えられないことは「確認する」と言った。
最初の印象より、学校としての形はあった。
だが、廊下を歩く生徒たちの制服には、細かな傷が残っていた。
訓練場の壁には、何かが衝突した跡がある。
医務室の棚には、普通の学校では使わない量の包帯と止血剤が並んでいた。
資料に書かれた危険という言葉が、少しずつ現実の形を持ち始める。
案内の最後に訪れたのは、校舎から少し離れた建物だった。
中には、夜蛾正道が待っていた。
大柄な男だった。
サングラスをかけ、手元では羊毛フェルトのようなものを針で刺している。
完成しかけた人形は、妙にかわいらしい熊だった。
「学長の夜蛾正道だ」
五条が紹介する。
「一応、悟の上司でもある」
「一応は余計だ」
夜蛾が低い声で言った。
父が名刺を差し出し、霊幻も続く。
夜蛾は二人の名刺を丁寧に受け取った。
「影山茂夫君」
「はい」
「座りなさい」
机を挟んで、モブたちは椅子へ座った。
エクボはモブの肩の後ろに浮かぶ。
夜蛾の視線がエクボへ向く。
「その霊的存在も、常に同行しているのか」
「常にではありません」
『今日は俺様の意思で来た』
「自律しているのか」
『見りゃ分かるだろ』
「エクボ、失礼だよ」
『向こうも人形作りながら面接してんじゃねえか』
夜蛾は手を止めた。
「これは趣味だ」
『学長の趣味が人形作りかよ』
「何か問題があるか」
『……ねえけど』
エクボが視線を逸らす。
夜蛾は針と人形を机の端へ置いた。
「まず、こちらの立場を説明する。高専は、君の力を必要としている」
霊幻の眉が動いた。
「戦力としてですか」
「結果的にはそうなる」
「入学前の未成年に言う言葉としては、正直ですね」
「隠して入学させる気はない」
夜蛾はモブを見た。
「呪術師は、呪いから人間を守る。そのために死ぬ者もいる」
父の表情が硬くなる。
「だが、死ぬために育てるつもりもない。生徒を消耗品として扱う考えは、少なくとも私は認めない」
「上層部は違う、と?」
霊幻が尋ねた。
夜蛾は答えるまでに少し間を置いた。
「呪術界全体が同じ考えではない」
「曖昧ですね」
「正確な答えだ」
「では、モブが入学した場合、その上層部とやらから命令を受けることになる?」
「なる」
「断れるのか」
「任務には、術師の等級と危険度に応じた規定がある。しかし、現場の状況が事前情報どおりとは限らない」
「質問の答えになっていない」
「完全な拒否権はない」
父が息を呑んだ。
モブは夜蛾を見た。
五条は壁際に立ち、口を挟まない。
「では」
父が言った。
「入学すれば、本人が嫌だと言っても危険な場所へ行かされる可能性があるんですか」
「ある」
夜蛾は否定しなかった。
「その代わり、任務の選定と教師の同行については、私と担当教員が責任を持つ」
「責任とは何です」
霊幻が言う。
「死亡後に頭を下げることか」
「違う」
「なら何をする」
「死なせないために、命令に逆らうことも含む」
五条がわずかに笑った。
夜蛾はそちらを見なかった。
「影山君」
「はい」
「君は、なぜここへ来た」
釘崎にも同じことを聞かれた。
だが、夜蛾が求めている答えは違う気がした。
「呪霊のことを知るためです」
「知った後は」
「まだ決めていません」
「君ほどの力があれば、多くの人間を助けられる」
モブの胸が重くなる。
その言葉は、何度も自分で考えた。
力があるのに助けないことは、悪いことなのか。
「はい」
「ならば、助けるべきだと思うか」
モブはすぐに答えられなかった。
父も霊幻も、代わりに答えない。
五条も黙っている。
「前は、そう思っていました」
「今は違うのか」
「力がある人が、全部やらなければいけないとは思いません」
「なぜだ」
「一人では、全部できないからです」
「できるだけの力があったとしてもか」
地下通路の光景が浮かぶ。
霊幻の足首をつかんだ黒い腕。
崩れかけた天井。
力を強く使えば、一瞬で祓えたかもしれない。
同時に、霊幻を巻き込んだかもしれない。
「できると思うことが、危ないからです」
モブは言った。
「僕は、自分の力を全部分かっていません。怒ったときや、感情を我慢しすぎたときに、うまく制御できなくなることがあります」
父の指がわずかに動いた。
霊幻は前を向いたままだ。
「それでも入学する可能性を考えているのか」
「力を使わない方法だけでは、助けられない人もいるからです」
「矛盾しているな」
「はい」
モブは認めた。
「まだ、答えが出ていません」
夜蛾は長い間、モブを見ていた。
「悟」
「何?」
「席を外せ」
「僕、担任になる予定なんだけど」
「予定だ。まだ決まっていない」
五条は肩をすくめた。
「はいはい」
部屋を出る直前、五条はモブへ顔を向けた。
「正直に答えて大丈夫だよ」
「お前がいると正直に答えづらいから出すんだ」
夜蛾が言う。
扉が閉まる。
「影山君」
夜蛾の声がさらに低くなる。
「五条悟に誘われたから、ここへ来たのか」
「きっかけは、そうです」
「彼を信用しているか」
モブは考えた。
「まだ、分かりません」
「強いから頼れるとは思わないか」
「強いことと、正しいことは違います」
夜蛾の眉がわずかに動いた。
霊幻が横で腕を組む。
「誰に教わった」
「いろいろな人に」
「師匠からではないのか」
「師匠からも教わりました」
「そこはもっと強調しろ」
霊幻が小声で言った。
夜蛾は霊幻へ視線を向ける。
「あなたは、彼を入学させたくないのでは」
「現時点では反対です」
「では、なぜ連れてきた」
「本人が見て決めたいと言ったからです」
「危険だと分かっていても?」
「危険かどうかも知らずに、本人の選択肢を奪う方が楽だからですよ」
霊幻は背もたれに寄りかかった。
「大人が危険だと言えば、子供は反論しづらい。心配していると言えば、なおさらだ。だから連れてきた。実際に見て、それでも行きたいと言うなら、そのとき改めて止める」
「止めるのか」
「止めますよ」
「本人の意思を尊重するのでは」
「尊重と放任は違う」
夜蛾と霊幻の視線がぶつかる。
どちらも声を荒らげなかった。
「あなた方は、生徒に覚悟を求めすぎる」
霊幻が言った。
「死ぬかもしれない。仲間が死ぬかもしれない。それでも戦う覚悟があるか。そんなもの、十五歳に完成しているわけがない」
「覚悟がなければ、現場で死ぬ」
「なら、覚悟ができるまで現場へ出すな」
「呪いは待たない」
「それは子供の責任じゃない」
「同意する」
夜蛾の返答に、霊幻が黙った。
「だからこそ、術師を育てる。大人がすべての呪いを祓えない現状を、正しいとは思っていない」
「五条と同じことを言うんですね」
「悟とは違う」
夜蛾は机の上の熊の人形を見た。
「あいつは、強い者が育てば世界を変えられると考える。私は、強さだけでは人間を救えないと知っている」
モブは熊の人形を見る。
丸い耳。
不揃いな目。
途中まで縫われた口。
「影山君。君の力は強い」
夜蛾が言う。
「だが、その強さを理由に入学を認めるつもりはない」
五条とは逆の言葉だった。
「呪術師は、自分の死だけでなく、他人の死を選ぶことがある。全員を救えない状況で、誰を助けるか決めることもある。君にそれができるか」
伏黒の顔が浮かんだ。
まだほとんど話していない。
だが、あの少年はおそらく、同じ問いを何度も考えている。
「分かりません」
「では、入学できないと思うか」
モブは答えに迷った。
できないと言えば、ここへ来た意味がなくなる。
できると言えば、嘘になる。
「分からないから、学ぶことはできますか」
夜蛾は動かなかった。
「僕は、人を傷つけないことが正しいと思っていました。でも、何もしないことで傷つく人もいると知りました」
言葉が少しずつ出てくる。
「誰かを助けることも、全部正しいわけじゃないと思います。助けられる側が、助けてほしいと思っているか分からないこともあるからです」
霊幻は黙っている。
「僕は、呪術師になりたいとはまだ思っていません」
モブは夜蛾を見た。
「でも、自分の力をどう使うか、自分で決められるようになりたいです」
部屋の外で、何かが軋んだ。
建物ではない。
結界だった。
鳥居で触れた網目の一部が、遠くで震えている。
モブが窓の方を見る。
「どうした」
夜蛾が尋ねる。
「外で、何かが」
次の瞬間、警報が鳴った。
鋭い金属音が、校内に響き渡る。
廊下から足音が近づく。
扉が勢いよく開き、五条が入ってきた。
笑っていなかった。
「見学は中断」
「何があった」
夜蛾が立ち上がる。
「西側の結界が破られた」
「侵入者か」
「違う」
五条の顔が、モブへ向く。
「さっき影山君の力に触れた部分から、結界の構造が崩れてる」
霊幻が立ち上がった。
「モブが壊したと言いたいのか」
「まだ分からない」
「なら決めつけるな」
「決めつけてない。問題は、崩れた場所から外の呪霊が入り込んだこと」
遠くから、獣のような声が響いた。
窓ガラスが震える。
モブは立ち上がった。
霊幻がその肩をつかむ。
「動くな」
「でも」
「戦闘はさせない約束だ」
五条を見る。
「あんたが対処しろ」
「もちろん」
五条は答えた。
しかし、その場からすぐには動かなかった。
目隠しの奥で、何かを見ている。
「どうした」
夜蛾が言う。
「侵入した呪霊が、こっちへ来ない」
「ではどこへ」
五条の顔が、校舎の方向へ動く。
「一年の教室」
モブの頭に、三人の姿が浮かんだ。
虎杖。
伏黒。
釘崎。
霊幻の手が、モブの肩を強くつかむ。
「先生が行く」
「はい」
「お前はここにいろ」
「はい」
五条が廊下へ出る。
夜蛾も続く。
父は不安そうに立っていた。
霊幻はモブの肩から手を離さない。
モブは約束を守ろうと思った。
自分が動かなくても、五条がいる。
最強だと言っていた。
伏黒たちも呪術師だ。
自分が行く必要はない。
そう考えた。
その瞬間、校舎の方角から、巨大な衝撃音が響いた。
続いて、釘崎の怒鳴り声。
「虎杖! そっち行った!」
伏黒の式神らしき遠吠え。
そして、何かが壁を突き破る音。
モブの指が動く。
霊幻が気づいた。
「モブ」
「行きません」
モブは言った。
「約束したので」
もう一度、衝撃音。
今度は近い。
建物の外を、黒い影が横切った。
人間より大きい。
四本の腕で地面を這い、頭部には無数の目が並んでいる。
その背中に、虎杖がしがみついていた。
「止まれえええ!」
虎杖が拳を振り下ろす。
呪霊の身体が地面へ沈む。
だが、四本の腕の一本が虎杖を振り払い、窓へ投げつけた。
虎杖の身体が、モブたちのいる部屋へ向かって飛んでくる。
「虎杖君」
モブの右手が上がった。
窓ガラスへ衝突する直前、虎杖の身体が空中で止まる。
割れたガラス片も、すべて静止していた。
虎杖は目を見開いたまま、宙に浮いている。
「おお……」
モブは虎杖を床へ下ろした。
「怪我は?」
「ない。たぶん」
虎杖が自分の身体を確認する。
霊幻はモブを見た。
モブは言った。
「戦ってはいません」
「……そうだな」
窓の外で、呪霊が咆哮した。
伏黒の玉犬が、その腕へ噛みつく。
釘崎が釘を投げる。
「簪!」
爆発とともに、呪霊の腕が弾けた。
だが、破裂した肉から細長い触手が伸び、二人へ襲いかかる。
五条の姿は見えない。
「先生は?」
モブが尋ねる。
虎杖が答える。
「別の場所に、もう一体出た! こいつ、二つに分かれたんだ!」
結界が破られた場所から入った呪霊は、一体ではなかった。
あるいは、侵入したあとで分裂した。
五条は片方を追っている。
夜蛾も校舎の反対側へ向かった。
ここには、一年生しかいない。
モブの胸の中で、何かが上がる。
焦燥ではない。
責任。
自分が結界へ触れたことが、原因かもしれない。
まだ確定していない。
それでも、自分と無関係だとは思えなかった。
影山茂夫――責任感、二十三パーセント。
「師匠」
「駄目だ」
「まだ何も言ってません」
「顔を見れば分かる」
霊幻は窓の外を見た。
伏黒が触手を避け、釘崎を押し倒す。
その背後から、別の腕が迫る。
虎杖が再び窓へ向かう。
「俺も行く!」
霊幻が虎杖の襟をつかんだ。
「待て」
「でも伏黒たちが!」
「一人で飛び出すな。三人で戦っていたんだろ」
「そうだけど」
霊幻はモブを見る。
「モブ。あいつらをここまで引っ張れるか」
「できます」
「敵には触るな。人間だけだ」
「はい」
「建物を壊すな」
「はい」
「無理だと思ったらすぐ言え」
「はい」
モブは窓の外へ力を伸ばした。
伏黒と釘崎の身体を包む。
二人が地面から浮き上がり、触手の間を抜けて部屋の窓へ引き寄せられる。
「なっ――」
「何よこれ!」
割れた窓から、二人が室内へ飛び込む。
モブは勢いを弱め、床へ下ろした。
直後、黒い触手が窓から侵入する。
伏黒が身構える。
「影山、止められるか」
モブは答えなかった。
戦わない。
敵には触らない。
その条件で、全員を守る。
モブは壁際に積まれていた机を浮かせた。
机同士を重ね、窓を塞ぐ。
触手が机を突き破ろうとする。
モブは机を直接支えず、窓枠と床と壁へ力を分散させた。
木材が軋む。
「長くは持ちません」
「十分だ」
伏黒は室内を見回した。
「出口は」
「廊下側だ」
霊幻が言う。
「全員、廊下へ出ろ。ここに籠もる意味はない」
「でも呪霊を放っておくわけには」
釘崎が言う。
「教師が戻るまで時間を稼げ。倒すことより死なないことを優先しろ」
「あんた、呪術師でもないくせに」
「だから言ってる。戦うことを仕事にしてる奴ほど、戦わない判断が遅れる」
釘崎が反論しようとする。
伏黒が先に動いた。
「廊下へ出る。虎杖、釘崎」
「伏黒まで」
「この部屋は袋小路だ」
伏黒はモブを見る。
「影山。障壁は作れるか」
「作れます」
「呪霊を押さえつけなくていい。俺たちとの間を遮断してくれ」
「はい」
「俺が玉犬で誘導する。釘崎は廊下の角に釘を仕込め。虎杖は」
「殴る」
「近づきすぎるな」
「分かってる」
四人の会話が、自然に役割へ変わっていく。
モブはその速さについていこうとした。
肉体改造部とは違う。
霊とか相談所とも違う。
ここでは、一つの迷いが誰かの怪我につながる。
「モブ」
霊幻が呼ぶ。
「お前が全部合わせようとするな」
モブは振り向いた。
「相手に言わせろ。何が必要か聞け」
「はい」
窓を塞いでいた机が割れた。
黒い触手が室内へ入り込む。
「伏黒君、どこに壁が必要ですか」
「廊下へ出たあと、三秒だけ入口を塞いでくれ」
「釘崎さんは?」
「廊下の右側に触手を寄せないで。釘を打つ場所が見えなくなる」
「虎杖君」
「俺は敵の正面に行く。俺の後ろだけ守って」
モブは頷いた。
「分かりました」
霊幻が扉を開ける。
「行け!」
伏黒、釘崎、虎杖が廊下へ走る。
父と霊幻も続く。
モブは最後に部屋を出た。
扉が閉じる。
その向こうから呪霊が突進してきた。
モブは扉の前へ透明な壁を置く。
一秒。
二秒。
三秒。
「解除して!」
釘崎の声。
モブが障壁を消す。
扉ごと呪霊が廊下へ飛び出した。
だが、その進路には無数の釘が浮いている。
釘崎が笑った。
「踏み込んだわね」
金槌が振り下ろされる。
「簪!」
連続する破裂音。
呪霊の身体が内側から弾ける。
伏黒の玉犬が喉元へ食らいつき、動きを止める。
虎杖が正面から踏み込んだ。
「うおおおっ!」
拳が、呪霊の頭部を打ち抜く。
廊下の床が揺れた。
呪霊の身体が大きく後退する。
それでも消えない。
無数の目が一斉にモブを向いた。
初めて、明確な意志を感じた。
呪霊はモブを見ている。
伏黒でも、釘崎でも、虎杖でもない。
自分だけを。
その口が開いた。
人間の言葉にはならない。
だが、意味だけが頭へ流れ込む。
穴。
外側。
呪力ではないもの。
食べれば、自分も外へ出られる。
「影山!」
伏黒の声。
呪霊が玉犬を振り払い、モブへ突進する。
モブは動けなかった。
敵には触らない。
戦わない。
約束。
しかし、自分の後ろには父と霊幻がいる。
「モブ!」
霊幻の声が響く。
「守れ!」
モブの両手が上がる。
透明な壁が廊下を塞いだ。
呪霊が衝突する。
壁が大きく歪む。
モブの足が床を滑った。
力は通じている。
呪力ではなくても、呪霊を止められる。
だが、触れている感覚が地下通路のときとは違う。
表面を押しているだけではない。
呪霊の内部にある負の感情そのものへ、念動力が届いている。
呪霊もそれを感じている。
無数の目が喜ぶように細くなった。
「こいつ」
エクボがモブの肩越しに言う。
『お前の力を食おうとしてるぞ』
障壁の表面から、黒い糸が伸びる。
モブの腕へ絡みつこうとする。
五条が言っていた。
結界には、モブの力を判別する情報がなかった。
この呪霊にもない。
だからこそ、取り込もうとしている。
「モブ、切れ!」
霊幻が言う。
「障壁を切れ!」
「でも、切ったら」
「お前一人で押さえるな!」
伏黒の玉犬が再び飛びかかる。
釘崎が最後の釘を構える。
虎杖が拳を握る。
三人とも、動いている。
自分が手を離しても、終わりではない。
モブは障壁を消した。
呪霊が前へ倒れ込む。
その頭部へ、虎杖の拳が突き刺さった。
釘崎の釘が背中へ食い込む。
玉犬が腹を裂く。
三つの攻撃が、ほぼ同時に重なった。
呪霊の身体が崩れる。
黒い霧が廊下へ広がり、やがて消えた。
沈黙。
虎杖が肩で息をしている。
伏黒の制服は袖が裂けていた。
釘崎の頬には細い傷がある。
モブは自分の腕を見る。
黒い糸は残っていない。
「祓えた?」
虎杖が言った。
「たぶん」
伏黒が残穢を確認する。
「消えた」
廊下の奥から足音が近づく。
五条が戻ってきた。
片手には、潰れた黒い塊を持っている。
「もう一体は片づけたよ」
周囲を見回し、壊れた教室と廊下、息を切らした生徒たちを見る。
「こっちも終わったみたいだね」
霊幻が五条へ歩み寄る。
「戦闘はさせないと言ったな」
「待って、僕は――」
霊幻の拳が、五条の顔面へ向かって振られた。
寸前で止まる。
見えない何かに阻まれている。
拳と五条の頬の間には、数センチの隙間があった。
霊幻はそれを見て、拳を下ろした。
「殴れないのか」
「そういう能力だからね」
「便利だな」
霊幻は笑わなかった。
「子供を守れなかったときも、相手の拳だけは止められる」
五条の口元が消える。
「僕が結界の異常を読み違えた」
「そうだ」
「もう一体を放置すれば、外へ出た可能性があった」
「それもそうだろう」
「だから分かれた」
「それで、ここに残った子供が戦った」
「霊幻さん」
「言い訳をするな」
廊下の空気が冷えた。
「今回は全員無事だった。だから、判断が正しかったことにするのか」
五条は答えない。
「お前は強い。たぶん、俺が想像できないくらい強い」
霊幻の声が低くなる。
「だから、自分が間に合わないことを前提に考えるのが下手なんじゃないか」
モブは五条を見る。
五条は目隠しをしている。
表情はほとんど変わらない。
だが、返事が遅れた。
「……そうかもね」
霊幻は少しだけ目を細めた。
「認めればいいと思ってるのか」
「思ってない」
五条の声から、軽さが消えていた。
「僕のミスだ」
虎杖が口を開く。
「でも、俺たちが勝手に――」
「虎杖」
五条が止めた。
「庇わなくていい」
虎杖は口を閉じる。
「影山君」
五条がモブへ向く。
「約束を守れなかった。ごめん」
「僕は、戦っていません」
「でも、戦わせる状況にした」
モブは何と答えるべきか分からなかった。
怒ってはいない。
怖かった。
責任を感じた。
それでも、三人と一緒に動いたことで、初めて分かったことがある。
一人で全部を押さえなくてもよかった。
必要なことを聞けば、他人は動く。
自分が手を離しても、誰かが続ける。
「五条先生」
「何?」
「僕のせいで、結界が壊れたんですか」
「可能性はある。でも、君が意図して壊したわけじゃない」
「僕が来なければ、呪霊は入らなかったかもしれない」
「そうかもしれない」
霊幻が五条を見る。
父も息を止めたように黙っている。
「ただし」
五条は続けた。
「結界の一部が、君の力を解析しようとして過負荷を起こした。君の力が危険だからじゃない。僕たちの結界が、君を想定していなかったからだ」
「同じことでは?」
「違うよ」
五条は即答した。
「君が枠から外れていることと、君が悪いことは別だ」
モブはその言葉を聞いた。
胸の中に溜まっていた責任感が、すぐに消えるわけではない。
それでも、少しだけ形が変わった。
自分が原因の一部であることと、自分が悪いことは同じではない。
その区別を、モブはまだうまくつけられない。
「今日は帰ります」
霊幻が言った。
「見学は終わりだ」
父が頷く。
モブも反対しなかった。
五条は引き止めなかった。
「分かった」
釘崎がモブを見る。
「もう来ないの?」
「まだ決めていません」
「この状況で?」
「はい」
「変なやつ」
「釘崎さんも、怪我をしています」
「これくらい傷に入らないわよ」
「消毒した方がいいです」
「急に保健委員みたいなこと言わないで」
伏黒がモブへ近づく。
「さっきは助かった」
「僕も、指示してもらったので動けました」
「指示がなければ動けないのか」
「分からない状況では、聞いた方がいいと思って」
伏黒は少し黙った。
「……そうだな」
それだけ言って、離れた。
虎杖が手を上げる。
「またな、モブ」
「まだ入学するとは」
「入学しなくても会えるだろ」
虎杖は笑った。
「相談所って東京から遠い?」
「少し遠いです」
「じゃあ、近く行ったとき寄る」
「相談があるんですか」
「なくても行っていい?」
モブは霊幻を見る。
「初回相談は三十分二千円だ」
霊幻が答えた。
「金取るの!?」
「商売だからな」
「友達割引は?」
「お前たち、いつ友達になった」
霊幻はそう言ったが、虎杖を追い払おうとはしなかった。
モブは教室へ続く壊れた廊下を振り返る。
ここは危険だった。
父と母の心配は正しい。
霊幻が反対する理由も分かる。
五条は強い。
それでも、すべてには間に合わない。
高専の生徒たちは、自分と同じ年齢なのに、死ぬかもしれない場所で戦っている。
そのことを知った。
同時に、自分一人が彼らを助けなければならないわけではないことも知った。
彼らは、自分で考え、自分で戦っていた。
モブにできたのは、その間に壁を作ることだけだった。
それでも、その壁がなければ違う結果になっていたかもしれない。
力を使うことは、相手を倒すことだけではない。
その当たり前のことを、モブは初めて実感した。
影山茂夫――理解、二十八パーセント。