帰りの電車では、誰もほとんど喋らなかった。
車両の端に、影山茂夫と父が並んで座っている。その向かいに霊幻新隆が座り、腕を組んで目を閉じていた。
眠ってはいない。
口元が固い。
五条悟へ怒っているときの顔だった。
モブの肩の上では、エクボが小さくなって浮かんでいる。
『ひどい学校だったな』
「うん」
『うん、じゃねえよ。入った途端に結界に潰されて、案内中に化け物が乱入して、教師はどっか行く。俺様が親なら、その場で校舎を燃やしてるぞ』
「燃やしたら犯罪だよ」
『たとえだ』
父がこちらを見た。
「茂夫、誰かと話しているのか」
「エクボです」
「そうか」
父はそれ以上尋ねなかった。
見えないものが息子の周囲にいる生活にも、影山家はある程度慣れている。
電車が大きく揺れた。
モブは座席の端に手をつく。身体が流れそうになるより先に、父が腕を伸ばした。
「大丈夫か」
「うん」
虎杖なら、揺れたことにも気づかず立っていられるだろう。
伏黒も、釘崎も。
そう考えてから、モブは自分が三人と比べていることに気づいた。
「茂夫」
父が言った。
「今日の学校へ行きたいと思ったか」
霊幻の目が開いた。
答えを急かしてはいない。
ただ聞いている。
モブは窓の外を見た。
電車は地上へ出ていた。夕日が建物の隙間に細く差し込み、窓ガラスの上を滑っていく。
「分からない」
「まだか」
霊幻が言った。
「すみません」
「謝るな。今日中に決める話じゃない」
霊幻は腕を解いた。
「むしろ、あれを見てすぐ入学しますと言ったら、俺はお前の頭を心配する」
『あの白髪は、その場で入学届を出しかねねえ顔してたぞ』
「五条先生は、悪い人ではないと思います」
モブが言うと、霊幻の眉が上がった。
「お前、判断が早くないか」
「でも、信用できるかは分かりません」
「それなら正常だ」
「間違えたことを認めていました」
「認めれば失敗が消えるわけじゃない」
「はい」
霊幻の声には、まだ硬さが残っている。
モブは続けた。
「でも、間違えたときに認めない人もいます」
「誰のことだ」
『お前だろ』
霊幻はエクボを見られないはずなのに、なぜかモブの肩付近を睨んだ。
「俺は認めるべきときは認める」
『シャッターの修理代は?』
「エクボが、シャッターのことを言っています」
「伝えなくていい」
父が小さく笑った。
緊張が少しだけ緩む。
しかし、次の言葉を口にするとき、父の表情は真剣だった。
「お父さんは、反対だ」
モブは父を見る。
「今日のようなことが、入学後も起きるんだろう。もっと危険なこともある。茂夫が強いのは知っている。でも、強いから怪我をしないわけではない」
「うん」
「ただ」
父は膝の上で手を組んだ。
「反対だから、行ってはいけないとは言わない」
霊幻が父を見る。
「いいんですか」
「よくはありません」
父は苦く笑った。
「親としては、普通の高校に行ってほしい。安全な場所で勉強して、友達を作って、将来のことを考えてほしい」
「僕も、そうしたいと思ってる」
「そうか」
「でも、あの人たちも同じ年なのに、戦っていました」
「だから自分も、とは考えるな」
霊幻の声が割り込む。
「他人が危険なことをしているから、自分もやる。それは責任感じゃない。同調圧力だ」
「分かっています」
「本当に分かってるか?」
モブはすぐに答えなかった。
分かっているつもりだった。
だが、伏黒と釘崎を窓から引き寄せたとき、自分がそこにいてよかったと思った。
虎杖が呪霊へ向かっていく背中を見たとき、放っておけないと思った。
それが責任感なのか、罪悪感なのか、仲間意識なのかは、まだ分からない。
「分かっていないかもしれません」
モブは言った。
「だから、考えます」
「そうしろ」
霊幻は再び目を閉じた。
「ただし、一人で考えるな」
◇
高専では、破損した結界の調査が続いていた。
西側の山林には、夜蛾正道、五条悟、伊地知潔高の三人が立っている。
結界の基点となっていた石柱は、中央から細い亀裂が走っていた。
表面には黒い染みが残っている。
「影山茂夫の力が原因ではない?」
伊地知が尋ねた。
「原因の一つではある」
五条は石柱へ指を触れず、数センチ手前で止めた。
「彼の力を解析しようとして、結界の演算が処理しきれなかった。それで一時的な空白が生まれた」
「なら、やはり彼が――」
「でも、空白ができただけなら、外の呪霊を自動的に招き入れることはない」
夜蛾が黒い染みを見る。
「誘導されたか」
「うん」
五条はしゃがみ込んだ。
落ち葉の下から、小さな紙片をつまみ上げる。
人の指ほどの大きさ。
紙には、薄く呪力が残っていた。
「これが、結界の綻びを待ってた」
「呪符ですか」
「低級呪霊を引き寄せるだけの単純なもの。普段なら結界に弾かれて終わり。でも今日は、影山君が作った穴を利用された」
「仕掛けた者は、彼が来ることを知っていた?」
夜蛾の問いに、五条は首を振った。
「そこまでは断定できない。もっと前から仕掛けられていて、たまたま今日動いた可能性もある」
「可能性は」
「低い」
五条は紙片を裏返した。
裏面には、指でなぞったような跡がある。
文字でも術式でもない。
人の顔に似た、歪んだ模様だった。
「結界に異常が起きた瞬間に反応するよう作られてる。誰かが高専の守り方を調べてる」
伊地知の顔が青くなる。
「上層部への報告は」
「必要だな」
夜蛾が答える。
五条は立ち上がった。
「影山君のことは伏せよう」
「できません」
伊地知が即答する。
「侵入事件の発端に未登録の異能者が関与しています。報告書から除外すれば、後で問題に――」
「書けば、もっと問題になる」
五条の声は軽くなかった。
「呪力を使わず、結界に干渉できる十五歳。上がそれを知ったら、本人の意思を待つと思う?」
伊地知は黙った。
夜蛾は五条を見た。
「隠し続けることはできん」
「分かってる。入学するなら、いずれ知られる」
「入学しなければ」
「なおさら守りづらい」
五条は、石柱に残る亀裂を見た。
「普通に暮らしていても、今日みたいな呪霊は彼を見つける。あの力は呪力じゃない。だから呪霊から見えないと思ってた。でも違った」
「どう違う」
「最初は見えない。触れた瞬間、餌だと理解する」
虎杖たちと戦った呪霊は、モブの障壁へ接触した後、明確に彼を狙った。
偶然ではない。
呪霊にとって未知の力は、恐怖の対象ではなかった。
取り込めるかもしれない資源として認識された。
「影山君が力を使うほど、呪霊側にも学習される可能性がある」
伊地知が言う。
「では、能力を使わせない方が」
「使わなければ安全とは限らない。今日の呪霊は、一度触れて覚えた」
五条の口元へ、うっすらと笑みが戻る。
楽しいからではない。
考えるときの癖だった。
「彼を守るだけなら、高専の内側に置くのが一番簡単。でも、それを理由に入学させるのは脅しだ」
「珍しいな」
夜蛾が言う。
「何が?」
「お前が本人の都合を考えている」
「いつも考えてるよ」
「いつも自分の結論と一致しているだけだ」
五条は答えなかった。
遠くの訓練場から、釘崎の声が聞こえる。
「ちょっと虎杖! そっち持ちなさいよ!」
「持ってるって!」
「傾いてる!」
壊れた机を運ばされているらしい。
「弁償は学校持ちですよね」
伊地知が恐る恐る聞く。
「当たり前だろう」
夜蛾が答える。
五条は何も言わなかった。
「悟」
「何?」
「影山君を入学させたい理由は何だ」
「強いから」
「それだけではないだろう」
五条は少し黙った。
「……呪術師向きじゃないから」
伊地知が顔を上げた。
「矛盾していませんか」
「呪術界に向いてる人間だけ集めた結果が、今の呪術界だからね」
強い者が正しい。
役に立つ者に価値がある。
死を恐れず、命令に従い、呪いを祓う。
そうした価値観へ適応できる者ほど、優秀な術師と呼ばれる。
影山茂夫は、そこから外れている。
力がありながら、力を自分の価値だと思っていない。
戦えるのに、戦わない方法を先に探す。
命令よりも、自分が傷つける相手のことを考える。
「向いてないままでいてほしいんだよ」
五条は言った。
「ここに染まらず、ここで育ってほしい」
「都合がよすぎる」
夜蛾が言う。
「うん」
五条は否定しなかった。
◇
その夜、影山家では家族会議が行われた。
母は高専の資料を最初から最後まで読み、三度ため息をついた。
「寮生活なのね」
「原則は」
父が答える。
「週末の帰宅は認められているようだ」
「原則って何。任務が入ったら帰れないってことでしょう」
「たぶん」
「嫌よ」
母は資料を閉じた。
「茂夫が寮に入るだけでも心配なのに、夜中に呼び出されることもあるなんて」
律は黙って資料を読んでいる。
モブは食卓の端に座っていた。
霊幻は呼ばれていない。
これは家族で話すことだと、父が言ったからだ。
「兄さん」
律が顔を上げる。
「戦ってないって言ったけど、力は使ったんだろ」
「うん」
「どのくらい?」
「虎杖君を止めて、伏黒君と釘崎さんを運んで、障壁を作った」
「それは戦ってるんじゃないの」
「呪霊は攻撃してない」
「言葉の問題だよ」
律は資料を置いた。
「結局、兄さんが行った日に事件が起きて、兄さんも巻き込まれた」
「うん」
「それでも行きたい?」
「まだ決めてない」
「いつまで考えるの」
「律」
父が止める。
「期限は必要だよ」
律は父へ向き直る。
「普通の高校の入学手続きもある。いつまでも迷ってたら、どっちも選べなくなる」
「それはそうね」
母が言った。
「茂夫。明日までに決められる?」
モブの胸が詰まる。
明日。
それまでに、自分の人生を決める。
普通の高校。
呪術高専。
安全と危険。
日常と呪い。
どちらかが正しく、どちらかが間違っているわけではない。
だから余計に難しかった。
「一週間ください」
モブは言った。
母が眉を寄せる。
「一週間?」
「その間に、今度行く高校も見たいです」
「説明会はもう終わってるけど」
「外からでもいいです」
「何を見るの?」
「分かりません」
モブは正直に答えた。
「でも、高専だけ見て決めたくありません」
律がモブを見た。
「比較したいってこと?」
「うん」
「危険かどうかを?」
「それだけじゃない」
モブは膝の上で手を握った。
「普通の高校へ行ったときの自分と、高専へ行ったときの自分を考えたい」
「そんなの、分かるの?」
「分からないと思う」
「じゃあ」
「分からなくても、考えることはできる」
律は口を閉じた。
モブは続けた。
「僕は、超能力じゃないところで成長したいです。それは変わってません」
肉体改造部へ入った理由。
身体を鍛えたかった。
超能力を使わず、自分の足で走れるようになりたかった。
好きな人に、自分自身を見てもらいたかった。
高専へ行けば、その願いを諦めることになるのか。
それとも、別の形で続けられるのか。
「高専に行ったら、超能力ばかり使うことになるかもしれない」
モブは言った。
「普通の高校なら、使わない生活ができるかもしれない。でも、使わないだけで、自分が成長したことになるのかも分かりません」
母は黙って聞いている。
「力を使わないのが正しいんじゃなくて、使うかどうかを自分で決められるようになりたいです」
「高専なら、それができると思うの?」
「まだ思ってません」
母の表情が、少し困ったように緩んだ。
「本当に、まだ決まってないのね」
「はい」
「じゃあ一週間」
父が言った。
「その間、霊幻さんとも話しなさい。高専にも追加で聞きたいことをまとめよう」
「お父さん」
母が見る。
「反対なのは変わってないよ」
「僕も反対だ」
「じゃあ、どうして」
「反対していることと、茂夫に考えさせないことは別だ」
父はモブへ向き直る。
「一週間後、自分で決めなさい。ただし、決めた理由を私たちに説明すること」
「はい」
「力があるから、だけでは認めない」
「はい」
「友達を助けたいから、だけでも駄目だ」
「……はい」
虎杖たちは、まだ友達と呼べるほどの関係ではない。
それでも、父がなぜその言葉を使ったのか、モブには何となく分かった。
「兄さん」
律が言う。
「僕も、聞きたいことを考える」
「律も?」
「反対するなら、ちゃんと調べてから反対する」
霊幻と同じことを言っている。
モブがそう思った瞬間、律は嫌そうな顔をした。
「今、霊幻さんと同じだと思った?」
「少し」
「取り消して」
「でも」
「取り消して」
「分かった」
◇
翌日の放課後。
モブは、入学予定だった高校の前に立っていた。
まだ春休みで、生徒の姿は少ない。
校庭では運動部が練習をしている。
野球部の掛け声。
吹奏楽部の音階。
体育館から響く靴音。
どれも、呪いとは無関係に聞こえた。
門の外には霊幻がいる。
「中に入らなくていいのか」
「今日は見ているだけでいいです」
「見て分かることなんて少ないぞ」
「はい」
「学校案内を頼めば、入れてくれるかもしれない」
「今日はいいです」
モブはフェンス越しに校庭を見る。
グラウンドの端を、陸上部員が走っている。
速い。
息を切らしている。
それでも止まらない。
肉体改造部の皆を思い出す。
モブが遅れても、誰も置いていかなかった。
倒れれば担ぎ、戻ればまた一緒に走った。
ここへ入学すれば、新しい部活へ入ることもできる。
普通の友達を作ることもできるかもしれない。
呪霊のことを知らないまま笑う人たちの中で、生活できる。
「師匠」
「なんだ」
「普通って、何ですか」
「急に難しいことを聞くな」
霊幻は自動販売機で買った缶コーヒーを開けた。
「多数派って意味なら、周りと同じことだろうな」
「周りと同じなら、普通ですか」
「そんなわけない。周りが全員おかしい場合もある」
「じゃあ、普通じゃなくてもいいんですか」
「いいかどうかを他人に聞くな」
霊幻は一口飲んだ。
「お前が普通の高校へ行きたいなら行けばいい。危険な場所を避けたから弱い、なんてことはない」
「はい」
「逆に、高専へ行けば特別になれると思うならやめろ。お前はすでに十分面倒な力を持ってる。これ以上、肩書きまで特別にする必要はない」
「特別になりたいとは思ってません」
「なら、何をしたいか考えろ」
校庭から、ボールがフェンスへ転がってきた。
野球部員の少年が走ってくる。
モブの前で止まり、頭を下げた。
「すみません。それ取ってもらえますか」
「はい」
モブは足元のボールを拾った。
超能力は使わない。
腕を振り、フェンス越しに投げる。
ボールは少年のかなり手前で落ちた。
地面を二度跳ねて、ようやく届く。
「あ、ありがとうございます」
少年は少し困った顔で受け取り、走って戻っていった。
霊幻は何も言わない。
モブは自分の右腕を見た。
「遠くまで投げられませんでした」
「見れば分かる」
「超能力なら、もっと正確に投げられます」
「使う必要があったか?」
「ありません」
「なら、それでいい」
遠くまで投げられなくても、ボールは相手へ届いた。
格好はよくなかった。
完璧でもない。
それでも、必要なことはできた。
高専の廊下で作った壁も同じだった。
呪霊を一人で祓わなくても、三人が戦うための時間を作れた。
自分の力が、すべてを解決する必要はない。
「師匠」
「今度は何だ」
「僕、高専に行こうと思います」
霊幻の缶コーヒーが止まった。
「今決めるのか」
「はい」
「普通の高校を見て、五分で?」
「昨日から考えていました」
「一週間使えと言われただろ」
「決めた後でも、考えることはできます」
「そういう問題じゃない」
霊幻は頭をかいた。
怒鳴らなかった。
すぐに否定もしなかった。
「理由は」
「力があるからではありません」
「続けろ」
「高専なら、僕の知らない力の使い方を学べると思います。攻撃する方法ではなく、他の人と動く方法です」
「それは普通の高校でも学べる」
「はい」
「じゃあ理由になってない」
「呪霊について知りたいです」
「知ってどうする」
「力を使わない方がいいときと、使わなければいけないときを、自分で判断できるようになりたいです」
霊幻は黙った。
「それから」
モブは校庭を見る。
「虎杖君たちが戦っているから行くわけではありません。でも、あの人たちと一緒なら、一人で全部やらない練習ができると思いました」
「練習で死ぬ可能性がある」
「怖いです」
「本当に分かってるのか」
「分かっていないことがあるのも分かっています」
霊幻の眉間にしわが寄る。
「うまいことを言ったつもりか」
「違います」
「俺は反対だぞ」
「はい」
「危険だし、教師は信用ならないし、組織はもっと信用ならない」
「はい」
「週末は相談所へ来い」
「はい」
「給料は今までどおりだ」
「はい」
「寮に変な教材を売りつける人間が来たら、絶対契約するな」
「はい」
「あと五条に、何でも一人で報告するな。重要なことは俺と家族にも話せ」
「はい」
霊幻は缶コーヒーを一気に飲んだ。
「お前、もう入学する前提で返事してるだろ」
「反対ですか」
「反対だと言ってる」
「じゃあ」
「反対したまま、準備する」
霊幻は空き缶をゴミ箱へ投げた。
缶は縁に当たり、地面へ落ちた。
モブが拾う。
「外れました」
「見れば分かる」
霊幻はモブから缶を受け取り、今度は近くまで歩いてゴミ箱へ入れた。
「大人が反対したからって、子供が正しいとは限らない。子供が自分で決めたからって、大人が責任を放棄していいわけでもない」
ゴミ箱の蓋が閉じる。
「お前が行くなら、俺は向こうを監視する」
「師匠も入学するんですか」
「するわけないだろ」
「教師になるんですか」
「ならない」
「では、どうやって」
「これから考える」
霊幻は歩き出した。
「まずご両親を説得する。それから学校側へ条件を出す。任務の事前説明、単独行動の禁止、定期報告、相談窓口――」
「相談窓口は師匠ですか」
「当然だ」
モブは霊幻の後を追った。
「相談料はかかりますか」
「生徒割引で半額にしてやる」
「お金を取るんですね」
「仕事だからな」
霊幻の背中は、まだ怒っているように見えた。
それでも歩く速さは、モブが遅れない程度だった。
影山茂夫――決意、三十一パーセント。