影山茂夫が高専へ行くと口にしてから、影山家の食卓では三日続けて同じ話が出た。
母は反対した。
父も反対した。
律も反対した。
そして三人とも、反対しているという点以外では意見が一致しなかった。
「寮に入る必要はないんじゃない?」
母は高専から送られてきた資料へ付箋を貼りながら言った。
「通学に時間はかかるけど、帰ってこられない距離じゃないでしょう」
「任務が早朝や夜間に入る可能性があります」
父が別紙を指で押さえる。
「緊急時には、寮から動く方が安全だと書いてある」
「緊急時があること自体がおかしいのよ」
「それは最初から分かっていたことだろう」
「分かっていることと、納得できることは違います」
律は黙って、規則の一文を何度も読んでいた。
モブは両親の向かい側に座り、時々質問に答えた。
「週末は帰ってくるの?」
「帰れるときは」
「帰れないのはどういうとき?」
「任務があるときだと思う」
「思う、じゃ困るのよ」
「はい」
「茂夫に怒ってるんじゃないの」
「はい」
「そんな顔しないで」
「普通の顔です」
「それが困ってる顔なのよ」
母の言葉に、モブは頬へ手を触れた。
自分の表情は、自分ではよく分からない。
律が資料を置いた。
「兄さんは、単独任務を断るって条件を出した方がいい」
「学校側が認めるかな」
父が言う。
「認めないなら、入学しなければいい」
「律」
「だって、最初から危険だと分かってるのに、条件なしで入る方がおかしいよ」
律はモブを見る。
「兄さんは強いから、一人で行かせようとする。絶対に」
「五条先生は、一人では行かせないと言ってた」
「口で言っただけだろ」
律の言い方は霊幻に似ていた。
本人に言えば嫌がるだろうと、モブは黙っていた。
「書面にしてもらおう」
父が言った。
「任務の選定基準や、保護者への連絡方法も含めて」
「そのために霊幻さんが条件をまとめてくれてるんでしょう」
母は言った。
「でも、どうして霊幻さんがそこまで」
「師匠だからです」
モブが答える。
「それは分かってるけど」
母は少し言いよどんだ。
「学校の先生でも、親戚でもないでしょう」
「関係ないと思います」
「何が?」
「師匠が僕を心配することに、肩書きは」
モブは一度、言葉を切った。
「関係ないと思います」
母はモブの顔を見た。
それから、付箋を貼る手を止めた。
「そうね」
短い返事だった。
律が、わずかに視線を伏せる。
モブは、家族が霊幻を完全に信用しているわけではないことを知っていた。
霊幻が本物の霊能力者ではないことも、商売の中に大げさな宣伝が混じっていることも、今では隠されていない。
それでも両親は、モブが相談所へ通うことを認めている。
霊幻がモブを利用したこともあった。
モブが霊幻へ依存していたこともあった。
だが、それだけではなかった。
人間関係は、一つの言葉で分類できるほど簡単ではない。
師匠。
雇用主。
相談相手。
嘘をついた大人。
それでも、逃げずに自分へ謝った人。
「明日の話し合いで」
父が資料を閉じた。
「学校側が条件を受け入れなければ、入学は認めない」
「はい」
「受け入れた場合でも、お母さんと私は反対している」
「はい」
「それでも行くか」
モブは少し考えた。
「行きたいです」
母の顔が曇る。
モブは続けた。
「でも、反対されても関係ないとは思ってません」
「なら」
「反対されていることも含めて、自分で決めたいです」
父はゆっくり息を吐いた。
「分かった」
納得した声ではなかった。
ただ、話を終わらせるための声でもなかった。
◇
翌日。
「霊とか相談所」の応接スペースには、普段より一脚多く椅子が並べられていた。
机の片側に影山家の両親とモブ。
その横に霊幻。
向かい側に五条悟と夜蛾正道。
律は学校があり、参加していない。
エクボは部屋の隅に浮かび、五条を警戒していた。
『あいつ、また菓子持ってきてるぞ』
「手土産は基本だ」
霊幻が小声で返す。
『俺様にくれんのか?』
「お前、食べられないだろ」
『気分の問題だ』
五条は紙袋を机に置いた。
「今日は栗羊羹です」
「買収はされません」
霊幻は封筒を五条の前へ滑らせた。
「条件をまとめました」
「多いね」
「まだ減らした方です」
五条が一枚目をめくる。
夜蛾は隣から黙って読む。
「一、在学一年目は原則として単独任務を禁止」
五条が読み上げる。
「二、準一級以上と推定される呪霊が関与する任務には、教師または一級術師が同行」
「推定が外れる場合は?」
夜蛾が尋ねる。
「現場情報が誤っていた場合、即時撤退を最優先。生徒本人の判断で交戦を継続させない」
霊幻が答える。
「生徒本人が、他人を救うために残ると言った場合は」
「撤退させるのが引率者の仕事だ」
「間に合わない場合もある」
「それを十五歳に背負わせるな」
夜蛾は反論せず、次の項目へ目を移した。
「三、任務前に対象の推定等級、確認された術式、一般人の有無、現場構造を本人へ説明する」
「情報がない任務もあるよ」
五条が言う。
「情報がないと説明しろ」
「それだけ?」
「分からないことを、分かっているように言うなという意味だ」
霊幻は五条を見る。
「前回、結界の中なら安全だという前提で案内した。だが実際には侵入を許した。予測が外れること自体を責めているんじゃない。外れた可能性を、本人と保護者へ説明しない態度を問題にしている」
「安全だとは言ってないけど」
「口答えするところか?」
五条は夜蛾を見る。
「僕、今怒られてる?」
「黙って読め」
「はい」
母は、五条が本当に黙ったことへ少し驚いた顔をした。
五条は資料を読み進める。
「四、影山茂夫の能力について、本人および保護者の同意なく、採血、組織採取、長時間の拘束を伴う実験を行わない」
「採血まで禁止されると健康診断ができないよ」
「医療目的は除くと書いてある」
「本当だ」
「読め」
「読んでるよ」
「口に出す前に読め」
父が口元を押さえた。
笑いを堪えたらしい。
「五」
夜蛾が代わりに読む。
「能力検証中、本人が中止を希望した場合は即時中断。ただし、能力暴走等により本人または周囲へ重大な危険がある場合を除く」
「これは妥当だ」
夜蛾が言う。
「六、能力に関する調査結果は、本人と保護者に開示する」
「呪術界の機密に関わる部分は除外が必要だね」
五条が言った。
「モブ本人の身体や能力についての情報を、本人へ隠す理由にはならない」
「本人の情報は開示する。でも比較対象の術式や、結界構造の一部までは出せない」
「そこは書き方を調整する」
霊幻は赤いペンで余白へ書き込んだ。
話し合いは、一時間を越えた。
任務中の通信手段。
負傷時の搬送先。
週末の帰宅。
相談所でのアルバイト継続。
一般教科の履修。
途中で進路変更を希望した場合の手続き。
五条は最初こそ軽口を挟んだが、後半になるにつれて余計なことを言わなくなった。
夜蛾は、受け入れられる条件と受け入れられない条件を明確に分けた。
「任務の完全な拒否権は認められない」
夜蛾が言う。
父の表情が硬くなる。
「呪術師の養成機関である以上、実地任務は教育課程に含まれる。ただし、本人が心理的・身体的に任務を遂行できない状態であれば、担当教員と学長の判断で外す」
「本人の申し出だけでは駄目なんですか」
母が尋ねる。
「申し出は尊重します」
「尊重という言葉は、無視するときにも使えます」
母の声は静かだった。
モブは母を見る。
家では何度も不安を口にしていた。
しかし、五条たちを前にすると、その不安をそのままぶつけるのではなく、言葉を選んでいる。
「茂夫は、自分が我慢すればいいと思う子です」
母は続けた。
「嫌でも嫌と言えないことがあります。本人が申し出なかったから問題ない、とは考えないでください」
五条の顔がモブへ向く。
モブは少し俯いた。
「分かりました」
夜蛾が答える。
「定期的な面談を設ける。担任だけでなく、私とも話す機会を作ります」
「担任が信用できないみたいに言うね」
五条が言う。
「信用の問題ではない」
夜蛾は返した。
「一人の教師に判断を集中させないためだ」
「僕が最強だから?」
「お前が自分の判断を最善だと思いすぎるからだ」
五条は笑った。
その笑いは、いつものように軽かった。
だが、反論はしなかった。
「最後に」
霊幻は資料を閉じた。
「これは条件というより、確認です」
「何でしょう」
夜蛾が言う。
「モブが、呪術師に向いていないと判断した場合」
霊幻の視線が、五条と夜蛾を順に通る。
「本人へ、辞めるよう言えるか」
五条の口元が止まる。
夜蛾はすぐに答えなかった。
「危険に耐えられない場合ではありません」
霊幻は続けた。
「力が不足している場合でもない。向いていないというのは、呪術師を続けることで、この子の人間性が壊れると判断した場合です」
「人間性」
「誰かの死に慣れすぎる。助けられなかった人間を数字で考えるようになる。自分を道具としか思わなくなる。そういう意味だ」
モブは霊幻を見た。
霊幻はモブを見なかった。
「あなた方は、強い術師を育てたい。組織を変えたい。人を救いたい。それは分かる」
声が、少しだけ低くなる。
「だが、その目的のためにモブ自身が壊れるなら、辞めさせろと言えるか」
夜蛾が両手を膝の上で組む。
「言う」
「五条は?」
「言えるよ」
五条は答えた。
霊幻が目を細める。
「迷わなかったな」
「迷ってるように見せた方が信用できた?」
「そういうところが信用できない」
「でも言う」
五条の声から、冗談が消える。
「呪術師である前に、僕の生徒だからね」
「その順番を忘れるな」
「そっちもね」
「何がだ」
「影山君は、君の弟子である前に、影山君本人でしょ」
霊幻の眉が動いた。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
モブは五条を見た。
五条が何を考えて、その言葉を選んだのかは分からない。
ただ、霊幻はすぐに言い返さなかった。
「……分かってる」
やがて霊幻が言う。
「ならいい」
五条は再び笑った。
「じゃあ、合意で?」
「まだだ」
母が言った。
全員がそちらを見る。
「茂夫」
「はい」
「最後に、あなたの口から聞きます」
母は、資料ではなくモブを見ていた。
「本当に行くの?」
モブは、膝の上の手を見た。
ここまで多くの大人が、自分のために条件を話した。
危険を減らす方法。
辞める方法。
傷ついたときの方法。
それでも、危険がなくなるわけではない。
誰かが代わりに決めてくれるわけでもない。
「行きます」
モブは顔を上げた。
「怖いけど、行きたいです」
「どうして」
「自分の力を、怖いから使わないだけにしたくないからです」
母の目が少し揺れる。
「人を傷つけるために使いたくはありません。でも、使わないことで誰かを見捨てたと思い続けるのも違うと思います」
「全部の人を助けることはできないのよ」
「はい」
「それでも、後悔するかもしれない」
「すると思います」
「怪我も」
「するかもしれません」
「死ぬかもしれないのよ」
モブは答えられなかった。
言葉にすれば、現実になる気がした。
死にたくはない。
家族を悲しませたくない。
その恐怖は、呪霊を前にしたときより重かった。
「死にたくないです」
モブは言った。
「だから、ちゃんと帰ってくる方法を覚えます」
母は唇を結んだ。
目元が赤くなる。
泣かれると思い、モブの胸が苦しくなった。
だが母は泣かなかった。
「毎週、連絡すること」
「はい」
「帰れる週は帰ってくること」
「はい」
「食事を抜かないこと」
「はい」
「怪我を隠さないこと」
「はい」
「無理をしないこと」
モブは返事をしようとして、止まった。
何を無理と呼ぶか。
自分では気づけないかもしれない。
「無理をしていると言われたら、考えます」
「そこは、やめますと言ってほしいんだけど」
「分からないので」
母は目元を押さえながら、小さく笑った。
「そういうところは、正直なのね」
◇
入学手続きが終わったのは、それから四日後だった。
モブが寮へ持ち込む荷物は、多くなかった。
服。
教科書。
洗面用具。
肉体改造部からもらった寄せ書き。
律が選んだ目覚まし時計。
霊幻から渡された「困ったときの社会人対応マニュアル」と書かれた薄いファイル。
中身の半分は、契約書へすぐ署名しない、知らない番号からの着信には折り返す前に確認する、食中毒を避けるため生肉を常温放置しない、といった呪術とは無関係な注意だった。
残り半分には、任務前に確認する項目が並んでいる。
同行者。
撤退経路。
一般人の位置。
依頼者が隠している情報の可能性。
依頼料の支払者。
最後の項目だけ、赤字で二重線が引かれていた。
「高専では関係ないんじゃない?」
律がファイルを見て言った。
「師匠は、お金の流れを見ると依頼の本当の目的が分かることがあると言ってた」
「それは正しいけど」
律はベッドの上に座り、部屋を見回した。
入寮日には、家族全員がついてきた。
母は収納の少なさを気にし、父は窓の鍵を確認し、律は部屋から訓練場までの距離を測っていた。
「兄さん」
「何?」
「今なら、まだ帰れるよ」
モブは、律が冗談を言っていないと分かった。
「うん」
「帰らないの?」
「帰らない」
「そう」
律は目覚まし時計を机へ置いた。
「これ、音が大きいから」
「ありがとう」
「朝、弱いだろ」
「前よりは起きられる」
「前より、でしょ」
「うん」
律は窓の外を見た。
木々の間に、訓練場の屋根が見える。
「兄さんがここにいる間、僕も自分の力を練習する」
「危ないことはしないで」
「しないよ」
「一人で悪霊を祓ったり」
「しない」
「エクボと変なことをしたり」
『俺様を何だと思ってやがる!』
エクボが天井付近で叫ぶ。
律には聞こえている。
「一番信用できないところだよ」
『お前、兄貴より俺様に厳しくねえか?』
「兄さんを危険な宗教へ勧誘した前科があるからね」
『あれは夢を見せてやろうと――』
「世界征服で?」
『大きな目標だろ』
モブは二人のやり取りを聞いていた。
これまでと同じだった。
明日からも同じではない。
それでも、完全に離れるわけではない。
「律」
「何?」
「僕がいない間、お父さんとお母さんをお願い」
律の顔が険しくなる。
「そういう言い方やめて」
「どうして?」
「帰ってこない人みたいだから」
モブは口を閉じた。
「兄さんは、毎週帰ってくるんだろ」
「うん」
「なら、自分で話せばいい」
「分かった」
律は立ち上がった。
「それと、僕も毎日連絡するから」
「毎日?」
「嫌なら三日に一回」
「毎日でいいよ」
「じゃあ毎日」
律は、それ以上何も言わなかった。
部屋を出るとき、一度だけ振り返った。
その顔に笑みはなかったが、怒りもなかった。
◇
家族が帰ったあと、モブは一年生の教室へ向かった。
今日から、机は四つになっていた。
虎杖が新しい机へ頬杖をつき、伏黒は窓際で本を読んでいる。釘崎は、机の配置を見て不満そうに腕を組んでいた。
「何で私の横なのよ」
「嫌ですか」
モブが尋ねる。
「嫌とは言ってない。五条が勝手に決めたのが気に入らないだけ」
「じゃあ伏黒の横にする?」
虎杖が言う。
「何で俺に振る」
伏黒は本から目を上げない。
「無口同士でちょうどよくない?」
「お前は人間関係を会話量だけで決めるのか」
「じゃあ俺の横」
「虎杖の隣は授業中うるさそう」
釘崎が言う。
「授業中は静かだって!」
「寝てるからでしょ」
「寝てない!」
「昨日、五条の話の途中で目閉じてたじゃない」
「あれは集中してた」
「目を閉じる必要ある?」
三人の声が重なる。
モブは、空いている机へ鞄を置いた。
釘崎の隣だった。
「そこにするの?」
「もう名前が貼ってあります」
机の右上に、「影山」と書かれた紙が貼られている。
その横へ、小さく「モブ」と書き足されていた。
字は五条のものらしい。
「勝手にあだ名まで」
釘崎が紙を剥がそうとする。
「別にいいです」
「いいの?」
「みんな、そう呼ぶので」
「じゃあモブ」
「はい」
「私の机にはみ出さないで」
「はい」
「私物を勝手に置かない」
「はい」
「消しゴム落としたら拾って」
「それは自分で拾えよ」
伏黒が言う。
「近かったらでいいのよ」
「近くても自分で拾え」
「細かいわね」
虎杖がモブの机へ身を乗り出す。
「なあ、寮の部屋どこ?」
「僕の部屋の二つ隣」
「マジ? じゃあ夜、映画見ようぜ」
「映画?」
「テレビある?」
「ありません」
「俺の部屋にある」
「勉強は?」
伏黒が言う。
「夜ずっと勉強するわけじゃないだろ」
「お前の場合、ほとんどしないだろ」
「するって。たまに」
教室の扉が開いた。
「青春してるねえ」
五条が入ってくる。
四人の反応はそれぞれ違った。
虎杖は手を上げた。
釘崎は嫌そうな顔をした。
伏黒は本へ視線を戻した。
モブは立ち上がろうとした。
「座ってていいよ、影山君」
「はい」
「今日から君も一年生。改めて、よろしく」
「よろしくお願いします」
「今日は入学初日なので、親睦を深めるために軽く運動します」
釘崎が顔をしかめる。
「嫌な予感しかしない」
「大丈夫。戦闘は禁止って約束したから」
モブが五条を見る。
五条は両手を広げた。
「今日は人間同士の訓練。呪霊なし。術式なし。超能力なし」
「超能力なし?」
「そう」
五条は笑った。
「真希が、君を見たいって」
◇
訓練場には、二年生三人が待っていた。
禪院真希は長い棒状の呪具を肩へ担いでいる。
パンダは地面へ座り、手を振った。
狗巻棘は襟元で口を隠し、「しゃけ」と言った。
「影山です」
モブは頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「パンダだ。見れば分かると思うけど、パンダだ」
「はい」
「疑わないのか?」
「動いているので、普通のパンダではないと思います」
「そこはちゃんと疑ってるんだな」
パンダは楽しそうに笑った。
「狗巻。語彙はおにぎりの具が中心だけど、普通に話は通じる」
「こんぶ」
「今のはよろしく、だ」
「分かるんですか」
「雰囲気で」
「本当に?」
「今のは七割くらい」
「おかか」
「違うらしい」
狗巻が小さく肩をすくめる。
真希は会話へ加わらず、モブの身体を見ていた。
「お前が、超能力者か」
「はい」
「呪力はほとんどない」
「そう言われました」
「なのに呪霊を祓える」
「はい」
「それで、術式も呪具も使わずに入学」
真希の目が細くなる。
「ずいぶん特別扱いだな」
虎杖が口を開く。
「真希さん、モブは別に――」
「お前に聞いてない」
真希はモブから視線を逸らさない。
「強い力を持ってるんだろ」
「たぶん」
「たぶん?」
「自分で比べたことがないので」
「なら今から比べる」
真希が呪具を地面へ置いた。
「超能力なしで、私から一本取れ」
モブは真希を見る。
「取る?」
「組手だ。触れたら勝ちでいい」
「僕は、格闘技はできません」
「知ってる」
「では」
「できないなら負けろ」
言い方は厳しかった。
だが、真希はモブを怒らせようとしているわけではない。
試している。
何を試しているのかは、まだ分からなかった。
「超能力は使わなくていいんですか」
「使うな」
「負けると思います」
「始める前から言うな」
「事実なので」
真希の眉が寄る。
「お前、強いんだか弱いんだか分からないな」
「超能力は強いと思います。でも、僕は強くありません」
訓練場が静かになる。
真希の口元が少し歪んだ。
笑ったわけではない。
「そういう言い方、嫌いだ」
「すみません」
「謝るな。構えろ」
モブは、肉体改造部で習ったように足を開いた。
腰が高い。
拳も上がっていない。
真希が露骨にため息をつく。
「それで戦う気か」
「戦いたくはありません」
「じゃあ何でここに来た」
釘崎が小さく息を呑む。
以前、自分がしたのと同じ質問だと思ったのかもしれない。
「戦わない方法を覚えるためです」
「敵は待ってくれない」
「はい」
「人間の術師が相手なら、話を聞かない奴もいる」
「はい」
「それでも戦いたくない?」
「はい」
真希が踏み込んだ。
モブには、最初の一歩しか見えなかった。
次の瞬間、足を払われ、背中から地面へ落ちる。
息が詰まった。
「モブ!」
虎杖が一歩出る。
パンダが腕で止めた。
「まだだ」
真希は倒れたモブを見下ろす。
「今ので死んだぞ」
「訓練ですよね」
「実戦なら、だ」
「はい」
「立て」
モブは立ち上がった。
背中が痛い。
無意識に念動力を使えば、落ちる前に止まれた。
だが、使わないと決めていた。
真希が再び構える。
「私に触れれば終わりだ」
「はい」
「逃げてもいい」
「はい」
「考えろ」
今度は、真希が動く前にモブが下がった。
一歩。
二歩。
距離を取る。
真希は追わない。
モブが何をするか見ている。
周囲を見る。
訓練場は開けている。
障害物は少ない。
地面には、真希が置いた呪具。
モブのすぐ右には、丸い砂袋。
超能力は使えない。
真希へ触れればいい。
正面から行けば、倒される。
モブは砂袋の後ろへ回った。
「隠れた?」
釘崎が呟く。
「正解だ」
伏黒が言った。
真希が近づく。
モブは砂袋を挟むように移動する。
真希が右へ動けば左。
左へ動けば右。
追いかけっこのようになった。
「お前」
真希の声に苛立ちが混じる。
「それでいつ触るつもりだ」
「まだ分かりません」
「真面目にやれ!」
真希が砂袋を蹴った。
大きな袋が横倒しになる。
モブは避けようとして足をもつれさせた。
再び転ぶ。
真希が手を伸ばす。
モブは地面に手をつき、身体を転がした。
指先が真希の靴へ触れる。
二人の動きが止まった。
「触りました」
モブが言う。
真希は自分の靴と、地面に倒れたモブを見た。
パンダが手を叩く。
「はい、モブの勝ち」
「待て」
「触れたら勝ちって言ったの、真希だろ」
「転んだだけだ」
「転んだ後に避けて触った。偶然だけじゃない」
真希は不満そうに舌打ちした。
それでも、モブへ手を差し出す。
モブはその手を取って立ち上がった。
「何で最初から逃げた」
真希が尋ねる。
「正面から勝てないので」
「情けないと思わないのか」
「思います」
「思うのかよ」
「でも、負ける方法を選ぶよりはいいと思いました」
真希はモブの手を離した。
「お前、力を使えば私を簡単に倒せるんだろ」
「たぶん」
「また、たぶんか」
「人に向けて全力を使ったことは、ほとんどないので」
「持ってる力を使わないで負けるのは、逃げじゃないのか」
その言葉が、モブの胸へ入る。
自分でも何度も考えてきた。
超能力を使わず努力する。
それは成長したいからだった。
だが、力を使うことから逃げているだけではないかと思うこともあった。
「逃げるときもあります」
モブは答えた。
「怖いから使わないこともあります」
「じゃあ今は」
「今は、使わないと言われたからです」
真希が黙る。
「使っていいと言われても、使わなかったかもしれません」
「なぜ」
「真希さんを傷つける必要がないから」
訓練場の空気が変わった。
真希の目が鋭くなる。
「私が弱いから、手加減するって?」
「違います」
「じゃあ何だ」
「強い人でも、傷つけていい理由にはならないと思います」
真希の指が、わずかに握られる。
パンダが立ち上がりかけた。
狗巻も、モブと真希を見ている。
「お前はいいな」
真希が言った。
「使うか使わないか、自分で選べる力があって」
モブは返事をしなかった。
真希の言葉の奥にあるものを、まだ知らない。
呪力がないこと。
禪院家。
差別。
そのどれも、モブは教えられていない。
知る手段のないことを、分かったふりはできない。
「真希さんは」
モブは慎重に言った。
「使いたい力があるんですか」
真希の目が、一瞬だけ見開かれた。
「……ないものの話をしても仕方ない」
真希は地面の呪具を拾う。
「次は体力づくりだ。校外を十周」
「十周」
モブの顔色が変わった。
「嫌なら超能力で飛んでもいいぞ」
「走ります」
返事だけは早かった。
真希の口元が、わずかに上がる。
「そうか。じゃあ走れ」
「今からですか」
「今からだ」
モブが訓練場の外周へ向かう。
虎杖が隣へ並んだ。
「俺も走るよ」
「虎杖は別メニューだ」
真希が言う。
「じゃあ別メニュー終わってから追いつく」
「十周、かなりありますよ」
「平気平気」
釘崎が呆れた声を出す。
「あんた、そういうところだけ暑苦しいわね」
「釘崎も走る?」
「走らない」
「即答」
伏黒は何も言わず、モブへ水筒を投げた。
モブは受け取り損ねかけ、胸で抱えた。
「途中で飲め」
「ありがとう」
「倒れられると面倒だからな」
「はい」
モブは走り出した。
最初の一周で息が切れた。
二周目で足が重くなった。
三周目には、虎杖が別メニューを終えて追いついた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
「正直だな!」
「でも、走ります」
「よし!」
何がよしなのか、モブには分からなかった。
それでも虎杖は隣を走った。
速さを合わせている。
訓練場の端では、釘崎が真希へ何かを質問し、伏黒は玉犬の手入れをしている。パンダはエクボへ話しかけ、狗巻は水筒を振っていた。
ここが安全な場所になるとは思えない。
全員と分かり合えるとも思わない。
真希がなぜ怒ったのかも、まだ分からない。
だが、分からないことを、すぐに答えへ変える必要はない。
走りながら知っていけばいい。
影山茂夫の高専生活は、その日、ようやく始まった。
そして同じ頃。
高専から遠く離れた地下室で、一枚の呪符が黒く焦げた。
薄暗い部屋の中央に座る男が、灰になった紙を指先で崩す。
「接触したか」
額に縫い目のある男は、穏やかな声で言った。
向かい側では、人の形をした呪霊が、子供のように頬杖をついている。
「どんな感じだった?」
「記録はほとんど残っていない。呪力として読み取れない力だからね」
「じゃあ失敗?」
「いいや」
男は指についた灰を眺める。
「読み取れないという結果が得られた」
人型の呪霊――真人は、楽しそうに笑った。
「魂は?」
「まだ分からない」
「人間なんでしょ?」
「そのはずだ」
「なのに、呪力じゃない力を使う」
真人は自分の手のひらを見た。
指の形を変え、元へ戻す。
「触ったら、どんな形をしてるんだろう」
「急ぐ必要はない」
男は言った。
「五条悟の近くにいる。まずは観察する」
「壊しちゃ駄目?」
「今はね」
真人は不満そうに口を尖らせた。
だが、その目は笑っている。
「感情を我慢する子なんだって?」
「報告では、そうだ」
「じゃあ、いつか溢れるね」
地下室の奥で、何かが湿った音を立てた。
真人はその音を聞きながら、まだ会ったことのない少年を想像した。
静かで、強くて、壊れることを恐れている少年。
その恐怖がどんな形をしているのか。
触れたとき、魂がどう歪むのか。
「会うのが楽しみだな」
真人の声は、無邪気だった。
だからこそ、その言葉には一片のためらいもなかった。