入学二日目の朝、影山茂夫は目覚まし時計が鳴るより先に目を覚ました。
理由は、緊張ではない。
筋肉痛だった。
上半身を起こそうとすると、背中から太腿までが一斉に痛んだ。昨日、禪院真希に二度投げられたことと、訓練場の外周を十周したことが原因だった。
「……痛い」
『年寄りみてえな起き方だな』
窓際に浮かんでいたエクボが言った。
「エクボは筋肉痛にならないの?」
『悪霊に筋肉はねえ』
「便利だね」
『羨ましいか?』
「羨ましくはない」
『即答すんな』
モブは時間をかけてベッドから降りた。
超能力で身体を浮かせれば、痛みを感じずに移動できる。
そう考えたが、やめた。
洗面所まで歩く。
一歩ごとに脚が重い。
『誰も見てねえんだから、浮けばいいだろ』
「筋肉痛は、筋肉を使った証拠だから」
『苦痛をありがたがるようになったら末期だぞ』
「肉体改造部の人たちは、筋肉痛のときに無理をしない方がいいと言ってた」
『じゃあ休め』
「授業がある」
『面倒な生き方してんな、お前』
部屋を出ると、廊下の向こうから虎杖悠仁が歩いてきた。
髪は寝癖で片側だけ跳ねている。片手に歯ブラシを持ち、もう片方の手で首を回していた。
「おはよう、モブ」
「おはよう」
虎杖は数歩進んだところで止まり、モブの歩き方を見た。
「筋肉痛?」
「うん」
「俺も最初、真希先輩の訓練の次の日は大変だった」
「虎杖君も?」
「いや、俺は筋肉痛にはならなかったけど」
「そうなんだ」
「でも精神的に大変だった」
モブは少し考えた。
「今、僕を励まそうとした?」
「うん」
「失敗してると思う」
「やっぱり?」
虎杖は笑った。
「朝飯行こうぜ。伏黒はもう食ってる。釘崎は起きてない」
「起こさなくていいの?」
「昨日、起こしたら枕飛んできた」
「手で?」
「金槌で」
「危ないね」
「枕の方だよ」
説明が足りない気がしたが、虎杖は食堂へ歩き始めた。
モブもついていく。
階段を下りるたび、太腿が痛んだ。
虎杖は途中からモブの速度へ合わせた。
何も言わず、先にも行かなかった。
そのことへ礼を言うべきか迷っているうちに、食堂へ着いた。
◇
食堂には伏黒恵が一人で座っていた。
焼き魚、味噌汁、白米。
食事の配置が整っている。
虎杖はその隣へ座り、モブは正面へ腰を下ろした。
「遅い」
伏黒が言った。
「まだ七時半だぞ」
「八時から授業だ」
「教室まで五分じゃん」
「釘崎は」
「寝てる」
伏黒の眉間にしわが寄る。
「起こせ」
「昨日の枕事件が」
「何だ、枕事件って」
食堂の扉が勢いよく開いた。
釘崎野薔薇が入ってくる。
髪は整っている。
制服にも乱れはない。
ただし、表情が非常に険しい。
「誰が寝てるって?」
虎杖はすぐに伏黒を指差した。
「こいつ」
「お前だろ」
伏黒が言う。
釘崎は二人を睨んだ後、モブを見る。
「何よ、その歩き方」
「筋肉痛です」
「昨日の十周で?」
「はい」
「貧弱ね」
「釘崎さんは走ってませんでした」
「私は別の訓練してたのよ」
「そうなんだ」
「疑ってない?」
「疑ってないです」
釘崎は少し調子を崩したように口を閉じた。
モブの隣へ座る。
「あと、さん付けやめて」
「どうして?」
「同級生だから」
「分かりました。釘崎」
「急に距離詰めてくるわね」
「どう呼べば」
「釘崎でいいって言ったでしょ」
「分かった」
「返事が固いのよ」
虎杖が笑う。
「モブ、釘崎との会話難しいだろ」
「あんたが単純すぎるだけよ」
「伏黒は?」
「陰気」
「モブは?」
虎杖が尋ねた。
釘崎はモブを見た。
モブも見返した。
「……未知数」
「能力評価みたいだね」
「まだ二日目で決められるわけないでしょ」
釘崎は味噌汁を取った。
「こいつ、何言っても否定しないから、逆に何考えてるか分かんないし」
「否定したいときは、否定します」
「例えば?」
「昨日、真希さんを傷つける必要はないと言いました」
「それで真希さんを怒らせてたわね」
「怒ってた?」
三人が同時にモブを見た。
「気づいてなかったのか」
伏黒が言う。
「少し怒っているとは思ったけど、理由が分からなかった」
「分からないなら聞けば?」
釘崎が言う。
「聞いていいことか分からない」
「じゃあ、聞いていいか聞けばいいでしょ」
モブは箸を止めた。
「それでいいの?」
「知らないわよ。でも黙って勝手に考えるよりましじゃない」
釘崎は魚の骨を器用に外した。
「相手が言いたくなければ言わない。それだけでしょ」
簡単に言う。
だが、モブには簡単ではなかった。
聞けば相手を傷つけるかもしれない。
踏み込めば嫌われるかもしれない。
しかし、黙っていれば誤解したままになることもある。
「考えてみます」
「今考えなさいよ」
「朝ご飯を食べてから」
「妙なところで自分のペースを守るわね」
食堂の外から、五条悟の声がした。
「一年生の皆さーん。朝のホームルーム始めるよー」
伏黒が時計を見る。
「まだ七時四十分だぞ」
「先生、今日は早起きしたから」
「俺たちの予定を変える理由になってない」
五条が扉から顔を出す。
「影山君、今日は任務です」
食堂が静かになった。
モブは箸を置く。
「今日?」
「午後からね。午前は座学」
霊幻から渡されたファイルの内容が頭に浮かぶ。
同行者。
対象の等級。
現場構造。
一般人の有無。
「誰と行きますか」
「野薔薇」
釘崎が味噌汁を飲みかけたまま止まる。
「聞いてないんだけど」
「今言った」
「予定は事前に伝えなさいよ」
「サプライズ感がなくなるでしょ」
「任務にサプライズ求めてないわよ」
「補助監督は伊地知。僕も現場近くまでは行く」
「近くまで?」
モブが尋ねる。
「別件があるから、現場には入らない予定」
「敵の等級は」
「推定三級。場所は取り壊し予定の集合住宅。住民は退去済み」
「予定?」
霊幻なら、そこを聞く。
モブは思った。
「全員が退去したと確認されていますか」
五条の口元が少し上がる。
「管理会社の記録ではね。伊地知が現場でも確認する」
「呪霊の術式は」
「確認されてない。夜になると、建物の外から子供の泣き声が聞こえる。侵入した作業員が方向感覚を失い、同じ階段を何度も上った」
「結界は?」
「帳を下ろす。建物内部の閉鎖空間だから、影山君の力との干渉も確認する」
モブは少し黙った。
「検証も任務に入っていますか」
「入ってる」
「先に言ってください」
「今言ったよ」
「五条先生」
モブは五条を見る。
「師匠が、分からないことを分かっているように言わないでと言っていました」
「今回は隠してないじゃん」
「聞かなかったら、言わなかった?」
五条が止まる。
虎杖が視線を伏せ、笑いを堪えている。
釘崎は隠そうともせず笑った。
「言い返されてるじゃない」
「影山君、二日目にして成長が早いね」
「答えてください」
「……現場へ行く前には説明するつもりでした」
「今のは信用していい?」
「五割くらい」
伏黒が言う。
「恵、担任への信頼が低すぎない?」
「普段の行動の結果です」
五条は肩を落とした。
「とにかく、午後一時出発。影山君は動きやすい服装。野薔薇は金槌を忘れないように」
「歯ブラシみたいに言わないで」
◇
午前の座学で、五条は黒板に二つの円を描いた。
一方には「人間」。
もう一方には「呪霊」。
円の間へ矢印を書き、その上へ「負の感情」と記す。
「基本のおさらい。人間から漏れ出した呪力が積み重なり、呪霊になる」
五条は説明する。
「場所への恐怖、病気への不安、災害の記憶。多くの人間が似た負の感情を抱けば、それだけ強い呪いが生まれやすい」
モブはノートへ書き写した。
虎杖は真剣に聞いている。
釘崎は頬杖をついているが、視線は黒板から動かない。
伏黒はすでに知っている内容らしく、時々モブのノートを見ていた。
「質問があります」
モブが手を上げる。
「どうぞ」
「人間が死んだ後、その人が霊になることはありますか」
五条はチョークを止めた。
「ある」
「呪霊になるんですか」
「呪術師が呪力で殺されずに死んだ場合、死後に呪いへ転じる可能性がある。一般人でも、強い執着や呪いを残せば、似た状態になることはある」
「死んだ人が、そのまま残ることは?」
「そのまま、の意味によるね」
「生きていたときの記憶や性格を持ったままです」
エクボが教室の後ろで腕を組む。
五条はエクボへ顔を向けた。
「彼みたいに?」
「はい」
「僕らの分類だと、かなり特殊な呪霊として扱うことになる」
『だから違うって言ってんだろ』
「違うと証明する材料がまだない」
『死んだ人間の霊だっつってんだ』
「人間の魂が、死後も自我を保って残る。それ自体は呪術の理論でも否定しない。ただ、その状態を維持するには何らかの力が必要になる」
「エクボには呪力がありますか」
「ある。でも、全部が呪力でできているようには見えない」
五条はチョークを机へ置く。
「輪郭の中心に、呪力とは別のものがある。影山君の力と少し似てる」
『おい、モブ。俺様を実験材料にする気だぞ』
「エクボが嫌なら、調べなくていいです」
「即答だね」
五条が言う。
「本人の同意が必要だからです」
「そこまで霊を本人扱いする術師は少ないかも」
釘崎がエクボを見る。
「でも喋るし、嫌がってるなら勝手に触るのは違うんじゃない」
『小娘、少しは分かるじゃねえか』
「小娘って言うな。祓うわよ」
『前言撤回だ!』
伏黒がモブへ尋ねる。
「お前は、死者の霊と呪霊を見分けられるのか」
「たぶん」
「何が違う」
「悪霊には、その人の感情があります」
「呪霊にも感情はあるだろ」
「少し違います」
モブは言葉を探した。
「悪霊は、怒っていても、誰が怒っているか分かります。呪霊は、人の怒りでできていても、怒った人本人ではない」
五条が黒板の二つの円の間へ、もう一つ小さな円を描いた。
「今日の任務で確かめられるかもしれないね」
「どういうことですか」
「子供の泣き声が、呪霊の能力なのか、それとも別の何かなのか」
「別の何かがいる可能性を、先に説明していなかったわね」
釘崎が睨む。
「可能性の一つだから」
「そういうのを事前情報って言うのよ」
五条はチョークを置いた。
「君たち、霊幻さんの影響受けすぎじゃない?」
◇
午後一時。
伊地知潔高の運転する車は、東京都内の古い住宅地へ入った。
後部座席にはモブと釘崎が座っている。
助手席の五条は、途中まで菓子を食べていたが、別件の連絡が入ると急に静かになった。
「現場の建物は五階建てです」
伊地知が信号待ちの間に説明する。
「築四十七年。三か月前に全住民が退去し、来週から解体工事が始まる予定でした」
「過去の事故は?」
モブが尋ねる。
「十七年前、四階から女児が転落して亡くなっています」
「女児?」
釘崎が反応する。
「泣き声と関係あるの」
「当時は事故として処理されています。五歳の住民が、共用廊下の手すりを越えたと」
「五歳が一人で?」
「保護者は室内にいたそうです」
「それだけ?」
「警察記録上は」
釘崎は窓の外へ目を向けた。
「嫌な話」
モブは、霊幻のファイルを膝の上で開く。
「退去後に入った人は何人ですか」
「管理会社の作業員が三名。そのうち二名が建物内部で迷い、一名が階段から転落して足首を負傷しました」
「呪霊を見た人は?」
「いません。ただ、三名全員が子供の泣き声を聞いています」
「建物の鍵は管理会社だけが?」
「正面入口は。しかし一階の窓が一部割れているため、外部から侵入できる状態です」
「住民はいないと言ってたけど」
釘崎が五条の座席を蹴る。
「不法侵入者がいる可能性はあるってこと?」
「ある」
五条が答えた。
「最初から言いなさいよ」
「現場確認で伊地知が調べる予定だった」
「予定に頼りすぎ」
五条は振り返り、モブを見る。
「影山君は何も言わないの?」
「今、釘崎が言ったので」
「役割分担ができてるね」
車が停まる。
窓の外に、灰色の集合住宅が見えた。
壁面の塗装は剥がれ、窓の多くには板が打ちつけられている。
建物の周囲には黄色い規制線が張られていた。
五条が車を降りる。
「僕はここで離れる。伊地知、帳を」
「承知しました」
「何かあれば連絡して。僕が戻るまで十五分くらい」
「十五分で戻れるんですか」
モブが尋ねる。
「戻る必要があればね」
「戻る必要があるかは、誰が決めるの?」
五条が一瞬黙る。
釘崎がモブを見る。
「結構言うようになったわね」
「師匠に、曖昧なときは確認するよう言われた」
「霊幻さん、教師向きなんじゃない?」
「本人に言うと喜ぶと思います」
五条は苦笑した。
「伊地知が一度でも撤退を判断したら、二人とも従う。連絡が途絶えた場合は、五分で僕が戻る」
「分かりました」
「野薔薇」
「分かってるわよ。モブを一人にしない」
「逆もね」
釘崎の眉が動く。
「私が守られる前提?」
「二人で帰ってこいって意味」
五条は片手を上げ、道路の角を曲がって消えた。
◇
帳が下りると、空の色がわずかに暗くなった。
外の車の音が遠のく。
建物だけが、周囲から切り離されたように静かになる。
モブは頭上を見た。
高専の結界より単純だった。
空間を閉じ、外から見えにくくする膜。
モブの力へ反応はしているが、解析しようとはしていない。
「どうですか」
伊地知が尋ねる。
「入っても大丈夫だと思います」
「帳の構造が分かるんですか」
「全部ではありません。僕に触っても、何も探してこないので」
「探す?」
「高専の結界は、僕の力が何か調べようとしていました」
伊地知は額の汗を拭った。
「帳には、そこまで高度な識別機能はありません」
「では、僕が力を使っても壊れませんか」
「おそらくは」
「おそらく」
モブが繰り返す。
「断言はできません」
「分かりました」
伊地知が少し驚いた顔をする。
「責めないんですね」
「分からないと説明してくれたので」
釘崎が金槌を肩へ担ぐ。
「入るわよ。ここで話してても呪霊は出てこない」
正面入口の鎖を外し、三人は建物へ入った。
内部は暗かった。
郵便受けには古いチラシが残り、床には割れたガラスと砂埃が積もっている。
正面に階段。
左側に管理人室。
右側に廊下。
「伊地知さんは外で待つんじゃないんですか」
モブが尋ねる。
「本来はそうします。しかし今回は一般人が侵入していないか、一階部分まで確認します」
伊地知は懐中電灯を向けた。
管理人室の扉が少し開いている。
床の埃には、新しい靴跡があった。
「誰か入ってる」
釘崎がしゃがみ込む。
「一人じゃない。二人か三人」
足跡は廊下の奥へ続いている。
「退去済みじゃなかったの」
「不法侵入者です」
伊地知の顔が険しくなる。
「任務を中止し、捜索を優先します」
「呪霊は」
「一般人の避難後です」
霊幻が言っていたことと同じだった。
倒すより先に、人を外へ出す。
「二手に分かれる?」
釘崎が言う。
「分かれません」
伊地知が即答する。
「全員で足跡を追います」
「効率悪いわね」
「安全を優先します」
釘崎は不満そうだったが、従った。
廊下を進む。
足跡は一階の奥で途切れていた。
行き止まりには、壊れたエレベーターと非常階段がある。
エレベーターの扉には「使用禁止」の紙が貼られていた。
「上へ行った?」
釘崎が階段を見る。
その瞬間、上階から音が聞こえた。
子供の泣き声。
小さく、途切れ途切れに響いてくる。
「聞こえますか」
モブが尋ねる。
「聞こえるわよ」
釘崎は金槌を握り直す。
「呪力も上から感じる」
「僕は、二つ感じます」
「二つ?」
「呪霊と、別のもの」
泣き声が止まった。
代わりに、階段の上から走る足音がした。
軽い足音。
子供のもの。
四階付近から始まり、三階、二階と下りてくる。
だが、姿は見えない。
「来る」
釘崎が身構える。
足音が一階へ到達した。
モブには、少女が見えた。
古い黄色の服。
裸足。
顔を両手で覆い、泣きながら階段を駆け下りてくる。
身体は半透明だった。
呪霊ではない。
エクボと同じ種類でもない。
もっと弱く、今にも消えそうな人間の霊。
少女はモブたちの前で止まり、指を差した。
エレベーター。
「そこに誰かいるの?」
モブが尋ねる。
少女は何も言わない。
泣きながら、何度も扉を指す。
「誰と話してるの」
釘崎が言った。
「女の子がいます」
「見えない」
「黄色い服を着ています」
釘崎の顔が険しくなる。
「呪霊?」
「違うと思う」
「根拠は」
「この子自身は、人を傷つけようとしていません」
「見た目だけで決めないで」
「見た目ではなく」
エレベーターの中から、鈍い音がした。
人間のうめき声。
「中にいる!」
釘崎が扉へ近づく。
伊地知が止める。
「待ってください。昇降路へ落ちる危険があります」
モブは扉の向こうへ意識を伸ばした。
金属。
切れたワイヤー。
一階より少し下の位置で停止している箱。
その中に三人。
二人は意識がある。
一人は倒れている。
「三人います」
「分かるの?」
「はい。エレベーターが下へずれています」
「開けられる?」
釘崎が言う。
「できます。でも、持ち上げながら開けないと落ちるかもしれません」
伊地知が携帯電話を出す。
「消防を呼びます」
「帳は」
「一時解除します」
その瞬間、上階から強い呪力が落ちてきた。
建物全体が揺れる。
階段の壁が膨らみ、黒い腕が伸びた。
「下がって!」
釘崎がモブを押す。
腕が二人の間を薙ぐ。
伊地知が壁へ叩きつけられた。
「伊地知さん!」
モブが身体を受け止める。
頭は打っていない。
だが、右腕が不自然な角度に曲がっている。
「折れています」
「構いません」
伊地知は顔をしかめながら言う。
「一般人を先に」
階段の天井から、呪霊が姿を現した。
大きな女の顔。
首から下は、何本もの手すりと階段が絡み合った形をしている。
腕の代わりに、細い子供の脚が何十本も生えていた。
「趣味悪すぎ」
釘崎が釘を三本投げる。
呪霊は壁の中へ沈んだ。
釘がコンクリートへ刺さる。
「建物と一体化してる!」
「釘崎」
「何!」
「僕が一般人を出します。呪霊を近づけないでください」
「一人でできる?」
「助けてもらえれば」
釘崎は一瞬だけモブを見た。
「分かった」
迷いは短かった。
「三分。無理ならすぐ言いなさい」
「はい」
「伊地知さん、帳を解いて消防へ連絡!」
「承知しました」
伊地知が左手で携帯電話を操作する。
モブはエレベーターの扉へ向き直った。
箱全体を念動力で包む。
重い。
ただ重量があるだけではない。
昇降路の壁に、呪霊の力が絡みついている。
箱を下へ引きずり込もうとしている。
直接呪霊を攻撃せず、箱だけを上げる。
力の境界を細くする。
エレベーターが軋んだ。
「動いています!」
中から男の声がする。
「今、助けます」
モブは答えた。
少女の霊が隣で泣いている。
モブの袖をつかもうとするが、指はすり抜ける。
「中の人を助けたかったの?」
少女は頷く。
呪霊が再び壁から現れる。
釘崎が前へ出た。
「こっち見なさいよ、化け物!」
金槌が釘を打つ。
「簪!」
壁が爆ぜる。
呪霊の顔の半分が吹き飛ぶ。
しかし、破裂した内部から子供の泣き声がいくつも重なった。
釘崎の動きが止まる。
声の中に、人間の言葉が混じる。
お母さん。
怖い。
落ちる。
助けて。
「釘崎!」
モブが叫ぶ。
床から子供の脚が伸び、釘崎の足首をつかんだ。
身体が引き倒される。
呪霊の顔が口を開き、壁を滑るように近づく。
モブはエレベーターを支えたまま、釘崎の身体へ力を伸ばした。
引く。
しかし、呪霊の脚も離れない。
二つの対象。
エレベーター。
釘崎。
さらに、倒れた伊地知。
一人で全部を支えようとしている。
胸の奥に、あの感覚が生まれる。
間に合わない。
選ばなければならない。
影山茂夫――焦燥、十九パーセント。
「モブ!」
釘崎が叫ぶ。
「こっちは見るな!」
「でも」
「私は自分でやる!」
釘崎は倒れたまま、呪霊の脚へ釘を突き刺した。
「芻霊呪法!」
釘を通して、呪力が内部へ流れ込む。
呪霊の全身が痙攣した。
脚の力が緩む。
釘崎は自分で足を引き抜いた。
「一般人に集中しなさい!」
モブは歯を食いしばった。
自分で全部を支えなくていい。
釘崎は、自分で戦える。
「分かった!」
エレベーターへ力を戻す。
箱が一階の高さまで上がる。
扉を左右へ開く。
内部には若い男が二人と、十代後半ほどの少年が一人倒れていた。
「動ける人は、倒れている人を運んでください」
「お、お前、何を――」
「説明は後です」
箱が再び下へ引かれる。
モブは支え続ける。
二人の男が少年の肩を担ぎ、外へ出る。
最後の一人の足が廊下へ着いた瞬間、モブは箱から力を離した。
エレベーターが昇降路の下へ落ちる。
金属が潰れる轟音。
少女の霊が、目を閉じた。
泣き声が止まる。
「外へ」
モブは男たちへ言う。
伊地知が立ち上がろうとする。
「私が誘導します」
「腕が」
「脚は動きます」
モブは伊地知の右腕を見た。
骨が折れている。
治すことはできない。
だが、揺れないよう固定することはできる。
床に落ちた板材を細く割り、腕の両側へ添える。布を念動力で巻きつけ、簡易的な副木を作った。
「痛みはなくせません」
「十分です」
「これは治療ではありません。動かないようにしただけです」
「分かっています」
伊地知は左手で三人を誘導し、入口へ向かった。
帳はすでに解除されている。
外から救急車のサイレンが近づいてくる。
「モブ!」
釘崎の声。
呪霊が階段全体を崩しながら、一階へ下りてきた。
少女の霊を取り込もうと、何本もの脚を伸ばしている。
モブは少女の前へ立った。
「この子が見えるの?」
釘崎が息を切らしながら尋ねる。
「うん」
「呪霊は、この子を使って泣き声を出してる?」
「違う」
モブは呪霊を見る。
「この子が落ちたことを、みんなが怖がった。その怖い気持ちから、あれが生まれた」
「じゃあ、この子自身は」
「呪霊じゃない」
少女は、呪霊を見上げて震えていた。
十七年間、自分の死から生まれたものに追われていたのかもしれない。
助けを求めても、生きている人間には見えない。
泣き声だけが呪霊に利用され、さらに人を呼び込んだ。
呪霊が口を開く。
少女の声を真似る。
たすけて。
モブの中に、静かな嫌悪が生まれた。
人の悲しみを使う。
本人の願いとは関係なく、苦しんだ記憶だけを繰り返す。
地下通路の呪霊とも違う。
あれには中心がなかった。
これは、一人の死を核にしながら、その一人を無視している。
「釘崎」
「何」
「この子を外へ連れていけますか」
「見えないものをどうやって」
「僕が動かします」
「呪霊は?」
「僕が止めます」
「一人で祓う気?」
「止めるだけです」
釘崎がモブを見る。
「本当に?」
「釘崎が祓ってください」
一秒の間。
釘崎は笑った。
「最初からそう言いなさい」
モブは少女の身体を、薄い念動力で包んだ。
霊体へ触れる。
軽い。
エクボより、はるかに弱い。
少し強く動かせば、形が崩れてしまいそうだった。
少女を釘崎の後ろへ移動させる。
「そこにいる?」
「はい」
「なら絶対、離さないで」
「はい」
呪霊が突進する。
モブは正面へ障壁を作った。
衝突。
床と壁が揺れる。
呪霊の身体は建物とつながっている。
押し返せば、集合住宅全体へ力が伝わる。
崩壊させない。
止めるだけ。
「釘崎、どこを狙えばいい?」
以前は、伏黒から聞いた。
今度は自分から尋ねる。
「核を引きずり出したい。障壁を一瞬だけ緩めて、こいつを前に出して」
「どのくらい?」
「頭一つ分」
「分かりました」
「合図で!」
釘崎が釘を四本、床へ打ち込む。
呪霊の進路を囲む位置。
金槌を握り直す。
「今!」
モブは障壁の中央だけを緩めた。
呪霊の巨大な顔が、勢いのまま前へ突き出る。
釘崎が真正面へ踏み込んだ。
口の中へ、一本の釘を投げる。
金槌が振り抜かれた。
「簪!」
呪霊の内部が爆発した。
顔が裂ける。
階段と手すりが絡み合った身体の奥から、黒い塊が飛び出した。
子供の頭ほどの大きさ。
無数の口が泣いている。
「それです」
「逃がさない!」
釘崎が最後の釘を投げる。
黒い塊へ突き刺さる。
金槌が振り下ろされた。
破裂音。
呪霊の核が砕けた。
建物を覆っていた気配が、一気に薄くなる。
壁から伸びていた脚が崩れ、黒い泥となって床へ落ちた。
やがて、すべて消えた。
釘崎は肩で息をしながら、周囲を見る。
「祓った?」
「うん」
「女の子は?」
モブは振り返った。
少女は階段の前に立っている。
もう泣いていなかった。
五歳の顔で、静かに上を見ている。
「まだいます」
「何してるの」
「分かりません」
少女が階段を上り始めた。
モブは後を追う。
「ちょっと、どこ行くのよ」
「四階だと思う」
「一人で行かない!」
釘崎もついてくる。
階段はところどころ壊れていた。
モブが板材を浮かせ、足場を作る。
四階の共用廊下。
少女は、低い手すりの前で止まった。
そこが落ちた場所なのだろう。
廊下の隅に、小さな落書きが残っている。
黄色い花。
少女はそれを見た。
そして、モブへ顔を向ける。
「何て言ってるの」
釘崎が小声で尋ねる。
「何も」
「じゃあ、何を待ってるの」
「分からない」
モブは少女の隣へ立つ。
「帰りたいの?」
反応はない。
「お母さんに会いたい?」
少女の顔が少し歪む。
モブは、言い方を間違えたと気づいた。
死んでから十七年。
母親がどこにいるのか分からない。
生きているのかも分からない。
会えると約束はできない。
「ごめん」
モブは言った。
「僕には、どこへ行けばいいか分かりません」
釘崎は何も言わない。
「でも、もうあれはいません」
少女がモブを見る。
「怖いものは、いなくなりました」
それでも動かない。
モブは迷った。
成仏させる方法。
霊幻なら、塩やお祓いを使うかもしれない。
エクボなら、さっさと消せと言うかもしれない。
だが、少女が何を望んでいるかは分からない。
「ここにいたいなら、いてもいいと思います」
釘崎がモブを見る。
「ただ、泣き続けなくてもいいです」
少女の輪郭が揺れた。
消えるのかと思った。
だが少女は、手すりから離れ、廊下の奥へ歩き出した。
かつて自分の部屋があった場所。
扉は外され、室内には何も残っていない。
少女は空の部屋へ入り、振り返る。
少しだけ笑った。
次の瞬間、春の日差しに溶けるように消えた。
「……いなくなった?」
釘崎が尋ねる。
「うん」
「成仏したの」
「分からない」
「分からないこと多すぎない?」
「ごめん」
「謝れって意味じゃない」
釘崎は手すりへ近づき、下を見た。
すぐに顔をしかめて離れる。
「高いわね」
「うん」
「事故だったと思う?」
「分からない」
「それも?」
「本人が話さなかったから」
釘崎は空になった部屋を見る。
「話したくなかったのかもね」
「うん」
「だったら、それでいいんじゃない」
釘崎は金槌を腰へ戻した。
「死んだ後まで、知らない奴に全部説明する義務ないでしょ」
モブは少女が消えた場所を見た。
「釘崎は、見えなくても信じるの?」
「全部は信じない」
釘崎は即答した。
「でも、あんたが見えてるふりして得することもないでしょ」
「変な人だと思われるかもしれない」
「もう思ってる」
「そう」
「そこで落ち込まないのね」
「事実なら仕方ないから」
「何でも受け入れすぎなのよ」
釘崎は階段へ向かう。
「あと、さっきは助かった」
「僕も助けてもらった」
「私が先に言ったんだから、今は黙って受け取りなさい」
「分かった」
「それでいいのよ」
階段を下りる途中、モブは右手を見た。
呪霊には直接触れられた。
悪霊にも触れられる。
だが、同じようには感じなかった。
呪霊は、多くの人間の感情から生まれた別の存在。
少女は、一人の人間が残したもの。
エクボは、そのどちらとも少し違う。
見えるものが増えるほど、分類は簡単になると思っていた。
実際には逆だった。
名前をつけても、相手が何者か分かったことにはならない。
◇
建物の外では、伊地知が救急隊員の処置を受けていた。
不法侵入していた三人は、病院へ搬送される。
全員、命に別状はない。
釘崎は手の甲に擦り傷。
モブは筋肉痛以外に怪我なし。
五条が戻ったのは、すべてが終わった後だった。
「お疲れさま」
「遅い」
釘崎が言う。
「十五分以内だよ」
「終わった後なら一時間でも同じよ」
五条は救急車と、腕を固定された伊地知を見る。
「状況は聞いた。撤退判断の前に襲撃されたんだね」
「申し訳ありません」
伊地知が言う。
「謝るのはあなたじゃないでしょ」
釘崎が遮る。
「一般人がいたって情報、管理会社は把握してなかった。呪霊の等級も、建物と一体化してたことも間違ってた」
「等級については、二級相当へ修正する」
五条が言う。
「結果じゃなくて、何で外したのか調べなさいよ」
「調べるよ」
「また言うだけ?」
五条の笑みが少し薄くなる。
「報告書を君たちにも見せる」
釘崎はそれ以上言わなかった。
五条がモブを見る。
「初任務、どうだった?」
「怖かったです」
「辞めたい?」
「今は思っていません」
「そう」
「でも」
モブは五条を見る。
「子供の霊がいました」
「伊地知から聞いた。野薔薇には見えなかったらしいね」
「はい」
「呪力反応は?」
「ほとんどありませんでした」
「君の力で触れた?」
「少しだけ」
五条は考えるように顎へ手を当てる。
「死者の魂が、呪力以外の形で残留していた可能性がある」
「可能性」
「断言はできない」
モブは頷いた。
「それでいいです」
「何が?」
「分からないと言ってくれたので」
五条は一瞬、黙った。
「影山君」
「はい」
「霊幻さんに毎晩、僕の悪口を教わってる?」
「悪口ではありません」
「じゃあ何」
「社会人としての注意です」
釘崎が吹き出した。
五条は傷ついたように胸を押さえたが、誰も気にしなかった。
救急車が走り去る。
帳の消えた空は明るかった。
モブは取り壊し予定の建物を見上げる。
四階の窓辺に、もう少女はいない。
それでも、誰かがそこにいたことは消えない。
呪霊を祓えば終わる事件ばかりではない。
助けられたのか分からない相手もいる。
分からないまま、帰らなければならないこともある。
影山茂夫――戸惑い、十一パーセント。