乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してだけでなく私のせいで古生物を解き放ってしまった…。〜責任をとってプレヒストリック・パークを開きます〜   作:龍座

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無知は罪だ

泥だらけになったカタリナが母ミリディアナの雷を落とされ、たっぷりとお説教を受けたあの騒がしい日から数日が経過した。

 

あの日、マリアとその母、そしてジオルドやアランたちは「また明日ね!」と笑顔で言葉を交わし、それぞれの家路についた。

 

命の恩人であるマリアとは、あの劇的な一日を経てすっかり打ち解け、その後も頻繁にお茶会を開いたり、手紙のやり取りをしたりと、カタリナが目標としていた『ゲームのヒロインとの良好な関係』は極めて順調に続いている。

 

そしてあの一日の夜、クラエス家では当主ルイジ、妻ミリディアナ、カタリナ、キースの家族四人が集まり、新たに保護された三匹の始祖鳥の展示方針についての重要な家族会議が開かれていた。

 

カタリナの頭の中には、前世の記憶から引き出された様々な最先端の展示方法が渦巻いていた。しかし、プレヒストリック・パークにはこれから先も、未知の時代からやってくるかもしれない古代生物たちを保護していく使命がある。限りある資金は計画的に使わなければならないし、将来的なパークの拡張や配置換えを考慮すれば、大掛かりで動かせない施設を作るのは得策ではなかった。

 

話し合いの結果、今後の資金節約と施設そのものの移動のしやすさを踏まえ、始祖鳥の展示はケージの外から観客が観察するベーシックな『外観型展示』をベースとすることが決定した。

ただの鳥籠にはせず、そこに生き物が本来暮らしていた自然環境を再現する『生態的展示(生息環境展示)』と、生き物の自然な能力や習性を引き出す『行動展示』の理念を組み込み、退屈させないためのエンリッチメントを豊富に取り入れるという、カタリナの強いこだわりが反映された折衷案に落ち着いたのである。

 

それから、現在。

 

カタリナとキースの二人は、プレヒストリック・パークの一角に真新しく完成した始祖鳥用の特製展示ケージの前に立ち、中へ放された三匹の経過観察を行っていた。

 

カタ「しかし、こんなにあっさりと出来上がるものなのね……」

 

カタリナは、目の前にそびえ立つ立派なケージを見上げながら、信じられないといった様子で目を瞬かせた。

 

キー「皆、魔法で色々と工夫してるおかげだよ」

 

隣に立つキースが少し誇らしげに微笑みながら答える。ソルシエ王国が誇る魔法技術は建築の分野においても絶大な威力を発揮する。土の魔法で基礎を固め、風や水の魔法で資材を迅速に加工・運搬することで、人力だけでは考えられない速度で作業が進むのだ。

 

カタ「だからって依頼してからたった2日よ! 流石に早すぎるわよ!」

 

カタリナが思わず大声を上げるのも無理はなかった。いくら魔法があるとはいえ、設計図を渡してからわずか二日で、これほど精密で巨大なケージが組み上がるとは思ってもみなかったのだ。

 

目の前にあるのは、将来的な解体や移設がしやすいよう、頑丈な金属と木材を組み合わせて作られた直角形のケージである。

 

ケージの中には始祖鳥たちが登って滑空できるよう中くらいの高さの木が何本も植えられている。中生代ジュラ紀の植生を完全に再現するのは流石に厳しいため、現代の植物の中からシダ類や広葉樹など、見た目や環境が近いものを代替わりとして用いていた。

さらに、地面には土魔法の使い手であるキースや職人たちが造形した、本物と見紛うばかりの複雑な岩場が配置され、極力だが彼らが本来生きていた生息域の地形に近づけてある。

 

人間の目から見れば、広大なガリミムスのパドックに比べて少し狭いように感じるかもしれない。しかし、カラスほどの大きさで、飛ぶのが下手で木登りを得意とする始祖鳥たちにとっては、高低差があり身を隠せる場所が多いこのケージは、安全で十分に広い「完璧な森」であった。

 

実際、三匹の始祖鳥たちは新しい環境にもすっかり慣れたようで、鋭い三本の鉤爪を使って器用に木の幹を駆け上ったり、枝から枝へと短い滑空を見せたりと、生き生きと動き回っている。

 

「よかった。環境にはすっかり順応してくれたみたいね」

カタリナが安堵の息をつきながらケージの中を観察していると、キースがふと、ケージの隅に置かれた餌箱に視線を移し、顔を引きつらせた。

 

キー「……でも、義母さんが彼らに与えてる餌を知ったら、間違いなく卒倒するだろうね……」

 

キースのその言葉に、カタリナも「うっ」と言葉を詰まらせ、気まずそうに視線を泳がせた。

 

カタ「しょうがないでしょ。彼らは肉食よりの雑食なんだから。それに、野生の狩りの本能を満たしてあげるための『行動展示』の一環でもあるのよ。……でも、みっちりお説教されるかもしれないわね……」

 

公爵夫人であるミリディアナが卒倒するであろう餌。

それは、始祖鳥たちが大自然の中で狩っていたであろう獲物の代用品としてカタリナが用意した、『生きたゴキブリ』と『肉の切れ端』であった。

 

カタリナは自分や使用人たちに頼み込み(泣きつかれた使用人たちは青ざめながらも)、屋敷の裏手や倉庫などで生きた昆虫を集めていた。特に生命力が強く、素早く動き回るゴキブリは、始祖鳥の狩猟本能を刺激する上でこの上ない『生きたエンリッチメント』となるのだ。肉の切れ端も、厨房で余ったものを細かく刻んで提供している。

 

ガサガサッ!

 

ちょうどその時、ケージ内の岩の隙間に放たれていた大きな黒い影が、カサカサと素早い動きで這い出した。

 

次の瞬間、木の枝で休んでいた一匹の始祖鳥が、鋭い爬虫類のような瞳で獲物を捉えるや否や、バサァッ!と勢いよく滑空した。始祖鳥は地面スレスレで器用に長い尾羽を使って急ブレーキをかけ、顎に並んだ鋭い歯を瞬時に剥き出しにして、逃げ惑う虫をガシリと見事に捕らえた。

 

「シァァッ」

 

満足げに喉を鳴らしながら、獲物を咀嚼する始祖鳥。その姿は、小さな体でありながら、紛れもなく恐竜の血を引く獰猛なハンターそのものであった。

 

カタ「……見事な狩りだけど、やっぱり少し直視するのは勇気がいるね」

カタ「慣れよ、キース! これも命の営みなの!」

 

ドン引きしている義弟の肩を叩きながら、カタリナは園長としての確かな手応えを感じていた。

 

資金繰りや母の雷という現実的な問題は山積みだが、プレヒストリック・パークは着実に、そして急速に、その全貌を形作り始めていたのである。

 

ーーー

 

数日後。

 

王都にある有力貴族の広大な屋敷にて、盛大な屋外のお茶会が催されていた。

 

美しく整えられた庭園には、白いレースが掛けられたテーブルがいくつも並べられ、王都中の名だたる貴族たちが集まっていた。ソルシエ王国の王族からは、ジオルドやアランのみならず、なんと第一王子も第二王子までもが招待客として主賓席に座っているという、非常に格式の高いお茶会である。

 

しかし、そんな周囲の華やかな空気や政治的な駆け引きなどどこ吹く風とばかりに、カタリナ・クラエスの関心はただ一点、テーブルの上に山と積まれた色鮮やかなお菓子にのみ注がれていた。

 

カタ「ん〜っ! このイチゴのタルト、甘酸っぱくてすっごく美味しいわ!」

 

次から次へとマカロンや焼き菓子を口に放り込み、幸せそうに頬をリスのように膨らませるカタリナ。

 

そんな彼女の様子を見て、隣の席に座っていたキースがやれやれと小さくため息をつきながら苦言を呈した。

 

キー「義姉さん。また食べ過ぎないでよ。後で夕食が入らなくなって、またお腹を壊しても知らないからね」

カタ「わかってるわよキース。でも、お茶会のお菓子は別腹なの!」

 

カタリナがフォークを片手に口を尖らせて反論すると、向かいの席で紅茶を飲んでいたメアリが、うっとりとした表情で両手を胸の前で組んだ。

 

メア「ふふっ。そのように美味しそうにケーキを食べるカタリナ様も、とっても素敵ですわ。もっとたくさんお持ちしましょうか?」

キー「メアリさん、甘やかさないでください。義姉さんがさらに丸くなってしまいます」

 

いつものように和気あいあい(?)としたやり取りを繰り広げていると、ふいに庭園の中央に設えられた小さな壇上に、本日の主催者である恰幅の良い貴族が進み出た。彼は参列者たちの視線を集めると、声高らかに本日の「メインイベント」を宣言した。

 

『皆様、本日はようこそおいでくださいました! 実は先日、私の領地の奥深くにある未踏の森にて、見たこともない奇妙で恐ろしい【獣】が生け捕りにされたのです。本日は王太子殿下をはじめ、皆様にその驚くべき姿を披露したく、この場を設けさせていただきました!』

 

その言葉に、貴族たちの間に「未知の獣とはなんだ?」「どんな化け物だろうか」と、好奇と期待に満ちたざわめきが広がった。

 

『さあ、運んでこい!』

 

主催者の合図とともに、庭園の奥から重々しい車輪の音が響き始めた。

 

現れたのは、全身を分厚い金属の鎧で固めた屈強な兵士たちである。彼らは数人がかりで太いロープを肩に掛け、巨大な鉄格子の檻が乗せられた頑丈な荷車を、歯を食いしばりながら引きずり出してきた。

 

ガシャァン……ッ!

 

荷車が庭園の中央に停められた瞬間、檻の中から「グルルルゥゥ……ッ!」という、空気をビリビリと震わせるような、低く、そして途方もなく野太い唸り声が響き渡った。

 

そのあまりの迫力に、近くにいた貴族の令嬢たちが悲鳴を上げて後ずさり、護衛の騎士たちが一斉に剣の柄に手をかける。

 

刹那、ケーキを頬張っていたカタリナは、フォークを取り落として目を見開いた。

 

檻の中に閉じ込められていたのは、全身を黄褐色の毛並みに覆われた、巨大なネコ科の猛獣だった。

 

しかし、その姿は現世に生きるライオンやトラとは全く異なっていた。

 

アラ「おい……。もしかしてあれも、お前の言う大昔の……」

 

隣のテーブルから様子を伺っていたアランが、ただならぬカタリナの様子に気づいて声をかける。

 

カタリナは額に冷たい汗を滲ませながら、前世の図鑑の知識と目の前の生物の姿を照らし合わせ、震える声で呟いた。

 

カタ「サーベルタイガー……いえ、スミロドン……!」

 

スミロドン―――一般的には「サーベルタイガー」という俗称で広く知られているが、実は現世のトラやライオン、ヒョウといったヒョウ亜科の仲間ではない。

彼らはすでに絶滅した「マカイロドゥス亜科」という全く別の系統に属する、今から約250万年前から1万年前の更新世の北アメリカ・南アメリカ大陸を生きた最強の捕食者である。

 

カタリナの視界に映るその生物の体型は、俊敏に草原を駆けるチーターやトラのそれとはかけ離れていた。どちらかと言えば「熊」に近い。

 

後脚に比べて前脚が異様に太く、隆起した恐ろしいほどの筋肉の塊となっている。逆に胴体はやや短く、尻尾に至っては現世のボブキャットのように極端に短い。この短く太いずんぐりとした体型は、彼らが獲物を長距離追いかけるのではなく、茂みに潜み、圧倒的な前脚の筋力で幼いマンモスや野牛といった大型の獲物を力任せに押さえつけるための進化であった。

 

そして何より目を引くのは、その口元から下顎を飛び越えて鋭く突き出た、巨大な二本の「上顎犬歯(サーベル)」である。

 

長さ20センチメートルを超えるその牙は、見る者に底知れぬ恐怖を与えるが、実はこの長い牙は非常に折れやすく、薄く脆い構造をしている。

 

骨などに当たれば簡単に折れてしまうため、彼らは獲物が暴れている間は決して牙を立てない。強靭な前脚で獲物を完全に地面に押さえつけ、抵抗できなくしてから、120度近くまで大きく開く顎を使って、喉笛の柔らかい急所へピンポイントで牙を突き立て、確実に息の根を止めるのだ。

 

最新の研究では、スミロドンの喉の骨「舌骨」の構造が現世の大型ネコ科動物と似ていることから、ライオンのように強烈な咆哮を放つことができたと考えられている。また、タール坑から発見された化石の中には、大怪我をして狩りができないはずの個体が長期間生き延びていた痕跡があることから、群れを作り、負傷した仲間を助け合う高度な社会性を持っていた可能性が高い。

 

檻の中のスミロドンは、見知らぬ人間に囲まれ、極度のストレスと恐怖に晒されているのか、太い前脚で鉄格子をガシャン!と激しく叩き、大きく口を開けて「ガァァッ!!」と威嚇の咆哮を上げた。

 

その際に見えた口の開き具合は、現世の動物とは比較にならないほど恐ろしい角度だった。

 

カタ「(どうして……白亜紀のガリミムス、ジュラ紀の始祖鳥の次は、氷河期の新生代の生き物まで……!?)」

 

この世界で何が起きているのか。

困惑と焦燥が渦巻く中、カタリナは檻の中で怯え、威嚇を続ける古代の王者の姿から、痛いほど目が離せなくなっていた。

 

「さあ、王家の皆様方! どうかこの恐るべき力をご覧いただき、我が家の忠誠と武勇をご評価くださいませ!」

 

お茶会の主催者である成り上がりの野心に満ちた貴族は、主賓席に向かって仰々しく一礼した。

 

彼の視線の先には、ソルシエ王国の根幹を担う王家の兄弟たちが顔を揃えていた。第一王子ジェフリー、第二王子イアン、第三王子ジオルド、そして戻った第四王子アラン。

これほどの上位王位継承者が一度に顔を合わせるお茶会は珍しい。それもそうだ。

 

彼がわざわざこの巨大なネコ科の猛獣――スミロドンを生け捕りにし、人前に引き摺り出した最大の理由は「王族への献上品」とするためだった。

 

主催者の男は自らの未知の獣の献上という手柄によって、更なる高い爵位と権力を手に入れようと目論んでいたのである。

 

「これより、この獣がいかに強大で恐ろしい力を持っているか、皆様の目の前で証明いたしましょう。まずは、我が領地で最も獰猛な『闘犬』たちを相手にさせます!」

 

男の合図とともに、スミロドンが入れられた檻の扉が、特設された闘技用の柵の中へと解放された。同時に、反対側のゲートから、闘争本能を剥き出しにしてよだれを垂らす、筋骨隆々の三頭の闘犬が放たれる。

 

貴族たちは手に汗を握り、興奮の声を上げた。

 

「おおっ! さあ、その剣のような牙で犬を串刺しにしろ!」

「あの巨大な牙で、犬どもを血祭りにあげてしまえ!」

観客の誰もが、スミロドンの口元から突き出た二十センチメートルを超える巨大なサーベルが、恐ろしい殺戮兵器として振るわれる瞬間を期待していた。

 

「ヴゥルルルル……ッ」

 

三頭の闘犬が、鋭い牙を剥き出しにして四方からスミロドンへと飛びかかる。

 

だが――。

 

スミロドンは、貴族たちが期待したような「牙による一撃」を全く見せなかった。

 

彼は重心を低く落とすと、自らの最大の武器である【異常なまでに発達した太い前脚】を高く振り上げた。

 

ドォォンッ!

 

丸太のような前脚から放たれた強烈な一撃が、空中で襲いかかってきた一頭の闘犬の側頭部を捉えた。

 

キャンッ! という短い悲鳴すら上げる間もなく、その闘犬はボールのように吹き飛ばされ、柵に激突して一撃で気絶した。

 

残る二頭が背後と側面から噛みつこうとするが、スミロドンは短い胴体と強靭な腰のバネを活かして瞬時に身を翻す。そして、襲い来る犬の首筋を、熊のように太く分厚い両の前脚で上から完全に押さえ込んだ。

 

現世のトラやライオンを遥かに凌駕する圧倒的な前脚の筋力。地面に縫い留められた闘犬は、どれほどもがいてもピクリとも動くことができず、ただ恐怖に目を見開いて完全に戦意を喪失した。

 

流血沙汰など一切ない。ただ、規格外の「筋力」と「重量」だけで、スミロドンはあっという間に三頭の闘犬を無力化してしまったのだ。

 

「な、なんだあの戦い方は……」

「あの巨大な牙を全く使わないではないか!」

 

貴族たちの間に、困惑とざわめきが広がる。

 

誰よりもその結果に納得がいかなかったのは、主催者の貴族だった。彼は真っ赤になって激怒し、扇子を柵に叩きつけた。

 

「なんで牙を使わないんだ! ただの手柄を立てただけの欠陥品か! ええい、こうなったら人間だ! 武装した剣闘士をけしかけろ! 鎧を着た人間が相手なら、嫌でもあの牙を使って本気を出すだろう!」

 

彼の無慈悲な命令により、槍や剣、そして分厚い金属の鎧に身を包んだ数人の剣闘士たちが、殺気を放ちながら柵の中へと足を踏み入れた。威嚇の咆哮を上げるスミロドンに対し、彼らが武器を振り上げた、まさにその刹那である。

 

「いい加減になさい!!」

 

突如として、優雅なお茶会の空気を切り裂くような少女の怒声が響き渡った。

 

見ればつい先程までお菓子に夢中になっていたはずのカタリナ・クラエスが、フォークを放り出し、ドレスの裾を握りしめて猛然と前へ進み出ていた。

 

カタ「あ、当たり前でしょう! あの牙は脆いのだから!!」

 

カタリナは観客席の最前列から、激昂する主催者に向かって真っ直ぐに指を突きつけた。

 

カタ「スミロドンのあの巨大な牙は決して何でも貫く無敵の剣なんかじゃありません!

非常に薄くて脆く、骨や硬い鎧に当たれば簡単に折れてしまう構造なのよ! だから彼らは、あの丸太のように太く発達した前脚で獲物を完全に押さえつけ、抵抗できなくしてから、柔らかい喉笛などの急所にだけピンポイントで牙を突き立てるの!」

 

息継ぎすら忘れるほどの勢いで、カタリナの古生物解説が炸裂する。

 

カタ「俊敏で骨ばった犬や、硬い鎧を着た人間相手に牙を使わないのは、本能的に自分の繊細な武器を守るための正しい行動よ! 彼らは欠陥品なんかじゃないわ! 生態も理解せず、ただ強さを見せつけるためだけに無闇に戦わせるなんて……動物虐待にも程があるわ!!」

 

その場にいた全員が、公爵令嬢の口から飛び出したあまりにも専門的で完璧な生態の解説に唖然としていた。

 

しかし、自らの目論見を台無しにされた主催者の貴族は、怒りで顔を歪ませた。

 

「こ、小娘が知ったような口を……! たかが十五やそこらの子供の戯言に耳を貸すな! ええい、クラエス公爵令嬢をつまみ出せ!」

 

彼が乱暴に近衛兵へ指示を出そうとした、その時だった。

 

「……僕の婚約者に、失礼な態度をしないでもらいたい」

 

絶対零度の冷気を纏ったような、低く静かな声。

 

カタリナのすぐ隣に、いつの間にかジオルドが立っていた。彼の顔にはいつもの完璧な笑みが張り付いているが、その青い瞳の奥には、黒百合が咲き乱れるような底知れぬ怒りと威圧感が渦巻いている。

 

ジオ「僕が愛するカタリナの言葉を『子供の戯言』と切り捨て、あろうことか彼女をつまみ出せと? ……随分といい度胸をしているね」

カタ「ジ、ジオルド王子殿下……ッ!?」

 

主催者が血の気を引いて後ずさると、カタリナを守るための分厚い壁が次々と築かれていった。

 

キー「義姉さんに指一本でも触れてみろ。クラエス家が総力を挙げて相手になるぞ」

 

キースが険しい顔でカタリナの前に立ち塞がり、土の魔力を微かに足元から漂わせる。

 

アラ「おいおい。カタリナの言う通り、ただの動物虐待じゃねぇか。趣味が悪いぜ」

 

アランが腕を組み、鋭い視線で主催者を睨みつける。

 

ニコ「……無知は罪だ。彼女の純粋な思いを踏みにじる権利は、誰にもない」

 

ニコルもまた、静かだが有無を言わせぬ圧を放ちながらカタリナの傍らに立った。

 

そして最後に、この場における最高権力者たちが動いた。

 

ジェフ「あはははは! ジオルドの言う通りだねぇ。僕の可愛い弟の、さらに可愛い婚約者を愚弄するなんて、君は命知らずなのかな?」

 

第一王子ジェフリーが、派手な身振りとともに軽やかに笑い声を上げたが、その威圧感は場を支配するのに十分だった。

その隣で、生真面目な顔つきの第二王子イアンが、厳格な眼差しで主催者を射抜く。

 

イア「ジェフリー兄上の言う通りだ。自らの無知を棚に上げ、生態も理解せずに稀少な獣を傷つけるような真似を……王家の名において、そしてこのソルシエ王国の理を重んじる者として、見過ごすわけにはいかないな」

 

圧倒的な権威を持つ四人の王子たち、そして高位貴族の息子たちが、たった一人の少女を護るために完璧な陣形を組んで立ち塞がっていた。

 

王族たちによる圧倒的な威圧に、主催者の貴族が顔面を蒼白にして震え上がっていたその時カタリナを守る盾はさらに分厚さを増していった。

 

メア「わたくしたちの大切なカタリナ様に、これ以上の無礼は絶対に許しませんわ!」

ソフィ「カタリナ様の優しきお心を踏みにじるなど、言語道断です!」

 

ドレスの裾を翻し、怒りに満ちた鋭い視線を主催者に突き刺したのはメアリとソフィアだった。さらにその後方から、静かだが重々しい足音が響く。

 

レイジ「我が愛娘の言う通りです。生態を無視した見世物など、クラエス公爵家の名において看過することはできませんな」

ミリ「我がアスカルト家も同意見だ。無益な殺生を楽しむような者に、この国を導く資格はない」

 

カタリナの父であるルイジと母ミリディアナ、そしてニコルの父ダンとその妻ラディアまでもが進み出て、我が子たちとカタリナの陣営に堂々と加わった。王族のみならず、ソルシエ王国の中枢を担う公爵家と伯爵家までもが完全に敵に回ったのだ。主催者の男はあまりの絶望的な状況に膝を震わせ、今にも気絶しそうになっていた。

 

しかし、人間たちの間でどれほど政治的な決着が着こうとも、柵の中の闘技場に残された者たちの極限状態の興奮は、すぐには収まらなかった。

 

「うおおおおッ!!」

 

不重な沈黙を破り、血気盛んな一人の剣闘士が、身の丈ほどもある槍を構えてスミロドンへと突進してしまったのだ。

 

「グルァァァッ!!」

 

見知らぬ人間に囲まれ、すでに極度のストレスと恐怖で限界を迎えていたスミロドンは、追い詰められた末のパニックに陥った。

己の脆い武器を守るという本来の冷静な狩りの本能すら吹き飛び、迫り来る剣闘士の分厚い鋼鉄の肩当てに向かって、反射的に大きく顎を開き――その自慢の「剣」を力任せに振り下ろして噛み付いてしまった。

 

刹那。

 

バキィィィィンッ……!!

 

庭園の空気を凍りつかせるような、鈍く、そして決定的な破砕音が響き渡った。

 

鋼鉄の鎧と、薄く繊細な構造を持つ古代の牙。勝敗は火を見るより明らかだった。

 

スミロドンの口元から突き出ていた二十センチメートルを超える見事なサーベル犬歯の片方が根元から無残にへし折れ、宙を舞って土煙の上がる地面へと転がり落ちたのだ。

 

「ギャァァァァァァァッ!!」

 

神経が通っていた牙を根元から折られた激痛。スミロドンは血まみれの口から悲痛な絶叫を上げ、苦悶のあまり地面を転げ回り、狂ったように周囲の柵を前脚で叩き始めた。

 

「今だ! 牙が折れたぞ! 一斉に仕掛けろ!!」

 

残りの武装した人間たちが、スミロドンが痛みで隙を見せたこの好機を逃さじと、一斉に武器を振り上げて殺到する。

 

その惨状を見下ろしながら、主催者のモブ貴族は顔を引きつらせながらも、内心で醜くほくそ笑んでいた。

 

(ふん、どうせあの美しい牙が折れてしまっては、もはや献上品としての『価値』はない! ならばこのままあの剣闘士どもに殺させてしまえばいい。私に恥をかかせた欠陥品の獣など、ここで処分してしまうのが一番だ!)

 

彼が身勝手な優越感に浸りかけた、まさにその瞬間だった。

 

カタ「…………ふざけるな」

 

地の底から這い上がってきたような、低く、しかし激しい怒りに満ちた声が響いた。

 

声の主は、カタリナ・クラエスだった。

 

カタ「ふざけるな……

 

ふざけるなァァァァァッ!!」

 

カタリナの碧い瞳に、かつてないほどの凄まじい怒りの炎が燃え上がった。

 

人間の見栄と無知のために無理やり戦わされ、一番の武器を折られ、挙句の果てにゴミのように殺されようとしている古代の命。その理不尽さが、彼女の魂を激しく揺さぶっていた。

 

「あの獣に指一本でも触れてみなさい!! 相手が誰であろうと、私が絶対に許さないわ!!」

 

カタリナのブチギレた絶叫に呼応するように、彼女の背後に控えていた三人の貴公子たちが、目にも留まらぬ速さで同時に動いた。

 

ジオ「僕の愛する人をこれほどまでに激怒させ、悲しませるなど……万死に値しますね」

 

ジオルドが冷酷な微笑みを浮かべながら指先を鳴らすと、スミロドンに迫っていた剣闘士たちの目の前に、凄まじい熱量を持った『炎の壁』が壁のように立ち上った。

 

ニコ「カタリナの心を乱す害悪は、僕が切り刻む」

 

すかさずニコルが魔力を解放する。目に見えない鋭い『風の刃』が暴風となって吹き荒れ、剣闘士たちの持つ槍や剣を次々と弾き飛ばし、彼らの体勢を大きく崩した。

 

アラ「おいおい、そんな薄汚え連中は俺がまとめて洗い流してやるよ!!」

 

トドメとばかりに、アランが両手を地面についた。闘技場の地面から間欠泉のような巨大な『水柱』がうねりを上げて噴き出し、武器を失って逃げ惑う剣闘士たちを濁流のごとく飲み込み、スミロドンから遥か遠くの柵の端まで一掃してしまった。

 

炎、風、水の三属性による見事な連携魔法。

 

それにより、致命傷を与える寸前だった人間たちは完全に無力化され、闘技場の中央には、痛みと混乱で暴れ回るスミロドンだけが残された。

 

カタ「キース! スミロドンがこれ以上暴れて怪我をしないように、取り押さえて!」

キー「わかった! 」

 

カタリナの指示に即座に反応したキースが土魔法を発動させる。地面が柔らかい泥のように変形し、スミロドンの太い四肢と胴体を、決して傷つけないようにクッションのように優しく固定した。身動きが取れなくなったスミロドンは、荒い息を吐きながらガクンと頭を落とした。

 

カタリナはドレスが汚れるのも構わず柵を乗り越え、地面に落ちていたスミロドンの「折れた牙」を拾い上げた。その手は、怒りと悲しみで微かに震えている。

 

カタ「この落とし前は、後で王国とクラエス家の名において、必ずつけてもらいますからね……!」

 

へたり込む主催者に向けて、カタリナは背筋の凍るような鋭い一瞥を投げかけた。そしてすぐさま、血を流して虚ろな目をしている古代の王者へと振り返った。

 

カタ「急ぐわよ! みんな、この子を運ぶのを手伝って!!」

ジェフ「どこへ行く気だい、カタリナ嬢?」

 

ジェフリーが尋ねると、カタリナは折れた牙を大切に胸に抱きしめ、迷いなく叫んだ。

 

カタ「マリアちゃんのところです!! 彼女の光の魔法なら、この子の傷を……折れた牙だって治せるかもしれませんから!!」

 

ジオルドの炎が道を切り開き、アランとキースが土魔法で即席で作った荷台にスミロドンを乗せ、ニコルや令嬢たちが周囲を警戒しながらそれに続く。

 

王族や高位貴族たちを味方につけた前代未聞の救出劇。カタリナたちは、唖然として立ち尽くすモブ貴族たちをその場に置き去りにし、愛しのヒロインであり、最高の治癒魔法の使い手であるマリア・キャンベルの元へと、全力で駆け出していったのである。

 

ーーー

 

王家の紋章を掲げた馬車が、王都の石畳を猛烈な勢いで駆け抜け、激しい土煙を上げて学園の敷地内へと滑り込んだ。

 

カタ「マリアちゃん!! お願い、助けて!!」

 

馬車が完全に停車するよりも早く、扉を蹴破る勢いで飛び出してきたカタリナの悲痛な叫び声が響き渡った。

 

突然の訪問、それも王族や高位貴族たちが総出で血相を変えて現れたことに、マリアは目を丸くして駆け寄ってきた。だが、キースの土魔法で作られた即席の荷台に乗せられた「それ」を見た瞬間、マリアは思わず息を呑んだ。

 

そこには、口の周りを血で真っ赤に染め、荒い息を吐きながら苦悶の表情を浮かべる巨大な古代の猛獣――スミロドンが横たわっていた。

 

マリ「カタリナ様!? 皆様、それにこの生き物は一体……っ」

カタ「後で全部説明するわ! お願い、マリアちゃん……この子の牙を、あなたの光の魔法で治してあげて!!」

 

カタリナのドレスは泥と獣の血で汚れ、その手には真っ二つにへし折れた二十センチメートルを超える巨大な牙が、震える手で大切に握りしめられていた。

 

事態の深刻さと、ただならぬカタリナの必死な様子に、マリアはすぐさま状況を理解した。彼女は一切の躊躇なく頷くと、カタリナからその重く、冷たい『折れた牙』を受け取った。

 

「わかりました……! すぐに治療を始めます!」

 

マリアは小走りでスミロドンの頭部へと近づいた。

 

だが、その瞬間。

 

「……グルルルルルルッ!!」

 

土魔法で拘束されているにもかかわらず、スミロドンは喉の奥から地鳴りのような唸り声を上げ、マリアに向かって激しく威嚇した。

 

その瞳に宿っていたのは、戦意を喪失した敗者の弱々しさではない。人間の見栄と娯楽のために見世物にされ、最も誇り高き武器を不意打ちで折られたことに対する、底知れぬ怒りと憎悪だった。

 

痛みに耐えながらも、血走った爬虫類のような瞳で人間を射殺さんばかりに睨みつける古代の王者の気迫。

 

マリ「ひっ……!」

 

本物の殺気と野生の闘争心を真っ向から浴び、普通の少女であるマリアは反射的に肩を震わせ、恐怖で足がすくんでしまった。牙が折れているとはいえ、一息で人間の首をへし折ることができる巨大な獣だ。恐ろしくないはずがなかった。

 

マリ(怖い……。でも、カタリナ様が……あんなに悲しそうなお顔で、助けを求めている……っ!)

 

マリアはギュッと唇を噛み締め、震える両足に力を込めた。

自分を孤独な暗闇から救い出してくれた恩人。誰よりも優しく、どんな命に対しても真剣に向き合う大好きなカタリナが、今にも泣き出しそうな顔で自分に希望を託しているのだ。ここで自分が逃げるわけにはいかない。

 

マリアは「ふぅっ」と長く息を吐き出して恐怖を完全に振り払うと、鋭い眼光で睨みつけてくるスミロドンを真っ直ぐに見据え、一歩、また一歩と距離を詰めた。

 

マリ「大丈夫……。もう、誰もあなたを傷つけたりしません……っ」

 

なだめるように優しく声をかけながら、マリアはスミロドンの血塗られた口元へとそっと手を伸ばした。獣が激しく暴れようとするのを、アランとキースが必死に魔法で押さえ込む。

 

マリアはスミロドンの口元に残った牙の根元に、手にした『折れた牙の断面』をピタリと合わせた。そして、胸の前で印を結び、自らの持つ最大の魔力を解放した。

 

マリ「どうか、癒えて……!」

 

マリアの全身から、太陽のように温かく、そしてどこまでも純粋な純白の『光の魔法』が溢れ出した。

 

その神聖な光はスミロドンの巨大な身体を優しく包み込み、怒りと痛みに凝り固まった筋肉をゆっくりと解きほぐしていく。

 

光の奔流の中で、凄惨だった傷口の出血がピタリと止まり、破壊された歯茎の肉がみるみるうちに塞がっていく。

 

最初は暴れていたスミロドンも、マリアの魔法がもたらす絶対的な安らぎと痛みの消失に気づいたのか、次第に抵抗をやめ、静かに目を閉じて荒い呼吸を落ち着かせていった。

やがて、眩い光が粒子となって空気中へと溶け、完全に消え去った。

 

これにジオルドやニコルたちも固唾を呑んで見守る。

 

しかし。

 

カラン……ッ。

 

マリアがそっと手を離した瞬間。

 

くっつけたはずの巨大なサーベル犬歯は、何の抵抗もなくポロリと根元から滑り落ち、石畳の上で虚しい乾いた音を立てた。

 

その音に、カタリナの肩がビクッと跳ねた。

 

マリ「……っ」

 

マリアは蒼白な顔で地に落ちた牙を見つめ、自身の無力さに震える両手をギュッと胸に抱きしめた。そして、涙を堪えるように俯き、絞り出すような声で告げた。

 

マリ「怪我の治療はできましたが……」

 

止血も、痛みの緩和も、傷口の完全な塞ぎも成功した。スミロドンの命に別状はもうない。

 

しかし、光の魔法はあくまで『生命力』を活性化させて傷を癒す力だ。一度完全に折れてしまった骨や、死んだ組織である牙を、トカゲの尻尾のように再生させたり、接着剤のように元通りにくっつけることは、いかに強力な光の魔法であっても不可能だったのだ。

 

カタ「そんな……」

 

メアリとソフィアが口元を覆って絶句し、王子やクラエス家たちも重苦しい沈黙を落とした。

 

静まり返った空間の中。

カタリナは、フラフラとした覚束ない足取りで前へ進み出た。

 

アン「カタリナ様、危ないです……!」

 

アンの制止の声も耳に入らないのか、カタリナは泥だらけの膝を石畳につき、痛みが消えて静かに横たわるスミロドンの巨大な頭部のすぐ傍へと顔を寄せた。

 

一度折れてしまったスミロドンの牙は、もう二度と生え変わることはない。

 

それは、自然界における野生の狩人としての「致命的な欠格」を意味し、氷河期の王としての誇りを永遠に奪われてしまったことを意味していた。

 

カタ「……私のせいだわ。私が、もっと早くあの場に割って入っていれば……。私の知識をすぐにひけらかして、あの貴族を止めていれば……っ」

 

カタリナの両目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。

 

彼女は、まだ人間への警戒を解ききっていない猛獣の首元に、恐れもせずに両腕を回してギュッと抱きついた。スミロドンは僅かに身をよじったが、彼女から放たれる圧倒的な悲しみと後悔の念を感じ取ったのか、それ以上は抵抗しなかった。

 

カタ「ゴメンね……ゴメンね……」

 

カタリナの泣き崩れる声が、夕暮れの空に悲しく響き渡る。

 

カタ「痛かったよね……怖かったよね……っ。人間の身勝手で、あなたの大切な牙を、誇りを奪ってしまって……本当に、ゴメンね……っ!!」

 

何度も、何度も。

 

カタリナただ謝ることしかできなかった。

その背中を見つめる仲間たちも、誰一人として声をかけることができず、ただ沈痛な面持ちで古代の王者と、深く傷ついた心優しい少女の姿を見守り続けるしかなかった。

 

ー数日後ー

 

スミロドンの牙が折れてしまったあの凄惨なお茶会から、数日が経過した。

 

プレヒストリック・パークの隔離エリアではマリアの光魔法によって傷口が完治したあのスミロドンが、痛々しく片方の牙を失った姿で静かに横たわっていた。

命に別状はないものの、最強の武器と誇りを奪われた喪失感からか、出された肉にもあまり口をつけず、ただ虚空を見つめる日々が続いていた。

 

カタリナは毎日様子を見ていたが、その表情には深い自責の念が色濃く影を落としていた。

 

ジェフ「カタリナ嬢。そんなに暗い顔をしないでおくれ。君の美しい顔が台無しになってしまうよ」

 

その日、沈み込むカタリナの元へやってきたのは、第一王子ジェフリーであった。

 

彼はいつものようにふわりとした掴みどころのない笑顔を浮かべると、「君に見せたいものがあるんだ」とカタリナの手を引き、パークのさらに奥、新たに魔法で設営されたばかりの隔離エリアへと彼女を連れ出した。

 

そこに用意されていたのは、極めて頑丈な金属と太い丸太で作られた簡易的な檻だった。

 

カタ「ここは……? 新しい生き物を保護したのですか?」

 

カタリナが不思議そうに檻の中を覗き込んだ瞬間。

彼女は自分の目を疑い、両手で口元を覆って言葉を失った。

 

「ミャァッ、ミャァッ」

「グルルル……」

 

檻の中にいたのは、なんと【複数のスミロドン】だったのだ。

 

隅の方で身を寄せ合い、不安そうに鳴いている小さな黄褐色の毛玉が二頭。

 

それは間違いなく、スミロドンの子供であった。

 

現世のライオンの仔に似て、体表には保護色となるうっすらとした斑点模様が見受けられる。そして何より、彼らの口元にはまだ、あの恐ろしいサーベル状の巨大な牙が存在していなかった。最新の研究が示す通り、スミロドンの牙は乳歯から永久歯へと生え変わる際、数年という長い時間をかけてゆっくりと下顎を越えて成長していくため、幼少期には牙が飛び出していないのである。

 

さらに、その仔獣たちを守るように周囲を囲み、警戒の目を光らせている成獣のスミロドンが【三頭】。

 

いずれも氷河期の厳しい環境を生き抜くための、ずんぐりとした熊のように屈強な体躯と、発達した太い前脚、そして短い尾を持っていた。

 

カタ「ジェフリー殿下……これはいったい……!?」

 

驚愕で目を見開くカタリナに対し、ジェフリーはポンッと優しく彼女の頭に手を乗せ、事の顛末を語り始めた。

 

ジェ「君たちが傷ついたあの子を連れてマリア嬢の元へ向かった後、僕はお茶会の会場に残っててね。あの愚かな主催者の男を、ほんの『少しばかり』問い詰めたのさ」

 

ジェフリーの口調は穏やかだったが、その碧い瞳の奥には、彼が本気で怒った時にだけ見せる絶対零度の冷酷さが微かに滲んでいた。第一王子としての絶大な権力と圧力を前に、モブ貴族は震え上がり、隠していたすべての事実を洗いざらい吐き出したという。

 

ジェ「あの男、君たちが保護した大人のスミロドン以外にも、さらに二頭……この仔獣たちを捕らえて隠し持っていたんだよ。どうやら、珍しい獣の『親子』としてセットで僕たち王族に献上し、さらなる恩賞を引き出そうと目論んでいたらしい」

カタ「そんな……っ。母親から無理やり子供を引き離して、見世物にしようとしていたなんて……!」

 

ジェ「ああ、本当に胸糞の悪い話だね。だから僕は、彼が獣を捕らえたという領地の奥深くの森へ、近衛騎士団と腕利きの魔術師たちを連れて直接足を運んだんだ。そうしたら、まだその森に彼らの仲間が残っていてね」

 

残された三頭の成獣たちは、罠にかかって人間に連れ去られた家族を探して、捕獲現場の周辺を悲痛な声で鳴きながら彷徨っていたのだという。

 

ジェ「家族をバラバラにするなんて、あまりにも残酷だからね。少し手こずったけれど、誰も傷つけないように魔道具で眠らせて、こうして残りの群れごと丸ごと王都へ連れてきてあげたのさ」

 

ジェフリーの言葉に、カタリナの瞳からブワッと大粒の涙が溢れ出した。

 

古代の過酷な世界において、最大の武器である牙を失うことは、本来であれば「死」を意味する。獲物の急所を正確に仕留める術を失えば、単独では餓死するしかないからだ。

 

しかし、前述の通りスミロドンは【群れで生きる社会的な動物】である。

 

つまり――。

 

カタ「群れの仲間がいれば……この家族と一緒なら牙が折れてしまったあの子も、餓死することなく生きていける……っ!!」

 

カタリナは檻の鉄格子にすがりつき、ボロボロと涙をこぼしながら、中にいるスミロドンたちを見つめた。

 

片方の牙を失い、生きる気力すら失いかけていたあのスミロドンにとって、これ以上の「救い」はない。たとえ牙が折れて狩りの第一線を退くことになっても、愛する家族たちがいれば、彼は群れの中でしっかりと生きていくことができるのだ。

 

ジェ「そういうこと。君がいくら自分を責めても、折れた牙は元には戻らない。だったら、彼がこれから先も幸せに生きていける『環境』を取り戻してあげるのが、一番の謝罪になるんじゃないかな?」

 

ジェフリーはふわりと微笑み、ハンカチを取り出してカタリナの涙を優しく拭った。

 

カタ「ジェフリー王子殿下……っ、本当に、本当にありがとうございます……!! この御恩は、一生忘れません……っ!!」

 

カタリナはジェフリーの手を取り、何度も何度も深く頭を下げた。

 

彼女の心に重くのしかかっていた自責の念が、温かい光によって溶かされていく。

 

その後、マリアの治療を受けた片牙のスミロドンがこの檻へと移されると家族たちは狂喜の声を上げて再会を喜び合った。仔獣たちは母親の太い前脚に顔をすり寄せ、他の成獣たちは彼を労わるように、折れた牙の周囲を優しく舐め回した。

 

牙を失っても、誇りまでは失っていない。

 

プレヒストリック・パークの隔離エリアに響き渡る、太古の家族の温かな喉の鳴らし声を聴きながら、カタリナは再び「この命たちを絶対に守り抜く」という園長としての決意を、強く、強く胸に刻むのであった。

 

ーーー

 

プレヒストリック・パークの奥地で太古の家族が感動の再会を果たしていた頃、王宮の一室では、この騒動の事後処理についての密かな会談が行われていた。

 

ジオ「……今回ばかりは、感謝しますよ」

 

普段は腹の底を見せないジオルドが、珍しく素直な言葉を口にした。その隣では、第四王子であるアランも腕を組みながら、気まずそうに、しかし確かに同意するように頷いている。

 

ジェフ「あははは! 可愛い弟たちの為ならどんなことでもするさ〜♪」

 

第一王子ジェフリーは、弟たちからの感謝の言葉に花が咲いたような笑顔を浮かべ、両手を広げて大げさに喜んだ。あまりの親馬鹿(兄馬鹿)っぷりと、背後に幻覚の薔薇が舞い散るような異様なテンションに、ジオルドとアランは感謝しつつも、顔を引きつらせてドン引きしていた。

 

ジオ「……しかし、あの貴族の処遇ですが。王族への不敬、さらにはカタリナを愚弄した罪。本来ならば家名取り潰しでも生温いところですが……」

 

ジオルドが冷たい声で本題に切り込もうとすると、ジェフリーはふと真面目な顔つきになり、人差し指を立てた。

 

ジェフ「それとね、カタリナはあの貴族を許してほしいとも言ってたよ」

 

その言葉に、ジオルドとアランは思わず目を見開いた。あそこまで激怒し、悲しんでいたカタリナが、元凶である男を許すというのだ。

 

ジェフ「『事情はどうであれ、このまま破滅させるのはやりすぎ』だってさ。それに『無知だっただけで、教えてあげればきっと変われる。やり直すチャンスを与えてほしい』と言ってたよ。本当に、あの子はどこまでも人がいいというか、規格外の慈愛の持ち主だねぇ」

 

ジェフリーが肩をすくめながらカタリナの言葉を代弁すると、静まり返った部屋の中に、ふっと温かい空気が流れた。

自身の感情や復讐よりも、相手の未来を思いやる心。そして何より「破滅」という言葉に人一倍敏感な彼女らしい、切実で純粋な願いだった。

 

ジオ「……カタリナらしいですね……」

アラ「だな」

 

ジオルドの口元に、心の底からの慈しみに満ちた優美な微笑みが浮かぶ。アランもまた、呆れの中に深い愛情を滲ませた、どこか誇らしげな笑顔を見せた。

 

ジェフ「あ、あああっ……! 可愛い弟たちの、なんと純粋で美しい笑顔……っ! 兄は、兄は感無量だよぉぉっ!!」

 

弟たちの滅多に見られない極上の笑顔を目の当たりにしたジェフリーは、尊さに耐えきれなくなったのか、両手で顔を覆って身悶えを始めた。しかし、当のジオルドとアランは「さあ、帰ろうか」「そうだな」と、悶え苦しむ兄を完全に見て見ぬふりをして、さっさと部屋を後にするのであった。

 

それから数週間後。

 

プレヒストリック・パークの広大な敷地の一角に、カタリナの情熱と魔法技術の粋を集めた、巨大で画期的な新展示場が見事に完成していた。

 

そこには、これまでのガリミムスや始祖鳥の展示とは一線を画す、圧倒的なスケールの『ランドスケープ・イマージョン』が広がっていた。

 

ゲストが歩く観覧通路から、展示場までは四、五メートルの切り立った崖が設けられており、上から生息域を見下ろせる形になっている。いわゆる「空堀構造」である。

 

カタリナよ前世で「ズーラシア」や「サンディエゴ動物園」といった最先端の動物園の知識が、ここに爆発していた。

 

ゲストの視界を遮る無粋な鉄格子や金網は一切ない。視界の先には、氷河期の北アメリカ大陸を彷彿とさせる、乾燥した低木林や荒々しい岩場と鬱蒼とした影を作るオークや松の木立、そして深い茂みを持った森林地帯へとシームレスのパノラマのように広がっている。奥には、彼らが涼み、身を隠すための巨大な泥浴び場まで完璧に設えられていた。

 

本日のプレオープンには、カタリナの家族や友人たちの他に、ジェフリーやイアンといった王族たちも視察に訪れていた。

 

イア「素晴らしい……。檻がないのに、安全が完全に確保されている。これなら動物たちもストレスを感じないだろう」

 

生真面目なイアンが、モートの構造を感心したように見下ろしている。

 

実はこの広大な展示場、あの『モブ貴族』からの莫大な資金援助によって建設されたものであった。

 

もちろん自発的なものではない。ジェフリーが「君の命と爵位を繋ぎ止めるための『誠意』を見せてもらうよ?」と、極めて爽やかな笑顔で恐喝……もとい、強力な説得を行った結果である。

 

しかし、裏の事情など一切知らないカタリナは、「あの貴族様が、スミロドンの保護のためにこんなにたくさんの寄付をしてくれたの!」と大喜び。感謝の記念として、観覧通路の岩壁の端に、景観を壊さない程度の自然なデザインで、そのモブ貴族の名をしっかりと彫り込ませていた。

 

ジェフ(ふふっ。これであの貴族がどうなるかはわからないな……。カタリナの純粋な善意によって名を刻まれた以上、彼は一生、このパークの立派な『パトロン』として清く正しく生きるしかなくなったわけだ)

 

ジェフリーは扇子で口元を隠し、誰にも気づかれないように面白そうにほくそ笑んだ。

 

さらに、展示の目玉はもう一つあった。

 

片方の牙を失ってしまったあのスミロドンのため、なんと王国の『魔法省』が総力を挙げて動き、失われた巨大なサーベル犬歯を人工的に再現したのだ。

 

魔石の粉末と特殊な樹脂を錬金術で合成し、強度も見た目も本物そっくりの【差し歯】を作り上げ、マリアの光魔法と熟練の獣医の連携によって、見事に彼の顎へと接合されたのである。

 

カタ「さあ……いよいよよ! みんな、静かにね!」

 

カタリナが期待に胸を膨らませて合図を送ると、展示場の奥にある頑丈な木の門が、ギギギ……と重々しい音を立ててゆっくりと開かれた。

 

ゲストたちが固唾を呑んで見守る中、薄暗いバックヤードから、一つの巨大な影が姿を現した。

 

「……」

 

それは、威風堂々たる咆哮を上げて飛び出してくるような、物語の中の怪獣の動きではない。極めて現実的で、野生のネコ科動物特有の、慎重で静寂に満ちた足取りだった。

 

最初に外へ出てきたのは、一回りデカい群れのリーダーである成獣のスミロドンだった。

 

彼は熊のように太く筋骨隆々な前脚を音もなく地面に下ろし、重心を極限まで低く保ったまま、見慣れない新しい環境へとゆっくりと足を踏み入れた。

 

耳をピクピクと細かく動かし、周囲の音を探る。

 

そして、現世のトラやライオンも行うように、口を半開きにして上唇を少し引き上げ、空中の匂いの粒子をヤコブソン器官へと送り込む「フレーメン反応」を見せた。乾燥した土の匂い、シダ植物の匂い、そして水たまりの匂いを、時間をかけて念入りに分析しているのだ。

 

ソフ「す、すごい迫力……! なのに、足音が全くしてない……!」

 

ソフィアが興奮気味に囁く。短い尾を微かに揺らしながら歩くその姿は、ずんぐりとした体型でありながら、紛れもなく頂点捕食者の研ぎ澄まされた美しさを持っていた。

 

安全を確認したリーダーが、低く「ゴロゴロ……」と喉を鳴らすと、それを合図にバックヤードから残りの二頭の成獣と、二頭の仔獣たちがゾロゾロと顔を出した。

 

仔獣たちは新しい遊び場を見つけて「ミャァッ!」と駆け出そうとしたが、あの魔法の差し歯によって両方の牙を取り戻した母親のスミロドンが前脚でスッとそれを制止する。

 

彼らは群れで固まりながら岩場を探索し、やがてエンリッチメントとして配置された、爪とぎ用の丸太の太い朽ち木を見つけると、安心したようにそこに身体を擦り付け、自らのマーキングを開始した。

 

リーダーのスミロドンは水飲み場へと歩み寄り、ペチャペチャと静かに喉を潤した後、満足そうに太陽の光を浴びて大きなあくびをした。その口元には、二本の美しく巨大なサーベルが、太陽の光を受けて鋭く、そして誇り高く輝いていた。

 

カタ「……よかった。本当に、よかったわ」

 

古代の過酷な世界を生きた強き家族たちが、こうして何不自由なく、群れで穏やかに寄り添い合う姿を見下ろしながら。

カタリナは胸の奥底からこみ上げる感動に目を潤ませ、隣で微笑むマリアや仲間たちと共に、いつまでもその美しい光景を眺め続けていた。

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