乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してだけでなく私のせいで古生物を解き放ってしまった…。〜責任をとってプレヒストリック・パークを開きます〜 作:龍座
パラケラテリウムの穏やかな佇まいに胸を打たれたマリアが完全にトラウマを克服し、温かな余韻に包まれた一行は、いよいよ今回の実技観察ツアーの最終目的地へと足を進めた。
幾重もの時代を巡り、最後にたどり着いたのは、人類の祖先が誕生し、地球が数度の氷河期を迎えた時代――『第四紀エリア』である。
これまでの熱帯雨林や砂漠、湿地とは趣が異なり、このエリアには樺や柳の仲間といった寒冷地特有の広葉樹、そして青々とした短い草地が広がっていた。涼やかな風が吹き抜けるその空間は、どこか清涼で静謐な雰囲気を漂わせている。
その展示場の前に到着した際、アランが柵の構造に違和感を覚えて足を止めた。
アラ「ん? カタリナ、ここは他の展示場と柵の作りが違わないか?」
アランの指摘通り、この展示場には二重の頑丈な木製フェンスが設置されていた。
内側のフェンスと外側の観覧用フェンスとの間には、数メートルの幅を持つ青々とした植込み領域――いわゆる『バッファゾーン(緩衝地帯)』が確保されている。観客は外側のフェンス越しに、この緩衝地帯を挟んで展示場内を観察する仕組みだ。
カタ「さすがアラン王子、お目が高いですわ! ここでは現代の最先端動物園でも安全策として用いられている『二重フェンス(ダブルフェンス)方式』と『バッファゾーン』を採用していますの」
カタリナは誇らしげに胸を張り、指示棒で緩衝地帯を指した。
カタ「ここにいる生き物は非常に巨大な『ある特徴』を持っています。万が一にもその部位が柵から飛び出して来園者の方に接触したり、動物自身が怪我をしたりしないよう、物理的な距離を保つための安全設計なのです」
「探す動物園」の理念に基づき、緩衝地帯の向こう側に広がる高低差のある丘や木立に生徒たちが目を凝らす。
すると、木漏れ日が差す小高い丘の上の木陰から、ゆったりとした足取りで一頭の巨体が姿を現した。
「「「おお……ッ!?」」」
集まった全員から、一斉に息を呑むような声が漏れた。
そこにいたのは、現代のヘラジカをも凌ぐ、肩高2メートルを超える圧倒的な体躯を持った巨大な鹿の仲間だった。
しかし、何よりも観客の視線を奪い、言葉を失わせたのは、その頭上に燦然と輝く「巨大な角」であった。
左右に大きく羽を広げたように平たく扇状(掌状)に展開したその角は、端から端までの幅がゆうに3メートルを超えている。太陽の光を浴びて鈍い光を放つその威容は、まるで頭上に巨大な王冠を戴いているかのようだった。
その雄姿に続き、やや小ぶりな角を持つ若いオスが一頭、そして角を持たずしなやかな体を持ち、つむじ風のように毛並みを揺らすメスが三頭、さらに親の足元で元気に跳ね回る幼体が二頭、草むらから次々と姿を現した。計七頭からなる、仲睦まじい群れである。
カタ「ご紹介します。第四紀のユーラシア大陸に君臨した伝説の巨大鹿……『メガロケロス』、別名オオツノジカです!」
ヘク「す、すごすぎる……! なんだあの角の広がりは! 骨格標本でもこれほどの規模のものは見たことがありませんぞ!」
生物研究室のヘクターが、興奮のあまり二重フェンスに身を乗り出す勢いで叫ぶ。
カタリナはメガロケロスの群れを愛おしそうに見つめながら、しみじみとした口調でつぶやいた。
カタ「……ふう。最初見た時は本当に驚いたわ…」
キー「義姉さん。献上品であの大きな角を見た瞬間、発狂してたよね……」
隣に立つキースが、当時の混乱を思い出して遠い目をしながら苦笑いを浮かべた。
そう、このメガロケロスたちがパークに保護された経緯は、極めて危機一髪なものだったのだ。
事の始まりは数ヶ月前。王国のとある地方貴族が餌となる肉を寄付してくれた。それはかなり大きかった為、カタリナは喜んだ。所が彼女の表情が変わったのは「領内の山奥で見たこともない珍しい大鹿を仕留めた」と誇らしげに、その巨大な角を王家への献上品として届けてきたことだった。
前世の知識でそれが絶滅古生物『メガロケロス』の角だと一目で判明したカタリナは、その場で「なんてことをしてくれたのよぉぉぉーーっ!?」と絶叫。
半狂乱になりながらその貴族の胸ぐらを掴みかねない勢いで生息場所を徹底的に問い詰めたのだった。
『ただのデカくて珍しい鹿』と勘違いした貴族たちによって乱獲され、全滅してしまう前に……!
カタリナの報告を受けたジオルドたち王家の迅速な動員と、魔法省の捕獲部隊、そしてカタリナ自らも現地へ乗り込んだ総力戦の結果、山奥にひっそりと生き残っていた最後の群れを無傷で丸ごと保護することに成功したのである。
カ(本当に、間一髪で全滅を免れて良かったわ……。あんな美しい生き物が人間の無知で消えてしまうなんて悲しすぎるもの!)
心の中で胸を撫で下ろすカタリナの横で、アランが感心したようにメガロケロスのオスを見上げていた。
アラ「しかし……あんなにバカでかい角をつけていて、首が折れたり生活の邪魔になったりしないのか?」
カタ「良い質問ですね、アラン様! 最新の研究によると、メガロケロスの体格はあの重さ40キログラム以上にもなる角を支えるため、首から背中にかけての骨と筋肉が強靭に発達しているんです。見てください、彼らの背中が少しこぶ状に盛り上がっているでしょう?」
生徒たちが観察すると、確かにオスの肩の上あたりが肉厚に盛り上がっているのが見えた。
カタ「あのコブは、重い角を支える強力な筋肉と、厳しい冬を乗り切るための脂肪を蓄える場所なのです。そして、昔の洞窟壁画などの研究から、彼らの毛並みは首下にふさふさとした濃いタテガミがあり、体には美しい模様があったとされています。……それに、あの巨大な角は決して敵を突くための武器ではありませんのよ」
ソフィ「武器ではないのですか……? あんなに立派なのに」
カタ「はい。あんなに幅の広い角で森の中を駆け回ったり、激しく殴り合ったりしたら、木に引っかかって動けなくなってしまいます。あの角は主に、メスに対する『僕はいかに健康的で栄養を摂取できているか』という誇示や、オス同士で力比べをする際、軽く組み合わせて押し合うためのものだったと考えられているのです」
展示場内には、彼らの健康を維持するための自然由来のエンリッチメントが散りばめられていた。
ハイテクな装置など一切ない。オスたちが角の表面の皮を剥がしたり、角を研いでストレスを解消するための『太い朽ち木や岩』が設置されており、実際に主のオスがズシン、ズシンと近づき、角を気持ちよさそうに丸太へ擦り付けていた。
さらに、広大な草地や茂みの陰には、彼らの大好物であるイネ科の野草や、甘いカブやニンジンといった現代の野菜が落ち葉の下に隠されている。
『ブォォン……、フシューッ』
群れのメスや子供たちが、鼻先をヒクヒクと動かして匂いを頼りに茂みを探り、隠された甘いカカブを見つけ出すと、ポリポリと嬉しそうに咀嚼し始めた。
二重フェンスとバッファゾーンのおかげで、彼らは人間の視線を適度な距離感で受け流し、まるで太古の氷河期の草原にいるかのように伸び伸びと過ごしている。
カタリナは、夕暮れの柔らかな光に照らされるメガロケロスの群れと、満足そうにノートを閉じる生徒たちの姿を見渡し、深く息を吐いた。
カタ「……以上をもちまして、プレヒストリック・パーク『実技観察ツアー』の全日程を終了いたします! 皆様、本当にお疲れ様でした!」
パチパチパチパチ……ッ!
カタリナの言葉が終わるや否や、割れんばかりの拍手が湧き起こった。
ヘクターをはじめとする生物研究室の生徒たちは感涙に咽び、メアリやソフィアは温かな笑顔を向け、アランやキース、ジオルドも満足げに頷いている。
太古の地球で力強く生きた古生物たちと、彼らを脅かすことなく安全に、そして敬意を持って観察できる最高の環境。
カタリナの情熱と前世の知識、そして仲間たちの協力によって作り上げられたプレヒストリック・パークは、この日、参加したすべての人々の心に、消えることのない感動と学びの種を確かに植え付けたのだった。
ーーー
大成功に終わったプレヒストリック・パークでの「古代生物学・特別講義」の実技観察。
夕暮れ時になり、オレンジ色に染まった空の下、興奮冷めやらぬ生徒たちや生物研究室の面々は、それぞれのノートにびっしりと書き込まれた成果を胸に抱きながら、賑やかに学園の寮へと帰路についていた。
カタリナたち生徒会メンバーもまた、長い影を落とす並木道を歩いていた。
キー「本当に、大成功してよかったね、姉さん。みんな、あんなに目を輝かせて恐竜たちの姿を見ていたよ」
メア「ええ、本当に素晴らしいツアーでしたわ! 何より、先頭に立って堂々と解説されていたカタリナ様のお姿……とても凛々しく、最高に素敵でしたわ!」
キースが安堵の笑みを浮かべて労いの言葉をかけ、メアリが両手を組み合わせてうっとりとした熱を帯びた声で絶賛する。
その横で、口数の少ないニコルも「ああ。カタリナの情熱が、皆にしっかり伝わっていた」と、静かに、しかし深く同意するように頷いた。
本来ならば、カタリナも「えへへ、そうでしょう!」と鼻高々にふんぞり返って喜ぶ場面である。
しかし――当のカタリナの足取りはどこか重く、その表情は夕陽のせいだけではない深い翳りを帯び、眉をひそめて深刻な考え事に沈んでいた。
ふと、歩調を合わせていたジオルドが、その異変にいち早く気がついた。
ジオ「……どうしたんだい? カタリナ」
いつものように完璧な微笑みを浮かべつつも、そのアイスブルーの瞳には微かな心配の色が滲んでいる。
ジオルドの問いかけに、カタリナはハッとして顔を上げ、小さく息を吐き出した。
カタ「……正直言って、不安がありまして」
ジオ「不安?」
カタリナがポツリとこぼした言葉に、キースたちも足を止め、真剣な顔つきで彼女を振り返った。
カタ「これまでに、このプレヒストリック・パークでは様々な時代からやってきた沢山の古生物たちを保護し、無事に命を救うことができました。草食恐竜から哺乳類、小型の肉食恐竜まで……。ですが、肝心の『大型の肉食恐竜』が、未だに保護されていなくて……」
その言葉に、腕を組んで歩いていたアランが怪訝そうな顔をした。
アラ「は? 大型の肉食って……今日見たディロフォサウルスとかがあんじゃねえか。コエロフェシスだって、十分危ねえ肉食獣だろうが」
カタ「違うの、アラン王子。私が言っているのは……もっと、もっとデカいやつよ」
カタリナの声音は、いつになく真剣で、微かに震えていた。
カタ(プレヒストリック・パークを創設してから、もうかなりの年月が経っている。王国中、いや周辺国にまで手配をかけて、古生物の目撃情報を集めているというのに……『あいつら』の情報だけが、どこにもないなんて絶対におかしいわ)
カタリナの脳裏に、深く刻み込まれた恐怖の記憶がフラッシュバックする。
拭いがたい…後悔の記憶……。
多数の犠牲者を出し…。今もなお姿を見せていない…。
あの生態系の頂点に立つ『二頭の超巨大な肉食恐竜』。
奴等も確実に、この『FORTUNE・LOVER』の世界に来ているはず。
あれほどの巨体を誇り、凄まじい食欲を持つ絶対的な捕食者がいれば、家畜の大量死や、森の生態系の破壊など、何らかの目撃情報や被害報告が上がってくるのが自然である。にも関わらず、これだけ時間が経っても一切の痕跡が見つからない。可能性はゼロではないのに、不気味なほどの沈黙が続いているのだ。
それが、カタリナの背筋を凍らせていた。
カタ(もし、人知れず巨大に成長して、ある日突然王都や領地を襲ってきたら……!)
考え込んだまま顔を青ざめさせるカタリナを見て、ジオルドは細めた目を僅かに鋭くした。
普段は少し抜けているカタリナだが、古生物のこととなると彼女の知識と直感は決して侮れない。彼女がここまで明確な『恐怖』と『確信』を抱いているのなら、そこには必ず相応の理由が存在するはずだ。
ジオ「……なるほど。カタリナがそこまで深刻にそう思うのなら、水面下で何かあるのだろうね」
カタ「ジオルド様……」
ジオルドはカタリナの肩にそっと手を置き、頼もしく、そして冷徹な王子の顔で微笑んだ。
ジオ「こちらでも王家の情報網と魔法省の暗部を動かしてもらうよ。未確認の大型獣による被害隠蔽や、不自然な生態系の乱れがないか、国境付近まで徹底的に洗わせよう」
カタ「! 本当ですか……!? 有難うございます、ジオルド様!」
国家権力という最強のカードを切ってくれたジオルドの言葉に、カタリナを覆っていた重い暗雲がパッと晴れ、彼女の顔にようやくいつもの明るい光が戻った。
カタ(ジオルド様が調べてくれるなら百人力だわ! 私が一人で悩んでいても仕方がない。あいつらの捜索は専門家に任せて……今の私がやるべきことをやらなくちゃ!)
不安を振り払うように、カタリナは両方の頬をパンッと両手で叩いて気合を入れた。
そうだ、いつまでも怯えてばかりはいられない。
今はプレヒストリック・パークの運営を軌道に乗せ、動物たちの命を守ること。
そして何より、相棒である土のボチと共に、農地に鍬を入れて美味しい野菜を育て上げる、我が心のオアシス『農業』に全力を注ぐことだ!
カタ(もし万が一、この先私の身にどんな困難が降りかかろうとも、自給自足のサバイバルスキルと体力さえあれば生き延びられるはず!)
カタリナは夕日に向かって、ギュッと力強く拳を握りしめた。
全ては不滅フラグが起きた時のために!
ーーー
一方、カタリナたちが夕陽に向かって決意を新たにしていた頃――。
王都の一等地にひっそりと佇む豪邸。その奥深くにある、豪奢だがどこか息苦しいほどに重厚な空気が漂う一室では、きな臭い密談が交わされていた。
分厚い遮光カーテンが引かれ、昼間であるにも関わらず薄暗い室内。高価なシガーの煙が立ち込める中、円卓を囲むように座る数人の男たちの顔には、一様に濃い不満と苛立ちの色が張り付いていた。
「……国王陛下は本当に一体、何を考えておられるのだ!!」
沈黙を破るように、一人の男がバンッ! と拳でマホガニーのテーブルを強く叩きつけた。卓上のワイングラスが微かに震え、赤い液体が揺れる。
「全くだ。あの規格外の巨獣ども……他国を牽制するための『戦争道具』として強力な魔法で使役し、軍事利用するというのならまだ理解もできる。それを、ただ安全な檻に入れて呑気に飼い殺しにするなどと……! 莫大な予算の無駄遣いにも程がある!」
別の男が、忌々しそうにワインを煽りながら吐き捨てる。彼らの目には、プレヒストリック・パークに保護された古生物たちが、生態系の歴史を紐解く貴重な命などではなく、単なる「危険な魔物」あるいは「利用価値のある兵器」としか映っていなかった。
「更には、たかが知性の欠片もない魔物なんぞのために、あんな広大な土地を使わせるなんて……正気の沙汰とは思えん! 完全に気が触れておられる!」
三番目の男が、額に脂汗を滲ませながら声を荒らげた。
彼がこれほどまでに激昂するのには理由がある。プレヒストリック・パークが建設されたあの広大な敷地――豊かな水源に恵まれ、土壌も良く、何より王都からのアクセスが申し分ないあの場所は、本来であれば他の貴族たちが別荘地や新たな領地、あるいは商業拠点として『喉から手が出るほど欲しがっていた』超特級の優良物件であったのだ。
それを、王家の権限とクラエス公爵家の後押しによって、得体の知れない古代生物の放牧地として丸ごと明け渡す結果となった。利権を奪われた形になった彼ら「反・古生物保護派」の貴族たちにとって、あのパークの存在は目障りなことこの上なかったのである。
怒りとはけ口のない不満が室内を満たし、再び重苦しい空気が漂い始めた、その時だった。
「まあまあ、皆様。お怒りになるお気持ちは痛いほど理解できますが、そう熱くならずとも」
部屋の一番奥。最も上座にあたる豪奢なソファに深く腰を沈め、顔の半分を影に隠していた男が、静かに口を開いた。
低く、しかし妙によく通るその声に、怒り狂っていた男たちの視線が一斉に集まる。
「終わってしまった昔の決定を、何度も何度も蒸し返さずともよいではありませんか。我々がいくらここで吠えたところで、王家の決定が覆るわけでもなし」
「しかし、閣下……!」
「焦る必要はありませんよ」
影の中の男は、嗜めるように片手を軽く上げて言葉を遮ると、手元のグラスをゆっくりと揺らしながら言葉を続けた。
「……そろそろ、『準備』は出来始めているのですから」
その、甘く囁くような、それでいて底知れぬ悪意を孕んだ言葉が室内に落ちた瞬間。
これまで憤満やる方ないといった様子で顔を赤くしていた貴族たちの動きが、ピタリと止まった。そして、彼らの顔に浮かんでいた不満げな表情が、みるみるうちに下卑た喜悦の色へと変わっていく。
「おおっ……! やっと、やっとですか!」
先ほどまでテーブルを叩いていた男が、身を乗り出すようにして歓喜の声を上げた。
「はい。手はずは整いつつあります。あの忌々しいパークの根幹を揺るがし、巨獣どもが『ただの御し難い害獣』であると世間に知らしめるための、極上の仕掛けがね」
影の中の男は、グラス越しに怪しく目を細めると、口角を三日月のように深く歪め、暗がりの中で【ニタリ】と気味の悪い笑みを浮かべた。
「これで……平和ボケした王家も、あの愚かな公爵令嬢も、すっきりと目を覚ますことでしょう。我々が本来手にするべきものを取り戻す時は、もうすぐそこまで来ているのです」
男の嗤い声に呼応するように、室内にいる他の貴族たちからも、低い、泥めいたような笑い声が漏れ始める。
カタリナたちが純粋な情熱を注ぎ、多くの人々の心に感動を与えたプレヒストリック・パーク。その平和な箱庭に、今まさに、人間のどす黒い欲望という名の『最大の脅威』が忍び寄ろうとしていたのだった。
ーーー
王都の喧騒からも、平和に包まれたプレヒストリック・パークからも遠く離れた、深い深い辺境の森の奥底。
月光すらも厚い樹冠に遮られた、黒く塗りつぶされたような完全な闇の中……。
ズチャッ……、ゴバァッ……、バキィ…!!
生温かい肉を引きちぎり、太い骨を粉々に砕く音だけが響き渡っていた。
むせ返るような濃密な血の匂いと、内臓が空気に触れたことで放たれる生臭い悪臭が、淀んだ夜の空気にねっとりと絡みついている。
それは陰で見えなかったが、奴らは仕留めた牛を捕食していた。
数十分前まで、その成牛は生きていた。しかし今や、その原形は見る影もない。
闇の中でうごめく『巨大な影』の顎が振り下ろされるたび、体重数百キロを誇る牛の分厚い皮と筋肉は、まるで熟れた果実のように容易く弾け飛んだ。
メチャッ……バキバキバキッ!!
凄まじい咬合力――実に数トンにも達する絶望的な破壊力が、牛の胴体に叩き込まれる。
分厚い歯は肉を突き破り、中の肋骨や脊椎を粉砕しながら深く食い込む。そして、彼らは太く強靭な首の筋肉を使い、足を踏ん張って獲物の体を力任せに後ろへと引きちぎるのだ。
「ブチブチブチィィッ!!」という凄惨な音と共に、牛の胴体が半ばから真っ二つに引き裂かれた。
千切れた動脈からドクドクと温かい血の滝が溢れ出し、地面を赤黒い泥濘へと変えていく。胃や腸といった消化器官がずるりと滑り落ち、未消化の牧草が血の海に散乱するが、巨大な影はそんなことにはお構いなしに、骨ごと噛み砕いた数十キロの肉塊を、咀嚼することなく丸呑みにしていった。
骨髄を啜るための『骨食』すら可能にする絶対的な顎の前では、牛の強固な大腿骨すらも、薄いガラス細工のように砕け散る。
そこには、二つの影があった。
一頭だけでも現代の生態系を容易く崩壊させるだけの質量と暴力性を備えた、頂点捕食者の番(つがい)だ。
彼らは血肉を奪い合うこともなく、ただひたすらに、己の満たされぬ巨大な胃袋を満たすためだけに、圧倒的な暴力で獲物を蹂躙し、解体し、貪り食っている。
やがて、肉はおろか骨の欠片すらも粗方呑み込み終わると、闇の中で静かに息を吐く音が聞こえた。
『シューゥゥッ……』
それは、映画の怪獣が上げるような派手な咆哮ではない。ワニや大型の鳥類が発するような、肺の奥底から空気を押し出す不気味な噴気音。
それに続き、大気を、そして地面そのものをビリビリと震わせるような、超低周波の重低音が響き始めた。
『ングルルルルル……』
人間の耳には音としてよりも『振動』として直接内臓に響くような、本能的な恐怖を呼び覚ます腹の底からの唸り声。
闇に沈む森の木々の隙間から、わずかに差し込んだ月明かりが、彼らの頭部を照らし出した。
強靭な鱗に覆われた分厚い皮膚。血と肉片に塗れた巨大な顎。
そして、その頭部の高い位置に並ぶ、前方を見据える両目――闇夜の中でわずかな光を反射し、不気味な黄金色にギラリと光る、捕食者の瞳。
巨大な二つの影から眼光が輝き、奴の声が木霊した。
『ゴオォォォォォ……ッ』
森の静寂を震わせるその低く重い響きは、長きにわたる沈黙を破り、彼らがこの世界の新たな「餌場」に向けて、本格的な侵攻を開始しようとする……血塗られた前兆であった。