乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してだけでなく私のせいで古生物を解き放ってしまった…。〜責任をとってプレヒストリック・パークを開きます〜 作:龍座
魔法学園に入学してから、初めての夏がやってきた。
前世の学校ほど長いものではないがソルシエ王国の魔法学園にも短い夏休みが存在する。
特別講義や実技観察ツアーといった怒涛の騒動を駆け抜けた生徒たちにとって、それは束の間の憩いの時間であった。そしてその夏休み、たいていの生徒は学生寮を出て、それぞれの実家へと帰省する。
カタリナ・クラエスも例にもれず、懐かしい我が家であるクラエス公爵家に帰省していた。
学園の重厚な部屋も悪くはないが、やはり長年過ごした実家は落ち着く。カタリナは広々とした自室のふかふかのベッドに倒れ込み、幸せそうに頬を緩ませていた。
カタ「夏休みってやっぱりいいものよねぇ。久々の実家、気楽でいいわー」
しかし、カタリナはただダラダラと休んでばかりいるわけではない。彼女の頭の中には、いつだってあの恐ろしい『破滅フラグ』の文字が重く鎮座しているのだ。いつ何時、ゲームの強制力が働いて悪役令嬢としての破滅が訪れるか分からない。だからこそ、この夏休みも来たるべき破滅フラグに向け、着々と対策を重ねていた。
庭に出れば、昔からの相棒である庭師のトムじぃちゃん協力の元、ジオルド対策兼護身用の『おもちゃのヘビ』をより遠く、正確に投げられるよう改良を重ねた。重心の位置や素材の柔らかさを試行錯誤し、スナップを利かせて狙った標的に命中させる特訓を繰り返す。
部屋に戻れば、公爵家の書庫から持ち出した農業関係の専門書や最新の品種改良の本を片端から読み漁り、ノートにびっしりとメモをとった。
もちろん、クラエス邸の庭の一角にある「マイ畑」の手入れも怠らない。汗を流しながら土を耕し、雑草を抜き、野菜の生長具合を観察する時間は、彼女にとって至福のひとときでもあった。
ちなみに、自身が創設に関わった『プレヒストリック・パーク』も、あの怒涛のツアー以降、王立の保護施設として非常に順調かつ円滑に軌道に乗っている。古生物たちの管理も研究者や専門スタッフの手によって行き届いており、園長としての役割もひとまずは安心できる状態であった。
だからこそ、カタリナの意識は再び原点である『農業』へと向かっていく。
ある日、マイ畑の畝を整え、額の汗を拭いながら、カタリナはぽつりと呟いた。
カタ「やっぱり、実物を見てみたいのよね~」
木陰で冷たいお茶を飲みながらカタリナの作業を見守っていた義弟のキースが、その呟きを聞き逃さず、ぴくりと眉をひそめて怪訝な目を向けた。
キー「……今度は、一体なんなの?」
カタ「畑よ!畑の実物を見てみたいのよ!」
キー「……畑?実物も何も、ここにあるじゃないか」
キースは、クラエス公爵邸の広大な敷地と美しい庭園を徐々に侵食しつつある、カタリナお手製の「マイ畑」を細い指で指し示した。その表情は、先ほどよりもさらに怪訝さを増している。そんなキースに対し、カタリナは身乗り出して熱っぽく主張した。
カタ「違うのよ!こんな庭に趣味で作っている畑じゃなくて、ちゃんと農家で作っている大きな畑の実物を見ておきたいのよ!」
キー「…………なんで?」
キースの至極全解な問いかけに対し、カタリナは腰に手を当て、ドヤ顔で胸を張った。
カタ「もちろん!もしもの時に、立派な農民になるためによ!」
「もしもの時」が国外追放された後の貧乏農民生活を指していることなど、キースに伝わるはずもない。堂々と胸を張る姉の姿を前に、キースは言葉を失い、深く深く頭を抱え込んだ。
キー「……もう、どこから突っ込めばいいのかわからない……」
公爵令嬢が古生物園の園長だけでなく「立派な農民になるため」に農家の畑を視察したいなど、常識的に考えれば頭を疑われる発言である。
目元を押さえ、胃のあたりを痛そうにさするキースのげんなりした様子にもめげず、カタリナはその後も猛アタックを続けた。
「本物の農家さんの土作りを見たいの!」「プロの知識を現地で学びたいの!」と目を輝かせて主張し続ける姉の熱意(と暴走)に押し切られ、ついにキースも諦めの溜息をつき、領内の広大な農地への見学見学の許可を出すこととなった。
「やったわ! これでいつ国外追放されても、即戦力の優秀な雇われ農民として生きていけるわ!」と心の中でガッツポーズを決め、ウキウキと準備を始めるカタリナ。
これから赴くその農地で、一体どれほど異様な事態が起きているのかを、この時の彼女はまだ何も知らずに……。
ーーー
そうしてキースから許可を得た数日後。
カタリナはキースの付き添いのもと、王都近郊に広がる大規模な農地へと、お忍びでの見学に出かけた。
なぜわざわざ「お忍び」なのかというと、理由は二つある。
一つは、公爵家の令嬢が豪奢な馬車と護衛を引き連れて突然農家を視察に訪れれば、純朴な農民たちを過剰に畏縮させ、パニックに陥らせてしまうからだ。
そしてもう一つの、最大の理由は――「公爵令嬢たるものが泥にまみれて農家の畑を見学に行くなどと言えば、お母様に雷を落とされる(物理的な意味ではなく、精神的な意味で)」という、切実極まりない配慮からであった。
そのため、今日のカタリナは煌びやかなドレスを封印し、動きやすい質素なワンピースに身を包んだ「少し裕福な商家の娘さん風」を装っていた。隣を歩くキースもまた、身分を隠した地味な服装をしている。
変装の甲斐もあってか、誰に咎められることもなく、カタリナは念願だった農地の見学を果たすことができた。
目の前に広がるのは、見渡す限りの広大な畑。青々とした野菜の葉が風に揺れ、土の豊かな匂いが辺り一面に漂っている。
カタ「やっぱり、本物の農家の畑は圧巻だわ~~! うちの庭の畑とは大きさも規模も桁違いね……土のふかふか具合も素晴らしいし、畝の作り方も合理的だわ!」
目をキラキラと輝かせ、あちこちを観察して感嘆の声を上げるカタリナ。
一方のキースは、「そりゃあ、趣味の家庭菜園とプロの農地を比べちゃ駄目だろう……」と内心でツッコミを入れつつ、周囲の安全に目を配っていた。
その時である。
カタ「あれは……」
ふと視線を上げたカタリナとキースの目に、信じられない光景が飛び込んできた。
遠く離れた区画の畑に、小山のように巨大な『何か』が複数、群れを成してうごめいていたのだ。
彼らは長い首を下ろし、農民たちが丹精込めて育てた野菜を、信じられないほどの猛スピードで次々と平らげていく。
キー「……なんだ、あれは。魔物……いや、違う?」
キースが警戒して魔力を練り上げようとしたその時、カタリナは群れのすぐ近くの茂みに、見覚えのある怪しい人影がしゃがみ込んでいるのを発見した。
カタ「ちょっとキース、あの茂みにいるのって……」
双眼鏡のような魔道具を構え、ブツブツと何事かを呟きながら巨大生物を観察している男。乱れた髪に、血走った目、そして異常なまでの探求心。
その正体は、魔法省生物研究室の部署長、ヘクター・デーリアスであった。
その瞬間、何かの気配を察知したのか、ヘクターがバッとこちらを振り向いた。
そして、農道の遠くに立つカタリナの姿を視界に捉えるなり、彼の目は尋常ではない輝きを放ち始めた。
ヘク「おおおおおッ!? カタリナお嬢様ァアア!!」
カタ「ひぃっ!?」
ヘクターは草をかき分け、泥を跳ね上げながら、凄まじい執念のダッシュでカタリナのもとへ突っ込んできた。キースが咄嗟に前に出てカタリナを庇うが、ヘクターは敵意を見せるわけではなく、ただひたすらに興奮した様子でカタリナの足元にすがりついた。
ヘク「ああ、天の導きか! まさかこんなところで古生物の権威であらせられるカタリナお嬢様にお会いできるとは! ぜひ、ぜひともあちらの美しい生物についてのご見解を伺いたいのです!」
キー「はぁ……またあなたですか。大方、あの未知の生物の噂を聞きつけて、研究のために飛び出してきたんでしょう?」
キースが呆れたようにため息をつくと、ヘクターは激しく頷きながら現状を説明し始めた。
ヘクターが言うには、数日前からこの農地にあの巨大な群れが住み着き、収穫間近の野菜を次々と食い荒らすという甚大な農業被害が出ているのだという。
農民たちも大勢で松明を掲げたり、大きな音を鳴らしたり、軽い威嚇魔法を放ったりして追い払おうとしたらしい。しかし、彼らは一時は森へ逃げ込むものの、ここの野菜の味をすっかり覚えてしまったのか、すぐにまた戻ってきてしまうのだそうだ。
カタ「なるほど……農家の人たちにとっては死活問題ね。でも……」
カタリナは、ヘクターの肩越しに遠くの畑を見つめた。
群れを成して野菜を食むその姿形は、前世の図鑑で何度も見たことのある、非常に特徴的なシルエットをしていた。
カタ「ソレがこの子たち……パラサウロロフスなのね……」
ヘク「おお……あれが……パラサウロロフス……!」
カタリナの口から紡がれた未知の学名に、ヘクターはうっとりと目を細めてメモ帳を取り出した。
『パラサウロロフス』――白亜紀後期に生息していた、鳥脚類ハドロサウルス科の大型草食恐竜である。
体長は約10メートル、体重は数トンにも及ぶ巨体。彼らは普段、四足歩行でゆったりと移動しながら低い位置の植物を食べるが、危険を察知したり速く移動したりする際には二足歩行に切り替えることができる。
カタリナの視線の先では、数頭のパラサウロロフスが四足で畑に屈み込み、食事の真っ最中だった。
彼らの口元は、カモのくちばしのように平たく広がっている。その硬いくちばしを使って、畑の野菜を根元から器用にむしり取っていく。
さらに彼らの顎の奥には、数百本もの歯が隙間なく並んだ『デンタルバッテリー』と呼ばれる強靭な構造があり、飲み込んだ硬い繊維質の植物を、やすりのようにすり潰して効率よく消化することができた。
だからこそ、人間の育てた栄養満点で柔らかい野菜など、彼らにとっては飲み物のようにあっという間に胃袋に収まってしまうのだ。
そして、パラサウロロフスの最大の特徴といえば、後頭部から後方へ向かって長く伸びた、筒状の『トサカ(冠飾)』である。
長さ1メートル以上にもなるそのトサカの中には、鼻腔から続く複雑な空洞が通っていた。
『――ヴぉぉぉぉぉぉぉん……』
『――ぶぉぉぉぉぉぉぉぉ……』
突如、畑の方から、まるでトロンボーンや霧笛のような、低く響き渡る重低音が響いてきた。映画の怪獣が上げるような猛々しい咆哮ではない。空気を震わせ、腹の底に響くような、不思議で神秘的な共鳴音だ。
ヘク「な、なんと美しい音色……! あの頭の突起から音を出しているのですか!?」
カタ「ええ、そうなの。あの長いトサカの中は空洞になっていて、管楽器のように音を共鳴させる役割があるのよ。あやって低い音を響かせることで、遠くにいる仲間とコミュニケーションを取ったり、群れをまとめたりしていると考えられているわ」
最新の研究に基づく正確な生態の解説に、ヘクターのペンが摩擦で煙を上げるほどの勢いでノートの上を走る。
キー「……感心している場合じゃないよ、姉さん。あのままじゃ、ここの農地は数日で全滅する。彼らに悪気がないとはいえ、農家の人たちからすれば『御し難い害獣』そのものだ」
キースの鋭い指摘に、カタリナはハッと我に返った。
パラサウロロフスは性質こそ比較的温厚な草食恐竜だが、その巨体と凄まじい食欲は、現代の農業にとって致命的な脅威である。
カタ「そ、そうよね! 農家の皆さんの血と汗の結晶である畑を、これ以上荒らさせるわけにはいかないわ! 急いで彼らを傷つけずに『プレヒストリック・パーク』へ保護する方法を考えないと……!」
農民たちの生活を守り、なおかつ迷い込んだ古生物の命も救う。
カタリナが腕組みをして、どうやってこの巨大な群れを安全に誘導するか、必死に頭を回転させていた所……。
ヘクターが、持っていた魔道具の通信機を懐にしまいながら、満面の笑みで告げた。
ヘク「それならご安心を。ただいま魔法道具研究室の人たちと特務保護部隊が向かってきてます!」
カタ「特務保護部隊が……! なら、彼らの安全も畑の保護もばっちりね!」
キー「ああ、それなら安心だろう。彼らが無事にパークへ移送してくれれば、農家の人たちも助かる」
ヘクターの頼もしい言葉に、カタリナとキースはほっと胸を撫で下ろした。専門のプロフェッショナルたちが来てくれるのなら、自分たちだけで数トンの巨体に対処するという無謀な真似をせずに済む。
安堵の息を吐きながら、カタリナ達が改めて広大な畑全体を見渡した、その時だった。
カタ「……あれ? ちょっと待って」
パラサウロロフスの群れが食事をしている場所から少し離れた区画。そこにも、不自然に揺れる巨大な影がいくつもあった。いや、一つや二つではない。ソレは、見渡す限りの畑のあちこちに、無数に点在していたのだ。
カタ「スケリドサウルスにエドモントサウルス、パキケファロサウルスにイグアノドン……それに、シノテリウムとエラスモテリウムまでいるじゃない……!」
驚愕のあまり震えるカタリナの指差す先では、時代も生息地域も全く異なる多種多様な古生物たちが、我が物顔で農作物のバイキングを満喫していた。
手前の畝を這うように歩いているのは、ジュラ紀前期の装盾類『スケリドサウルス』だ。体長4メートルほどの四足歩行の恐竜で、首から背中、尻尾にかけて何列にも並んだ楕円形の皮骨(骨の板)の装甲で覆われている。彼らは低い姿勢で地面を進みながら、小さなくちばしを使って背の低い葉野菜をむしゃむしゃと食べている。
その奥の果樹の近くで二本足で立ち上がっているのは、白亜紀後期の北米に生息していた大型鳥脚類『エドモントサウルス』である。体長10メートルを超える巨体であり、パラサウロロフスのような骨のトサカを持たない代わりに、頭頂部にニワトリのような「肉質のトサカ」を備えているのが近年の研究で判明した最新の特徴だ。前肢はミトンのように指が結合した蹄のようになっており、それを器用に使って木に寄りかかりながら、デンタルバッテリー構造の強力な顎で大量の果実や葉をすり潰して飲み込んでいる。
さらに別の畑では、白亜紀後期の周飾頭類『パキケファロサウルス』の姿もあった。体長約4メートルの彼らの最大の特徴は、頭頂部にある分厚いドーム状の骨と、その後頭部を縁取るように並んだ骨の突起だ。かつては頭突きをして戦うと言われていたが、現在では首の構造上真っ直ぐ衝突するのは難しく、横腹への体当たりや仲間へのディスプレイ(誇示)に使われたとする説が有力視されている。彼らはその特徴的な頭を揺らしながら、植物の葉や種子をついばんでいた。
そして、その近くで群れを作っているのは、白亜紀前期の代表的な鳥脚類『イグアノドン』だ。彼らは四足歩行と二足歩行を使い分けることができ、前肢にある鋭く尖った「親指のスパイク」を使って器用に硬い植物の茎を折り、第五指(小指)で物を掴むようにして採食している。
恐竜だけではない。さらに遠くの根菜の畑には、新生代の巨大な哺乳類までもが姿を現していた。
一つは、中新世後期から鮮新世にかけて生息していたサイの仲間『シノテリウム』。額から鼻にかけての一角を持ち、馬のように長く力強い足は、広大な草原を長距離移動するのに適している。
もう一つは、更新世のユーラシア大陸に生息していた巨大サイ『エラスモテリウム』である。「シベリアのユニコーン」とも呼ばれる彼らは、体長5メートル近くにも達し、額から生えた非常に長く巨大な角が特徴的だ。彼らはその巨大な角で器用に地面を掘り返し、高冠歯と呼ばれる丈の高い歯を使って、農民が育てた立派な根菜類を根こそぎ掘り出しては咀嚼していた。
中生代の恐竜から新生代の哺乳類まで、草食の巨大生物たちが勢揃いである。
丹精込めて作られた栄養満点で柔らかく、美味しくて食べやすい農作物が豊富に揃うこの広大な農地は、彼らにとってまさに夢のような楽園(無料食べ放題のバイキング会場)だったのだろう。
追い払っても追い払っても戻ってきてしまうわけである。
キー「……姉さん。これ、パラサウロロフス一種類の問題じゃないじゃないか……」
ヘク「おおおおお! 奇跡だ! 様々な時代の生物が一堂に会する奇跡の光景ですぞ!」
カタ「あああ……農家の人たちの血と汗と涙の結晶が……」
呆然と立ち尽くすキースと、感動で涙を流しながら狂ったようにスケッチを始めるヘクターをよそに、カタリナは頭を抱えた。
もう、完全に溜まり場と化していた。
頭を抱えていたカタリナだったが、ふと、パラサウロロフスの群れの端に視線を向けたとき、その表情がふわりと柔らかく緩んだ。
巨大な親恐竜たちの足元に隠れるようにして、ちょこちょこと懸命に歩く小さな影があったのだ。
体長はまだそれほど大きくなく、大人たちの最大の特徴である後頭部の長いトサカも、その子の頭にはほんの小さな突起として申し訳程度に付いているだけだった。親の真似をして、まだ柔らかいくちばしで一生懸命に葉っぱを食んでいる。
カタ(まだ幼いわね……もしかしたら、この世界で生まれたのかしら)
保護された個体だけでなく、この異世界という新たな環境の中で命が芽生え、育まれている。その事実に、カタリナは園長として、そして一人の人間として、胸の奥が温かくなるような微笑ましさを感じていた。
――その時だった。
『――ッッッビョォォォォォォォォン!!!』
空気を切り裂くような、けたたましく鋭い共鳴音が畑全体に響き渡った。
それは先ほどまでの穏やかなコミュニケーションの音色ではない。群れのリーダー格である巨大なパラサウロロフスが、トサカの空洞を限界まで震わせて発した、切迫した『警戒と警告』の叫びだった。
キー「な、なんだ!? 急に彼らが暴れ出して……!」
ヘク「むむっ? 観察の絶好の機会が……一体何事に――」
突如として恐竜たちがパニックを起こした理由が分からず、キースとヘクターが困惑の声を上げる。
しかし、カタリナだけは違った。
幼き頃、中生代に迷い込んだ時に聞いたあの幼少期のトラウマが…迫り来る数々の「破滅フラグ」を回避するために無意識のうちに磨き上げられてきた彼女の生存本能が、脳内で警鐘をけたたましく鳴らしたのだ。
『死』の気配が、すぐそこまで迫っていると。
カタ「隠れて!!」
悲鳴にも似たカタリナの鋭い声に、キースは考えるよりも先に体が動いた。
咄嗟にカタリナとヘクターを引き寄せると同時に、両手を勢いよく地面に叩きつける。膨大な魔力が土へと流し込まれ、ドーム状に隆起した分厚い土の壁が、瞬時に三人をごっぽりと覆い隠した。周囲の畑の土と同化した、擬装用の土魔法のシェルターである。
土の匂いが充満する薄暗いドームの中。
カタリナ達が息を殺し、壁に開けたほんのわずかな隙間から外を覗き込むと……。
森の木々の影から、這い出るようにして『奴』が現れた。
巨大な体躯。だが……今までこの農地で見てきた、どの草食恐竜たちともオーラが全く違う。
空気をビリビリと震わせるような圧倒的なプレッシャー。そして、風に乗って漂ってくるむせ返るような生肉と血の匂い。
キースとヘクターは、魔法も知識も関係なく、生物としての本能で瞬時に察知した。
これは……絶対に、草食恐竜のそれではない! 出会えば命を刈り取られる、真なる捕食者の気配だ、と。
カタ「まさか…トルヴォサウルスに出くわすなんて……」
震える唇から、カタリナは絶望にも似た声でその名を紡ぎ出した。
『トルヴォサウルス』――ジュラ紀後期の北米大陸およびヨーロッパにおいて、生態系の頂点に君臨していた大型の肉食恐竜である。
メガロサウルス科に属する彼らの体長は10メートル以上に達し、カタリナたちの視線の先を悠然と歩くその個体も、まさに規格外の巨体を誇っていた。
後に現れるティラノサウルスのようなスマートな脚力で長距離を素早く追いかけるタイプではなく、トルヴォサウルスの特徴は、その「圧倒的な重厚さ」と「パワー」にある。
丸太のように太く筋肉質な後脚が地面を踏みしめるたび、ズシン、ズシンと重い振動が土を伝わってくる。前肢(腕)は短めだが非常に太く頑丈で、獲物に深く食い込ませるための巨大で鋭い鉤爪が三本備わっていた。
そして何より恐ろしいのは、その頭部である。
巨大で分厚い頭骨の顎には、長さ10センチメートルを優に超える、短剣のような鋭い歯がびっしりと並んでいる。強力な顎の筋肉から生み出される凄まじい咬合力は、硬い草食恐竜の皮膚や骨を容易く噛み砕き、致命傷を与えることに特化していた。
ただ冷酷な爬虫類の瞳で逃げ遅れた獲物を物色するその姿は、本物の野生の捕食者だけが持つ、純粋な死の象徴であった。
キースは無意識にカタリナを庇うように立ち位置を変え、冷や汗を流しながら息を呑んだ。ヘクターもまた、先ほどの探求心はどこへやら、圧倒的な暴力の権化を前に声も出せずに震えている。
ジュラ紀の覇王たる凶悪な頂点捕食者が、いま、カタリナたちの潜む土のドームのすぐそばを、ゆっくりと通り過ぎようとしている。
分厚い土の壁に開けられた僅かな隙間から、三人は息を殺して外の惨状を見守っていると…。
トルヴォサウルスが畑に足を踏み入れた瞬間、その圧倒的な質量と捕食者特有のプレッシャーに当てられ、草食恐竜たちは一斉にパニックを起こして逃げ出していた。
しかし、カタリナは冷や汗を流しながらも、前世の古生物学の知識を総動員して極めて冷静に状況を分析していた。
カタ(あの巨体と骨格構造……トルヴォサウルスの走行速度は、現代の研究では時速およそ15キロから、せいぜい25キロ程度だと推測されているわ。白亜紀のティラノサウルスのような発達した脚部とは違い、彼らはあくまで『重さとパワー』で勝負するタイプの肉食恐竜。長距離を高速で走り続けることはできないはずよ)
カタリナの予想通りであった。
二本足で器用に走るパラサウロロフスやイグアノドン、そして哺乳類であるシノテリウムたちは、その長い脚と機動力を見せつけ、あっという間に畑の向こう、安全な森の奥深くへと姿を消していった。トルヴォサウルスも、無駄にエネルギーを消費するだけの無謀な追跡は初めからするつもりが無いらしく、遠ざかる群れを深追いしようとはしなかった。
だから現状、機動力のある古生物たちが一方的に追いつかれて食べられることはない。
……『機動力のある』古生物たちは、の話だが。
キー「……しまっ、逃げ遅れた子がいる!」
キースが隙間から身を乗り出しかけ、カタリナが慌ててその袖を引っ張って制止する。
キースの視線の先――トルヴォサウルスの行く手には、逃げ惑う群れから完全に取り残されてしまった、一頭の小さな姿があった。
スケリドサウルスである。
短い脚で懸命に土を蹴るスケリドサウルスだったが、その歩みはあまりにも遅い。
トルヴォサウルスの冷酷な爬虫類の瞳が、逃げ遅れたその小さな背中をはっきりと捉えた。
ズシン、ズシン、と重い足音を立てながら、捕食者が距離を詰めていく。
トルヴォサウルスの巨大な顎がゆっくりと開き、短剣のような10センチ超えの鋭い歯が、太陽の光を反射してギラリと凶悪に光った。
ヘク「ああっ、なんという悲劇……! あの小さな体では、トルヴォサウルスの凄まじい咬合力の前にはひとたまりもありませんぞ……!」
ヘクターが目を覆い、キースもまた、残酷な自然の摂理とはいえ、目の前で小さな命が蹂躙される瞬間を予想して顔をしかめた。
だが、スケリドサウルスもただ無策のままやられるばかりではなかった。
トルヴォサウルスの巨大な影が自身の体をすっぽりと覆い隠したその瞬間。
スケリドサウルスは逃げることをピタリとやめ、その場に四肢を深く折り曲げたのだ。
急所である柔らかい喉と腹部を完全に地面に押し当て、頭を前脚の間に隠すようにして、重心を極限まで低くする。
それは、彼らが数千万年という進化の過程で獲得した、生存のための絶対防御姿勢であった。
直後、トルヴォサウルスの巨大な顎が、スケリドサウルスの背中に向かって無慈悲に振り下ろされた。
ガキィィィィンッ!!
土のドームの中にまで響き渡ったのは、肉を切り裂く生々しい音ではなく、まるで硬い岩と鉄が激突したような、甲高く鈍い衝突音だった。
キー「……えっ?」
ヘク「むむっ!?」
目を見開く二人の前で、トルヴォサウルスは煩わしそうに鼻息を荒げ、一度顎を離した。
噛み砕かれたはずのスケリドサウルスは、なんと無傷のまま、地面に張り付くようにしてじっと耐え凌いでいたのだ。
カタ(そうよ! スケリドサウルスはアンキロサウルスのような尻尾のハンマーや、ステゴサウルスのようなサゴマイザーを持たないけれど、その代わり、彼らの背中を覆う『皮骨』は並の攻撃を寄せ付けない強固な盾なのよ!)
スケリドサウルスの皮膚には、数え切れないほどの楕円形の骨の板(皮骨)が、縦に何列も規則正しく埋め込まれている。喉元から尻尾の先まで、隙間なくびっしりと並んだその装甲は、まさに生きた甲冑だ。
さらに彼らが地面に伏せたことで、トルヴォサウルスにとっては「丸みを帯びた、とてつもなく硬い岩の塊」を上から噛み砕こうとしているのと同じ状態になってしまったのである。
苛立ったトルヴォサウルスが、今度は角度を変えてスケリドサウルスの側面に噛み付こうとする。
しかし、装甲の表面は滑らかで、かつ皮骨自体がわずかに隆起しているため、トルヴォサウルスの長く鋭い歯が、装甲の表面を『ガガガッ』と嫌な音を立てて滑ってしまう。肉に歯を深く食い込ませるための取っ掛かりが、どこにも見当たらないのだ。
圧倒的な咬合力を持つトルヴォサウルスであっても、顎を完全に開ききった状態で、この幅広で硬い装甲の塊をまるごと砕くことは容易ではない。無理に強い力を込めれば、自らの大切な歯をへし折ってしまう危険性すらある。
カタ(すごい……! 捕食者の構造的弱点を見事に突いた、完璧な防御力だわ!)
強靭な顎と牙で攻め立てるジュラ紀の覇王と、大地と一体化して絶対防御の陣を敷く最古の装盾類。
捕食される側が必ずしも無力ではないという、古生物たちの命を懸けた攻防戦が、息を呑む三人の目の前で繰り広げられていた。
その後も、トルヴォサウルスは獲物を諦めきれずにスケリドサウルスの周囲を歩き回り、何度か短く太い前肢を伸ばした。
三本の鋭い鉤爪を甲羅の隙間に引っ掛け、どうにかひっくり返そうと試みる。しかし、スケリドサウルスは柔らかい農地の土に自ら少し沈み込むようにして伏せており、爪を引っ掛けて持ち上げるための隙間すら全く与えなかった。
苛立ちに鼻息を荒く吹き鳴らしたトルヴォサウルスだったが、巨大な顎を一度だけ不満げに鳴らすと、トルヴォサウルスはついに諦め、トボトボと重い足取りでその場から歩み去っていった。
その信じられない光景に、土のドームの隙間から息を殺して見守っていたキースとヘクターは、ほうっと深い安堵の息を吐き出した。
キー「すごい……まさか、あの化け物みたいな肉食恐竜をやり過ごすなんて」
ヘク「なんという完璧な環境適応と防御メカニズム! 正直、あのまま顎の力で粉砕されてトルヴォサウルスの餌食になるかと思っておりましたぞ!」
感心しきりの二人の横で、カタリナは「ふふん」と両手を腰に当て、これ以上ないほどの見事なドヤ顔を浮かべていた。
カタ「どう? 私の言った通りでしょ! 草食恐竜だって、ただ食べられるだけの弱い存在じゃないのよ。数千万年の進化が作り上げた、立派な生存戦略なんだから!」
誇らしげに胸を張るカタリナ。
しかし、彼女のそのドヤ顔が、一瞬にして青ざめた絶望の表情へと変わる出来事が起きた。
『――おい! まだあっちの畑にデカブツどもが残ってやがるぞ!!』
『――俺たちの野菜をこれ以上食わせてたまるか! 追い出せ!!』
ドームの反対側、農道の方角から、野太い怒声と松明の火の粉、そして金属が打ち鳴らされる音が響いてきたのだ。
それは、パラサウロロフスなどの草食恐竜たちを追い払おうと、村から集結してきた農民たちだった。彼らは鍬やピッチフォーク、草刈り用の大鎌など、あり合わせの農具を武器として手に持ち、数十人の集団となって畑へと足を踏み入れていた。
平民である彼らは、魔法が使えない。だからこそ、数の暴力と大きな音、そして火の光で野生動物を威嚇して追い払うという、昔ながらの手段を取るしかなかったのだ。
だが、運が悪すぎた。
彼らが追い払おうとしていた温厚なパラサウロロフスの群れはすでに逃げ去っており、今、その畑の真ん中に立ち塞がっているのは――飢えと苛立ちを募らせた、体長10メートル超のジュラ紀の覇王である。
農民たちの大きな声と松明の炎に反応し、去りかけていたトルヴォサウルスが、ゆっくりとその巨大な頭部を振り返らせた。
冷酷な爬虫類の双眸が、無防備な人間たちを『新たな獲物』として明確に捉えた。
カタ「っ……逃げて! 逃げてぇええええええっ!!」
カタリナがドームの隙間から喉が裂けんばかりの悲鳴を上げたが、時すでに遅かった。
人間たちに気づいたトルヴォサウルスは、不気味なほど一切の咆哮を上げることなく、ただ無音のまま、獲物へ向かってその重厚な巨体を突進させた。
ズシンッ、ズシンッ、ズシンッ!!
大地を揺らす規格外の質量が、凄まじいスピードで農民たちに迫る。
『ひっ!? な、なんだこいつは……ヒィィィィッ!!』
先頭を歩いていた農民の男が、恐怖で腰を抜かしそうになりながらも、無我夢中で手にしていたピッチフォークを突き出した。
しかし、鉄の刃がトルヴォサウルスの分厚く硬い鱗に覆われた吻部(鼻先)に当たっても、傷一つ付かない。魔法の乗っていないただの物理攻撃など、恐竜の王には文字通り痛くも痒くもなかった。
次の瞬間、トルヴォサウルスの巨大な顎が、男の上半身を丸ごと包み込むようにしてガコンッ!と閉じた。
『――ギャアアアアアアアアアアアアッ!?』
メキメキメキッ! グチャァッ!!
鈍い骨の砕ける音と、水風船が破裂したような湿った音が同時に響き渡る。
長さ10センチメートルを超える、ステーキナイフのように縁がギザギザになった鋭い牙が、男の鎖骨から肋骨、そして背骨に至るまでを豆腐のように易々と貫通し、噛み砕いた。
トルヴォサウルスの凄まじい咬合力は、男の肺を瞬時に圧壊させ、悲鳴ごと命をすり潰す。顎の隙間から、致死量の鮮血が滝のように噴き出し、青々としたキャベツの葉を赤黒く染め上げた。
キー「ああっ……!!」
ヘク「ヒィッ……!?」
土のドームの中で、あまりの惨劇にキースとヘクターが息を呑み、カタリナはガタガタと全身を震わせてへたり込んだ。
トルヴォサウルスは獲物を咥えたまま、強靭な首の筋肉を使って頭を上空へと勢いよく振り乱した。
ブチブチブチッ!! と、肉と筋繊維が千切れる生々しい音が響き、男の下半身が真っ二つに引きちぎられて宙を舞った。千切れた断面から腸や内臓がズルズルとこぼれ落ち、血の雨となって周囲の農民たちの頭上に降り注ぐ。
『う、うわああああああああっ!!』
『化け物だ! 逃げろ、逃げ――』
仲間の無惨な死に様と、頭から内臓と血を浴びた農民たちは、完全にパニックに陥り、武器を放り出して我先にと逃げ惑った。
だがトルヴォサウルスの狩りは終わらない。彼らにとって、魔法の使えないひ弱な人間など、装甲を持ったスケリドサウルスに比べれば、あまりにも柔らかく剥き出しの「ひもじいが狩りやすい最高の餌」でしかなかった。
逃げ遅れた若い農民の背中に、トルヴォサウルスの重厚な後脚が振り下ろされる。
数トンの体重が乗った三本指の足が男の背中を踏み潰した瞬間、グシャァッ! という骨肉がペースト状に潰れる音が響いた。肋骨は粉々に砕け、内臓は圧力の逃げ場を失って口や眼窩から弾け飛び、男は一瞬にして地面の泥と同化する肉塊へと成り果てた。
さらにトルヴォサウルスは、横をすり抜けようとした別の男に向かって、短いながらも異常な筋肉量を誇る前肢を振るった。
鋭く巨大な三本の鉤爪が、男の腹部を横凪ぎに引き裂く。
『あ、あがっ……!?』
男の腹は薄い布きれのように切り裂かれ、中から温かい小腸や大腸がドバッと地面にこぼれ落ちた。男は自身の腹から溢れ出る内臓を信じられないものを見るような目で見つめた後、そのまま力なく血だまりの中へ崩れ落ちた。
生きたまま頭から噛み砕かれる者、巨大な尾のひと振りで全身の骨を折られて畑の彼方へ吹き飛ばされる者、恐怖で腰を抜かしたまま生きたまま内臓を引きずり出される者。
美しい農村の風景は、わずか数十秒の間に、血と泥と臓物で彩られた阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
『タスケテ……タスケ……』
『嫌だ、食いたくない、食わッ――ギャアアアアア!!』
人間の命乞いの言葉など、一億数千万年前の捕食者には何の意味も持たない。
トルヴォサウルスは滴る血を舐めとるように舌を這わせながら、まだ温かい人間の胴体に牙を立て、肉を引き裂く。
咀嚼するたびに骨が砕けるバリッ、ボキッという不快な音が、カタリナたちの潜む土のドームにまで絶え間なく響いてきた。
圧倒的な自然の暴力。食物連鎖の頂点に立つ者と、魔法という武器を持たない無力な人間の、あまりにも絶望的な力の差。
生々しい血の匂いが充満する中、カタリナは両手で耳を塞ぎ、目を固く閉じて、ただ震えることしかできなかった。
ーーー
ズシン……ズシン……という重苦しい地響きが次第に遠ざかり、やがて森の奥底へと完全に気配が消え去った。
圧倒的な死のプレッシャーが去り、不気味なほどの静寂が辺りを包み込む。もう奴はいないと確信したキースが、震える手で土魔法を解除し、ドームの壁を崩した。
外の空気が流れ込んできた瞬間、三人の鼻腔を強烈に殴りつけたのは、むせ返るような濃密な血の匂いと、泥、排泄物、そして千切れた内臓から放たれる生臭い悪臭だった。
ドームから這い出たカタリナ、キース、ヘクターの三人が見たものは、先ほどまでの美しく豊かな農地ではない。地獄の底からそのまま引きずり出されてきたかのような、凄惨極まる『屠殺場』の跡地であった。
巨大な三本指の足跡によって深く抉られ、赤黒く染まりきった泥濘の中には、もはや人間の原型を留めていない肉塊が無数に散乱していた。
トルヴォサウルスの巨大な顎と鋸歯によって上半身を噛み砕かれた男は、胸から上が完全に消失し、不自然に千切れた首の断面からは砕けた頸椎と気管が剥き出しになり、どくどくと赤黒い血の泡を吹いている。
数トンの体重で踏み潰された者は、肋骨が皮膚を突き破って飛び出し、頭蓋骨は熟れすぎた果実のように弾け飛んでいた。灰色の脳漿と潰れた眼球が、泥にまみれた野菜くずと共に地面へねっとりと擦り込まれている。
鋭い鉤爪で腹を裂かれた男に至っては、自身の体からこぼれ落ちた腸を数十メートルにわたって泥の上に引きずり出されており、生気のないピンク色の臓物の海の中で、もがき苦しんだ末に絶命していた。
カタ「う、あ……っ……」
前世を含めても、これほどまでに残酷で生々しい命の蹂躙を見たことなどなかった。
視界を埋め尽くす赤とピンクの臓物、そして鼻を突く強烈な死臭に、カタリナの胃袋が激しく痙攣した。
カタ「おえぇぇぇぇぇぇぇぇっ!! げほっ、うぇっ……!」
耐えきれずその場に膝をつき、カタリナは胃の中のものを全て泥の上に吐き出した。涙と胃液で顔をぐしゃぐしゃにしながら、激しい嘔吐を繰り返す。
キー「姉さん! 駄目だ、もう見ないで……!」
顔面を蒼白にしながらも、キースは慌ててカタリナの側に駆け寄り、彼女の視界を遮るように抱き寄せて背中を必死にさすった。ヘクターもまた、学者の好奇心など完全に消し飛び、木陰で両手をついて激しく嘔吐している。
だがその時、血の海と化したキャベツ畑の陰から、微かに「ひゅー……ひゅー……」という、空気が漏れるような不気味な音が聞こえた。
ヘク「だ、誰か……生きている者が……!」
吐き気を堪え、ヘクターの指差す方向へとキースとヘクターが慌てて駆け寄る。
そこにいたのは、下半身を完全にトルヴォサウルスの顎に持っていかれ、両腕だけで泥を掻いて進もうとしている若い農民の姿だった。
骨盤から下は無惨に食い千切られ、引きずった跡にはドロドロの血液と、破れた胃袋からこぼれた未消化の食べ物が散乱している。致命傷などという次元ではない。痛覚すらとうに麻痺してしまったのか、男は虚ろな目で宙を見つめ、口からごぼごぼと血の泡を吐き出していた。
キー「しっかりしろ! 今、応急処置を……!」
キースが青ざめた顔で男の肩を抱き起そうとした瞬間、男の血まみれの手が、キースの衣服の袖をガシリと力強く掴んだ。
「ぜん…ぶ……『隠し子の呪い』のせいだ……」
キー「え……?」
「隠し子の呪い」。
焦点の合わない目で、怨嗟のようにその言葉を吐き出した直後。男の喉からゴルッという鈍い音が鳴り、そのまま瞳孔が開いて息絶えた。掴んでいた手から力が抜け、泥の中へと力なく落ちる。
ヘク「隠し子の呪い……? 一体何を言っているのでしょうか……」
男の不可解な最期の言葉にヘクターが困惑する中、キースは立ち上がり、静かに周囲を見渡した。
事態は全く収まってなどいなかった。むしろ、本当の悲劇はここから始まろうとしていたのだ。
惨劇の跡地から、巨大な三本指の血塗られた足跡が、真っ直ぐに森を抜け、人間の住む領域へと続いている。
その足跡が向かっている方角を目で追った瞬間、キースは心臓を鷲掴みにされたように目を見開いた。
キー「確かあそこは…!?」
キースの切羽詰まった声に、青白い顔で口元を拭いながらカタリナがよろよろと立ち上がる。
カタ「どうしたの、キース……? 奴が、どこに向かっているって言うの……」
キー「姉さん、あの足跡が向かっている街道の先……
あそこは、マリアの生まれ育った町がある方向だ!」
その言葉を聞いた瞬間、カタリナは全身の血の気が引くのを感じ、限界まで目を見開いた。
『マリアの生まれ育った町』。
光の魔力を持って生まれたことで周囲から迫害され、孤立していたマリア・キャンベルの故郷。
現在、マリアと彼女の母親はカタリナたちの手配によって別の安全な場所へと移住してもらっており、あの町にはいない。だが、彼女が幼い頃に駆け回った道、見慣れた家並み、そして何の罪もない多くの町の人々がそこに住んでいるという事実は変わらないのだ。
もし、あの血に飢えたジュラ紀の覇王が、人口の密集する町へと足を踏み入れたら。
先ほどの凄惨な屠殺場以上の、文字通りの地獄絵図が町中で繰り広げられることになる。
カタ「っ……!! 急ぐわよ、キース! ヘクターさん!!」
恐怖と吐き気で震えていたカタリナの瞳に、先ほどまでの絶望とは違う、仲間を、そして罪なき人々を守らなければならないという強烈な決意の光が宿った。
カタ「マリアの故郷を、あの化け物に好き勝手させるわけにはいかないわ! 遠くに避難させていた馬車をすぐに呼び寄せて! あの町へ向かうわよ!!」
恐怖を怒りでねじ伏せ、カタリナ達は急いで空へ魔法の合図を打ち上げた。
森の陰で待機し、恐竜の気配に怯えていたお忍び用の馬車を無理やり呼び寄せると、三人は血と泥にまみれた衣服のまま馬車に飛び乗り、トルヴォサウルスの足跡を追ってマリアの元故郷へと全速力で馬を走らせた。
ーーー
マリアの故郷を救うため、土埃を上げ、馬に鞭を打ちながら全速力で馬車を駆る。
だが、時すでに遅かった。
町に近づくにつれ、風に乗ってカタリナたちの耳に届いてきたのは、地獄の底から響くような断末魔の悲鳴と、家屋が飴細工のようにへし折られ、破壊される重低音だった。
馬車が町の入り口に差し掛かった瞬間、三人の目の前に飛び込んできたのは、逃げ惑う人々の群れと、その背後で我が物顔で徘徊する血まみれの巨獣――あのトルヴォサウルスの姿であった。
「馬車を遠くへ逃がして!」
カタリナの悲痛な指示に、御者は真っ青な顔で頷き、急いで馬車をUターンさせて全速力で離脱していく。カタリナ、キース、ヘクターの三人は、馬車から飛び降りると、半壊した石造りの民家の陰へと転がり込むようにして身を潜めた。
ガタガタと車輪の音を立てて遠ざかる馬車に、広場で暴れていたトルヴォサウルスが一瞬だけ血塗られた頭部を向けた。
しかし、装甲のように
『あ、あああ……嫌だ、来るな、来るなぁぁっ!』
ズシンッ!!
無慈悲な数トンの質量が、男の腰から下を容赦なく踏み潰した。
「ゴボァッ!?」
骨盤と両脚の骨が粉々に砕け散り、逃げ場を失った大量の血液と腸の内容物が、男の口と破裂した腹部から一斉に噴き出した。トルヴォサウルスは、苦痛に顔を歪めて痙攣する男の胴体に狙いを定め、長さ10センチを超える鋸歯の並んだ顎を深く食い込ませる。
メチャァッ、グチャグチャグチャッ!
ステーキナイフのような牙が男の肋骨を噛み砕き、肺と心臓をすり潰す。トルヴォサウルスが頭を振り乱すたびに、ブチブチと筋肉や腱が引きちぎられ、飛び散った血の雨が周囲の建物の壁を赤黒く染め上げていった。
息を殺して石壁の隙間から惨状を覗き込む三人の視界には、もはや直視に耐えない光景が広がっていた。
地面は広範囲にわたってぬかるんだ血の海と化し、いたるところに原型を留めない人間の亡骸と、引きちぎられた手足、ズルズルと引き伸ばされたピンク色の臓物の部位が散乱している。
だが、その凄惨極まる地獄絵図を見つめながら、ヘクターの学者の脳裏に一つの大きな違和感がよぎった。
ヘク(……おかしい。あのトルヴォサウルスは、我々と同じタイミングでこの町に到着したばかりのはず。だと言うのに……この被害の規模はあまりにもデカすぎる)
ヘクターが戦慄したのはその点だった。
町中の建物の半数近くがすでに破壊され、地面の血だまりのいくつかはすでに黒ずんで凝固し始めている。いくら10メートル超えの巨体と圧倒的な咬合力を持つトルヴォサウルスであっても、たった数分の間にこれほど広範囲を徹底的に蹂躙し、数十人規模の人間を殺戮して解体することなど、物理的に不可能なのだ。
まるで、トルヴォサウルスが到着するよりも『ずっと前』から、すでにこの町が何者かによって壊滅させられていたかのように――。
その時だった。
トルヴォサウルスが食事をしている広場とは反対側の、血の匂いが立ち込める入り組んだ路地の陰から、もう一つの『巨大な影』が、不気味なほど一切の足音を立てずに滑り出るように現れたのだ。
カタ「そんな…嘘でしょ……?」
そのシルエットを見た瞬間、カタリナは絶望に顔を歪め、ガタガタと震える両手で自身の口元を覆った。
それは、いうなれば誰もが知っている、ジュラ紀後期における最も成功した最強の肉食恐竜の一角。
体長およそ8.5〜10メートル。トルヴォサウルスに匹敵する巨体でありながら、よりスレンダーで機動力に富んだ強靭な後脚を持っている。目の上には特徴的な角状の突起があり、そして何よりも、非常に太く発達した前肢に、死神の鎌のような三本の巨大な鉤爪を備え付けていた。
喉の奥で「シューッ」という不気味な呼気音を漏らしながら、冷酷な目で獲物を探している。
トルヴォサウルスが『重さと咬合力』に特化した覇王ならば、こちらは『機動力と殺傷力』を極めた、真なる狩人である。
カタ「何で…アロサウルスまでいるのよ……?」
『アロサウルス』――。
カタリナの震える呟きを証明するかのように、そのアロサウルスは、路地の樽の陰に隠れて震えていた若い女性を見つけ出した。
『ヒッ……いや、いやぁぁぁっ!』
逃げ出そうとした女性の背中に向かって、アロサウルスが発達した前肢を無造作に伸ばす。
強烈なスピードで振り下ろされた巨大な三本の鉤爪が、女性の両肩から背中にかけて、バターでも切り裂くように深々と突き刺さった。
『ガアアアアアアアアアアッ!?』
ブシャァァッ! と背中から鮮血が噴き出す。
ティラノサウルスの短い腕とは全く違う、獲物を確実に押さえ込み、フックのように肉に引っ掛けて逃がさないための強靭な腕。鉤爪は女性の鎖骨を砕き、肺にまで到達していた。
アロサウルスは、悲鳴を上げて痙攣する女性の背中を前肢の爪でしっかりと固定したまま、自らの顎を限界まで、それこそ蛇のように異常な角度にまで大きく開いた。
そして、女性の頭部から首筋にかけての肉に、薄く鋭利なノコギリ状の牙を突き立てる。
トルヴォサウルスのように『顎の力で骨ごと噛み砕く』のではない。アロサウルスの真骨頂は、大きく開いた上顎を獲物に叩き込み、強力な首の筋肉を使って『強烈な勢いで後方へと肉を引き裂く(引き剥がす)』ことにある。
アロサウルスの首の筋肉が大きく隆起し、後ろに向かって頭部が振り抜かれた。
メリメリメリッ!! ブリュッ、ブチブチブチィィッ!!
硬い布を無理やり引き裂くような音と共に、女性の頭部から首、そして肩にかけての皮膚と筋肉が、頸椎ごと丸ごと引き剥がされた。
「あ、が……」
切断された太い頸動脈から、間欠泉のようにドクドクと赤い血柱が夜空に向かって吹き上がる。
顔の右半分の肉と首の肉を完全に喪失し、真っ白な骨とピンク色の気管が剥き出しになった女性は、一瞬だけビクンと大きく跳ねた後、首の皮一枚でぶら下がった頭部をだらりと垂らし、完全に絶命した。
アロサウルスは引きちぎった巨大な肉塊を喉の奥へ丸呑みにすると、鉤爪に引っかかっていた女性の残骸を、煩わしそうにゴミのようにポイと泥の中へ放り捨てた。
ボチャッという湿った音を立てて落ちた亡骸から、大量の血がとめどなく流れ出し、町の地面をさらに赤く染め上げていく。
トルヴォサウルスだけでなく、アロサウルスまでもがこの町に跋扈していたのだ。
この二大肉食恐竜が同時に襲来し、手分けをするように逃げ惑う人間たちを狩り尽くしていたからこそ、たった数十分で町一つがここまで徹底的に蹂躙され、血の海と化していたのである。
圧倒的な絶望。
逃げ場のない地獄の底で、カタリナたちはただ息を殺し、次の生贄が自分たちにならないことだけを祈りながら震え続けることしかできなかった。
石壁の隙間から絶望的な惨状を見つめながら、ヘクターは血の気を失った顔で戦慄と共に呟いた。
ヘク「そうか……この異常な被害のデカさの原因は、我々が追ってきたトルヴォサウルスではなく、先にこの町へ来ていたそのアロサウルスの仕業だったのか……」
アロサウルスが人間の女性の頭部を引きちぎり、血の雨を降らせた直後。
広場で別の人間を貪っていたトルヴォサウルスが、その濃密な血の匂いと同格の捕食者の気配に気づき、ゆっくりと巨体を振り返らせた。
ジュラ紀後期における、二大頂点捕食者。
体長10メートルを超える巨獣同士の視線が、血と臓物に塗れた町の中心で完全に交錯した。
トルヴォサウルスとアロサウルス。彼らは同じ時代、同じ大陸に生息しながらも、普段は狙う獲物のサイズや生息環境を微妙に変えることで直接的な衝突を避けてきた。だが、ここは違う。逃げ場のない閉鎖的な町であり、両者にとって手軽で極上の柔らかい肉が散乱する、絶好の「餌場」と化していたのだ。
せっかくのテリトリーに侵入してきた、排除すべき異物。互いの冷酷な爬虫類の瞳に、明確な『殺意』が宿る。
二頭の肉食恐竜は、人間たちの亡骸を踏みにじりながら、互いの出方を伺うように円を描いてゆっくりと歩み歩みだした。ズシン、ズシンという足音が、カタリナたちの潜む石壁をビリビリと震わせる。
そして、臨界点に達した両者が、威嚇のために『咆哮』を上げた。
当然、前世の映画でカタリナが見たような、ライオンや熊のような大口を開けた『ガアアアアッ!』という派手な咆哮ではない。
彼らが発したのは、口を閉じたまま喉の奥や胸腔の空気を極限まで共鳴させて生み出す、クローズド・マウス・ボーカリゼーションであった。
『――ヴヴヴヴヴヴヴンッ……!!』
『――シュオォォォォォォォ……ッ!!』
それは耳で聞くというより、内臓を直接揺さぶられるような、底知れぬ重低音の振動と、巨大なワニが威嚇するような空気を切り裂く強烈な摩擦音の混ざり合った、本能的な恐怖を呼び覚ます死の音色だった。
空気がひび割れるようなその振動音と同時に、両者の太く強靭な後脚が、血の海と化した地面を爆発的な力で蹴り上げた!
ドスゥゥゥゥンッ!!
総重量十数トンにも及ぶ肉の塊同士が、巨大な城門が激突したかのような凄まじい衝撃音と共に真っ向からぶつかり合った。
その余波だけで周囲の木造家屋がマッチ棒のように吹き飛び、瓦礫がカタリナたちの頭上に降り注ぐ。
真っ先に牙を剥いたのは、重さと咬合力に勝るトルヴォサウルスだった。
圧倒的な質量を乗せた突進でアロサウルスの体勢を崩させると、長さ10センチを超える短剣のような歯が並ぶ巨大な顎を開き、アロサウルスの太い首筋に喰らいつこうと突進する。
だが、アロサウルスは機動力の化身だ。
スレンダーでバネのような筋肉を持つ後脚を使って瞬時に上体を逸らし、致命傷となる首への一撃を紙一重で躱す。トルヴォサウルスの牙はアロサウルスの分厚い肩の皮膚を掠め、ギザギザの鋸歯が赤黒い鱗を削り取って鮮血を散らすに留まった。
カウンターの隙間を与えられたアロサウルスは、その最大にして最凶の武器である強靭な前肢を振るった。
トルヴォサウルスに比べて異様に太く長く発達したその腕の先には、死神の鎌を思わせる三本の巨大な鉤爪が備わっている。アロサウルスはその鉤爪を、トルヴォサウルスの無防備な側頭部から首の付け根にかけて、全力で叩き込んだ。
『シュゴオオオオッ!』という不気味な呼気音と共に、巨大な爪がトルヴォサウルスの分厚い皮膚と分厚い筋肉の層をバターのように深々と突き破る。
「……ッ!!」
ブシャアアアアアアアッ!!
カタリナたちが息を呑む中、トルヴォサウルスの首筋から、大量の熱い血が滝のように噴き出した。アロサウルスの爪は単なる切り裂き用ではなく、獲物の肉に食い込ませ、フックのように『固定』するための構造をしている。
首筋に爪を深く食い込ませてトルヴォサウルスの巨体を無理やり引き寄せると、アロサウルスは自身の必殺技である手斧攻撃を放った。
大きく口を開け、上顎をそのままトルヴォサウルスの背中へ向かって、まるで斧を振り下ろすように激突させる。そして、強靭な首の筋肉を使い、薄く鋭利な牙を肉に食い込ませたまま、強烈な勢いで後方へと頭部を引き剥がした。
メリメリメリッ! ズバァァァァァッ!!
鼓膜を破りそうな肉の裂ける音が響き渡り、トルヴォサウルスの背中から肩にかけての肉が、長さ1メートル、深さ数十センチにわたってごっそりと引き剥がされた。
剥き出しになった赤黒い筋肉の繊維が脈打ち、切断された太い血管からドクドクと間欠泉のように血が吹き上がり、周囲の廃墟を真っ赤に染め上げる。
だが、トルヴォサウルスもただでは終わらない。
背中の肉を大きく削ぎ落とされるという致命傷に近い一撃を受けながらも、痛覚など存在しないかのように反撃に出た。
肉を引き裂いて一瞬体勢が浮いたアロサウルスの右腕――自分に深く爪を突き立てていたその前肢を、トルヴォサウルスが下から突き上げるようにして巨大な顎でカプッと咥え込んだのだ。
トルヴォサウルスの真骨頂は、全てを粉砕するその『異常な咬合力』にある。
アロサウルスの前肢を咥え込んだ瞬間、トルヴォサウルスの分厚い顎の筋肉が限界まで隆起し、数トンの圧力が一点に集中した。
――メキィッ! バキボキボキィィッ!!
乾いた大樹がへし折れるような、おぞましい破砕音が町中に響き渡った。
アロサウルスの誇る強靭な右腕の骨(橈骨と尺骨)が、トルヴォサウルスの強烈な噛み砕きによって完全に粉砕されたのだ。
引きちぎられる以上の惨状。砕け散った白い骨の破片がアロサウルスの皮膚を内側から無数に突き破り、グチャグチャになった筋肉と神経の束から、ドロドロの血液と黄色い脂肪が滴り落ちる。
『シ、シュゥウウウウウウウウウッ!!』
右腕を完全なスクラップにされたアロサウルスが、苦痛と怒りに身をよじらせながら激しくのたうち回った。その長い尾が暴れるように振り回され、残っていた石造りの民家を土台から粉砕する。
トルヴォサウルスは咥え込んでいたアロサウルスの潰れた腕をペッ、と吐き出すと、血走った目でそのままアロサウルスの無防備な腹部へ向けて再度突進した。
ドスッ! と重い頭突きのような一撃がアロサウルスの肋骨に直撃し、メキッという骨のヒビ割れる音が鳴る。
弾き飛ばされたアロサウルスは、人間の千切れた死体や内臓が散乱する泥と血の海の中へ、ズザザザッ!と派手に横転した。その巨体が地面を滑る過程で、町民の遺体がミンチのようにすり潰されていく。
追い打ちをかけるべく、トルヴォサウルスがその数トンの体重を乗せて、倒れたアロサウルスの喉元を踏み潰そうと重厚な後脚を振り上げる。
だが、死の淵に立たされてもなお、アロサウルスの闘争本能は衰えていなかった。
仰向けに倒れた状態から、残った左腕のフック爪をトルヴォサウルスの踏み下ろしてくる太ももに突き立てて軌道を逸らすと同時に、バネのような後脚でトルヴォサウルスの下腹部を強烈に蹴り上げたのだ。
鋭い足の爪がトルヴォサウルスの腹の肉を切り裂き、そこからぬるりとしたピンク色の腸の一部がボコッと飛び出した。
致命傷を負いながらも、互いの血と肉を削り合う狂気の殺し合い。
周囲に飛び散るのは、人間たちの無残なミンチ肉と、一億数千万年前の捕食者たちの熱くどす黒い血液。空気を震わせる不気味なランブル音と、肉と骨が砕かれるグチャッ、バキッという不快な音が絶え間なく鳴り響く。
あまりにも過激で生々しい、圧倒的な暴力の権化たちの凄惨な死闘を前に土煙と血飛沫を被りながら息を潜めるカタリナたちは、ただ震えながら、この血塗られた地獄が終わるのを待つことしかできなかった。
飛び散る鮮血が雨のように降り注ぎ、粉砕された骨の音が絶え間なく響き渡るあまりにも過激すぎる、血と肉が飛び交う凄惨な死闘という地獄の只中で、石壁の陰に隠れていた三人の顔には、もはや一滴の血の気も残っていなかった。
己の生存本能が「今すぐここから逃げろ」と警鐘を鳴らし続ける中、ヘクターは恐怖に顔を引き攣らせながらも、圧倒的な暴力の連鎖から目を離すことができず、震える唇から掠れた声を漏らした。
ヘク「まるで…神々の戦いだ……」
一億数千万年前の地球において、生態系の頂点に君臨した絶対的な捕食者たち。彼らの持つ純粋な闘争本能と凄まじい身体能力の前では、人間の作り上げた町など、おもちゃの積み木のように脆く儚いものでしかなかった。
だが、このまま指をくわえて見ているわけにはいかない。
二頭の巨獣が暴れ回るたびにマリアの故郷であるこの町は家屋ごと粉砕され、まだ逃げ遅れているかもしれない人々の命が瓦礫の下で失われていく。
それに、これ以上の死闘が続けば、互いに致命傷を負い合い、二頭の恐竜自身も間違いなく命を落とすことになる。
カタ(止めなきゃ……今すぐ、止めないと……!)
カタリナはガタガタと激しく震える手を伸ばし、隣にしゃがみ込んでいたキースの袖を力強く掴んだ。
あまりの恐怖と、立ち込める血の匂いによる吐き気で、カタリナの喉は引き攣り、言葉を発することすらできなかった。ただ、すがるような、そして確固たる決意を秘めた瞳で、義弟の顔を真っ直ぐに見つめるだけ。
しかし、長年同じ屋根の下で暮らし、姉の無謀で突飛な行動の数々を一番近くで支え続けてきたキースだからこそ、言葉など無くても彼女の言わんとしていることは痛いほどに理解できた。
『この町を、そしてあの恐竜たちを、なんとかして救って』。
キースは無言のまま、カタリナの震える手に自身の温かい手を重ねて強く握り返し、小さく、だが力強く頷いた。
そして、彼の中に眠る膨大な魔力を、両手を通じて大地へと一気に注ぎ込み始めた。
ーーー
一方、血の海と化した広場では、最終局面が訪れようとしていた。
背中から肩にかけての肉を深く抉り取られ、下腹部からピンク色の腸の一部がはみ出しているトルヴォサウルス。
右腕を完全に粉砕され、折れた肋骨が皮膚の内側を突き破りそうになっているアロサウルス。
両者ともに、すでに致死量に近いほどの血を流し、満身創痍であった。それでもなお、彼らを動かしているのは頂点捕食者としての意地と、極限状態で分泌されるアドレナリンだけだ。
『シューッ……!』『ヴヴヴヴヴッ……!』と、血の混じった痛々しい呼気を漏らしながら、二頭の恐竜は再び互いの命を完全に絶つべく、残された最後の力を振り絞って突進しようと筋肉を軋ませた。
その時である!
『ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!』
突如として、血の海と化した広場の大地が爆発したかのように大きく隆起した。
二頭の恐竜の間に割り込むようにしてせり上がった莫大な質量の土塊は、瞬く間に四本の丸太のような極太の脚と、天を突くほどに長い首を持つ、一つの『巨大なシルエット』を形作った。
それは奴らが常に見上げていた竜脚類!
キースが高度な土魔法で練り上げ、具現化させたもの。
それは、ジュラ紀の生態系において、その圧倒的な巨大さゆえに肉食恐竜たちからすら手出し不可能な存在として君臨した、巨大な草食恐竜の姿であった。
ブラキオサウルスといった本物の超大型竜脚類(体長25〜30メートル級)に比べれば、魔力で構成されたそれは一回りほど小さかった。しかしそれでも、体長10メートルクラスの獣脚類二頭を左右に隔て、その突進を物理的に阻むための防壁としては、十分すぎるほどの質量と威圧感を持っていたのだ。
キー「いけぇっ!!」
キースの叫びと共に、土魔法で創られた竜脚類が、二頭の恐竜に向かって自身の巨体を投げ出すように崩れ落ちた。
自らの形状を保っていた魔力をキースが意図的に霧散させたことで、巨大なゴーレムは『数トンもの高密度に圧縮された土砂の波』へと姿を変え、満身創痍の肉食恐竜たちを頭上から一気に呑み込んだ。
ドゴォォォォォォォォッ!!
まるで山が一つ崩れ落ちたかのような轟音と土煙が広場を包み込む。
大量の土砂の雪崩に巻き込まれ、トルヴォサウルスとアロサウルスの巨体が完全に土の中へと埋没した。
最初は、土の内部から『シュオォォォッ!』という怒り狂った呼気と共に、激しい地響きが起きた。本能のままに暴れ、血まみれの顎や残った爪で土壁を崩し、なんとか這い出ようと足掻いていたのだ。
しかし、キースが上からさらに魔力を込めて土を固め、拘束具のように圧縮していくと、その抵抗は次第に弱まっていった。
いくらジュラ紀の覇王たちとはいえ、先ほどの死闘による極限の疲労、大量出血、そして粉砕された骨の激痛が限界を超えていたのだ。暴れるだけのエネルギーは、彼らの体にはもう残されていなかった。
やがて、土砂の表面がピタリと動かなくなる。
固められた巨大な土の山からひょっこりと顔と鼻先だけを出した状態で、二頭の恐竜は、まるで拘束衣を着せられたかのように完全に身動きが取れなくなっていた。
『シュー……シュー……』と、重く苦しげな呼気だけが、静かになった町に虚しく響く。
完全な無力化。
物理的な拘束と、恐竜自身の体力切れが重なり、ここに二頭の恐竜の捕獲は成功したのだった。
ーーー
広場を包み込んでいた土埃が風に流され、巨大な土の山に拘束された二頭の恐竜が『シュー……』と苦しげな呼気を漏らすだけの不気味な静寂が訪れた、その直後だった。
マリ「カタリナ様!! カタリナ様はご無事ですか!?」
町に通じる街道の方角から、複数の馬車の車輪の音と、慌ただしい蹄の音が響き渡った。
到着したのは、ヘクターが事前に連絡を入れていた魔法省の面々である。優秀な魔術師と近衛騎士たちで構成された『特務保護部隊』、そして、カタリナが所属する『魔法道具研究室』の同僚たちだった。
さらに、カタリナたちが自分を案じて危険な故郷へ向かったと聞き、いてもたってもいられず魔道具研究室の馬車に同乗してきたマリア・キャンベルの姿もあった。
馬車から飛び降りて駆け寄ろうとした彼らだったが――次の瞬間、その足が完全に硬直した。
「な、なんだ、こりゃあ……」
屈強な肉体を持つ特務保護部隊の騎士が、手から槍を取り落として絶句した。
魔道具研究室の中でもトップクラスの身体能力と魔力を持つ
無理もなかった。
彼らの視界に広がっていたのは、赤黒い血の海と化した町の広場。そこには、原型を留めないほどに噛み砕かれ、引き裂かれた町民たちの肉片と、ズルズルと引き伸ばされた臓物が一面に散乱していたのだ。
濃密な死臭と鉄の匂いが鼻腔を殴りつけ、歴戦の騎士や、普段は変人揃いと言われる魔道具研究室の面々でさえ、耐えきれずに胃の中のものを吐き出した。
マリアもまた、見慣れたはずの故郷の変わり果てた惨状を前に、血の気を失いガタガタと震えていた。
だが、彼女は気丈だった。涙を浮かべながらも必死に己の心を奮い立たせ、カタリナたちの無事を確認すると、すぐに瀕死の重傷を負っている二頭の恐竜たちの元へと駆け寄った。
マリア「ひどい怪我……っ。今、手当てをします!」
土魔法の拘束具から首と頭だけを出しているアロサウルスとトルヴォサウルス。
アロサウルスは右腕を完全に粉砕されて骨が剥き出しになり、トルヴォサウルスは背中からごっそりと肉を削ぎ落とされ、蹴り破られた腹部からは腸の一部がはみ出している。
マリアが両手をかざし、温かく包み込むような『光の魔力』を放つ。失われた肉体や粉砕された骨を完全に元通りにすることは難しくとも、その光は切断された血管を塞ぎ、はみ出た臓器の炎症を抑え、二頭の命を辛うじて繋ぎ止めるための強力な応急処置となった。
マリ「ふう……。とりあえず、これで致命傷の悪化は防げました」
カタ「ありがとう、マリア。あなたがいなかったら、この二頭も死んでいたわ」
額に汗を浮かべるマリアに、カタリナは安堵の息を吐きながら労いの言葉をかけた。
特務保護部隊と魔道具研究室の面々も少しずつ落ち着きを取り戻し、まだ生存者がいないか、あるいは他にも光の魔力を使える者が隠れていないか、周囲の捜索を開始しようとした。
――その時だった。
カンッ!!
硬い乾いた音が響いた。
突如として、どこからともなく飛んできた手のひら大の石が、アロサウルスを拘束している土のドームに命中したのだ。
土の部分に当たったため恐竜自身に被害はなかったし、仮に直撃したところで、分厚い皮膚と鱗を持つアロサウルスには痛くも痒くもなかっただろう。しかし、その行為が持つ『意味』に、カタリナたちはハッとして振り返った。
石を投げたのは、一人の小さな子供だった。
半壊した石造りの家の地下室から這い出してきたのだろう。泥と灰にまみれたその子は、恐怖よりも深い『憎悪』に満ちた目で、拘束された恐竜たちと、それを囲むカタリナたちを睨みつけていた。
子供の出現を皮切りに、周囲の倒壊を免れた家屋や、瓦礫の陰から、身を寄せ合って隠れていた町の生き残りたちが次々と姿を現し始めた。
その数十人の町民たちの瞳に宿っていたのは、助けが来たことへの安堵や感謝などではなかった。彼らの視線は一様に血走り、底知れぬ怒りと敵意に満ちていた。
町民子供「お前の所為で、この町は呪われたんだ!!」
子供のその甲高い叫びを合図にするかのように、生き残りの住民たちの感情が爆発した。
『そうだ! お前たちがこんな化け物を連れてきたせいで、俺たちの家族は食われたんだ!!』
『ふざけるな! 何が保護だ! なぜそんな人喰いの化け物を治療してかばう!? 今すぐ殺せ!!』
『お前ら魔法省の連中も同罪だ! 悪魔の手先め!!』
口々に吐き出される、理不尽な暴言と殺意の籠もった糾弾。
彼らは興奮状態にあり、鍬や鉄の棒を握りしめ、今にも暴動を起こしかねないほど殺気立っていた。
このままでは、応急処置を受けたばかりの恐竜たちに物理的な危害が加えられるだけでなく、魔法省の職員と一般市民との間で流血の事態になりかねない。
「落ち着いてください! 恐竜たちはすでに無力化されています!」
「あなたたちの気持ちは分かりますが、これ以上の刺激は危険です! まずは安全な場所へ――!」
カタリナ、キース、ヘクター、そして魔道具研究室の同僚たちと特務保護部隊の騎士たちは、暴徒と化しつつある町民たちから二頭の恐竜を庇うように、ぐるりと円陣を組んで立ち塞がり、必死に説得を試みた。
だが、恐怖と怒りに我を忘れた町民たちの耳には、そんな理性的な言葉など届かない。
罵声が飛び交い、再び石や瓦礫が投げつけられようとしたその時。
群衆の中から進み出た、服に血を滲ませた壮年の男が、憎々しげに顔を歪めて忌々しげに叫んだ。
『――ふざけたことを抜かすな、「隠し子の呪い」の仲間め!!』
その言葉が、耳をつんざくような怒声の中で、奇妙なほどはっきりとカタリナの耳に届いた。
先ほど、腹を裂かれて死んでいった若い農民が遺した、あの不可解な最期の言葉と同じ単語。
カタ「隠し子の呪い……?」
カタリナが思わず聞き返すと、男は地面に落ちていた肉片に唾を吐き捨て、カタリナの後ろ――青ざめて立ち尽くしている一人の少女を指差して、叫んだ。
『しらばっくれる気か!? 今この町にこんな化け物どもが現れて地獄になったのも、すべては呪いのせいだ! 俺たちを恨んで、この町に死の呪いを放ったのは……そこにいる貴族の隠し子
「マリア・キャンベル」だ!!』
その名が男の口から発せられた瞬間。
カタリナは、心臓を鷲掴みにされたかのように限界まで目を見開いた。
そして、名指しされたマリア本人は、まるで氷漬けにされたかのようにその場に縫い止められ、絶望に満ちた瞳で震え上がっていた。