乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してだけでなく私のせいで古生物を解き放ってしまった…。〜責任をとってプレヒストリック・パークを開きます〜   作:龍座

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隠し子の呪い

古びた柱時計の秒針の音だけが、不気味なほど大きく響いていた。

 

キャンベル家の小さなリビングには、息が詰まるような重たい空気が流れていた。

 

粗末な木製のテーブルを挟んで、マリアは両手を膝の上で固く握りしめ、罪人のように深く俯いている。その向かい側には、青ざめた顔に深い疲労の色を滲ませた母親が、頭を押さえるようにして座っていた。

 

裏庭での決定的な瞬間。

 

マリアが慌てて庇うように立ち塞がった背後で、その不思議な生き物は、突然現れた母親に対して威嚇するでもなく、ただ大きな平たい嘴(くちばし)から「クゥ……」と鳥のような低い鳴き声を漏らし、不思議そうに首を傾げていた。

 

危害を加える様子がないこと、そして何より、娘がその生き物を守ろうと必死に涙を浮かべる姿を見て、母親はひとまずその場を収め、マリアをリビングへと問い詰めるために連れてきたのだ。

 

マリアの母(最近、あの子に笑顔が増えて、少し明るくなったと思っていたけれど……そういうことだったのね……)

 

ランプの揺らめく灯りの中、母親は困惑と葛藤が入り混じった複雑な表情を浮かべていた。

 

町中から『不義の子』と後ろ指を指され、父親にも見捨てられ、塞ぎ込んでいたはずの娘がここ数日どこか生き生きとしていた理由。

野良犬や怪我をした猫でもこっそり匿っているのかと予想はしていたが、まさか、あんな『得体の知れないもの』を飼い慣らしているとは夢にも思わなかったのだ。

 

水鳥のように平たい大きな嘴、胴体に不釣り合いなほど太く長い腕と、そこから伸びる熊手のような三本の巨大な爪。全身は泥とふさふさとした奇妙な羽毛に覆われ、背中には小さな帆のようなでっぱり。おとぎ話に出てくるキメラか悪魔の使いか。町の人々に見つかれば、今度こそ「呪われた娘が化け物を呼び寄せた」と殺されかねない異形であった。

 

しかし、母親の脳裏に焼き付いていたのは、その恐ろしげな腕の爪で器用にキャベツの葉を押さえ、大人しくモシャモシャと頬張っていたあの無害で間の抜けた姿と、マリアに向けた純粋な丸い瞳だった。あの子は、娘の孤独を癒やしてくれた恩人なのだ。

 

重い沈黙を破り、母親は静かに、しかし真剣な眼差しで娘を見つめ、幾つかの問いを投げかけた。

 

マリ母「マリア。……あの子の面倒、最後までちゃんとあなた一人でお世話できるの?」

 

顔を上げたマリアは、母親の問いに力強くこくりと頷いた。

 

マリ「はい。お野菜や、川のお魚を食べるの。お掃除も、水浴びも、全部私がやります。絶対に、お母様には迷惑をかけません」

 

必死に訴えかける娘の姿に、母親は小さく息を吐いた。

 

マリ母「いつかは、町の人や偉い人たちに話さなければいけない日が来るかもしれない。でも、今は絶対に無理よ。誰にも見つからないように、この家の中と裏庭だけで、絶対に秘密にできる?」

マリ「……はい! 誰にも言いません。絶対に隠し通します」

 

マリアの迷いのない即答。しかし、母親の最後の質問は、これまでとは違う、ひどく重く、悲しい響きを帯びていた。

 

マリ母「……そしてね、マリア。あの子はきっと、これからもっともっと大きくなるわ。この小さな家や裏庭では、すぐに飼えなくなる日が来る。その時……あの子が本来生きるべき森へ帰る日が来たら、あなたはちゃんと、お別れできる?」

 

その言葉に、マリアの肩がビクッと跳ねた。

 

『お別れ』。

 

その冷たい響きが、マリアの胸を鋭く突き刺した。誰からも愛されず、石を投げられ、ひとりぼっちだった自分を救ってくれた、たった一人の秘密の友達。言葉は通じなくても、温かい体温で寄り添ってくれたあの優しい存在と、いつか離れ離れにならなければならない。

 

そんな日が来ることを想像しただけで、目の前が真っ暗になり、目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちそうになった。

 

それでも。

 

マリアは、目の前で自分を真っ直ぐに見つめる母親の顔を見た。町の人々の悪意に晒され、やつれ果ててなお、見捨てずに自分を守ろうとしてくれている母。

あんな異形の生き物を前にしても、頭ごなしに否定して追い出すのではなく、娘の気持ちに寄り添い、共に秘密を背負うという多大なリスクを負おうとしてくれているのだ。

 

マリアは、込み上げてくる嗚咽を必死に噛み殺し、膝の上の拳をさらに強く握りしめた。

 

マリ「……っ、はい。……ちゃんとお別れ、します。約束、します……っ」

 

震える声で、それでもはっきりと頷いた娘の決意。

 

それを見た母親の強張っていた表情がふっと緩み、目尻に涙を浮かべながら、優しく微笑んだ。

 

マリ母「……わかったわ。お母さんも協力するから。お世話で困ったことや、何かあったら、一人で抱え込まずにちゃんと言いなさい」

 

そう言って、母親は身を乗り出し、泣きじゃくるマリアの小さな体をしっかりと抱きしめた。

 

母の温もりの中で、マリアはずっと張り詰めていた心の糸が解け、声を上げて泣きじゃくった。

 

こうして、世間から忌み嫌われ、孤独に震えていた奇妙な生き物は、正式にキャンベル家の『秘密の家族』として迎え入れられた。

 

涙を拭い、少しだけすっきりとした顔になった娘を見て、母親はふっと表情を和らげた。そして、傍らで不思議そうに首を傾げている異形の生き物へと視線を移す。

 

マリ母「それで、この子の名前は何ていうの?」

 

突然自分に視線が向けられたことが分かったのか、その子は大きな平たい嘴(くちばし)を少しだけ開けて「キュゥ……」と短く喉を鳴らした。その愛嬌のある鳴き声を聞いて、マリアは少しだけ照れくさそうに微笑んだ。

 

マリ「うん。『キュー』ちゃんっていうの」

マリ母「ふふ。いい名前ね」

 

母親は優しく笑い、キューちゃんを刺激しないようにゆっくりと手を伸ばすと、そのふさふさとした羽毛に覆われた頭をそっと撫でた。キューちゃんは嫌がるそぶりも見せず、むしろ心地よさそうに目を細めて、母親の手のひらに自身の平たい嘴をすり寄せた。

 

その温かく穏やかな光景から、キャンベル家における『二人と一匹』の、誰にも言えない秘密の共同生活が本格的に始まった。

 

ーーー

 

それからの日々は、決して平坦なものではなかったが、同時に色鮮やかな喜びに満ちていた。

 

楽しいことも、大変なことも山のようにあったが、それらすべてがマリアたちにとっては素敵な思い出に変わっていった。

 

大変だったことの筆頭は、やはりキューちゃんの旺盛な食欲と、その特異な生態に合わせたお世話だ。

 

キューちゃんは日を追うごとに少しずつ、しかし確実に成長しており、それに伴って食べる量も増えていった。野菜のくずや川で捕まえた小魚だけでは足りず、マリアと母親は人目を忍んで森に入っては、食べられる野草や地中の根菜を必死に集める日々だった。

 

キューちゃん自身も、あの大きく湾曲した三本の爪を持つ太い腕を器用に使い、熊手のように地面を掘り返しては好物の植物の根や塊茎を自ら探し当てる手伝いをしてくれた。しかし、その爪の威力と掘る力は想像以上で、うっかり裏庭の家庭菜園に侵入された際には、丹精込めて育てていた野菜の苗が、畑の土ごと見事に耕されてしまい、マリアと母親で青ざめながら大慌てで修復したこともあった。

 

また、食事をすり潰すための「石の丸呑み」も日課であったためキューちゃんの糞の掃除にはいつも不思議な苦労が伴った。

丸呑みされた手頃な小石は、キューちゃんの胃袋の中で飲み込んだ植物や魚をすり潰すために働き、役目を終えると綺麗に磨き上げられたツルツルの石となって排泄されるのだ。マリアたちはそれを「キューちゃんの宝石」と密かに呼び、掃除のたびに笑い合いながら裏庭の隅に積み上げていった。

 

もちろん、町の人々に絶対にバレてはいけないという緊張感は常にあった。

 

たまに近くの獣道や街道を人が通る気配がすると、マリアは慌ててキューちゃんの平たい嘴を両手で優しく押さえ、「クゥ、クゥ」という独特の低い呼気が外に漏れないように必死に息を潜めなければならなかった。

 

だが、そうした苦労を補って余りあるほど、キューちゃんがもたらしてくれた喜びは大きかった。

 

キューちゃんは水遊びが大好きだった。

 

人目のつかない森の奥の小川へ連れ出すと、大きな体を揺らして水に入り、ふさふさの羽毛にたっぷり水を吸わせてバシャバシャと大はしゃぎするのだ。水鳥のように嘴で水底の泥や水面を探り、器用に小魚や水草だけを口に収めていく姿は、見ていて全く飽きることがなかった。

 

泥だらけになって帰ってきた後は、マリアと母親が二人がかりで温かいお湯を絞った布を使い、丁寧に泥を拭い落としてやる。その間、キューちゃんは気持ちよさそうにうっとりと目を閉じ、時には甘えるように二人の顔にすり寄ってきた。

 

言葉は通じなくても、確かにそこには温かい家族の絆が芽生えていた。

 

周囲から向けられる心ない悪意や、父親が出て行ったという喪失感。それらによって冷たく閉ざされていたキャンベル家の空気は、キューちゃんという純真無垢な存在が中心にいることで、少しずつ、しかし確実に温かく柔らかいものへと変化していった。

 

ふとマリアが振り返ると、縁側に転がっていた丸いカボチャを不思議そうに嘴でつつき、首を傾げているキューちゃんの姿を見て、母親が声を上げて笑っていた。

 

マリ(あ……お母様が、笑ってる……)

 

かつては疲労と周囲への怯えでやつれ、暗く沈んでいた母親の顔。それが今では、心なしか血色も良くなり、昔のような明るく優しい表情を取り戻し始めていたのだ。

 

町の人々からの冷ややかな視線や嫌がらせが完全に消えたわけではない。それでも、家に帰れば「秘密の家族」が待っている。その事実が、マリアと母親にとって、何よりも強い心の支えとなっていた。

 

三人で身を寄せ合い、冷たい風が吹く夜でも、キューちゃんの温かい体温に包まれながらその静かな寝息を聞く時間は、マリアにとって何にも代えがたい、宝物のような時間となっていたのである。

 

ーーー

 

時は流れ、ある静かな夜のこと。

 

キャンベル家を包む夜の闇は深く、周囲の森からは虫の音と、風が木々の葉を揺らす微かな葉擦れの音だけが聞こえていた。

 

マリアと母親、そして少しずつ体が大きくなり始めたキューちゃんは、家の一室で身を寄せ合うようにして深い眠りについていた。キューちゃんの規則正しく穏やかな「シュー……」という寝息が、小さな部屋に安心感をもたらしている。

 

しかし、その静寂は突如として破られた。

 

ズズン……。

 

最初、それは遠くの地鳴りのように聞こえた。

 

ズズン……。

 

マリ「……ん……?」

 

かすかな振動が古い家の床板を伝わり、マリアは微睡みの中でゆっくりと重い瞼を開けた。

 

夢現の頭で、それが何かの音だと認識するまでに少し時間がかかった。隣では母親がまだ静かな寝息を立てているが、すぐ足元で丸くなっていたキューちゃんはすでに頭をもたげ、暗闇の中で小さな帆のある背中をピンと伸ばして、耳を澄ませていた。

 

ズズン。

 

再び響いたその音で、マリアは完全に覚醒した。

 

それは地鳴りなどではない。一定のリズムを刻んで近づいてくる、巨大な『足音』だった。

 

ズズン!

 

しかも、その足音は一歩、また一歩と確実にキャンベル家へと近づいてきている。

 

家全体がミシミシと軋み、棚の上に置かれていた古い食器がカチャカチャと震え始めた。足音の主がどれほど途方もない質量を持っているのか、想像するだけでマリアの全身に鳥肌が立った。

 

マリ(町の人たち……? ううん、違う。こんな重たい足音、人間のものじゃない……!)

 

得体の知れない恐怖がマリアの心臓を鷲掴みにする。

真っ先に頭に浮かんだのは、キューちゃんのことだった。もし、森の奥に潜む恐ろしい魔獣や肉食の猛獣が、キューちゃんの匂いを嗅ぎつけてここまでやってきたのだとしたら。

 

マリアは恐怖で震える体を必死に動かし、跳ね起きると、暗闇の中でキューちゃんのふさふさとした体を両腕で力いっぱい抱きしめた。

 

マリ(ダメ……! 誰にも、この子は渡さない……!)

 

息を殺し、ガタガタと震えながら暗い部屋の片隅で身を縮める。

 

そして、その巨大な足音が、家のすぐ外――薄汚れた窓ガラスの向こう側でピタリと止まった。

 

ドクン、ドクンと、自身の心臓の音がうるさいほどに耳朶を打つ。

 

雲が切れ、窓枠から青白い月明かりが部屋の中に差し込んだ、次の瞬間だった。

 

窓の外に広がるはずの森の景色が、漆黒の『巨大な壁』のようなものに完全に遮られていた。

 

いや、壁ではない。それは土や羽毛にまみれた、あまりにも巨大な生き物の胴体の一部だった。

 

そして、その巨大な影がゆっくりと身を屈めるように動いたかと思うと、窓ガラス越しに『ギョロリ』と巨大な眼球がこちらを覗き込んできたのだ。

 

マリ「ヒッ……!」

 

マリアは声にならない悲鳴を飲み込んだ。

窓枠いっぱいに映し出されたその顔は、マリアがよく知るキューちゃんの特徴を、そのまま何十倍にも巨大化させたような異形の姿だった。

 

それは、窓枠をぶち破ることも、家を破壊することもなく、ただじっと部屋の中――正確には、マリアの腕の中にいるキューちゃんを見つめていた。

 

そして、巨大な生き物は、少しだけその平たい嘴を開くと、腹の底から空気を震わせるような音を発した。

 

『ルゥゥゥゥゥウウウウ……ッ』

 

低周波の重低音。窓ガラスがビリビリと共鳴し、マリアの胸の奥まで直接響いてくるような、深く、そしてどこか切なく温かみのある『呼びかけ』の声。

 

その鳴き声を聞いた瞬間、マリアの腕の中で小刻みに震えていたキューちゃんが、弾かれたように反応した。

 

『キュゥッ!! クゥ、クゥッ!!』

 

キューちゃんはマリアの腕から勢いよく抜け出すと、全く恐怖を見せることなく窓際へと駆け寄り、ガラス越しにいる巨大な生き物に向かって、ちぎれんばかりに首を振りながら高く甘えるような声で鳴き返したのだ。

 

その微笑ましくも圧倒的な光景を前に、マリアの全身からスッと恐怖が抜け落ちていった。

 

外にいるのは、恐ろしい化け物ではない。キューちゃんが全く怯えていないばかりか、嬉しそうに甘えている。あの平たい嘴も、大きな瞳も、キューちゃんにそっくりだ。

 

巨大な生き物は、キューちゃんの声に応えるように、再び『ルゥゥウウ……』と優しく喉を鳴らし、窓ガラスにコツン、と自らの巨大な嘴をそっと擦り付けた。

 

その姿を見たマリアの脳裏に、ひとつの確信がよぎる。

 

マリ(もしかして……キューちゃんのお母さん……?)

 

部屋を揺らす凄まじい重低音と、窓枠を埋め尽くす異形にして圧倒的な影。その異様な気配に、ベッドで横になっていた母親も飛び起き、その正体を目の当たりにして息を呑んだ。

 

マリ母「な……何なの、あの大きさは……っ!?」

 

母親は腰が抜けたようにその場にへたり込み、目を見開いたまま絶句していた。

 

窓の外にいるのは、屋根に届くほどの車高を持つトラックすら霞むような巨体だ。しかし、その顔つきや平たい嘴、大きな瞳は、紛れもなく自分たちが裏庭で慈しんできたキューちゃんそのものだった。

 

キューちゃんは窓ガラスに小さな平たい嘴を押し付け、「キュゥ! キュゥ!」と歓喜と甘えの混じった甲高い声で外の巨体に向かって鳴き続けている。外の巨大な生き物も、それに愛おしそうに応えるように『ルゥゥゥ……』と地鳴りのような重低音を響かせ、窓をそっと撫でるように嘴を触れさせていた。

 

揺れるランプの光の中、母親が震える声でつぶやいた。

 

マリ母「マリア……」

 

その声には、驚きだけでなく、いつか来ると覚悟していた『あの日の約束』を問いかける悲痛な響きがこもっていた。

 

「この子が大きくなって、森へ帰る日が来たら、ちゃんとお別れできる?」――あの夜、リビングで交わした言葉が、マリアの脳裏に鮮明に蘇る。

 

マリアは溢れ出そうになる涙を必死に堪え、悲しげな表情でキューちゃんを見つめた。

 

出会った日のこと。泥だらけで悪ガキたちに石をぶつけられていた小さな体。

 

初めてキャベツをザクザクと美味しそうに食べた夜。

 

小川で豪快に水浴びをし、驚くような器用さで魚を捕まえたこと。

 

石を丸呑みして慌てさせたことや、糞の中から出てきたツルツルの石を「宝石」だと笑い合ったこと。

 

そして、孤独だった自分に温かい体温を分け与え、母に笑顔を取り戻してくれたこと。

 

短い時間だったが、どれも何物にも代えがたい、世界で一番温かく愛おしい思い出だった。

 

マリ(本当は……ずっと一緒にいたい。だけど……)

 

あの子には、帰るべき本当の家族がいるのだ。人間の身勝手で、この温かな親子の絆を引き裂いていいはずがなかった。

マリアは深く息を吐き出すと、溢れる涙をグッと引っ込め、母に向かって静かに、力強く頷いた。

 

マリ「……行きましょう」

 

マリアと母親、そして二人の後を追うように走るキューちゃんは、ゆっくりと足音を忍ばせて玄関へと向かっていく。

 

ズズン……ズズン……。

 

外にいる巨体も、家の中の気配を察したのか、彼らの移動に合わせて巨大な足音を響かせながら、ゆっくりと家の側面に沿って玄関側へと回り込んでくる。家全体がみしみしと軋み、土煙が廊下の隙間から舞い落ちた。

 

玄関の前に辿り着くと、外から再び『ルゥゥ……』と深く優しい親の呼気が聞こえた。

 

マリアは震える手を伸ばし、木製のドアの鍵をカチャリと外すと、意を決してゆっくりとドアを押し開けた。

 

夜の冷たい空気と森の湿った匂いが、一気に玄関の中に流れ込んでくる。

 

そこには、小さな窓越しでは影になって見えなかった、信じがたいほど巨大な光景が広がっていた。

 

月明かりと薄い夜霧が立ち込める裏庭にそびえ立っていたのは、ただただ圧倒的な存在感を放つ古の巨躯――しかも、一体ではなかった。

 

マリ「二体……!?」

 

そこには、まったく同じ姿をした巨大な生き物が『二体』、並んで立っていたのだ。

 

体長は十メートルを優に超え、体重は大型のゾウをも上回るであろう数トンもの質量。背中には見事な帆状の隆起が盛り上がり、現代の大型水鳥のように全身を覆う豊かな羽毛が、青白い月光を受けてうっすらと輝いている。

そして、胸元からは大人の男の胴体ほどもある太く長い前腕が垂れ下がり、その先には緩やかに湾曲した巨大な三本の爪が鋭い影を作っていた。

 

つがいの親だ。失われた我が子を捜して、果てしない森を彷徨い、ようやくこの場所に辿り着いたのだ。

 

二体の親は、小さな玄関から顔を出したマリアたちを攻撃する様子は微塵も見せず、ただ静かに、けれど強い眼差しで見下ろしている。

 

キューちゃんは玄関の敷居を跨ぐと、親の元へ走っていこうとして……ハッと立ち止まり、クルリと振り向いてマリアをじっと見つめた。

 

言葉を持たないその瞳は、「一緒に行かないの?」と問いかけているようでもあり、お別れを察して寂しがっているようでもあった。

 

胸が張り裂けそうだった。今すぐにでも抱きしめて、「行かないで」と泣き叫びたかった。

 

けれど、マリアはギューッと胸の服を掴み締めながら、精一杯の綺麗な笑顔を作り、キューちゃんに向かって優しく頷いて見せた。

 

マリ「大丈夫よ、キューちゃん。……お父さんとお母さんのところへ、お行きなさい」

 

マリアのその言葉と優しい笑顔の意味を理解したのか、キューちゃんは最後に「キュゥッ」と短く、感謝を伝えるように鳴いた。

 

そして意を決したようにくるりと向きを変えると、二体の親の元へと力強く駆け出していった。

 

「キュゥ! クゥ、クゥッ!」

 

親たちの見上げるほど巨大な足元に辿り着くと、キューちゃんは嬉しそうにその太い足に自身の小さな体を擦り付け、必死に甘え始めた。

 

二体の親もまた、頭部を低く下ろすと、大木のような平たい嘴で愛おしそうにキューちゃんの小さな体を優しく突き、ふさふさとした羽毛を撫で上げるように毛づくろいをしてやる。

 

『ルゥゥゥ……』

『ルゥゥゥ……』

 

親たちが鳴らす重低音の合唱が、静かな夜の森に温かく響き渡る。

 

月明かりの下で身を寄せ合う親子の姿は、あまりにも神聖で、あまりにも美しい一枚の絵画のようだった。

 

感動的な再会を果たした親子はしばらくの間互いの温もりを確かめ合うように首をすり寄せていた。やがて、二体の巨大な親は、名残惜しそうに家の方――玄関に立つマリアたちへと一度だけ深い眼差しを向けた。

 

『ルゥゥゥ……』

 

それは先程よりもさらに低く、穏やかな響きを持った重低音だった。まるで、これまで我が子を庇護し、育ててくれた小さな人間の親子に対する、彼らなりの深い感謝を伝えているかのようだった。

 

そして、巨大な生き物たちはゆっくりとその巨体を反転させた。

 

ドスッ、ドスッと、大地を踏みしめる重々しい足音が夜の空気を震わせる。

 

大型の獣脚類特有の、太く強靭な後脚と長い尾でバランスを取りながら歩く二足歩行。その背中にそびえる帆のような隆起と、全身を覆う豊かな羽毛が、夜霧の中で青白く揺らめく。長く太い腕は体の横で自然に揺れ、先端にある巨大な三本の爪が鈍い光を放っていた。

 

親たちが森の奥へと歩き出すと、キューちゃんも嬉しそうにその後を追った。

 

時折「キュゥ!」と鳴きながら、親の太い脚にじゃれつくようにして歩くその後ろ姿。その歩みは、マリアの家に初めてやってきた時の泥だらけで怯えていた姿とは全く違う、本来の家族の元へ帰る喜びに満ちた、力強く安心しきったものだった。

 

ズズン……ズズン……。

 

地響きのような足音と、巨体が森の木々をかき分ける葉擦れの音が、少しずつ遠ざかっていく。鬱蒼と茂る木々と深い夜霧が、三体のシルエットをゆっくりと、しかし確実に飲み込んでいった。

 

マリアは、玄関の敷居に立ち尽くしたまま、その姿が完全に見えなくなるまで、必死に作り笑顔を浮かべ続けていた。

 

マリ(笑顔で、お別れするって決めたから……。泣いちゃダメ、泣いちゃダメ……)

 

そう自分に言い聞かせていた。しかし、やがて足音も鳴き声も完全に聞こえなくなり、森に再び虫の音と風の音だけが戻ってきた時――ピンと張り詰めていたマリアの心の糸が、とうとう限界を迎えた。

 

マリ「……っ、うぅ……っ」

 

我慢していたものが一気に決壊し、大きな瞳から大粒の涙がボロボロと溢れ出した。

 

視界が滲み、もうキューちゃんがいた場所もよく見えない。寂しさと、喪失感。秘密の友達がいなくなってしまったという現実が、冷たい夜風と共に幼い心を容赦なく締め付ける。マリアは両手で顔を覆い、肩を震わせて泣きじゃくった。

 

そんな娘の小さな背中を、後ろから温かいものがすっぽりと包み込んだ。

 

母親だった。

 

母親は、マリアの背後にそっと膝をつき、泣き崩れる娘を愛おしそうに背後から抱きしめた。

 

マリ母「……よく頑張ったわね、マリア。えらいわ。ちゃんと、笑顔でお見送りできたわね」

 

母親の優しい声が、耳元で静かに響く。

 

彼女の少し荒れた温かい手が、マリアの頭を撫で、震える背中をゆっくりと、何度も何度もさすってくれた。

 

マリ「お母様……っ、キューちゃん……っ、キューちゃん……っ!」

 

マリアは母親の腕の中で振り返り、その胸に顔を埋めて、子供のように声を上げて泣いた。

 

母親は何も言わず、ただ静かに娘の涙を受け止め、強く抱きしめ返した。

 

もう、あの不思議な生き物の温かい体温も、愛らしい鳴き声もない。

 

けれど、この夜の出来事は、マリアの心に深く刻み込まれていた。

世界中から忌み嫌われていた自分を、何の偏見もなく受け入れてくれたあの純粋な瞳。そして、どれほど姿形が恐ろしく巨大でも、子供を愛し、大切に想う親の温かさは、人間もあの子たちも同じなのだという事実。

 

悲しい別れではあったが、マリアの心に残ったのは絶望ではなかった。

静寂を取り戻した夜の森を見つめながら、キャンベル家の親子の抱擁は、いつまでもいつまでも続いていた。

 

ー翌朝ー

 

キャンベル家の裏庭には、巨大な足跡だけが残り、朝日が静かに差し込んでいた。

 

昨夜の別れの余韻と寂しさを胸に抱きながら、マリアとその母親は生活の糧を得るため、いつも通り重い足取りで町へと向かった。

 

しかし、町に足を踏み入れた瞬間。

 

マリアと母親の顔から、一瞬にして血の気が引いた。

 

マリ「……嘘……」

 

二人の目の前に広がっていたのは、目を疑うような大惨事だった。

 

倒壊した家屋、へし折られた木々、あちこちから立ち上る黒煙。そして何より、石畳の広場から畑に至るまで、あたり一面が赤黒い血と泥で凄惨に汚れ、数え切れないほどのうめき声が響き渡っていたのだ。

 

一体何があったのか。生き残った町民たちが震えながら語る惨劇の顛末は、マリアたちにとってあまりにも残酷なものだった。

 

昨夜、暗闇に乗じて森から現れた二体の巨大な親は、キャンベル家に向かう道中、偶然にも町の外れを通っていたのだ。

 

その尋常ではない地響きのような足音と、空気を震わせる『ルゥゥ……』という重低音の鳴き声に、一部の町民が目を覚ましてしまった。

 

恐る恐る家を抜け出した町人の一人が、夜霧に紛れる巨大な影を追跡した。すると、その影は町から離れたマリアの家へとたどり着き、キューちゃんを合流させた後、再び森へ帰ろうと町の方角へと引き返してきたのだ。

 

『化け物がキャンベルの家から出てきたぞ! こっちに向かってくる!!』

 

男の血相を変えた報告に、町中はパニックに陥った。

 

畑を荒らされる、あるいは家を壊され食い殺されると思い込んだ男たちは、家族と町を守るために決死の覚悟で松明を掲げ、鍬やピッチフォークといった農耕具、さらには自警団の古い剣などを持ち出し、数十人で結託して巨体の行く手を塞ぐように立ち塞がった。

 

それが、取り返しのつかない悲劇の引き金となった。

 

二体の親にとって、目の前に現れた火の粉を振りかざす人間の群れは、合流したばかりの愛しい我が子を脅かす『明確な外敵』以外の何物でもなかったのだ。

 

『下がれ! 化け物め、俺たちの町から出ていけ!!』

 

勇敢にも一人の男が怒号と共に前へ進み出、鋭く尖ったピッチフォークを親の前脚に突き刺そうとした、次の瞬間だった。

 

『ルゥゥゥゥウウウウウッ!!!』

 

怒りと警戒に満ちた、腹の底を揺らすような重低音の威嚇音が響いた。

 

親の一体が、我が子を背後に庇うように身を乗り出し、その大木のように太く長い前腕を、ただ無造作に、横薙ぎに振り払った。

 

その巨腕の先端には、長さ二十五センチメートルにも及ぶ、草の根を掘り起こすために緩やかに湾曲した『巨大な三本の爪』が備わっている。

 

肉食獣のように獲物を仕留めるための洗練された刃ではない。しかし、数トンの質量と強靭な筋肉から繰り出されるその質量兵器は、人間の脆弱な肉体に対しては、あまりにも凶悪な破壊力を持っていた。

 

「ぎゃあああああっ!?」

 

鈍い破砕音と共に、先頭にいた数人の男たちの体が、まるで紙切れのように宙を舞った。

 

農具ごと腕をへし折られ、厚い胸板を三本の爪でトラクターのように深く抉り取られ、内臓を撒き散らしながら絶命していく。

 

「ひぃっ!? ば、化け物!! 殺せ! 殺せぇ!!」

 

恐怖でパニックに陥った町民たちが、次々と剣や鍬を振り下ろして殺到する。しかし、分厚い羽毛と強靭な皮膚に覆われた巨体には、かすり傷ひとつ負わせることはできない。

 

キューちゃん()を守り抜くと本能で決めた親は、決して容赦をしなかった。

 

歯のない平たい巨大な嘴が人間の頭部を丸ごと咥え込み、そのまま無造作に地面に叩きつけてスイカのように粉砕する。

 

巨大な足が振り下ろされるたびに、逃げ遅れた者たちの胴体が潰れたカエルように原型を留めない肉塊へと変わり、その上に大量の血溜まりが広がっていく。

 

背後から近づこうとした者も、太く強靭な尾の一振りで家屋の壁まで吹き飛ばされ、全身の骨を砕かれて即死した。

 

捕食のためではない。ただ『排除』するための、圧倒的で一方的な蹂躙。

 

あっという間に町民たちの防衛線はずたずたに引き裂かれ、巨獣の親子が夜の森へと完全に姿を消す頃には、町は死体と致命傷を負った者たちの血の海と化していたのだった。

 

マリ「そんな……あの子たちが、こんなことを……」

 

惨状を前に、マリアは愕然として立ち尽くした。

 

だが、嘆いている暇はない。まだ息のある怪我人たちが、あちこちで苦痛に身悶えしているのだ。

 

マリ「お、お母さん! 私、手当てを……!」

 

マリアは弾かれたように駆け出し、瓦礫の下敷きになって腕から大量に出血している若い男の元へ飛び込んだ。

両手から、温かく淡い『光の魔法』を放ち、傷口を塞ごうとする。

 

マリ「大丈夫です! 今、治しますから――」

「ヒッ……!! 触るなっ!! 悪魔ぁっ!!」

 

だが、男はマリアの魔法の光を見た瞬間、痛みを忘れたように顔を引き攣らせ、泥水の中を這うようにして後ずさった。

 

その目に宿っていたのは、以前のような『気味の悪い不義の子』を見る嫌悪や蔑みではない。正体不明の絶対的な死の象徴を見るような、原始的な『恐怖』そのものだった。

 

マリ「え……?」

 

周囲の生き残った町民たちも同じだった。

 

マリアが近づくだけで、誰もが悲鳴を上げて道を開け、ガタガタと震えながら顔を背けた。その異様な拒絶反応に、マリアは治療の手を止めたまま、凍りついたように立ち尽くすしかなかった。

 

ふと、マリアの視界の端に、見覚えのある少年の姿が映った。

 

昨日、森の中でキューちゃんに石を投げ、マリアに襲いかかろうとした、あの悪ガキのリーダー格の男子だ。

 

少年は、顔を真っ赤に腫らし、地面に横たわる『首の皮一枚で繋がった凄惨な死体』に取りすがって、声が枯れるほど泣き叫んでいた。

 

「とうちゃん……っ、とうちゃん……っ!! あぁぁぁぁっ!!」

 

その死体は、昨日、マリアの『町ごと奴隷にしてやる』という嘘を信じ込み、息子を抱えて逃げ出した、あの青ざめた男だった。彼は自警団として真っ先に巨獣の前に立ち塞がり、その巨大な爪の餌食となって真っ二つに引き裂かれていたのだ。

 

マリ「……あ……」

 

自分がついた嘘。そして、自分が匿っていた生き物。

 

すべてが最悪の形で結びつき、結果として彼から父親を奪ってしまった。その事実に、マリアは息が止まりそうになった。

 

その時だった。

 

少年の少し後ろで、泥だらけになって震えていた女の子。

昨日、一緒に石を投げていた悪ガキの一人が、うつろな目でマリアを指差し、ポツリと呟いたのだ。

 

「『隠し子の呪い』だ……」

 

その弱々しくもはっきりとした声は、静まり返った絶望の広場に、呪詛のように響き渡った。

 

「マリアが……昨日、私たちが怒らせたから……見せしめに、あの巨大な魔物を呼び寄せて、町を襲わせたんだ……。隠し子の、呪いだ……っ!」

 

その言葉が、極限状態にあった町民たちの心に、ストンと腑に落ちてしまった。

 

キャンベルの家から現れた化け物。

 

昨日、マリアに逆らった子供の父親の無惨な死。

 

そして、今この凄惨な血の海の中で、マリアの手から放たれている奇妙な光。

 

(ああ……私たちが今まで虐げてきたから。この子は悪魔と契約して、町に復讐を果たしたんだ)

 

誰が口に出すまでもなく、その場にいた全員の目に、絶望的な『確信』が宿った。

 

結果として、今回の惨劇は「貴族の隠し子であるマリアが、自身を虐げた町民に見せしめのために魔物をけしかけた」という最悪の誤解として、町に深く刻み込まれることとなった。

 

それからというもの、キャンベル家に対する報復が行われることは一切なかった。

 

魔法省や領主へ訴え出て捕らえようとする者もいなかった。なぜなら、「そんなことをすれば、あの娘は再びあの山のような巨獣を呼び寄せ、今度こそ町を根絶やしにするに違いない」と、誰もが本気で信じ込み、恐れおののいたからだ。

 

やっかみや陰口、石を投げられるといった直接的な嫌がらせは、嘘のようになくなった。

 

だがその代わり、マリアと母親は、町中から腫れ物のように、いっそう底知れぬ恐怖と畏怖の目で見られ、誰一人として近づこうとしない、完全な『孤独』の牢獄へと閉じ込められることとなったのだった……。

 

ー回想終わりー

 

カタ「マリアちゃんにそんな事が……」

 

カタリナは、ショックのあまり両手で口元を覆い、言葉を失っていた。

 

傷つき怯えていた小さな命を救い、心を通わせただけ。それなのに、人間の無知と恐怖が連鎖し、結果として取り返しのつかない惨劇と誤解を生んでしまった。誰が悪いと一概に言えないその残酷な現実に、カタリナの胸は締め付けられるように痛んだ。

 

マリ「……だから、私が『隠し子の呪い』と呼ばれるのも仕方ないんです……」

 

俯いたままのマリアが、自嘲するような、ひどく悲しい笑みを浮かべてぽつりと呟いた。

 

マリ「私が『町ごと奴隷にしてやる』なんて余計な嘘をつかなければ、あの子の親が町の人たちをあんな目に遭わせることもなかった。だから、みんなが私を恨むのは当然なんです……」

 

その弱々しい自己否定の言葉を聞いた瞬間、カタリナの中で悲しみよりも強い感情――義憤が爆発した。

 

カタ「そんな事ないわよ! マリアちゃんはただ、可哀想な子を助けただけでしょ!?」

 

カタリナは一歩踏み出し、マリアの両肩を力強く掴んだ。

 

カタ「マリアちゃんが嘘をついたのは、自分とあの子の命を守るためだったじゃない! 町を襲ったのも、親があの子を守ろうとした本能による悲しい事故よ! マリアちゃんは悪魔なんかじゃないし、呪いなんかでもない! 誰かのせいにして、マリアちゃん一人に全部押し付けるなんて、絶対に間違ってるわ!!」

 

涙を浮かべて激昂するカタリナ。その真っ直ぐで温かい怒りは、マリアの凍りついていた心を強く揺さぶった。マリアの瞳から、再びポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。

 

カタリナはさらに町民たちへの怒りを口にしようと息を吸い込んだ。

 

だが、その時。

 

キー「姉さん。今は……」

 

傍らに立っていたキースが、そっとカタリナの肩に手を置き、静かに首を横に振った。

 

ハッとしてカタリナが視線を向けると、キースは痛ましげな眼差しを、巨大な土のドームに拘束されたまま息も絶え絶えになっている二頭の恐竜――アロサウルスとトルヴォサウルスへと向けていた。

 

そうだ。今は、過去の誤解を解いたり、理不尽な町民たちに怒りをぶつけたりしている場合ではない。

 

アロサウルスは右腕を粉砕されて骨が露出し、トルヴォサウルスは腹部を蹴り破られて内臓がはみ出しかけている。マリアの応急処置で致命傷の悪化こそ防げているものの、一刻も早く安全な場所へ運び、本格的な治療を行わなければ、いつ命を落としてもおかしくない極限状態なのだ。

 

キースの冷静な言葉に、カタリナはハッと我に返り、自身の感情的な振る舞いを反省するように強く唇を噛み締めた。

 

そのやり取りを見ていたマリアは、制服の袖で乱暴に涙を拭い、グッと顔を上げた。

 

彼女の瞳には、過去の絶望に囚われた弱々しい光ではなく、目の前の命を救おうとする強い決意の光が宿っていた。

 

マリ「私が、魔法をかけ続けます。歩きながらでも、絶え間なく光の魔力を注ぎ続ければ……完全に治すことはできなくても、少しずつですが傷を塞いで、命を繋ぐことはできるはずです」

 

その毅然とした申し出に、ヘクターをはじめとする魔法省の面々が力強く頷いた。

 

「特務保護部隊、及び魔道具研究室! 浮遊魔法陣、再展開!」

「マリアの魔力供給を最優先でサポートしろ! 絶対にこの二頭を死なせるな!」

 

騎士と魔術師たちが再び巨大な魔法陣を展開し、眩い光と共に二頭の巨体がフワリと宙に浮き上がる。

 

マリアはその巨大な土の拘束具のすぐ側を歩きながら、両手を天にかざした。彼女の掌から、太陽のように温かく力強い『光の魔力』が溢れ出し、重傷を負ったアロサウルスとトルヴォサウルスの巨体をすっぽりと包み込んでいく。

 

「シュゥゥゥ……」

「グルルル……」

 

苦痛に喘いでいた二頭の呼気が、光の温もりに触れてわずかに穏やかなものへと変わる。粉砕された腕や、裂けた肉の炎症が、魔法の力によってゆっくりと、だが確実に癒やされ始めていた。

 

「よし、このまま王都の保護施設まで一気に運ぶぞ!」

 

ヘクターの号令の下、一行は再び歩みを進め始めた。

 

カタリナとキースも、魔法陣の維持に魔力を注ぐ面々を護衛するように、周囲に鋭い警戒の目を光らせながら同行する。

血塗られた故郷からの決別。そして、理不尽な憎悪と悲しい過去を背負いながらも、決して目の前の命を見捨てようとしないマリアの強い意志と共に、カタリナたちは二頭の恐竜を連れて、深い森の街道を急ぎ足で進んでいったのだった。

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