悪役令嬢は破滅フラグの代わりに太古の門を開く〜私のせいで世界が恐竜時代になったので、責任をとって特別教授になります〜 作:龍座
ー『FORTUNE・LOVER』sideー
ー夜ー
太陽が完全に沈み、クラエス公爵家の広大な邸宅が深い夜の帳に包まれる頃、応接室には張り詰めた重苦しい空気が満ちていた。室内のランプが頼りなく揺れ、集まった者たちの深刻な表情を陰気に照らし出している。
パチパチと暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く中、カチャリと静かに扉が開いた。
現れたのは、衣服に薄汚れた埃をつけ、きつい顔立ちをさらに険しくした老庭師、トム・ウィズリーだった。つい先ほどまで、キースが発見したあの不気味な地下室へと潜り、内部を調査していたのだ。
ソファに腰掛けていたキースは、トムの姿を見るや否や、弾かれたように立ち上がった。その隣に控える専属メイドのアンも、青ざめた顔でトムを凝視する。
キースが地下室を発見した直後、事態の異常性を察してカタリナの実の親であるルイジとミリディアナに即座に報告がなされた。カタリナの突飛な行動には慣れていたはずの二人だったが、我が家の庭に未知の巨大な地下空間が存在していたという事実には、大層驚きを隠せなかった。そこで、先代当主の代からこの屋敷に仕え、クラエス家の土地を誰よりも知り尽くしている古株のトムに、急遽内部の確認が委ねられたのだった。
室内で息を潜めて待っていたキースたちが、すがるような、しかし恐れるような視線を向ける中、トムはゆっくりと部屋の中央へと進み出た。
トム「まさか…本当にあったとは……」
地を這うようなトムの呟きに、公爵としての冷静さを保とうと努めていたルイジが、椅子の肘掛けを強く握りしめながら問いかけた。
ルイジ「あれが何か知ってるのか?」
普段は職人気質で口数が少なく、滅多に自らの過去や知識を語らないトムだったが、今回は事態が違いすぎた。何より、かつて唯一の友と呼んだ先代当主の面影を残す、大切な少女カタリナの命がかかっている。トムは苦渋に満ちた重たい口調で、ゆっくりと語り始めた。
トム「昔、まだ先代が生きてた頃に聞いたことがありまして。初代クラエス当主が苦労の末に手に入れたとされる、古代の魔道具があると。
それは、「数多の龍と獣の住む地に赴き、呼び出す門」」
ルイジ「そんなの聞いたことないぞ」
公爵家の現当主であるルイジでさえ、耳にしたことのない名称だった。怪訝な表情を浮かべる主に対し、トムは白髪の頭を小さく横に振った。
トム「余りにも時が進み、単なるホラ話になっておりましたから無理もありません。その初代当主はその力を用い、王家に宣戦布告する予定だったそうです。ですが…」
言葉を濁したトムの意図を汲み取り、それまで不安げに胸元で手を組んでいたミリディアナが、はっとしたように口を開いた。
ミリ「起動できなかったのね」
トム「はい。結果、折角手に入れたのに捨てに捨てきれず、あの隠し部屋に隠されたのでしょう」
当時の初代当主の無念と処分すらできなかった強力すぎる遺物の存在。それが長い年月を経て、完全にクラエス家の歴史の闇に埋もれていたのだ。
トムはさらに、地下室の奥で自らの目で確認してきた、風化しかけた石碑の言葉を一同に伝えた。劣化が激しかったものの、職人としての確かな目を持つトムは、刻まれた文字の痕跡を辛うじて読み解いていた。
『クラエス家にとって何物にも勝る最大の兵器を残す。これが目覚めた時こそ、我ら一族が頂に立つであろう』
不穏極まりないその文言に、室内の温度が一段と下がったかのような錯覚を誰もが覚えた。
トム「その兵器が目覚めたのでしょう。結果、あの摩訶不思議な門が……」
トムの報告が終わりを告げた瞬間、キースの小刻みに震える目が見開かれ、その端正な顔から完全に血の気が引いて青ざめた。
昼間、姉が一人で畑に向かったこと。そして、その畑のすぐ傍らに、今は誰も見たことのない奇妙な光を放つ「門」が開いていること。全ての線が最悪の形で繋がってしまった。
キー「それじゃあ、義姉さんは中に……!」
最悪の予測が確信に変わった瞬間、キースの理性が弾け飛んだ。いつもならカタリナの突飛な行動に呆れ、ブレーキ役に徹するしっかり者のキースだったが、今ばかりはただの怯える少年に戻っていた。彼は狂ったように応接室の扉へと走り、カタリナが囚われているであろうゲートの奥へと向かおうとした。
しかし、その身体をルイジの強い腕が背後から厳しく組み伏せ、強引に引き止める。
キー「離してください!義姉さんが!!」
必死に暴れ、義父の手を振り払おうとするキースの叫びが室内に響き渡る。だが、ルイジは悲痛な面持ちのまま、養子であるキースを限界まで強く抱きしめ、その場に繋ぎ止めた。
ルイジ「気持ちは分かるが駄目だ!陛下達にも報告してある!それまで…待つしかないんだ……」
初代当主が王家への反逆のために用意したとされるほどの古代遺物の起動だ。もはや一公爵家だけで処理できる問題を遥かに超え、国家の根幹を揺るがしかねない一大事となっていた。
すでに王宮には早馬が出され、魔法省の専門家や近衛兵の動員が要請されている。だが、それらの準備が整うまでにはどうしても時間がかかるのだ。
カタリナが心配なのは、この部屋にいる誰だって同じだった。
厳格な教育ママとして普段は叱り飛ばしてばかりいるミリディアナも、今は愛娘の無事を祈るように涙を浮かべて震えている。ルイジとて、溺愛する娘を今すぐにでも助け出したい衝動を、公爵としての重責で必死に抑え込んでいるに過ぎない。
キー「義姉さん……」
腕の中の力を抜き、キースは床に膝をついた。
ただひたすらに、自分が無力であることが悔しくて仕方がなかった。もし自分がレッスンなど入れず、あの時ずっと姉の側に付いていれば。もしもっと早く異変に気づけていれば。後悔の念が次々と胸を刺し、キースは冷たい床を血が滲むほど強く握りしめることしかできなかった。
ー『FORTUNE・LOVER』side outー
ー中生代の夜ー
現代のクラエス邸が灯火に揺れる頃、遥か太古の時空に位置する密林は、夜の帳とともに完全な暗黒へと沈んでいた。
見上げる空は巨大な針葉樹の隙間から僅かに覗くだけで、月明かりすら満足に届かない。現代のソルシエ王国では聞いたこともないような、不気味な虫の羽音や、地を這う小動物の這い回る音が絶えず周囲から響いてくる。
カタリナは、命からがら逃げ延びた大木の根元にぽっかりと開いた、小さな樹洞の中に蹲っていた。
体を少しでも小さく見せるように膝を抱え、抹茶色のつなぎを泥でさらに汚しながら、入り口をカモフラージュするために引っ張ってきた巨大なシダの葉の裏に身を隠している。昼間の熱気はどこへやら、夜の密林は湿気を含んだ冷気が肌を刺し、白いタオルのほおかむりをしていても身体の震えが止まらない。
しかし、恐怖以上に今のカタリナを苦しめていたのは、強烈な飢えだった。
カタ(お腹すいた……アンの入れた紅茶が飲みたい…お菓子食べたい……)
朝から何も食べずに畑を耕し、その直後に肉食恐竜と命がけの鬼ごっこを繰り広げたのだ。カタリナの幼い身体は、完全にエネルギー切れを起こしていた。脳裏をよぎるのは、クラエス家の温かい食卓や、マリアの作る甘くて美味しいお菓子の幻影。現実は、冷たい木の洞と孤独だけだった。
その時、カタリナの意思に反して、静まり返った洞穴の中に悲しい音が鳴り響いた。
グルルルゥ……。
情けないほど大きな腹の虫の音が、静寂を切り裂く。カタリナは慌てて自分のお腹を手で押さえたが、すでに遅かった。
ガサリ。
洞穴のすぐ外で、シダの葉が擦れる微かな音がした。明らかに何者かが、今の音を聞きつけて近づいてきている。
刹那、カタリナは血相を変え、自らの両手で口と鼻を限界まで強く押し込み、完全に息を押し殺した。シダの葉で作った急ごしらえの幕の隙間から、片目だけで外の様子を必死に覗き込む。
暗闇に目が慣れていく中、月光の雫を浴びてぬっと姿を現したその生き物を見た瞬間、カタリナの脳裏に電流が走った。
あれは、ヴェロキラプトルだ。
ヴェロキラプトル―――白亜紀後期のモンゴル周辺に生息していた小型の獣脚類恐竜。
前世の映画やゲームといったフィクション作品においてはしばしば人間の大人と同等かそれ以上の大きさの凶暴なトカゲのような姿で描かれ、組織的な群れで大型恐竜を襲うモンスターとして描写されることが多い。
しかし、あれらは演出のために大幅に誇張された姿であり、実際の最新の研究に基づく史実のヴェロキラプトルは全く異なる。
本来の彼らは、大人の人間よりも遥かに小さく、せいぜい大きな七面鳥か、あるいは大型の犬程度のサイズしかない。体長は約2メートルに達するが、その長さの大部分は細長く硬い尾が占めており、体高にいたっては50センチメートル程度に過ぎない。体重も約15キログラム前後と非常に軽量であった。
外見の最大の特徴は映画のような爬虫類風の鱗肌ではなく、全身が鳥類と見紛うほどの完全な羽毛で覆われていた点である。前肢には翼のような長い羽が生えており、最新の化石研究からは羽軸が付着する小さな突起さえ確認されている。
また、映画のように高度な社会性を持って群れで巨大な獲物を狩っていたという明確な証拠は古生物学的には乏しく、基本的には単独、もしくは一時的なつがいで行動し、自らよりも小さなトカゲや哺乳類、あるいはプロトケラトプスのような小型の草食恐竜を待ち伏せして狩る、孤高のハンターであったと考えられている。
だが、どれだけ小さかろうが、羽毛が鳥のようであろうが、目の前にいるのは紛れもない肉食の捕食者だった。
暗闇の中で、奴の細い顔の先端にある鋭いクチバシのような顎が、小刻みに動いている。後肢の第2指には、ヴェロキラプトル属の象徴である、内側に大きく湾曲したカミソリのように鋭い「シックルクロー」という巨大な鉤爪が備わっており、地面を踏みしめるたびに冷酷な存在感を放っていた。
奴の脚は非常に速い。骨格の構造上、時速40キロメートルから60キロメートルもの速度で疾走することが可能であり、もしカタリナがパニックを起こしてこの洞穴から飛び出し、平地で逃げ惑うようなことがあれば、確実に数秒で背後から組み伏せられ、あの鉤爪で引き裂かれる。小さな子供の身体では、どれだけ木登りが得意でも、登る前に追いつかれるのは明白だった。
だからこそ、今はただ、石のように硬直して息を潜め、やり過ごすしかなかった。
ヴェロキラプトルは、カタリナの籠もる樹洞のすぐ前で足を止めた。首を傾げ、鳥のような鋭い双眸でシダの幕をじっと見つめている。
喉の奥から、シュー……というワニに似た低い威嚇の排気音が漏れ、カタリナの心臓は破裂しそうなほど脈打った。衣服についた土の匂いや、カタリナ自身の恐怖の匂いを探っているかのようだった。
カタ(あんなゲート…通らなきゃ良かった……)
涙が視界をにじませる。
ただの暇つぶし、ただの好奇心で足を踏み入れた場所が、まさかこんな地獄に繋がっているなんて思いもしなかった。破滅フラグを回避して、みんなと平和に畑を耕して、のんびり長生きするはずだった未来が、暗闇の中で指の隙間から溢れ落ちていく。
カタリナは、自分がしでかした不用意な行動のすべてを、冷たい穴の中で激しく後悔したのであった。
ーーー
うっそうと生い茂る巨大なシダの隙間から、濁った灰白色の朝日がじわじわと差し込み始めた。太古の朝が訪れたのだ。
あの恐怖の夜から幸いにもヴェロキラプトルに気付かれずにやり過ごすことには成功したカタリナだった。しかし、その代償はあまりにも大きかった。いつ暗闇から鋭い牙が飛び出してくるか分からない極限の恐怖と、内臓を揺さぶるような不気味な重低音が響く環境の中で、カタリナはあれから一睡もすることができなかった。
完全に睡眠不足と疲労でフラフラになりながらも、カタリナは狭い木の洞穴から外へと這い出る。
ドサ……。
地面の湿った泥の上に、カタリナの身体は力なく倒れ込んだ。抹茶色のつなぎは夜露と泥を吸ってずっしりと重く、ほおかむりにした白いタオルも乱れて視界を遮る。
カタ「辛い……」
鉛のように重い身体を引きずり、クワを杖代わりにしながらどうにか上半身を起こす。飢えと疲労で頭がズキズキと痛むが、ここでじっとしていても死を待つだけだ。カタリナは必死に思考を働かせた。
カタ「でも、今ならあのタルボサウルスは居ないはず……今のうちに急い……」
ガサ……。
すぐ真横の、ほんの数歩しか離れていないシダの茂みが大きく揺れた。
カタ「…で」
カタリナの言葉が途切れる。ゆっくりと首を向けたその視線の先にいたのは、全身を荒い羽毛で包んだ、昨日のヴェロキラプトルだった。
カタ「まさか、側で寝て…」
奴は夜の間、カタリナが籠もる樹洞のすぐ近くで身体を丸めて眠っていたのだ。そして、カタリナが発した声と、這い出る際にかすった植物の音で完全に目を覚ましていた。鳥類に特有の、ぎょろりとした冷酷な双眸がカタリナの小さな姿をまっすぐに捉える。
「キィヤァァァッ!」
金属を擦り合わせたような甲高い鋭い声を上げ、ヴェロキラプトルが強靭な後ろ脚で地面を蹴った。現生の猛禽類が獲物に飛びかかるのと全く同じ、凄まじい瞬発力だった。
カタリナは悲鳴を上げる余裕すらなく、ふらつく身体を無理やり動かして泥を蹴ったが、寝不足の鈍い身体では、時速40キロメートルから60キロメートルに達する俊敏なハンターの速度から逃げ切れるはずもなかった。一歩、二歩と進んだところで、背後から猛烈な質量が衝突する。
グサッ!
カタ「ーーーー!!痛い痛いイタイイタイ!!!」
凄まじい激痛がカタリナの身体を貫いた。
ヴェロキラプトルの後ろ肢にある、大きく湾曲したカミソリのようなシックルクローが、抹茶色のつなぎの分厚い生地を容易く引き裂き、カタリナの左太ももの肉へと深く突き刺さったのだ。
最新の古生物学において、この鉤爪は獲物を切り裂くためのものではなく、標的に突き刺して自らの体重をかけ、地面に完全に押さえつけるための道具「ラプター・プレイ・レストレイント」であったと考えられている。現生のタカやワシが獲物を足で固定するのと全く同じ方法だ。
カタリナは自らの体重の何倍もの力で地面に組み伏せられ、身動きが取れなくなる。さらにヴェロキラプトルは、固定した獲物を確実に仕留めるため、細長い顎を開いてカタリナの肩口や腕へと狂暴に噛みついてきた。
カタ「離れなさいよ! このトカゲ!! 痛い、離してぇぇっ!!」
涙と泥で顔をぐしゃぐしゃにしながら、カタリナは激痛の中で必死に暴れ、覆いかぶさってくる羽毛まみれの身体を振り払おうとする。しかし、深く突き刺さった太ももの爪と、獲物を逃がすまいと執拗に迫る顎の拘束は、子供の腕力ではビクともしない。このままでは確実に食い殺される。その確実な死の予感が、カタリナの脳裏に最悪の破滅フラグとして過った。
カタ「ふざけないでよぉぉぉ!!」
火事場の馬鹿力だった。カタリナは自由になる右腕を伸ばし、地面に転がっていた愛用のクワの柄を必死に掴み取った。そして、太ももの激痛を怒りでねじ伏せるようにして、至近距離からヴェロキラプトルの頭部めがけて、クワを思い切り振り抜いた。
ガキィンッ!
鍛え上げられた鉄の刃、あるいは頑丈な木製の柄の先端が、ヴェロキラプトルの顔面に痛烈な一撃を見舞う。
不意に強烈な反撃を喰らったヴェロキラプトルは、驚いたような鋭い悲鳴を上げ、カタリナの左太ももに突き立てていた鉤爪を強引に引き抜きながら、後ろへと大きく飛び退いた。
カタ「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
ようやく拘束から解放され、カタリナは地面を転がるようにして距離を取る。左太ももからは、つなぎの抹茶色を瞬く間に赤黒く染めるほどの鮮血が溢れ出していた。あまりの激痛に視界がチカチカと明滅する。
ヴェロキラプトルは頭を激しく振り、クワの手応えに怯みながらも、なおも貪欲な目でカタリナを睨みつけていた。低い喉鳴らしの音を立てながら、再び跳躍の姿勢をとる。
カタ「来ないで! 近寄るんじゃないわよぉぉっ!!」
カタリナは痛む足を無理やり引きずりながら立ち上がり、狂ったように両手でクワをぶん回した。
ブン、ブンと空気を切り裂く金属音が響き、カタリナの周囲に一歩も近づけない執念の障壁を作り出す。一睡もしていないはずの子供の身体から放たれる、死に物狂いの威嚇。
それを見たヴェロキラプトルは、これ以上の攻撃は自らにも大きな負傷のリスクがあると本能で察知した。
野生の捕食者は、手痛い反撃をしてくる獲物を深追いしないものだ。奴は一瞬だけ不満そうに尾を激しく振ると、カタリナに背を向け、驚くほどの俊敏さでシダの茂みの奥へと走り去っていった。
静寂が戻った森の中で、カタリナはクワを持ったまま、その場にがっくりと膝をついた。ヴェロキラプトルを退けることには成功したものの、太ももの傷口からは絶え間なく血が流れ落ち、衣服を赤く染め続けていた。
激痛に顔を歪めながらも、カタリナの生存本能はまだ完全に折れてはいなかった。
彼女は頭に巻いていた土よけの白いタオルを乱暴に引きむしり、ヴェロキラプトルの鉤爪によって深くえぐられた左太ももの傷口の少し上を、力任せにきつく縛り上げた。血止めのためだ。
さらにカタリナは、周囲の湿った泥を両手で掬い上げ、独特の青臭い匂いを放つシダの葉をすり潰し、どろどろになったそれを傷口と血に染まった衣服の上から無我夢中で塗りたくった。現代の医学知識からすれば、破傷風や未知のバクテリアへの感染を招く自殺行為に他ならない。
だが、今は傷口から化膿する数日後の未来よりも、血の匂いを嗅ぎつけて数分後に迫ってくるかもしれない捕食者の鼻をごまかすことの方が先決だった。雑菌など二の次だ。生き延びるためなら泥でも何でも被る。
応急処置を終えたカタリナは、傍らに落ちていたクワの柄を杖代わりにし、泥だらけの地面に突き立てた。
ズキリ、と骨の髄まで響くような痛みが走る。左脚はまともに地面を踏みしめることができず、カタリナは右脚とクワだけで全体重を支え、痛む脚を引きずりながら、ゲートがあるはずの方角へと歩みを進めていった。
しかし、子供の身体から流れた血の量はあまりにも多すぎた。
歩を進めるごとに、ドクンドクンと脈打つ傷口から体力が抜け落ちていく。視界の端が白く明滅し、耳の奥ではキーンという酷い耳鳴りが響き始めていた。まとわりつくような太古の森の湿気が、今のカタリナには息苦しい水中のように感じられる。意識はすでに朦朧としており、歩き続けることすら奇跡に近い状態だった。
カタ(痛い……頭がボーっとする……)
足元がふらつき、木の根に躓きそうになるのをクワで必死に支える。カタリナは諦めなかった。あの光るゲートをくぐりさえすれば、アンが、キースが、お父様とお母様がいる元の世界へ帰れる。その執念だけで、鉛のように重い身体を前へ前へと押し出していた。
だが、それも時間の問題だった。限界を超えた肉体は、精神の命令を徐々に拒絶し始める。
ドクン、と大きく脈打った瞬間、ふと、カタリナの霞む脳裏に奇妙なまでに静かな思考がよぎった。
カタ(でも……私がここで亡くなったら、もう皆にも迷惑をかけずに……)
カタリナ・クラエス。それは本来、乙女ゲームの世界において、ヒロインを虐め抜き、周囲の人間を不幸のどん底に陥れ、自らも破滅する『悪役令嬢』の名前だ。前世の記憶を取り戻してからは、破滅フラグを回避するために必死に動き回り、周囲を巻き込んでドタバタと騒がしい毎日を送ってきた。
でも、もし自分がこの誰も知らない太古の森で、ひっそりと命を落としたら?
ジオルド王子に剣で斬られることも、義弟のキースに魔力で殺されることもなくなる。マリアをはじめとする本来の主人公たちが、自分という存在によって運命を狂わされることもない。自分がここで消えれば、みんなの平和な未来が約束されるのではないか。
極限の疲労と失血状態が、彼女の持ち前のポジティブさを奪い去り、そんな暗く甘美な諦念へと引きずり込んでいく。
カタリナの足が、ピタリと止まった。
杖代わりにしていたクワを取り落とし、カタリナの身体は糸が切れた操り人形のように、泥まみれの地面へと力なく崩れ落ちた。
ドサッ……。
冷たい土の感触が頬に触れる。
意識が朦朧とする中、視界がぐるぐるとふらつき、世界の色が急速に失われていく。
遠くで名も知らぬ太古の鳥が鳴く声が聞こえた気がした。しかし、それもすぐに暗闇の底へと吸い込まれていく。
カタ(……ごめんなさい……みんな……)
声にならない謝罪を胸に抱きながら、カタリナはゆっくりと、その瞳を閉じた。
無限に広がる中生代の森の静寂が、小さな少女の存在を完全に飲み込もうとしていた。
冷たい土の感触と頬を撫でる湿った風。いつまで気を失っていたのだろうか。数分なのか、あるいは数時間が経過したのか、カタリナの朦朧とした頭では時間の感覚すら完全に喪失していた。
深い暗闇の底に沈みかけていた意識を現実に引き戻したのは、すぐ耳元で聞こえた短い鳴き声だった。
「――クゥルッ、クゥッ」
鳥のさえずりを野太くしたような、あるいは喉の奥を鳴らすような独特の響き。
重い瞼を微かに開けると、ぼやけた視界の中に無数の細長い脚が林立しているのが見えた。カタリナは泥にまみれた顔を僅かに上げ、周囲の光景を捉える。
そこには、前世の動物園で見たダチョウによく似た、しかしダチョウよりも遥かに巨大で長い尾を持つ生物の群れが、カタリナの周囲を取り囲むようにして歩き回っていた。彼らは地面の低い植物を啄んだり、周囲をキョロキョロと見回したりしており、足元で泥と同化して倒れているカタリナのことなど全く気にも留めていない様子だった。
カタ(あれ……オルニト………でも…ここには……じゃあ……『ガリミムス』)
薄れゆく意識の中で、図鑑の知識が最後の火花を散らした。
北米大陸に生息していたオルニトミムスではない。タルボサウルスやサウロロフスがいるこのアジアの生態系(モンゴルのゴビ砂漠周辺に相当する環境)に生息するダチョウ恐竜といえば、一つしかない。
ガリミムス―――白亜紀後期のアジアに生息していた獣脚類であり、「鶏に似たもの」という意味の学名を持つ。オルニトミムス科(ダチョウ恐竜)の中では最大級の体格を誇り、全長は6メートルから8メートル、体重は約400キログラムから450キログラムにも達する。現代のダチョウなど比較にならないほどの巨体である。
最新の古生物学に基づけば、彼らの全身はウロコではなく柔らかな羽毛に覆われており、前肢(腕)には現代の鳥類の翼のような長く美しい飾り羽が生えていた。小さな頭部には歯のないU字型のクチバシがあり、頭の側面に位置する大きな眼球によって極めて広い視野を確保していた。
最大の武器は、その長く発達した後ろ脚である。筋肉質で強靭な脚力を持つ彼らは、時速50キロメートルから、あるいはそれ以上の猛スピードで平原や森を駆け抜けることができたと考えられている。
しかしその反面、戦闘能力は皆無に等しく、極めて臆病で警戒心が強い。捕食者の気配やわずかな物音を感じ取った瞬間、群れ全体がパニックを起こして一斉に逃げ出すという、完全な「逃走」に特化した生態を持っていた。
カタリナは悟った。左太ももの傷は深く、大量の血を流した今の自分の脚では、もはやゲートまで歩いて戻ることなど絶対に不可能だ。這って進んだとしても、途中で必ず力尽きるか、血の匂いを嗅ぎつけた他の肉食恐竜の餌食になる。
だが、もしこの臆病で俊足なガリミムスを利用できたら?
群れがパニックを起こして一斉に走り出せば、凄まじい推進力と土煙が発生する。運良く彼らが開けた場所――すなわちゲートのある方向へ逃げてくれれば、それにしがみついているだけで一気に距離を稼ぐことができる。
それに、これだけの巨体の群れがパニック状態で押し寄せれば、あのゲートの前で寝ていた二頭のタルボサウルスでさえ、驚いて飛び起きるか、道を空けるに違いない。その混乱に乗じれば、ゲートに飛び込める。
生き残るための、そして元の世界へ帰るための、最初で最後のチャンス。
その強い帰還への意思が、消えかけていたカタリナの生命の炎を再び燃え上がらせた。
カタ(やるしかない……ここで死んでたまるもんですか……!)
カタリナは痛む左脚を庇いながら、極限まで気配を殺し、泥にまみれた体を尺取り虫のようにじりじりと這わせた。
ガリミムスは警戒心の塊だ。不用意に立ち上がれば、すぐさま気付かれて走り去られてしまう。幸い、カタリナが身にまとっているのは土汚れとシダの汁にまみれた抹茶色のつなぎであり、森の地面と完全に同化していた。
息を潜め、少しずつ距離を詰める。
群れの端の方に、長い脚を折りたたみ、鳥が休息するように地面に座り込んでいる一頭のガリミムスがいた。休んでいるとはいえ、首を高く上げ、大きな目で絶えず周囲を警戒している。
距離はじわじわと縮まり、あと数メートル、あと一メートル。
心臓の鼓動がうるさいほどに鳴り響く。失血による目眩が襲ってくるが、カタリナは必死に奥歯を噛み締めて意識を保った。
今だ。
カタ「いっけえぇぇぇっ!!」
カタリナは最後の力を完全に解放し、痛む脚の激痛すらも無視して地面を蹴り上げた。野猿と恐れられた彼女の驚異的な跳躍力が、瀕死の肉体に奇跡を起こす。
ガシッ!!
泥まみれの小さな身体が宙を舞い、地面に座り込んでいたガリミムスの羽毛に覆われた背中、その首の付け根あたりに勢いよく飛び乗った。カタリナは両手両足を使い、鞍を持たない馬にしがみつくように、ガリミムスの体を死に物狂いで強く抱きしめた。
「――ギェアアァァァッ!!」
突如として背中に謎の重量物が張り付いた恐怖に、座っていたガリミムスは目を大きく見開き、鳥の悲鳴を何十倍にも増幅したような、耳を劈く絶叫を上げた。
その悲鳴が引き金となった。
何事かと振り返った他のガリミムスたちも、得体の知れない事態に連鎖的なパニックを起こし、一斉に甲高い警告音を発する。
次の瞬間、強靭な後ろ脚が爆発的な力で地面を蹴り上げ、巨大なダチョウ恐竜の群れは土煙を巻き上げながら、怒涛の勢いで太古の森を走り出した。