乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してだけでなく私のせいで古生物を解き放ってしまった…。〜責任をとってプレヒストリック・パークを開きます〜 作:龍座
圧倒的な絶望を前に、王国の精鋭であるはずの騎士や兵士たちは完全に凍りついていた。
未知の巨大生物が放つ、死そのもののような重低音の威嚇。一歩踏み出されるたびに地面が揺れ、彼らの戦意は容易く砕かれようとしていた。
「怯むな!! 陣形を立て直せ!!」
その硬直した空気を打ち破ったのは、歴戦の猛者である騎士団長の一喝だった。
「相手が魔獣であろうと何であろうと関係ない! 我々の背後には王族の方々と公爵家がいらっしゃるのだ! 命に代えてもここを死守せよ! 盾を前に出せ! 魔術師は詠唱を急げ!!」
腹の底から絞り出された団長の怒声に、我に返った兵士たちの目に再び理性の光が宿る。恐怖を押し殺し、彼らは震える手で槍を構え直し、魔術師たちは迎撃の陣形を急ピッチで組み直した。
一方、二頭のタルボサウルスは、目の前でちまちまと動き回る小さな生き物たちを、黄色く濁った瞳で冷徹に見下ろしていた。
彼らの細長くスマートなV字型の頭骨が、微かに持ち上がる。発達した嗅覚が、風に乗って漂ってくる『血の匂い』を正確に捉えていた。それは、先ほどまで彼らの狩り場を荒らし、逃亡したあの
だが、彼らの視界には今、その逃げた獲物よりも遥かに大量の、動きが遅く、牙も爪も持たない
ジオ「アラン、キース! カタリナを早く屋敷の中へ!」
前線で兵士たちが盾を構える中、ジオルドが鋭く声を張り上げた。
大怪我を負い、完全に意識を失っているカタリナをこの場に留めておくのは自殺行為だ。
ジオルドは泥だらけになるのも構わずカタリナの身体をしっかりと抱き上げ、アランやキース、ニコルたちと共に、全速力でクラエス公爵家の屋敷へと駆け込んだ。メアリやソフィア、両親たちも青ざめた顔でそれに続く。
屋敷の分厚いオーク材の扉が重々しい音を立てて閉ざされたのを確認し、前線の兵士たちは覚悟を決めた。
ズズン……ズズン……。
二頭のタルボサウルスが、ゆっくりと歩みを進め始めた。
体重約5トン。全長10メートルを超える巨体が動くたび、庭園の美しく刈り込まれた芝生が抉られ、深い三本指の足跡が刻み込まれる。
「放てぇぇっ!!」
団長の号令と共に、魔術師たちの一斉に炎や風の魔法が放たれた。無数の火球が宙を舞い、先頭を歩く一頭目のタルボサウルスの頭部や胴体に着弾する。
轟音と共に爆炎が上がり、周囲を熱波が包み込んだ。
「やったか!?」
兵士の一人が声を上げたが、それはあまりにも致命的な見通しの甘さだった。
煙を切り裂いて現れた巨大な頭部には、焦げた匂いこそすれど、致命傷には程遠かった。まばらに生えていた羽毛の残骸がチリチリと燃えただけで、分厚いウロコと強靭な皮膚に守られた巨体は、魔法の直撃をものともしていなかったのである。
むしろ、顔面に熱を浴びせられたことで、タルボサウルスの闘争本能に完全に火が点いた。
「シュゴオォォォッ!!」
鳥類のような鋭い威嚇の呼気を吐き出し、タルボサウルスが動いた。
ここからは、人間の矮小な力など及ばない、圧倒的な暴力の蹂躙であった。
「槍を突き出せ! 寄せ付けるな!」
最前列の重装歩兵たちが、巨大な獣の足元めがけて一斉に長槍を突き出す。しかし、鳥の脚をそのまま巨大化させたような強靭な後肢の鱗に槍の穂先が弾かれ、火花が散る。
直後、タルボサウルスが何気なく踏み出した一歩が、兵士の一人の頭上から無慈悲に振り下ろされた。
悲鳴を上げる間すらなかった。数トンの体重が乗った巨大な三本指の足底が鋼鉄の兜と鎧ごと兵士の身体を泥の中へと完全に押し潰す。グチャリ、という耳を塞ぎたくなるような水音と、骨が粉々に砕ける音が響き、足の隙間から赤黒い肉塊がはみ出した。
「う、うわああああああっ!!」
隣でその惨状を見た兵士がパニックを起こし、逃げ出そうと背を向けた。
その瞬間、頭上から凄まじい風切り音が迫る。
タルボサウルスの最大の武器は、その巨大な頭骨そのものだ。
ガキィィィンッ!!
鋼鉄の鎧を着込んだ兵士の上半身が、丸ごと巨大な顎に挟み込まれた。
ティラノサウルスと違いタルボサウルスの下顎には獲物の骨を砕く際に生じる強烈な負荷に耐えるための強固な「ロック機構」が備わっている。数トンに達する凄まじい咬合力が逃げることなく真っ直ぐに兵士の胴体を締め付けた。
鉄の鎧が飴細工のようにひしゃげ、内部の人肉と骨がミンチ状にすり潰される。口の端から鮮血が滝のように噴き出し、庭園の芝生を真っ赤に染め上げた。顎が横に振られると、千切れた下半身だけが宙を舞い、遠くの茂みへと叩きつけられた。
「ひぃぃっ! 悪魔だ……悪魔の化身だ!!」
陣形はすでに崩壊していた。魔法による牽制も、もはや二頭目には全く通じない。
二頭目のタルボサウルスは、自らを側面から攻撃しようと回り込んできた騎士の一団に向かって、巨大な身体を旋回させた。
その動きに伴い、巨大な頭部とバランスを取るために水平に保たれていた、丸太のように太く硬直した『尻尾』が、凄まじい遠心力を持って振り回された。
意図的な攻撃ではない。ただ身体の向きを変えただけだ。しかし、数トンの質量を持つ筋肉と骨の塊が高速で薙ぎ払われればどうなるか。
ドゴォォォン!!
「ぐあぁぁっ!!」
「がはっ……!」
尻尾の直撃を受けた数名の騎士たちの身体が、まるで枯れ葉のように中空へと吹き飛ばされた。
鎧はベコベコに陥没し、内部の肋骨と背骨が完全に粉砕される。ある者は屋敷の石壁に激突して絶命し、ある者は首があらぬ方向へ折れ曲がったまま地面を転がった。
噛み砕かれ、踏み潰され、薙ぎ払われる。
そこに悪意や憎悪は一切存在しない。あるのはただ、白亜紀という極限の世界で培われた、純粋で無駄のない捕食行動のみである。
人間の武器も、鎧も、魔法すらも、圧倒的な質量の前には無力だった。
「退け! 一旦退いて立て直すんだ!! ぐわあぁぁっ!!」
最後まで指示を出していた騎士団長の姿も、無慈悲に振り下ろされた巨大な顎によって一瞬にして視界から消え去った。
断末魔の悲鳴と肉が裂ける音、骨が砕ける鈍い音が、美しかったクラエス公爵家の庭園に響き渡る。
兵士たちの数は瞬く間に減っていき、二頭のタルボサウルスは血の匂いに狂喜するように次なる獲物へと悠然とその巨大な足を踏み出していった。
ーーー
分厚いオーク材の扉の向こう、庭園から響いてくる絶叫と凄惨な肉の破裂音が、クラエス公爵家の屋敷の壁を震わせていた。
一階の奥、最も安全だと判断された客室では、緊迫した空気の中でカタリナの集中治療が行われていた。
ベッドに横たえられたカタリナの顔には一切の血の気がなく、死者のように冷たい。左太ももの傷は想像を絶するほど酷く、肉食恐竜の鋭い鉤爪は分厚いつなぎごと彼女の肉を深く抉り取り、一部の筋組織すら断裂させていた。
「血が止まりません! 早く清潔な布と熱湯を!」
「しっかり押さえろ! 意識を失っているとはいえ、痛みに体が反応している!」
集められた屋敷の専属医と数名のメイドたちが、汗だくになりながら必死の処置を続けている。
もしこの場に、あらゆる外傷を一瞬で塞ぐことができる伝説の『光魔法』の使い手がいれば、この絶望的な状況も一変しただろう。しかし、光魔法の適性を持つ人間はソルシエ王国中を探しても極めて希少であり、現在この屋敷には存在しない。
失われた大量の血を補い、抉られた肉を繋ぎ合わせ、感染症を防ぐ。頼れるのは地道で過酷な物理的治療と、微弱な治癒魔法によるサポートのみだった。
一方、治療室から少し離れた別の応接室では、ジオルド、アラン、ニコル、キースの四人が、居ても立っても居られない様子で沈黙に耐えていた。
誰も口を開かない。開けば、外から響いてくる兵士たちの断末魔の悲鳴が耳に入ってきてしまうからだ。彼らはただ、血まみれになった自らの手を見つめ、カタリナの無事を祈るしかなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。永遠にも感じられる数十分の後、治療室の扉が重く開かれ、疲労困憊した医師が顔を出した。
「……一先ず、出血は治まりました。命の危機は脱したかと」
その報告を聞いた瞬間。
ジオルドたちは弾かれたように立ち上がり、誰に言われるまでもなく、咄嗟にカタリナのいる部屋へと駆け込んだ。
アラ「カタリナ!」
キー「義姉さん!」
ベッドの周囲には、すでにメアリやソフィア、そしてカタリナの専属メイドであるアンが付き添い、祈るように手を握っていた。
カタリナの左脚は何重にも分厚い包帯で巻かれ、その表面にはうっすらと赤い血が滲んでいる。意識はまだ戻っていないが、苦痛に歪んでいた表情はわずかに和らぎ、浅く静かな寝息を立てていた。
キース「あぁ……よかった……本当によかった……」
キースが膝から崩れ落ち、ベッドの縁にすがりついて泣き崩れる。ジオルドも大きく安堵の息を吐き出し、アランは壁に背を預けて天を仰いだ。
だが、その僅かな安堵の時間は、無慈悲な地鳴りによって唐突に引き裂かれた。
ズズン……!
屋敷の壁ごと内臓を揺さぶるような、規格外の重い足音。
それが建物のすぐ外、庭園のすぐ近くで鳴り響いた。
「ッ!」
その足音に反応し、アンやメアリ、ソフィアたちが、咄嗟にカタリナの身体を庇うようにベッドの上に覆い被さった。ジオルドたちは瞬時に腰の剣を引き抜き、窓の方へと殺気を放つ。
……そういえば、と。
全員の心に氷のような冷たい戦慄が走った。
先ほどまで絶え間なく響いていた、兵士たちの怒声や悲鳴、金属がぶつかり合う音が、いつの間にか完全に消え去っている。外から聞こえるのは、風の音と、腹の底に響く巨大な足音だけ。
それはつまり、外で防衛線を張っていた王国軍と騎士団の精鋭たちが、あの二頭の化け物によって『全滅』させられたことを意味していた。
ズズン……ズズン……。
足音は屋敷の外壁に沿うようにして、ゆっくりと近づいてくる。強靭な後肢の鱗がこすれる音、そして、「シューッ、シューッ」という、鳥類特有の鋭い呼吸音が、窓ガラスのすぐ向こう側から聞こえ始めた。
部屋の中の全員が息を殺し、一歩も動けない。
やがて、その巨大な足音は、カタリナたちがいる部屋の大きな窓のすぐ外で、ピタリと止まった。
静寂。
ただ、生暖かい獣の息遣いだけが、窓枠の隙間から漏れ入ってくる。
アンは震える手で、ベッドのすぐ横にある窓のカーテンをわずかに強く握りしめた。
ほんの少しだけ。外の様子を確かめなければ、次善の策も打てない。アンは勇気を振り絞り、分厚い遮光カーテンの隙間から、ゆっくりと外を覗き見た。
その瞬間。
アン「ひぃっ!!?」
アンの喉から、声にならない短い悲鳴が漏れた。腰が抜け、そのまま床にへたり込む。
アンが見たもの。
それは、窓ガラスの向こう側、庭園の空間を完全に埋め尽くすほどの『巨大な顔の側面』だった。
全長1メートルを超える巨大な頭骨。その表面を覆う無骨な鱗のディテールまでが、狂気的なほど鮮明に見えた。
そして何より、アンの視線を釘付けにしたのは、その顔の側面に位置する『目』であった。
テニスボールほどもある、黄色く濁った巨大な眼球。
横を向いているはずのその瞳孔が、ギョロリと動き、窓の隙間から覗き込むアンの目と、完全に視線を交差させたのだ。
ティラノサウルス類は、獲物を立体視して距離を測るために両眼視(前を向いて両目でものを見る)能力に優れているとされているが、タルボサウルスは少し異なる。彼らの頭骨はティラノサウルスほど後頭部が幅広くなく、目はやや横向きについている。そのため、両眼視能力は劣る代わりに、広い視野を持っている。
窓の外の巨大な捕食者は、横目でしっかりと、屋敷の中に隠れている『餌』の存在を認識していた。
分厚い窓ガラスなど、あの巨大な顎が一度振り下ろされれば、紙くずのように粉砕される。
踏み込まれれば、この部屋にいる全員が数秒で肉塊に変わる。
アンは死を覚悟し、ジオルドたちも決死の表情で剣を構え直した。
だが。
「……シュゴオォォォッ」
巨大なタルボサウルスは、短く威嚇のような呼気を吐き出すと、ゆっくりと頭を上げた。
彼らは満腹だった。外にいた数十人の武装した兵士たちを喰い殺し、その胃袋はすでに膨れ上がっている。
太古の捕食者は無駄な殺生を好まない。屋敷の中に獲物がいることは理解したが、今はそれ以上の食欲を刺激されなかったのだ。
ズズン……ズズン……。
再び地響きが鳴り始め、黄色い眼光は窓枠から外れていった。
巨大な足音は、屋敷から徐々に遠ざかり、より広大で、血の匂いが満ちていない新たな領域へと向かって消えていったのだった。
ーーー
深い、泥沼のような暗闇の底から、ゆっくりと意識が浮上していく感覚があった。
重く張り付いたような瞼を微かに震わせ、カタリナはゆっくりと目を開けた。
最初に視界に飛び込んできたのは、月明かりにうっすらと照らし出された見覚えのある豪奢な天蓋と精緻な彫刻が施された見慣れた天井だった。空を覆い尽くすような古代の巨大なシダ植物でもなければ、翼竜が飛ぶ白亜紀の空でもない。正真正銘、クラエス公爵家にある自分の部屋の天井だ。
鼻腔をくすぐるのは、むせ返るような血と泥と獣の臭いではなく、清潔なシーツの香りと、傷口に塗られた薬草の微かな匂い。
左脚の太ももには、分厚い包帯が巻かれているのを感じた。痛み止めの薬が効いているのか、あるいは治癒魔法の余韻か、肉を抉られた鋭い激痛は、ドクドクと脈打つような鈍い熱へと変わっている。
窓の外に目を向ければ、空はすでに深い闇に包まれていた。どうやら、あの中生代の地獄から帰還し、意識を失ってから、かなりの時間が経過して夜になっていたらしい。
屋敷の中は静まり返っており、遠くから聞こえていたはずの恐ろしい捕食者の地響きも、今はもうどこにも響いてはいなかった。
その時、ガチャリ、と控えめな音がして、部屋の重い木製の扉がゆっくりと開かれた。
廊下の微かな明かりを背にして入ってきたのは、メイド服に身を包んだ見慣れたシルエットだった。手には、水差しとガラスのコップが乗せられた銀色のトレイが握られている。
長年、カタリナの身の回りの世話をしてくれている専属メイドのアンだ。
彼女は、眠っている主を起こさないよう、足音一つ立てずに抜き足差し足でベッドへと近づいてきた。
カタリナは、枕に頭を沈めたまま、ゆっくりと首を巡らせてそちらを見た。
そして、不意に動いたカタリナの顔と、ベッドを覗き込もうとしたアンの視線が、暗がりの中でしっかりと交差した。
アン「あ……」
アンの動きが、まるで時を止められたかのように完全に硬直した。
その直後、彼女の手から全ての力が抜け落ちた。
ガシャァァァンッ!!
静寂に包まれた部屋に銀色のトレイが床に叩きつけられるけたたましい音が響き渡った。ガラスのコップが粉々に砕け散り、冷たい水が絨毯に大きな染みを作っていく。
だが、アンは足元の惨状など全く気にする様子もなく、ただ震える瞳でカタリナを見つめていた。その大きな瞳から、ボロボロと大粒の涙がとめどなく溢れ出し、頬を伝って落ちていく。
アン「カタリナ様……っ! 良かった……お目覚めになられて……っ!」
声は嗚咽に震え、まともに言葉を紡ぐことすらできていなかった。アンは砕けたガラスの破片も気にせず、ふらつくような足取りでベッドへと駆け寄り、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
カタ「……アン…」
カタリナの口から漏れ出たのは、ひどく掠れて弱々しい、自分でも驚くほど頼りない声だった。
その声を聞いた瞬間、アンはもう堪えきれなくなったように、ベッドの上に身を乗り出し、怪我に障らないよう細心の注意を払いながらも、カタリナの小さな身体を力強く、そして優しく抱きしめた。
アン「ああ、カタリナ様……本当に、本当に良かったです……っ! ずっと、ずっと心配で……!」
アンの温かい体温が、カタリナの肌越しに伝わってくる。メイド服の柔らかい布の感触、アンから香る石鹸の匂い。そして、彼女の身体が恐怖と安堵でガクガクと小刻みに震えているのが、痛いほどに伝わってきた。
その『人間の温もり』に触れた瞬間、カタリナの中で、これまで必死に張り詰めていた何かが、音を立てて決壊した。
あの光のゲートに吸い込まれ、永遠とも思える時間を、見知らぬ太古の森で独りぼっちで逃げ惑い続けていた。
いつどこから肉食恐竜が襲ってくるか分からない極限の恐怖。ヴェロキラプトルに肉を裂かれた時の、発狂しそうになるほどの激痛。狂乱するガリミムスの背で死に物狂いでしがみつき、巨大なタルボサウルスの絶望的な顎の眼前に自ら飛び込んでいった時の、あの血が凍るような死への恐怖。
カタリナは、生き延びるためにただ必死だった。泣き叫ぶ余裕すらなく、生への執念だけであの地獄を駆け抜けてきたのだ。
あれだけ怖い思いをした。
あれだけ痛い思いをした。
もう二度と、大好きな家族や友人たち、そしてアンに会えないかもしれないと、何度も絶望の底に突き落とされた。
安全な場所で自分を心から心配し、生きて帰ってきたことを涙を流して喜んでくれる人が腕の中にいる。
その事実を実感した途端、カタリナの目から熱いものが堰を切ったように溢れ出した。
カタ「う……あぁぁぁ……っ、アン……っ、こわ、怖かったよぉ……っ!」
泣かずにいられるはずがなかった。
カタリナは、子供のように顔をくしゃくしゃに歪め、泥と血を洗い流された綺麗な両腕で、アンの背中を力いっぱい抱き返した。
巨大な恐竜たちの足音も、死の気配もない安全な部屋の中。
カタリナはアンの胸に顔を埋め、これまで抑え込んできた全ての恐怖と痛みを吐き出すかのように、声の限りに大声で泣きじゃくったのだった。
暫くアンの温かい胸の中で泣きじゃくっていたカタリナだったが、やがてその激しい嗚咽は少しずつ静まり、しゃくり上げるような小さな息遣いへと変わっていった。
ふと、静寂を取り戻しつつあった部屋の空気に、異質な音が混じっていることにカタリナは気がついた。
カタ「アン…何か声がするんだけど…」
その言葉を発した瞬間。
カタリナを抱きしめていたアンの身体がビクリと跳ね、その優しかった顔が苦痛に満ちたように僅かにゆがんだ。
アン「…ッ」
夜の闇に沈む屋敷の廊下の奥から、地の底から這い上がってくるような、重く苦しい『うめき声』が微かに、しかし絶え間なく響いてきていたのだ。
それは一人や二人の声ではない。痛みに耐えかねて漏れる獣のような呻き、熱に浮かされて譫言を繰り返すくぐもった声。
カタリナは、その異様な声の元を確かめるべく、痛む左脚を引きずってでもベッドから起き上がろうとした。
しかし、それをアンが必死の形相で押さえつけた。
アン「いけません!カタリナ様!」
カタ「行かせて!お願いよアン!」
傷が開くことも構わずに行こうとするカタリナを、アンは涙をこぼしながら力いっぱいに抱き留めた。絶対にその先を見せてはならないと、頑なに首を横に振る。
だが、主のあまりにも強い思いに抗いきれず、ついにアンは観念したように視線を落とし、震える唇からポツリと一言を漏らした。
アン「あの声は……カタリナ様を救おうとした兵士達の声です」
その悲しげな声色と伏せられた瞳を見た瞬間、カタリナの脳裏に最悪の予想がフラッシュバックし、全ての状況を察してしまった。
カタリナの予想は、あまりにも残酷な形で的中していた。
あの悲痛なうめき声の正体。それは、庭園に現れた二頭のタルボサウルスの圧倒的な暴力から辛うじて生き残った、ごく僅かな負傷兵たちの声だったのだ。
現在、クラエス公爵家の一階にある広間は、臨時の野戦病院と化していた。そこに横たわっている彼らの惨状は、言葉を失うほどの地獄絵図であった。
数トンもの咬合力を持つ巨大な顎に挟み込まれた兵士たちは、鋼鉄の鎧ごと肉をミンチのようにすり潰されていた。なんとか一命を取り留めた者たちも、その代償として右腕や両脚など、身体の半分を丸ごと失っている。切断された断面からは絶え間なく血が溢れ出し、屋敷中のシーツをかき集めて作られた包帯を、あっという間にどす黒い赤へと染め上げていた。
丸太のような太い尻尾の直撃を受けた騎士たちは、全身の骨が粉々に砕け散り、ベッドの上で僅かに呼吸をするだけで折れた肋骨が臓器を突き刺す激痛に身悶えし、口から血の泡を吹きながら天井を虚ろに見つめている。
あの無慈悲な巨大な足に踏み躙られた者たちは、下半身の骨盤から下が完全に潰れ、もはや人間の形を保っていなかった。肉と骨が複雑に絡み合い、二度と自らの足で歩くことすらできない身体へと成り果てている。
彼らは皆、王家と国を守るという誇りを胸に、血の滲むような訓練を積んできた精鋭の騎士や兵士たちだった。
しかし、彼らの誇りも、輝かしい未来も、あの太古の化け物たちによるほんの数分間の蹂躙によって、完全に粉砕されてしまった。
仮にこの地獄のような激痛と高熱の夜を越えて生き延びることができたとしても彼らが二度と剣を握ることはない。 騎士としての道を歩むことは永遠に不可能なのだ。
大柄で屈強だった男たちが、失われた自らの手足の先を求めて虚空を掴み、あるいは自分の無惨な身体を見下ろして、絶望のあまり声を殺して泣き崩れている。血と膿、そして濃密な死の匂いが充満するその空間には、もはや救いなどどこにもなかった。
その現実が、逃げ込んできた巨大な肉食恐竜を引き寄せてしまったという事実が、カタリナの心を容赦なく切り裂いた。
自分が、あのゲートを通らなければ。
自分が、あのガリミムスの群れをこちらの世界へ誘導しなければ。
自分の好奇心と、生き延びたいというエゴが、これほどまでに多くの人々の命と未来を、取り返しのつかない形で奪い去ってしまったのだ。
カタ「あ……あぁ……っ」
カタリナの視界がぐにゃりと歪み、喉の奥からヒュッと空気が漏れた。
ベッドのシーツを握りしめる両手から血の気が引き、白く染まっていく。とめどなく溢れる涙は、もはや恐怖からくるものではなく、取り返しのつかない罪悪感によるものだった。
カタ「私の…所為だ……私の所為だ…!」
静かな部屋の中に、悲痛な懺悔の声が響き渡る。カタリナは自らの髪をかきむしり、暗い絶望の淵へと突き落とされていったのだった。