無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜   作:omugut

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第1章 幼年期
プロローグ『もう一人』


甲龍歴四〇七年、十一月二十二日。

アスラ王国フィットア領、ブエナ村。

 

秋も終わりを迎えようとしていた。

 

数日前まで赤や黄に染まっていた木々は、北から吹き始めた冷たい風に葉を奪われ、村の周囲に広がる畑もすでに収穫を終えている。

 

冬支度を急ぐ村人たちは、朝から薪を割り、家畜の餌を蓄え、雪が降る前に壊れた柵を直していた。

 

普段であれば、どこにでもある農村の一日だ。

 

しかし、その日。

 

村の外れに建つグレイラット家だけは、夜が明けるよりも前から慌ただしい空気に包まれていた。

 

「旦那様。そこに立っていても、邪魔になるだけです」

 

「分かってる! 分かってるけど、俺にできることはないのか!?」

 

「ありません」

 

「即答!?」

 

寝室の扉の前で落ち着きなく歩き回っていたパウロ・グレイラットは、リーリャの冷たい返答を受けて足を止めた。

 

元アスラ王国上級貴族。

 

現在はブエナ村に常駐する騎士であり、村を魔物や盗賊から守る剣士。

普段の彼であれば、多少の魔物や盗賊を前にしてもここまで取り乱すことはない。

剣を持って戦える相手なら、まだよかった。

 

しかし今、扉の向こうで苦しんでいる妻を相手に、剣術は何の役にも立たなかった。

 

「ゼニスは大丈夫なんだろうな?」

 

「奥様は治癒魔術を扱えます。体力も十分です。私の経験と、産婆から教わった手順も確認しました」

 

「だったら、俺も中に」

 

「邪魔です」

 

「二度も言うなよ!」

 

リーリャは、主人の情けない抗議を聞き流した。

 

長い髪を後ろでまとめ、普段と変わらない無表情を保っている。

 

だが、その手には何度も洗った清潔な布が抱えられ、準備された湯の温度を確認する指先には、わずかな緊張が見て取れた。

 

彼女とて、出産を手伝った経験がないわけではない。かつて王城で出産における知識を叩き込まれている。

もともとグレイラット家に来たのは、この出産と産まれてくる子供の育児の補佐のためなのだ。

 

予定より早く陣痛が始まり、外は夜明け前から冷たい雨が降っている。

 

「リーリャ……!」

 

部屋の中から、ゼニスの苦しげな声が届く。

 

リーリャの表情が引き締まった。

 

「参ります。旦那様は湯を絶やさないようにしてください」

 

「俺も一緒に──」

 

「入室は許可しておりません」

 

「俺の家なのに!?」

 

「奥様のご意向です」

 

「ゼニスぅ!」

 

扉の向こうから返事はなかった。

 

代わりに、痛みに耐えるような声が聞こえた。

 

パウロの顔から冗談めいた色が消える。

 

扉へ伸ばしかけた手を、強く握り締めた。

 

「……頼む」

 

「はい」

 

今度のリーリャは、即答しなかった。

静かに頷き、寝室へ入っていった。

 

閉じられた扉を前に、パウロは一人で立ち尽くす。

 

剣を握るよりも、はるかに長く感じる時間の始まりだった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「はぁ……っ、はぁ……!」

 

「奥様、息を整えてください。まだ力を入れすぎないように」

 

「分かって、いるわ……!」

 

ゼニス・グレイラットは、汗に濡れた金髪を額へ張り付かせながら答えた。

 

普段の彼女は、明るく朗らかな女性だ。

 

かつてはパウロと冒険者として各地を巡り、治癒術師として仲間の命を支えた経験もある。

 

怪我にも、血にも、痛みにも慣れていた。

 

そのはずだった。

 

「出産って……こんなに、痛いのね……!」

 

「順調です」

 

「そういう、意味じゃ……!」

 

身体の内側を握り潰されるような痛み。

 

一定の間隔を置いて訪れていたそれは、次第に間を短くし、強さを増している。

 

自分で治癒魔術を使えば楽になるのではないか。

 

何度かそう思った。

 

しかし、出産は傷ではない。

 

無闇に魔術で身体の状態を変えれば、かえって母子を危険に晒す可能性がある。

 

ゼニスは治癒術師だからこそ、無理に魔術へ頼ろうとはしなかった。

 

「パウロは?」

 

「扉の前です」

 

「まだ?」

 

「先ほどから行ったり来たりしております」

 

「ふふ……」

 

痛みの合間に、ゼニスは小さく笑った。

 

容易に想像できた。

 

おそらく今ごろ、自分にも何かできるはずだと騒ぎ、リーリャに邪魔だと言われていることだろう。

 

「本当に……仕方のない人……」

 

呟いた直後、再び強い痛みが走る。

 

「──っ!」

 

「奥様!」

 

リーリャが身体を支える。

 

ゼニスは布を握り締め、歯を食いしばった。

 

長い。

 

これほど長いものなのか。

 

朝日はまだ昇らない。

 

雨音が窓を叩き続けている。

 

暗い室内には、蝋燭と暖炉の火だけが揺れていた。

 

「リーリャ……赤ちゃんは……」

 

「問題ありません。もう少しです」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

嘘ではなかった。

だが、リーリャは一つだけ不安を感じていた。

 

ゼニスの腹は、聞いていた出産時期を考慮しても大きかった。

医者に見せられる環境ではない。

 

腹の中の子供が大きいのだろう、と二人は考えていた。

 

しかし、触れた時に感じる位置と動きが、どうにも一人分とは思えない時があった。

 

ゼニス自身も、薄々は気づいていたのかもしれない。

けれど、確証はなかった。

 

この世界で、出産前に子供の数を正確に確認する手段は限られている。

 

今はただ、無事に産むことだけを考えるしかない。

 

「奥様。次に痛みが来たら、力を入れてください」

 

「ええ……!」

 

しばしの静寂。

 

雨の音。

 

暖炉で薪の弾ける音。

 

そして、訪れる痛み。

 

「今です!」

 

「──っ、ああぁぁっ!」

 

ゼニスの声が家中へ響いた。

 

扉の外では、パウロが飛び上がった。

 

「ゼニス!?」

 

「入らないでください!」

 

「まだ何もしてないだろ!?」

 

「入ろうとしたでしょう!」

 

「どうして分かった!?」

 

そんなやり取りなど、ゼニスの耳には入らない。

ただリーリャの声に従い、懸命に力を込める。

 

一度。

 

二度。

 

何度も。

 

時間の感覚はもうなかった。

 

そして──。

 

「奥様、頭が見えました」

 

「本当……?」

 

「はい。あと少しです」

 

リーリャの声にも、初めて安堵が混ざった。

 

ゼニスは荒い呼吸を繰り返す。

 

あと少し。

 

この痛みが終わる。

 

子供に会える。

 

自分とパウロの子供。

 

ずっと待っていた、新しい家族。

 

「さあ、奥様!」

 

「う……あぁぁぁっ!」

 

最後の力を振り絞る。

 

痛みが頂点に達する。

 

──次の瞬間、身体の中から大きなものが抜け落ちる感覚があった。

 

一瞬の静寂。

 

そして、

 

「──ぁう?」

 

産まれてきた子供は泣かなかった。

ゼニスの身体から、力が抜ける。

 

「生まれ……た?」

 

「はい」

 

リーリャは、布に包んだ赤子を抱き上げた。

 

小さな身体。

薄い茶色の髪。

左目の下にはパウロ似の黒子がある。

 

元気に泣いている。

 

「男の子です」

 

「男の子……」

 

ゼニスは震える手を伸ばした。

 

リーリャが赤子を近づける。

 

初めて触れた我が子の頬は、驚くほど柔らかく、温かかった。

 

「ルーデウス……」

 

すでに決めていた名前を呼ぶ。

 

ルーデウス・グレイラット。

 

パウロとゼニスの、最初の子供。

 

「元気な子……」

 

「はい」

 

ようやく終わった。

そう思った。

ゼニスは安堵し、目を閉じかけた。

 

しかし。

 

「……奥様」

 

リーリャの声が変わった。

 

「どう、したの?」

 

「まだです」

 

「え?」

 

「もう一人います」

 

ゼニスの思考が止まった。

 

「……もう、一人?」

 

「はい」

 

リーリャは冷静に答えた。

 

だが、いつもの彼女よりもわずかに声が高かった。

 

「双子です」

 

「ふた……ご……?」

 

その言葉を理解するまで、数秒かかった。

 

腹が大きいとは思っていた。

子供がよく動くとも感じていた。

 

けれど。

 

「聞いてないわ……」

 

「私も存じませんでした」

 

「ちょっと待って……少し、休ませて……」

 

「待ってはくれないようです」

 

再び痛みが始まった。

 

「嘘でしょう!?」

 

ゼニスの叫びが響く。

扉の外から、パウロの声がした。

 

「今、もう一人って言わなかったか!?」

 

「言いました!」

 

「双子!?」

 

「はい!」

 

「俺、聞いてないぞ!?」

 

「私もです!」

 

「ゼニス、大丈夫か!?」

 

「大丈夫じゃないわよぉ!」

 

先ほどまで感動的だった室内が、一瞬にして混乱へ叩き落とされた。

 

最初に生まれたルーデウスは、そんな周囲の騒ぎなど知らず、布の中でぽけーっときている。

 

ゼニスは息を整えようとした。

 

一人目を産み終えた直後で、体力は限界に近い。

 

それでも、腹の中にはもう一人いる。

ここで諦めるわけにはいかなかった。

 

「リーリャ……」

 

「はい」

 

「あの人を、入れて」

 

「よろしいのですか?」

 

「手ぐらい……握らせるわ……!」

 

リーリャは迷わず扉を開けた。

 

扉へ耳を押し当てていたパウロが、そのまま室内へ倒れ込んでくる。

 

「うおっ!?」

 

「何をしているのよ……!」

 

「心配だったんだよ!」

 

パウロは転がるように起き上がり、寝台のそばへ駆け寄った。

 

ゼニスの手を握る。

 

汗に濡れた手。

 

いつもよりはるかに弱く、それでも必死に握り返してくる。

 

「ゼニス」

 

「双子らしいわ……」

 

「ああ、聞いた」

 

「あなた、二人いるって分かっていた?」

 

「まさか!」

 

「そうよね……」

 

「でも、大丈夫だ」

 

何の根拠もない言葉だった。

 

それでもパウロは、真剣にゼニスを見つめる。

 

「俺がいる」

 

「頼りにしているわよ……あなた」

 

「任せておけ」

 

パウロは、今度こそふざけなかった。

 

強く、しかし痛くないように妻の手を握る。

 

「ここにいる」

 

ゼニスは頷いた。

 

リーリャが再び位置につく。

 

「奥様。もう一度です」

 

「ええ……!」

 

     ◇ ◇ ◇

 

暗い。

 

温かい。

 

狭い。

 

何かに包まれている。

 

音がする。

 

外側から響いてくる、くぐもった声。

 

意味は分からない。

 

いや。

 

分かるような気もする。

 

言葉ではなく、感情だけが伝わってくる。

 

苦しい。

 

急かされている。

 

ここから出なければいけないらしい。

 

けれど、身体が動かない。

 

そもそも身体というものが、よく分からない。

 

手。

 

足。

 

目。

 

口。

 

あるような、ないような。

 

頭の中は白い霧に覆われていた。

 

何かを知っていた気がする。

 

もっと広い場所。

 

眩しい光。

 

四角い建物。

 

夜でも明るい街。

 

手のひらに収まる、光る板。

 

たくさんの文字。

 

本。

 

物語。

 

剣と魔法。

 

異世界。

 

転生。

 

そんな言葉が、泡のように浮かんでは消えていく。

 

自分が誰だったのかは思い出せない。

 

名前も。

 

顔も。

 

家族も。

 

友人も。

 

大学という場所へ通っていたような気がする。

 

講義。

 

電車。

 

ラノベ。

 

そんな単語だけはある。

 

けれど、それに結びつく記憶がない。

 

ただ、言葉だけが残っている。

 

日本語。

 

なぜそう呼ぶのかは分からないが、今、頭の中で考えているこの言葉は日本語だ。

 

では、外から聞こえる声は?

 

不思議なことに、それも理解できる。

 

まったく違う音なのに、意味だけは自然に頭へ入ってきた。

 

──双子。

 

──もう一人。

 

──頑張れ。

 

自分は、もう一人らしい。

 

先に誰かが出ていった。

すぐ近くにいた何か。

 

温かく、時々ぶつかり、存在だけを感じていた相手。

 

その相手がいなくなったことで、狭い場所にわずかな空間ができている。

 

兄。

 

なぜか、そう思った。

 

自分よりほんの少しだけ先に生まれた相手。

 

顔も知らない。

 

名前も知らない。

 

なのに、兄なのだと分かった。

 

外から、女性の声がする。

 

苦しそうだ。

この人が母親なのだろう。

 

別の男の声。

この人が父親。

 

もう一つ、落ち着いた女の声もする。

自分を取り上げようとしている人。

 

知識がある。

 

だが記憶がない。

 

それが奇妙だった。

 

赤子のはずなのに、自分は母や父という概念を知っている。

 

双子も、出産も、転生も知っている。

 

しかし、自分がなぜここにいるのかは分からない。

 

もしかして、

 

異世界転生。

 

そう考えた瞬間、霧の奥から妙な納得が浮かんだ。

 

何かの物語で、何度も見た言葉。

死んだ者が別の世界に生まれ直す。

自分は死んだのだろうか。

 

分からない。

 

死の記憶はない。

 

痛みも、後悔も、最後に見た光景も。

 

何も覚えていない。

 

だが、

生まれる。

 

今、自分は新しく生まれようとしている。

それだけは確かだった。

 

外側から、力がかかる。

 

身体が押し出されていく。

 

苦しい。

 

痛い。

 

狭い。

 

怖い。

 

思考はあるのに、身体は言うことを聞かない。

 

逃げることも、踏ん張ることもできない。

 

ただ流れに運ばれていく。

 

光。

 

冷たい空気。

 

全身を締め付けていたものが消える。

 

代わりに、世界そのものが身体へ襲いかかってきた。

 

寒い。

 

眩しい。

 

息ができない。

 

肺に初めて空気が入り。

 

痛みに似た衝撃が全身を駆け巡る。

 

「──っ、ぁ」

 

声を出そうとした。

 

日本語で何かを言おうとしたのかもしれない。

 

しかし口から出たのは、言葉ではなかった。

 

「おぎゃあっ! おぎゃあっ!」

 

泣き声。

 

赤子の声。

 

自分の声だった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「生まれました!」

 

リーリャが二人目の赤子を抱き上げた。

 

一人目とよく似た男の子。

 

同じ薄茶色の髪。

 

同じ小さな手足。

 

そして、兄とは逆の位置の右目の下にパウロ似の黒子。

 

だが、こちらの方は少し弱いながらも産声をあげた。

驚いたように目を瞬かせている。

 

「男の子です。こちらも健康そうです」

 

「よかった……」

 

ゼニスは、今度こそ完全に力を抜いた。

 

パウロの手を握ったまま、荒い息を吐く。

 

「男が……二人……」

 

パウロは呆然としていた。

 

目の前には、二人の息子。

 

一人だと思っていた。

 

名前も一人分しか決めていない。

 

「どうするのよ」

 

「何が?」

 

「名前」

 

「あ」

 

パウロの顔が固まった。

 

ゼニスが睨む。

 

「考えてないの?」

 

「いや、だって一人だと思ってたし!」

 

「私だってそうよ!」

 

「今から考える!」

 

「適当につけたら許さないわよ」

 

「分かってる!」

 

出産直後だというのに、二人は早くも言い争いを始める。

 

リーリャは小さく息を吐いた。

 

「まず、奥様にお子様を抱いていただいてはいかがでしょうか」

 

「あ……」

 

「そうね……」

 

リーリャは先に生まれた赤子をゼニスの右腕へ。

 

そして二人目を左腕へ、慎重に預けた。

 

両腕に収まる二つの命。

 

どちらもあまりに小さい。

 

少し力を入れれば壊れてしまいそうなのに、懸命に泣き、呼吸し、生きている。

 

「この子が、ルーデウス」

 

ゼニスは右腕の子供を見る。

 

先ほどより泣き声は小さくなり、母親の温度を感じて安心したのか、目を閉じている。

 

「それで、この子は……」

 

左腕の子供へ視線を移す。

 

こちらは、薄く目を開いていた。

 

まだ何も見えていないはずの瞳。

 

それでも、まるでゼニスの顔を見ようとしているかのように、青い目を向けていた。

 

「青いな」

 

パウロが呟く。

 

「あなたの目より、私に似ているかしら」

 

「顔は俺似だろ?」

 

「生まれたばかりで何が分かるのよ」

 

「なんとなくだよ」

 

パウロは二人目の子供を覗き込んだ。

 

すると赤子は、父親の声へ反応するように目を動かした。

 

「お。こいつ、俺を見たぞ」

 

「見えていません」

 

リーリャが淡々と言う。

 

「夢がないな、お前は」

 

「事実です」

 

「でも、こっちは少し静かね」

 

ゼニスは不安そうに赤子を見る。

 

先ほどまでは泣いていたが、今は周囲を探るように小さく首を動かしている。

 

「具合が悪いのかしら」

 

「呼吸は正常です。顔色にも問題ありません」

 

リーリャが確認する。

 

「個性でしょう」

 

「生まれた瞬間からか?」

 

「人には生まれ持った性質がございます」

 

「そういうものか」

 

パウロは腕を組んだ。

 

二人目の名前。

 

一人目はルーデウス。

 

パウロとゼニスが、長い時間をかけて選んだ名前だ。

 

同じくらい大切な名前を、この子にも与えなければならない。

 

「ルーデウスと並べても、不自然じゃない名前がいいわ」

 

「そうだな」

 

「兄弟だもの」

 

「双子だ」

 

パウロはしばらく考え込んだ。

 

剣技や冒険のことならば、いくらでも言葉が出てくる。

 

だが名付けとなると難しい。

 

子供が一生背負うものだ。

 

軽く決めるわけにはいかない。

 

「ゼ……」

 

何気なく、最初の音が漏れた。

 

「ゼ?」

 

「いや、何となく」

 

「続けて」

 

「ゼディ……」

 

パウロは赤子を見つめる。

 

「ゼディウス」

 

口に出してみる。

 

ルーデウス。

 

ゼディウス。

 

似ているが、同じではない。

 

双子らしく並びながら、それぞれ別の人間として聞こえる。

 

「ゼディウス……」

 

ゼニスも、その名前を確かめるように呼んだ。

 

左腕に抱かれた赤子が、小さく指を動かす。

 

まるで返事をしたようだった。

 

「気に入ったみたいね」

 

「見えてないし、言葉も分からないんじゃなかったのか?」

 

「母親には分かるのよ」

 

「ずるいな」

 

「あなたも父親でしょう?」

 

「なら俺にも分かる」

 

パウロは胸を張った。

 

「こいつは気に入ってる」

 

「そうね」

 

ゼニスは微笑んだ。

 

「ゼディウス・グレイラット」

 

新しい名前が与えられる。

 

その音を聞いた赤子──ゼディウスは、ぼんやりした意識の中で考えた。

 

ゼディウス。

 

自分の名前。

 

前の名前は思い出せない。

ならば今日から、自分はゼディウスなのだ。

 

ゼディウス・グレイラット。

 

隣にいるのは、ルーデウス・グレイラット。

双子の兄。

 

温かな腕で抱いているのが、母。

 

覗き込んでいるのが、父。

 

少し離れた場所にいる女性が、リーリャ。

 

名前と関係が、一つずつ結びついていく。

 

前世のことは、ほとんど何も分からない。

 

だが、この人たちのことは、これから知っていける。

これから始まるのだ。

 

生まれたばかりの頭で、ゼディウスはそんなことを思った。

 

その直後。

 

「おぎゃあああっ!」

 

隣でルーデウスが大きく泣き始めた。

 

つられるように、ゼディウスも泣く。

 

「おぎゃあっ!」

 

「おぎゃあああっ!」

 

「うわっ、二人同時か!」

 

「パウロ、どちらか抱いて」

 

「えっ、俺が!?」

 

「父親でしょう!」

 

「分かった、分かったから! どっちだ!?」

 

「ルーデウスを」

 

「こっちか?」

 

「そっちはゼディウスよ!」

 

「もう見分けがつかん!」

 

「今名前をつけたばかりでしょう!」

 

「顔が同じなんだよ!」

 

「双子ですから」

 

リーリャの冷静な声。

 

ゼニスの疲れた笑い。

 

パウロの情けない悲鳴。

 

二人の赤子の泣き声。

 

それらが混ざり合い、雨音ばかりだった家を満たしていく。

 

やがて外が明るくなり始めた。

 

夜通し降り続いていた雨は、いつの間にか弱くなっている。

 

灰色の雲の隙間から、秋の終わりの淡い光が差し込んだ。

 

パウロはおそるおそるルーデウスを抱き、ゼニスはゼディウスを胸へ寄せる。

 

慣れない父親の腕の中で、ルーデウスは次第に泣き止んだ。

 

ゼディウスも、母親の鼓動を聞きながら目を閉じる。

 

「二人とも、無事でよかった」

 

パウロが静かに言った。

 

「ええ」

 

「大変になるな」

 

「今さら怖くなったの?」

 

「まさか」

 

パウロは笑う。

 

「男が二人だぞ。剣を教えるのが楽しみだ」

 

「あら、魔法を教えるわよ?」

 

「グレイラット家の男だぞ?それに、男が生まれたら剣を教える約束だろ?」

 

「私の子供でもあるわ。魔術師や治癒術師になるかもしれないわよ」

 

「……まあ、二人いるんだし剣士でも魔術師でもいいな」

 

「農家かもしれない」

 

「冒険者かも」

 

「何になってもいいわ」

 

ゼニスは二人の息子を見つめた。

 

「元気に育ってくれれば」

 

パウロも、少しだけ真面目な顔で頷いた。

 

「ああ」

 

その時、二人は知らなかった。

 

右腕に抱かれたルーデウスが、三十四年分の後悔を抱えて生まれ直した者であることを。

 

左腕に抱かれたゼディウスが、日本語以外の過去をほとんど失った、もう一人の転生者であることを。

 

同じ日に。

 

同じ家で。

 

同じ父と母の間に生まれた兄弟。

 

顔立ちはよく似ている。

 

流れる血も

 

与えられる愛情も

 

最初に見る景色も同じ。

 

けれど、

 

その心も

 

選ぶ道も

 

やがて背負うものも

 

決して同じではない。

 

甲龍歴四〇七年、十一月二十二日。

 

後に“泥沼”と呼ばれるルーデウス・グレイラットが生まれた日。

 

同時に、

まだ何の冠も持たない、ゼディウス・グレイラットという少年の物語もまた、静かに産声を上げたのだった。

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