無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜 作:omugut
弟に嘘をついてから、俺は毎日のように魔術を使った。
……嘘と言っても、約束を破ったわけではない。
ゼディと交わした約束は、もう倒れないこと。
魔術を使わないとは言っていない。
つまり、これは規約の穴を突いた合法的な自主練習であり、断じて三歳児を言いくるめた卑劣な行為ではない。
……我ながら、最低な言い訳である。
けれど、やめるつもりはなかった。
魔術は、俺がこの世界で初めて手に入れたものだった。
前世の俺には何もなかった。
顔も駄目。
身体も駄目。
勉強も理由はあるにせよ、途中で投げ出した。
人付き合いは言うまでもない。
何かを始めても、どうせ自分には無理だと決めつけ、笑われる前に逃げた。
そんな俺が、魔術だけは使えた。
昨日より大きな水を作れる。
昨日より長く火を保てる。
使い切った魔力は、眠り明日になれば少し増えて戻ってくる。
努力した分だけ結果になる。
それが嬉しかった。
そして何より、ゼディより先に見つけたものだった。
だから、教えたくなかった。
弟を危険に巻き込みたくなかった。
魔力切れで倒れた俺を見て泣いたあいつに、同じ思いをさせたくなかった。
それも本当だ。
だが、それだけではない。
もし、教えてすぐに追いつかれたら。
もし、俺より上手く使われたら。
……魔術まで取られたら、俺には何が残る。
そう考えていた。
その結果、俺は中級水魔術で自室の壁に人一人が通れるほどの穴を開けた。
隠し事というものは、隠している間だけ隠し事である。
壁ごと吹き飛ばせば、さすがに隠せない。
真っ先に飛び込んできたゼディは、俺が立っているのを見ると安心し、その直後に怒った。
約束したのに、と。
俺は倒れてはいない、と答えた。
間違ったことは言っていない。
ゼディは唇を尖らせた。
言い返せずに悔しがっている顔だった。
なのに、その目には怒りより安堵の方が強く残っていた。
また、胸が痛んだ。
俺が隠す。
ゼディが心配する。
俺が屁理屈をこねる。
それでもゼディは、俺が無事なら最後には笑う。
この三年で、何度同じことを繰り返しただろう。
壁に開いた穴を見て、ゼニスは家庭教師を雇うと言い出した。
パウロは剣術も必要だと主張した。
リーリャが間に入り、午前は魔術、午後は剣術。それも俺とゼディの二人一緒という予定が決まった。
俺だけの魔術は、今日、そこで終わった。
◇
グレイラット家にやって来た家庭教師を見て、俺は思わず言った。
「小さいですね」
青い髪を三つ編みにした、小柄な少女だった。
茶色のローブに、とんがり帽子。
両手には身体より長い杖。
いかにも魔法使いです、と言わんばかりの格好である。
「あなたに言われたくありません」
即座に返された。
ごもっとも。
俺は三歳児である。
前世を足せば三十七歳だが、足したところで見た目は変わらない。
それにしても可愛いらしい。
聞けば、ロキシー・ミグルディア。
ミグルド族という魔族で、見た目よりずっと年上らしい。
小柄で、可愛くて、魔術師。
俺のやる気を引き出す要素が三つも揃っている。
家庭教師が屈強な老人でなかったことを神に感謝した。
もっとも、そんなことは顔に出さない。
俺はできる限り礼儀正しく挨拶をした。
声を柔らかくし、相手を不快にさせない程度に笑う。
今世で覚えた、良い子の仮面だ。
横でゼディが、妙に納得したような顔をしていた。
何だ、その目は。
兄が先生に礼儀を尽くしているだけだぞ。
先生は、教える子供が二人いるとは聞いていなかったらしい。
ゼディを見て少し困った顔をした。
授業についてこられるなら構わない。
ただし、双子でも進み方は同じとは限らない。
先生は最初にそう断った。
俺はゼディを見た。
ゼディは迷わず頷いた。
魔術を使用したことがないこの弟に、ついてこられるのか。
そんな疑問が浮かぶ。
同時に、ついてきてほしくない、という気持ちも浮かんだ。
最低である。
分かっている。
それでも胸の奥から出てくるものは、理屈では消えてくれなかった。
◇
最初の授業は庭で行われた。
俺にとって庭は外ではない。
家の一部だ。
柵があり、門があり、その向こうとは区切られている。
大丈夫、家だ。
パウロにゼニスにリーリャ、そしてゼディもいる。
だから出られる。
先生は初級水魔術の詠唱を始めた。
生み出された水弾は俺が作るものより整っていて、勢いよく飛び、ゼニスが大切にしている庭木へ直撃した。
嫌な音がした。
幹が折れた。
先生が固まった。
俺とゼディも固まった。
よりによって、あの木である。
ゼニスが毎日のように世話をし、花が咲くのを楽しみにしていた木だ。
初日の授業開始から数分。
家庭教師生命の危機である。
先生はすぐに治癒魔術を唱えた。
淡い光が幹を包み、折れた部分がつながっていく。
さらに枝が伸び、葉が茂り、蕾まで膨らんだ。
失敗からの復旧が早い。
さすが本職だ。
次は俺の番だった。
普段は無詠唱で使っている。
……だが、最初から全部を見せるのもよくない。
万が一、無詠唱が普通でなければまずいということもある。
少しだけ詠唱を口にし、途中で止める。
先生のローブが風で揺れたので、つい姿勢が低くなった。
これは術の軌道を確認するためである。
断じて、別の角度を確認したかったわけではない。
水弾を放つ。
また、木が折れた。
今度は俺が固まった。
先生も固まった。
同じ木を短時間に二度折る。
親子でもなかなかできない連携だ。
先生は俺が詠唱を途中で止めたことに気付いていた。
問い詰められ、普段は唱えずに使っていると答える。
先生の目が変わった。
驚き。
興味。
そして、わずかな高揚。
初めてだった。
家族ではない、本物の魔術師が俺を魔術師として見た気がした。
胸の奥が熱くなる。
この世界なら、俺にも才能がある。
俺は何者かになれる。
そう言われた気がした。
その直後、ゼニスの悲鳴が庭へ響いた。
ゼディが誰より先に動いた。
折れた木を支え、さっき先生が使った治癒魔術の詠唱を唱える。
初めて聞いたはずの言葉を、ほとんど間違えずに。
光が木を包む。
折れた幹がつながる。
先生が治した時と同じように枝が伸び、花が開いた。
ゼニスの顔が明るくなる。
先生も目を見開いた。
さっきまで俺へ向けられていた驚きが、今度はゼディへ向く。
胸の熱が、少し冷えた。
まただ。
俺がやっと認められたと思った隣で、こいつは別の方法から同じ場所へやって来る。
俺は魔術教本を一年も読み、一人で何度も練習した。
ゼディは今、見ただけで使った。
しかも、ゼニスを喜ばせた。
俺は木を壊し、ゼディは木を直した。
比べるまでもない。
先生は、自分が木を壊したことを引きずっていた。
俺は、失敗ではなく経験を積んだのだ、と慰めた。
格好をつけたかったのもある。
けれど本心でもあった。
失敗して終わりなら、俺の前世は何一つ残らない。
失敗の後に何をするかで意味が変わる。
そう思わなければ、俺は自分の三十四年を抱えて生きていけない。
続いて、ゼディが水魔術を試した。
あいつにとって、攻撃魔術は初めてだった。
長い詠唱を最後まで唱え、小さく歪んだ水弾を作る。
飛ばそうとした瞬間、足元へ落ちた。
二度目。
少しだけ前へ進み、標的へ届く前に崩れた。
俺は、安心した。
全部ではない。
魔術なら、俺が上だ。
弟の失敗を見て、心の底から安堵した。
最低だ。
魔力切れで倒れた俺を見つけ、泣きながら大人を呼んでくれた弟だ。
そんな相手が失敗しているのに、よかったと思った。
先生は、努力する前から限界を決めてはいけないとゼディへ言った。
その言葉は、俺にも向けられているように聞こえた。
……ゼディの限界を、俺の安心できる場所へ勝手に置こうとしていたからだ。
◇
翌日。
先生が火魔術を見せると、ゼディは一度で成功した。
水とはまるで違った。
炎はあいつの手の中で、最初からそこが居場所だったように形を保った。
二度目には大きさを変え、動きを止め、自分で消した。
先生は明らかに驚いていた。
俺は明らかに面白くなかった。
安心した次の日には、もうこれである。
俺の心は忙しい。
ゼディが失敗すれば安心し、成功すれば焦る。
そんな自分を嫌いながら、それでも結果から目を離せない。
先生は言った。
俺は水の構造を組み上げるのが得意で、ゼディは火を感覚で掴むのが得意なのだと。
一つの魔術だけで、魔術師の価値は決まらない。
正しい話だ。
……正しいからといって、すぐ納得できるとは限らない。
◇
授業が始まり、俺たちの日々は大きく変わった。
午前は先生と魔術。
午後はパウロと剣術。
夜は本を読み、時々、先生から世界の話を聞く。
俺は四属性の魔術を覚えた。
水だけでなく、火、風、土。
詠唱なしで形を作り、大きさや速度を変え、別の魔術を重ねる。
考えたとおりに結果が返ってくる。
やはり魔術は楽しかった。
ゼディは水で苦労し、火では俺より自然に進んだ。
先生は比べるためではなく、教え方を変えるために俺たちを見ていた。
頭では分かった。
だが、先生がゼディの火を褒めるたび、胸の奥は小さくざわついた。
俺は先生に認められたい。
できれば、一番の生徒として。
相手が実の弟でも、そこだけは譲れなかった。
そもそも魔術は、俺が一番目に始めたことなのだから。
そんなある日、ゼディが俺に水魔術を教えてほしいと言った。
一瞬、断ろうかと思った。
俺が教えれば、あいつは俺へ近づく。
もしかすると、すぐ追い越す。
そうなれば、俺が上にいられるものがまた一つ減る。
だが、ゼディは俺を見て待っていた。
先生ではなく、俺に聞いた。
兄である俺へ。
それが、少し嬉しかった。
俺は水球を崩さないことばかり考える必要はない、と説明した。
崩れる前に飛ばす。
飛ばしながら形を整える。
最初から全てを完璧にしようとしなくていい。
ゼディは何度か試し、とうとう標的まで届かせた。
「ありがとう、ルディ」
そう言って、いつものように笑った。
胸がざわつくと思っていた。
自分で敵へ塩を送ったと後悔すると思っていた。
だが、実際にあったのは、妙な温かさだった。
俺の言葉で、誰かができるようになった。
俺が持っているものを分けても、俺が空になるわけではなかった。
「別に。兄ですから」
俺は格好をつけた。
ゼディは感心したように俺を見た。
「ルディ、兄みたい」
「兄ですよ!」
思わず声が大きくなった。
先生は、仲が良いのか悪いのか分からないと呟いた。
ゼディはすぐ、仲が良いと答えた。
俺は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
たぶん、それが当時の俺にできる精一杯だった。
◇
魔術を混ぜる、という発想に最初に気付いたのは俺だった。
水を作り、火で温める。
できあがるのは、ぬるい湯だ。
風呂や洗濯にも使えるし、冬なら重宝する。
二つの術を別々に保つのではなく、最初から一つの結果を思い浮かべる。
先生に説明すると、珍しく素直に感心された。
気分が良かった。
そこへゼディが、自分もやると言い出した。
一度目は失敗した。
水と火を別々に扱おうとして、片方へ意識を向けた途端にもう片方が崩れた。
俺はさっき先生へ話したことを、もう一度説明した。
二つの魔術ではなく、温かい水を一つ作る。
ゼディは目を閉じ、少し考えた。
次の瞬間には、湯気の立つ水を作った。
早い。
……もう少し苦戦してもよくないか。
顔へ出たらしく、先生に笑われた。
ゼディは火が入ると、急に理解が速くなる。
水だけでは掴めなかったものを、火を足すことで自分の感覚へ引き寄せる。
俺は一つずつ分け、仕組みを理解してから組み直す。
ゼディは全体へ手を伸ばし、掴んでから細部を覚える。
同じ結果へ着いても、通った道はまるで違った。
その違いが面白いと思える日もあった。
気に入らないと思う日もあった。
俺は、それでいいことにした。
人間の感情など、毎日同じ形をしている方がおかしい。
綺麗に整理できなくても、行動まで汚くしなければいい。
少なくとも、そうありたいとは思った。
ゼディは先生へ、いつか一緒に旅をしたいとも言った。
先生がまだ見ていない場所へ、自分が連れていくのだと。
三歳児にしては随分と気の長い誘いである。
先生は、十年以上たっても気持ちが変わらなければ、もう一度聞くように答えた。
そしてゼディの頭を撫でた。
少し、羨ましかった。
俺には、あんな風に何の計算もなく誰かを誘うことができない。
断られた時のことを先に考える。
冗談に見える逃げ道を作る。
だから別の日、俺は先生の髪が綺麗だと褒め、その勢いで好きだと伝えた。
半分は本気。
半分は冗談。
どちらへ転んでも傷つかない、実に俺らしい告白だった。
先生はゼディへしたのと同じように、十年以上たっても変わらなければ、もう一度聞くように答えた。
完全な脈なしではない。
十年もの長期保留である。
前向きに解釈しておこう。
その時、ゼディが妙に面白くなさそうな顔をしていた。
先生を取られたと思ったのか。
それとも、あいつも先生が好きなのか。
だが、ゼディ自身も理由が分かっていないようだった。
俺は何も聞かなかった。
あいつが話せないことを、俺が無理に開けるのも違うと思った。
先生が来たことで、俺とゼディは同じ部屋を使うことになった。
もともと俺たちには、それぞれ別の部屋があった。
俺は以前、いつか自分からゼディの部屋へ行ってみたいと思っていた。
何をするでもなく、ただ一緒にいるために。
結局、その一歩を踏み出す前に、向こうの部屋が先生の部屋になった。
人生とは、こちらが悩んでいる間にも勝手に配置換えを進めるらしい。
最初の夜、俺は少し落ち着かなかった。
同じ部屋に誰かがいる。
寝息が聞こえる。
寝返りを打てば、布の擦れる音がする。
前世では、家族と同じ家にいても、自室の扉を閉ざしていた。
扉の向こうから声を掛けられても、返事すらしないことがあった。
かつて俺のことを心配してくれていた同級生からの声も聞こえないふりをした。
酷いことを言ってしまい、その後はずっと扉が開くこともなかった。
今は、その扉がない。
逃げ場が減ったような気がした。
だが、ゼディは俺が本を読んでいれば邪魔をしなかった。
話したい時は話し、眠ければ先に眠る。
無理にこちらを向かせようとはしない。
夜、灯りを消した後だけ、俺たちは昼より少し多く話した。
魔術のこと。
本のこと。
パウロの説明が途中から全部「クッ」と「ザンッ」になること。
ゼニスの料理でその日一番美味しかったもののこと。
リーリャに叱られたこと。
中身のない話もした。
眠る直前は、良い子の仮面を保つ力が弱くなる。
一人称が僕から俺へ戻る。
敬語も抜ける。
ゼディは気付いていたはずだ。
それでも指摘しなかった。
俺が朝になればまた仮面を被ることも、黙って受け入れた。
同じ部屋は、思ったほど息苦しくなかった。
むしろ、夜中に目を覚ました時、隣の寝息があることへ安心した。
それを本人へ言うつもりはない。
兄には威厳というものが必要なのだ。
もっとも、その威厳は長く続かなかった。
ある夜、パウロとゼニスの部屋から、規則的な軋みが聞こえた。
ゼディは、何の音だろうと首を傾げた。
俺は運動だと答えた。
嘘ではない。
運動ではある。
別の夜には、先生がその部屋を覗いているところをゼディが見つけた。
しかも先生は、ローブの下で何やら手を動かしていた。
俺はゼディが声を出すより先に口を塞ぎ、その場から引きずっていった。
危なかった。
教師の尊厳と、一人の女性の秘密と……俺の心の聖域が一度に崩壊するところだった。
ゼディには忘れろと言った。
大人にはいろいろあるのだ、と。
自分も中身だけなら大人だが、その事実は棚へ上げた。
ゼディはよく分からないまま頷いた。
無垢な弟を守った。
たぶん。
少なくとも、あの場では兄らしいことをしたはずだ。
先生からは、魔術だけでなく世界のことも教わった。
人族の国。
魔族の国。
何度も起きた大戦。
空中城塞に住む英雄。
危険な魔物。
そして、スペルド族。
先生は、出会えば避けるように言った。
家族が殺されるかもしれない、と。
ゼディは、先生自身が会ったこともないのに本当に全員が悪いのか、と聞いた。
相変わらず、真っすぐだった。
俺なら、危険だと言われれば距離を取るだろう。
相手が何者かより、自分が傷つかないことを選ぶ。
ゼディは違う。
知らないからこそ知りたがる。
先生は、自分にも分からないと認めた。
その上で、子供である俺たちには近づいてほしくないと話した。
敵を倒すだけが強さではない。
逃げること。
話すこと。
危険そのものを避けること。
そういう言葉を、ゼディは真剣に聞いていた。
俺も聞いていた。
「逃げることも強さ」
その言葉は俺にとって都合が良かった。
前世の俺がしてきたことまで肯定されたように思えたからだ。
だが、先生の言う逃げるとは、何も見ず、何も選ばず、部屋へ閉じこもることではない。
危険を知り、戻る場所を知り、その上で選ぶことだ。
当時の俺には、そこまで理解できなかった。
ある夜、授業の後でゼディが庭へ出た。
星を見るためだった。
俺は珍しく、その後を追った。
庭までなら出られる、そう自分へ言い聞かせながら。
ゼディの隣へ座る。
あいつは驚いた顔をした。
俺が外へ出たからだ。
その驚きに腹が立つ一方で、当然だとも思った。
今まで何度誘われても断ってきたのだから。
ゼディは、外へ行きたいかと聞いてきた。
今は行きたくない。
いつかは分からない。
そう答えた。
続けて、一緒に旅をしないかと誘われた。
俺は、その時になったら考える、と逃げた。
ゼディは、それでも俺を守ると言った。
何を馬鹿な。
俺の方が兄だ。
守るのは俺の役目だ。
そう言い返すと、あいつは二人で守ればいい、と笑った。
勝ち負けにしようとしていたのは、また俺だけだった。
俺は魔術で誰にも負けたくない、と口にした。
強くなりたい、ではない。
誰にも負けたくない。
あの言葉には、当時の俺の全部が入っていたと思う。
魔術を好きな気持ち。
努力が形になる喜び。
先生に認められたい欲。
ゼディに追いつかれたくない焦り。
そして、何か一つでも上にいなければ、また誰にも必要とされない人間へ戻る気がする恐怖。
ゼディは笑わなかった。
否定もしなかった。
ただ、分かったように頷いた。
◇
先生が来てから、二年が過ぎた。
俺たちは五歳になった。
午前の魔術と午後の剣術は、もう日常になっていた。
魔術では俺が先を進んだ。
四属性全てを無詠唱で使い、上級まで修得した。
ゼディも少し遅れて上級へ届いた。
火、風、土。
そして、苦手だった水も。
水の速さと制御なら、まだ俺が上だった。
火を自分の手足のように扱う感覚なら、ゼディが上だった。
剣術では、さらに差があった。
ゼディはパウロの動きを赤ん坊の頃から毎日見ていた。
走る。
跳ぶ。
転ぶ。
立つ。
身体を動かすこと自体が好きだった。
俺は違う。
頭で順番を考え、正しい形を作ろうとして、身体が遅れる。
腕立て伏せは十回で限界。
ゼディは二十回やっても、まだ動ける顔をしていた。
パウロが喜ぶ。
ゼディも喜ぶ。
俺は面白くない。
庭へ出ること自体に抵抗がある俺と、走り回るだけで嬉しそうなゼディ。
比べれば負けるに決まっている。
そう言い訳をしながらも、負けたくはなかった。
魔術なら俺。
外で体を動かす……おそらく、剣術ならゼディ。
そんな風に分けてしまえば楽だったのかもしれない。
だが、俺は体を動かすことや剣術でも負けたままでいたくなかった。
ゼディも、魔術で俺に追いつこうとした。
互いの得意な場所へ、勝手に踏み込んでいく。
以前の俺なら、奪われると思っただろう。
実際、今でも時々そう思う。
けれど二年間で、別のことも知った。
ゼディが剣を上手く振っても、俺の魔術が下手になるわけではない。
俺が水魔術を教えても、俺が積み重ねた時間は消えない。
競争相手が隣にいるのは、苦しい。
同時に、止まりそうな時には腹が立つほど先へ進ませてくれる。
五歳の誕生日、俺たちは家族全員から贈り物をもらった。
パウロからは、本物の剣と練習用の木剣。
俺の木剣は形を覚えるために軽く、ゼディのものは重心が前に置かれていた。
安全のためだと分かっていても、比べられたようで少し不満だった。
同じ誕生日に、同じ父親からもらったのに、最初から違う。
だが、俺とゼディの身体の使い方が違う以上、同じ物を渡す方が雑なのだろう。
二年前なら、そこまで考えられなかった。
ゼニスからは本だった。
俺には植物の辞典。
薬草、毒草、食べられる植物。
ゼディには星と空の記録。
どちらも、相手の本まで読みたくなる贈り物だった。
先生からは、赤い魔石をつけた二本のロッド。
形は同じだった。
弟子が初級魔術を覚えた時、師匠が杖を作る習わしがあるらしい。
俺たちの成長が早すぎて、渡す時期を逃していたと言われた。
先生らしい。
いや、先生らしいで済ませていいのかは分からない。
リーリャからは、アサルトドッグの皮で作った手袋。
俺は黒。
ゼディは濃い茶色。
剣も杖も握れるように仕立てられていた。
同じ日に、同じような物を受け取る。
けれど一つ一つは、俺たちをしっかりと別々に見て選ばれていた。
双子だから同じではない。
違うから、どちらかが劣るわけでもない。
先生が二年間言い続けたことが、贈り物の形になって並んでいた。
翌日から、本格的な剣術の稽古が始まった。
初めて木剣を持ったゼディは、パウロの動きをほとんどそのまま再現した。
パウロは、今まで見た同い年で一番の才能だと笑った。
今まで見た五歳児が何人いるのか、突っ込みが入る。
冗談にしたかった。
そうしなければ、胸へ刺さったものが顔に出そうだった。
パウロは、ゼディなら自分より強くなれると言った。
嬉しそうだった。
俺が魔術で褒められた時よりも、ずっと分かりやすく。
やはりパウロは剣士なのだ。
分かっている。
それでも、少し寂しかった。
ゼディは俺を誘った。
一緒にやろう、と。
魔術なら俺の方が強いから、剣では負けない、と。
挑発するような顔だった。
そこで断れば楽だった。
外は嫌いだ。
剣術は俺に向いていない。
理由はいくらでも作れる。
だが、逃げたくなかった。
「僕も、ゼディに負ける気はないですよ」
木剣を構え直した。
あいつが嬉しそうに笑った。
俺はその顔を見て、ほんの少しだけ笑い返した。
その日の夕方。
先生は、俺たちへ基礎を教え終えたと告げた。
上級より上には、聖級、王級、帝級、神級がある。
先生が詳しくない分野もある。
これからは、自分で考えて進まなければならない。
そのために、翌朝、卒業試験を行う。
村から離れた草原で、水聖級魔術を見せる。
俺たちはそれを見て、自分なりに再現する。
卒業。
先生がいなくなるかもしれない。
その言葉だけでも胸が冷えた。
だが、それ以上に俺の耳へ残った言葉があった。
村から離れた草原。
家の外。
庭の門の向こう。
「僕は……外でやるなら行けません」
考えるより先に、そう答えていた。
◇
行きたくありません、ではない。
行けません。
口にしてから、自分でもその違いに気付いた。
先生も、ゼディも気付いたらしい。
ゼディが、どうして、と聞いた。
俺は、ゼディには分からないと答えた。
分かるはずがない。
外を見れば目を輝かせ、風が吹けば嬉しそうに笑い、父さんの馬へ餌をやりに行くような弟だ。
父さんと庭を走り、剣を振り、村人に声を掛けられても平気で笑い返す。
そんな奴に、門が壁に見える人間の気持ちなど分かるものか。
そう思った。
本当は、分かってほしくなかったのかもしれない。
説明すれば、俺がどれほど情けない人間なのか知られる。
中身は三十四歳。
身体は五歳。
どちらで数えても、たかが門一つを越えられない言い訳にはならない。
先生が言ったことを理解していないのか、とゼディが聞いた。
少し意地の悪い言い方だった。
普段なら、子供の言葉だと流せたかもしれない。
だが、その時の俺には無理だった。
先生の前で、魔術では自分の方が優秀だと認めてもらった、その先生の前で。
一番見せたくない部分を、ゼディに指摘された。
「俺だって……! ……僕だって、外に出られるなら出たいですよ……」
声が震えた。
僕と言う前に、俺が出た。
仮面が剥がれた。
ゼディの顔が変わった。
怒っていたわけではない。
驚いていた。
それから、ようやく何かへ気付いた顔をした。
嫌いなのではない。
怖いのか、と聞かれた。
肩が勝手に震えた。
それが答えになった。
何が怖いのか。
知らない人。
視線。
笑い声。
外へ出れば、自分が見られる。
見た目が変なら笑われる。
歩き方が変でも笑われる。
喋り方が変でも笑われる。
失敗すれば笑われる。
……逃げれば、もっと笑われる。
何もしていなくても、笑う奴はいる。
俺は、それを知っている。
この世界では、まだされていない。
パウロやゼディと庭にいれば、村の人は俺をグレイラット家の息子で双子の兄として見る。
ゼニスも、リーリャも、先生も、俺を馬鹿にしない。
それでも、記憶は消えなかった。
扉の向こうに誰かがいる。
自分を見ている。
声を潜めて笑っている。
そう思うだけで、足から力が抜ける。
頭では今と昔は違うと分かる。
だが、身体が分かってくれない。
誰かにされたのか、とゼディが聞いた。
俺は本の話だと誤魔化した。
どの本かと聞かれ、忘れたと答えた。
家にそんな本はない。
昔読んだ。
昔とはいつだ。
そこまで聞かれ、黙った。
これ以上は言えなかった。
前世のこと。
三十四歳だったこと。
死んで、生まれ直したこと。
ゼディに話せば、どんな顔をするだろう。
気味が悪いと思うか。
兄のふりをしていたのかと怒るか。
今まで向けてくれた笑顔まで、全部なくなるか。
怖かった。
外へ出るのと同じくらい。
もしかすると、それ以上に。
ゼディは、それ以上聞かなかった。
いつもそうだ。
俺が本当に扉を閉めようとすると、その直前で立ち止まる。
無理にこじ開けない。
だが、今回は扉の前から帰ろうともしなかった。
俺は、ゼディと一緒だからこそ外へ行きたくない、と言った。
比べられるからだ。
同じ双子なのに、ゼディは走れる。
人と話せる。
剣をすぐ覚える。
俺が動けない横で、普通に歩ける。
俺が怯える横で、楽しそうに笑える。
先生だって、俺たちを比べている。
そう言うと、先生は比較しないと言えば嘘になる、と答えた。
胸が締めつけられた。
やはり見られていた。
俺とゼディ。
どちらが上か。
俺が一番恐れている秤へ、先生も俺たちをのせていた。
だが、先生は続けた。
優劣を決めるためではない。
得意なものが違えば、教え方も、試験で見るものも違う。
俺は水の制御と構造の理解。
ゼディは火の適性と、身体で感覚を掴むこと。
違うものを、一つの基準だけでは測れない。
何度も聞いた話だった。
その日の俺には、初めて少しだけ届いた。
たぶん、先生が綺麗事を言わなかったからだ。
比べること自体は否定しない。
だが、比べた結果を使って片方を捨てたりしない。
先生は、外へ出られない生徒を無理に連れ出さないと言った。
試験は延期。
俺だけではない。
ゼディの試験も一緒に延期する。
また俺だ。
俺のせいで、ゼディが先へ進めない。
前世でもそうだった。
家族の時間を奪った。
金を使わせた。
心配させた。
最後には、家にいるだけで皆の重荷になった。
今度こそやり直すはずだったのに、同じことをしている。
先生へ謝った。
ゼディには、俺を置いて行けばいいと言った。
本心ではなかった。
俺を置いて二人だけで行かれたら、きっと死ぬほど妬む。
帰ってきたゼディが先生と草原の話をするたび、笑えなくなる。
それでも、自分から行けと言った方が傷は浅い。
捨てられる前に、自分から離れる。
いつものやり方だった。
ゼディは、行かなかった。
今すぐでなくていい。
俺が行けるまで待つ。
十年かかるかもしれないと言っても、待つと言った。
なぜ、と聞いた。
双子だから。
兄だから。
家族だから。
そんな答えが来ると思った。
どれも、血がつながっているから仕方なく、という意味に変えられる。
だが、ゼディは言った。
俺と一緒に行った方が楽しいからだ、と。
理解できなかった。
俺がいれば楽しい。
そんなことを言われた記憶が、前世にあっただろうか。
必要だからでもない。
家族だからでもない。
義務でも、同情でもない。
一緒にいたいから待つ。
その言葉を、どう受け取ればいいのか分からなかった。
ゼディは、怖くなったら服でも手でも掴めばいいと言った。
子供扱いするな、と返した。
五歳だと言われた。
中身は三十九歳だ、と心の中で反論した。
余計に情けなくなった。
誰かが笑えば、ゼディが怒る。
先生も注意する。
それでも笑われた事実は消えない、と俺は言った。
消えない。
一度受けた傷は、なかったことにはならない。
先生は、過去を消せるとは言わなかった。
ゼディも、大丈夫だと決めつけなかった。
代わりにゼディは、子供なら怖がってもいいのではないか、と言った。
言葉が止まった。
前世の俺は、もう子供ではなかった。
助けを求めていい時期を、自分から捨てた。
だから今世では、早く大人のように振る舞おうとした。
賢い子供。
礼儀正しい子供。
何でも一人でできる子供。
そうしていれば、誰にも見捨てられないと思った。
だが、今の俺は五歳だった。
怖いと言ってもいい。
手を借りてもいい。
そう言われても、すぐ信じることはできなかった。
それでも、信じてみたいと思った。
ゼディは、俺を兄であり友達だと言った。
兄弟同士で友達かどうかを決めるというのも妙な話だ。
だが、家族という言葉だけでは足りない何かが、俺たちの間には増えていた。
同じ本を読む。
同じ先生に習う。
競う。
腹を立てる。
夜にくだらない話をする。
それを友達と呼ぶなら、たぶんそうなのだろう。
「……友達でいいです」
そう答えた。
ゼディは、自分を弟で友達にしていい、と言った。
……そのやり取りで少しだけ息ができるようになった。
先生は、外へ出られないことと魔術の才能は別だと言った。
外へ出られない魔術師がいないなら、俺が最初になればいい。
できないことが一つあるだけで、他の全部まで諦める必要はない。
それは、ずるい言葉だった。
そんなことを言われたら、失敗する前から全部を捨てることができない。
試験へ行くとは決めなくていい。
まずは門まで、途中で戻っていい。
止まってもいい。
俺自身が、どこまで進みたいかを決める。
先生とゼディは待った。
俺が答えるまで、急かさなかった。
最後に俺は、ゼディへ手を求めた。
あいつは迷わず差し出した。
握る。
痛いほど強く。
「行けるところまで、行きます」
声はまだ震えていた。
それでも、自分で言った。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
◇
翌朝、俺はゼディより先に目を覚ました。
服を着替え、リーリャにもらった黒い手袋をはめた。
だが、カーテンを開けることはできなかった。
窓から少し離れ、閉じた布を見つめた。
机には先生からもらったロッドがある。
持っていけば、試験まで行く気だと思われる。
置いていけば、門から先へ進む可能性を自分で消す。
どちらにも手を伸ばせなかった。
起きたゼディが、自分のロッドと一緒に俺のものを差し出した。
その先まで行きたくなったら、取りに戻るのかと聞かれた。
俺は、荷物になるほど大きくないから、と言って受け取った。
試験を受けると決めたわけではない。
そう何度も念を押した。
……誰に対しての言い訳だったのだろう。
朝食は静かだった。
パウロは何か言おうとするたび、ゼニスに脇を小突かれた。
先生は、まず門の外まで行くと説明した。
パウロが、そこから試験へ行くのだろうと聞く。
先生は、まだ決まっていないと答えた。
馬を使わなければ厩へ戻すだけ。
昼食を食べずに帰れば、家で食べればいい。
リーリャは着替えと布と昼食を、どちらになっても困らないように用意した。
ゼニスは外套を掛け、行ってらっしゃいと言った。
頑張れとは言わなかった。
パウロも、無理をするな、とだけ言った。
男なら行け。
たかが外だ。
そう言われると思っていた。
パウロはそう言わなかった。
俺が戻ることを、誰も失敗にしようとしなかった。
逃げ道を塞がれないことが、これほど安心するものだとは知らなかった。
同時に、逃げ道があるからこそ、一歩だけ試してもいいと思えた。
玄関を出る。
庭にはグレイラット家唯一の馬、カラヴァッジョがいた。
ゼディは以前から餌をやり、一度乗せてもらったこともあるらしい。
また一つ、知らなかった。
俺が部屋にいた間、ゼディには俺の知らない時間が増えていた。
当然だ。
自分から閉じこもっていたのだから。
それでも、置いていかれたような気がした。
先生は先に門を越え、その先で待った。
パウロ、ゼニス、リーリャは玄関の前にいた。
ゼディが、行こう、と言いかけた。
すぐに言い直し、手が要るかと聞いた。
昨日、待つと決めたことを覚えていた。
俺は差し出された手を見た。
茶色い手袋。
俺と同じ魔物の皮から作られた、色の違う手袋。
掴んだ。
思いきり。
痛いと言われ、力を緩めかけた。
ゼディが握り返した。
離さなくていい、と言った。
門へ近づく。
庭の草が途切れる。
その先は、踏み固められた土の道。
数歩しかない。
俺にとっては、前世からずっと続いている距離だった。
門の向こうに、人の気配がある気がした。
誰かが待っている。
俺を見つければ笑う。
足が止まった。
呼吸が浅くなる。
心臓がうるさい。
手袋の中へ汗が滲む。
ゼディに、何か話せと頼んだ。
あいつは昨日読んだ星の本の話を始めた。
旅人は星を見て、進む方向を決める。
俺は植物の本で読んだ、夜に花を開く植物の話を返した。
どうでもいい話だ。
その、どうでもよさがありがたかった。
今ここにいる。
隣にはゼディがいる。
目の前にあるのは、学校の門でも、前世の家の玄関でもない。
グレイラット家の庭と、ブエナ村の道の境目だ。
出る時は俺が決めていい。
息を吸う。
吐く。
もう一度、吸う。
「今」
二人で足を出した。
左足。
右足。
門が背中へ回った。
膝から力が抜けた。
ゼディと先生が支えてくれた。
戻るかと聞かれた。
俺は振り返った。
門の向こうに、家があった。
パウロたちがいた。
外へ出ても、家は消えていなかった。
当たり前だ。
そんなことは知っている。
だが、知っていることと、身体で確かめることは違った。
俺は、カラヴァッジョに乗ってもう一度門を越えると言った。
先生は俺を馬の一番前へ乗せた。
後ろにはゼディ。
さらに後ろから先生が支える。
怖くなればローブを掴んでいいと言われていた。
俺はしっかり掴んだ。
途中でゼディが先生へもたれ、何やら柔らかいものへ触れたらしい。
先生が可愛らしい声を上げた。
パウロが、ゼディも隅に置けないと笑った。
羨ましい。
なぜ弟ばかり。
俺は本人にしか聞こえない声で、場所を代われと頼んだ。
返事はなかった。
恐怖で張りつめていた頭へ、実にくだらない雑念が戻ってきた。
少しだけ助かった。
俺は前を向いた。
目を閉じなかった。
「試験の場所まで……行きます」
声は震えた。
それでも先生は、聞き直さずに頷いた。
馬が一歩進む。
家が、少しずつ後ろへ動き始めた。
◇
村の道を、カラヴァッジョはゆっくり進んだ。
窓から何度も見た柵や屋根が、違う角度から流れていく。
ゼディは、すごい、と何度も声を上げた。
まだ家の前だと返すと、窓は動かないから違って見えるのだ、と言った。
当たり前のことに、いちいち感動する。
だが、その声を聞いている間は、蹄の音だけを数えずに済んだ。
村の中心へ近づくと、人が増えた。
畑へ向かう人。
水を運ぶ人。
家の前を掃く人。
皆が俺を見ている気がした。
実際、何人かは見た。
畑の脇にいた老人が先生へ挨拶し、俺たちがパウロの息子だと気付いた。
大きくなったな、と笑った。
背中が固まった。
笑われた。
そう思った。
だが、その笑い方はパウロが俺たちを見る時と似ていた。
馬鹿にする声ではない。
ゼディが挨拶をした。
俺も少し遅れて続いた。
老人は、気をつけて行ってこい、と言って畑へ戻った。
それだけだった。
次にすれ違った親子は、珍しそうにこちらを見た。
笑わなかった。
声も掛けなかった。
ただ見て、通り過ぎた。
先生は、人の視線にはいろいろな意味があると言った。
好意。
警戒。
興味。
驚き。
単に、動くものが目に入っただけの時もある。
俺にとって視線は、ずっと一つの意味しか持たなかった。
嘲笑の前触れ。
敵意の入口。
だが、今すれ違った人々の内側を、俺は何も知らない。
知らないのに、全員が俺を笑うと決めていた。
先生も、この村へ初めて来た日は怖かったらしい。
魔族を嫌う人族もいる。
石を投げられるかもしれないと思った。
それでも仕事を引き受け、知らない場所を見たくて来た。
怖いまま進み、何も起こらない日を一日ずつ増やした。
嫌な人もいた。
だが、一人が嫌な人だからといって、全員が同じにはならない。
先生は、何も怖くない人ではなかった。
怖さより先に、進む理由を見つけた人だった。
俺にも同じことができるとは、まだ思えない。
それでも、先生が最初から先生だったわけではないという事実は、胸に残った。
ゼディは約束どおり、話し続けた。
星の方角。
道端の白い花。
見たことのない木の実を食べようとしてゼニスに怒られたこと。
思わず馬鹿ですか、と大声を出した。
前を歩いていた村人が振り返った。
身体が固まる。
だが、その人はすぐ前へ向き直った。
笑わなかった。
俺たちがうるさかったから見ただけだ、とゼディが言った。
それはゼディのせいだと返した。
いつもの言い合いだった。
少しずつ、息が深くなった。
パウロが風呂上がりに片足で剣を振り、滑って桶へ尻から入り、桶を割った話を聞いた。
俺は笑った。
先生も、たぶん笑っていた。
村の道で、人に見られるかもしれない場所で。
笑われることばかり恐れていた俺自身が、パウロを笑っていた。
少し申し訳ない。
帰ったら黙っておこうと思った。
やがて家が見えなくなった。
その瞬間、胸を内側から掴まれた。
止めてください、と叫んだ。
先生はすぐ馬を止めた。
戻るかと聞かれた。
家はどこにある。
来た道を戻ればある。
道は一本。
ゼディも覚えている。
先生は何度も通っている。
カラヴァッジョは、俺たちより詳しい。
戻る道はある。
試験の場所まで、あと十分。
家へは十五分。
俺は、戻る方が遠いから進むと言った。
ただの計算だ。
それだけだ。
ゼディは追及しなかった。
俺自身にも、それ以上の理由はまだ言葉にできなかった。
畑が終わり、広い草原が現れた。
地面が、見える限り続いている。
遮るもののない空。
遠くに山の影。
ゼディが、世界だ、と言った。
ここもブエナ村の近くだと返した。
それでも、あいつは世界だと言った。
俺は草原を見た。
窓の向こうにあった景色。
見ないようにしてきた景色。
今、俺はその中にいる。
「……そうですね」
初めて、外を少しだけ綺麗だと思った。
◇
試験の場所で馬を降りても、足は震えていた。
知らない人はいない。
あるのは草と、一本の大きな木と、空だけ。
それでも、しばらく先生のローブから手を離せなかった。
先生は、ここまで来たことと試験を受けることは別だと言った。
今から帰ってもいい。
俺はローブを離し、ロッドを両手で握った。
ここまで来たからではない。
自分で受けると決めたから受ける。
そう答えた。
先生は、俺の言葉を訂正しなかった。
試験で見せられたのは、水聖級攻撃魔術、
先生が長い詠唱を始める。
魔力が空へ昇る。
白い雲が生まれる。
灰色へ変わる。
黒く膨らむ。
風が吹き、雨が落ち、雷が草原を揺らした。
全身が一瞬で濡れた。
さっきまで俺を埋めていた恐怖が、音もなく消えた。
目の前の魔術に、全部持っていかれた。
水だけではない。
地上の温かい空気を押し上げる。
高い場所で冷やす。
風を雲の中へ回す。
水滴をぶつけ、力を蓄え、雷へ変える。
一つの術の中に、いくつもの流れがあった。
先生が雲を消す。
俺は先に試験を受けると言った。
ゼディが先に成功すれば、余計に緊張する。
本当のことだった。
魔術では負けたくない。
外へ出た直後であっても、そこだけは変わらなかった。
それに、俺は兄だ。
先に立つくらいはしたかった。
一度聞いた詠唱を唱える。
雲を作る。
詠唱が終わった後は、自分で構造を足した。
地面を温める。
上を冷やす。
風を斜めへ流し、雲の中で回す。
小さかった雲が縦に伸びた。
雨が強くなる。
雷が鳴る。
先生の雲より広がった。
もっとできる。
一時間保てばいい、そう思ったところで、先生に止められた。
このまま一時間も降らせれば、草原が水浸しになるらしい。
合格。
そう言われても、すぐ意味が入ってこなかった。
先生に急かされ、慌てて雲を消す。
作るより難しかった。
最後には先生へ助けを求めたが、自分で作ったものはまず自分でどうにかしろと言われた。
厳しい。
だが、どうにか切れ間を作り、雲を散らした。
先生は俺に、水聖級魔術師を名乗ることを認めた。
五歳で、水聖級。
俺は先生の想像以上の魔術師だと言われた。
胸の奥が熱くなった。
家族の贔屓目ではない。
本物の魔術師が、俺を認めた。
初日に欲しかった言葉を、二年間学んだ末に受け取った。
ゼディが抱きついてきた。
濡れていて冷たい、と文句を言った。
だが、押し返さなかった。
次はゼディの番だった。
さっきまでの俺なら、成功するかどうかを値踏みしただろう。
失敗すれば安心する。
成功すれば焦る。
初日のように。
実際、そういう気持ちが完全になくなったわけではない。
俺の雲より大きなものを作られたら、きっと面白くない。
だが、それ以上に、ゼディが自分のロッドを握る手が固いことへ気付いた。
あいつも怖いのだ。
俺の魔術を見た後で、同じ試験を受けることが。
俺は隣へ立った。
自分と同じものを作ろうとするな、と言った。
先生が求めているものは違う。
最初から全部を完璧にしなくていい。
昔、水弾を教えた時と同じ言葉だった。
そして、失敗しても笑わないと約束した。
昨日、ゼディが俺へ言ったことを返したかった。
ゼディの最初の雲は小さく、風で崩れかけた。
水を保とうとすれば風が止まる。
風へ意識を向ければ水が散る。
俺より、明らかに苦戦していた。
以前の俺なら、そこで安心した。
今も、胸の隅に安堵はあった。
自分の方が水魔術は上だ、と。
醜い感情は、卒業試験を受けたくらいで消えない。
だが、同時に声を出しそうになった。
火を使え。
風で支えろ。
お前ならできる。
先生が、得意なものは何かと問いかける。
ゼディが気付いた。
水へ火を加え、霧に変える。
風で押し上げる。
剣を振る時のように足を踏み、腰を回し、肩からロッドへ動きをつなぐ。
草原の草が渦を巻いた。
崩れかけた雲が膨らむ。
小さい。
俺のものより、先生のものより、ずっと小さい。
それでも雨が降った。
雲の中で光が走り、小さな雷が地面へ落ちた。
成功だ。
胸の奥にあったのは、悔しさだけではなかった。
よかった、と思った。
初日に失敗して安心した時とは、反対の意味で。
ゼディも合格した。
同じ水聖級。
同じ魔術師ではない。
俺は水を中心に構造を組み、ゼディは火と風で苦手な水を支えた。
規模と完成度なら俺が上。
負担を分ける工夫ならゼディに利点がある。
先生はそう評価した。
俺が上だと言われ、嬉しかった。
ゼディも認められ、嬉しかった。
二つは同時にあっていい。
弟に失敗してもらわなければ、自分の成功を喜べないわけではない。
ようやく、それを少しだけ理解した。
先生は俺たちを並ばせ、卒業を告げた。
今日から、自分で考え、自分で選び、自分の魔術へ責任を持つ。
できないことは、どう補うか考える。
怖い時は、逃げるか、進むか、立ち止まるかを自分で決める。
助けを求めてもいい。
一人で決めることと、一人きりで全てをすることは違う。
俺たちは先生の生徒から、教え子になった。
一人の魔術師になった。
嬉しかった。
同じくらい、寂しかった。
先生は翌日、グレイラット家を発つと言った。
二年前から決めていたらしい。
俺たちへ教え、自分が知らないことの多さを知った。
だから今度は、自分が進む。
先生も、俺たちに教えたことを守ろうとしていた。
止める言葉は出なかった。
俺には、先生の決めた一歩を否定する資格がなかった。
◇
帰り道でも、人とすれ違うたびに肩は固くなった。
家が見えるまで、何度も後ろを確かめた。
恐怖が消えたわけではない。
だが、先生のローブは掴まなかった。
鞍へ手を置き、自分の目で帰る道を見た。
ゼディに、また外へ出られるかと聞かれた。
分からない、と答えた。
今日できたから、明日もできるとは限らない。
でも、出られないと決める必要も、もうない。
それだけは言えた。
家の屋根が見えた時、長く息を吐いた。
なくなっていなかった。
門では家族が待っていた。
パウロは、俺たちが二人とも水聖級になったと聞き、村中へ届きそうな声を出した。
先生に、面倒な者を呼ぶから声を抑えろと叱られた。
ゼニスは泣きながら笑った。
リーリャは静かに濡れた髪を拭いた。
俺は家へ帰った。
外へ出る前と同じ家だった。
それでも、朝までとは少し違って見えた。
その夜、暗い部屋でゼディへ礼を言った。
手を離さなかったこと。
話し続けてくれたこと。
あいつは、友達だから、と答えた。
兄でもある、と俺は付け足した。
兄で友達。
欲張りだと笑い合った。
明日、先生を門の外まで見送るかと聞かれた。
行く、と答えた。
怖くないのか。
怖い。
今度は、はっきり言えた。
それでも、先生が見えなくなるまで見送る。
怖いことを認めても、怖いが消えるわけではない。
ただ、今はそれ以上にお世話になったロキシーを、師匠を見送りたい、そう感じた。
◇
翌朝、先生は二年前と同じ旅装で玄関に立っていた。
茶色のローブ。
杖。
背中の荷物。
初日に見た時より、小さくは見えなかった。
俺たちが大きくなったはずなのに、不思議なものだ。
先生は卒業祝いとして、俺へ緑色の金属でできたペンダントをくれた。
ミグルド族のお守り。
魔族と出会った時、先生の名前を出せば話を聞いてもらえるかもしれない。
知らない相手を最初から恐れず、話すためのきっかけにする物だと言った。
俺のために選ばれた贈り物だった。
ゼディへは、使い込まれた旅の手帳が渡された。
先生が最初の旅で通った道。
町。
魔物。
宿。
後ろには、何も書かれていない頁が残っていた。
続きを自分で見て書け、と先生は言った。
少し、羨ましかった。
先生自身の旅が詰まった物だ。
俺も読みたい。
だが、俺の首には先生の故郷を示すお守りがある。
同じ物ではない。
どちらが上でもない。
先生は最後まで、俺たちを別々に見ていた。
先生は俺へ、できないことがあっても他の全てまで諦めないように、と言った。
怖い時は、誰かの手を借りてもいい。
俺は借りることにすると答えた。
その際、ゼディが、いつでも貸すと言った。
毎回は困る、と返した。
先生が笑った。
扉が開く。
先生が庭を進み、門を越える。
ゼディが追いかけた。
俺は、境目の前で止まった。
昨日と同じ場所。
昨日は、ゼディが手を差し出した。
今日は、出さなかった。
先に門の外へ立ち、こちらを見て待っていた。
急かさない。
戻っても笑わない。
それでも、俺が来ると信じている顔だった。
足元を見る。
庭の草。
その先の土。
怖い。
今日も、人に見られるかもしれない。
笑われるかもしれない。
足が止まり、家へ戻る日も、この先きっとある。
卒業試験に合格したからといって、三十四年分の傷が一日で消えるわけではない。
俺はこれからも、ゼディを妬むだろう。
負ければ悔しい。
あいつばかり褒められれば、面白くない。
良い兄になれない日もある。
それでも、怖いまま進むか。
立ち止まるか。
戻るか。
今は、自分で選べる。
息を吸う。
一歩、踏み出した。
自分の足で門を越え、ゼディの隣へ並ぶ。
手が要るかと聞かれた。
必要になったら言う、と答えた。
先生は少し離れた場所で待っていた。
俺たちが二人とも門の外へ出たのを見て、杖を持つ手を上げた。
また会いましょう。
俺たちも返事をした。
先生の背中が道の先へ小さくなる。
見えなくなるまで手を振った。
そして、やがて、見えなくなった。
寂しかった。
泣きそうだった。
それでも目を逸らさなかった。
俺は以前、ゼディが差し出す手を何度も拒んだ。
あいつが部屋の扉を叩いても、少しだけ開け、すぐ閉じた。
俺が一歩近づけば、たぶん二歩分は笑って近づいてくる。
そう分かっていながら、その一歩が怖かった。
昨日、ゼディは俺の手を引かなかった。
ただ握り、俺が決めるまで待った。
今日、手すら差し出さなかった。
俺が自分で歩けると信じ、門の向こうで待った。
ようやく分かった。
あいつが欲しかったのは、俺より先へ行くことではない。
俺を後ろへ置いていくことでもない。
隣を歩くことだった。
同じ門を越えても、見ているものは違う。
ゼディにとって外は、憧れていた世界の始まりだ。
俺にとっては、過去の恐怖と向き合う場所だ。
同じ魔術を使っても、作り方は違う。
同じ家に生まれても、得意なことも、怖いものも違う。
違っていていい。
先生が二年間かけて教えてくれたことを、俺はようやく少しだけ自分のものにした。
ゼディと二人で門の内側へ戻る。
戻ることは、失敗ではない。
ここは逃げ込むためだけの部屋ではなく、また出ていくために、帰ってくるためにある家だ。
首には先生のお守りがある。
隣には、弟で、友達で、競争相手のゼディがいる。
家ではパウロとゼニスとリーリャがいる。
俺はまだ、外が怖い。
それでも、もう二度と出られないと決める必要はない。
必要なら、手を借りる。
いつかは、俺から手を差し出す。
まずは、そのための一歩を踏み出した。
先生がくれた卒業試験は、水聖級魔術を使うことだけではなかったのだと思う。
怖さを消す試験でもない。
怖さを抱えたまま、自分で進む方を選べるか。
俺にとっては、そちらの方がずっと難しかった。
そして俺は、ゼディと一緒に合格した。
完全ではない。
格好良くもない。
けれど、今度は誤魔化さない。
あの日、俺は確かに、自分の足で世界へ出た。
そのきっかけを、ロキシーとゼディはくれた。
前世では誰もできなかったことを。
恩を売ってやろうとかそういった意図とかは全くない、本当に彼らが俺のためにそうしたいと思って行った結果なのだろう。
それはわかっている。
だからこそ、尊敬しよう。
あの小さな少女ーー俺たちの先生を、師匠を。
そして、俺と同い年の弟を。
ゼディとは今後も、まだまだ真の信頼を築くには時間がかかるだろう。
だが、まずは、俺のことを隣で待ってくれて、手を貸してくれた恩師と唯一の双子の弟に、最大の感謝と尊敬を贈ることにした。