無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜   作:omugut

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第八話『水飛沫の向こうに』

ロキシー先生が家を出てから、五日が経った。

たった五日。

 

けれど、朝になっても庭から詠唱は聞こえず、夜になっても世界の話は始まらない。

先生がいなくなってからの一日は、これまでよりもずっと長く感じられた。

 

先生が使っていた部屋は、もう空になっている。

俺とルディはそのまま同じ部屋で眠っていた。

今さら別々の部屋へ戻る理由もない。

 

夜に本の話をするのも、灯りを消した後に父様の変な動きについて笑うのも、いつの間にか当たり前になっていたからだ。

 

ただ、朝になれば先生はいない。

魔術の練習をしても、もう止めてくれる人はいない。

 

使いすぎです。

火を大きくする前に、消す方法を考えなさい。

強さだけを急いではいけません。

──頭の中には、今も先生の声が聞こえる。

 

だから俺は、先生がいなくなってからも、教わった通りに練習した。

少なくとも、そうしようとはしていた。

 

「ゼディ。今日は、どこまで行くつもりなんだ?」

 

朝食の席で、父様が聞いた。

 

「村の南側。大きな井戸があるところまで」

 

「一人でか?」

 

「うん」

 

父様はすぐに「いいぞ」とは返さなかった。

母様とリーリャも、こちらを見ている。

 

ほんの数日前まで、俺もルディも庭の門から外へ出たことがなかった。

それが卒業試験の日に草原まで行き、翌日には先生を門の外から見送った。

だからといって、急にどこへでも行っていいことにはならないらしい。

 

当然だ。

 

俺たちは水聖級魔術師になったが、まだ五歳でもある。

むしろ水聖級だからこそ、何かあった時に周囲へ与える被害が五歳児らしくない。

 

父様はロキシー先生が旅立った夜、俺たちへいくつも決まりを言い渡した。

 

森へ入らない。

知らない大人についていかない。

日が高いうちに帰る。

剣も魔術も、人へ向けない。

本当に危険な時は、自分の命を最優先にする。

 

特に、最後の二つは何度も繰り返された。

 

「道は分かるのか?」

 

「昨日、父様と通ったよ」

 

「寄り道は?」

 

「少しするかも」

 

「するのかよ」

 

父様が額へ手を当てた。

最初からしないと言えばよかったのかもしれない。

けれど、道の途中に何があるかは、行ってみなければ分からない。

面白いものを見つけて、絶対に寄らないとは約束できなかった。

 

「村の中だけだぞ」

 

「はい」

 

「川へ近づく時は、流れの緩い場所だけにしろ」

 

「はい」

 

「魔術を使うなら、周りをよく見てからだ」

 

「はい」

 

「知らない物を食べるな」

 

「それはルディに言って」

 

「昨日、赤い木の実を口へ入れかけたのはお前だ」

 

「食べられるか匂いを確かめただけだよ」

 

「口を開けていたでしょう」

 

向かいに座るルディが、すぐに告げ口をした。

 

「見てたの?」

 

「窓から見えました」

 

「来ればよかったのに」

 

そう言うと、ルディの手が少し止まった。

 

以前なら、そのまま黙ったかもしれない。

けど、今日は違った。

 

「昨日は、門まで行く気分ではなかったんです」

 

「今日は?」

 

「今日は……家の前の道を少し歩きます」

 

俺と一緒ではなく、自分で決めた距離で……そういう意味だと思った。

 

「分かった。帰ったら何があったか話そう!」

 

「はい」

 

無理に誘わない。

けれど、一緒に行きたい時は聞く。

卒業試験の前に決めたことだった。

 

父様は俺とルディを交互に見て、やがて大きく息を吐いた。

 

「日が落ちるまでには戻れよ」

 

「はい!」

 

「返事だけは立派だな」

 

母様が笑い、リーリャは小さな布袋を渡してくれた。

中には水と、薄く切ったパンが入っている。

腰には短い木剣。

手には、先生からもらったロッド。

服の内側には、先生の旅の手帳を入れた。

 

初めての旅で使ったという、角の丸くなった革張りの手帳。

後ろには、まだ何も書かれていない頁が残っている。

 

続きは自分で見て書きなさい。

先生はそう言った。

 

世界を旅するのは、ずっと先になる。

それでも最初の一頁くらいは、家の近くから始めていいはずだ。

 

俺は家族へ行ってきますと言い、庭へ出た。

 

門の前で、一度だけ止まる。

 

ルディが怖いと言った外、ルディが怖いと言った門と外の境界。

今なら少しわかるかもしれない。

 

土の色が変わる。

家の内側と、外側が分かれる。

それだけで、門の内側と外側では違うものがあるのだ。

 

振り返ると、玄関の前でルディが見ていた。

俺は手を上げる。

ルディも、少しだけ上げ返した。

 

一歩。

門を越える。

 

俺は一人で、村の道へ足を踏み出した。

 

 

村の南側にある井戸は、父様から聞いていたより大きかった。

 

石を円形に積み上げ、上には木の屋根がついている。

縄の先へ桶を結び、それを落として水を汲む仕組みらしい。

 

俺やルディなら魔術で水を出せるが、この村の人たち全員が魔術を使えるわけではない。

 

何人かの村人が順番に水を汲んでいた。

俺を見ると、軽く頭を下げる人もいた。

パウロのところの双子か、と声を掛けてくる人もいた。

 

卒業試験の日ほど緊張はしなかった。

俺は挨拶を返し、邪魔にならない場所から井戸を眺めた。

 

手帳を開く。

最初の空白へ、井戸の形を描いてみる。

 

丸い石。

四本の柱。

屋根。

縄。

 

描き終えてから見比べると、井戸というより屋根を被った大きな壺に見えた。

先生の地図や挿絵は、もっと分かりやすかった。

……旅をするには、絵の練習も必要かもしれない。

 

その下へ、短く文字を書く。

『家から南。歩いて少し。水を汲む人が多い』

歩いて少し、では先生に怒られそうだ。

 

どれくらい歩いたかも書くべきだろう。

けれど時間を測る物は持っていない。

今度は歩数を数えてみよう。

 

手帳を閉じる。

 

これで帰っても、今日の目的は果たしている。

だが、父様へ少し寄り道をすると宣言した。

宣言したからには、少しくらいしなければ嘘になる。

 

井戸から東へ伸びる細い道を進んだ。

家々の間を抜ける。

 

畑の端には、見たことのない黄色い花が咲いていた。

遠くから動物の鳴き声がする。

風向きが変わると、焼いたパンのような匂いもした。

 

窓から眺めていた村の中に自分がいる。

それだけで楽しかった。

 

次はどちらへ行こう。

右には小さな林。

左には畑。

真っすぐ進めば、緩やかな下り坂。

 

迷っていると、林の方から声が聞こえた。

笑い声だった。

子供の声。

俺たちと同じくらいか、少し年上だろうか。

村の子供たちが遊んでいるのかもしれない。

 

俺はまだ、同い年の子供と話したことがほとんどない。

家族以外なら、卒業試験の日に道で会った子供を見たくらいだ。

 

友達。

そんな言葉が浮かんだ。

ルディとは、兄弟で友達になった。

だが、家の外でも友達はできるのだろうか。

少し興味が湧いた。

 

声のする方へ近づく。

木々の隙間から、開けた場所が見えた。

 

そこにいたのは、四人の子供だった。

三人が立っている。

一人が地面へ座り込んでいる。

……ただ、遊んでいるようには見えなかった。

 

「ほら、立てよ。魔族なんだろ?スペルド族なんだろ?」

 

「その髪でよく村にいられるな」

 

「角とかあるのか?隠してるのか?」

 

立っている子供たちが笑う。

 

地面に座り込む子へ、泥の塊を投げた。

小さな身体が震える。

頭を腕で守り、さらに小さく丸くなった。

 

髪は緑色だった。

短い緑の髪。

泥で汚れた隙間から、先の尖った耳が見える。

 

……スペルド族。

先生から聞いた話を思い出す。

 

緑の髪。

額の宝石。

三叉の槍。

目の前の子供には、宝石も槍もない。

 

それでも三人は、その髪だけを見てスペルド族と呼んでいた。

先生も、スペルド族は恐ろしいと教わったらしい。

会ったこともない相手を、噂だけで怖がっていた。

 

けれど、怖いからといって泥を投げていいとは教わっていない。

 

俺は木の陰から出ようとした。

右足が前へ出る。

そこで止まった。

 

何と言えばいい。

やめろ、三人で一人を虐めるな。

……言葉は浮かぶ。

 

その後は?

あいつらが俺へ向かってきたら。

 

剣を抜くのか。

殴るのか。

魔術を使うのか。

父様は、人へ向けるなと言った。

 

先生は、敵を倒すことだけが強さではないと言った。

逃げる。

話す。

危険を避ける。

 

今は、どれを選べばいい。

 

「泣けよ、魔族」

 

また泥が飛ぶ。

緑の髪の子は、声を出さなかった。

ただ耐えていた。

 

その姿を見た瞬間、胸の奥が強く縮んだ。

ふと、知らない景色が、一瞬だけ頭へ浮かんだ。

 

どこかの門の前だろうか。

同じ服を着た人たち。

誰かの笑い声。

磔のようにされて、俯いた人が一人。

 

……顔は見えない。

それが俺なのか、別の誰かなのかも分からない。

そんな景色は、すぐに霧の向こうへ消えた。

 

代わりに、ルディの顔が浮かんだ。

何もしていなくても、人は人を笑う。

見た目が違えば笑う。

動きが違えば笑う。

失敗すれば笑う。

 

卒業試験の前、ルディはそう言った。

 

目の前で、本当に起きている。

ルディの言っていたことは、現実に実際に起きている……悲しいことに、事実だったのだ。

 

止めなければいけない。

理由は、それだけで十分なはずだった。

 

それでも足は動かなかった。

怖いわけではない。

あの三人と戦っても、負けるとは思わない。

 

父様から剣を習った。

先生から魔術を習った。

 

俺は水聖級魔術師だ。

だからこそ、動けなかった。

 

間違えれば怪我をさせる。

火を使えば、服や髪へ燃え移るかもしれない。

剣を使えば、木剣でも骨を折るかもしれない。

 

力のない五歳児なら、叫んで大人を呼べたのかもしれない。

力を持っているせいで、どこまで使えばいいのか分からなかった。

 

「やめて……」

 

小さな声が聞こえた。

緑の髪の子が、初めて言った。

 

三人は笑った。

もう一つ、泥を拾う。

 

止めなきゃ。

何をするかは、後で考える。

今は、あの泥が届かなければいい。

 

俺はロッドを握った。

水だ。

火ではない。

硬い土でもない。

 

当たっても、すぐに大きな怪我をしにくいもの。

先生に最初に教わり、ルディから飛ばし方を教わった魔術。

 

木の陰で、声を落として詠唱する。

ロッドの先へ水が集まる。

 

拳より大きく、頭より大きく、三人をまとめて止められるよう、さらに広げる。

 

水だけでは、形が崩れる。

風で支える。

後ろから押す。

 

狙うのは身体ではない。

三人と、緑の髪の子の間。

 

「行け」

 

ロッドを振った。

水の塊が、木々の間を抜けた。

真っすぐには飛ばない。

 

後ろから風に押し広げられ、地面へ叩きつけられる。

ばしゃん、と大きな音がした。

 

泥が跳ねる。

水飛沫が三人の顔と胸へぶつかった。

 

「うわっ!」

 

「な、なんだよ、これ!」

 

「魔術だ!」

 

三人が転びそうになりながら後ろへ下がる。

緑の髪の子にも水がかかった。

髪から雫が落ちる。

 

やってしまった、狙いが広すぎた。

 

「魔族の仲間がいる!」

 

一人が叫んだ。

 

「呪われるぞ!逃げろ!」

 

三人は周囲を見回す余裕もなく、来た道を走り去った。

後に残ったのは、濡れた地面と、座り込んだままの子供だけだった。

 

静かになる。

 

俺は木の陰から、その子を見た。

助けた。

止められた。

そう思ったのは一瞬だった。

 

緑の髪には、泥と水が混ざっている。

服も濡れていた。

震えは止まっていない。

俺が、さらに水を浴びせただけに見えた。

 

今度こそ、足を前へ出す。

大丈夫か。

そう聞けばいい。

 

怪我はないか。

家はどこか。

名前は何というのか。

言葉はいくつも浮かんだ。

 

けれど、口から出なかった。

もし、泣かれたら。

お前のせいで余計に濡れたと言われたら。

怖がられたら。

三人へ魔術を向けたことを、大人へ言われたら。

胸の中へ、いくつもの気持ちが一度に押し寄せる。

 

助けたかった。

謝りたい。

 

ここへ来たことを知られたくない。

 

何か言いたい。

何も言わずに逃げたい。

 

五歳の頭では、どれを選べばいいのか分からなかった。

 

緑の髪の子が、ゆっくり顔を上げる。

こちらを見ようとした。

 

その瞬間、俺の足は勝手に動いた。

木の陰から離れる。

家の方へ走る。

 

「あ……」

 

背後で声がした。

止まれなかった。

振り返ることもできない。

 

ロッドを握り、手帳を押さえ、来た道を一気に駆け戻った。

あの子が見たのは、走り去る俺の背中だけだった。

 

 

家へ着く頃には、息が切れていた。

門の前で足を止め、何度も呼吸する。

 

日が落ちるまでには、まだ時間がある。

父様との約束は破っていない。

森にも入っていない。

知らない大人にもついていっていない。

 

……人へ魔術を向けない。

その一つだけは、破った。

 

正確には、人と人の間へ向けた。

当てるつもりはなかった。

怪我をさせないよう、水を選んだ。

 

言い訳なら、いくらでも出てくる。

それでも、三人へ水が当たったことは変わらない。

……緑の髪の子まで濡らしたことも。

 

俺は門を越えた。

庭にはルディがいた。

 

ロッドを持ち、空中に小さな水球を並べている。

家の前の道を歩くと言っていたはずだが、もう戻ったらしい。

 

俺を見ると、水球を消した。

 

「早かったですね」

 

「うん」

 

「井戸は?」

 

「大きかった」

 

「それだけですか?」

 

「手帳に描いた」

 

「見せてください」

 

反射的に服の内側を押さえた。

井戸の後には、何も書いていない。

あの出来事は書けなかった。

 

ルディが俺の手を見る。

ロッドを握る手袋が濡れていた。

 

「水魔術を使ったんですか?」

 

「少し」

 

「何に?」

 

「道の泥を流した」

 

嘘だった。

完全な嘘ではない。

実際、泥は流れた。

その前に人がいたことを言わなかっただけだ。

 

ルディが少し目を細める。

見抜かれたと思った。

 

けれど、それ以上は聞かなかった。

 

「そうですか」

 

「ルディは、どこまで行った?」

 

「門から、道を四十歩です」

 

「数えたの?」

 

「距離が分かった方が、次を決めやすいでしょう」

 

井戸まで歩いて少し、としか書かなかった自分が少し恥ずかしくなった。

 

「次は?」

 

「六十歩にします」

 

「一緒に行く?」

 

ルディは少し考えた。

 

「一人で行けるところまでは、一人で行ってみます」

 

「そっか」

 

「ですが、ゼディが一緒に来てほしい日は言ってください」

 

「うん」

 

兄で、友達。

その言葉を覚えているらしい。

 

俺は笑おうとした。

……上手く笑えなかった気がする。

 

部屋へ戻り、先生の手帳を開く。

井戸の絵。

短い説明。

その下の空白。

 

緑の髪。

泥。

笑い声。

水飛沫。

走った自分。

 

書こうとして、やめた。

何と書けばいいか分からなかった。

 

『虐められていた子を助けた』

 

違う気がする。

俺は水を飛ばしただけだ。

三人を追い払った後、その子へ何も言わずに逃げた。

 

先生なら、ルディならどうしただろうか。

きっと先に声を掛ける。

怪我を見て、必要なら治す。

家まで送るか、大人を呼ぶ。

 

俺がしたのは、途中までだった。

途中どころか、最初だけかもしれない。

 

止めなければと思った気持ちは、嘘ではない。

それでも、最後まで助けられなかった。

 

あの子は、無事に家へ帰れただろうか。

また、あの三人に会わないだろうか。

 

考えても分からない。

分からないなら、確かめるしかない。

 

俺は空白の頁を閉じた。

 

明日、もう一度あの場所へ行く。

もし会えたら、今度こそ声を掛ける。

水を浴びせたことを謝る。

 

そう決めた。

だが翌日は、父様の仕事を手伝うことになった。

村の北側で柵が壊れ、魔物が入り込まないよう直す必要があった。

 

その次の日は雨が降った。

雨が上がった後に、一度だけ林へ向かった。

けれど、あの子はいなかった。

 

薬草を探す大人とすれ違う日もあれば、誰にも会わない日もあった。

 

……もう来ないのかもしれない。

無事に家へ帰り、別の場所で過ごしているなら、その方がいい。

 

それでも、せめて謝りたかった。

そうして最初の水飛沫から、七日が過ぎた。

 

 

あの日と同じ道を歩く。

井戸を通り過ぎ、黄色い花の咲く畑を曲がり、小さな林へ向かう。

 

今日は寄り道ではない。

最初から、あの場所が目的だった。

 

家を出る時、父様には林の手前まで行くと伝えた。

嘘は言っていない。

あの開けた場所は、林へ少し入ったところにある。

 

森へ入るなとは言われたが、村の家が見える林までは禁止されてはいなかったはずだ。

……たぶん。

 

怒られた時には、そう説明しよう。

 

ロッドは持ってきた。

木剣もある。

けれど今日は、どちらも使わずに済ませたかった。

 

声を掛ける。

名前を聞く。

謝る。

必要なら、家まで送る。

 

頭の中で順番を決めてきた。

先生は、できないことを一度に全部しようとしなくていいと言った。

ルディも、水球を最初から完璧に保つ必要はないと教えてくれた。

 

人と話すことも、同じなのかもしれない。

まず一言。

 

その後は、相手の返事を聞いてから考える。

そう思えば、少しだけ簡単に感じた。

 

林へ近づく。

また、声が聞こえた。

笑い声。

 

あの日と同じ声だった。

胸が嫌な音を立てる。

 

足を速める。

木の陰から覗くと、同じ三人がいた。

緑の髪の子もいる。

 

前よりひどかった。

地面へ座り込んではいない。

三人に囲まれ、木の幹へ背中をつけている。

 

逃げ道を塞がれていた。

ふと、数日前に頭を駆け抜けたものがまた頭に過ぎる……。

 

門の前、学校の門の前だろうか。

同じ服は制服で……。

 

なぜ俺はそんなことを知っているのか。

この記憶は誰の記憶なのだろうか。

 

もう少しで唯一俯いている一人の顔がわかりそう、というところで、またその記憶は霧のように消える。

 

頬には泥がつき、手に持っていたらしい小さな籠が地面へ落ちている。

 

「お前が魔術を使ったんだろ」

 

「それか、仲間を呼んだんだろ」

 

「やっぱり魔族じゃないか」

 

一人が肩を押した。

緑の髪の子が幹へぶつかる。

 

俺が水を飛ばしたせいだ。

三人は術者を見つけられず、この子の仕業だと思った。

追い払ったつもりが、理由を増やした。

 

今度こそ出る。

俺がやったと言う。

魔族でも、呪いでもない。

ただの水魔術だと。

 

木の陰から足を出しかけた時、別の声がした。

 

「三人で一人を囲むなんて、随分と格好悪いですね」

 

聞き慣れた声だった。

三人が振り返る。

 

俺も木の陰から、声の主を見る。

 

ルディが立っていた。

黒い手袋。

赤い魔石のロッド。

首元には、先生からもらった緑色のペンダントが見える。

 

……どうしてここにいる。

 

最初の水飛沫の日には、次は六十歩まで行くと言っていた。

林までは、六十歩では着かない。

けれど、この七日で距離をかなり伸ばしたのだろう。

 

ルディの片手には、植物の辞典から写したらしい紙があった。

足元には、紙に描かれたものと似た葉が生えている。

植物を探しながら歩き、ここまで来たらしい。

 

「なんだ、お前」

 

一番緑の髪の子に強く当たっていた子が言った。

 

「そいつの仲間か?」

 

「違います」

 

ルディは答えた。

声は丁寧だった。

だが、身体は固くなっていた。

 

黒い手袋の指が、ロッドを強く握っている。

肩が僅かに震えていた。

 

三人の笑い声。

自分へ向けられた視線。

卒業試験の日に、ルディが怖いと言ったものだ。

 

ここには先生がいない。

俺も、ルディからは見えない場所にいる。

帰ろうと思えば、帰れる。

 

三人はまだ、ルディではなく緑の髪の子を囲んでいる。

見なかったことにもできる。

 

ルディの足が、半歩だけ後ろへ動いた。

俺は名前を呼びそうになった。

 

一人ではないと伝えたかった。

けれど声を出せば、俺がいるから進めたことになる。

 

ルディは今、一人でここまで来た。

進むか、戻るか、自分で決めようとしている。

俺は口を閉じた。

 

「だったら、関係ないだろ」

 

子供が泥の塊を拾った。

 

「そいつ、緑の髪なんだぞ。スペルド族と同じだ」

 

「額に宝石はありません」

 

ルディが言った。

 

「槍も持っていない。そもそも、本当にスペルド族だったとしても、三人で泥を投げていい理由にはならないでしょう」

 

先生から聞いた話を、ルディも覚えていた。

子供たちが顔を見合わせる。

言い返されると思っていなかったらしい。

 

やがて、一人がルディへ泥を投げた。

 

「うるさい!」

 

泥が飛ぶ。

ルディは避けなかった。

 

代わりに、ロッドを僅かに上げた。

詠唱はない。

 

一つの水球が生まれる。

俺があの日作ったものより、ずっと小さい。

丸い。

表面がほとんど揺れていない。

 

水球は泥の塊へ正面からぶつかった。

空中で泥だけを砕き、水と一緒に地面へ落とす。

 

さらに二つ。

一つは、子供の手から次の泥を弾いた。

もう一つは、三人の足元へ着弾した。

 

土が濡れ、靴が滑る。

 

誰にも直接は当たっていない。

俺の水とは違う。

 

広げてまとめて押すのではなく、必要な場所へ必要な分だけ飛ばす。

ルディの水だった。

 

「次は、もう少し大きくします」

 

ルディの前へ、新しい水球が浮かぶ。

三人の頭を合わせたくらいの大きさ。

もちろん、脅しだ。

 

本当に人へ当てるつもりはないと思う。

けれど三人には分からない。

 

「こいつも魔族だ!魔族の仲間は魔族だ!」

 

「騎士のところの奴だぞ!」

 

「逃げろ!」

 

三人は散らばるように走り去った。

ルディは追わなかった。

 

大きな水球を、その場で静かに崩す。

水が地面へ落ちる。

 

それから、長く息を吐いた。

 

黒い手袋をはめた手が震えている。

魔術を使ったせいではない。

怖かったのだ。

怖くても、戻らなかった。

 

……俺はあの日、水を飛ばした後で逃げた。

ルディは今、緑の髪の子へ近づいた。

 

「大丈夫?」

 

ゆっくり声を掛ける。

緑の髪の子は、すぐに答えなかった。

 

ルディを見る。

その手にあるロッドを見る。

地面へ落ちた水を見る。

 

「また……」

 

小さく呟いた。

 

「何?」

 

「う、ううん……」

 

緑の髪の子は首を横へ振った。

たぶん、最初の水飛沫のことだ。

また水魔術に助けられた。

そう言おうとした。

 

ルディはそれを知らない。

俺は木の陰から出られない。

 

「ちょっと、そこに屈んでくれる?」

 

「えっ?」

 

緑の髪の子が戸惑いながら腰を落とす。

ルディは手のひらへ温かな湯を作り、泥のついた髪と頬へ少しずつ流した。

 

汚れが落ちると、今度は弱い風を起こす。

濡れた髪がふわりと揺れ、鮮やかな緑色を取り戻していった。

 

……俺のできなかったことを、ルディはすぐにこなしてしまう。

 

「服は家で乾かしてね」

 

「う、うん……」

 

ルディが、ようやく少し笑った。

良い子の仮面を被った笑い方ではない。

安心して、自然に出た笑顔だった。

 

「僕はルーデウス。普段はルディって呼ばれてる。君の名前は?」

 

胸へ手を当て、名乗る。

緑の髪の子は戸惑いながら口を開いた。

 

「シル……フ……」

 

ざあっ、と木々を揺らす強い風が吹いた。

 

最後の音が風に攫われる。

 

「シルフ?」

 

緑の髪の子は何か言い直しかけた後、小さく頷いた。

 

「うん」

 

「いい名前じゃないか。まるで風の精霊みたいだ」

 

シルフと呼ばれたその子も、少し嬉しそうに笑った。

 

「シルフ」

 

ルディが確かめるように呼ぶ。

 

「ルディ……」

 

緑の髪の子──シルフも、確かめるように返した。

 

シルフ。

 

初めて名前を知った。

 

あの日に聞けばよかった名前を、ルディが先に聞いた。

 

「その籠は?」

 

ルディが地面へ落ちた籠を拾う。

 

蓋は外れていたが、中身は布に包まれていて無事だった。

 

「お父さんのお弁当……届けないといけなかったの」

 

「なるほど。お手伝いの途中だったのか」

 

ルディの声から、少しずつ震えが消えていく。

 

シルフも最初は途切れ途切れに、やがて少しずつ自分のことを話した。

 

父親は半分だけ長耳族(エルフ)で、母親には少しだけ獣族の血が混じっているらしい。

つまり、スペルド族ではない。

 

だが、スペルド族であろうとなかろうと、見た目だけで相手を決めつけてはいけない。

俺は改めてそう思った。

 

そう考えている間にも、二人の話は進んでいた。

 

ルディが服の端を握る。

何か言いたそうにして、二度ほど口を閉じた。

それから、意を決したようにシルフを見た。

 

「シルフ。僕と友達になってくれない?」

 

「友達?」

 

「うん」

 

「緑の髪でも?」

 

ルディの顔が強張った。

怒ったのかと思った。

だが、すぐに首を横へ振る。

 

「髪の色なんて、友達になるのに関係ないだろ」

 

シルフが顔を上げる。

 

「怖くないの?」

 

「僕の先生も魔族だった」

 

ルディは首のペンダントを見せた。

三本の槍を組み合わせたような、ミグルド族のお守り。

 

「先生は、知らない相手を最初から怖がるんじゃなくて、まず話すために使えって、これをくれたんだ」

 

先生が言ったのは、そこまで直接的な言葉ではなかったと思う。

けれど意味は同じだ。

ルディは先生から受け取ったものを、もう自分の言葉にしていた。

 

その言葉の甲斐もあり、シルフの表情が、僅かに緩んだ。

 

「僕には、家族以外に友達がいないんだ。今日会ったばかりだけど……嫌じゃなければ、友達になってほしい」

 

ルディも外の友達に憧れがあったのかもしれない。

これまで、外は怖いとずっと思っていたし、ルディから誰かに心を開くということはこれまでに家族やロキシー先生を除いてなかったので、本当に勇気がいることだったのだろう。

 

過去のトラウマというものはなかなか消えないものだ。

……いや、トラウマや後悔といったものは一生消えてくれない。忘れられない。

ただ、それをどう乗り越えるか。

乗り越えた時、人は強くなるのだろう。

 

今日までのルディのように。

 

俺はまたそんなことを考えていた。

今日は考え込むことが多い。

 

シルフはルディの一言に大きく目を瞬いた。

それから、今日初めて見るくらい大きく笑った。

 

「うん。ぼくも、友達になりたい」

 

ルディの口が少し開く。

すぐに笑顔になった。

 

ルディが手を差し出す。

黒い手袋。

卒業試験の日、俺が差し出したのと同じ形。

 

あの時、ルディは握るまで長く迷った。

今度は、待つ側になっていた。

 

シルフは差し出された手を見る。

何度か指を動かし、やがて小さな手を重ねた。

 

ルディは強く引かなかった。

シルフが立ち上がるのに合わせ、ゆっくり支えた。

 

「あの……」

 

「何?」

 

「ルディは、どうして助けてくれたの?」

 

ルディが黙った。

一瞬だけ、遠くを見るような目をする。

 

「三人に囲まれて、笑われるのは……嫌だと思ったからかな。あとは、父様に弱い人のことは守るように言われてるから」

 

自分が嫌だったから。

それが真っ先に出た答えだ。

俺には、それで十分どころか、すごく立派に聞こえた。

 

シルフは、つないだ手を少しだけ強く握った。

二人が歩き出す。

 

ルディは、弁当を届ける場所か、もしくはシルフの家まで一緒に行くつもりらしい。

 

俺は木の陰へ残った。

今なら出られる。

 

ルディへ声を掛け、俺も一緒に行けばいい。

シルフへ、最初の水は俺だと話せる。

 

謝るために来た。

そのはずだった。

けれど二人の間へ入ることが、なぜかできなかった。

 

ルディは一人でここまで来た。

一人で怖さを抱え、シルフの前へ出た。

そして俺にはできなかったことをした。

 

水を飛ばした後も残った。

泥を落としてあげた。

名前を聞いた。

手を差し出した。

 

今ここで俺が出れば、その全部へ自分も加わろうとしているように思えた。

 

あの日に逃げたくせに──。

それは違う気がした。

 

二人の背中が、林の外へ消える。

俺は少し待ってから、別の道を通って少し遠回り気味に家へ戻った。

 

 

門を越えると、ルディの姿はまだなかった。

 

そこそこ遠回りな道を通った気がしたが、ルディのことだ。

おそらく、あの後シルフを父親の仕事場が見えるところまで送って、さらに家にまで送ったと見える。

 

この村自体は膨大に広いというわけではない。

ただ、子供の俺たちにとってはものすごく広いのだ。

外の世界は広い。少し歩いただけでは目的の場所には着かないほどには広いのだ。

俺はなぜか、世界が広いということを改めて思い知らされた。

 

家の中から母様の声がした。

 

「ゼディ、おかえりなさい」

 

「ただいま」

 

「ルディとは別々だったのね」

 

「うん。まだ帰ってないんだね」

 

知らないふりをした。

少しして、門の向こうに黒い手袋が見えた。

ルディが一人で戻ってくる。

 

歩く速さはいつもより少しだけ速い。

門を越えた瞬間、肩から力が抜けた。

 

「ただいま帰りました」

 

「おかえりなさい、ルディ」

 

母様が迎える。

ルディは俺を見ると、すぐに口を開いた。

 

「ゼディ。友達ができました」

 

「そうなの?」

 

初めて聞いたように返した。

 

「はい。シルフという子です」

 

言葉は落ち着いている。

けれど、口元を抑えきれていなかった。

嬉しいらしい。

 

「どんな子なの?」

 

俺が聞く。

 

「僕たちと同じくらいの歳の男の子です。緑の髪で、少し耳が尖っています」

 

ルディは、シルフを男の子だと思っているらしい。

短い髪と服装を見て、そう思ったのだろう。

 

俺は最初見た時、女の子みたいに可愛らしかったから女の子かと思ったのだけれど……友達になったというのだからそうなのだろう。

何も訂正しなかった。

 

「林で会ったの?」

 

「どうして分かったんですか?」

 

「ルディ、葉っぱを探しに行くって言ってたから」

 

嘘ではない。

実際、聞いていたことを少しだけ言っただけだ。

 

今日だけで何度目だろう。嘘をつくのが少しだけ上手くなったかもしれない。

まるでこの前までのルディみたいだ。

 

「探していた植物も見つかりました。でも、その近くで三人の子供がシルフを囲んでいたんです」

 

ルディは、そこで一度言葉を止めた。

黒い手袋が服の端を握る。

 

「魔術を使いました」

 

母様とリーリャが同時にこちらを見た。

 

「人へ当てたの?」

 

母様が聞く。

 

「いいえ。飛んできた泥と、手元と足元です」

 

「旦那様からは、人へ向けて使わないよう言われていたはずです」

 

リーリャの声は静かだった。

 

「はい」

 

「詳しいことは、旦那様がお戻りになってから伺います」

 

「……はい」

 

ルディが俯く。

 

俺も同じ決まりを破った。

ルディより大きな水を飛ばし、関係のないシルフまで濡らした。

それなのに、俺へ向けられる声はない。

 

誰も知らないからだ。

 

言えばいい。

今なら、まだ言える。

 

「リーリャ、俺も──」

 

「シルフは、お父さんへお弁当を届ける途中だったそうです」

 

ルディの声と重なった。

俺の言葉は、また喉へ戻った。

 

「無事に届けられたの?」

 

「はい。お父さんの仕事場が見えるところまで一緒に行きました。その後は、シルフの家まで送りました」

 

「そう。付き添ってあげたのね」

 

母様が微笑む。

 

俺ができなかったこと。

止めた後に残り、泥を落とす。

名前を聞く。

必要な場所まで送る。

 

一つずつ並べるほど、俺のしたことが最初の一つだけだったと分かる。

それでも、その最初の一つがなければ、もっとひどいことになっていたかもしれない。

 

良かったのか、悪かったのか。

どちらか一つではないのだろう。

 

 

父様が戻った後、俺たちは居間へ呼ばれた。

 

ルディは、林で起きたことをもう一度最初から話した。

 

三人に囲まれていたこと。

泥を投げられていたこと。

自分も泥を投げられたこと。

水球を使い、追い払ったこと。

シルフという友達ができたこと。

 

最後だけ、少し嬉しそうだった。

父様は腕を組み、最後まで口を挟まずに聞いた。

きっと、昔の父様だったら何も聞かずに魔術を人へ使った、とか、シルフを虐めていた子供たちの親から報告があれば何も聞かずに怒っただろう。

 

最近の父様は、ロキシー先生や俺、そしてルディがまずは待つという姿勢をとり始めてから、それを見ていた父様も変わったように感じる。

 

「ルディ」

 

「はい」

 

「まず、助けようとしたことは悪くない」

 

ルディが少し顔を上げる。

 

「だが、自分一人で三人を相手にした。相手が泥だけでなく、刃物や棒を持っていた可能性もある。近くに大人がいるなら、呼ぶ手もあった」

 

「はい」

 

「魔術を使うなと言ったのも、使えば絶対に悪いからじゃない。お前たちの魔術は、使い方を間違えれば大人だって殺せるからだ」

 

父様はルディの前へしゃがむ。

 

「どこへ、どれくらいの力で当てれば、何が起きるか。考えたか?」

 

「人には当てず、泥と手元と足元を狙いました。最後の大きな水球は、脅すだけのつもりでした」

 

「もし、逃げなかったら?」

 

「……大人を呼びます」

 

「そうしろ。勝てそうだから戦うんじゃない。戦わずに止められるなら、その方がいい」

 

先生と似たことを言う。

父様は剣士だ。

魔物や盗賊とも戦う。

それでも、戦うことを最初には選ばなかった。

 

俺はあの日の自分を思い出す。

止めるために魔術を使った。

それしかないと思った。

 

本当に、他に方法はなかっただろうか。

遠くから大人を呼ぶ。

姿を見せ、父様の名前を出す。

大きな水球を空へ浮かべ、当てずに脅す。

 

今ならいくつも思いつく。

あの時には、思いつかなかった。

 

「それから」

 

父様が続ける。

 

「よく怖いのに、戻らなかったな」

 

ルディが目を見開いた。

 

「どうして……」

 

「お前が外を怖がっていたことくらい、俺にも分かる」

 

全部は知らない。

卒業試験の前に話した内容も、俺と先生は家族へ伝えていない。

 

それでも父様は、ルディが門の外へ出るたび緊張していることへ気付いていた。

 

「怖くなくなったわけじゃないんだろ?」

 

「……はい」

 

「なら、それでも誰かのために止まれたのは立派だ」

 

父様の手が、ルディの頭へ置かれた。

乱暴に撫でる。

 

ルディは困った顔をしながら、逃げなかった。

俺はその場へいづらくなり、少し離れた椅子へ座った。

 

自分も言えばいい。

あの日、同じ三人へ魔術を使った。

姿を隠し、水を当て、逃げた。

 

父様なら、きっと叱る。

その後で、何が他にできたか一緒に考えてくれる。

 

分かっている。

それでも言えなかった。

 

ルディが褒められた直後だからではない。

今さら自分も助けたと言い出し、父様の手を欲しがっているように思えた。

 

違う。

そうではない。

けれど、では何のために話すのかと聞かれると、答えが出なかった。

 

「その三人については、明日、俺が話を聞く」

 

父様が言った。

 

「村の子供なら、顔を見れば分かるだろう。相手の家にも話しておく」

 

「お願いします」

 

ルディが頭を下げる。

 

俺が初めから父様へ話していれば、二度目の虐めは起きなかったかもしれない。

 

また一つ、自分が逃げた結果を知った。

 

 

その夜。

灯りを消してからも、ルディはなかなか眠らなかった。

 

寝返りを打つ音が何度もする。

 

「ゼディ」

 

「起きてる」

 

「友達ができました」

 

「知ってるよ」

 

「家族ではない友達です」

 

「俺も友達でしょ」

 

「ゼディは弟が先行するからなあ…」

 

「兄で友達ってルディも言ってたよ」

 

「それとこれは別です」

 

何が別なのか分からない。

けれど、言いたいことは何となく分かった。

 

俺たちは生まれた時から隣にいた。

選ぶ前から兄弟だった。

 

シルフには、ルディが自分から声を掛けた。

友達になってほしいと頼み、シルフも自分で選んだ。

それが嬉しいのだろう。

 

「明日も会うの?」

 

「はい。同じ林で待ち合わせをしました」

 

「俺も行っていい?」

 

言ってから、胸が苦しくなった。

顔を合わせたい。

今度こそ謝りたい。

でも、最初の水のことを聞かれたくない。

 

また二つの気持ちが同時にある。

 

「僕は構いません。でも、シルフにも聞いてください」

 

「うん」

 

少し間が空いた。

 

「ゼディ」

 

「なに?」

 

「今日、何か言おうとしていませんでしたか?」

 

気付いていた。

 

「……まだ、上手く言えない」

 

「そうですか」

 

「聞かないの?」

 

「言えるようになったら、ゼディから言うでしょう」

 

ルディは、それ以上聞かなかった。

俺がいつもしてきたことを、今度はルディが返した。

 

扉の前で待つ。

無理に開けない。

 

「うん。言えるようになったら言う」

 

「待っています」

 

やがて、隣から寝息が聞こえ始めた。

俺は目を閉じる。

 

明日は木の陰ではない。

正面からシルフと顔を合わせる。

 

それでも最初の水のことは、まだ言えそうになかった。

 

 

翌朝。

ルディは朝食を食べ終えると、すぐに出掛ける準備をした。

 

黒い手袋。

赤い魔石のロッド。

魔術教本と、文字を練習するための板。

 

「ずいぶん持っていくね」

 

「シルフが魔術に興味を持った時のためです」

 

「興味を持たなかったら?」

 

「本を一緒に読みます」

 

「文字が読めなかったら?」

 

「僕が教えます」

 

全部考えていたらしい。

玄関を出る。

 

ルディは門の前で一度止まった。

昨日、林まで行けたからといって、今日も平気になるわけではない。

 

門の向こうには村の道がある。

人と会うかもしれない。

笑い声が聞こえるかもしれない。

 

黒い手袋の指が、ロッドを握り直した。

 

「手、いる?」

 

俺が聞く。

ルディは少し考え、首を横へ振った。

 

「今日は大丈夫です」

 

一歩。

自分たちの足で門を越える。

 

怖くなくなったのではない。

林で待っている友達へ会いたい気持ちが、怖さと一緒に歩けるようにしてくれたのだろう。

 

俺も隣へ並んだ。

林の開けた場所には、シルフが先に来ていた。

 

昨日と同じ服。

今日は泥で汚れていない。

俺たちを見ると、小さく手を上げた。

 

「おはよう、ルディ」

 

「おはよう、シルフ」

 

ルディの返事は昨日より自然だった。

シルフの視線が、俺へ移る。

 

目を大きくする。

次にルディを見る。

もう一度、俺を見る。

 

「ふたり……?」

 

「双子なんだ。こっちは弟のゼディウス。ゼディって呼んでる」

 

「ゼディウス・グレイラットです」

 

シルフの顔を正面から見るのは初めてだった。

 

赤みを帯びた瞳。

短い緑の髪。

あの日、水を浴びせた時には見なかった顔。

 

シルフは、俺の顔とロッドを交互に見た。

それから少しだけ首を傾げる。

 

俺たちは背丈も髪の色も似ている。

先生からもらったロッドも同じ形だ。

 

走り去る背中しか見ていないなら、何か引っかかっても答えまでは出ないはずだ。

 

「ゼディ」

 

名前を呼ばれた。

あの日、背後から聞こえた「あ」という声を思い出す。

 

胸の奥が、また痛くなった。

 

「昨日は……」

 

謝りたい。

最初の水は俺だと話したい。

そこまで出かかった言葉を、また飲み込んだ。

 

「ルディと友達になってくれて、ありがとう」

 

シルフは不思議そうに瞬いた後、笑った。

 

「うん」

 

「ゼディも友達になればいいだろ?」

 

ルディが言う。

簡単に言う。

シルフも次の言葉を待っているようだった。

 

俺はあの日、声も掛けられなかった。

昨日も木の陰から見ていた。

それで友達だと言うのは、違う気がする。

 

「まず、一緒に遊んでから」

 

そう答えた。

シルフは少し不思議そうにした後、頷いた。

 

「分かった」

 

 

ルディが持ってきた魔術教本を開いたのは、そのすぐ後だった。

 

「シルフは、魔術に興味がある?」

 

「うん。昨日の水、すごかった」

 

「使ってみたい?」

 

「ぼくにも使える?」

 

「やってみないと分からない。でも、最初からできないって決める必要はないさ。やりたいなら、やってみたらいい」

 

先生の言葉。

ルディはもう、自分が教わったものを次へ渡そうとしていた。

 

「まず、魔術について説明するね」

 

魔力。

詠唱。

属性。

 

初級から神級までの階級。

三歳の頃、魔術教本から覚えたこと。

二年間で先生から教わったこと。

 

時々、五歳の子供へ話すには難しい言葉が混ざった。

シルフは分からなくても、最後まで聞いていた。

 

「一度に全部覚えなくていいよ。今日は水を作るところまで試そう」

 

「水を飛ばすの?」

 

「最初から飛ばさなくていい」

 

ルディが片手を上げる。

詠唱せず、小さな水球を作る。

透明な球が、手のひらの上へ浮かんだ。

 

「すごい……」

 

シルフが身を乗り出す。

 

「まず作る。次に形を保つ。その後で動かす。分けて覚えてもいいんだ」

 

俺に教えた時と、少し違う。

あの時の俺は、作ることまではできていた。

 

シルフは、魔力を感じるところから始める。

相手に合わせ、説明を変えている。

 

先生が俺たちへしたことを、ルディも自然に行っていた。

 

「ルディは、何も言わなくても使えるの?」

 

「うん。でも、最初は詠唱した方が分かりやすいと思う」

 

魔術教本の初級水魔術の頁を見せる。

シルフは文字を見て、困った顔をした。

 

「読めない……」

 

「じゃあ、僕が読むよ。同じように言ってみて」

 

「うん」

 

「文字も少しずつ教える。本を読めると、自分でわからないことも調べられるからね」

 

魔術だけではない。

読み書きまで教えるつもりらしい。

 

先生がいなくなって、まだ二週間も経っていない。

ルディはもう、自分の生徒を見つけた。

 

「右手を出して」

 

シルフが手を出す。

ルディは、そのすぐ横へ立った。

 

触れそうになってから、一度手を引く。

 

「手首を支えてもいい?」

 

「うん」

 

許可を得てから、そっと支えた。

 

「今から一節ずつ読むから、同じように繰り返して」

 

ルディが読み、シルフが続く。

 

最初は声が小さい。

二度目は少し大きくなる。

 

言葉が最後までつながった。

 

何も起きない。

シルフの顔が曇る。

 

「失敗?」

 

「まだ一度目だよ」

 

ルディはすぐ答えた。

 

「先生は、努力する前に自分の限界を決めるなって言ってた。もう一度やろう。今度は、手のひらに水が集まるところを考えて」

 

「水……」

 

「冷たさでも、重さでもいい。シルフが一番想像しやすいもので」

 

二度目の詠唱。

最後の言葉と同時に、シルフの手の上で空気が揺れた。

 

ほんの少し、朝露を集めたくらいの水が生まれる。

丸くはない。

手のひらへ落ち、指の間から零れた。

 

「できた……?」

 

「できたよ!」

 

ルディの声が大きくなる。

シルフより喜んでいる。

 

「今、何を考えた?」

 

「雨かな。いや、雨だったのかな……。髪から、水が落ちた時の……」

 

あの日の水か。

俺が浴びせた水。

胸が縮む。

 

「それを覚えておいて。次は水を一か所へ集めよう」

 

ルディは何も知らず、授業を続ける。

 

三度目。

今度は小さな水球になった。

歪みながらも、手の上へ浮かんでいる。

 

シルフの目が輝いた。

ルディも笑った。

 

「シルフには、魔術の才能があるよ」

 

「ほんと?」

 

「うん。初めてで水を形にできる人は、そう多くないはずだ」

 

先生の受け売りだろう。

それでも、シルフには十分だった。

 

自分を虐める理由にされてきた髪ではなく、自分ができたことを見て褒められた。

頬が赤くなり、嬉しそうに笑う。

その笑顔は、ルディへ向いていた。

 

「もう一回やっていい?」

 

「もちろん。でも、気分が悪くなったらすぐ言って」

 

「うん、先生」

 

ルディが固まる。

 

「先生……」

 

「嫌だった?」

 

「ううん。もう一度言って」

 

口元を隠す。

嬉しいらしい。

 

「ルディ先生」

 

「うん」

 

今度はすぐ返事をした。

俺は笑った。

 

「何ですか、ゼディ」

 

「別に。先生みたいだと思って」

 

「先生ですよ」

 

俺へ向ける時だけ、いつもの丁寧な言葉へ戻る。

 

シルフがもう一度詠唱する。

 

水球が少し大きくなった。

維持しようとして、形が揺れる。

水が横へ崩れた。

 

ルディとシルフの足元へ落ちそうになる。

俺は反射的にロッドを向けて詠唱する。

 

風を起こす。

崩れた水を横から受け、草地の端へ押し流した。

ばしゃり、と地面が濡れる。

あの日より、ずっと小さな音。

 

それでもシルフの肩が跳ねた。

俺を見る。

正確には、俺のロッドと、水を押し流した風を見ていた。

 

「ごめん。濡れそうだったから」

 

「う、うん。ありがとう」

 

シルフは答えた。

けれど、しばらく草地の端へ流れた水を見ていた。

 

何かが引っかかったような顔だった。

 

「今のはゼディのやり方だよ」

 

ルディが言う。

 

「僕なら、水をもう一度まとめる。ゼディは風で先に動かすんだ」

 

「違うの?」

 

「得意なものが違うからね」

 

「同じ魔術なのに?」

 

「同じ結果でも、そこへ行く方法は一つじゃないんだ」

 

先生の言葉。

 

シルフは俺とルディを見比べた。

 

「魔術って、面白いね」

 

「うん」

 

ルディが嬉しそうに頷く。

 

シルフの中へ残った小さな引っかかりは、魔術への興味に紛れたようだった。

 

この時は、まだ。

 

 

それから、晴れている日は毎日のように三人で会った。

 

会う場所は、門の外の草地か、最初に出会った林の開けた場所だった。

シルフが家の中へ入ることは、まだ一度もなかった。

 

午前はルディと文字を覚え、魔術を練習する。

 

最初は水球を作る。

次に、形を保つこと。

少しだけ動かすこと。

 

失敗すればルディが理由を考え、できれば自分のことのように喜んだ。

 

午後、俺とルディが剣術をする時には、シルフは少し離れた場所から見ていた。

 

時々、木の枝を剣の代わりにして、俺の真似もした。

けれど魔術の時間になると、必ずルディの隣へ戻った。

 

分からないことがあれば、最初にルディへ聞く。

できた時も、最初にルディの顔を見る。

 

ルディはシルフにとって、最初の友達になったのだ。

同時に、初めて魔術を教えてくれた先生になった。

 

俺とは、まだ友達になる途中だった。

挨拶はする。

三人で本だって読む。

木剣を持つ時は、握り方を教える。

けど、それくらいだ。

 

俺がシルフを避けていたわけではない。

シルフも俺を嫌ってはいなかったと思う。

ただ、俺の中には最初の水が残っていた。

 

正面から笑われるたび、まだ名乗っていない自分を思い出した。

 

ある日、ルディが別の魔術教本を取りに家へ戻った。

門の外には、俺とシルフだけが残った。

 

気まずい沈黙が続く。

シルフが、先に口を開いた。

 

「ゼディ」

 

「なに?」

 

「ルディは、すごいね」

 

「うん。魔術なら、俺より上手い」

 

「二回も、助けてくれた」

 

胸が止まったような気がした。

 

「二回?」

 

「この前の前にも、同じところで虐められたの」

 

シルフは林の方を見る。

 

「急に水が飛んできて、あの子たちを追い払ってくれた」

 

「その人の顔は見た?」

 

「ううん。走っていくところだけ」

 

「じゃあ、どうしてルディだと思うの?」

 

「同じくらいの背で、茶色い髪だった。杖も持ってたし……ルディは水の魔術が上手だから」

 

確かに、そう思う。

 

俺たちは双子。

背丈も髪も似ている。

先生からもらったロッドは同じ形だ。

顔を見ず、背中だけなら、見分けられなくてもおかしくない。

 

「でも、少し違った」

 

シルフが付け加える。

 

「何が?」

 

「分からない。最初の水は、もっと広くて……風も一緒に来た」

 

シルフの魔術の勘は、俺が思っていたより鋭かった。

 

まだ初級魔術を覚え始めたばかりなのに、水だけではなかったことを感じている。

 

「ルディも、ああいう使い方をするのかなって」

 

「……するかもしれないね」

 

嘘ではない。

ルディも風魔術を使える。

ただ、あの場で使ったのは俺だ。

 

「本人には聞いた?」

 

シルフは首を横へ振った。

 

「違ったら、恥ずかしいから」

 

「そっか」

 

「でも、たぶんルディだと思う」

 

信じたいような声だった。

最初の水の正体より、今ここで教えてくれるルディを見ている。

 

それなら、今すぐ俺が訂正する必要はない。

また、そうやって逃げる理由を作った。

 

「何の話をしてたの?」

 

魔術教本を持ったルディが戻ってくる。

 

「ルディがすごいって話」

 

シルフが答えた。

 

「そうなんだ」

 

ルディは平静を装った。

耳が赤い。

 

俺は少し笑った。

今度は、上手く笑えた気がする。

 

 

その夜、先生の手帳を開いた。

 

井戸の記録の下。

空白だった場所へ、ようやく文字を書く。

 

『井戸から東の林。緑の髪のシルフが、三人に虐められていた』

 

一度、手を止める。

それから続けた。

 

『水を飛ばして止めた。シルフまで濡らした。声を掛けられず、逃げた』

 

格好悪い。

旅の記録として必要なのかも分からない。

 

それでも、見たものだけではなく、自分がしたことも書いた。

書けば、なかったことにはできない。

 

『七日後、ルディがシルフを助けた。泥を落とし、名前を聞いて、友達になった』

 

最後に、もう一行。

 

『俺は、まだ最初の水が自分だと言っていない』

 

文字にすると、自分が何を言えずにいるのか、少しだけ分かった。

 

俺は、魔術を使ったことを怒られるのが怖いのではない。

シルフへ嫌われるのが怖いだけでもない。

助けた人になりたい。

 

けれど、あの日、自分がシルフを助けた人と呼ぶことができない。

助けられていない。

 

水を飛ばした後で逃げたことを、知られたくない。

それでも、いつかは話さなければならない。

シルフは水と一緒に来た風を覚えていた。

 

俺とルディの魔術が違うことにも、もう気付き始めている。

魔術を覚えるほど、その違いははっきり見えるようになるだろう。

 

その時までに、自分から言えるだろうか。

分からない。

 

今の俺は、まだ五歳だ。

分からない気持ちも、言えないこともある。

だから今日は、手帳へ書くところまでにした。

 

頁を閉じる。

 

隣のベッドでは、ルディが眠っている。

明日もシルフと会う。

ルディは文字と魔術を教える。

シルフは、きっと今日より上手く水を作る。

俺は、その隣で剣を振り、魔術の練習もする。

 

俺が最初に見たのは、泥から頭を守るシルフの姿だった。

シルフが最初に見たのは、逃げていく俺の背中だった。

顔を見て、名前を聞き、手を差し出したのはルディだ。

 

だから、シルフにとって最初の友達はルディだった。

そしてルディにとっても、シルフは家族の外で初めて自分から作った友達だった。

 

二人の間には、俺の知らない言葉と時間が、これから積み重なっていくのだろう。

 

俺とシルフの出会いは、ルディとシルフが出会うその少し前。

水飛沫の向こう側で、顔も合わせないまま始まった。

 

最初の水に混じった風が、いつか俺のついた嘘を見つけることになる。

 

けれど、この時の俺はまだ、その日が来ることを知らなかった。

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