無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜 作:omugut
シルフと出会ってから、一年近く経った。
俺とルディはもう六歳になった。
晴れている日は、今も三人で門の外へ出る。
家の前の草地。
少し離れた林。
井戸へ続く道の途中。
その日の気分と、ルディが進める距離に合わせ、会う場所は少しずつ変わった。
ルディはもう、毎回門の前で足を止めるわけではない。
何も考えずに道へ出られる日もある。
村人へ挨拶を返し、シルフと話しながら林まで歩ける日も増えた。
けれど、できない日もあった。
笑い声が聞こえただけで、黒い手袋が固まる日。
門へ近づいたものの、外を見たまま動けなくなる日。
そういう日は、シルフが門の向こうで待った。
「今日は、ここでやる?」
急かさない。
どうして出られないのかと聞かない。
ただ、いつも使っている板と魔術教本を、門の外の道に並べる。
ルディは門の内側へ座る。
シルフは門の外側へ座る。
門を挟んだまま、文字と魔術の勉強を始める。
しばらくすると、ルディが自分から境目を越える日もあった。
最後まで越えない日もあった。
シルフは、どちらでも同じように笑った。
「ここでも、ルディ先生の声は聞こえるよ」
そう言われると、ルディは困ったように目を伏せる。
耳だけは、少し赤くなっていた。
俺は二人の少し離れたところで、剣を振る。
時々、シルフへ握り方を教える。
魔術で失敗した水がこちらへ飛んでくれば、風で逸らす。
それくらいだ。
俺とシルフも、以前よりは話すようになった。
好きな本。
村で見つけたもの。
先生から聞いた世界の話。
けれど、あの日の話だけはしなかった。
最初に飛んできた、風の混じった水。
逃げていく俺の背中。
シルフは、あれをルディの魔術だと思っている。
俺は、本当のことを知っている。
話さなければと思うたび、別の言葉が先に出た。
明日こそ。
次に二人きりになったら。
もう少し仲良くなってから。
そうやって、一年近くが過ぎた。
最初の頃、シルフは自分の名前しか書けなかった。
それも、ルディが板へ書いた文字を、見よう見まねで写すだけだった。
線が一本多くなったり、反対を向いたりする。
間違えるたび、シルフは慌てて手で消そうとした。
ルディは止めた。
「消す前に、どこが違ったか見よう」
「間違ったのに?」
「間違えたところを見直した方が、覚えやすいから。次は同じところは間違えなくなるようにできるかもしれないだろ」
先生が俺たちへしてくれたことを、ルディは少しずつ自分の教え方へ変えていた。
今では、シルフも初級魔術くらいの詠唱の長さが書かれている本なら、時間を掛けて読める。
分からない単語があればルディへ聞く。
ルディがすぐに答えられなければ、二人で辞典を開く。
俺は横から答えを言いたくなる。
何度か先に言ってしまい、二人から同時に怒られた。
「自分で見つけるところだったのに」
「ゼディ。教える時は、答えだけを渡しても意味がないんです」
「知ってたから言っただけだよ」
「それを答えと言うんです」
シルフが笑う。
二人に怒られるのは面白くない。
けれど、二人が並んで本を覗き込む姿を見るのは嫌いではなかった。
剣の時間になれば、立つ場所が変わる。
今度は俺の前へシルフが立つ。
最初は枝を振るだけだった。
両手で強く握り、腕だけで動かす。
父様に最初に教わった通り、足の置き方から直した。
「力を入れすぎると、すぐ疲れるよ」
「ゼディは、ずっと振ってるのに疲れないよ?」
「毎日やってるから」
「じゃあ、ぼくも毎日やったら同じになる?」
「たぶん。でも、ルディみたいに魔術もやるなら、両方一度に急がない方がいい」
先生に言われたことを、そのまま返した。
強さだけを急がない。
できないことを一度に全部しようとしない。
口にしてから、俺も先生の真似をしていることへ気付いた。
シルフは素直に頷いた。
「じゃあ今日は、あと十回」
「うん。数える」
十回が終われば、必ずルディのところへ戻る。
シルフにとって、魔術を教える先生はルディだ。
俺にとっても、それでよかった。
同じように魔術を使えても、教えられることは違う。
三人で過ごす時間が増えるほど、俺とシルフの間にも言葉は増えた。
それでも、友達かと聞かれた日の返事だけは宙に浮いたままだった。
まず、一緒に遊んでから。
俺はそう言った。
もう十分に遊んだはずなのに、自分から続きを言わなかった。
言えば、最初の水のことも話さなければならない気がしたからだ。
先生の手帳に書いた文字は消えていない。
『俺は、まだ最初の水が自分だと言っていない』
頁を開くたび、その一行だけが他より濃く見えた。
◇
「明日は、シルフに無詠唱を教えます」
前の晩、ルディは机へ三冊の本を並べて言った。
初級魔術の教本。
先生が置いていった授業の覚え書きがまとまった本。
俺たちが練習の結果を書き残している紙の束…これもかなりの量があるのでほんと呼んでもいいだろう。
どれにも、無詠唱魔術の教え方は載っていない。
何も言わずに術を使う方法は、ルディが自分で見つけたものだった。
俺は、なぜやろうとしなかったのか、と問われるとわからないが、無詠唱魔術は今日までやったことがなかった。
もっとも、魔術において自分の先を進むルディがいたから、俺も魔術が使えないと!という気持ちが先行して考えてもみなかったのだろう。
今日までやったことがないのだ。それなら、できるわけがない。
どうやってやるか、ルディしかわからないのだから、できない俺には当然わからないのだ。
「教えられるの?」
「分かりません」
返事が早かった。
「僕は、気付いた時にはできていました。だから、どこから説明すればいいのか……」
紙の上には、何度も書き直した跡がある。
『魔力を集める』
『完成した形を考える』
『詠唱の代わりに、頭の中で順番を作る』
その横には、小さく『人によって違うかもしれない』とも書かれていた。
「できなかったら?」
「別のやり方を探します」
「シルフが落ち込んだら?」
「一日でできなくても、才能がないわけではないと伝えます」
「ルディが落ち込んだら?」
紙をめくっていた手が止まる。
「どうして僕が落ち込むんですか」
「教えられなかったって思うかもしれないから」
「……その時は、ゼディが言ってください」
「何を?」
「最初から全部できる先生はいない、と」
先生が初めて俺たちへ授業をした時も、きっと迷っただろう。
俺とルディで覚え方が違い、予定通りにいかない日もあった。
それでも先生は、次の日には別の方法を持ってきた。
ルディは、その背中まで覚えていた。
「分かった。言うよ」
「できれば、言わずに済むようにします」
ルディはまた紙へ向かった。
明日の授業が楽しみで、同じくらい怖いらしい。
家の外で初めてできた友達に、自分が役に立てることが嬉しい。
その場所を失敗で失いたくない。
そんな気持ちが、並べた本や紙の数から見えた。
◇
その日は、朝から雲が低かった。
灰色の雲が村の上へ広がり、太陽を隠している。
風は湿っていた。
遠くの森も、いつもより暗く見える。
「今日は、家の近くにいなさい」
朝食の席で、母様が言った。
「雨になるかもしれないわ」
「空は明るいよ」
窓の向こうは曇っているが、夜のように暗いわけではない。
「こういう日は、急に降るものなの」
「ゼニスの言う通りだ」
父様も外を見る。
「森や林には行くな。出るなら門の前までだ」
「はい」
「ルディもだぞ」
「分かっています」
ルディの返事は少し早かった。
今日は、シルフへ無詠唱魔術を教えると決めていたからだ。
約束の時間になると、シルフが道の向こうから走ってきた。
片手には練習用の板。
もう片方には、俺たちが貸した魔術の本。
「おはよう、ルディ。ゼディ」
「おはよう、シルフ」
「おはよう」
シルフは空を見上げた。
「雨、降るかな」
「母様は降ると言ってた。だから今日は門の前だけ」
「分かった」
不満そうにはしなかった。
三人で、門のすぐ外の草地へ座る。
家までは走ればすぐだ。
雨が降っても、濡れる前に戻れる。
その時は、そう思っていた。
「今日は、詠唱しないで魔術を使う練習をする」
ルディが言う。
シルフの目が輝いた。
「ぼくも、ルディみたいにできる?」
「たぶん。でも、やり方は人によって違うかもしれない」
ルディは手のひらへ小さな水球を作った。
詠唱はない。
何度見ても、始まりが分からないほど静かな魔術だ。
「今までは、詠唱に合わせて水を作ってたよね」
「うん」
「今日は、言葉を使わずに同じ順番を頭の中で作ってみて。魔力を集めて、水を生み出すことを考える」
「口で言わないだけ?」
「僕は、そうやってる」
シルフが右手を出す。
目を閉じる。
ルディは隣へ座った。
「急がなくていいよ」
「うん」
風が草を揺らす。
湿った空気が頬へ触れる。
シルフの指先で、僅かに魔力が動いた。
俺にも分かる。
水魔術は、ルディほど細かく扱えない。
けれど、半年も隣で練習を見ていれば、魔力が集まる瞬間くらいは感じられる。
しかし、水は生まれなかった。
集まった魔力が、指の間から抜けるように散っていく。
シルフが目を開けた。
空の手を見る。
「失敗した?」
「まだ、途中までできた」
ルディはすぐに答えた。
「魔力が手まで来たのは分かった?」
「少しだけ。指が冷たくなるみたいだった」
「それでいい。その冷たさが消える前に、水の形を考えてみよう」
ルディが自分の水球をシルフの手の上へ浮かべる。
触れない距離。
目で大きさを比べられる距離。
「最初から丸くなくてもいいよ。雫でも、水溜まりでもいい。作りやすいものから始めよう」
「水溜まり……」
シルフが目を閉じる。
次は魔力が集まる前に、眉間へ力が入りすぎていた。
何も起きない。
「考えすぎなくていい」
「でも、考えないと作れないよ」
「全部を同時に考えなくていいんだ。詠唱の時も、最初から最後まで一度では覚えなかっただろ?」
「うん」
「魔力を手の先に持ってくる。そこまでできたら、一度そのままにする。それから水へ変える」
説明しながら、ルディは自分の指を折って順番を示した。
昨夜、何度も書き直した三つの言葉。
本に載っていなかった道を、シルフが歩ける形へ並べ直している。
三度目。
シルフは、すぐに水を作ろうとしなかった。
魔力を集め、手の中へ留める。
少し待つ。
「今」
ルディが言った。
透明な雫が一つ生まれた。
雫は二つになり、三つになり、やがて小さな球へまとまった。
詠唱はない。
「できた……」
シルフが目を開ける。
水球を見て、次にルディを見た。
「ルディ、できたよ!」
「……うん」
ルディの返事が少し遅れた。
俺は、その顔を知っている。
俺が初めて火球を作った時。
先生の術を見て、すぐに真似した時。
ルディは同じ顔をした。
自分だけができると思っていたものを、誰かもできた時の顔。
嬉しい。
すごいと思う。
それと同時に、自分の特別な場所が少し狭くなったように感じる。
二つの気持ちが、ルディの中でぶつかっているのだろう。
水球が揺れた。
シルフは、まだ返事を待っている。
ルディが一度、目を閉じた。
息を吸う。
それから、いつものように笑った。
良い子の仮面ではない。
少し悔しさが残ったままの、本当の笑顔だった。
「すごいよ、シルフ」
「ほんと?」
「うん。最初からここまで形を保てるとは思わなかった。僕の説明より、シルフの感覚が良かったんだ」
ルディは水球を指差す。
「今の感覚を忘れないで。次は、形を崩さずに動かしてみよう」
「はい、ルディ先生」
シルフが嬉しそうに返事をする。
ルディの耳が赤くなった。
さっきまでの迷いは、もう隠していない。
消えたわけではないと思う。
それでも、シルフができたことを、自分が負けたことにはしなかった。
教えたことが伝わったと、喜ぶ方を選んだ。
「ルディ」
「何ですか?」
「ちょっとだけ、悔しかった?」
ルディの笑顔が止まった。
……余計なことを言っただろうか。
シルフが、水球とルディの顔を交互に見る。
「ぼく、できない方がよかった?」
水球の形が崩れかける。
「違うよ」
ルディはすぐに両手を振った。
「できて嬉しい。本当にそう思ってる」
「じゃあ、何が悔しかったの?」
シルフに聞かれ、ルディは黙った。
誤魔化そうと思えばできたはずだ。
何でもない。
ゼディの勘違いだ。
そう言えば、シルフは信じただろう。
けれどルディは、膝の上へ置いた自分の手を見た。
「僕だけができることだと、少し思ってたんだ」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「魔術を教えられることも、詠唱しないで使えることも。僕がシルフに必要とされる理由になると思ってた」
「ルディは、必要だよ?」
「うん。でも、シルフができるようになることと、僕がいらなくなることは別だった」
自分へ言い聞かせるような声だった。
ルディは、俺が手を必要としなくなれば自分はいらなくなると思っていた。
俺が先生の術を真似するたび、自分の価値が減るように感じていた。
同じように、シルフに必要とされるかどうかを考えて日々を過ごしていたようだ。
今も、その怖さが全部消えたわけではない。
けれど、怖さを隠してシルフの成功を小さくするのではなく、自分の気持ちを言葉へ変えた。
「それに、教えた相手ができるようになったら、先生は喜んでいいんだと思う」
「じゃあ、ルディ先生は嬉しい?」
「すごく嬉しい」
今度の返事には迷いがなかった。
シルフが笑う。
崩れかけていた水球が、もう一度丸くなる。
ルディも笑った。
二人の間には、俺が知らないふりをした言葉は残らなかった。
胸の奥で、手帳の一行が少し重くなった。
「本当に、先生になったね」
「半年前から先生です」
胸を張る。
シルフが笑った。
俺も笑う。
その時、遠くで低い音が鳴った。
空が光る。
少し遅れて、腹の底へ響く音が来た。
「雷だ」
俺が立ち上がる。
最初の一滴が、手の甲へ落ちた。
大きな雫だった。
二つ。
三つ。
数える前に、空から水が落ちてきた。
雨というより、川をひっくり返したようだった。
「家へ!」
ルディが魔術教本を抱える。
シルフの手を取った。
俺も板と本を拾い、二人の後を追う。
風で雨を逸らそうとする。
だが、四方から叩きつける水を防ぎきれない。
門まで数十歩もない。
それなのに、玄関へ着いた時には三人とも全身が濡れていた。
◇
「まあ、大変!」
玄関で母様が声を上げた。
リーリャがすぐに大きな布を三枚持ってくる。
「床へ上がる前に、こちらを」
頭から布を被せられる。
髪を拭いても、服から水が落ち続けた。
「シルフちゃんも、早く中へ」
母様に呼ばれ、シルフが門の方を振り返る。
……シルフちゃん?まぁ、シルフの容姿なら女の子に見えなくもないか?
それか、こう、愛称みたいなものなのだろう。小さい子には"ちゃん"と付けて呼ぶ文化があるし。
シルフと初めて出会った時と同じような疑問を抱えながらも、俺たちは家の中に入る。
雨で村の道はほとんど見えない。
雷も続いている。
帰れる天気ではなかった。
「お邪魔、します……」
シルフが小さく頭を下げる。
シルフが家の中へ入るのは、これが初めてだった。
片足を上げたまま、どこへ置けばいいのか迷っている。
泥のついた靴で床を汚してはいけないと思ったらしい。
「そこへ脱いでいいよ」
ルディが自分の靴を先に外す。
「汚れたところは、あとで僕たちが拭けばいいから」
「坊っちゃま方やお客様に拭かせたりはいたしません」
リーリャがすぐに言った。
「ですが、ルーデウス様にはご自分が落とされた分をお願いしましょう」
「僕だけですか?」
「ゼディウス様にもです」
俺も入っていた。
「じゃあ、三人で拭こう」
シルフが言う。
「ぼくの靴からも落ちたから」
「シルフはお客なんだから、いいんだよ」
「友達の家でも、お客なの?」
ルディが言葉に詰まる。
シルフにとって、友達の家へ入るのも初めてなのかもしれない。
ルディにとっても、友達を家へ招くのは初めてだ。
二人とも、友達と客の違いを知らなかった。
「今日は初めてですから、お客様です」
リーリャが助け舟を出した。
「次にいらした時からは、皆様でお決めください」
「次も来ていいの?」
シルフが聞く。
母様が笑った。
「もちろんよ。こんな雨の日でなくても、いつでもいらっしゃい」
シルフの表情が少し明るくなる。
門の外で会うことは当たり前になっていた。
それでも、家の中へ入るには別の許可が必要だと思っていたらしい。
境目の前で止まるのは、ルディだけではなかった。
俺たちは、相手が何を怖がっているのか、聞かなければ分からない。
ーーその時は、そう考えたのに。
「お風呂は、まだ温かいはずです」
リーリャが言う。
「冷える前にお入りください」
「早めに入ってきなさい」
母様も続けた。
シルフの身体が僅かに固まる。
ルディは気付かなかった。
俺は気付いたが、濡れて寒いからだと思った。
まぁ、先のシルフちゃんはやはり愛称で、男の子同士なのだから一緒に入っても問題ないと思っているのだろう。
「行こう、シルフ」
「えっと……ぼくは、あとで」
「濡れたままだと風邪を引くよ」
「でも……」
シルフは服の裾を握る。
俺は、その顔を見た。
何かを言いたそうだった。
けれど、俺にも理由は分からない。
「ゼディ坊ちゃま」
リーリャに呼ばれる。
「先に、お二人の着替えをお持ちいただけますか。お客様へお貸しできる服も、同じ部屋にございます」
「分かった」
俺は階段へ向かう。
ルディは、まだ迷っているシルフの背を押すように浴室へ向かった。
「先に温まっていればいいから」
「ルディ、待って……」
扉が閉まる。
俺は部屋から着替えと布を集めた。
自分の分。
ルディの分。
シルフには、俺たちが少し前まで着ていた服なら合うだろう。
三人分を抱え、浴室へ戻る。
扉の前まで来た時、中から声が聞こえた。
「早く脱いだ方がいいよ」
ルディの声。
「ぼくは、本当にあとでいいから」
「駄目だよ。震えてるじゃないか」
「自分でできるから、見ないで」
「男同士なのに、何を気にしてるの?」
その言葉で、足が止まった。
男同士。
ルディは、まだそう信じている。
シルフの声が、さらに小さくなった。
「いや……」
「濡れた服が張りついてるんだ。手伝うよ」
「やめて、ルディ」
衣擦れの音がした。
「あ――」
短い、ルディの声。
次の瞬間。
「いやあああっ!」
シルフの叫びが家中へ響いた。
抱えていた服を落としかける。
扉を開けようとして、止まった。
中で何が起きたか分からない。
勝手に入っていい場所でもない。
「どうなさいました!」
リーリャが駆けてくる。
俺の横を通り、迷わず扉を開けた。
母様も後へ続く。
俺は入口の外へ残った。
見えたのは、リーリャが大きな布でシルフを包むところだけだった。
ルディは少し離れた場所で固まっている。
顔から色が消えていた。
俺の位置から、何を見たのかは分からない。
ただ、ルディがその瞬間に、自分の勘違いを知ったことだけは分かった。
「シルフ……?」
「ぼくは、男の子じゃない!」
布の中から、泣き声がする。
「ぼくはシルフィエット! 女の子だよ!」
シルフィエット。
最初の日、風に消えた名前。
俺は一瞬、驚いた。
けれど、どこかで納得もしていた。
初めて見た時、女の子のように可愛らしいと思ったからだ。
ルディだけが、何も言えずに立っていた。
母様がシルフィエットを抱き、リーリャと一緒に浴室の奥へ隠す。
「ルディ。こちらへ来なさい」
母様の声は静かだった。
静かだからこそ、強かった。
ルディの肩が跳ねる。
「でも、僕は……」
「今は、シルフィエットちゃんが着替えるのが先です」
「……はい」
ルディは床へ落ちていた布を拾い、身体へ巻いた。
俯いたまま、浴室を出る。
俺の横を通っても、顔を上げなかった。
「ゼディ」
「なに?」
「僕は……」
その先が出てこない。
俺にも、何と言えばいいか分からなかった。
廊下には、俺が落とした三人分の服が散らばっていた。
ルディが拾おうとする。
手が震え、最初の一枚を上手く掴めない。
「俺がやる」
代わりに拾う。
ルディは何も言わず、手を引いた。
浴室の中から、母様の声が聞こえる。
大丈夫。
驚いたわね。
もう誰も勝手に入ってこないから。
シルフィエットを落ち着かせるための言葉だった。
その一つ一つを聞くたび、ルディの身体が小さくなる。
「部屋へ行こう」
俺が言う。
「ここで待ちます」
「シルフィエットは、今は会いたくないかもしれない」
自分で口にしてから、胸が痛んだ。
最初の日、水を飛ばした俺へ、シルフィエットは何かを言おうとした。
俺は相手の返事も聞かず、自分が怖いから逃げた。
今のルディは、反対だった。
自分が話したいから、この場所へ残ろうとしている。
どちらも、相手がどうしたいのかを聞いていない。
「後で、母様に会っていいか聞いてもらおう」
ルディは閉じた扉を見た。
「……はい」
二人で居間へ戻る。
家の中は雨音で満たされている。
少し前まで、初めて家へ入れたと笑っていたシルフィエットの声は聞こえなかった。
◇
父様が戻ったのは、それから間もなくだった。
雨で仕事を切り上げたらしい。
事情を聞き、濡れた外套も脱がないまま居間へ来た。
ルディは着替えを済ませ、椅子へ座っている。
両手は膝の上。
指が僅かに震えている。
シルフィエットは母様たちと別の部屋にいた。
泣き声は、もう聞こえない。
それでも、ルディは何度も廊下の方を見た。
父様が向かいへ座る。
「何があった」
低い声だった。
けれど、決めつける声ではない。
林の出来事を聞いた時と同じ。
まず、待つ声だった。
ルディは途切れながら話した。
男の子だと思っていたこと。
濡れた服のままでは身体が冷えると思ったこと。
シルフ――シルフィエットが嫌がったこと。
それでも、自分が服を脱がせようとしたこと。
見てしまって、驚いたこと。
シルフィエットが泣いてから、ようやく自分が何をしたのか分かったこと。
最後まで聞き、父様は大きく息を吐いた。
「ゼディ。お前はどこにいた」
「着替えを取りに行ってた。戻った時は扉の外にいた。叫び声がしても、勝手に入っていいか分からなくて……リーリャが来るまで待った」
「中は見たか?」
「布で包むところだけ」
「そうか」
父様は短く頷いた。
「シルフィエットが浴室へ行く前、嫌がってるようには見えなかったのか?」
「少し止まった。でも、寒いからだと思った」
「俺も同じように思うかもしれん」
父様は責めなかった。
「相手の考えていることを、全部当てるのは無理だ。だから、迷っているように見えたら聞け。聞いて、嫌だと言われたら別の方法を考えろ」
「はい」
「気付かなかったことと、聞いた後も無視することは別だからな」
その言葉で、父様の目がルディへ戻る。
「ルディ」
「はい」
「男の子だと思っていた。それは、間違えた理由にはなる」
ルディの顔が僅かに上がる。
「だが、嫌だと言われたのに止まらなかった理由にはならない」
また、俯く。
「……はい」
「相手が男でも女でも同じだ。嫌がる相手の服を、勝手に脱がせていいわけじゃない」
「はい」
「風邪を引かせたくなかった気持ちまで、悪かったことにする必要はない。だが、やり方を間違えた。それを謝れ」
ルディの膝へ、水滴が落ちた。
髪は乾いている。
雨ではない。
「謝ります」
「許してもらうためだけに謝るなよ」
父様が続ける。
「許すかどうかは、シルフィエットが決めることだ。お前が決めるのは、何を悪かったと思って、次にどうするかだ」
ルディが袖で目元を拭く。
「……分かりました」
ルディは、今すぐ話したいと言いかけた。
けれど、飲み込んだ。
シルフィエットが会いたいかどうかを、先に聞かなければならないと気付いたのだろう。
しばらくして、母様が居間へ戻った。
「今日は、ルディとは話したくないそうよ」
ルディの顔が強張る。
「そう、ですか」
「雨が弱くなったら、私が家まで送ります」
父様が立ち上がった。
「俺が行く。向こうの親とは知り合いだから、俺から説明する」
ルディも立ちかける。
「僕も――」
「今日はやめておけ」
父様が止めた。
「今のお前が行けば、謝りたい自分のために追いかけることになる」
ルディの足が止まる。
それ以上は言わなかった。
やがて雨が少し弱くなった。
シルフィエットは、母様から借りた服を着て玄関へ来た。
俺と目が合う。
すぐに逸らされた。
ルディの方は見なかった。
父様と一緒に、雨の残る道へ出ていく。
ルディと俺は居間から動かなかった。
俺たちは、扉が閉まる音だけを聞いていた。
◇
その夜。
灯りを消しても、ルディは眠らなかった。
寝返りの音さえしない。
俺も眠れなかった。
暗い天井を見る。
雨はまだ窓を叩いている。
「ゼディ」
「起きてる」
「シルフは、シルフィエットだったんですね」
「うん」
「知っていましたか?」
責める声ではなかった。
ただ、確かめたかったのだと思う。
「知らなかった。最初に見た時は女の子かと思ったけど、ルディが男の子だって言ったから、そうなのかなって」
「そうですか」
「言えばよかった?」
「いえ。僕が本人へ聞けばよかったんです」
短い沈黙。
「それより、嫌だと言われたのに……」
ルディの声が震える。
「また、友達をなくしました」
「まだ分からない」
「今日、僕を見ませんでした」
「怖かったからだよ」
「僕が怖がらせたんです」
否定できない。
大丈夫だとも言えない。
「濡れたままなら風邪を引くと思ったんです」
ルディが続ける。
「早く温めた方がいい。服が脱ぎにくいなら手伝った方がいい。僕が考えたことは、全部正しいと思っていました」
「風邪を引いてほしくなかったのは、本当でしょ」
「本当です」
「じゃあ、その気持ちまで嘘だったことにはならないよ」
「でも、それで怖がらせたことも消えません」
二つとも本当だった。
助けたかった。
傷つけた。
良いと思った気持ちがあっても、起きたことまで良くなるわけではない。
俺の水と同じだった。
泥を止めたいと思った。
実際に三人は逃げた。
それでもシルフィエットまで濡らし、一人で残した。
ルディの言葉を聞くほど、自分だけ黙っていることができなくなった。
シルフィエットが許すかどうかは、俺には決められない。
「ルディ」
「何ですか?」
「俺も、言ってないことがある」
喉が固くなる。
半年間、何度もここまで来た。
そのたびに逃げた。
……今度は、続きを言おう。
「シルフィエットを最初に助けた水。あれ、ルディじゃない」
暗闇の中で、ルディが身体を起こす音がした。
「どういうことですか?」
「俺が飛ばした」
言った。
たったそれだけの言葉だった。
胸の中に半年間置いていたものが、ようやく外へ出た。
「最初に虐められてるところを見た。止めなきゃと思って、水を飛ばした。風で広げすぎて、シルフィエットまで濡らした」
「ゼディが……」
「三人が逃げた後、声を掛けようとした。でも、怖くなって逃げた」
「だから、あの日……」
「うん。手袋が濡れてた。道の泥を流したって、ルディに嘘をついた」
ルディは何も言わない。
暗くて顔は見えない。
けれど、握った布が擦れる音がした。
「僕は、シルフィエットがその前にも虐められていたことさえ知りませんでした」
「うん」
「あの日、ゼディの手袋が濡れているのを見た。何に魔術を使ったのか聞きました」
「道の泥を流したって言った」
「嘘だったんですね」
「うん。ごめん」
「どうして、僕にも本当のことを言わなかったんですか」
「怒られると思った」
「僕が言うと思ったんですか」
「分からなかった。自分でも、何をしてほしいのか分からなかった」
ルディの息が荒くなる。
今すぐ許すとは言わなかった。
大丈夫だとも言わなかった。
「僕は、嫌です」
はっきり言った。
「ゼディが水を使ったことじゃありません。僕に嘘をついたことです。それに、シルフィエットが何も知らないまま僕を信じているのを、ゼディは知っていたんですよね」
「知ってた」
「それなのに、何も言わなかった」
「うん」
胸の奥が痛くても、否定できない。
ルディが怒ることまで、悪いことにしてはいけなかった。
「ごめん。ルディにも、ずっと嘘をついてた」
返事はなかった。
すぐに許してほしいとは言えない。
今日、父様がルディへ教えたばかりだ。
許すかどうかは、謝る側が決めることではない。
俺は、暗闇の中で次の言葉を待った。
俺は続けた。
「七日後、あの三人がまたシルフィエットを囲んだ。最初の魔術をシルフィエットのせいにしてた。俺が黙って逃げたから」
「僕が助けた日、ゼディもいたんですか?」
「木の陰にいた。全部見てた」
「どうして、出てこなかったんですか」
声が少しだけ強くなる。
怒っているのだろう。
当然だ。
「ルディが一人で出たから。怖いのに、自分で決めて、シルフィエットの前へ立ったから。俺が出たら、その全部へ自分も入ろうとしてるみたいで……」
「そんなこと――」
ルディが言いかけ、止まる。
「……そう思ったんですね」
「うん。あとは、助けた人だって思われたかった。でも、逃げた自分を助けた人とは言えなかった。嫌われるのも怖かった」
暗い部屋で、自分の声だけが聞こえる。
格好悪い。
それでも、手帳へ書いた時よりはっきり言えた。
「シルフィエットは、最初の水もルディだと思ってる。俺は違うって言えなかった」
しばらくして、ルディが横になる音がした。
背中を向けられたのかもしれない。
「まだ、怒っています」
「うん」
「今すぐ、いいですよとは言えません」
「うん」
「でも、シルフィエットに話す時は僕もいます。僕が知っていた方が、ゼディも逃げられないでしょう」
厳しい言い方だった。
それでも、一人で言えとは言わなかった。
手を握る代わりに、逃げ道の前へ立ってくれた。
「明日、言うんですか?」
「シルフィエットが会ってくれたら、言う」
ルディが長く息を吐いた。
「僕も、謝ります」
「うん」
「でも、会ってもらえなかったら」
「待とう」
「いつまで?」
「シルフィエットが決めるまで」
父様の言葉。
扉の前で待つ。
無理に開けない。
半年間、ルディが俺にしてくれたこと。
今度は二人で、シルフィエットを待つ。
◇
翌日、シルフィエットは来なかった。
雨は上がっていた。
空は昨日のことが嘘のように青い。
ルディはいつもの板と魔術教本を持ち、門の外へ出た。
草地へ座る。
約束はしていない。
それでも、いつもの時間から日が高くなるまで待った。
シルフィエットは来なかった。
昼を過ぎてから、ルディは机へ向かった。
紙の一番上へ、『シルフィエットへ』と書く。
しばらく考え、その下へ『ごめんなさい』と続けた。
そこで手が止まる。
何を間違えたのか。
どうするつもりなのか。
昨日、父様へ話した言葉を一つずつ書こうとする。
けれど、書いては消した。
『男の子だと思っていた』
言い訳のように見える。
『風邪を引かないようにしたかった』
自分は悪くないと言っているように見える。
『もうしないから許してほしい』
許すことを頼んでいる。
最後には、最初の二行以外が黒く潰れた。
「手紙にするの?」
「会いたくないなら、言葉だけでも渡せると思ったんです」
「渡していいかも、聞かないと」
「分かっています」
少し強い声だった。
ルディは、まだ俺に怒っている。
俺も口を閉じた。
夕方、父様が仕事から戻ってきた。
「シルフィエットは大丈夫だ」
最初にそう言った。
昨日はそこそこ遅い時間にシルフィエットを送るため外に出ていたから、夜は詳しいことを話せなかったのだ。
父様の一言に、ルディの肩から、僅かに力が抜ける。
「会いたいか、手紙を受け取りたいかは、ロールズから本人へ聞いてもらう。返事を急かすな」
「はい」
「それまでは待て」
「……はい」
ルディは黒くなった紙を折り畳んだ。
渡すためではない。
自分が何を言ってはいけないのか、忘れないために残すらしい。
二日目。
ルディは昨日より早く門を越えた。
外へ出ることに迷いはなかった。
道を見ても、笑い声を探さなかった。
シルフィエットの家へ向かう道を、真っすぐ見た。
今なら、林より先まで一人で行けるのかもしれない。
それでも行かなかった。
ルディを止めている境目は、もう家の門ではない。
シルフィエットが引いた、見えない境目だった。
越える力があっても、越えてはいけない場所がある。
俺も隣へ座った。
「まだ怒ってる?」
「怒っています」
「そっか」
「ですが、ゼディが隣に座るなとは言っていません」
「うん」
それ以上は話さなかった。
二人で同じ道を見た。
シルフィエットは来なかった。
三日目も。
ルディは同じ場所で待った。
「家へ行かないの?」
三日目、俺が聞いた。
「行きたいです」
「じゃあ」
「でも、行きません」
ルディは道の先を見る。
「会いたくないと言われたのに家まで行けば、また僕の都合を押しつけることになります」
「謝れないよ」
「それでもです」
声は苦しそうだった。
けれど、動かなかった。
以前のルディなら、自分から誰かの家へ行くことなど考えもしなかった。
今は行きたいのに、行かないことを選んでいる。
怖いから閉じこもるのではない。
相手のために、境目の前で止まっている。
待つことも、何もしないこととは違う。
先生がいたなら、そう言ったかもしれない。
四日目。
ルディの隣には、魔術教本と板の他に、小さな花が三本置かれていた。
庭の端に咲いていた、白い花。
朝、母様と一緒に選んだものだ。
「謝るために、物を渡すのは違うかな」
摘んだ後で、ルディは何度も聞いた。
「花を渡したから許して、という意味なら違うと思う」
母様は答えた。
「でも、また話したいと思って選んだことまで、間違いではないわ。受け取るかどうかを、シルフィエットちゃんに決めてもらいなさい」
だから、ルディは花を手に持たず、地面へ置いていた。
会えたとしても、最初に渡すつもりはないらしい。
道の向こうに、緑の髪が見えた。
ルディが立ち上がる。
一歩、走りかける。
それから止まった。
シルフィエットがこちらへ歩いてくる。
昨日までと同じ短い髪。
見慣れた服。
何も変わっていない。
けれど、もう男の子には見えなかった。
俺たちが、知らなかっただけだ。
門の前まで来る。
ルディとの間には、まだ数歩の距離がある。
「シルフィエット」
ルディが呼ぶ。
シルフィエットは少し俯いた。
「シルフィでいいよ」
「……シルフィ」
初めて呼ぶ、本当の名前。
シルフィが顔を上げた。
「あの日は、ごめん」
ルディは頭を下げる。
「僕はシルフィを男の子だと思ってた。だから、一緒にお風呂へ入っても平気だと思った」
シルフィの頬が赤くなる。
「でも、それは言い訳にならない。シルフィは嫌だって言った。やめてって言ったのに、僕は止まらなかった」
ルディの声が震える。
「怖がらせた。恥ずかしい思いもさせた。本当に、ごめん」
頭を上げない。
シルフィは、しばらく何も言わなかった。
風が二人の間を通る。
草木が揺れる。
「ぼく、びっくりした」
小さな声だった。
「うん」
「ルディが、ぼくのことを笑うかと思った」
「笑わない」
ルディが顔を上げる。
「絶対に笑わない」
「女の子でも、友達でいてくれる?」
「もちろん」
返事は早かった。
「シルフィが男の子でも女の子でも、友達になりたいと思ったことは変わらない」
一度、言葉を切る。
「でも、許してほしいって僕から決めることはできない。もうしない。触る時は、ちゃんと聞く」
シルフィはルディを見る。
泣いてはいない。
怒っていないわけでもないと思う。
四日間、きっと何度も考えたのだろう。
「もう、勝手に服を脱がせない?」
「しない」
「嫌って言ったら、止まる?」
「絶対に止まる」
「……じゃあ、また魔術を教えて」
ルディの目が大きくなる。
「いいの?」
「ぼく、まだルディの友達でいたい」
ルディの顔が歪んだ。
泣きそうになり、笑おうとして、どちらにも上手くならない顔。
「僕も、シルフィの友達でいたい」
ルディが地面の花を見る。
すぐには拾わなかった。
「もう一つ、渡したいものがあるんだ。受け取ってもらってもいい?」
「なに?」
そこで初めて花を拾う。
三本の白い花は、待っている間に少しだけ首を下げていた。
ルディが小さな水球を作り、茎の先へ水を含ませる。
花がまた顔を上げる。
「綺麗……」
「母様と選んだんだ。僕がまたシルフィと話したいと思ってたことも、伝えたくて」
「もらっていいの?」
「うん。受け取ってくれるなら」
シルフィが両手で花を受け取る。
頬が少し赤くなった。
緑の髪へ白い花を近づけ、嬉しそうに見る。
その顔は、俺と剣を振る時に見せる笑顔とも違った。
ルディからもらったことが、嬉しいのだと思った。
今はまだ、それだけだ。
けれど、こういう小さな気持ちが、二人の間へ積み重なっていくのかもしれない。
ルディが手を差し出しかける。
途中で止めた。
「手を出してもいい?」
シルフィが少し驚く。
それから、自分の手を先に差し出した。
「うん」
小さな手が重なる。
ルディは強く引かなかった。
最初に出会った日と同じように、シルフィが握る力へ合わせた。
「これからも、よろしく。シルフィ」
「よろしく、ルディ」
ルディが泣きながら笑った。
俺は二人を見ていた。
良かったと思う。
胸の奥が温かくなる。
同時に、手帳の一行が浮かんだ。
俺は、まだ終わっていない。
「待って」
声を出す。
二人が俺を見る。
喉が固くなる。
昨日、ルディへ言えた。
けれど、本人へ言う方がずっと怖かった。
それでも、今度は逃げない。
「シルフィ。俺も、謝らなきゃいけないことがある」
シルフィが首を傾げる。
「最初の水」
その言葉だけで、赤い瞳が僅かに見開かれた。
「あれを飛ばしたのは、ルディじゃない」
自分の胸へ手を置く。
「俺だ」
風が止まったように感じた。
ルディは黙っている。
昨日聞いたことを、自分から言わないでいてくれた。
シルフィは、俺の顔を見る。
次に、腰のロッドを見る。
「……やっぱり」
「分かってたの?」
「分かってなかった。でも、ゼディかもしれないって思ってた」
シルフィは、最初に水が飛んできた林を見る。
「ルディの水は、丸くて、必要なところだけに飛ぶ。ゼディの水は、広くなって、風が一緒に来るから」
魔術を覚えたからこそ分かった違い。
半年間、同じ場所で二人の魔術を見てきたからこそ出せた答え。
「最初の日、虐められてるシルフィを見た。止めようと思った。でも、どうしたらいいか分からなくて、水を飛ばした」
「うん」
「広げすぎて、シルフィまで濡らした。三人が逃げた後も、声を掛けられなかった」
シルフィは黙って聞いている。
「怖くなって、逃げた。次に虐められた時も、木の陰にいた。ルディが助けるところを見てた」
ルディの手を握っていたシルフィの指が、少し動く。
「あの子たちは、最初の魔術をぼくのせいにした」
「うん。俺が名乗らなかったからだ」
「ゼディは、それも見てたんだね」
「見てた」
逃げ道を作らない。
止めたかった気持ちだけを言い訳にしない。
「ごめん。水を浴びせたことも、逃げたことも、ずっと黙ってたことも」
頭を下げる。
自分の足と、地面の草が見える。
「ぼく、あの時、怖かった」
シルフィの声。
「水が来て、あの子たちは逃げた。でも、誰が助けてくれたのか分からなかった。走っていく背中が見えて……また一人になったと思った」
胸が痛む。
想像していた言葉だった。
実際に聞くと、想像よりずっと痛かった。
「ごめん」
もう一度言う。
「でも」
シルフィが続ける。
「あの水がなかったら、もっと泥を投げられてた。怖かったけど、助けてもらったのも本当だよ」
顔を上げる。
シルフィは、少し怒った顔をしていた。
それでも、こちらを見ていた。
「ぼく、ゼディがずっと黙ってたことには怒ってる」
「うん」
「ルディだと思ってたから」
「うん」
「次は、逃げないでね」
「逃げない」
すぐに答えた。
できるかは、その時にならなければ分からない。
それでも、逃げたくなった時に今日のことを思い出す。
「怖くても、声を掛ける。無理なら、大人を呼ぶ。何をしたかも言う」
「うん」
シルフィの表情が少しだけ緩んだ。
「前に、まず一緒に遊んでからって言ったよね」
「言った」
「半年、一緒に遊んだよ」
そうだった。
林。
草地。
門の前。
三人で本を読み、剣を振り、魔術を練習した。
俺は、答えを半年も待たせていた。
シルフィは、持っていた白い花を魔術教本の上へ置いた。
ルディとつないだ手は、そのまま離さない。
「ゼディ」
空いた方の手を、俺へ差し出す。
「ぼくと、友達になってくれる?」
最初の日、ルディの手を握った手。
今度は俺へ向いている。
俺は、自分の手を重ねた。
「うん。友達になる」
言えた。
ルディが、重なった俺たちの手を見る。
「ゼディ」
「なに?」
「僕は、まだ少し怒っています」
シルフィが驚いてルディを見る。
「ぼくが怒ってるから?」
「違うよ。ゼディが僕にも嘘をついていたから」
ルディは、昨夜のことを隠さなかった。
「でも、本当のことを話してくれたのはよかったと思っています」
「うん」
「次から、どうしたらいいか分からない時も、分からないままでいいので、まずは話してください。僕も一緒に考えますから」
怒ったままでも、手を離さない。
すぐに許すことと、これからも兄弟でいることは別なのだろう。
「分かった。もう嘘をつかない」
「全部を話せとは言いません」
ルディが少し考える。
「一人で勝手に決めないでください」
「うん。ごめん、ルディ」
「今度、ご飯の後の甘い物を一つもらいます」
「それでいいの?」
「それとこれとは別です。甘い物はもらいます」
少しだけ、いつものルディだった。
「遅いですよ、ゼディ」
ルディが言う。
「半年も待たせました」
「ルディに言われたくないよ」
「僕は初日に言いました」
「そうだった」
シルフィが笑う。
俺も笑った。
水飛沫の向こうで始まった出会いが、ようやくこちら側まで続いた。
◇
その日の練習は、無詠唱の水球から再開した。
「もう一度やってみよう、シルフィ」
ルディが言う。
まだ新しい呼び方に慣れていない。
少しだけ間がある。
シルフィは、呼ばれるたびに嬉しそうだった。
「うん、ルディ先生」
右手を上げる。
詠唱はない。
小さな水球が生まれる。
昨日より形が整っている。
雨上がりの光を映し、透明に輝いた。
「次は、少しだけ前へ動かしてみよう」
「うん」
水球が震える。
前へ行く代わりに、右へ流れた。
ルディが手を伸ばす。
途中で止める。
「手首の向きを直してもいい?」
シルフィは一度、伸ばされた手を見る。
「うん。いいよ」
返事を聞いてから、ルディは指先で手首の横へ触れた。
強く掴まない。
水球が進む方向だけを示し、すぐに手を離す。
「今の向きのまま、押すところを考えて」
「押す……」
透明な球が、ゆっくり前へ動いた。
ほんの手のひら一つ分。
それでも、シルフィが自分で動かした。
「できたよ」
シルフィは最初にルディを見る。
ルディが頷く。
その後で、俺の方へも笑った。
順番は、それでいい。
ルディは、シルフィが自分で選んだ最初の友達だ。
魔術を教えた先生だ。
俺は、遅れて友達になった。
同じ場所へ立っても、役割まで同じである必要はない。
その夜、先生の手帳を開いた。
以前書いた一行の下へ、続きを書く。
『大雨。シルフの本当の名前は、シルフィエット。女の子だった』
少し考え、さらに続ける。
『ルディは間違えて、シルフィを怖がらせた。謝った。シルフィは、自分で戻ってきた』
そして、最後の一行。
『最初の水は俺だと話した。逃げたことも謝った。シルフィは、次は逃げないでねと言った』
「書けましたか?」
隣のベッドから、ルディの声がした。
眠っていると思っていた。
「うん」
「見てもいいですか?」
いつもなら、少し迷ったかもしれない。
先生からもらった手帳には、自分だけの記録もある。
けれど、この頁にはルディも関わっている。
俺は開いたまま手帳を渡した。
ルディは、井戸の絵から今日の一行まで、ゆっくり読んだ。
「僕のことも、随分書いてありますね」
「嫌だった?」
「いいえ」
少し間を置く。
「でも、次に僕のことを書く時は、できれば格好よく書いてください」
「今日は格好よかったよ」
「どこがですか?」
「門の前で、四日待ったところ」
「待っていただけです」
「待つって決めたのはルディでしょ」
ルディは手帳へ目を戻す。
「では、そこへ一行足してください」
「自分で書く?」
「ゼディの手帳ですから、ゼディが書いてください」
少しだけ笑って、手帳を返した。
俺は最後へ、もう一行を加える。
『ルディは、会いに行かずに待った。待っている間も、門の外へ出た』
ルディが横から読み、満足そうに頷いた。
前の頁には、まだ残っている。
『俺は、まだ最初の水が自分だと言っていない』
消さなかった。
嘘をついていたことも、言えなかった時間も、なかったことにはできない。
けれど、その下へ続きを書くことはできる。
雨で濡れた服は乾く。
一度口にした言葉は、聞かなかったことにはできない。
見せてしまった背中も、消せない。
それでも、次にどちらを向くかは選べる。
俺が最初にシルフィへ見せたのは、逃げていく背中だった。
今日、初めて正面から本当のことを話した。
次にシルフィが怖がっている時。
次に見せるのは、逃げていく背中ではない。
隣に立ち、正面から名前を呼ぶ自分でありたい、そう思った。