無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜   作:omugut

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第十話『言葉なき火と、選んだ言葉』

翌朝。

俺は庭へ出ると、ルディとシルフィを呼び止めた。

 

「二人に、頼みたいことがある」

 

俺の言い方が固かったのだろう。ルディは魔術教本を抱え直し、シルフィは少しだけ身構えた。

 

「何ですか?」

 

「俺にも、無詠唱を教えてほしい」

 

二人が、同じように瞬きをした。

先に声を上げたのはルディだった。

 

「ゼディ、無詠唱を使えなかったんですか?」

 

「使えない」

 

「試したことは?」

 

「一度もなかった」

 

ルディは驚いたまま、口を開けている。

俺が無詠唱を使えないことより、試してもいなかったことの方が意外らしい。

シルフィも首を傾げた。

 

「どうして?」

 

「詠唱すれば使えたから」

 

自分で答えてから、随分と簡単な理由だと思った。

 

先生に教わった詠唱を口にする。

そうすれば魔術は出る。

詠唱を短くする練習はしていた。

いくつかの節を省ける時もあったが、言葉そのものをなくそうとは考えなかった。

 

ルディが無詠唱で魔術を使うことにも慣れていた。

ルディは特別だからできるのだと、どこかで勝手に決めていたのかもしれない。

 

「やってみたら、できるかもしれないよ」

 

シルフィが言った。

数日前、初めて無詠唱の水球を作った本人の言葉だ。

 

「だから、やってみる」

 

俺は右手を前へ出した。

 

「何から始めればいい?」

 

ルディはまだ少し驚いていたが、すぐに先生の顔になった。

 

「まず、普段どおりに水球を作ってください」

 

「分かった」

 

俺は先生に教わった水球の詠唱を、最初から最後まで唱えた。

手のひらの前へ水が集まり、握り拳ほどの球になる。

 

「今、魔力がどう動いたか分かりますか?」

 

「手に集まって、水になった」

 

「その前です」

 

「前?」

 

「声を出してから、水になるまでの間です」

 

言われたとおり、同じ詠唱をもう一度唱える。

 

魔力が動く。胸の奥から腕を通り、手へ集まる。

……ような気がする。

 

「腕を通った」

 

「どんな感じでした?」

 

「どんなって……魔力が、こう」

 

空いた左手で、右腕を下から上へなぞる。

 

「こうです」

 

「ゼディ、それでは分かりません」

 

「俺も、これ以上は分からない」

 

見えたものの形や、人の動きなら説明できる。

父様が剣を振る時、どちらの足へ重さが乗っているか。

魔物が飛び掛かる前、肩がどこへ動くか。

風が吹く直前、草の穂がどちらへ傾くか。

 

そういうものは、考える前に分かる。

だが、自分の身体の内側で起きていることを、細かく分けて考えたことは殆どなかった。

 

「ぼくは、ここが少し熱くなったよ」

 

シルフィが胸の辺りへ手を当てた。

 

「それから、腕の中を水が流れていくみたいになって、手の先で丸くしたの」

 

「水になる前から、水なの?」

 

「ううん。水じゃないけど、水になる感じ」

 

「分からない」

 

「ぼくも、うまく言えない」

 

シルフィが困って眉を下げる。

ルディは俺たちを見比べると、地面へ三つの円を描いた。

 

「では、分けましょう。一つ目は、魔力を手へ集める。二つ目は、水へ変える。三つ目は、形を丸くする。まずは一つ目だけです」

 

「手に集めたら、勝手に水になるんじゃないの?」

 

「ゼディの場合は、詠唱が二つ目と三つ目をしてくれているのかもしれません」

 

「言葉が?」

 

「言葉をきっかけにして、ゼディの身体が勝手にやっている、という方が近いと思います」

 

きっかけ。

その言葉は分かりやすかった。

 

剣を振る時も同じだ。

父様の掛け声に合わせて踏み込めば、足と腰と腕が動く。

一つずつ考えているわけではない。

 

俺にとって、詠唱は掛け声なのだ。

 

「掛け声なしで、同じ動きをすればいいんだね」

 

「たぶん、そうです」

 

俺は水球を消し、もう一度右手を出した。

声を出さず、魔力を集める。

 

手のひらを見る。

何も起きない。

魔力が動いた気もしなかった。

 

「……水弾」

 

思わず詠唱の一節を、唇だけでなぞる。

音にはしていない。それでも何かが起きることを期待した。

何も起きなかった。

 

「今、言いましたか?」

 

「言ってない」

 

「口は動いてたよ」

 

シルフィには見られていた。

 

「声は出してない」

 

「一度、口も動かさずにやってみましょう」

 

もう一度。

 

声を出さない。

口も動かさない。

いつものように水ができるところを考える。

 

手の先に水が浮かぶ。

そう考えているはずなのに、身体のどこかが待っていた。

 

まだだ。

言葉が来ていない。

始めてはいけない。

 

そんな止め金が、頭の奥にかかっている。

 

何もない手から、何も言わずに水や火が出るはずがない。

誰かに教えられたわけではない。

この世界では、ルディが何度も目の前でやっている。

昨日はシルフィにもできた。

 

それでも、もっと遠い場所で身につけた当たり前だけが、棘のように残っていた。

 

何かを起こすには、何かをしなければならない。

声も動きもなく、ただ思っただけで火が出るなど、あり得ない。

 

顔も名前も思い出せない誰かが、そう笑った気がした。

 

「ゼディ?」

 

ルディの声で、庭へ戻る。

手のひらには、何もなかった。

 

「できない」

 

「まだ二回です」

 

「シルフィは、昨日できた」

 

「ぼくも何回も失敗したよ」

 

「その日のうちにできたでしょ」

 

言ってから、シルフィの成功を自分の失敗へ使ったことに気付いた。

 

「ごめん。シルフィが悪いんじゃない」

 

「うん。分かってる」

 

シルフィは怒らなかった。

ルディも、すぐには次の方法を言わなかった。

 

「ゼディは、できないことが嫌なんですか?」

 

「嫌だよ」

 

「僕やシルフィより遅いことが?」

 

答えに詰まる。

できないことが嫌だった。

二人ができることを、自分だけできないのも面白くなかった。

 

剣なら、見れば分かる。

魔術も、これまでは見て真似すれば大抵は使えた。

ルディの水球を飛ばす方法も、先生の火魔術もそうだった。

 

だから俺は、魔術の勘もいいのだと思っていた。

間違いではない。ただ、何に対する勘なのかが違った。

 

俺は、できあがった力をどこへ動かすかなら分かる。

水を広げ、風で押す。

火の向きを曲げ、威力を逃がす。

 

だが、何もないところから最初の一つを作る感覚は、ルディやシルフィほど鋭くない。

 

「……少し、嫌だ」

 

正直に答えた。

 

「でも、それでやめるのは、もっと嫌だ」

 

先生にもらったロッドを握り直す。

 

「もう一回やる」

 

ルディは小さく頷いた。

 

「水でなくても構いません。ゼディが一番作りやすいものにしましょう」

 

「火」

 

考える前に答えた。

火は昔から扱いやすかった。形も動きも分かる。

 

「では、まず詠唱して、小さな火を作ってください」

 

俺は先生に教わった火球の詠唱を唱える。

人差し指の先に、小さな炎を灯す。

 

燃やす物はない。

魔力だけで形を保った、蝋燭ほどの火だ。

 

揺れる先端を見る。

熱、色。

空気を吸い、上へ伸びようとする動き。

 

一度消す。

目を閉じる。

今見た火を、そのまま指先へ置く。

 

言葉を待とうとする頭を無視する。

代わりに、剣を振る直前の呼吸を思い出す。

 

吸う、止める、細く吐く。

胸の奥にある何かを、腕へ流す。

熱くする。

指の先で、燃やす。

 

小さな明かりが瞼の向こうへ浮かんだ。

 

目を開ける。

指先に、火があった。

 

米粒より少し大きいだけの、頼りない炎。

 

「出た」

 

驚いて息を吸った瞬間、火は消えた。

 

「出たよ、ゼディ!」

 

シルフィが俺より先に喜んだ。

 

「できましたね」

 

ルディも笑っている。

俺は指先を見た。

 

もう一度、同じようにする。

何も出ない。

 

「……できない」

 

「今、できたでしょう」

 

「今はできなかった」

 

「一度できたなら、道はつながっています」

 

先生が言いそうな言葉だった。

けれど、一度通れた道でも、霧に隠れれば見失う。

 

その日は、もう一度も火を出せなかった。

次の日は、朝から数えて十九回目で出た。

その次の日は、七回目

 

四日目には、一度目で成功した。

 

嬉しくなってシルフィを呼び、見せようとすると失敗した。

 

「落ち着いている時しか、出せないみたいだね」

 

シルフィが言った。

 

「剣で戦ってる時は、落ち着いてるよ」

 

「ゼディは、剣を持つと静かになるから」

 

「でも、魔術を使おうとすると考えすぎています」

 

ルディが付け加える。

 

「言葉を使わないように、と考えるほど、言葉のことを考えているんです」

 

「考えないように考えるの?」

 

「それは、考えていますね」

 

「難しい」

 

「だから、練習するんです」

 

ルディは簡単に言った。

俺も、先生に同じことを言われた覚えがある。

 

それから毎朝、剣を振る前に無詠唱を試した。

火は出る、風も起こせる。

……水だけは、まだ難しかった。

 

指先へ一滴が集まり、それで終わる。

水球にしようとすると形が崩れる。

急げば何も出ない。

焦れば、詠唱の最初の言葉が喉まで上がってくる。

 

詠唱すれば早い。

いくつかの節を口にすれば、無詠唱より大きく、安定した術が出る。

 

今の俺にとって無詠唱は、実戦で使うには遅すぎた。

それでも、やめなかった。

 

先生の手帳の端へ、丸と線を毎日一つずつ書いた。

一度で成功した日は丸。

失敗してから成功した日は三角。

最後までできなかった日は線。

 

丸が増えても、線は消さない。

一度できたことと、いつでもできることは別だ。

 

今はまだ、できるようになったばかりだった。

 

 

無詠唱の練習を始めて、暫く経った朝。

外は今年も冬を迎えようとしていて、少しずつ寒さが増していっていた。

 

母様が、焼いた肉の匂いで口元を押さえた。

 

「母様?」

 

「大丈夫よ。少し、気分が悪くなっただけ」

 

そう言いながら、椅子へ座る。

母様は病気になったことがほとんどない。

治癒魔術も使えるので、小さな怪我なら自分で治してしまう。

 

だからこそ、父様はすぐに慌てた。

 

「熱か? どこか痛むのか?」

 

「あなた、朝から大声を出さないで」

 

「医者を呼ぶ。いや、俺が連れていく」

 

「だから、少し待って――」

 

「リーリャ!」

 

「すでに村の産婆を呼ぶよう、村の方を経由しています」

 

リーリャは、最初から何かに気付いていたらしい。

父様だけが分からず、母様とリーリャを交互に見ていた。

ルディは一度母様を見て、何かを察した顔をする。

 

俺には分からなかった。

 

病気ではないなら、何なのだろう。

昼を過ぎる頃、村の産婆が家へ来た。

 

俺たちは居間で待たされた。

 

父様は座っては立ち、窓まで歩いては戻る。

剣を持って魔物を待つ時より、落ち着きがなかった。

 

「父様、座ったら?」

 

「座っている」

 

「今は立ってるよ」

 

「分かってる」

 

分かっていないように見えた。

 

しばらくして、母様が部屋から出てきた。

少し疲れた顔をしている。それでも、笑っていた。

 

「みんなに、話があります」

 

父様の背筋が伸びる。

俺とルディも並んで座った。

リーリャは母様の横へ立っている。

 

「赤ちゃんができたみたい」

 

一瞬、意味が分からなかった。

先に動いたのは父様だった。

 

「本当か!」

 

母様を抱き上げようとして、脇腹を叩かれる。

 

「まだ気分が悪いって言ったでしょう!」

 

「悪い。だが、本当に?」

 

「ほぼ間違いないだろうって」

 

「そうか。そうか!」

 

父様が今度は、母様の肩へそっと手を置く。

最初からそうすれば叩かれなかったと思う。

ルディは母様へ向き直った。

 

「おめでとうございます、母様」

 

「ありがとう、ルディ」

 

俺は母様のお腹を見た。

服の上からでは、昨日までと変わらない。

 

「ここにいるの?」

 

「そうよ」

 

母様が、自分のお腹へ手を当てる。

 

「触ってもいい?」

 

聞くと、母様は少し目を丸くした。

すぐに柔らかく笑う。

 

「ええ。まだ動かないけどね」

 

俺は許してもらってから、手のひらを重ねた。

温かい。

けれど、赤ちゃんの形も、動きも分からなかった。

 

「聞こえる?」

 

「まだ無理じゃないでしょうか」

 

ルディが答える。

 

「赤ちゃんに聞いた」

 

「なら、もっと無理です」

 

「起きてるかもしれないよ」

 

「まだ耳も――」

 

「ルディ」

 

母様が笑いながら止めた。

俺はお腹へ顔を近づける。

 

「俺、ゼディ。お兄ちゃんになるからね」

 

「ゼディは、僕の弟でしょう」

 

「赤ちゃんのお兄ちゃんだよ」

 

「それなら僕もです」

 

「ルディも言えば?」

 

ルディは少し恥ずかしそうにしながら、俺の隣へ手を置いた。

 

「ルーデウスです。僕も兄になります。安心して生まれてきてください」

 

「赤ちゃんにまで固いよ」

 

「初対面ですから」

 

「まだ会ってない」

 

「では、なおさら礼儀が必要です」

 

父様が大声で笑う。

母様も笑った。

家の中が、一度に明るくなった。

 

弟だろうか、妹だろうか。

どちらでもよかった。

 

名前を呼んだら笑ってくれるだろうか。

一緒に庭を走れるようになるまで、何年かかるだろう。

魔術を教えるなら、ルディの方が上手い。

剣なら、俺が教えられる。

 

まだ生まれてもいないのに、いくつも考えた。

 

ふと、母様の後ろにいるリーリャを見る。

リーリャも笑っていた。

いつものように静かな笑顔だった。

 

ただ、エプロンの前で重ねた指に、少しだけ強く力が入っていた。

 

 

それから一月ほど。

今年ももう雪が降るような時期になっていた。

 

母様の腹は、まだ見て分かるほど大きくなってはいない。

それでも、家の中は少しずつ変わった。

 

父様は母様が水桶を持とうとするだけで取り上げた。

母様は最初こそ礼を言っていたが、三日目には怒った。

 

「妊娠しただけで、歩けなくなったわけじゃないのよ」

 

「だが、重い物は俺が持つ」

 

「それなら、普段から持ちなさい」

 

「……はい」

 

父様は少しだけ、家の仕事をするようになった。

慣れていないせいで、皿を一枚割った。

洗濯物を落とした。

鍋を焦がした。

 

リーリャが無言で後始末をし、母様が額へ手を当てる。

俺とルディは、そのたびに笑った。

平和だった。

 

俺の無詠唱も、少しずつ丸が増えていた。

火なら、落ち着いていれば三回に二回は出る。

風は、手を動かせば出しやすい。

水は、ようやく指先に小さな球を作れるようになった。

 

ルディやシルフィの水球と比べれば、まだ歪んでいる。

 

「丸くしようとしすぎだよ」

 

シルフィが言う。

 

「水は、丸くなるよ。ぼくが全部丸くするんじゃなくて、集めたら自分で丸くなるの」

 

「自分で?」

 

「うん」

 

言われたとおり、形を決める力を少しだけ弱める。

水は一度崩れかけ、それから表面を震わせて丸くなった。

 

俺は、できあがったものを自分で動かそうとしすぎるらしい。

剣も火も、力を入れれば応えてくれた。

水には、水の動きがある。

 

任せるところは任せる。

それが、俺には難しかった。

 

「できた」

 

「うん。さっきより綺麗」

 

シルフィが笑う。

ルディも横で頷いた。

以前のルディなら、シルフィが先に俺へ教えたことを、少し気にしたかもしれない。

 

今は違う。

 

「シルフィの説明は、感覚が近い人には分かりやすいですね」

 

自分とは違う教え方を、そのまま認めていた。

俺たちは三人で魔術を練習した。

ルディが形を分けて説明し、シルフィが感覚を言葉にし、俺が上手くいくまで繰り返す。

 

一人だけでは見つからなかったやり方だった。

ブエナ村には穏やかな日が続いていた。

だから、その日の夕食も、いつもと同じように終わると思っていた。

 

 

リーリャは、ほとんど食事へ手をつけなかった。

 

何度か口へ運ぼうとして、皿へ戻す。

顔色も悪い。

 

「リーリャ、具合が悪いの?」

 

俺が聞くと、リーリャの手が止まった。

 

「……少々」

 

「母様みたい」

 

口にした瞬間、父様が咳き込んだ。

母様は父様を見る。

 

ルディも食事の手を止めた。

分かっていないのは、俺だけだった。

 

リーリャは静かに匙を置き、椅子から立った。

 

「奥様。旦那様。お話ししなければならないことがございます」

 

いつもと同じ、落ち着いた声。

けれど、重ねた手が震えている。

 

「座ったままでいいわ」

 

母様が言った。

声から、いつもの温かさが消えていた。

リーリャは一度迷い、座り直す。

 

「申し訳ありません。私も、妊娠いたしました」

 

部屋が静かになった。

 

外で降る雪と、強い風の音が窓に叩きつける。

世界の音が急に大きく聞こえた。

 

俺はリーリャの腹を見た。

母様と同じように、まだ何も変わっていない。

 

「赤ちゃんが、二人になるの?」

 

嬉しくて出た言葉だった。

……母様の顔を見て、それが今言うべき言葉ではなかったと分かった。

 

誰も笑っていない。

リーリャは俯いている。

父様は、剣を喉元へ突きつけられた時のような顔をしていた。

母様は、父様だけを見ている。

 

「父親は?」

 

短い問いだった。

父様の喉が動く。

 

「す、すまん。た、多分、俺の子だ……」

 

……迷わず吐いた。

それと同時に、乾いた音がした。

母様の手が、父様の頬を打っていた。

 

俺は反射的に腰を浮かせた。

 

父様は避けなかった。

打たれた方へ顔を向けたまま、動かない。

 

母様の方が、手を痛そうに握っている。

 

「いつ」

 

「……酒を飲んでた日、俺からリーリャの部屋へ行った」

 

「私が、この子を守ろうとしていた時に?」

 

「……そうだ」

 

父様の声は小さかった。

 

リーリャが椅子から降り、床へ膝をついた。

 

「奥様。旦那様だけの責任ではございません」

 

「立って」

 

「いいえ。私は旦那様を拒みませんでした。むしろ、そうなるような振る舞いをいたしました。私が――」

 

「今は聞きたくない!」

 

母様の声が、部屋へ響く。

リーリャが口を閉じた。

 

母様は立ち上がる。

椅子が後ろへ倒れた。

 

俺の身体が、また勝手に動きそうになる。

誰を止めればいいのか分からなかった。

 

父様は悪い。

母様は怒っている。

リーリャは泣きそうな顔で、床へ座っている。

 

剣も魔術も使えない。

力で止めれば、もっと壊れる。

 

林で、最初の水を飛ばした時と同じだった。

何かしなければならない。

けれど、何をすればいいのか分からない。

 

違うのは、今の俺が一人ではないことだった。

隣を見る。

 

ルディも顔を青くしている。

それでも、逃げずに全員を見ていた。

 

母様は何かを言おうとして、口元を押さえた。

 

「母様」

 

ルディが呼ぶ。

 

「今は、休んでください」

 

「平気よ」

 

「平気な顔ではありません」

 

母様がルディを見る。

怒りが向けられるかと思った。

だが、ルディの顔を見た途端、母様の目から涙が落ちた。

 

「……少し、一人にして」

 

それだけ言い、寝室へ向かう。

父様が追おうとした。

 

「来ないで」

 

足が止まる。

扉が閉まった。

 

家の中には、食べかけの夕食と、誰も動けない時間が残った。

 

 

しばらくして、母様は居間へ戻ってきた。

目は赤かった。

それでも髪を整え、倒れた椅子を自分で起こす。

 

「……話し合いをします」

 

誰も逆らわなかった。

父様とリーリャが並んで座る。

 

俺とルディは、その向かい。

母様はテーブルの端へ座った。

 

いつもの食事と同じ場所なのに、全員が遠く見えた。

 

「まず、リーリャ。あなたは、どうするつもりなの?」

 

「奥様のご出産までは、これまでどおりお仕えいたします」

 

リーリャは膝の上で手を重ね、真っすぐ答えた。

 

「その後、私もこの子をフィットア領内で産み、動けるようになり次第こちらを辞します」

 

「子供は?」

 

「私が連れてまいります」

 

父様が顔を上げる。

 

「待て。それは――」

 

「あなたは黙っていて」

 

「……はい」

 

父様が小さくなる。

剣を持った父様より、母様の一言の方が強かった。

 

「どこへ行くの?」

 

「南にある故郷へ戻ります」

 

「故郷に、頼れる人はいるの?」

 

「今も受け入れていただけるかは、分かりません」

 

「お金は?」

 

「僅かな蓄えがございます」

 

「子供を産んで間もない身体で、一人で?」

 

リーリャは答えなかった。

母様が目を閉じる。

 

「分かったわ」

 

その声を聞いて、胸が冷たくなった。

何が分かったのか。

 

リーリャが出ていくことを認めるのか。

俺はリーリャを見る。

 

生まれてから、ずっと家にいた。

服を着せてくれた。

食事を作ってくれた。

熱を出した時は、一晩中そばにいた。

俺が赤い木の実を食べようとした時は、無言で取り上げた。

 

家族かと聞かれれば、少し迷ったかもしれない。

使用人だ。

そう言われてきたからだ。

 

だが、いなくなるところを考えると、嫌だった。

 

リーリャだけではない。

その腹にいる、まだ顔も知らない子もいなくなる。

 

「待ってください」

 

ルディが言った。

母様が目を開ける。

 

「これは大人の話よ」

 

「僕たちの弟か妹の話でもあります」

 

ルディの声は震えていた。

それでも、言葉ははっきりしている。

 

母様の指が、僅かに動いた。

 

「リーリャ。南の故郷まで、何日かかりますか?」

 

「乗合馬車を乗り継いでも、ひと月近くは。徒歩であれば、さらに」

 

「旅費と宿代を払って、赤ちゃんのためのお金も残せますか?」

 

「……難しいかと」

 

「子供を産んでから、どれくらいで出発するつもりですか?」

 

「動けるようになり次第」

 

「その頃、本当に長旅へ耐えられるほど身体は戻っているんですか?」

 

「それは……」

 

「道中に魔物や盗賊が出たら?」

 

「身を隠し――」

 

「赤ん坊を抱えて?」

 

ルディは責めるように声を荒らげなかった。

一つずつ、答えを確かめる。

 

魔術を教える時と同じだった。

大きな問題を分ける。

何ができて、何ができないかを見る。

 

「それは、責任を取ることにはならないと思います」

 

「では、どうしろと?」

 

母様が聞いた。

 

「私はリーリャと、何もなかったように暮らせばいいの?」

 

「いいえ」

 

ルディはすぐに否定した。

 

「母様は、今すぐ許さなくていいと思います」

 

母様が少し驚く。

俺も驚いた。

 

リーリャを残してほしいなら、許してほしいと言うのだと思っていた。

だが、シルフィの時に知った。

謝ったからといって、すぐに許さなければならないわけではない。

怒ったままでも、次にどうするかは決められる。

 

「でも、リーリャを追い出せば、危険な目に遭うのはリーリャと赤ちゃんです」

 

ルディは父様を見る。

 

「断らなかったのは父様です」

 

父様の肩が跳ねた。

 

「リーリャが部屋へ行ったことが本当でも、父様は結婚していました。家の主人で、リーリャを雇っている側で、大人です」

 

六歳の子供が言うには、整いすぎた言葉だった。

けれど、間違ってはいない。

 

「リーリャだけが出ていくのは、父様のしたことの責任を、赤ちゃんにも負わせることになります」

 

「ルディ」

 

父様が呼ぶ。

 

「俺が悪い。それは分かっている」

 

「分かっているだけでは、何も決まりません」

 

ルディの言葉が、父様へ刺さる。

 

父様は俯いた。

母様は黙っている。

 

ルディの理屈は正しい。

それでも、母様の顔は変わらない。

正しいだけでは、届かない。

 

俺は最初の水を思い出した。

三人を止めるという目的は間違っていなかった。

水を選んだことにも理由はあった。

それでも、シルフィは怖かった。

 

相手の気持ちは、正しさだけでは決まらない。

 

「母様」

 

声を出す。

全員が俺を見る。

 

何を言うか、決めていなかった。

昔なら、最初に浮かんだことを、そのまま口にしたと思う。

 

今は、一度考えた。

母様が何を聞けば、一番動くのか。

……そんなことを考えた自分に気付き、少し嫌になる。

それでも、黙らない。

 

「俺、さっき、赤ちゃんが二人になるのって聞いた」

 

母様の眉が僅かに下がる。

 

「うん」とも「そうね」とも言わなかった。

 

「最初は、嬉しかった」

 

リーリャが顔を上げる。

 

「母様の赤ちゃんも、リーリャの赤ちゃんも、俺の弟か妹でしょ?」

 

今度は、母様が目を伏せた。

テーブルの上で固く握られていた指が、少しだけ緩む。

 

俺は、それを見た。

見て、もう一度同じ場所へ言葉を向けた。

 

「俺とルディみたいに、二人ともこの家で大きくなるんじゃないの?」

 

ずるいと思った。

母様が俺とルディを大切にしていることを知っている。

兄弟を離す話に弱いことも、今の指を見て分かった。

 

だから言った。

けれど、嘘ではなかった。

俺は本当に、二人の赤ちゃんが一緒に育つのだと思っていた。

 

「リーリャがいなくなったら、その子もいなくなる」

 

喉の奥が痛くなる。

 

「俺は嫌だ」

 

子供の言葉だった。

理屈ではない。

だが、それだけでもなかった。

嫌だという気持ちと、その言葉なら母様へ届くという考えが、一緒にあった。

 

「母様は、父様を許さなくていい」

 

ルディの言葉を借りる。

 

「リーリャにも、怒ってていい。でも、今日、いなくなるって決めないで」

 

母様の目から、また涙が落ちた。

 

「そんなことを言われたら、私が悪いみたいじゃない」

 

「母様は悪くないよ」

 

「では、誰を追い出せばいいの?」

 

「父様」

 

考える前に答えた。

父様が顔を上げる。

 

「俺か?」

 

「だって、父様が一番悪いんでしょ」

 

「いや、それは、そうだが」

 

「納屋なら雨も入らないよ」

 

「ゼディ、今は冬だ。無理だぞ」

 

「ずっとじゃなくて、母様が怒ってる間」

 

「それがいつまでか分からないんだ」

 

「知りません。父様が考えてください」

 

ルディが真顔で言った。

 

「ルディ、お前まで」

 

「赤ん坊を連れたリーリャより、父様一人の方が安全です。合理的だと思います」

 

母様が、涙を拭いながら息を漏らした。

笑ったのか、呆れたのかは分からない。

部屋に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。

 

父様は助けを求めるようにリーリャを見た。

リーリャは静かに目を逸らした。

 

「旦那様。此度ばかりは」

 

「分かってる」

 

父様が両手で顔を覆う。

 

「俺が悪い」

 

「それは、もう聞きました」

 

母様の声はまだ冷たい。

けれど、先ほどより僅かに力が戻っていた。

 

長い沈黙の後、母様はリーリャを見た。

 

「リーリャ」

 

「はい」

 

「立ちなさい。お腹に子供がいる人が、いつまでも床に座っているものではないわ」

 

リーリャの唇が震える。

 

「ですが」

 

「許したわけではありません」

 

母様は、はっきりと言った。

 

「あなたのしたことを、なかったことにもできない。今までと同じように接することも、すぐには無理よ」

 

「承知しております」

 

「それでも、ここにいなさい」

 

リーリャの目が見開かれる。

 

「二人とも、ここで産みます。生まれた子供に、私たちのしたことの責任を負わせない」

 

リーリャの目から涙が落ちた。

床へ頭をつけようとする。

母様が止めた。

 

「だから、座り込まないで。身体を大切にして」

 

「……はい」

 

「子供たちは、同じ家の子として育てます」

 

母様は自分の腹へ手を当てた。

それから、リーリャの腹を見る。

 

「どちらかだけを、いない子にはしません」

 

胸の奥が熱くなる。

 

「ありがとう、ゼニス」

 

父様が言った。

母様は、ゆっくり父様を見た。

 

「あなたのためではないわ」

 

「……はい」

 

「今夜から、あなたは居間で寝なさい」

 

「納屋ではなく?」

 

「ゼディ」

 

母様に名前を呼ばれ、口を閉じる。

 

「それから、お酒は禁止。水汲みと薪割りと、重い物を運ぶのは全部あなた」

 

「分かった」

 

「返事だけは昔から立派ね」

 

以前、俺が父様に言われた言葉だった。

父様は何も言い返せなかった。

 

家族会議は、それで終わった。

 

誰も笑顔にはならなかった。

母様は父様を許していない。

リーリャも、顔を上げられない。

父様は居間へ寝具を運んだ。

 

壊れなかったからといって、元に戻ったわけではない。

 

それでも、リーリャの靴は玄関に残った。

腹の中にいる二人の子供も、この家へ残った。

 

今は、それでよかった。

 

 

夜が深くなっても、眠れなかった。

 

居間では、父様が何度も寝返りを打っている。

隣のベッドからも、ルディの寝息は聞こえない。

 

「ルディ」

 

「起きています」

 

「あれで、よかったのかな」

 

「分かりません」

 

ルディは少し間を置いた。

 

「リーリャと赤ちゃんが、すぐに追い出されることは止められました」

 

「うん」

 

「でも、母様を言葉で追い詰めたかもしれません」

 

ルディも気付いていた。

正しいことを並べた。

母様が簡単には否定できない形にした。

 

嘘はついていない。

それでも、言葉は使い方によって相手の逃げ道を塞ぐ。

 

「俺も、母様が兄弟って言葉に弱いって分かって、二回言った」

 

「そうだと思いました」

 

「ずるかった?」

 

「少し」

 

ルディは正直だった。

 

「僕も同じです。赤ちゃんに責任はないと言えば、母様が反対しにくいことは分かっていました」

 

「でも、本当にそう思った」

 

「僕もです」

 

打算があることと、気持ちが嘘であることは別らしい。

シルフィを助けたいと思いながら、自分が怖くて逃げた。

今日の俺は、リーリャと赤ちゃんに残ってほしいと思いながら、母様が動く言葉を選んだ。

 

どちらも俺だ。

違うのは、選んだ後に隠さないことかもしれない。

 

「母様に言ってくる」

 

ベッドから降りる。

 

「今からですか?」

 

「今じゃないと、眠れない」

 

ルディも起き上がった。

 

「僕も行きます」

 

母様の部屋には、まだ灯りがついていた。

扉を叩く。

 

「母様。俺」

 

「僕もいます」

 

少し待つと、扉が開いた。

母様は寝間着へ着替えていた。

目はまだ赤い。

 

「どうしたの?」

 

「さっき、母様が困る言葉を、わざと選んだ」

 

最初に言った。

母様が目を瞬く。

 

「赤ちゃんが兄弟だって言えば、母様は追い出すって言いにくくなると思った」

 

「ゼディ」

 

ルディが隣で続ける。

 

「僕もです。危険や責任の話を順番にすれば、母様がリーリャを出ていかせにくくなると考えました」

 

「二人とも、それを謝りに来たの?」

 

「うん」

 

「はい」

 

母様は俺たちを見下ろした。

怒られると思った。

母様はしばらく黙った後、扉を大きく開いた。

 

「入りなさい」

 

二人で部屋へ入る。

母様はベッドへ座り、俺たちを前へ立たせた。

 

「本当に、六歳なのよね?」

 

「同じ日に生まれたから、二人とも六歳だよ」

 

「そういう意味ではないわ」

 

母様は疲れたように笑った。

 

「ずるい言い方だったと思います」

 

ルディが俯く。

 

「ごめんなさい」

 

「でも、嘘はなかったんでしょう?」

 

「はい」

 

「俺、二人とも残ってほしかった」

 

母様は俺たちの顔を順番に見る。

 

「なら、今はそれでいいわ」

 

「怒らないの?」

 

「怒る元気は、全部あなたたちの父親に使ったもの」

 

少しだけ、いつもの母様だった。

 

「ただし、覚えておいて」

 

母様の手が、俺とルディの頬へ一つずつ触れる。

 

「賢い言葉は、人を助けることもできる。でも、逃げ道を塞いで傷つけることもできるわ」

 

「はい」

 

「今日の私は、二人に助けられたと思っている。同時に、許すことを急かされたようにも感じた」

 

胸が痛む。

 

「ごめん」

 

「だから、許してはいないと言ったの。リーリャにも、パウロにも、時間をかけて向き合ってもらう」

 

母様は俺の頭を撫でる。

 

「あなたたちが全部を直す必要はないのよ」

 

卒業試験の前、ルディは一人で二人分を頑張ろうとした。

今日、俺たちは二人で家族全部を直そうとしたのかもしれない。

 

できるはずがない。

壊れないように手を添えることはできても、その後まで代わりにはできない。

 

「もう一つ」

 

母様の声が低くなる。

 

「二人とも、将来結婚することがあったら、今日のパウロのような真似だけはしないこと」

 

「はい」

 

俺はすぐ返事をした。

ルディも続けて頷く。

 

父様を嫌いになったわけではない。

剣を教えてくれる。

村を守っている。

俺たちのことも、母様のことも大切にしている。

 

ーーそれでも、大切に思っているだけでは足りないことがある。

 

父様は母様を泣かせた。

俺は、あんな夫にはならない。

妻は一人でいい。

 

たった一人を選び、その人を悲しませない。

ーーそう考えた時、なぜか青い髪が浮かんだ。

 

夜の灯りの下で、本を読む横顔。

卒業試験の日、小さな背中で馬へ乗る姿。

門の向こうから、手を振ってくれた笑顔。

 

どうして先生が浮かぶのかは分からない。

妻と先生は、別の言葉のはずだ。

慌てて頭から追い出そうとした。

 

だが、青い髪はしばらく消えなかった。

 

「ゼディ?」

 

「なに?」

 

「顔が赤いわよ」

 

「火魔術の練習をしたから」

 

「夜中に?」

 

「思い出しただけ」

 

母様が首を傾げる。

ルディは何か言いたそうに俺を見た。

 

「何?」

 

「いいえ。別に」

 

ルディは何やら言いたげに笑みを浮かべた割に、何も言ってこなかった。

腹が立ったので、戻ったらルディの枕を取ることにした。

 

部屋を出る前、母様は俺たちを呼び止めた。

 

「ありがとう」

 

振り返る。

 

「さっきは言えなかったから」

 

母様は泣いた後の顔で笑った。

 

「二人が……二人とも私の子でよかった」

 

その言葉だけで、今夜は眠れると思った。

 

 

翌朝。

食卓には、全員がいた。

父様だけが居間で変な寝方をしていて起きたせいで、腰を押さえている。

 

「身体が痛い」

 

「鍛錬が足りないのではありませんか?」

 

リーリャが淡々と言った。

父様が黙る。

 

リーリャの目も腫れていた。

母様と視線が合うと、すぐに俯いた。

以前と同じではない。

 

それでも、母様はリーリャが立って水差しを取ろうとした時、先に手を伸ばした。

 

「座っていて。今は急に動かない方がいいわ」

 

「奥様、私は」

 

「仕事の話ではありません。身体の話をしています」

 

「……ありがとうございます」

 

短いやり取りだった。

許したわけではない。

それでも、同じ食卓にいる。

 

俺はそれを見てから、庭へ出た。

シルフィが門のところで待っていた。

 

「おはよう、ゼディ。昨日、何かあった?」

 

家の中の空気が、外まで漏れていたのかもしれない。

 

「家族の話」

 

「大丈夫?」

 

「まだ分からない。でも、みんないるよ」

 

全部は話さなかった。

嘘もつかなかった。

 

シルフィは少し心配そうだったが、それ以上は聞かなかった。

 

ルディも庭へ来る。

 

「今日は、無詠唱からですか?」

 

「うん」

 

俺は右手を前へ出した。

昨夜のことを思い出す。

 

母様の涙。

床へ座るリーリャ。

頬を打たれた父様。

腹の中にいる、二人の赤ちゃん。

 

心が動きすぎている。

 

火を作ろうとする。

何も出ない。

 

詠唱の最初の言葉が喉まで上がった。

飲み込む。

 

「急がなくていいよ」

 

シルフィの声。

 

「一度、息を吐いてください」

 

ルディの声。

 

俺は目を閉じた。

今、全部を直す必要はない。

 

一つずつ。

息を吸い、止める。

そして、細く吐く。

 

胸の奥から腕へ。

腕から指へ。

 

言葉が来るのを待たない。

自分で、最初の一歩を作る。

 

指先に、小さな火が灯った。

昨日より小さい。

風が吹けば消えそうな火だった。

 

それでも、声は出していない。

 

「できた」

 

「はい」

 

「うん」

 

二人の声を聞いても、すぐには喜ばない。

 

火の形を見る。

熱を見る。

揺れに合わせ、魔力を少しだけ足す。

 

しばらく保ってから、自分で消した。

 

「今日は丸だね」

 

シルフィが言う。

 

「まだ一回だけ」

 

「一回目でできたから、丸です」

 

ルディも同じ意見らしい。

俺は先生の手帳を開き、その日の端へ丸を一つ書いた。

 

その下へ、昨夜のことも書く。

 

『母様のお腹に赤ちゃんがいる』

『リーリャのお腹にも赤ちゃんがいる』

『父様が母様を泣かせた』

 

最後の一行で手が止まる。

少し考えてから、続けた。

『俺は、妻を泣かせる夫にはならない。一人だけを大切にする』

 

青い髪が、また頭へ浮かんだ。

今度は、無理に消さなかった。

 

手帳を閉じる。

 

家の中から、父様が母様に叱られる声がした。

薪を床へ落としたらしい。

 

その後で、リーリャの小さな笑い声が聞こえた。

すぐに止まった。

……まだ、以前と同じようには笑えないのだろう。

 

それでも、声は同じ家の中から聞こえた。

 

俺はその朝、無詠唱の火を三度続けて成功させた。

四度目は失敗した。

 

だから、練習は明日も続ける。

 

家族のことも、きっと同じだった。

一度壊れなかったからといって、もう大丈夫なわけではない。

 

失敗した日も消さず、次の日に続きを作る。

俺はまだ、その先に何が待っているのか知らなかった。

 

母様とリーリャの腹が大きくなり、二人の赤ちゃんが生まれ、この騒がしい家で一緒に育っていく。

父様は母様に叱られ、ルディは本を読み、シルフィが庭へ来る。

 

先生とは、いつか旅のどこかで再会する。

一緒に旅をする。

 

そんな当たり前の日々が、ずっと続いていくのだと信じていた。

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