無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜   作:omugut

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第十一話『守りたいもの、欲』

母様が最初に声を上げたのは、まだ空が白み始める前だった。

俺は、その声で目を覚ました。

 

隣のベッドでも、ルディが身体を起こしている。

 

「今の……」

 

「母様です」

 

二人で寝台を降りる。

扉を開けるより先に、廊下を走る足音が聞こえた。

 

「旦那様、産婆を」

 

リーリャの声だった。

普段より早い。

それでも慌ててはいない。

 

母様たちの部屋――最近ようやく父様も戻ることを許された部屋の扉が開き、大きな影が飛び出してくる。

 

「始まったのか?」

 

「おそらく」

 

「分かった。すぐ呼んでくる」

 

父様は上着を半分だけ着た姿で玄関へ向かった。

片方の靴を履いていない。

 

「父様、靴」

 

俺が言うと、足元を見て戻ってきた。

 

「分かってた」

 

たぶん、分かっていなかった。

靴を履き、今度こそ家を飛び出していく。

リーリャは母様の部屋へ戻ろうとして、俺たちへ気付いた。

 

「ゼディ坊ちゃま。ルーデウス坊ちゃま。まだお休みになっていてください」

 

「赤ちゃんが生まれるの?」

 

「はい。もう間もなくかと」

 

間もなく。

ずっと先だと思っていた日が、急に今日になった。

 

母様の腹は、この数か月で随分と大きくなっていた。

赤ちゃんが動くようになってからは、何度も触らせてもらった。

 

手のひらの下から蹴られた時は驚いた。

母様に痛くないのかと聞くと、たまに痛いけれど元気な証拠だから嬉しいと笑っていた。

 

俺は毎朝、腹へ挨拶をした。

剣術は俺が教える。

魔術はルディが教える。

先生の話も聞かせる。

 

まだ一度も顔を見ていない相手へ、いくつも約束した。

その子が、今日生まれる。

 

嬉しいはずだった。

だが、閉じた扉の向こうから、また母様の苦しそうな声が聞こえた。

胸が強く縮む。

 

「母様は大丈夫?」

 

「出産には痛みが伴います」

 

「大丈夫なの?」

 

もう一度聞いた。

リーリャは、すぐには答えなかった。

 

「大丈夫にするため、私どもがついております」

 

大丈夫だとは言わなかった。

 

「俺にも、できることはある?」

 

「僕も手伝います」

 

ルディも隣へ立つ。

リーリャは俺たちを見比べた。

 

「では、湯をお願いいたします。清潔な水を沸かし、布をできるだけ集めてください」

 

「分かった」

 

「任せてください」

 

俺たちは別々に走り出した。

 

 

父様が産婆を連れて戻るまでに、湯を用意した。

俺が水を作り、火で温める。

急いでいたので無詠唱は使わなかった。

 

今の俺では、落ち着いていなければ小さな火しか出せない。

詠唱した方が、早くて確実だった。

 

今日は、練習の成果を見せる日ではない。

母様のために、失敗しない方法を選ぶ日だ。

 

ルディは布を集め、汚れている物と使える物を分けた。

いつもなら相談しながら動く。

だが、今は、ほとんど言葉がいらなかった。

 

俺が湯を作れば、ルディが桶を運ぶ。

ルディが布を並べれば、俺が風で細かな埃を飛ばす。

 

生まれた時から、同じ家で同じものを見てきた。

二人で一つではない。

それでも、何をすれば次につながるかは、互いに分かった。

 

父様が産婆を連れて戻ってきた。

白髪の小柄な老婆だった。

 

息を切らしている父様とは違い、老婆は俺たちへ挨拶もせず、真っすぐ母様の部屋へ入っていく。

 

扉が閉じた。

俺とルディは、空になった桶を持って廊下へ残った。

 

父様も入ろうとする。

すぐに産婆の声が飛んできた。

 

「あんたは邪魔だよ! 呼ぶまで外にいな!」

 

扉が閉められる。

父様は、行き場を失った手を宙へ浮かべた。

 

「父様」

 

「なんだ」

 

「邪魔だって」

 

「聞こえてる」

 

父様は廊下を歩き始めた。

窓まで行き、戻る。

玄関まで行き、戻る。

母様の声が聞こえるたび、足が速くなる。

 

「座ったら?」

 

「座っていられるか」

 

「歩いても変わりませんよ」

 

ルディが言う。

 

「分かってる。分かってるが……」

 

父様は頭を掻き、また歩いた。

 

俺も座ってはいられなかった。

湯が足りているか確かめる。

布を数え、次に必要になりそうな物を探す。

何かをしていれば、扉の向こうを考えずに済んだ。

 

母様の痛み。

赤ちゃんの姿。

 

もし、何かあったら。

最後の考えが浮かぶたび、別の仕事を見つけた。

 

昼が近づく。

赤ちゃんは、まだ生まれなかった。

産婆が何度か湯と布を取りに出てきた。

 

最初は落ち着いていた顔に、少しずつ皺が増えていく。

 

「時間がかかってるの?」

 

「初めてじゃないからって、毎回同じにはいかないよ」

 

老婆は短く答え、部屋へ戻る。

その手に、血のついた布があった。

目が離せなくなった。

 

あれは、誰の血だ。

母様か、赤ちゃんか。

 

「ゼディ」

 

ルディが俺の前へ立つ。

 

「見なくていいです」

 

「でも」

 

「今は、新しいお湯を作りましょう」

 

俺は頷いた。

水を出す。

 

詠唱の途中で、一節を間違えた。

水は生まれず、魔力だけが指先で散った。

 

「……もう一回」

 

最初から唱え直す。

 

今度は水が出た。

火をつける。

炎が大きくなりすぎ、桶の縁を舐めた。

 

ルディがすぐに水球を飛ばし、火を小さくする。

 

「落ち着いて」

 

「分かってる」

 

「分かっていてもできない時は、僕の声を聞いてください」

 

以前、俺がルディへ言ったことと似ていた。

一人では難しい時、声を掛ける。

分からないまま、勝手に決めない。

 

「うん」

 

俺は息を吐く。

 

「もう一度やる」

 

今度は、ちょうどいい温度の湯を作れた。

産婆へ渡す。

 

老婆は桶を受け取ったが、部屋へ戻らなかった。

 

俺とルディを見る。

次に、父様を見る。

 

「あんた、治癒魔術を使えるのかい?」

 

聞かれたのは父様だった。

 

「いや。息子たちなら……」

 

「どの程度だ」

 

「二人とも使える。細かな加減はゼディが上手い……よな?」

 

父様が答える。

ルディは少しだけムッとした顔をしたような気がするが、すぐに顔を直し、頷いた。

 

「治癒魔術は実際のところ、僕よりゼディの方が早いし制御が上手いです」

 

ルディは治癒に限り、無詠唱が使えない。

魔術が得意なルディにも、得意不得意があるということに、俺も無詠唱を始めてから気づいた。

俺は治癒魔術に関しては、無詠唱を練習する過程で徐々にできるようになっていた。

 

俺が得意な魔術の順番は、火が一番に来て、次に風と治癒が来る。

僅差だが土もそこそこに使えるが、水はどうしても苦手が続く。

 

老婆は迷い、扉を開く。

 

「二人とも入んな。母親の顔の方だけ見て、余計なところへ近づくんじゃないよ」

 

「何があったんですか?」

 

ルディが聞く。

 

「子供の向きが悪い」

 

「向き?」

 

「足の方から出ようとしてる。時間がかかりすぎた。このままだと、母親も子供ももたない」

 

音が遠くなった。

父様が老婆の肩を掴む。

 

「助かるんだろうな」

 

「助けたいなら、その手を離しな。あたし一人じゃ難しいと言ってるんだ」

 

父様はすぐに手を離した。

 

「俺は」

 

「母親の手を握ってな」

 

父様が頷く。

俺たちは、母様の部屋へ入った。

 

 

部屋の中は、暑かった。

湯気と汗の匂い。

窓は閉じられ、薄暗い。

 

母様は寝台の上にいた。

髪が顔へ張りつき、息をするたび胸が大きく上下している。

 

いつもの母様とは違った。

村の怪我人を診る時、落ち着いた声で治癒魔術を使う母様。

俺たちを叱る時、背筋を伸ばして立つ母様。

父様を一言で黙らせる母様。

 

その母様が、今は枕や布団を握り締めて苦しんでいる。

怖かった。

 

「ルディ……ゼディ……?」

 

母様が俺たちへ気付いた。

 

「どうして、ここに」

 

「手伝いに来た」

 

「治癒魔術を使います」

 

ルディが寝台の脇へ膝をつく。

 

「母様。触れます」

 

返事を待ち、腹から少し離れた脇腹へ手を当てた。

治癒魔術の詠唱。

 

淡い光が生まれる。

ルディの魔術は、傷を無理に消そうとはしなかった。

消耗した身体へ少しずつ力を戻し、呼吸を整える。

 

俺は母様の反対側へ座った。

 

「俺もやる」

 

詠唱を口にする。

治癒魔術の光が母様の身体へ入る。

母様の眉間から、僅かに力が抜けた。

 

「二人とも……上手になったわね」

 

苦しそうなのに、褒めた。

 

「今は話さなくていいよ」

 

「母親だもの。言いたい時に、言うわ」

 

声は弱いが、それでも、母様だった。

父様が寝台の頭側へ座り、母様の手を握る。

 

「ゼニス」

 

「遅い」

 

「悪かった」

 

「今の話よ」

 

「……悪かった」

 

母様は父様の手を強く握った。

父様の顔が歪む。

痛そうだったが、離さなかった。

 

産婆とリーリャが、俺たちの見えない場所で声を掛け合う。

 

短い指示。

母様の荒い息。

父様の励ます声。

 

ルディの詠唱。

俺の詠唱。

 

時間の進み方が分からなくなった。

俺の魔力は時間の経過と共に、徐々に減っていった。

 

ルディの額からも汗が落ちる。

緊張しているのだろう。

 

「代わる?」

 

「まだ大丈夫です」

 

「でも」

 

「ゼディは、母様の呼吸を見てください。苦しくなった時に使って」

 

魔力量の問題で、ずっと魔術をかけ続けるルディと、必要な時を見て使う俺。

ルディの方が魔術を始めたのが早い分、俺よりも魔力量は多い。

魔力量の多さでいくと、ルディの次が俺、俺の次がシルフィだろう。

……尤も、ルディの魔力量の多さは異常だが。

 

役割が違う。

どちらか一人だけでは足りない。

 

ベースはルディが危なくならないよう、苦しくならないようにかけ続けるが、さらに細かい部分は俺が考えて動く。

俺は母様の顔を見る。

息が浅くなれば治癒魔術。

力が戻れば止める。

 

そのたび、腹の中の子へ考えた。

出てこい。

母様をこれ以上苦しませるな。

 

いや、違う。

赤ちゃんだって、苦しいのかもしれない。

 

頑張れ。

母様も。赤ちゃんも。

 

二人とも。

どちらかではなく、二人とも。

 

俺はまだ、お前の顔を見ていない。

約束も、一つも守っていない。

だから、生きて出てきてくれ。

 

早く、顔が見たい。

 

そう思ったと同時に、母様が、今までで一番大きな声を上げた。

父様が名前を呼ぶ。

 

俺は咄嗟に母様の手へ触れた。

右手は父様が握っている。

左手を、俺とルディで挟んだ。

 

ルディの手が震えていた。

怖いのは、俺だけではない。

 

「大丈夫」

 

誰へ言ったのか分からなかった。

母様へ。

ルディへ。

自分へ。

 

もしかすると、まだ見えない妹へ。

 

「大丈夫だから」

 

もう一度言う。

そして、部屋の中から、母様以外の声が聞こえた。

 

細く、高い声。

最初は一度だけ。

 

次に息を吸い、今度はさっきより大きく泣いた。

赤ちゃんの声だった。

 

誰も動かなかった。

いや、産婆とリーリャは動いている。

 

だが、俺には時間が止まったように見えた。

 

泣いている。

生きている。

母様の腹の中から、俺たちと同じ場所へ来た。

 

「女の子だよ」

 

産婆が言った。

女の子。

妹。

 

「母様」

 

声が上手く出なかった。

母様は目を閉じ、泣いていた。

 

痛みではない。

笑いながら泣いていた。

父様は母様の手へ額を押しつける。

 

「ありがとう」

 

それしか言わなかった。

何度も、同じ言葉を繰り返した。

 

ルディは母様の手を握ったまま、俯いている。

肩が震えていた。

 

「ルディ」

 

「泣いていません」

 

「まだ何も言ってない」

 

「汗です」

 

俺も目の前が滲んでいた。

この部屋は暑い。

 

なら、俺のも汗なのかもしれない。

そういうことにした。

 

 

赤ちゃんは、思っていたより小さかった。

もっと丸くて、柔らかくて、笑っているものだと思っていた。

 

実際には顔を真っ赤にし、目を閉じ、全身で泣いている。

髪は濡れ、握った手は俺の指先より小さい。

 

産婆が身体を拭き、布で包む。

 

「触るなら、手を綺麗にしてからだよ」

 

水を出し、手を洗う。

風で乾かそうとして、産婆に止められた。

 

「冷やすんじゃないよ」

 

「温かい風にする」

 

「加減を間違えたらどうする」

 

何も言い返せなかった。

布で拭く。

 

母様の横へ、赤ちゃんが寝かされた。

泣き声は少し小さくなった。

母様の胸へ頬を寄せる。

 

「この子が……」

 

「うん」

 

父様は笑っている。

目は赤い。

 

「ゼディ、ルディ。近くに来て」

 

母様が呼ぶ。

俺たちは寝台へ近づいた。

 

赤ちゃんの顔を見る。

 

鼻。

口。

閉じた瞼。

どこが誰に似ているのか、まだ分からない。

 

「触ってもいい?」

 

「ええ。優しくね」

 

許してもらってから、人差し指を手へ近づける。

 

赤ちゃんの指が動いた。

俺の指を握る。

力は弱い。

 

振りほどこうと思えば、何も感じずに離せるほどだった。

なのに、動けなくなった。

一本の指を握られただけで、身体全部をつかまれたような気がした。

 

「握った」

 

「赤ちゃんは、近くにある物を握るんです」

 

ルディが言う。

声が少し掠れていた。

 

「俺だって分かってるんじゃないの?」

 

「目も開いていませんよ」

 

「声は聞いてたかもしれない」

 

「それは……あるかもしれません」

 

ルディも反対側から指を近づける。

赤ちゃんは俺の指を離し、今度はルディの指へ触れた。

 

「ルディも握られた」

 

「はい」

 

ルディが笑う。

いつもの、何かを隠す笑い方ではなかった。

ただ嬉しい時の顔だった。

 

「僕たちも、こうだったんでしょうか」

 

ルディが聞く。

 

「あなたたちは二人一緒だったから、もっと大変だったわ」

 

母様が答える。

 

「ゼディは泣いた。ルディは、あまり泣かなかった」

 

「俺、そんな泣いたの?」

 

「赤ちゃんとしては普通よ」

 

「僕が普通ではなかったように聞こえます」

 

「言ってないわ」

 

母様が弱く笑う。

リーリャが新しい布を持って近づいてきた。

疲れた顔をしている。

自分も大きな腹を抱えているのに、ずっと母様を助けていた。

 

「奥様。お身体を綺麗にいたします」

 

「ええ。お願い」

 

母様とリーリャの視線が合う。

家族での話し合いの後、二人は少しずつ話すようになっていた。

 

以前と同じではない。

母様が笑えば、リーリャも笑う。

けれど、どちらも一瞬だけ迷う。

 

消えたものを、同じ形へ戻そうとはしていない。

新しい形を、毎日少しずつ探しているようだった。

 

母様が赤ちゃんを見る。

次に、リーリャの腹を見た。

 

「次は、あなたね」

 

「はい。まだ少し先ですが」

 

リーリャが答えた、その時だった。

持っていた布が床へ落ちた。

 

「リーリャ?」

 

リーリャは腹へ手を当てる。

顔から色が消えていた。

 

足元へ、水が落ちる。

産婆が振り返った。

 

「まさか、あんたもかい?」

 

「……申し訳、ございません」

 

「謝ってる場合か!」

 

老婆がリーリャの身体を支える。

 

「まだ早いんじゃないの?」

 

母様が起き上がろうとする。

 

「動いちゃ駄目だ! あんたは寝てな!」

 

「でも」

 

「父様」

 

ルディが呼ぶ。

父様は、まだ生まれたばかりの娘を見たまま固まっていた。

 

「父様!」

 

俺も呼ぶ。

 

「あ、ああ」

 

ようやく動く。

 

「リーリャを運んで」

 

母様が言った。

父様は一瞬、母様を見た。

 

「行って」

 

声は弱い。

それでも、迷いはなかった。

父様がリーリャを抱き上げる。

 

「どこへ?」

 

「俺たちの部屋」

 

俺が先に扉を開けた。

 

「ルディ、布。お湯も作り直す」

 

「はい」

 

さっきまで喜びで満ちていた家が、もう一度慌ただしく動き始めた。

母様の娘が生まれて、まだほんの少ししか経っていない。

 

今度は、リーリャの子が生まれようとしていた。

俺の、もう一人の妹か弟が。

 

 

俺たちの部屋から、布団を全部運び出した。

寝台へ新しい布を敷く。

父様がリーリャを寝かせる。

 

産婆は腹へ触れ、いくつか質問をした。

 

「早いが、もう止められないね」

 

「この子は」

 

「今から心配しても始まらない。産ませるよ」

 

リーリャは唇を噛んだ。

 

「奥様は」

 

「母様なら、向こうで休んでる」

 

「ですが、赤ちゃんの」

 

「今は自分のことを考えて」

 

俺が言うと、リーリャはこちらを見た。

 

「ゼディ坊ちゃま」

 

「その子も、俺の妹か弟なんでしょ」

 

「……はい」

 

「だったら、二人で無事に出てきて」

 

何を言っているのか、自分でも分からなかった。

出てくるのは赤ちゃんで、リーリャはここにいる。

それでも、二人とも途中でいなくならないでほしかった。

 

「お約束、いたします」

 

リーリャはそう答えた。

守れるか分からない約束だった。

けれど今は、約束してほしかった。

 

俺は湯を作り直すため、桶の前へ座る。

 

水。

急がなければならない。

 

右手を出し、詠唱せずに作ろうとした。

何も出ない。

 

胸の中が騒がしすぎた。

 

さっき聞いた妹の泣き声。

リーリャの青い顔。

産婆の「早い」という言葉。

 

落ち着けない。

 

「ゼディ」

 

ルディが隣へ来る。

 

「無詠唱じゃなくていいです」

 

「でも、早く」

 

「失敗している時間の方が長い」

 

正しかった。

俺は無詠唱を使えるようになった。

 

だからといって、どんな時でも使わなければならないわけではない。

できることを証明するより、必要なものを確実に作る。

 

「分かった」

 

詠唱する。

 

水が桶を満たした。

火を使う。

 

今度は焦らず、底から温める。

 

「ルディ」

 

「何ですか?」

 

「母様のところにいてもいいよ」

 

「どうして?」

 

「母様が産んだ子は、ルディと俺の妹。でも、こっちは」

 

言葉が止まる。

母親が違う。

 

だから何だというのだろう。

違うから、俺が残らなければならないと思った。

 

リーリャが一人にならないように。

この子も、同じ妹だと最初から分かるように。

それは、ルディも同じはずだった。

 

「こっちも、僕たちの妹です」

 

ルディが言った。

 

「分かってる」

 

「なら、僕もここにいます」

 

「でも、母様が」

 

「母様には父様がいます。生まれた子にも、母様がいる」

 

ルディは湯の温度を確かめる。

 

「ここには、僕とゼディがいます」

 

俺は頷いた。

二人で残った。

 

産婆の指示に従い、湯と布を運ぶ。

父様はリーリャの手を握った。

 

「リーリャ」

 

「旦那様」

 

「ここにいる」

 

「……はい」

 

母様の時と同じ言葉だった。

俺は少しだけ嫌な気持ちになった。

 

父様が二人へ同じように触れること。

二人が父様の名前を呼ぶこと。

 

家族で話した日の母様の顔を思い出す。

だが、今は父様が手を離す方が違う。

嫌だと思う気持ちと、必要だと思う気持ちは一緒にあっていい。

 

俺は湯へ目を戻した。

リーリャの出産は、母様ほど長くはかからなかった。

 

それでも、簡単ではなかった。

予定より早い。

産婆の声は落ち着いていたが、何度も赤ちゃんへ呼び掛ける。

 

「急いで出ておいで。外は寒くないよ」

 

俺も心の中で呼んだ。

こっちへ来い。

 

母様の娘もいる。

ルディもいる。

俺もいる。

 

お前の場所は、もうある。

だから来い。

 

しばらくして、小さな声が聞こえた。

最初の妹よりも、弱い声だった。

 

一度泣き、止まる。

 

「どうしたの?」

 

俺は産婆へ近づきかけた。

 

「来るんじゃない!」

 

足を止める。

静かだった。

長すぎる静けさだった。

 

ルディが俺の腕を握る。

父様はリーリャの名前を呼び続ける。

リーリャは目を閉じ、返事をしない。

 

怖い。

さっき、一人は生まれた。

だから次も大丈夫だと、どこかで思っていた。

一度上手くいったからといって、次も上手くいくとは限らない。

 

無詠唱の練習で、何度も知ったはずだった。

 

「治癒を」

 

産婆が言った。

ルディがすぐに動く。

 

小さな身体へ、直接触れないよう手をかざす。

淡い光。

 

俺も詠唱を始める。

俺にできることを全部使う。

 

光が重なった。

小さな胸が動く。

空気を吸う。

そして、泣いた。

今度は、長く。

 

細いが、はっきりした声だった。

 

「生きてる?」

 

「生きてるよ」

 

産婆が答えた。

 

「女の子だ」

 

二人目も、女の子。

俺の妹。

 

「リーリャ」

 

俺は寝台へ近づいた。

 

「聞こえる? 生きてるよ」

 

リーリャの瞼が動く。

ゆっくり目を開いた。

 

「赤、ちゃんは」

 

「女の子。泣いてる」

 

「そう……ですか」

 

涙が、目尻から流れた。

 

「よかった」

 

その一言を最後に、リーリャは眠るように目を閉じた。

産婆が身体を確かめる。

 

「気を失っただけだ。息はある」

 

俺は膝から力が抜け、その場へ座り込んだ。

ルディも隣へ座る。

 

二人とも、しばらく立てなかった。

 

隣の部屋から、最初の妹の泣き声が聞こえる。

こちらの部屋では、二人目の妹が泣いている。

 

少し違う高さ。

少し違う強さ。

 

二つの声が、同じ家の中で重なった。

俺は、その音を一生忘れないと思った。

 

 

二人目の赤ちゃんは、さらに小さかった。

布へ包まれると、身体がどこにあるのか分からないほどだった。

 

「抱いてもいい?」

 

産婆へ聞く。

 

「座って、首を支えな。勝手に立つんじゃないよ」

 

言われたとおり、壁へ背をつけて座る。

腕の置き方を教えてもらう。

赤ちゃんが、ゆっくりのせられた。

 

軽い。

あまりにも軽くて、怖くなる。

 

剣より軽い。

先生にもらったロッドより軽いかも。

今まで持った何よりも慎重になった。

 

息をしているか、何度も胸を見る。

小さく上下している。

 

「俺が分かる?」

 

目は閉じたまま。

返事はない。

 

「俺、ゼディ。お兄ちゃんだよ」

 

前に、母様の腹へ言った言葉。

今度は、目の前にいる。

 

「生まれてきてくれて、ありがとう」

 

口にすると、また涙が出た。

今度は汗だと言い訳できなかった。

 

赤ちゃんの頬へ、一滴落ちそうになる。

慌てて顔を逸らす。

 

「濡らしてはいけませんよ」

 

ルディが言った。

ルディも泣いた顔をしている気がする。

 

「ルディも抱く?」

 

「先に、母様のところへ連れていきましょう」

 

「この子を?」

 

「二人とも生まれたことを伝えます」

 

俺たちは産婆を見る。

老婆は少し考えた後、頷いた。

 

「母親を起こすんじゃないよ。見せるだけだ」

 

「隣の部屋まで、俺が連れていってもいい?」

 

産婆は俺と父様を交互に見た。

 

「父親に腕の下を支えてもらいな。ゆっくりだよ」

 

俺は赤ちゃんを抱いたまま、ゆっくり立つ。

父様が横から手を添える。

 

「俺が抱こう」

 

「嫌だ」

 

「即答するな」

 

「俺が連れていく」

 

自分でも、なぜ譲りたくないのか分からなかった。

この子はリーリャの娘だ。

 

あの日、一度はこの家からいなくなりかけた子。

だから最初に、俺が家族のいる部屋へ連れていきたかった。

ここがお前の家だと、俺の腕で教えたかった。

 

「父様は横にいて」

 

「……分かった」

 

父様は何も聞かず、俺の腕の下へ手を添えた。

 

一歩ずつ進む。

 

隣の部屋へ入る。

母様は目を閉じていた。

胸元には、先に生まれた妹がいる。

 

母様は俺たちの気配で目を開いた。

 

「リーリャは?」

 

最初に聞いたのは、それだった。

 

「眠ってる。息はしてる」

 

「赤ちゃんは?」

 

俺は腕の中を見せる。

 

「女の子。小さいけど、ちゃんと泣いたよ」

 

母様が安堵したように息を吐く。

 

「こっちへ」

 

寝台の横へ座る。

二人の赤ちゃんが、初めて同じ場所へ並んだ。

 

片方は母様の胸元。

片方は俺の腕の中。

 

同じ日に生まれた。

大きさも、顔も違う。

 

母親も違う。

それでも、どちらも俺の妹だった。

 

母様が、腕の中の小さな頬へ指を近づける。

触れる前に一瞬、止まった。

 

あの日のことが、母様の中には残っている。

それでも、指は進んだ。

赤ちゃんの頬を優しく撫でる。

 

「小さいわね」

 

「早く生まれたから」

 

「頑張ったのね」

 

母様が誰へ言ったのかは分からない。

 

赤ちゃんへ。

リーリャへ。

もしかすると、自分へ。

 

胸元の妹が泣き出した。

その声につられるように、俺の腕の中でも小さな口が開く。

 

二人で泣く。

父様が困った顔をした。

 

「どうすればいい?」

 

「父親でしょう」

 

母様が言う。

 

「父親だから聞いてるんだ」

 

「ルディ、父様に教えてあげて」

 

「なぜ僕が知っている前提なんですか?」

 

「ルディなら、何となく知っていそうだから」

 

俺もそう思った。

ルディは不服そうだったが、先に生まれた妹を母様から受け取る。

 

首を支え、身体を横へ向ける。

ぎこちないが、父様よりは上手かった。

 

「本当に知ってる」

 

「本で読みました」

 

「何の本?」

 

「……いろいろです」

 

怪しい。

だが、妹の泣き声が少し小さくなったので、今は聞かないことにした。

 

俺も真似をする。

腕を少しだけ揺らす。

 

「大丈夫」

 

何が大丈夫なのかは分からない。

さっきも、同じことを言った。

 

「俺がいるよ」

 

泣き声は、すぐには止まらなかった。

それでも言い続けた。

 

「ルディもいる。母様も、リーリャも、父様もいる」

 

シルフィもいる。

先生は今はいないが、いつか会わせたい。

 

この子たちの周りには、たくさんの人がいる。

一人ではない。

 

そう伝えるように、名前を並べた。

しばらくすると、赤ちゃんは泣き疲れたように目を閉じた。

 

小さな寝息が、腕へ伝わった。

 

 

名前が決まったのは、二人が生まれた日の夜だった。

母様は、胸元で眠る娘を見て、ノルンと呼んだ。

 

リーリャは一度だけ目を覚まし、隣の籠を確かめると、掠れた声でアイシャと呼んだ。

どちらも、腹にいる間から考えていた名前らしい。

父様は二つの名前を何度も口にした。

 

「ノルン。アイシャ。ノルン、アイシャ」

 

嬉しそうだった。

少しうるさかった。

 

「覚えた?」

 

「自分の娘の名前だぞ。間違えるわけがない」

 

「俺とルディを呼び間違えるよ」

 

「お前たちは似てるからだ」

 

「ノルンとアイシャも、今は似てるよ」

 

「似てない。こっちは鼻がゼニスに似ていて、こっちは――」

 

父様が説明を始める。

俺には、まだ違いがよく分からなかった。

 

大きさは違う。

泣き声も違う。

 

だが、顔はどちらも赤ちゃんの顔だ。

 

「父様には分かるの?」

 

「父親だからな」

 

「さっき、泣いた時に何もできなかったのに」

 

「それとこれは別だ」

 

父様は胸を張った。

母様が寝台から睨むと、すぐに小さくなった。

 

リーリャは、名前を告げると再び眠っていた。

アイシャは、その横の小さな籠へ寝かされていた。

ノルンは母様の隣。

 

家の中に、二つの寝床が増えた。

俺とルディは、元々ロキシー先生が使っていたけれど空いた部屋を使い出した。

かつての俺の部屋だ。

 

部屋を行ったり来たり。

忙しかったが、少しも嫌ではなかった。

 

「ルディ」

 

「何ですか?」

 

「妹が二人できた」

 

「知っています」

 

「両方、女の子だった」

 

「それも知っています」

 

「ノルンと、アイシャ」

 

「忘れないように確認しているんですか?」

 

「言いたいだけ」

 

名前を口にすると、本当に二人がいるのだと分かった。

 

赤ちゃん、妹。

それだけだったものへ、名前がついた。

 

ノルン。

アイシャ。

 

もう「母様の赤ちゃん」と「リーリャの赤ちゃん」だけではない。

それぞれ別の人だった。

世界にたった二人しかいない、俺とルディの妹だった。

 

「ルディは、どう思った?」

 

「何をですか?」

 

「二人が生まれて」

 

暗い居間で、ルディの顔はよく見えない。

長い沈黙があった。

 

「怖かったです」

 

ルディは言った。

 

「母様も、ノルンも、アイシャも、リーリャも。誰かが死ぬかもしれないと思いました」

 

「俺も」

 

「治癒魔術が足りなかったら。僕が間違えたら。もっと早く何かできたんじゃないか。ずっと考えていました」

 

ルディも同じだった。

魔術が使えるからこそ、使っても助けられないことが怖い。

力があるから、何でもできるわけではない。

 

「でも、生まれた」

 

「はい」

 

「ルディが助けた」

 

「僕だけではありません」

 

「俺はお湯を作っただけ」

 

「治癒魔術も使ったでしょう」

 

「ずっとはルディだったよ」

 

「細かい判断が必要な部分は、ゼディがこなしたでしょう。産婆さんも、リーリャも、父様もいました。母様たちが一番頑張った」

 

ルディは少し間を置く。

 

「誰か一人が助けたわけではありません」

 

母様に言われた言葉を思い出す。

俺たちが全部を直す必要はない。

出産も同じだった。

 

俺一人では何もできなかった。

ルディ一人でも、きっと足りなかった。

 

それでも、二人が生まれた時、俺は強く思った。

守らなければならない。

 

「俺、二人を守る」

 

「僕もです」

 

「ルディも守る」

 

今度は、返事がなかった。

 

「どうして黙るの?」

 

「僕は兄ですよ」

 

「双子だから、ほとんど同じでしょ」

 

「それでも僕が兄です」

 

「弟に守られたら嫌?」

 

「嫌ではありません」

 

ルディが寝返りを打つ。

こちらを向いたのだと思う。

 

「ですが、ゼディだけが守る側のように言うのは、嫌です」

 

「じゃあ、どう言えばいい?」

 

「僕もゼディを守ります」

 

考えていなかった答えだった。

 

「俺は自分で守れるよ」

 

「僕だって同じです」

 

「ルディは、外が怖い時がある」

 

「ゼディは、考えずに飛び出す時があります」

 

言い返せない。

 

「僕が怖くて動けない時は、ゼディが隣にいてください」

 

ルディが続ける。

 

「ゼディが一人で全部を背負おうとした時は、僕が止めます」

 

「ノルンとアイシャは?」

 

「二人で守ります」

 

「二人とも一緒に泣いたら?」

 

「一人ずつ抱けばいいでしょう」

 

簡単に言う。

 

けれど、少しだけ分かった。

俺には身体が一つしかない。

 

ノルンを抱けば、アイシャは抱けない。

アイシャを抱けば、ルディの手は握れない。

なら、ルディがもう一人を抱けばいい。

 

俺がルディを守り、ルディが俺を守る。

二人で妹たちを守る。

守る側と守られる側を、最初から分ける必要はない。

 

「分かった」

 

「本当に?」

 

「できるだけ」

 

「そこは、はいと言ってください」

 

「一人でできそうな時は、一人でやるよ」

 

「ゼディ」

 

「でも、無理なら言う」

 

「絶対に?」

 

「たぶん」

 

「ゼディ」

 

「言う。約束する」

 

ようやく、ルディが黙った。

その時、奥の部屋から泣き声が聞こえた。

 

一人分。

続いて、もう一人分。

 

「二人とも泣いてる」

 

「行きましょう」

 

「一人ずつ?」

 

「一人ずつです」

 

俺たちは同時に寝具から出た。

 

 

二人の妹が生まれてから、家は眠らなくなった。

夜になれば、どちらかが泣く。

一人が泣くと、もう一人も起きる。

父様が抱くと、さらに大きく泣くことがあった。

 

「俺の顔が怖いのか?」

 

「抱き方が怖いんじゃない?」

 

「ゼディ、代われ」

 

「父様が慣れないと駄目だよ」

 

母様が笑う。

リーリャも、口元だけで笑った。

以前より、二人が同時に笑うことが増えた。

傷が消えたわけではない。

 

父様がリーリャへ近づく時、母様の目が僅かに動く。

リーリャも母様の前では、必要以上に父様から距離を取る。

 

それでも、ノルンが泣けばリーリャが抱いた。

アイシャの布がずれれば、母様が直した。

自分が産んだ方だけを見ることはなかった。

 

ある朝、母様が眠っている間にノルンが泣き出した。

リーリャはアイシャへ乳を与えていた。

 

俺は籠からノルンを抱き上げる。

首を支える。

身体を胸へ寄せる。

 

「大丈夫」

 

相変わらず、それしか言えない。

 

ノルンは泣き止まない。

部屋を歩く。

揺らしすぎないよう、ゆっくり。

 

「ゼディ坊ちゃま。背を軽く叩いて差し上げてください」

 

リーリャが教える。

言われたとおりにする。

小さな身体から、思ったより大きな音がした。

驚いて手を止める。

 

「今の何?」

 

「げっぷです」

 

「壊れてない?」

 

「大丈夫でございます」

 

ノルンの泣き声が小さくなった。

 

「俺が止めた」

 

「ノルンお嬢様ご自身が落ち着かれたのです」

 

「俺が抱いたから」

 

「そういうことにしておきましょう」

 

リーリャの言い方は、少しだけ先生に似ていた。

別の日には、アイシャの布を替えようとした。

 

やり方は何度も見ている。

寝かせ、汚れた布を外し、新しい布を用意する。

完璧だと思った。

アイシャは、布を外した瞬間に俺の服を濡らした。

 

「……やったね」

 

アイシャは目を開けていた。

まだ何も分かっていないはずなのに、俺を見ているように思えた。

 

「笑った?」

 

「まだ笑う時期ではありません」

 

ルディが横から答える。

 

「今、笑ったよ」

 

「そう見えただけです」

 

「俺にかけて笑った」

 

「随分と性格の悪い妹になりますね」

 

「アイシャは賢いんだよ」

 

リーリャが新しい服を持ってきた。

 

「申し訳ございません、ゼディ坊ちゃま」

 

「リーリャが謝ることじゃないよ」

 

俺はアイシャを見る。

 

「次は避けるから」

 

赤ちゃん相手に何を競っているのかと、ルディに笑われた。

 

ノルンは大きな声で泣いた。

抱くと、服を強く握る。

 

アイシャはノルンより静かだった。

目を開けている時は、近くで動くものを追うように見えた。

 

違いが、少しずつ分かるようになった。

父様の言ったとおり、顔も違う。

 

ノルンは母様に似ている。

アイシャはリーリャに似ている。

 

それでも、眠っている時に口元が少し緩むところは、二人とも同じだった。

もしかすると、俺やルディも同じ顔をして眠るのかもしれない。

 

四人は、同じ父様の子だった。

父様に似ていると言われるのは、少し複雑だが。

 

 

シルフィが二人へ会いに来たのは、生まれてから七日後だった。

門を入る前から、何度も家の窓を見ている。

 

「入っていいの?」

 

「母様に聞いた。いいって」

 

「赤ちゃん、寝てる?」

 

「今は二人とも起きてる」

 

声を小さくしながら、家へ入る。

 

シルフィは先にノルンを見た。

次にアイシャを見る。

 

「小さい……」

 

「アイシャの方が少し小さいよ」

 

「触ってもいい?」

 

「手を洗ってから」

 

産婆に言われたことを、そのまま言う。

シルフィは真面目に手を洗い、布で拭いた。

 

「どっちから?」

 

「ノルンは今、ルディが抱いてる」

 

ルディは椅子へ座り、ノルンを腕に載せていた。

 

一週間で、随分と慣れた。

ノルンも落ち着いている。

シルフィは、その姿を見つめた。

 

「ルディ、上手だね」

 

「毎日抱いていますから」

 

少し誇らしそうだった。

 

「シルフィも抱いてみる?」

 

「ぼくが?」

 

「座っていれば大丈夫だよ」

 

ルディが隣の椅子を示す。

シルフィは緊張しながら座った。

触れていいかをもう一度確かめ、両腕を出す。

 

ルディは急がなかった。

シルフィの腕の位置を見て、支え方を教える。

 

「ここで首を支えるんだ」

 

「うん」

 

「怖かったら、すぐ言って」

 

「大丈夫」

 

ノルンが、シルフィの腕へ移る。

緑の髪と、小さな茶色の頭が並んだ。

シルフィは息まで止めている。

 

「息していいよ」

 

俺が言うと、ゆっくり吐いた。

ノルンが僅かに身じろぎする。

 

「動いた」

 

「生きてるからね」

 

「分かってるよ」

 

シルフィはノルンを見つめたまま笑った。

 

「二人のお姉ちゃんみたい」

 

俺が言う。

シルフィの顔が赤くなった。

 

「ぼく、お姉ちゃんじゃないよ」

 

「家族じゃないから?」

 

「うん……」

 

シルフィはルディを見る。

ルディは意味が分からないらしく、首を傾げた。

 

「家族じゃないから、友達だよ」

 

「俺たちの友達なら、ノルンとアイシャの友達でもあるよ」

 

「赤ちゃんと友達になれるの?」

 

「まず一緒に遊んでから」

 

以前、俺がシルフィへ言った言葉だった。

シルフィも思い出したらしい。

 

「じゃあ、大きくなったら遊ぶ」

 

「うん」

 

約束が一つ増えた。

 

 

妹ができても、俺たちの日常が全部変わったわけではない。

 

朝は魔術の練習をする。

午後は父様と剣を振る。

シルフィが来れば、三人で本を読む。

 

ただ、何をしていても家の中の声が気になった。

 

泣いていないか。

母様とリーリャは困っていないか。

 

剣を振る途中で窓を見る。

 

「集中しろ」

 

父様の木剣が頭へ落ちてくる。

避ける。

 

「今、家の中から声がした」

 

「赤ん坊は泣くものだ」

 

「二人とも?」

 

「どちらかまでは分からん」

 

「じゃあ、見てくる」

 

「待て」

 

肩を掴まれた。

 

「ゼディ。お前が見に行かなくても、ゼニスとリーリャがいる」

 

「でも」

 

「何かあれば呼ばれる」

 

父様は木剣を肩へ載せる。

 

「気になるのは分かる。俺も気になる」

 

「父様も?」

 

「当たり前だ。できるなら一日中見ていたい」

 

父様は少し遠い目をした。

 

「だが、それをやるとゼニスに仕事をしろと怒られる」

 

それは父様が悪い。

 

「守るってのは、ずっと抱えて離さないことじゃない」

 

父様が言った。

 

あの日の父様を思い出す。

母様を泣かせ、何も言えず小さくなっていた。

 

その父様の言葉を、素直に聞いていいのか少し迷う。

だが、間違ってはいない気がした。

 

「じゃあ、何?」

 

「必要な時に手を伸ばせるよう、自分の足で立っておくことだ」

 

「父様は、立ってた?」

 

「今それを聞くか?」

 

「守れなかったから、母様が泣いたんでしょ」

 

父様は黙った。

しばらくして、俺の頭へ手を置く。

 

「そうだな。俺は一度、立っていられなかった」

 

言い訳をしなかった。

 

「だから、立ち直ってる途中だ」

 

母様とリーリャだけではない。

父様も、家族の新しい形を探している。

 

「剣を持て、ゼディ」

 

「妹が泣いても?」

 

「今は俺が相手だ」

 

父様が木剣を構える。

 

「俺を越えたいなら、俺から目を離すな」

 

家の中を気にしたまま、目の前も見る。

それは難しかった。

 

だが、妹たちを守りたいなら、今より強くならなければならない。

俺は木剣を握り直した。

 

「行くよ、父様」

 

踏み込む。

家の中から聞こえた泣き声は、いつの間にか止まっていた。

 

俺が行かなくても、誰かが抱いてくれたのだ。

少し安心した。

同時に、少し寂しかった。

自分が必要とされたい。

 

その気持ちも、守りたいという言葉の中へ混ざっているのかもしれない。

 

 

その夜。

先生の手帳を開いた。

 

家族で話し合った日のの翌朝に書いた二つの記録。

 

『母様のお腹に赤ちゃんがいる』

『リーリャのお腹にも赤ちゃんがいる』

 

その下へ、続きを書く。

『二人とも生まれた。女の子だった』

『母様の娘はノルン。リーリャの娘はアイシャ』

 

少し考える。

 

二行目へ線を引いた。

間違っているわけではない。

それでも、それだけでは足りなかった。

 

新しく書き直す。

『俺とルディの妹は、ノルンとアイシャ』

 

これならいい。

二人の母親が違うことは消えない。

消す必要もない。

 

ノルンは母様から生まれた。

アイシャはリーリャから生まれた。

どちらも大事なことだ。

そして、二人とも俺の妹だということも、同じくらい大事だった。

 

手帳へ、二つの小さな手を描いてみる。

ノルンの手。アイシャの手。

 

見比べれば違うはずなのに、俺の絵ではほとんど同じになった。

井戸の絵よりは上手くなったと思う。

 

その下へ、もう一行。

『二人を守る』

 

書いてから、ルディの顔が浮かんだ。

卒業試験の日。

門の前で動けなかったルディ。

俺の手を握り、馬へ乗ったルディ。

林でシルフィを助けたルディ。

妹たちが生まれた日、母様と妹たちのために治癒魔術を使い続けたルディ。

 

ルディも守りたい。

『ルディも守る』

 

次に、母様とリーリャ。

父様。

シルフィ。

先生。

 

名前を書こうとして、止まる。

世界を見たい。

 

先生ともう一度会い、一緒に旅をしたい。

ルディが外へ出る時は、隣にいたい。

ノルンとアイシャが初めて立つところを見たい。

最初に俺の名前を呼ぶところも聞きたい。

剣を握るなら教えたい。

魔術を使いたいと言えば、ルディと一緒に教えたい。

母様たちのそばにもいたい。

 

全部欲しかった。

身体は一つしかない。

 

先生を探して世界へ出れば、家から離れる。

妹たちのそばにいれば、ルディが一人で外へ行く日が来るかもしれない。

ルディの隣にいれば、別の誰かへ手が届かないかもしれない。

 

一人で全部を守ることはできない。

分かっている。

 

それでも、どれか一つを選んで、他を諦めることはできなかった。

 

「欲張りですね」

 

隣から声がした。

ルディが、手帳を覗いている。

 

「勝手に見ないで」

 

「見える場所で書いていたのはゼディです」

 

手帳を胸へ抱える。

 

「どこから見てた?」

 

「僕の名前を書いたところから」

 

「ほとんど全部じゃないか」

 

ルディは俺の隣へ座る。

 

「守ってくれるのは嬉しいです」

 

「うん」

 

「でも、僕が行きたい場所へ行くのを止めないでください」

 

胸が詰まる。

 

「どこかへ行くの?」

 

「今すぐではありません」

 

ルディは窓の外を見る。

庭。

門。

その向こうへ続く道。

 

「僕にも、もっと魔術を学びたい気持ちがあります。シルフィにも、いろいろ教えたい」

 

「俺も先生を探したい」

 

「知っています」

 

「ノルンとアイシャもいる」

 

「はい」

 

「全部は無理なのかな」

 

ルディは少し考えた。

 

「同じ日に全部は無理でしょう」

 

「同じ日?」

 

「旅をする日もあれば、家へ帰る日もある。僕がいない時はゼディが二人を見て、ゼディがいない時は僕が見る」

 

「二人ともいない時は?」

 

「母様たちがいます」

 

「ずっと帰れないくらい遠くへ行ったら?」

 

「手紙を書きます」

 

「手紙で守れる?」

 

「全部は無理です」

 

ルディは、俺の手帳へ指を置く。

 

「でも、離れたら終わりではありません」

 

先生の顔が浮かぶ。

今はどこにいるか分からない。

 

それでも、先生との時間がなくなったわけではない。

手帳も、ペンダントも、教わった魔術も残っている。

 

「帰ればいい?」

 

「帰れるようにしておくんです」

 

「どうやって?」

 

「忘れない。伝える。勝手にいなくならない」

 

最後の言葉で、ルディが少し俯いた。

門の外を怖がっていたルディ。

俺は、ルディが勝手にいなくなるところはうまく想像できなかった。

 

「ルディも、いなくなる時は言って」

 

「もちろんです」

 

「俺を置いていかないで」

 

「ゼディも」

 

「うん」

 

簡単な約束だった。

守れると思った。

 

今の俺たちは、同じ部屋にいる。

ノルンとアイシャの泣き声が聞こえれば、一緒に起きる。

門を出る時は、どこへ行くか話す。

 

離れるとしても、自分で選び、言葉を残してからだ。

そう信じていた。

 

ルディが手帳を指す。

 

「最後に、もう一行書いてください」

 

「何を?」

 

「一人で全部を守ろうとしない」

 

「嫌だ」

 

「どうしてですか?」

 

「守りたいって思うのは、やめたくない」

 

「思うことをやめろとは言っていません」

 

「じゃあ」

 

ルディからペンを取り返す。

 

少し考えて、書いた。

『守りたいものは全部守る。でも、一人だけでは守らない』

 

ルディが横から読む。

 

「欲張りですね」

 

「ルディも手伝うんでしょ」

 

「仕方ありません」

 

口ではそう言いながら、笑っていた。

奥の部屋から、二つの泣き声が聞こえた。

俺とルディは顔を見合わせる。

 

「一人ずつ」

 

「はい。一人ずつです」

 

立ち上がる。

俺がノルンを腕に抱く。

ルディはアイシャを腕に抱く。

 

次に泣いた時は、交代すればいい。

そうやって、これからを一日ずつ作っていく。

 

二人だけだった兄弟に、二人の妹が増えた。

守りたい名前が、二つ増えた。

 

この家の夜には、もう俺とルディの寝息だけではない。

奥の部屋には、小さな籠と、畳まれた布と、二人分の泣き声がある。

 

いつか別々の道を歩く日が来ても。

帰る場所を間違えないように。

 

俺は、二つの産声と四つの名前を、胸の奥へしまった。

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