無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜 作:omugut
母様が最初に声を上げたのは、まだ空が白み始める前だった。
俺は、その声で目を覚ました。
隣のベッドでも、ルディが身体を起こしている。
「今の……」
「母様です」
二人で寝台を降りる。
扉を開けるより先に、廊下を走る足音が聞こえた。
「旦那様、産婆を」
リーリャの声だった。
普段より早い。
それでも慌ててはいない。
母様たちの部屋――最近ようやく父様も戻ることを許された部屋の扉が開き、大きな影が飛び出してくる。
「始まったのか?」
「おそらく」
「分かった。すぐ呼んでくる」
父様は上着を半分だけ着た姿で玄関へ向かった。
片方の靴を履いていない。
「父様、靴」
俺が言うと、足元を見て戻ってきた。
「分かってた」
たぶん、分かっていなかった。
靴を履き、今度こそ家を飛び出していく。
リーリャは母様の部屋へ戻ろうとして、俺たちへ気付いた。
「ゼディ坊ちゃま。ルーデウス坊ちゃま。まだお休みになっていてください」
「赤ちゃんが生まれるの?」
「はい。もう間もなくかと」
間もなく。
ずっと先だと思っていた日が、急に今日になった。
母様の腹は、この数か月で随分と大きくなっていた。
赤ちゃんが動くようになってからは、何度も触らせてもらった。
手のひらの下から蹴られた時は驚いた。
母様に痛くないのかと聞くと、たまに痛いけれど元気な証拠だから嬉しいと笑っていた。
俺は毎朝、腹へ挨拶をした。
剣術は俺が教える。
魔術はルディが教える。
先生の話も聞かせる。
まだ一度も顔を見ていない相手へ、いくつも約束した。
その子が、今日生まれる。
嬉しいはずだった。
だが、閉じた扉の向こうから、また母様の苦しそうな声が聞こえた。
胸が強く縮む。
「母様は大丈夫?」
「出産には痛みが伴います」
「大丈夫なの?」
もう一度聞いた。
リーリャは、すぐには答えなかった。
「大丈夫にするため、私どもがついております」
大丈夫だとは言わなかった。
「俺にも、できることはある?」
「僕も手伝います」
ルディも隣へ立つ。
リーリャは俺たちを見比べた。
「では、湯をお願いいたします。清潔な水を沸かし、布をできるだけ集めてください」
「分かった」
「任せてください」
俺たちは別々に走り出した。
◇
父様が産婆を連れて戻るまでに、湯を用意した。
俺が水を作り、火で温める。
急いでいたので無詠唱は使わなかった。
今の俺では、落ち着いていなければ小さな火しか出せない。
詠唱した方が、早くて確実だった。
今日は、練習の成果を見せる日ではない。
母様のために、失敗しない方法を選ぶ日だ。
ルディは布を集め、汚れている物と使える物を分けた。
いつもなら相談しながら動く。
だが、今は、ほとんど言葉がいらなかった。
俺が湯を作れば、ルディが桶を運ぶ。
ルディが布を並べれば、俺が風で細かな埃を飛ばす。
生まれた時から、同じ家で同じものを見てきた。
二人で一つではない。
それでも、何をすれば次につながるかは、互いに分かった。
父様が産婆を連れて戻ってきた。
白髪の小柄な老婆だった。
息を切らしている父様とは違い、老婆は俺たちへ挨拶もせず、真っすぐ母様の部屋へ入っていく。
扉が閉じた。
俺とルディは、空になった桶を持って廊下へ残った。
父様も入ろうとする。
すぐに産婆の声が飛んできた。
「あんたは邪魔だよ! 呼ぶまで外にいな!」
扉が閉められる。
父様は、行き場を失った手を宙へ浮かべた。
「父様」
「なんだ」
「邪魔だって」
「聞こえてる」
父様は廊下を歩き始めた。
窓まで行き、戻る。
玄関まで行き、戻る。
母様の声が聞こえるたび、足が速くなる。
「座ったら?」
「座っていられるか」
「歩いても変わりませんよ」
ルディが言う。
「分かってる。分かってるが……」
父様は頭を掻き、また歩いた。
俺も座ってはいられなかった。
湯が足りているか確かめる。
布を数え、次に必要になりそうな物を探す。
何かをしていれば、扉の向こうを考えずに済んだ。
母様の痛み。
赤ちゃんの姿。
もし、何かあったら。
最後の考えが浮かぶたび、別の仕事を見つけた。
昼が近づく。
赤ちゃんは、まだ生まれなかった。
産婆が何度か湯と布を取りに出てきた。
最初は落ち着いていた顔に、少しずつ皺が増えていく。
「時間がかかってるの?」
「初めてじゃないからって、毎回同じにはいかないよ」
老婆は短く答え、部屋へ戻る。
その手に、血のついた布があった。
目が離せなくなった。
あれは、誰の血だ。
母様か、赤ちゃんか。
「ゼディ」
ルディが俺の前へ立つ。
「見なくていいです」
「でも」
「今は、新しいお湯を作りましょう」
俺は頷いた。
水を出す。
詠唱の途中で、一節を間違えた。
水は生まれず、魔力だけが指先で散った。
「……もう一回」
最初から唱え直す。
今度は水が出た。
火をつける。
炎が大きくなりすぎ、桶の縁を舐めた。
ルディがすぐに水球を飛ばし、火を小さくする。
「落ち着いて」
「分かってる」
「分かっていてもできない時は、僕の声を聞いてください」
以前、俺がルディへ言ったことと似ていた。
一人では難しい時、声を掛ける。
分からないまま、勝手に決めない。
「うん」
俺は息を吐く。
「もう一度やる」
今度は、ちょうどいい温度の湯を作れた。
産婆へ渡す。
老婆は桶を受け取ったが、部屋へ戻らなかった。
俺とルディを見る。
次に、父様を見る。
「あんた、治癒魔術を使えるのかい?」
聞かれたのは父様だった。
「いや。息子たちなら……」
「どの程度だ」
「二人とも使える。細かな加減はゼディが上手い……よな?」
父様が答える。
ルディは少しだけムッとした顔をしたような気がするが、すぐに顔を直し、頷いた。
「治癒魔術は実際のところ、僕よりゼディの方が早いし制御が上手いです」
ルディは治癒に限り、無詠唱が使えない。
魔術が得意なルディにも、得意不得意があるということに、俺も無詠唱を始めてから気づいた。
俺は治癒魔術に関しては、無詠唱を練習する過程で徐々にできるようになっていた。
俺が得意な魔術の順番は、火が一番に来て、次に風と治癒が来る。
僅差だが土もそこそこに使えるが、水はどうしても苦手が続く。
老婆は迷い、扉を開く。
「二人とも入んな。母親の顔の方だけ見て、余計なところへ近づくんじゃないよ」
「何があったんですか?」
ルディが聞く。
「子供の向きが悪い」
「向き?」
「足の方から出ようとしてる。時間がかかりすぎた。このままだと、母親も子供ももたない」
音が遠くなった。
父様が老婆の肩を掴む。
「助かるんだろうな」
「助けたいなら、その手を離しな。あたし一人じゃ難しいと言ってるんだ」
父様はすぐに手を離した。
「俺は」
「母親の手を握ってな」
父様が頷く。
俺たちは、母様の部屋へ入った。
◇
部屋の中は、暑かった。
湯気と汗の匂い。
窓は閉じられ、薄暗い。
母様は寝台の上にいた。
髪が顔へ張りつき、息をするたび胸が大きく上下している。
いつもの母様とは違った。
村の怪我人を診る時、落ち着いた声で治癒魔術を使う母様。
俺たちを叱る時、背筋を伸ばして立つ母様。
父様を一言で黙らせる母様。
その母様が、今は枕や布団を握り締めて苦しんでいる。
怖かった。
「ルディ……ゼディ……?」
母様が俺たちへ気付いた。
「どうして、ここに」
「手伝いに来た」
「治癒魔術を使います」
ルディが寝台の脇へ膝をつく。
「母様。触れます」
返事を待ち、腹から少し離れた脇腹へ手を当てた。
治癒魔術の詠唱。
淡い光が生まれる。
ルディの魔術は、傷を無理に消そうとはしなかった。
消耗した身体へ少しずつ力を戻し、呼吸を整える。
俺は母様の反対側へ座った。
「俺もやる」
詠唱を口にする。
治癒魔術の光が母様の身体へ入る。
母様の眉間から、僅かに力が抜けた。
「二人とも……上手になったわね」
苦しそうなのに、褒めた。
「今は話さなくていいよ」
「母親だもの。言いたい時に、言うわ」
声は弱いが、それでも、母様だった。
父様が寝台の頭側へ座り、母様の手を握る。
「ゼニス」
「遅い」
「悪かった」
「今の話よ」
「……悪かった」
母様は父様の手を強く握った。
父様の顔が歪む。
痛そうだったが、離さなかった。
産婆とリーリャが、俺たちの見えない場所で声を掛け合う。
短い指示。
母様の荒い息。
父様の励ます声。
ルディの詠唱。
俺の詠唱。
時間の進み方が分からなくなった。
俺の魔力は時間の経過と共に、徐々に減っていった。
ルディの額からも汗が落ちる。
緊張しているのだろう。
「代わる?」
「まだ大丈夫です」
「でも」
「ゼディは、母様の呼吸を見てください。苦しくなった時に使って」
魔力量の問題で、ずっと魔術をかけ続けるルディと、必要な時を見て使う俺。
ルディの方が魔術を始めたのが早い分、俺よりも魔力量は多い。
魔力量の多さでいくと、ルディの次が俺、俺の次がシルフィだろう。
……最も、ルディの魔力量の多さは異常だが。
役割が違う。
どちらか一人だけでは足りない。
ベースはルディが危なくならないよう、苦しくならないようにかけ続けるが、さらに細かい部分は俺が考えて動く。
俺は母様の顔を見る。
息が浅くなれば治癒魔術。
力が戻れば止める。
そのたび、腹の中の子へ考えた。
出てこい。
母様をこれ以上苦しませるな。
いや、違う。
赤ちゃんだって、苦しいのかもしれない。
頑張れ。
母様も。赤ちゃんも。
二人とも。
どちらかではなく、二人とも。
俺はまだ、お前の顔を見ていない。
約束も、一つも守っていない。
だから、生きて出てきてくれ。
早く、顔が見たい。
そう思ったと同時に、母様が、今までで一番大きな声を上げた。
父様が名前を呼ぶ。
俺は咄嗟に母様の手へ触れた。
右手は父様が握っている。
左手を、俺とルディで挟んだ。
ルディの手が震えていた。
怖いのは、俺だけではない。
「大丈夫」
誰へ言ったのか分からなかった。
母様へ。
ルディへ。
自分へ。
もしかすると、まだ見えない妹へ。
「大丈夫だから」
もう一度言う。
そして、部屋の中から、母様以外の声が聞こえた。
細く、高い声。
最初は一度だけ。
次に息を吸い、今度はさっきより大きく泣いた。
赤ちゃんの声だった。
誰も動かなかった。
いや、産婆とリーリャは動いている。
だが、俺には時間が止まったように見えた。
泣いている。
生きている。
母様の腹の中から、俺たちと同じ場所へ来た。
「女の子だよ」
産婆が言った。
女の子。
妹。
「母様」
声が上手く出なかった。
母様は目を閉じ、泣いていた。
痛みではない。
笑いながら泣いていた。
父様は母様の手へ額を押しつける。
「ありがとう」
それしか言わなかった。
何度も、同じ言葉を繰り返した。
ルディは母様の手を握ったまま、俯いている。
肩が震えていた。
「ルディ」
「泣いていません」
「まだ何も言ってない」
「汗です」
俺も目の前が滲んでいた。
この部屋は暑い。
なら、俺のも汗なのかもしれない。
そういうことにした。
◇
赤ちゃんは、思っていたより小さかった。
もっと丸くて、柔らかくて、笑っているものだと思っていた。
実際には顔を真っ赤にし、目を閉じ、全身で泣いている。
髪は濡れ、握った手は俺の指先より小さい。
産婆が身体を拭き、布で包む。
「触るなら、手を綺麗にしてからだよ」
水を出し、手を洗う。
風で乾かそうとして、産婆に止められた。
「冷やすんじゃないよ」
「温かい風にする」
「加減を間違えたらどうする」
何も言い返せなかった。
布で拭く。
母様の横へ、赤ちゃんが寝かされた。
泣き声は少し小さくなった。
母様の胸へ頬を寄せる。
「この子が……」
「うん」
父様は笑っている。
目は赤い。
「ゼディ、ルディ。近くに来て」
母様が呼ぶ。
俺たちは寝台へ近づいた。
赤ちゃんの顔を見る。
鼻。
口。
閉じた瞼。
どこが誰に似ているのか、まだ分からない。
「触ってもいい?」
「ええ。優しくね」
許してもらってから、人差し指を手へ近づける。
赤ちゃんの指が動いた。
俺の指を握る。
力は弱い。
振りほどこうと思えば、何も感じずに離せるほどだった。
なのに、動けなくなった。
一本の指を握られただけで、身体全部をつかまれたような気がした。
「握った」
「赤ちゃんは、近くにある物を握るんです」
ルディが言う。
声が少し掠れていた。
「俺だって分かってるんじゃないの?」
「目も開いていませんよ」
「声は聞いてたかもしれない」
「それは……あるかもしれません」
ルディも反対側から指を近づける。
赤ちゃんは俺の指を離し、今度はルディの指へ触れた。
「ルディも握られた」
「はい」
ルディが笑う。
いつもの、何かを隠す笑い方ではなかった。
ただ嬉しい時の顔だった。
「僕たちも、こうだったんでしょうか」
ルディが聞く。
「あなたたちは二人一緒だったから、もっと大変だったわ」
母様が答える。
「ゼディは泣いた。ルディは、あまり泣かなかった」
「俺、そんな泣いたの?」
「赤ちゃんとしては普通よ」
「僕が普通ではなかったように聞こえます」
「言ってないわ」
母様が弱く笑う。
リーリャが新しい布を持って近づいてきた。
疲れた顔をしている。
自分も大きな腹を抱えているのに、ずっと母様を助けていた。
「奥様。お身体を綺麗にいたします」
「ええ。お願い」
母様とリーリャの視線が合う。
家族での話し合いの後、二人は少しずつ話すようになっていた。
以前と同じではない。
母様が笑えば、リーリャも笑う。
けれど、どちらも一瞬だけ迷う。
消えたものを、同じ形へ戻そうとはしていない。
新しい形を、毎日少しずつ探しているようだった。
母様が赤ちゃんを見る。
次に、リーリャの腹を見た。
「次は、あなたね」
「はい。まだ少し先ですが」
リーリャが答えた、その時だった。
持っていた布が床へ落ちた。
「リーリャ?」
リーリャは腹へ手を当てる。
顔から色が消えていた。
足元へ、水が落ちる。
産婆が振り返った。
「まさか、あんたもかい?」
「……申し訳、ございません」
「謝ってる場合か!」
老婆がリーリャの身体を支える。
「まだ早いんじゃないの?」
母様が起き上がろうとする。
「動いちゃ駄目だ! あんたは寝てな!」
「でも」
「父様」
ルディが呼ぶ。
父様は、まだ生まれたばかりの娘を見たまま固まっていた。
「父様!」
俺も呼ぶ。
「あ、ああ」
ようやく動く。
「リーリャを運んで」
母様が言った。
父様は一瞬、母様を見た。
「行って」
声は弱い。
それでも、迷いはなかった。
父様がリーリャを抱き上げる。
「どこへ?」
「俺たちの部屋」
俺が先に扉を開けた。
「ルディ、布。お湯も作り直す」
「はい」
さっきまで喜びで満ちていた家が、もう一度慌ただしく動き始めた。
母様の娘が生まれて、まだほんの少ししか経っていない。
今度は、リーリャの子が生まれようとしていた。
俺の、もう一人の妹か弟が。
◇
俺たちの部屋から、布団を全部運び出した。
寝台へ新しい布を敷く。
父様がリーリャを寝かせる。
産婆は腹へ触れ、いくつか質問をした。
「早いが、もう止められないね」
「この子は」
「今から心配しても始まらない。生ませるよ」
リーリャは唇を噛んだ。
「奥様は」
「母様なら、向こうで休んでる」
「ですが、赤ちゃんの」
「今は自分のことを考えて」
俺が言うと、リーリャはこちらを見た。
「ゼディ坊ちゃま」
「その子も、俺の妹か弟なんでしょ」
「……はい」
「だったら、二人で無事に出てきて」
何を言っているのか、自分でも分からなかった。
出てくるのは赤ちゃんで、リーリャはここにいる。
それでも、二人とも途中でいなくならないでほしかった。
「お約束、いたします」
リーリャはそう答えた。
守れるか分からない約束だった。
けれど今は、約束してほしかった。
俺は湯を作り直すため、桶の前へ座る。
水。
急がなければならない。
右手を出し、詠唱せずに作ろうとした。
何も出ない。
胸の中が騒がしすぎた。
さっき聞いた妹の泣き声。
リーリャの青い顔。
産婆の「早い」という言葉。
落ち着けない。
「ゼディ」
ルディが隣へ来る。
「無詠唱じゃなくていいです」
「でも、早く」
「失敗している時間の方が長い」
正しかった。
俺は無詠唱を使えるようになった。
だからといって、どんな時でも使わなければならないわけではない。
できることを証明するより、必要なものを確実に作る。
「分かった」
詠唱する。
水が桶を満たした。
火を使う。
今度は焦らず、底から温める。
「ルディ」
「何ですか?」
「母様のところにいてもいいよ」
「どうして?」
「母様が産んだ子は、ルディと俺の妹。でも、こっちは」
言葉が止まる。
母親が違う。
だから何だというのだろう。
違うから、俺が残らなければならないと思った。
リーリャが一人にならないように。
この子も、同じ妹だと最初から分かるように。
それは、ルディも同じはずだった。
「こっちも、僕たちの妹です」
ルディが言った。
「分かってる」
「なら、僕もここにいます」
「でも、母様が」
「母様には父様がいます。生まれた子にも、母様がいる」
ルディは湯の温度を確かめる。
「ここには、僕とゼディがいます」
俺は頷いた。
二人で残った。
産婆の指示に従い、湯と布を運ぶ。
父様はリーリャの手を握った。
「リーリャ」
「旦那様」
「ここにいる」
「……はい」
母様の時と同じ言葉だった。
俺は少しだけ嫌な気持ちになった。
父様が二人へ同じように触れること。
二人が父様の名前を呼ぶこと。
家族で話した日の母様の顔を思い出す。
だが、今は父様が手を離す方が違う。
嫌だと思う気持ちと、必要だと思う気持ちは一緒にあっていい。
俺は湯へ目を戻した。
リーリャの出産は、母様ほど長くはかからなかった。
それでも、簡単ではなかった。
予定より早い。
産婆の声は落ち着いていたが、何度も赤ちゃんへ呼び掛ける。
「急いで出ておいで。外は寒くないよ」
俺も心の中で呼んだ。
こっちへ来い。
母様の娘もいる。
ルディもいる。
俺もいる。
お前の場所は、もうある。
だから来い。
しばらくして、小さな声が聞こえた。
最初の妹よりも、弱い声だった。
一度泣き、止まる。
「どうしたの?」
俺は産婆へ近づきかけた。
「来るんじゃない!」
足を止める。
静かだった。
長すぎる静けさだった。
ルディが俺の腕を握る。
父様はリーリャの名前を呼び続ける。
リーリャは目を閉じ、返事をしない。
怖い。
さっき、一人は生まれた。
だから次も大丈夫だと、どこかで思っていた。
一度上手くいったからといって、次も上手くいくとは限らない。
無詠唱の練習で、何度も知ったはずだった。
「治癒を」
産婆が言った。
ルディがすぐに動く。
小さな身体へ、直接触れないよう手をかざす。
淡い光。
俺も詠唱を始める。
俺にできることを全部使う。
光が重なった。
小さな胸が動く。
空気を吸う。
そして、泣いた。
今度は、長く。
細いが、はっきりした声だった。
「生きてる?」
「生きてるよ」
産婆が答えた。
「女の子だ」
二人目も、女の子。
俺の妹。
「リーリャ」
俺は寝台へ近づいた。
「聞こえる? 生きてるよ」
リーリャの瞼が動く。
ゆっくり目を開いた。
「赤、ちゃんは」
「女の子。泣いてる」
「そう……ですか」
涙が、目尻から流れた。
「よかった」
その一言を最後に、リーリャは眠るように目を閉じた。
産婆が身体を確かめる。
「気を失っただけだ。息はある」
俺は膝から力が抜け、その場へ座り込んだ。
ルディも隣へ座る。
二人とも、しばらく立てなかった。
隣の部屋から、最初の妹の泣き声が聞こえる。
こちらの部屋では、二人目の妹が泣いている。
少し違う高さ。
少し違う強さ。
二つの声が、同じ家の中で重なった。
俺は、その音を一生忘れないと思った。
◇
二人目の赤ちゃんは、さらに小さかった。
布へ包まれると、身体がどこにあるのか分からないほどだった。
「抱いてもいい?」
産婆へ聞く。
「座って、首を支えな。勝手に立つんじゃないよ」
言われたとおり、壁へ背をつけて座る。
腕の置き方を教えてもらう。
赤ちゃんが、ゆっくりのせられた。
軽い。
あまりにも軽くて、怖くなる。
剣より軽い。
先生にもらったロッドより軽いかも。
今まで持った何よりも慎重になった。
息をしているか、何度も胸を見る。
小さく上下している。
「俺が分かる?」
目は閉じたまま。
返事はない。
「俺、ゼディ。お兄ちゃんだよ」
前に、母様の腹へ言った言葉。
今度は、目の前にいる。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
口にすると、また涙が出た。
今度は汗だと言い訳できなかった。
赤ちゃんの頬へ、一滴落ちそうになる。
慌てて顔を逸らす。
「濡らしてはいけませんよ」
ルディが言った。
ルディも泣いた顔をしている気がする。
「ルディも抱く?」
「先に、母様のところへ連れていきましょう」
「この子を?」
「二人とも生まれたことを伝えます」
俺たちは産婆を見る。
老婆は少し考えた後、頷いた。
「母親を起こすんじゃないよ。見せるだけだ」
「隣の部屋まで、俺が連れていってもいい?」
産婆は俺と父様を交互に見た。
「父親に腕の下を支えてもらいな。ゆっくりだよ」
俺は赤ちゃんを抱いたまま、ゆっくり立つ。
父様が横から手を添える。
「俺が抱こう」
「嫌だ」
「即答するな」
「俺が連れていく」
自分でも、なぜ譲りたくないのか分からなかった。
この子はリーリャの娘だ。
あの日、一度はこの家からいなくなりかけた子。
だから最初に、俺が家族のいる部屋へ連れていきたかった。
ここがお前の家だと、俺の腕で教えたかった。
「父様は横にいて」
「……分かった」
父様は何も聞かず、俺の腕の下へ手を添えた。
一歩ずつ進む。
隣の部屋へ入る。
母様は目を閉じていた。
胸元には、先に生まれた妹がいる。
母様は俺たちの気配で目を開いた。
「リーリャは?」
最初に聞いたのは、それだった。
「眠ってる。息はしてる」
「赤ちゃんは?」
俺は腕の中を見せる。
「女の子。小さいけど、ちゃんと泣いたよ」
母様が安堵したように息を吐く。
「こっちへ」
寝台の横へ座る。
二人の赤ちゃんが、初めて同じ場所へ並んだ。
片方は母様の胸元。
片方は俺の腕の中。
同じ日に生まれた。
大きさも、顔も違う。
母親も違う。
それでも、どちらも俺の妹だった。
母様が、腕の中の小さな頬へ指を近づける。
触れる前に一瞬、止まった。
あの日のことが、母様の中には残っている。
それでも、指は進んだ。
赤ちゃんの頬を優しく撫でる。
「小さいわね」
「早く生まれたから」
「頑張ったのね」
母様が誰へ言ったのかは分からない。
赤ちゃんへ。
リーリャへ。
もしかすると、自分へ。
胸元の妹が泣き出した。
その声につられるように、俺の腕の中でも小さな口が開く。
二人で泣く。
父様が困った顔をした。
「どうすればいい?」
「父親でしょう」
母様が言う。
「父親だから聞いてるんだ」
「ルディ、父様に教えてあげて」
「なぜ僕が知っている前提なんですか?」
「ルディなら、何となく知っていそうだから」
俺もそう思った。
ルディは不服そうだったが、先に生まれた妹を母様から受け取る。
首を支え、身体を横へ向ける。
ぎこちないが、父様よりは上手かった。
「本当に知ってる」
「本で読みました」
「何の本?」
「……いろいろです」
怪しい。
だが、妹の泣き声が少し小さくなったので、今は聞かないことにした。
俺も真似をする。
腕を少しだけ揺らす。
「大丈夫」
何が大丈夫なのかは分からない。
さっきも、同じことを言った。
「俺がいるよ」
泣き声は、すぐには止まらなかった。
それでも言い続けた。
「ルディもいる。母様も、リーリャも、父様もいる」
シルフィもいる。
先生は今はいないが、いつか会わせたい。
この子たちの周りには、たくさんの人がいる。
一人ではない。
そう伝えるように、名前を並べた。
しばらくすると、赤ちゃんは泣き疲れたように目を閉じた。
小さな寝息が、腕へ伝わった。
◇
名前が決まったのは、二人が生まれた日の夜だった。
母様は、胸元で眠る娘を見て、ノルンと呼んだ。
リーリャは一度だけ目を覚まし、隣の籠を確かめると、掠れた声でアイシャと呼んだ。
どちらも、腹にいる間から考えていた名前らしい。
父様は二つの名前を何度も口にした。
「ノルン。アイシャ。ノルン、アイシャ」
嬉しそうだった。
少しうるさかった。
「覚えた?」
「自分の娘の名前だぞ。間違えるわけがない」
「俺とルディを呼び間違えるよ」
「お前たちは似てるからだ」
「ノルンとアイシャも、今は似てるよ」
「似てない。こっちは鼻がゼニスに似ていて、こっちは――」
父様が説明を始める。
俺には、まだ違いがよく分からなかった。
大きさは違う。
泣き声も違う。
だが、顔はどちらも赤ちゃんの顔だ。
「父様には分かるの?」
「父親だからな」
「さっき、泣いた時に何もできなかったのに」
「それとこれは別だ」
父様は胸を張った。
母様が寝台から睨むと、すぐに小さくなった。
リーリャは、名前を告げると再び眠っていた。
アイシャは、その横の小さな籠へ寝かされていた。
ノルンは母様の隣。
家の中に、二つの寝床が増えた。
俺とルディは、元々ロキシー先生が使っていたけれど空いた部屋を使い出した。
かつての俺の部屋だ。
部屋を行ったり来たり。
忙しかったが、少しも嫌ではなかった。
「ルディ」
「何ですか?」
「妹が二人できた」
「知っています」
「両方、女の子だった」
「それも知っています」
「ノルンと、アイシャ」
「忘れないように確認しているんですか?」
「言いたいだけ」
名前を口にすると、本当に二人がいるのだと分かった。
赤ちゃん、妹。
それだけだったものへ、名前がついた。
ノルン。
アイシャ。
もう「母様の赤ちゃん」と「リーリャの赤ちゃん」だけではない。
それぞれ別の人だった。
世界にたった二人しかいない、俺とルディの妹だった。
「ルディは、どう思った?」
「何をですか?」
「二人が生まれて」
暗い居間で、ルディの顔はよく見えない。
長い沈黙があった。
「怖かったです」
ルディは言った。
「母様も、ノルンも、アイシャも、リーリャも。誰かが死ぬかもしれないと思いました」
「俺も」
「治癒魔術が足りなかったら。僕が間違えたら。もっと早く何かできたんじゃないか。ずっと考えていました」
ルディも同じだった。
魔術が使えるからこそ、使っても助けられないことが怖い。
力があるから、何でもできるわけではない。
「でも、生まれた」
「はい」
「ルディが助けた」
「僕だけではありません」
「俺はお湯を作っただけ」
「治癒魔術も使ったでしょう」
「ずっとはルディだったよ」
「細かい判断が必要な部分は、ゼディがこなしたでしょう。産婆さんも、リーリャも、父様もいました。母様たちが一番頑張った」
ルディは少し間を置く。
「誰か一人が助けたわけではありません」
母様に言われた言葉を思い出す。
俺たちが全部を直す必要はない。
出産も同じだった。
俺一人では何もできなかった。
ルディ一人でも、きっと足りなかった。
それでも、二人が生まれた時、俺は強く思った。
守らなければならない。
「俺、二人を守る」
「僕もです」
「ルディも守る」
今度は、返事がなかった。
「どうして黙るの?」
「僕は兄ですよ」
「双子だから、ほとんど同じでしょ」
「それでも僕が兄です」
「弟に守られたら嫌?」
「嫌ではありません」
ルディが寝返りを打つ。
こちらを向いたのだと思う。
「ですが、ゼディだけが守る側のように言うのは、嫌です」
「じゃあ、どう言えばいい?」
「僕もゼディを守ります」
考えていなかった答えだった。
「俺は自分で守れるよ」
「僕だって同じです」
「ルディは、外が怖い時がある」
「ゼディは、考えずに飛び出す時があります」
言い返せない。
「僕が怖くて動けない時は、ゼディが隣にいてください」
ルディが続ける。
「ゼディが一人で全部を背負おうとした時は、僕が止めます」
「ノルンとアイシャは?」
「二人で守ります」
「二人とも一緒に泣いたら?」
「一人ずつ抱けばいいでしょう」
簡単に言う。
けれど、少しだけ分かった。
俺には身体が一つしかない。
ノルンを抱けば、アイシャは抱けない。
アイシャを抱けば、ルディの手は握れない。
なら、ルディがもう一人を抱けばいい。
俺がルディを守り、ルディが俺を守る。
二人で妹たちを守る。
守る側と守られる側を、最初から分ける必要はない。
「分かった」
「本当に?」
「できるだけ」
「そこは、はいと言ってください」
「一人でできそうな時は、一人でやるよ」
「ゼディ」
「でも、無理なら言う」
「絶対に?」
「たぶん」
「ゼディ」
「言う。約束する」
ようやく、ルディが黙った。
その時、奥の部屋から泣き声が聞こえた。
一人分。
続いて、もう一人分。
「二人とも泣いてる」
「行きましょう」
「一人ずつ?」
「一人ずつです」
俺たちは同時に寝具から出た。
◇
二人の妹が生まれてから、家は眠らなくなった。
夜になれば、どちらかが泣く。
一人が泣くと、もう一人も起きる。
父様が抱くと、さらに大きく泣くことがあった。
「俺の顔が怖いのか?」
「抱き方が怖いんじゃない?」
「ゼディ、代われ」
「父様が慣れないと駄目だよ」
母様が笑う。
リーリャも、口元だけで笑った。
以前より、二人が同時に笑うことが増えた。
傷が消えたわけではない。
父様がリーリャへ近づく時、母様の目が僅かに動く。
リーリャも母様の前では、必要以上に父様から距離を取る。
それでも、ノルンが泣けばリーリャが抱いた。
アイシャの布がずれれば、母様が直した。
自分が産んだ方だけを見ることはなかった。
ある朝、母様が眠っている間にノルンが泣き出した。
リーリャはアイシャへ乳を与えていた。
俺は籠からノルンを抱き上げる。
首を支える。
身体を胸へ寄せる。
「大丈夫」
相変わらず、それしか言えない。
ノルンは泣き止まない。
部屋を歩く。
揺らしすぎないよう、ゆっくり。
「ゼディ坊ちゃま。背を軽く叩いて差し上げてください」
リーリャが教える。
言われたとおりにする。
小さな身体から、思ったより大きな音がした。
驚いて手を止める。
「今の何?」
「げっぷです」
「壊れてない?」
「大丈夫でございます」
ノルンの泣き声が小さくなった。
「俺が止めた」
「ノルンお嬢様ご自身が落ち着かれたのです」
「俺が抱いたから」
「そういうことにしておきましょう」
リーリャの言い方は、少しだけ先生に似ていた。
別の日には、アイシャの布を替えようとした。
やり方は何度も見ている。
寝かせ、汚れた布を外し、新しい布を用意する。
完璧だと思った。
アイシャは、布を外した瞬間に俺の服を濡らした。
「……やったね」
アイシャは目を開けていた。
まだ何も分かっていないはずなのに、俺を見ているように思えた。
「笑った?」
「まだ笑う時期ではありません」
ルディが横から答える。
「今、笑ったよ」
「そう見えただけです」
「俺にかけて笑った」
「随分と性格の悪い妹になりますね」
「アイシャは賢いんだよ」
リーリャが新しい服を持ってきた。
「申し訳ございません、ゼディ坊ちゃま」
「リーリャが謝ることじゃないよ」
俺はアイシャを見る。
「次は避けるから」
赤ちゃん相手に何を競っているのかと、ルディに笑われた。
ノルンは大きな声で泣いた。
抱くと、服を強く握る。
アイシャはノルンより静かだった。
目を開けている時は、近くで動くものを追うように見えた。
違いが、少しずつ分かるようになった。
父様の言ったとおり、顔も違う。
ノルンは母様に似ている。
アイシャはリーリャに似ている。
それでも、眠っている時に口元が少し緩むところは、二人とも同じだった。
もしかすると、俺やルディも同じ顔をして眠るのかもしれない。
四人は、同じ父様の子だった。
父様に似ていると言われるのは、少し複雑だが。
◇
シルフィが二人へ会いに来たのは、生まれてから七日後だった。
門を入る前から、何度も家の窓を見ている。
「入っていいの?」
「母様に聞いた。いいって」
「赤ちゃん、寝てる?」
「今は二人とも起きてる」
声を小さくしながら、家へ入る。
シルフィは先にノルンを見た。
次にアイシャを見る。
「小さい……」
「アイシャの方が少し小さいよ」
「触ってもいい?」
「手を洗ってから」
産婆に言われたことを、そのまま言う。
シルフィは真面目に手を洗い、布で拭いた。
「どっちから?」
「ノルンは今、ルディが抱いてる」
ルディは椅子へ座り、ノルンを腕に載せていた。
一週間で、随分と慣れた。
ノルンも落ち着いている。
シルフィは、その姿を見つめた。
「ルディ、上手だね」
「毎日抱いていますから」
少し誇らしそうだった。
「シルフィも抱いてみる?」
「ぼくが?」
「座っていれば大丈夫だよ」
ルディが隣の椅子を示す。
シルフィは緊張しながら座った。
触れていいかをもう一度確かめ、両腕を出す。
ルディは急がなかった。
シルフィの腕の位置を見て、支え方を教える。
「ここで首を支えるんだ」
「うん」
「怖かったら、すぐ言って」
「大丈夫」
ノルンが、シルフィの腕へ移る。
緑の髪と、小さな茶色の頭が並んだ。
シルフィは息まで止めている。
「息していいよ」
俺が言うと、ゆっくり吐いた。
ノルンが僅かに身じろぎする。
「動いた」
「生きてるからね」
「分かってるよ」
シルフィはノルンを見つめたまま笑った。
「二人のお姉ちゃんみたい」
俺が言う。
シルフィの顔が赤くなった。
「ぼく、お姉ちゃんじゃないよ」
「家族じゃないから?」
「うん……」
シルフィはルディを見る。
ルディは意味が分からないらしく、首を傾げた。
「家族じゃないから、友達だよ」
「俺たちの友達なら、ノルンとアイシャの友達でもあるよ」
「赤ちゃんと友達になれるの?」
「まず一緒に遊んでから」
以前、俺がシルフィへ言った言葉だった。
シルフィも思い出したらしい。
「じゃあ、大きくなったら遊ぶ」
「うん」
約束が一つ増えた。
◇
妹ができても、俺たちの日常が全部変わったわけではない。
朝は魔術の練習をする。
午後は父様と剣を振る。
シルフィが来れば、三人で本を読む。
ただ、何をしていても家の中の声が気になった。
泣いていないか。
母様とリーリャは困っていないか。
剣を振る途中で窓を見る。
「集中しろ」
父様の木剣が頭へ落ちてくる。
避ける。
「今、家の中から声がした」
「赤ん坊は泣くものだ」
「二人とも?」
「どちらかまでは分からん」
「じゃあ、見てくる」
「待て」
肩を掴まれた。
「ゼディ。お前が見に行かなくても、ゼニスとリーリャがいる」
「でも」
「何かあれば呼ばれる」
父様は木剣を肩へ載せる。
「気になるのは分かる。俺も気になる」
「父様も?」
「当たり前だ。できるなら一日中見ていたい」
父様は少し遠い目をした。
「だが、それをやるとゼニスに仕事をしろと怒られる」
それは父様が悪い。
「守るってのは、ずっと抱えて離さないことじゃない」
父様が言った。
あの日の父様を思い出す。
母様を泣かせ、何も言えず小さくなっていた。
その父様の言葉を、素直に聞いていいのか少し迷う。
だが、間違ってはいない気がした。
「じゃあ、何?」
「必要な時に手を伸ばせるよう、自分の足で立っておくことだ」
「父様は、立ってた?」
「今それを聞くか?」
「守れなかったから、母様が泣いたんでしょ」
父様は黙った。
しばらくして、俺の頭へ手を置く。
「そうだな。俺は一度、立っていられなかった」
言い訳をしなかった。
「だから、立ち直ってる途中だ」
母様とリーリャだけではない。
父様も、家族の新しい形を探している。
「剣を持て、ゼディ」
「妹が泣いても?」
「今は俺が相手だ」
父様が木剣を構える。
「俺を越えたいなら、俺から目を離すな」
家の中を気にしたまま、目の前も見る。
それは難しかった。
だが、妹たちを守りたいなら、今より強くならなければならない。
俺は木剣を握り直した。
「行くよ、父様」
踏み込む。
家の中から聞こえた泣き声は、いつの間にか止まっていた。
俺が行かなくても、誰かが抱いてくれたのだ。
少し安心した。
同時に、少し寂しかった。
自分が必要とされたい。
その気持ちも、守りたいという言葉の中へ混ざっているのかもしれない。
◇
その夜。
先生の手帳を開いた。
家族で話し合った日のの翌朝に書いた二つの記録。
『母様のお腹に赤ちゃんがいる』
『リーリャのお腹にも赤ちゃんがいる』
その下へ、続きを書く。
『二人とも生まれた。女の子だった』
『母様の娘はノルン。リーリャの娘はアイシャ』
少し考える。
二行目へ線を引いた。
間違っているわけではない。
それでも、それだけでは足りなかった。
新しく書き直す。
『俺とルディの妹は、ノルンとアイシャ』
これならいい。
二人の母親が違うことは消えない。
消す必要もない。
ノルンは母様から生まれた。
アイシャはリーリャから生まれた。
どちらも大事なことだ。
そして、二人とも俺の妹だということも、同じくらい大事だった。
手帳へ、二つの小さな手を描いてみる。
ノルンの手。アイシャの手。
見比べれば違うはずなのに、俺の絵ではほとんど同じになった。
井戸の絵よりは上手くなったと思う。
その下へ、もう一行。
『二人を守る』
書いてから、ルディの顔が浮かんだ。
卒業試験の日。
門の前で動けなかったルディ。
俺の手を握り、馬へ乗ったルディ。
林でシルフィを助けたルディ。
妹たちが生まれた日、母様と妹たちのために治癒魔術を使い続けたルディ。
ルディも守りたい。
『ルディも守る』
次に、母様とリーリャ。
父様。
シルフィ。
先生。
名前を書こうとして、止まる。
世界を見たい。
先生ともう一度会い、一緒に旅をしたい。
ルディが外へ出る時は、隣にいたい。
ノルンとアイシャが初めて立つところを見たい。
最初に俺の名前を呼ぶところも聞きたい。
剣を握るなら教えたい。
魔術を使いたいと言えば、ルディと一緒に教えたい。
母様たちのそばにもいたい。
全部欲しかった。
身体は一つしかない。
先生を探して世界へ出れば、家から離れる。
妹たちのそばにいれば、ルディが一人で外へ行く日が来るかもしれない。
ルディの隣にいれば、別の誰かへ手が届かないかもしれない。
一人で全部を守ることはできない。
分かっている。
それでも、どれか一つを選んで、他を諦めることはできなかった。
「欲張りですね」
隣から声がした。
ルディが、手帳を覗いている。
「勝手に見ないで」
「見える場所で書いていたのはゼディです」
手帳を胸へ抱える。
「どこから見てた?」
「僕の名前を書いたところから」
「ほとんど全部じゃないか」
ルディは俺の隣へ座る。
「守ってくれるのは嬉しいです」
「うん」
「でも、僕が行きたい場所へ行くのを止めないでください」
胸が詰まる。
「どこかへ行くの?」
「今すぐではありません」
ルディは窓の外を見る。
庭。
門。
その向こうへ続く道。
「僕にも、もっと魔術を学びたい気持ちがあります。シルフィにも、いろいろ教えたい」
「俺も先生を探したい」
「知っています」
「ノルンとアイシャもいる」
「はい」
「全部は無理なのかな」
ルディは少し考えた。
「同じ日に全部は無理でしょう」
「同じ日?」
「旅をする日もあれば、家へ帰る日もある。僕がいない時はゼディが二人を見て、ゼディがいない時は僕が見る」
「二人ともいない時は?」
「母様たちがいます」
「ずっと帰れないくらい遠くへ行ったら?」
「手紙を書きます」
「手紙で守れる?」
「全部は無理です」
ルディは、俺の手帳へ指を置く。
「でも、離れたら終わりではありません」
先生の顔が浮かぶ。
今はどこにいるか分からない。
それでも、先生との時間がなくなったわけではない。
手帳も、ペンダントも、教わった魔術も残っている。
「帰ればいい?」
「帰れるようにしておくんです」
「どうやって?」
「忘れない。伝える。勝手にいなくならない」
最後の言葉で、ルディが少し俯いた。
門の外を怖がっていたルディ。
俺は、ルディが勝手にいなくなるところはうまく想像できなかった。
「ルディも、いなくなる時は言って」
「もちろんです」
「俺を置いていかないで」
「ゼディも」
「うん」
簡単な約束だった。
守れると思った。
今の俺たちは、同じ部屋にいる。
ノルンとアイシャの泣き声が聞こえれば、一緒に起きる。
門を出る時は、どこへ行くか話す。
離れるとしても、自分で選び、言葉を残してからだ。
そう信じていた。
ルディが手帳を指す。
「最後に、もう一行書いてください」
「何を?」
「一人で全部を守ろうとしない」
「嫌だ」
「どうしてですか?」
「守りたいって思うのは、やめたくない」
「思うことをやめろとは言っていません」
「じゃあ」
ルディからペンを取り返す。
少し考えて、書いた。
『守りたいものは全部守る。でも、一人だけでは守らない』
ルディが横から読む。
「欲張りですね」
「ルディも手伝うんでしょ」
「仕方ありません」
口ではそう言いながら、笑っていた。
奥の部屋から、二つの泣き声が聞こえた。
俺とルディは顔を見合わせる。
「一人ずつ」
「はい。一人ずつです」
立ち上がる。
俺がノルンを腕に抱く。
ルディはアイシャを腕に抱く。
次に泣いた時は、交代すればいい。
そうやって、これからを一日ずつ作っていく。
二人だけだった兄弟に、二人の妹が増えた。
守りたい名前が、二つ増えた。
この家の夜には、もう俺とルディの寝息だけではない。
奥の部屋には、小さな籠と、畳まれた布と、二人分の泣き声がある。
いつか別々の道を歩く日が来ても。
帰る場所を間違えないように。
俺は、二つの産声と四つの名前を、胸の奥へしまった。