無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜   作:omugut

15 / 19
第十二話『それでも届かなかった手』

俺とルディは、七歳になった。

 

二人の妹は、まだ言葉を話せない。

自分の足で立つこともできず、俺たちの顔を見分けているのかも分からない。

 

眠る。

乳を飲む。

泣く。

今は、それだけで一日が過ぎる。

 

それでも、少しずつ違いは分かるようになった。

ノルンの泣き声は大きい。

アイシャは最初こそ小さく泣くが、放っておくと段々と声が大きくなる。

 

「今のはノルン」

 

「アイシャですよ」

 

「ノルンだよ」

 

「では、見て確かめましょう」

 

俺とルディは、同時に寝籠を覗き込んだ。

泣いていたのはアイシャだった。

 

「僕の正解ですね」

 

「今、途中で泣き方を変えた」

 

「そんなわけがないでしょう」

 

ルディは得意そうに笑いながら、アイシャを抱き上げる。

首を支え、胸へ寄せる。

アイシャは泣き止まなかった。

 

隣の籠で、その声に起こされたノルンまで泣き始める。

 

「一人ずつですね」

 

「うん。一人ずつ」

 

俺はノルンを抱き上げた。

二人はまだ、ルディの名前も俺の名前も呼べない。

いつか最初にどちらを呼ぶのだろうと考えるだけで、少し楽しみになった。

 

泣けば近い方が抱く。

一人が二人を抱くのはまだ危ないので、二人同時に泣けば一人ずつ。

生まれた日に決めた役割は、今も続いていた。

 

ただし、剣術の稽古が始まれば別だった。

庭で待つ父様は、妹が泣いても待ってはくれない。

 

「ゼディ!余所を見るな!」

 

声と同時に木剣が迫る。

俺は頭を下げた。

風が髪を撫でる。

横薙ぎを避け、そのまま父様の懐へ入る。

 

正面から打ち合えば負ける。

七歳になっても、身体の大きさは埋まらない。

俺の両手で振る剣を、父様は片手で止められる。

 

だから、止められない場所を狙う。

 

一歩目で横へ。

二歩目で父様の剣を追い越す。

手首へ一撃を見せ、剣が動いたところで軌道を変える。

 

本命は脇腹。

木剣が届く──。

そう思った瞬間、父様の身体が沈んだ。

 

空を切った木剣へ、父様の剣が下から絡んだ。

 

持ち手が跳ね上げられる。

離す。

飛ばされる前に右手だけを離し、左手を軸に一回転させた。

剣先が地面へ触れる。

その反動で握り直し、父様の肩へ振り下ろす。

 

「おっ」

 

父様が初めて声を出した。

 

木剣同士がぶつかる。

乾いた音。

 

俺の剣は止まった。

だが、父様の足が半歩だけ後ろへ動いた。

 

「そこまで」

 

父様は剣を下ろした。

俺は息を吐く。

最後の一撃で腕が痺れていた。

 

「今の、どうだった?」

 

「最後は悪くない。その前のフェイントも、最初から脇腹を狙ってるのが丸分かりだが、流された後の立て直しはできていた」

 

「じゃあ、もう一回」

 

「いや」

 

父様は木剣を肩へ載せる。

 

「今日から剣神流中級を名乗っていい」

 

言葉の意味が、すぐには分からなかった。

 

「中級?」

 

「そうだ」

 

「俺が?」

 

「他に誰がいる」

 

父様は笑った。

 

「ただし、剣神流だけだ。水神流と北神流は、まだ初級だからな。調子に乗るなよ」

 

「乗らないよ」

 

「初級は、剣を正しく振れるようになるまでだ。中級からは、相手を見て振り方を変える。今の最後の一手は、俺に流されてから自分で選んだ。型通りじゃなかった」

 

胸の奥が熱くなる。

剣術を本格的に学び出してから2年、剣を持つ前を入れればほぼ7年と言っていい……ずっとだ。

随分と長かった。

 

毎日剣を振った。

父様の動きを見た。

足を置く場所を変えた。

同じところへ豆ができ、潰れ、皮が厚くなった。

 

ようやく一つ、上へ進めた。

 

「おめでとうございます、ゼディ」

 

ルディの声がした。

庭の端に立っている。

自分の番を待ちながら、最初から見ていた。

 

「ありがとう」

 

「今の握り直しは、前にも練習していたものですか?」

 

「ううん。手を離したら、剣が落ちなかったから」

 

「相変わらずですね」

 

呆れた言い方だった。

だが、笑っていた。

 

俺も笑い返そうとした。

その時、ルディが木剣を持つ手に力を込めた。

黒い手袋の下で、指が僅かに動いた。

笑顔は消えていない。

 

けれど、目だけが俺ではなく、父様の足元を見ていた。

 

「次は僕ですね」

 

「おう。来い」

 

ルディが構える。

剣先の位置。

足の幅。

腰の高さ。

 

どれも、二年前より正しい。

父様から注意される回数も減った。

それでも、父様はルディを中級とは認めなかった。

 

開始と同時に、ルディが踏み込む。

一撃目は速い。

俺よりも真っすぐで、無駄がない。

 

父様が受ける。

二撃目。

三撃目。

 

覚えた型を正確につなぐ。

父様は同じ場所から動かなかった。

 

「止めるな」

 

「はい」

 

「次を考えてから振るな。振りながら見ろ」

 

「はい!」

 

ルディの剣が速くなる。

正確だった。

 

だから、次にどこへ来るか分かった。

父様は全部を受け、最後に軽く手首を返した。

ルディの木剣が宙を舞う。

 

地面へ落ちた。

 

「そこまでだ」

 

「……ありがとうございました」

 

ルディは木剣を拾い、頭を下げた。

 

「剣の振り方は悪くねえんだ」

 

父様が言う。

 

「力も少しずつついている。だが、お前は正解を探しすぎる」

 

「正しい型を使うことが、悪いんですか?」

 

「悪くない。だが、相手は問題集じゃない。いつも同じ答えにはならねえ」

 

「では、どうすれば?」

 

「そこを自分で見つけたら中級だ」

 

父様はルディの頭へ手を伸ばしかけた。

途中でやめる。

代わりに、肩を軽く叩いた。

 

「焦るな。七歳なら十分に早い」

 

「ゼディは中級です」

 

「ゼディはゼディだ」

 

父様がすぐに答えた。

 

「双子でも同じ日に同じ場所へ着く必要はねえ。お前には、お前にしかできないことがある」

 

「分かっています」

 

ルディはそう言った。

返事が早かった。

本当に分かっている時のルディは、一度考えてから答える。

 

俺は何か言おうとした。

けれど、何を言えばいいのか分からなかった。

 

一緒に中級になりたかった。

待っている、と言えばいいのだろうか。

だが、それは俺が先にいると言っているのと同じだった。

 

「ゼディ」

 

ルディが俺を見る。

 

「僕に合わせて、稽古を減らしたりしないでくださいね」

 

考えていたことまで見抜かれた。

 

「しないよ」

 

「絶対に?」

 

「うん」

 

「なら、もう一度見せてください。剣を流された後、どこを見ていたんですか?」

 

「父様の足」

 

「手ではなく?」

 

「手は速くて追えないから」

 

父様の足は、次へ動く前に僅かに向きが変わる。

俺がそう説明すると、ルディは真剣に聞いた。

 

悔しさを隠すためではない。

今の自分にないものを、俺から学ぼうとしていた。

 

それがルディの強さだと思った。

だが、その日の魔術の練習で、俺は別のものを見た。

 

 

ルディが作った水球は、少しも揺れていなかった。

 

人の頭より大きい。

表面は鏡のように滑らかで、空の色まで映している。

 

それを十個。

同じ大きさ、同じ高さに並べ、詠唱もせずに動かす。

一列。

円。

二つの輪。

 

輪同士を交差させても、水球はぶつからない。

 

「すごい……」

 

シルフィが見上げている。

 

シルフィも、俺やルディと同い年で、出会った頃より身長も伸びた。

もう、ルディも俺も彼女を男の子と間違えない。

 

水球の一つがシルフィの前へ降りる。

 

「次はシルフィだよ」

 

「十個も?」

 

「最初は三個でいい。形が崩れないように、一つずつ動かしてみて」

 

「うん」

 

シルフィが両手を前へ出す。

詠唱はない。

 

三つの水球が生まれた。

ルディのものより小さく、少し歪んでいる。

 

ゆっくりと動き始めた。

一つ目が上へ。

二つ目が右へ。

三つ目が左へ。

 

途中で二つが近づきすぎる。

シルフィの眉が寄った。

水球は触れる直前で止まり、互いに離れていく。

 

「できた!」

 

「うん。今の止め方はよかった」

 

ルディが笑う。

シルフィも笑った。

 

「次はゼディ?」

 

「俺は火をやる」

 

掌を上へ向ける。

息を整える。

 

火。

芯。

燃えるための空気。

 

口に出さず、一つずつ頭の中で形を作る。

 

小さな炎が生まれた。

風に揺れかける。

 

俺は慌てず、炎の周りへ薄く空気を送った。

形が戻る。

 

「今日は早かったね」

 

シルフィが言う。

 

「うん。考える順番を決めたから」

 

「考えないと出ないの?」

 

「出る時もあるけど、出ない時もある」

 

シルフィは、最初から水がそこにあるように魔術を使う。

ルディは、頭の中で完成した術を、そのまま外へ出す。

 

俺は違った。

何も言わずに火が生まれるということを、今でも時々、身体のどこかが疑っている。

 

だから、落ち着いて順番を作る。

火があると決める。

形を決める。

大きさを決める。

 

そこまでできれば、無詠唱でも使える。

以前より速くなった。

失敗も減った。

 

少しずつだが、俺も進んでいる。

 

「では、今度は動かしてみましょう」

 

ルディが言う。

 

「今日はここまでじゃないの?」

 

「まだ魔力は残っているでしょう?」

 

「残ってるけど」

 

「僕が横で見ています」

 

「分かった」

 

炎を前へ動かす。

速くすると形が崩れた。

小さな火の粉が飛ぶ。

ルディが水で消した。

 

「今のは風を強くしすぎです」

 

「分かってる」

 

「次は?」

 

「もう一回」

 

やり直す。

二度目は成功した。

 

三度目は、二つの火を同時に出した。

それも成功した。

 

嬉しかった。

振り返る。

 

ルディは笑っていなかった。

俺の火ではなく、自分の手を見ている。

 

「ルディ?」

 

「何ですか?」

 

「次は何をする?」

 

「……何をしましょうか」

 

初めて聞く返事だった。

これまでのルディなら、次に試すことをいくつも用意していた。

 

水球を速くする。

形を変える。

土と水を混ぜる。

火と風を組み合わせる。

 

考えたことを一つ成功させれば、その結果から次を見つけた。

今、庭に浮かんでいる十個の水球は、どれも完璧だった。

完璧なまま、何も変わっていない。

 

「大きくする?」

 

「これ以上大きくしても、庭が壊れるだけです」

 

「速くする?」

 

「誰かに当たったら危険です」

 

「別の形は?」

 

「一通り試しました」

 

ルディの魔術は、俺より上手い。

シルフィよりも上手い。

 

少なくとも、今の俺たちが使える魔術の中では、比べる必要もないほど先にいる。

だから、教えられる人がいなかった。

 

ロキシー先生はもういない。

家にある魔術教本は、何度も読んだ。

 

今知っている魔術よりも上の術は載っていない。

治癒魔術を無詠唱で使うことだけは、今もできない。

けれど、どうすればできるかを教えられる人もいない。

 

できないことがないのではない。

できないことから進む道が、見つからないのだ。

 

俺は今日、中級になった。

シルフィは三つの水球を動かした。

ルディだけが、昨日できたことを今日も繰り返していた。

 

「ルディ」

 

「はい」

 

「俺の火、もう一回見て」

 

「見ていますよ」

 

「そうじゃなくて、今度はもっと速くするから」

 

「ゼディ」

 

ルディが静かに言った。

 

「僕のために失敗する必要はありません」

 

「失敗するとは言ってない」

 

「では、成功してください」

 

言葉はいつも通りだった。

ただ、少しだけ、尖っていた。

 

シルフィが俺たちを見比べる。

俺は炎を消した。

 

「今日は終わりにしよう」

 

「そうですね」

 

ルディが十個の水球を一度に崩す。

水は庭の土へ落ちる前に細かな霧へ変わり、風に乗って消えた。

 

それさえ、綺麗だった。

 

 

数日後。

 

父様は剣術の稽古を終えると、俺とルディを呼び止めた。

 

「お前ら、学校へ行ってみる気は──」

 

そこで言葉を切る。

 

「いや。必要ねえか」

 

「学校?」

 

俺が聞く。

 

「子供が勉強する場所だ。読み書きと算術、歴史なんかを教わる」

 

「魔術は?」

 

「場所による。ロアの学校なら初級くらいは教えるかもしれんな」

 

「剣術は?」

 

「それも初級までだろう」

 

「じゃあ、本当にいらないね」

 

読み書きと算術はルディに教わった。

魔術は先生とルディ。

剣術は父様。

 

初級までなら、今さら通っても新しく覚えることは少ない。

父様も同じことを考えたらしい。

 

「同じ年頃の奴と過ごす経験にはなるが、お前らにはシルフィもいるしな」

 

同じ年頃の子供。

その言葉で、ルディの肩が僅かに固くなった。

 

林でシルフィを助けてから、村の子供と話すことは増えた。

それでも、大勢の中へ入ることは苦手なままだった。

 

「もっと上の魔術を教える学校はないんですか?」

 

ルディが聞いた。

 

「あるぞ。魔法大学ってのが」

 

父様は北を指した。

 

「ずっと遠い。ラノア王国だ。魔術師が世界中から集まる」

 

「世界中から……」

 

ルディの目が少しだけ明るくなる。

俺も、「世界中」という言葉に胸が熱くなる。

 

「行きたいのか?」

 

父様が聞く。

光が消えた。

 

「いいえ。聞いただけです」

 

「そうか」

 

父様はそれ以上勧めなかった。

俺も、その場では何も言わなかった。

 

だが、ルディはその日から、以前までの俺のように地図を開く回数が増えた。

 

 

「ルディ、最近どうしたの?」

 

シルフィが聞いたのは、父様が学校の話をしてから三日後だった。

 

庭の木の下。

俺たちは三人で座っていた。

 

本を読む時間だったが、ルディの頁はさっきから一度も動いていない。

 

「何もないよ」

 

「嘘」

 

シルフィがすぐに言う。

 

「魔術を教えてる時も、ずっと別のことを考えてる」

 

「……分かる?」

 

「分かるよ」

 

ルディは本を閉じた。

俺を見る。

 

話していいかと聞いているようだった。

頷く。

 

「魔術が、上手くならないんだ」

 

「ルディが?」

 

「できることは増えているよ。でも、二年前と使える階級は変わっていない。新しい術を覚えようにも、本も先生もいない」

 

「ぼくに教えてくれてる」

 

「教えることと、自分が先へ進むことは別なんだ」

 

シルフィが俯く。

責められたと思ったのかもしれない。

 

「シルフィが悪いわけじゃないよ」

 

ルディはすぐに付け加えた。

 

「教えるのは楽しい。シルフィができるようになると、僕も嬉しい。ただ、このままずっと同じ場所にいたら、いつか何も教えられなくなる気がするんだ」

 

「どこかに行くの?」

 

シルフィの声が小さくなった。

 

「まだ決めてない。魔法大学へ行くか、冒険者になって先生を探すか……そういう方法もあると思っただけで」

 

「いつ?」

 

「すぐではないよ」

 

「すぐじゃなかったら、行くの?」

 

「それも──」

 

シルフィがルディの服をつかんだ。

問いへ答える前だった。

 

「行かないで」

 

「シルフィ」

 

「どこにも行かないで」

 

緑の髪が揺れる。

顔を上げた時には、目に涙が溜まっていた。

 

「ぼく、もっと頑張るから」

 

「頑張るって、何を?」

 

「魔術も、文字も、剣も。ルディの邪魔にならないようにする。だから……」

 

「邪魔だと思ってない」

 

「なら、ここにいて」

 

シルフィがルディの胸へ額を押しつける。

 

ルディの両手が宙へ浮いた。

触れていいか聞く余裕もないらしい。

やがて、片方の手をシルフィの背へ置いた。

 

「分かった」

 

「本当?」

 

「行かないよ」

 

「ずっと?」

 

ルディは少し黙った。

 

「少なくとも、シルフィを一人にして、勝手には行かない」

 

シルフィが服をつかむ力を強くした。

ルディは困ったように笑う。

 

その顔には、安心も混ざっていた。

シルフィを安心させられたから。

 

それだけではない。

行かない理由をもらったことへ、ルディ自身も安心しているように見えた。

 

外へ出なければ、失敗しない。

知らない人の中へ行かなくていい。

今の場所で伸びなくても、シルフィのためだと言える。

……そんな考えが、ほんの少しだけ混ざっている気がした。

 

俺は何も言えなかった。

 

二人は、互いに初めて自分から作った友達だ。

離れたくないと思うのは、悪いことではない。

俺だって、ルディと離れたくない。

 

ただ──。

シルフィが泣けば、ルディは行くのをやめる。

ルディが行かないなら、シルフィは他の場所を見なくていい。

 

二人の手はつながっている。

つながっているから立てることもある。

強く握りすぎれば、どちらも動けなくなることもある。

 

その違いを、俺はまだ上手く言葉にできなかった。

 

 

ロキシー先生から手紙が届いたのは、その翌日だった。

昼前、村へ来た行商人が家へ届けてくれた。

 

宛名には二つの名前が並んでいた。

 

ルーデウス・グレイラット。

ゼディウス・グレイラット。

 

先生の文字だった。

 

「開けますよ」

 

「待って。手を洗う」

 

「紙は赤ちゃんではありません」

 

「分かってる」

 

それでも、汚したくなかった。

俺が戻るまで、ルディは待っていた。

 

二人で机へ座る。

 

先生の旅の手帳を横へ置き、封を切った。

中には、何枚も重ねた紙が入っていた。

 

最初の一行を、ルディが声に出す。

 

『ルーデウス、ゼディウスへ。

 

二人とも元気にしていますか。

グレイラット家を出てから、もう二年が経ちました。

 

わたしは今、シーローン王国の王都にいます。

冒険者として迷宮に潜っていたところ、名前が売れて少し有名になってしまったらしく、王子様の家庭教師として雇われました。

 

二人へ教えていた頃を思い出すことがあります。

王子様は二人に少し似ています。

二人ほどではないにしても、魔術の才能は抜群だし、頭もいいです。

ルーデウスのように、わたしの着替えを覗いてくる所や、パンツを盗んだりする所もそっくりです。

ゼディウスのように、何にでも興味を示し、元気一杯ですが、違うとすれば尊大なところがあります。

 

英雄は色を好むというのでしょうか。

雇用期間中に押し倒されないか心配です。

こんな貧相な身体のどこがいいんでしょうか……。

……ゼディウスが卒業試験の前に私の胸に触れてきたことも思い出しました。

やはり、英雄は色を好むのでしょう。

 

っと、こんなことを書いてるのが見つかると不敬罪になるでしょうか……?

その時はその時ですね。

悪口ではなく、いずれも事実なので言い逃れられるでしょう。

 

また、嬉しい報告があります。

王宮の書庫で学ぶ機会を得て、水王級の魔術を一つ修得しました。

水聖級になった時には、自分の限界はここまでかもしれないと思ったものです。

それでも、知らない術を知る人と出会い、知らない本を開けば、まだ先がありました。

次は水神級を目指します。

 

ルーデウスは、どんな魔術を使うようになりましたか。

あなたは器用ですから、できることを増やしすぎて、どれを伸ばすか迷っているかもしれません。

 

ゼディウスは、火と剣ばかり急いでいませんか。

無詠唱は、使えるようになったでしょうか。

できなくても、詠唱を短くする方法はあります。

できないことを隠すより、自分に合う方法を探してください。

 

二人は近くにいる分、互いの進み方がよく見えるはずです。

ですが、片方が先へ進んだように見えても、もう片方が止まったとは限りません。

比べるなら、昨日の自分と比べなさい。

そして、昨日と同じ場所から先へ進む道が見つからない時は、場所を変えることも一つの方法です。

 

世界は、二人が知っているよりずっと広いです。

いつか再会した時、わたしが驚くような話を聞かせてください。

 

ロキシー・ミグルディア』

 

ルディが先生のパンツを盗んだと知った時、胸の奥に理由の分からない怒りが湧いた。

 

「ルディ」

 

「何ですか?」

 

「先生のパンツ、盗んだの?」

 

ルディの目が、手紙の上で止まった。

 

「……ゼディは、先生の胸を触ったんですね」

 

「質問に答えて」

 

「ゼディも答えていません」

 

「俺のは事故だよ。馬の上で先生に寄りかかったら頭が当たっただけ」

 

「先生は『触れてきた』と書いています」

 

「先生も、分かっててからかってるだけだよ!ルディは自分から盗んだんでしょ?」

 

「魔族の衣服文化に関する、純粋な学術的好奇心です」

 

「返したの?」

 

「厳重に保管しています」

 

「返してないじゃん!」

 

「では、ゼディは触った胸を返したんですか?」

 

「胸は取れてないよ!」

 

「なら、どちらも現状維持ということで」

 

「一緒にするな!」

 

言い返したところで、手紙に書かれた自分の名前がまた目へ入った。

故意ではなかったとはいえ、先生の胸へ触れたことまでしっかり覚えられていたらしい。

 

今度は耳まで熱くなった。

 

俺とルディは、暫く睨み合った。

やがて、どちらからともなく手紙へ視線を戻す。

紙の向こうで先生が呆れているような気がして、二人同時に黙った。

 

……最初の怒りが嫉妬だったとは、この時の俺にはまだ分からなかった。

 

俺たちは、もう一度、手紙を最初から目で追う。

胸に触れてしまったことは別として……。

 

先生は、俺たちが今どこで迷っているかを知らない。

それでも、必要だった言葉が書かれていた。

 

『場所を変えることも一つの方法です』

ルディの指が、その一行で止まった。

 

「先生は、水王級になったんだ」

 

「はい」

 

「俺たちを教えてた時より、上へ行った」

 

「はい」

 

「ルディ」

 

「何ですか?」

 

「行きたい?」

 

どこへとは言わなかった。

ルディの考えることは、この七年で少しずつわかるようになった。

 

「……行きたいです」

 

小さな声だった。

シルフィへ約束した時より、ずっと苦しそうだった。

 

 

その夜。

ノルンとアイシャが眠った後、ルディは俺を起こした。

 

起きていたので、正確には声を掛けただけだ。

 

「相談があります」

 

「うん」

 

「ラノア魔法大学へ行きたいです」

 

昼の時点で分かっていた。

 

それでも、胸の中が少し重くなる。

 

「シルフィは?」

 

「一緒に行きます」

 

迷わず答えた。

 

「シルフィも行きたいって言ったの?」

 

「まだ話していません」

 

「じゃあ、どうして?」

 

「一人にしないと約束しました」

 

「一人にしないことと、連れていくことは同じ?」

 

ルディが黙った。

 

「シルフィは、ルディに行かないでって言った。けど、魔法大学へ行きたいとは言ってないよ」

 

「だからといって、置いてはいけません」

 

「虐められるかもしれないから?」

 

「それもあります」

 

「父様があの子たちの家と話してからは何もないけど……」

 

「今は、です。僕がいなくなれば、また始まるかもしれない」

 

「それを決めるのはルディじゃないよ」

 

言った直後、ルディの目が鋭くなった。

 

「では、放っておけと言うんですか?」

 

「違う」

 

「僕が助けなければ、シルフィには──」

 

「シルフィは自分でも魔術を使える」

 

ルディの言葉を遮った。

 

「文字も読める。前より人と話せる。ルディが教えたから」

 

「まだ七歳です」

 

「俺たちも七歳だよ」

 

「同じではありません」

 

「同じじゃない。だから、シルフィに聞かないと分からない」

 

ルディが口を閉じる。

 

暗い部屋に、妹たちの寝息が聞こえる。

 

俺は正しいことを言っているつもりだった。

だが、ルディの顔を見ると、自信がなくなった。

 

ルディはシルフィを大切にしている。

シルフィもルディを大切にしている。

 

二人は、互いがいなければ外の世界に友達を作れなかったかもしれない。

 

助けた人と、助けられた人。

先生と、生徒。

 

それだけではない。

二人でいる時の顔を見れば、俺にも分かる。

……きっと、好きなのだ。

 

まだ七歳で、好きという言葉の中に何が入っているかは分からなくても。

離した方がいいと、俺が勝手に決めることも違う気がした。

 

「止めたいわけじゃないよ」

 

「では、何が言いたいんですか?」

 

「シルフィに選んでほしい」

 

俺は答えた。

 

「ルディが行くからじゃなくて、自分も学びたいから行くって決めたなら、一緒でいいと思う」

 

「……はい」

 

「それに」

 

先生の手紙を思い出す。

 

「俺も、ラノアで魔術を勉強してみたい」

 

ルディが顔を上げる。

 

「ゼディも?」

 

「うん。でも、剣術の修行もしたい。父様より強い人がいる場所にも行ってみたい」

 

「剣士の道場ですか?」

 

「道場か、旅か。まだ決めてない」

 

「ラノアへ行けば、剣術を教えられる人もいるかもしれません」

 

「そうだね」

 

「三人で行くこともできます」

 

ルディの声が明るくなる。

 

俺は一瞬、言葉に詰まった。

それを言わせるつもりではなかった。

 

「俺は、まだ行くって決めてないよ」

 

「分かっています。ですが、選べるということです」

 

「うん」

 

「学費は三人分……いえ、まず僕とシルフィの分だけでも」

 

ルディはもう、次のことを考えていた。

 

「父様へ頼んでみます。駄目なら、何か別の方法を探します」

 

「俺も手伝う」

 

自然に言葉が出た。

言ってから、さっき自分が話したことを思い出す。

 

シルフィに選ばせる。

ルディにも、自分で進ませる。

そう言ったばかりなのに、俺はもう隣で同じ荷物を持とうとしていた。

 

「ありがとう、ゼディ」

 

ルディが笑った。

その顔を見ると、取り消せなかった。

 

ルディが苦しんでいるなら、手伝いたい。

家族なのだから、当然だと思った。

 

 

翌日の夕食。

ルディは家族が揃ったところで、父様へ切り出した。

 

「父様。お願いがあります」

 

「嫌な予感がするな」

 

「まだ何も言っていません」

 

「お前が改まる時は、大抵、面倒な話だ」

 

「あなた」

 

「旦那様」

 

母様とリーリャが呼ぶ。

やはり、父様は2人には弱いようだ。

 

「聞く。ちゃんと聞くから、その目をやめろ」

 

父様が姿勢を正した。

ノルンは母様の腕の中。

アイシャはリーリャの腕の中で眠っている。

俺はルディの隣へ座った。

 

「ラノア魔法大学で学びたいです」

 

父様の眉が少し上がる。

 

「先日の話か」

 

「はい。それと、シルフィも一緒に通わせたい」

 

「本人は何と言ってる?」

 

「今日、話しました。魔術をもっと学べるなら行きたいと。ゼディに、先にシルフィ自身の希望を聞くべきだと言われたので」

 

俺が言ったことを守ったらしい。

父様が、短く俺を見た。

 

「ただし、お前と一緒なら、だろ?」

 

「……はい」

 

「二人分の学費を出せと言うのか?」

 

「お願いします」

 

「無理だ」

 

返事は早かった。

 

「理由を聞いても?」

 

「まず、遠すぎる。今のお前らだけで行かせられない。護衛を雇えば旅費も増える。それに、うちは二人の妹が生まれたばかりだ。前より金が掛かる」

 

父様はアイシャとノルンを見る。

 

「お前一人なら、何年か先に考えられる。だが、シルフィの分までうちが出す理由はねえ」

 

「では、僕が稼ぎます」

 

「何?」

 

「仕事を紹介してください。読み書きと算術、魔術を教えられます。報酬を貯めて、シルフィの学費にします」

 

「俺も働く」

 

横から言った。

父様が俺を見る。

 

「ゼディは黙ってろ」

 

「どうして?」

 

「これはルディが言い出した話だ」

 

「俺もラノアへ行くかもしれない。剣術の修行もしたい。お金は必要だよ」

 

「何をしたいか決まってねえのに、先に働くのか?」

 

「ルディの分を手伝いながら決める」

 

父様の目が細くなる。

 

「ルディが行かないと言ったら?」

 

「その時は別のことに使う」

 

「ルディが危ない仕事を選んだら?」

 

「一緒に行く」

 

「ルディが間違っていてもか?」

 

答えようとして、止まった。

昨夜の話が浮かぶ。

 

「間違ってたら、先に言う」

 

「言っても聞かなかったら?」

 

「……それでも、一人にはしない」

 

父様は俺を見たまま、何も言わなかった。

ルディが口を開く。

 

「僕はゼディに危険な仕事をさせるつもりはありません」

 

「そういう話じゃねえ」

 

「では、どういう話ですか?」

 

「今はいい」

 

父様は深く息を吐いた。

 

「仕事の件は、心当たりを探してみる。ただし、紹介するのはルディだけだ」

 

「父様」

 

「ゼディ。お前は今、中級になったところだ。何がしたいか、自分で決めろ。兄弟の計画へ後から名前を足すんじゃねえ」

 

胸へ何かが刺さった。

 

「後からじゃない」

 

「なら、お前の計画を言ってみろ」

 

魔法大学。

剣術の道場。

先生を探す旅。

妹たち、家族のそば。

……ルディの隣。

 

全部が浮かび、どれも消せなかった。

 

「……まだ分からない」

 

「だろうな」

 

父様はルディへ向き直る。

 

「ルディ。五年働けるか?」

 

「五年?」

 

「仮の話だ。俺が家を出たのが十二の時だった。だから、お前が一人前になるとしたら、成人は十五歳とされているが、仮に十二歳とする。五年間仕事を任せて、途中で嫌になっても投げ出さず、任されたことを最後までやる。それができるなら探す」

 

ルディは少し考えた。

 

「できます」

 

「シルフィと五年会えなくても?」

 

食卓が静かになった。

 

「なぜ、会えないんですか?」

 

「遠い仕事なら、そうなる」

 

「近い仕事を探してください」

 

「都合よくあるとは限らねえ」

 

「手紙は?」

 

「届くかもしれんし、届かないかもしれん」

 

ルディの表情が強張る。

 

「それでは、シルフィを一人にしないという約束を破ります」

 

「だったら、仕事は諦めるか?」

 

すぐに返事は出なかった。

先生の手紙が届く前なら、諦めたかもしれない。

今は違う。

 

「……条件を聞いてから決めます」

 

「分かった」

 

父様は頷いた。

 

「見つかったら話す」

 

その時、父様が何を決めたのか。

俺たちは知らなかった。

 

 

一か月が経った。

 

ルディは仕事を待ちながら、今後くる仕事を想定して誰にでも何かを教えられるように内容をまとめ始めた。

 

文字。

算術。

魔術。

 

相手がどこで分からなくなるかを、先生と俺、シルフィとの授業から書き出している。

 

「まだ仕事が決まったわけじゃないよ?家庭教師かもわからない」

 

俺が言う。

 

「決まってから始めては遅いです。できることをやらなければいけないんです」

 

「誰に教えるかも分からないのに?」

 

「誰であっても、分からないところを見つける方法は必要です」

 

ルディは前より楽しそうだった。

進む先が見つかったからだ。

 

シルフィも、五年という言葉を聞いてから、以前より長く家にいるようになった。

 

「まだ行かないよね?」

 

帰る前に、何度も確かめる。

 

「決まったら先に話すよ」

 

ルディはそのたび答えた。

 

「勝手には行かない」

 

俺にも、同じことを言った。

だから、信じていた。

 

父様も、仕事が見つかれば話すと言った。

俺たちは家族だ。

意見が違っても、最後には言葉で決める。

 

……そう思っていた。

 

その朝、村の外から馬の匂いがした気がした。

家で飼っている馬とは違う。

 

革と油。

風に混じる、知らない獣の匂い。

 

門の向こうへ目を凝らしたが、別に、道には誰もいなかった。

 

「どうしたんですか?」

 

隣を歩くルディが聞く。

 

「誰かいる」

 

「村の人では?」

 

「分からない」

 

剣術の稽古のため、庭へ入る。

父様が待っていた。

 

いつも通り木剣を持っている。

 

ただ、家の窓は全部閉まっていた。

普段なら、母様かリーリャが妹を抱き、窓から稽古を見ていることがある。

 

今日は、姿がない。

 

「母様たちは?」

 

「中だ」

 

「窓、どうして閉めたの?」

 

「風が入るからだ」

 

別に今日の風は弱い。

 

嘘だと思った。

父様は嘘が上手くない。

 

それでも、稽古を始めた。

俺とルディを交互に相手にする。

 

動きはいつもと同じだった。

俺の剣を受ける。

ルディの剣を流す。

注意する言葉も変わらない。

 

違うのは、父様が何度も門を見ていることだけだった。

稽古が半分ほど終わったところで、父様はルディを呼んだ。

 

「なあ、ルディ」

 

「はい」

 

「シルフィと、会えないって言われたらどうする?」

 

以前、食卓でも聞いたことだ。

だが、声が違った。

 

「嫌です」

 

「仕事を諦めるか?」

 

「まず条件を変えられないか話します」

 

「変えられないと言われたら?」

 

「別の仕事を探します」

 

「どうしても、それしかなかったら?」

 

「父様」

 

ルディが木剣を下ろす。

 

「仕事が見つかったんですか?」

 

「ああ」

 

「なら、きちんと説明してください」

 

「説明したら、お前は断る」

 

「条件が合わなければ」

 

「その口で、相手まで言いくるめる」

 

「話し合うことを、言いくるめるとは言いません」

 

「お前とゼディの場合は言うんだよ」

 

父様が笑った。

困ったような笑いだった。

 

「悪いな。俺は、お前たちほど口が上手くねえ」

 

木剣の先が下がる。

父様の肩から力が抜けた。

 

稽古が終わったのかと思った。

違った。

 

身体の奥から、冷たいものが這い上がる。

 

林で、三人の子供がシルフィへ泥を投げようとした時と同じで違うような、ただ、危険が近づいている気配。

 

考えるより先に、身体が危険を見つけた。

 

「ルディ!」

 

父様が踏み込んだ。

木剣が、ルディの首へ走る。

 

ルディは反射的に魔術を使った。

水と風。

二つが同時に弾ける。

爆風が庭を駆け抜けた。

 

土……というよりも泥に近いものが舞う。

俺は腕で顔を守る。

 

ルディの身体が後ろへ飛ぶ。

父様は止まらない。

 

水と風の中を抜け、ルディを追う。

 

「父様!」

 

横から木剣を振る。

 

父様は俺を見ずに受けた。

腕全体が痺れる。

 

「下がれ、ゼディ」

 

「何してるの!」

 

「ルディを仕事へ送る」

 

「気絶させて?」

 

「そうだ」

 

「先に話すって言った!」

 

「話したら行かねえだろ!」

 

父様の剣が俺の木剣を押し退ける。

空いた脇を蹴られた。

 

息が詰まる。

地面を転がった。

 

「ゼディ!」

 

ルディが手を向ける。

父様の足元が沈んだ。

ルディの土魔術だ。まるで、"泥沼"のようだ。

 

父様は片足が泥の中に落ちる前に、泥になっていない地面に反対の足を置き、体重を移した。

 

その先へ、俺が走る。

 

次に置く足は分かった。

父様の足首を狙う。

 

剣が届く直前、地面から土の壁が生えた。

ルディの魔術だった。

 

父様の視界を塞ぐ。

俺は壁の横を抜けた。

父様が土壁を蹴り壊す。

 

破片の向こうから剣を振り下ろす。

 

「だから二人にしたくなかったんだよ!」

 

父様が叫ぶ。

俺の剣を水神流で流す。

身体が前へ崩れる。

 

だが、倒れる場所には泥があった。

ルディが作った泥へ片手をつき、滑る。

父様の横をすり抜ける。

 

俺と入れ替わるように、ルディが水球を放つ。

父様は首を傾けて避けた。

その頬を、二つ目の水球が掠める。

 

当てるためではない。

視線を切るためだ。

 

「ゼディ、右です!」

 

「分かった!」

 

右へ回る。

ルディが距離を作る。

俺が近くで剣を振る。

 

どちらか一人なら、父様には届かない。

二人なら、少しだけ足を止められる。

 

生まれた時から、同じ場所で動いてきた。

一人で二人分にはならない。

それでも、二人でなら一人では選べない手を選べる。

七年も一緒にいれば、生まれた頃よりもルディの考えていることくらいわかる。

 

父様は、俺たちの間へ入った。

近すぎて、ルディが大きな魔術を使えない場所。

 

俺の剣を受けながら、ルディへ肩をぶつける。

ルディが倒れる。

木剣が首へ向かう。

 

俺は割り込む。

受ける。

重い。

痛い。

 

膝が地面へついた。

 

「邪魔をするな!」

 

「するよ!」

 

「これはルディのためだ!」

 

「ルディが決めてない!」

 

「決めさせたら、シルフィのためだって自分を止める!」

 

「それでも話すんだよ!」

 

木剣を押し返そうとする。

動かない。

 

父様の力は、俺よりずっと強い。

中級になった。

 

昨日までより、剣は上手くなった。

それでも、父様には届かない。

 

「ルディ、逃げて!」

 

「ゼディを置いていけません!」

 

ルディが立ち上がる。

父様の顔が歪んだ。

 

「ほらな!お前らは、そう言うんだよ!」

 

父様が俺の剣を弾く。

 

手から離れかけるが、握り直す。

中級と認められた時と同じように。

 

だが、今度は次の一手が見えなかった。

父様はもう、ルディへ踏み込んでいる。

 

遠い。

俺だと三歩かかる距離。

俺が一歩進む間に、父様なら届く。

 

間に合わない。

嫌だ。

ルディがいなくなる。

 

『勝手にいなくならない』

 

『俺を置いていかないで』

 

『もちろんです』

 

約束した。

ルディは破っていない。

父様が、破らせようとしている。

 

止める。

守る。

届く。

届け。

……届かなければならない。

 

胸の奥で、何かが弾けた。

魔力とは違った。

 

いつも魔術を使う時は、身体の内側にあるものを指先へ集める。

今は、身体全部へ広がった。

 

熱い。

同時に、冷たい。

 

皮膚のすぐ下へ薄い膜ができ、骨と筋肉を外から締める。

 

庭に響く音が近く聞こえる。

父様の足が地面を蹴る音。

ルディの息。

門の外で、馬が鼻を鳴らす音まで聞こえた。

 

踏み込む。

 

土が足の下で砕けた。

 

今までだったら三歩あった距離が、一歩で消えた。

父様の木剣とルディの間へ、自分の剣を差し込む。

 

ぶつかる。

今度は、膝が落ちなかった。

 

「なっ……」

 

父様の目が大きくなる。

 

剣を押す。

父様の足が、一歩下がった。

 

「ゼディ、お前……闘気か……?」

 

「知らない!」

 

力の名前なんてどうでもよかった。

 

もう一度振る。

速い。

自分の腕ではないようだった。

 

父様が受ける。

木剣が軋む。

 

返される前に、次を振る。

 

肩。

脇。

手首。

 

父様が下がる。

 

三撃目が服の袖を裂いた。

初めて届いた。

 

「ルディ、今!」

 

振り返らずに叫ぶ。

風が集まる。

 

父様の後ろで、ルディが魔術を作っている。

これなら止められる。

 

父様が門を見る。

 

「まずい!ギレーヌ!」

 

門の外で、何かが動いた。

馬車の扉が開く音。

 

地面を蹴る音は、一度しか聞こえなかった。

 

褐色の肌。

獣の耳。

眼帯。

大きな剣。

 

見えたのは、それだけだった。

 

女の人の手が剣の柄へ触れる。

 

危ない。

身体の全てが、そう叫んだ。

さっきの父様がルディに迫り来る時よりも──。

 

剣を上げる。

 

光った。

そう思うより早く、手の中から木剣が消えた。

 

指が開く。

手首から肩まで、雷に打たれたように痺れる。

遅れて、庭の端で木が砕ける音がした。

 

俺の木剣だった。

何をされたのか、分からなかった。

 

剣を抜いたところも見えなかった。

ただ、俺の手だけが空になっていた。

 

「ゼディ!」

 

ルディの声。

 

父様が俺の横を抜ける。

 

「待って!」

 

手を伸ばす。

痺れた指は動かない。

 

ルディが風を放とうとする。

父様の木剣が、その首筋へ吸い込まれた。

 

鈍い音。

ルディの目から力が消える。

身体が傾いた。

 

「ルディ!」

 

地面へ落ちる前に、父様が抱き止めた。

 

俺は走ろうとした。

足へ力を入れる。

 

さっき身体を包んだものは、もう薄くなっていた。

それでも一歩進む。

 

褐色の女が前へ出た。

俺と父様の間へ立つ。

剣は鞘へ戻っている。

 

「退け!」

 

「退けん」

 

低い声だった。

 

「ルディを返して!」

 

「仕事へ連れていく」

 

「聞いてない!」

 

「そうだろうな」

 

女の横を抜けようとするが、身体が動かなかった。

 

肩を押さえられている。

いつ触れられたのかも分からない。

 

「離せ!」

 

火を出そうとした。

何も言わずに。

 

火。

芯。

空気。

……順番が作れない。

 

ルディが父様に抱えられている。

門の外には馬車。

 

いなくなる。

頭の中はそれしか考えられなかった。

 

指先で火花だけが散った。

冷静でなければ、俺の無詠唱は遅い。

こんな時に限って、できなかった。

 

「ゼディ、すまん」

 

父様の声が、すぐ後ろで聞こえた。

振り返る。

 

木剣の柄が見えた。

額へ衝撃。

 

膝から力が抜ける。

倒れながら、父様の腕にいるルディへ手を伸ばした。

 

黒い手袋。

垂れた指。

 

あと少し。

俺の指先が、ルディの袖へ触れた。

 

布が滑る。

つかめなかった。

 

視界が暗くなる。

 

父様がルディを門の外へ運ぶ。

女が後ろを歩く。

門の向こうに、馬車が見えた。

 

「ル……ディ……」

 

声が届いたかは、分からなかった。

 

最後に見えたのは、馬車へ乗せられるルディの手だった。

 

 

目が覚めた時、空は赤かった。

 

自分の部屋。

寝台の上。

頭が痛む。

 

身体を起こすと、母様が椅子から立ち上がった。

 

「ゼディ」

 

「ルディは?」

 

「まず横になって。頭を打っているの」

 

「ルディはどこ?」

 

返事を待たず、隣の寝台を見る。

掛け布は整えられていた。

 

枕元に置いてあった本がない。

先生からもらった杖もない。

緑色のペンダントも。

 

「どこ」

 

「仕事へ向かったわ」

 

「誰と?」

 

「ギレーヌという、私とお父さんの昔の仲間よ」

 

「いつ帰るの?」

 

母様が唇を結ぶ。

答えを聞く前に、分かった。

 

「五年くらい?」

 

「……ええ」

 

寝台を降りる。

床が揺れた。

 

母様が腕をつかむ。

 

「まだ立っては駄目」

 

「追いかける」

 

「もう何時間も経っているわ」

 

「馬より速く走る」

 

「今のあなたには無理よ」

 

「やってみないと分からない!」

 

母様の手を振りほどいた。

部屋を出る。

 

廊下には、アイシャを抱いたリーリャがいた。

奥の部屋から、ノルンの泣き声も聞こえる。

 

アイシャは俺の顔を見たように思えたが、名前は呼ばなかった。

まだ、呼べない歳だ。

当たり前だ。

 

二人は、ルディがいなくなったことも分かっていない。

 

それでも、足が止まった。

 

「ルディは、ちょっと遠くへ行った」

 

誰にも聞かれていないのに、アイシャへ話した。

 

「仕事だって。五年くらいで帰ってくるらしいよ」

 

五年。

幼少期の五年は大きい。

俺たちの七歳から十二歳までも大きいが、妹たちの生まれてからの五年間なんてもっと大きい。

 

妹たちが今まで生きてきた時間の、何倍になるのかも分からない。

 

二人が初めてルディの名前を呼ぶ時、本人はここにいない。

二人がルディを覚えていないかもしれない。

 

「でも、帰ってくる」

 

「俺が連れて帰る」

 

それだけ言い、玄関へ向かった。

 

「ゼディウス坊ちゃま」

 

リーリャの声が追ってくる。

止まらなかった。

 

庭へ出る。

父様は、壊れた木剣を拾っていた。

俺の剣だ。

誕生日に、父様がくれたもの。

 

木剣は半分に折れてしまい、端が細かく裂けている。

 

「ルディを返して」

 

父様が振り返る。

頬にはルディの水球が掠めた跡。

袖は俺の剣で裂けたままだった。

 

「もうロアへ向かってる」

 

「返して」

 

「できねえ」

 

父様へ殴りかかった。

拳は簡単につかまれた。

 

反対の手で殴る。

それも止められる。

 

「離して!」

 

「落ち着け」

 

「無理だよ!」

 

足を振る。

父様の脛へ当たった。

 

今度は止めなかった。

もう一度蹴る。

父様は受けた。

 

「約束した!」

 

「何をだ」

 

「勝手にいなくならないって!」

 

父様の顔が、一瞬だけ止まった。

 

「ルディは俺を置いていかないって言った!」

 

「ルディは破ってねえ」

 

「父様が破らせたんだろ!」

 

父様が俺の両手を離した。

 

「そうだ」

 

言い訳をしなかった。

それが、余計に腹立たしかった。

 

「どうして俺に言わなかったの」

 

「言えば、お前は止めただろ」

 

「当たり前だ!」

 

「ルディへ加勢しただろ」

 

「当たり前だよ!」

 

「だから言わなかった」

 

父様の声も大きくなる。

 

「話して分かってもらおうとは思わなかったの?」

 

「思ったさ!」

 

父様は折れた木剣を地面へ置いた。

 

「だが、ルディはシルフィを一人にできないと言う。お前はルディを一人にできないと言う。三人で手をつないで、誰も動けなくなってることを説明しても、お前らはそれでいいと言う!」

 

「いいかどうかを決めるのは俺たちだ!」

 

「シルフィもか?」

 

言葉が止まった。

 

「あの子は、本当に自分で決めたのか?ルディが行くなら行く。行かないなら行かない。それ以外を選べるのか?」

 

「俺も、それはルディに言った」

 

「知ってる」

 

「なら──」

 

「それでも最後は手伝うと言っただろ」

 

食卓での言葉。

ルディが間違っていても、一人にはしない。

俺はそう答えた。

 

「家族を一人にしないことの何が悪いの」

 

「悪くねえ」

 

父様はすぐに言った。

 

「だが、そいつの言うことを全部聞くのと、一人にしないことは別だ」

 

胸へ刺さる。

前に、ルディと話した言葉。

 

一人で決めることと、一人きりですることは別。

怖いことと、助けたいことは別。

守ることと、ずっと抱えて離さないことも別。

 

「お前は最初から、ルディの考えがシルフィのためにならないかもしれないと気付いていた」

 

父様が続ける。

 

「それでも、あいつが笑ったら自分も一緒に行くと言った。金も稼ぐと言った」

 

「それは……」

 

「優しいんだ、お前は」

 

褒められたとは思わなかった。

 

「ルディにも、妹たちにも。家族が困ってりゃ、全部自分の荷物にしようとする」

 

「家族だから」

 

「家族だからこそ、持つなと言わなきゃならねえ時がある」

 

父様は俺の前へしゃがんだ。

目の高さが近くなる。

 

「いつかノルンが危ない場所へ行きたいと泣いたら、一緒に行くのか」

 

「止める」

 

「いつかアイシャが誰かを傷つけたいと言ったら、手伝うのか」

 

「しない」

 

「ルディなら?」

 

「ルディは、そんなこと言わない」

 

「もしもだ」

 

答えられなかった。

ルディが理由を話せば、俺は聞く。

 

理解できなくても、きっと隣に立とうとする。

それが正しいと思っていた。

 

「家族へ厳しいことを言え」

 

父様が言う。

 

「嫌われても止めろ。助けを求められても、そいつのためにならないなら断れ。時には、一人で行かせろ」

 

「だからルディを一人で行かせたの?」

 

「ああ」

 

「気絶させて?」

 

父様が黙った。

 

「それは違う」

 

俺は言った。

 

「父様の言ってることが正しくても、今日やったことまで正しくならない」

 

「……ああ」

 

「話したら止められるからって、話さないでいいことにはならない」

 

「ああ」

 

「父様は、俺たちが勝手に決めるのを止めたかったのに、自分一人で全部決めた」

 

父様の顔が歪む。

 

「俺たちに、一人で全部守るなって言ったのは父様だ」

 

返事はなかった。

風が庭を抜ける。

折れた木剣の先が転がった。

 

「悪かった」

 

父様が言った。

 

「やり方は、間違えた。お前らとの約束も破った。俺は、上手く説明して納得させる自信がなかった。それで力を使った」

 

「俺が弱かったから?」

 

「違う。俺が弱かったからだ」

 

父様は目を逸らさなかった。

 

「だが、ルディを行かせたことは撤回しない」

 

「謝れば、何をしてもいいの?」

 

「よくねえよ。だから、許さなくていい」

 

父様の声は低かった。

 

「俺を恨んでもいい。嫌ってもいい。それでも、必要だと思った」

 

父様はルディの行き先を話した。

フィットア領で一番大きな街、ロア。

 

ボレアス・グレイラット家。

そこの令嬢へ、読み書きと算術と魔術を教える。

 

一緒にいた褐色の女の人は、ギレーヌ。

剣王と呼ばれる剣士で、ルディのロアまでの護衛と剣術の先生になる。

 

俺の木剣を飛ばした一撃は、剣神流の奥義、光の太刀。

あれでも、俺の手を斬らないよう手加減されていたらしい。

 

五年間務めれば、魔法大学へ二人で通えるだけの報酬が出る。

 

「危険はないの?」

 

「絶対にないとは言えねえ。だが、ギレーヌがいる。俺よりずっと強い」

 

俺の剣を消した光を思い出す。

あれより強い相手を、俺は知らない。

 

「手紙は?」

 

「シルフィとのやり取りは、五年間させねえ」

 

「俺からは?」

 

「少なくとも、すぐは駄目だ。ルディが向こうで自分の足場を作るまで待て」

 

「いつまで?」

 

「今は決められねえ。だが、居場所を隠すつもりはない。あいつが向こうで立てたと分かったら、俺から話す」

 

「シルフィには、誰が言うの?」

 

「明日、俺がロールズと話す」

 

「俺も行く」

 

「ゼディ」

 

「ルディが約束を破ったんじゃないって、俺が言う」

 

父様は少し迷った後、頷いた。

 

「会いに行く」

 

「今すぐは駄目だ」

 

「どうして」

 

「追いかけて連れ戻したら、何のために離したか分からねえ」

 

「ルディとシルフィを離すため?」

 

「それだけじゃない。ルディには知らない場所で、自分の力を試してほしい。教える相手が思い通りにならないことも、自分より強い奴がいることも知ってほしい」

 

父様は、俺の折れた木剣を見る。

 

「お前もだ」

 

「俺?」

 

「兄弟の隣にいることと、自分の道を歩くことを分けろ」

 

「……」

 

「今日、お前が纏ったものは闘気だ」

 

初めて聞く言葉ではなかった。

父様が剣を振る時、身体を強くする力もきっとそうなのだろう。

光の太刀を使う時も、必要らしい。

 

父様は結構勘で生きている人間なので、やり方はわからんと前々から言っていたけど、あれが闘気らしい。

先生の本にも、剣士が魔力を身体へまとわせると書かれていた。

 

「あれが?」

 

「そうだ。普通は身体を鍛え、何度も剣を振るううちに少しずつ身につく。お前は、ルディへ届きたい一心で無理やり引き出した」

 

「もう一回できる?」

 

「今は無理だろうな」

 

「どうして」

 

「身体が使い方を覚えてねえ。さっきのは偶然だ」

 

悔しかった。

あれが最初から使えていれば……。

もっと上手く使えれば。

ギレーヌの剣を止められたかもしれない。

ルディの袖をつかめたかもしれない。

 

「強くなれば、次は止められる?」

 

父様はすぐに答えなかった。

 

「力だけならな」

 

「力だけ?」

 

「闘気は、お前が守りたいと思えば出た。だが、誰を止めるのが正しいかまでは教えてくれねえ」

 

父様。

ルディ。

 

どちらが正しかったのか。

今の俺には、決められなかった。

 

父様の考えにも、分かるところはあった。

シルフィに自分で選んでほしいと、俺も思った。

ルディが止まる理由にシルフィを使っているように見えた。

 

それでも、今日のやり方は間違っている。

ルディの手が離れていくところを思い出すだけで、胸の奥が焼けるように痛んだ。

 

「父様を、まだ許せない」

 

「ああ」

 

「たぶん、暫くは許さない」

 

「分かった」

 

「でも、言ったことは考える」

 

父様が僅かに目を見開いた。

 

「ルディの言うことだからって、何でも一緒にはしない。間違ってると思ったら止める」

 

「そうしろ」

 

「父様が間違ってる時も止める」

 

「……お手柔らかに頼む」

 

「嫌だ」

 

父様は困った顔をした。

 

いつもなら笑えた。

今日は笑えなかった。

 

「それから」

 

俺は折れた木剣を拾う。

 

「新しい剣を作って」

 

「それはギレーヌに言ってくれ」

 

「父様が呼んだんでしょ」

 

「……作る」

 

「前より丈夫なやつ」

 

「分かった」

 

「明日から、闘気の練習もする」

 

「頭の痛みが消えてからだ」

 

「今すぐ消す」

 

「治癒魔術を頭へ使うな。大人しく休め」

 

父様が手を伸ばす。

頭を撫でようとしたのだと思う。

 

俺は一歩下がった。

手は宙で止まった。

 

父様は何も言わず、下ろした。

許していない。

 

それでも、話は聞いた。

言うことを聞くのと、話を聞くことも、きっと別だった。

 

 

部屋へ戻る。

ルディの寝台は、やはり空だった。

 

朝まで隣にいた。

昨日の夜も、灯りを消してから話をした。

 

仕事が決まったら、シルフィへどう伝えるか。

初めて教える相手が大人だったらどうするか。

もらったお金をどこへ置くか。

 

何も決まっていない話を、遅くまで続けた。

今日も続くと思っていた。

 

空の寝台へ腰を下ろす。

枕へ触れる。

まだ少し、ルディの匂いが残っていた。

 

先生の手帳を開く。

少し前に書いた頁。

『守りたいものは全部守る。でも、一人だけでは守らない』

 

その下へ、新しく書く。

『ルディは、ロアへ行った』

 

一度、手が止まる。

書き直した。

『ルディは、父様に気絶させられ、ロアへ連れていかれた』

 

なかったことにはしない。

父様が謝っても、理由に分かるところがあっても、今日のことまで綺麗にはしない。

 

『守ることと、言うとおりにすることは違う』

『止めることと、勝手に決めることも違う』

『父様を、まだ許していない』

最後の一行は、少し大きな文字になった。

 

扉の向こうから、二つの泣き声が聞こえた。

俺は手帳を閉じて、部屋を出た。

 

母様がノルンを、リーリャがアイシャを抱いている。

二人とも、俺の顔を見ても名前は呼ばない。

まだ、呼べない。

 

ただ、理由も分からないまま泣いている。

 

「俺が抱くよ」

 

リーリャからアイシャを受け取った。

首を支え、胸へ寄せる。

それから、母様の腕にいるノルンへも手を伸ばした。

 

「二人とも、俺が」

 

立ち上がろうとして、頭が痛んだ。

身体が傾く。

 

「ゼディ」

 

母様がノルンを抱いたまま、俺の肩を支えた。

リーリャがアイシャへ手を添える。

 

「一人で抱かなくていいのよ」

 

母様が言う。

二人が生まれた日にも、同じことを教わった。

 

一人ずつ。

俺とルディで、一人ずつ。

……今は、ルディがいない。

 

「俺がやる」

 

言葉が先に出た。

 

「ルディの分も」

 

母様とリーリャが、俺を見る。

 

「俺が二人のお兄ちゃんをやる」

 

自分でも、変な言葉だと思った。

俺は俺でしかない。

ルディにはなれない。

 

それでも、空いた場所をそのままにはしたくなかった。

 

「ゼディは、一人で二人分にならなくていいのよ」

 

母様が静かに言う。

 

「でも」

 

「ノルンにも、アイシャにも、あなたは一人しかいないわ」

 

母様に抱かれたノルンへ、人差し指を近づける。

 

小さな手が、俺の指を握った。

腕の中のアイシャも、反対の手の指を握る。

 

二人は、俺の名前を呼べない。

ルディの名前も呼べない。

 

それでも、二つの小さな手は確かに俺をつかんでいた。

 

「……うん」

 

ノルンは母様が抱く。

アイシャは俺が抱く。

 

三人で、空いた寝台へ座った。

俺がアイシャを抱き、母様がノルンを抱く。

リーリャが二人へ毛布をかける。

 

それでいい。

そう思おうとした。

 

けれど、いつもいるはずの隣が空いている。

隣の空白から目を逸らすことはできなかった。

 

次に会う時、ルディへ言いたいことがある。

 

勝手にいなくならないという約束を、ルディは破っていないと分かっていること。

 

シルフィのことを一人で決めるのは違うと思っていたのに、最後には何でも手伝おうとしたこと。

 

家族を守ることと、家族の望みを全て叶えることは違うと知ったこと。

 

そして、今度は、伸ばした手を届かせること。

 

そのために、剣を振る。

闘気を自分の力にする。

魔術ももっと強くなる。

 

ルディがいない間、ノルンとアイシャの兄でいる。

 

俺は結局、まだ全部を欲しがっていた。

ただ、全部を守りたいなら、頷くだけでは足りないことを知った。

 

時には止める。

時には送り出す。

時には、嫌われても言葉を尽くす。

 

そのどれも、今の俺にはまだ難しい。

俺は七歳だった。

 

今日一日で、大人になったわけではない。

けれど、昨日まで知らなかったことを一つ知った。

 

家族の隣に立つためには、家族とは違う自分の足で立たなければならない。

 

その日は、先生の手帳へ最後にもう一行書きたした。

『次に会う時は、ルディの隣へ、自分で選んで立つ』

 

頁を閉じる。

 

アイシャが温かい。

ノルンが温かい。

母様も、リーリャも温かかった。

父様だって、俺たちのことを考えた上で、温かかったのだ。

 

今は、ルディの寝台だけが、冷たかった。

 

明日から、この家には一人分の声が足りない。

だから俺は、足りない分まで頑張ろうと思った。

 

一人で二人分になることと、二人分の想いを背負うことの違いを。

 

この時の俺は、まだ知らなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。