無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜 作:omugut
水は、形を変える。
器へ注げば器の形に。
地面へ落とせば、下に落ちていく。。
熱を加えれば霧となり、冷やせば氷になる。
だから、水の魔術に必要なのは、決められた形を覚えることだけではない。
その場に合わせ、何を変え、何を残すかを見極めることが必要なのだ。
かつて、わたしはそう教えた。
もっとも、その頃のわたし自身が、どこまで分かっていたのかは怪しい。
「──もう一度」
シーローン王宮の外れにある、魔術訓練場。
わたしは、濡れた前髪を指で払いながら、自分へ言った。
周囲に人はいない。
訓練場の使用人にも兵士にも、しばらく近づかないよう頼んである。
中央には避雷用の鉄柱を立て、その周囲も念のため土壁で囲んだ。
足元には、王宮の書庫から借りた古い魔術書と、そこから書き写した何枚もの紙が置かれている。
水王級魔術『
現在のシーローン王宮に、この術を使える魔術師はいなかった。
実演してくれる師はいない。
詠唱と、術が成立するまでの短い説明だけが、古びた本の中に残されていた。
雲の中へ雷を蓄える。
膨らませた力を、一点へ圧縮する。
最後に、狙った場所へ落とす。
書かれている手順だけなら、理解できる。
わたしは水聖級魔術『
雷を伴う雲を作るところまでは、何度でも成功した。
……問題は、その先だった。
雲を狭めようとすれば、蓄えた力まで散ってしまう。
力を残そうとすれば、雲が広がり、落雷する場所を定められない。
強く押さえれば術そのものが崩れ、弱ければ、ただの雷雨になる。
今日だけで五度。
正直、わたしの魔力量では、聖級魔術だって何度も打つことはできない。
王級となれば、おそらく一度打つだけで立っていることは難しいかもしれない。
今日は、次で限界だろう。
一度は雲を消し損ね、訓練場全体へ雨を降らせた。
一度は遠くの旗柱へ雷を落としかけた。
成功には程遠い。
魔術書の余白を何度探しても、もう答えは書いていなかった。
誰かに聞けば分かる、というものでもない。
この術について、今のわたしが頼れるのは、本に残された言葉と、水聖級まで積み重ねた自分の経験だけだった。
以前なら、そこで自分には才能がないと考えただろう。
けれど、今は別の考え方を知っている。
目を閉じる。
雨の降る草原。
頭上へ広がる、不格好な雲。
水だけでは足りないと知り、火と風を使って雲を支えた、小さな弟子の姿が浮かんだ。
『足りないなら、自分が持っているもので補えばいい』
あの日、ゼディウスはそう言ったわけではない。
わたしが、彼の魔術からそう受け取ったのだ。
次に浮かんだのは、同じ草原で、空の仕組みを一つずつ解きほぐすように雲を作り上げた、もう一人の弟子だった。
ルーデウスは、術を一つの塊として見ていなかった。
雲を作る。
保つ。
動かす。
雷を生む。
必要な働きを分け、それぞれをつなぎ直していた。
「分けて、補う……」
わたしは、失敗の記録を見直した。
これまでは、雲を作ることと、雷を一点へ絞ることを一度に行おうとしていた。
まずは豪雷積層雲を完成させる。
完成する前からすべてを押し込めるのではない。
一度広がった雲を風で支え、外側から順番に畳みながら、雷と魔力を中心へ集める。
新しい術を、何もないところから作る必要はない。
自分が使える術を土台にして、足りない部分だけを変えればいい。
杖を構える。
「──始めます」
長い詠唱を口にする。
頭上へ、黒い雲が生まれた。
雨が降る。
風が吹く。
雲の内側で、雷が何度も瞬いた。
ーーまだ落とさない。
広がろうとする雲を保ち、外縁から少しずつ縮めていく。
右側の雲を畳む。
左へ散った雷を中心へ戻す。
雲が小さくなるほど、白い光が濃くなる。
雲すべてを支配しようとしない。
必要なものだけを見る。
杖の先を、鉄柱へ向ける。
「
世界から、一瞬だけ色が消えた。
白い光の柱が、空と地面をつないだ。
遅れて、身体の中まで揺らす轟音が響く。
土壁の内側から、土と蒸気が高く噴き上がった。
衝撃でローブがはためき、わたしの身体も後ろへ滑る。
倒れそうになるのを、杖で支えた。
雲が薄れ、雨が弱くなる。
土煙の向こうで、鉄柱の上半分が消えていた。
地面は黒く焼け、周囲の土壁には放射状の亀裂が入っている。
「……できた」
声にすると、それだけだった。
胸の奥へ、遅れて熱が広がっていく。
何度も読み返した。
何度も失敗した。
術式が間違っているのではないかと疑った。
自分には、水聖級より上へ進む才能がないのではないかとも思った。
それでも、自分で考え、自分の術を使い、届いた。
水王級。
今日から、わたしはそう名乗ることができる。
その時、最初に浮かんだのは、師匠でも、かつての学友でもなかった。
茶色い髪をした二人の男の子だった。
ルーデウスは、どこまで進んでいるだろう。
わたしが知らない術を、もういくつも作っているかもしれない。
ゼディウスは、無詠唱を使えるようになっただろうか。
使えないことを悔しがり、また火ばかり大きくしていないだろうか。
二人へ知らせたい。
そう思った。
わたしが階級を上げたくらいで、あの二人が驚くかは分からない。
むしろ、遅いと言われるかもしれない。
……いえ。
ゼディウスなら、目を輝かせて喜ぶだろう。
ルーデウスは落ち着いた顔で祝った後、術の仕組みを根掘り葉掘り聞いてくる。
容易に想像できた。
「ロキシー!」
余韻を壊すような声が、訓練場の入口から響いた。
豪華な服を着た少年が、護衛を引き連れて立っている。
わたしが現在教えている、シーローン王国の王子……パックス殿下だった。
「こんなところにいたのか!午後の授業はどうした!」
「午後の授業までは、まだ半刻あります」
「教師なら先に来て待っていろ!」
「授業を受ける側にも、先に来て本を開いておく自由はありますよ」
「口答えをするな!」
元気がある。
頭の回転もそこそこ速い。
魔術の才能にだって恵まれている。
以前のわたしなら、そこで双子を思い浮かべた。
ルーデウスなら、今の説明を一度で理解した。
ゼディウスなら、怒る前に術の跡へ駆け寄った。
パックス殿下は、二人とは違う。
その違いを見つけるたび、どちらが優れているかを考えてしまっていた。
そして、わたしが口に出さなくても、その目は伝わっていたのだと思う。
自分ではなく、ここにいない誰かを見られている。
何をしても、先に教えた子供の出来で測られる。
……それで素直に学べる子供が、どれほどいるだろう。
パックス殿下の性格には、わたしと出会う前から問題があった。
けれど、元から曲がっているからといって、教師がさらに力を加えていい理由にはならない。
双子を教え、違いを優劣にしてはいけないと学んだはずだった。
その学びを、わたしは新しい生徒へ使えていなかった。
目の前にいるのは、出来の悪いルーデウスではない。
乱暴になったゼディウスでもない。
パックス・シーローンという、一人の生徒だ。
「殿下」
「なんだ」
「訓練場へ入ってはいけません。今使った術がまだ残っています」
比較ではなく、今の殿下へ必要なことを伝える。
殿下は、黒く焼けた地面を見た。
「今のは何だ」
「水王級魔術『雷光』です」
「誰に教わった」
「誰にも教わっていません。王宮の書庫で術式を見つけて、自分で練習しました」
「一度で使えたのか」
「いいえ。今日だけでも何度も失敗しました」
「お前でも失敗するのか」
「失敗しない魔術師はいません」
殿下は、黒く焼けた鉄柱と、濡れたわたしのローブを見比べた。
何かを考えているようだった。
以前なら、そこで別の生徒の名前を出していたかもしれない。
ルーデウスも失敗した。
ゼディウスも、不得意な水を何度も練習した。
それは事実だ。
けれど、今、殿下が失敗してもいい理由として、二人の名前を使う必要はない。
「失敗した後で、何を変えるかが大切です」
「……なら、早く授業を始めろ」
その声は、先ほどより少しだけ小さかった。
「その前に、わたしの部屋から持ち出した物を返してください」
殿下の肩が僅かに跳ねた。
「な、何のことだ」
「下着です」
護衛たちは揃って明後日の方向を見た。
「し、知らん!」
「では、授業はお休みにします」
「なぜだ!」
「教師の持ち物を盗む生徒には、物を教えられません」
「下着一枚で授業をやめるのか!」
「盗んだことは認めるんですね」
「…………」
殿下は顔を赤くした。
ここでも、双子のことは考えない。
同じ悪戯に見えても、した人間も、理由も、その後に選ぶことも違う。
「返して、謝ってください。そうすれば予定通り授業をします」
「王族たる余が、教師風情に謝れと言うのか!」
「はい」
「不敬だぞ!」
「盗まれた物を返してほしいと言っただけです」
「お前など、いつでもクビにできるんだぞ!」
以前のわたしなら、その言葉に怯えたかもしれない。
教師の職を失えば、自分の価値までなくなるように思っていた。
生徒に嫌われれば、教え方がすべて間違っていたのだと落ち込んだ。
だから、威厳を作ろうとした。
何でも知っている顔をした。
失敗しても、なるべく見せないようにした。
そして、生徒が思い通りに育たなければ、別の生徒と比べた。
……今は違う。
「わたしを教師から外すよう求めることは、殿下にもできます」
杖を下ろす。
「ですが、わたしが今日、何を教え、何を許さないかは、教師であるわたしが決めます」
「……っ!」
「部屋で待っています。授業を受けるなら、返す物を持って来てください」
頭を下げ、殿下の横を通り過ぎる。
背後から地団駄を踏む音が聞こえた。
パックス殿下を思い通りの人間へ変えることはできない。
人は魔術とは違う。
正しい詠唱を教えれば、必ず同じ答えが出るわけではない。
わたしにできるのは、殿下を殿下として見ること。
学ぶための道を示すこと。
間違えた時に、間違いだと伝えること。
そして、本人が次の一歩を選ぶまで待つこと。
どれだけ待てばいいのかは、まだ分からない。
それでも、他の誰かの背中を殿下の前へ置くことだけは、もうやめようと決めた。
わたしは一人で自室へ戻る。
机の上には、一冊の新しい手帳が置いてあった。
角のまだ固い、革張りの手帳。
最初の旅で使った手帳はもう手元にない。
続きを書くように言って、ゼディウスへ渡した。
だから、これは二冊目だった。
開けば迷宮で見つけた魔物のこと、宿代、シーローンまでの道、王宮の書庫で見つけた本、『雷光』で失敗した理由。
そして、時々ーー。
今は遠く離れた二人の弟子について書かれている。
今日の日付の下へ、文字を足す。
『水王級魔術、雷光を修得』
そこまで書いて、手が止まった。
報告したいことがある。
ならば、手紙を書けばいい。
二人と別れてもう二年になる。
手紙を書くには、十分すぎるほどの時間が経っていた。
それでも、最初の一行がなかなか決まらない。
先生らしく書くべきだろうか。
旅の先輩として書くべきだろうか。
……それとも、ただのロキシー・ミグルディアとして……。
便箋を前に考えていると、ブエナ村へ向かった日のことを思い出した。
あの日のわたしは、自分が二人の子供から教わることになるなど、少しも考えていなかった。
◇
グレイラット家での仕事は、一人の子供へ魔術を教えるものだと聞いていた。
麦畑が一面に広がる、辺境の村。
それにしては、かなり条件の良い仕事だった。
その時、分け合って職とお金に困っているわたしにとっては好都合だった。
詳細は行ってみなければわからないものだったが、子供に魔術を教えるという内容だ。
幼い子供なら、わたしの見た目を理由に教師として扱わないこともないだろう。
わたしは成人していたが、人族の子供とほとんど変わらない背丈だった。
それに、何よりミグルド族なので、青色の髪も目立つ。
旅先で宿を取ろうとして追い返されたこともある。
冒険者組合で依頼を受けようとして、スペルド族と勘違いされ、魔族は出ていけと言われたこともある。
魔術大学で学び、水聖級まで使えるようになった。
知識も経験も、それなりにある。
それでも、最初に見られるのは背丈と顔だった。
だからこそ、家庭教師の仕事をきちんと務めたかった。
立派な教え子を育てれば、わたしも立派な教師だと証明できる。
今になって思えば、ずいぶんと自分勝手な始まりだった。
生徒のためではなく、自分の価値を示すために教師になろうとしていたのだから。
道中、挨拶を何度も練習した。
声は低めに。
表情は固くしすぎず、笑いすぎず。
分からないことを聞かれても、すぐに慌てない。
子供だからと甘やかさず、しかし怖がらせない。
頭の中では、完璧なロキシー先生ができていた。
グレイラット家へ着くまでは。
「双子、ですか?」
玄関に並んだ二人を見て、最初に出た言葉がそれだった。
同じ茶色い髪。
同じくらいの背丈。
けれど、目はまるで違っていた。
ルーデウスは、こちらを観察していた。
礼儀正しく頭を下げ、年齢に似合わない整った言葉を使う。
その一方で、視線だけは忙しく動いていた。
帽子。
杖。
髪。
服。
……それから、あまり見てほしくないところまで。
ゼディウスは、もっと分かりやすかった。
わたしの髪を見て、杖を見て、また髪を見る。
聞きたいことが顔から溢れていた。
ただ、開口一番、「小さい」と言ったのはルーデウスの方だった……。
教える子供が一人から二人になった。
驚きはした。
勿論、全く同じように進めるとは思っていないが、それでも、特に大きな問題だと思わなかった。
双子なら、同じ年齢、同じ家で育ったのだ。
同じ授業を受けさせればいい。
二人へ同じことを教え、同じ課題を与え、同じところまで進ませる。
それが公平だと思っていた。
その考えは、初日から崩れた。
まず、わたしが木を折った。
魔術の威力を見せるつもりだった。
小さな子供へ、教師らしいところを見せたかった。
結果、ゼニスさんが大切にしていた庭の木を折った。
治癒魔術でつなぎ直しても、折った事実は消えない。
ゼニスさんの悲しそうな顔も消えなかった。
終わったと思った。
初日に庭を壊す家庭教師など、聞いたことがない。
荷物をまとめるべきだろうか。
謝罪だけで足りるだろうか。
働く前から違約金を払うことになるのだろうか。
頭の中が真っ暗になった。
その時、ルーデウスがわたしの肩を叩いた。
失敗ではなく、次へ使える経験になったのだと。
三歳の子供に慰められた。
情けなかった。
同時に、少しだけ救われた。
教師は、生徒の前で失敗してはいけない。
そう思っていた。
けれど、失敗を見せたからこそ伝えられることもある。
間違えた後、どう直すか、壊した物へどう責任を取るか。
その時のわたしは、そこまで考えられなかった。
ただ、もう一度だけ授業を続けようと思った。
続けてすぐ、ルーデウスが詠唱を端折って水を出した。普段は無詠唱で魔術を使うという。
驚いた。
驚きすぎて、教師らしい顔を保てなかった。
魔術は、詠唱によって形を与えるもの。
それが当たり前だった。
無詠唱という技術が存在することは知っていても、わたしにはできない。
少なくとも、三歳の子供が当然のように使うものではなかった。
喜びより先に、怖いと思った。
この子へ、わたしが教えられることはあるのだろうか。
すぐに追い越される。
それどころか、もう追い越されている部分もある。
教師として来たのに、生徒より劣っているところを見つけられた。
そんなことを考えた。
今なら分かる。
あれは、嫉妬だった。
自分より幼い者が自分にできないことをする。
その才能を素直に喜ぶより、先に自分の価値を心配した。
教師として褒められた感情ではない。
けれど、なかったことにしても仕方がない。
大切なのは、その感情を理由に生徒の先を塞がないことだった。
ゼディウスは、もっと別の意味でわたしを困らせた。
最初に使ったのは治癒魔術だった。
折れた木へ手を伸ばし、見よう見まねで術を発動した。
水球は作れたが、飛ばせなかった。
兄が無詠唱で自在に水を操った直後だった。
一瞬だけ、ゼディウスの顔が曇った。
だからわたしは、一度や二度で才能を決めてはいけないと伝えた。
あれは教師として、正しい言葉だったと思う。
同時に、自分へ向けた言葉でもあった。
わたしは、ルーデウスの無詠唱を見ただけで、自分の限界を決めかけていた。
次に火を教えると、ゼディウスは別人のように術を使った。
炎の揺れを見て、熱の流れを感じ、説明の途中で自分のものにする。
理屈を一つずつ組み上げるルーデウス。
身体で掴み、別の術へすぐ結びつけるゼディウス。
同じ家に生まれ、同じ日々を育った双子。
それでも、同じではなかった。
当たり前のことだった。
わたしは、双子という言葉を見て、勝手に二人を一つにまとめていた。
そして、違いが見えた途端、今度は優劣へ置き換えそうになった。
水ならルーデウス、火ならゼディウス。
それだけなら、まだいい。
だからルーデウスが上、だからゼディウスが下。
あるいは、その逆。
大人は、そういう簡単な言葉を使いたがる。
簡単だからだ。
一列に並べれば、考えなくて済む。
けれど、一列に並べられた側はそうではない。
ルーデウスはゼディウスが剣を振り、迷わず人へ近づけることを見ていた。
ゼディウスはルーデウスが術を理解し、言葉にして教えられることを見ていた。
二人とも、自分にないものを相手の中へ見つけるのが上手だった。
……上手すぎた。
見つけるたび、自分に足りないものまで数えてしまう。
だから、わたしは違いを口にした。
順位ではなく、進み方として。
ルーデウスは水の制御と術の構造に強い。
ゼディウスは火と身体を通して覚えることに強い。
得意なことが違う。
同じ課題でも、たどり着き方が違う。
何度も言った。
言いながら、自分にも言い聞かせていた。
ルーデウスにできて、わたしにできないことがある。
だからといって、わたしの学んだ時間が消えるわけではない。
ゼディウスのように、一目で術の感覚を掴めない。
だからといって、先へ進めないと決まったわけでもない。
生徒の違いを認めることは、自分の違いを認めることでもあった。
◇
二人へ教える時間の中で、わたしが最も変わったのは夜の授業だったと思う。
昼は魔術。
夜は、文字や数字、歴史、種族、世界のこと。
ゼディウスは、旅の話を好んだ。
今日はどこまで行ったことがあるのか。
海はどれくらい広いのか。
魔大陸には何がいるのか。
獣族の耳は本当に人族より遠くの音を聞けるのか。
一つ答えると、三つ質問が増えた。
最初の頃は、できるだけすべてに答えようとした。
教師なのだから、知っていなければならない。
分からないと言えば、失望される。
そう思っていた。
しかし、世界は広い。
旅をしたといっても、わたしが歩いた場所は一部にすぎない。
本で読んだだけの土地も多い。
人から聞いた話と、自分の目で見たことが混ざっているものもあった。
ゼディウスは、そこで止まってくれなかった。
「先生は、見たことがあるの?」
その一言で、曖昧な知識はすぐに分けられた。
見た。
聞いた。
読んだ。
知らない。
その四つは、同じではない。
決定的だったのは、スペルド族の話をした時だ。
緑の髪。
額の宝石。
三叉の槍。
危険な魔族だから、見つけたら近づかず逃げなさい。
わたしは、そう教えた。
「先生は、会ったことがある?」
ゼディウスが聞いた。
ーーなかった。
「じゃあ、本当にみんな悪いの?」
答えられなかった。
伝承はある。
恐ろしい話も、数えきれないほど聞いた。
昔から、親に言われ続けもした。
多くの人が危険だと言うなら、子供へ警戒するよう教えるのは間違いではない。
それでも、会ったことのない相手を、全員悪いと決めていい理由にはならない。
わたし自身、魔族というだけで怖がられたことがあった。
宿へ入る前から断られたこともある。
何もしていないのに、子供を隠された。
青い髪を見て、縁起が悪いと言われた。
そのたび、見た目や種族だけで決めつけるのは間違いだと思った。
なのにわたしも、同じことをしていた。
自分が受けた偏見には敏感で、他人へ向けている偏見には気づかない。
……恥ずかしかった。
「分かりません」
わたしは答えた。
教師になってから初めて、生徒の前で、はっきりそう言った気がする。
「わたしは、スペルド族へ実際に会ったことがありません。聞いた話だけで、安全だとも危険ではないとも言えません」
それでも、危険かもしれない相手へ不用意に近づいてほしくはなかった。
だから、知らないからこそ警戒することも必要だと続けた。
二人は、納得したような、していないような顔をしていた。
あの答えが正しかったのか、今も分からない。
ただ、分からないことを分からないまま伝えたことで、わたしの授業は変わった。
次の日から、黒板の端へ印をつけた。
自分で見たこと、本で読んだこと、人から聞いたこと……まだ分からないこと。
区別して話すようにした。
知らないと認めると、不思議なことが起きた。
授業が終わらなくなった。
分からないなら、調べればいい。
家にある本で足りなければ、村の人へ聞く。
それでも足りなければ、次に旅をした時の宿題にする。
知らないという言葉は、会話を閉じるものではなかった。
次に進むための入口だった。
そして、もう一つ。
教師が知らないと言っても、二人はわたしを笑わなかった。
ゼディウスは、ではいつか一緒に確かめようと言った。
ルーデウスは、知っている範囲を整理してくれた。
わたしは少しずつ、完璧な先生のふりをやめた。
知らないことは調べる。
間違えたら直す。
生徒の方が正しければ認める。
それで教師でなくなるわけではない。
むしろ、そうできる者でなければ、教師を続ける資格はないのかもしれないと思うようになった。
◇
二年間は、長いようで短かった。
最初は机より小さかった二人が、いつの間にかロッドを持ち、庭の中を歩き回っていた。
ルーデウスは、わたしの想像よりずっと速く術を覚えた。
一度見せたものを再現するだけではない。
仕組みを考え、より少ない魔力で、より正確に使う。
教える側としては、とても楽な生徒だった。
同時に、難しい生徒でもあった。
できるからこそ、できないことを隠した。
怖くても平気な顔をする。
分からなくても、知っている言葉をつないで答えを作る。
褒められれば笑うが、その前に何を期待されているのかを探る。
時々、五歳の子供ではない誰かと話しているように感じた。
けれど、やはり子供だった。
悪戯が見つかれば目を逸らす。
ゼディウスだけ褒めると、表情を変えないまま返事が少し短くなる。
夜、外から大きな音がすると、眠ったふりをして布団を深く被る。
賢いことと、傷つかないことは別だった。
……それを理解するまで、少し時間がかかった。
ゼディウスは、反対に何でも顔へ出た。
嬉しければ笑う。
悔しければ唇を尖らせる。
分からなければ、すぐに聞く。
だから、分かりやすい子供だと思っていた。
それも、半分は間違いだった。
ゼディウスは、ルーデウスのことになると自分の気持ちを後へ回した。
兄が外へ出られないなら、自分も待つ。
兄が困っていれば、先に手を出す。
兄が欲しいと言えば、自分も欲しかった物を譲る。
優しい子だった。
けれど、優しさは放っておけば、何でも引き受ける癖になる。
弟だから支える。
家族だから守る。
その言葉だけで、自分が嫌だと思ったことまで飲み込むようになれば、いつか壊れる。
あの頃のわたしは、そこまで先を見通せていなかった。
それでも、二人が互いを大切に思うほど、互いに縛られることもあるのだと、少しずつ気づいていた。
そのことを、最も強く教えられたのが、卒業試験だった。
◇
水聖級魔術を見せる場所として、家の外を選んだ。
広い範囲へ影響する術だ。
庭で使えば、また木を折るどころでは済まない。
当然の判断だと思っていた。
ルーデウスが、外には行けないと言うまでは。
最初、理由が分からなかった。
村の外に強い魔物がいると思っているのか、馬が怖いのか、単に家から出たくないのか。
わたしは二年も一緒にいたのに、彼が門の外をどれほど恐れているか知らなかった。
見えていることだけで、生徒を理解したつもりになっていた。
さらに悪いことに、すぐ説得しようとした。
試験なのだから、卒業に必要なのだから、危険はないのだから。
どれも、わたしにとっての理由だった。
ルーデウスが何を怖がり、何を失うと思っているのかを聞く前に、正しい道へ動かそうとした。
そこで、ルーデウスは初めて話してくれた。
外へ出れば、人と会う。
人は比べる。
何でも先へ進むゼディウスと並べられ、自分が劣っていると笑われるかもしれない。
そんな不安だった。
事実とは違う。
ルーデウスには、ゼディウスにない力がいくつもあった。
けれど、恐怖は事実だけで消えるものではない。
わたしが二人を比べたことはないかと聞かれた。
ない、と答えたかった。
教師として、二人を平等に見てきた。
違いを順位にしないよう、気をつけてきた。
それでも、比べたことがないと言えば嘘になる。
二人の進み方を見るために、違いを見ていた。
同じ課題を与えれば、どこで迷うかを見比べた。
だから、正直に答えた。
比べることはある。
ただし、優劣を決めるためではない。
そう言いながら、わたし自身も初めて、その違いを言葉にできた。
生徒を見ること、生徒を並べること。
似ているようで、別のことだった。
そして、もう一つ気づいた。
わたしは同じ日に同じ場所で、同じ術を使わせることが公平だと思っていた。
違った。
立っている場所が違う二人へ同じ一歩を命じても、同じ試験にはならない。
ルーデウスにとっては、水聖級魔術より、門を越えることの方が難しい。
ゼディウスにとっては、外へ出ることより、不得意な水で術を形にすることの方が難しい。
同じ目的地を示しても、確かめるべきものは違う。
わたしは試験を延期した。
ルーデウスだけではない。ゼディウスの分も。
一人だけ先に卒業させれば、それもまた二人を順位へ並べることになると思った。
教師の判断が間違っていたのだから、予定を変える責任は教師にある。
そう伝えた。
口にした時、怖かった。
自分の間違いを認めれば、信頼を失うと思った。
二人は、わたしを責めなかった。
代わりに、話し始めた。
どこまでなら行けるのか。
一緒に行くのか。
何をされたら嫌なのか。
兄弟であり、友達でもあること。
助けることと、勝手に決めることは違うこと。
二人なりの言葉で、二人の間にあるものを確かめていた。
わたしは途中で口を挟まなかった。
教師なのだから、導かなければならない。
ずっとそう考えていた。
けれど、あの時に必要だったのは、わたしの答えではなかった。
二人が自分で答えを作る間、待つことだった。
教えないことも、教師の仕事になる。
それを、初めて知った。
翌日、ルーデウスは外へ出た。
怖くなくなったわけではない。
門が小さくなったわけでもない。
怖いまま、自分で行くと決めた。
ゼディウスは、先に腕を引かなかった。
後ろから押し出しもしなかった。
横にいた。
それが、あの日の二人に必要な距離だった。
馬で村を抜ける途中、村人の視線がわたしへ向いた。
わたしも、怖かった。
この国では、魔族を好まない人もいる。
ブエナ村へ来たばかりの頃は、青い髪を見て顔をしかめられた。
二年暮らし、挨拶をし、仕事を手伝い、ようやく会釈を返してくれる人が増えた。
怖くなくなったから話したのではない。
怖いまま話した。
何も起きなかった日を、一日ずつ重ねた。
そのことをルーデウスへ話した。
教えるためだった。
けれど、口にしながら、自分のことも分かった。
わたしは勇敢だったわけではない。
怖いまま、少しずつ動いただけだった。
それなら、ルーデウスも同じことができるかもしれない。
自分の弱さは、隠すものだと思っていた。
あの日、弱さを話したことで、生徒の助けになれた。
教師らしく見せるために削っていた部分こそ、誰かへ渡せるものだった。
◇
草原で、わたしは同じ術を二人へ見せた。
ただし、見るものは分けた。
ルーデウスには、術の仕組みを理解し、自分のものにできるか。
ゼディウスには、不得意な水をどう補って形にするか。
最初にルーデウスが空を覆った。
わたしが作ったものより、大きく、長く、安定した雲だった。
正直に言えば、感動より先に焦った。
このままでは草原が水浸しになる。
雷が馬へ落ちるかもしれない……パウロさんに大切な馬のことで怒られる。
教師として落ち着いた顔を保ちながら、頭の中では必死に被害の範囲を計算していた。
ルーデウスは、わたしの術を再現したのではなかった。
見て、理解し、必要なものを加えた。
すでに、わたしの先にいる。
胸の奥へ、昔と同じ小さな痛みが生まれた。
追い越された。
けれど、今度は、その感情の名前を知っていた。
嫉妬してもいい、悔しがってもいい。
そのために、ルーデウスの力を小さく言う必要はない。
すごいものは、すごい。
わたしの生徒が、わたしを越える術を使った。
それは、教師として恥ずべきことではなかった。
誇っていいことだった。
次に、ゼディウスが詠唱した。
水が足りない、雲が崩れる。
何度か形を失いかけた。
それでも、ゼディウスは諦めなかった。
火で空気を温めた。
風で流れを支えた。
自分が得意なものを使い、不得意な術を最後までつないだ。
ルーデウスのものより小さな雲だった。
だからといって、劣った答えではない。
課題に対し、自分の方法で届いた。
それこそ、わたしが見たかったものだった。
二人へ合格を告げた。
どちらも水聖級魔術師。
けれど、同じ魔術師ではない。
これからは、自分で選ぶこと。
自分の術へ責任を持つこと。
進むか、逃げるか、止まるかを決めること。
一人で足りなければ、助けを借りてもいいこと。
思いつく限りを伝えた。
本当は、もっと言いたいことがあった。
怪我をしないでほしい。
知らない人についていかないでほしい。
危ない術を人へ向けないでほしい。
できれば、ずっと家の庭で安全に練習していてほしい。
けれど、それでは卒業させる意味がない。
教師がいつまでも前へ立てば、生徒は自分で道を選べない。
わたしが教えられることは、もうすべて教えた。
そう言った。
もちろん、正確には違う。
治癒魔術、召喚魔術、魔術以外の知識。
教えようと思えば、まだいくらでも残っていた。
ただ、あの二人はわたしの後ろを歩くだけの生徒ではなくなった。
わたしが知らないところへ、自分で進める。
だから、卒業だった。
そして、卒業したのは二人だけではなかった。
わたしも、グレイラット家の先生を卒業する必要があった。
あの家は居心地がよかった。
ゼニスさんはまるで本当の母のように優しかった。
リーリャさんは、わたしが夜更かしをすると黙って温かい飲み物を置いてくれた。
パウロさんは時々軽薄だったが、教師として、一人の人間として尊重してくれた。
二人の弟子は、毎日のように新しい顔を見せた。
そこにいれば、必要とされた。先生と呼ばれた。
ずっと残る理由はいくらでもあった。
けれど、残ってしまえばわたしは自分が教えたことへ背く。
同じ場所で先が見えないなら、場所を変える。
知らないなら、知りに行く。
わたしには、二人へ教えられなかったことがあまりにも多かった。
だから、旅に出ると決めた。
ゼディウスに、そのために出ていくのかと聞かれた。
半分はそうだった。
けれど、二人のためだけではない。
わたし自身が知りたかった。
もっと先の魔術を使いたかった。
見たことのない場所へ行きたかった。
教師が学ぶ理由まで、生徒のためだけにする必要はない。
自分のために進む姿を見せることも、最後の授業になる。
そう思った。
旅立ちの朝。
ルーデウスには、ミグルド族のお守りを渡した。
彼は、知らない人の視線を怖がる。
だから、恐怖を消す物ではなく、最初の一言を作る物を渡したかった。
お守りを見せ、話すきっかけにする。
相手が必ず善人だという証明にはならない。
それでも、何も知らないまま敵だと決めるより、一歩だけ先へ行ける。
ゼディウスには、最初の旅で使った手帳を渡した。
あの子は、世界を見たがった。
見たものへすぐ手を伸ばし、自分の中へ取り込もうとした。
だから、見るだけで終わらせないための物を渡した。
何を見たか、何をしたか、何を間違えたか。
書けば、後から読み返せる。
勢いで進むゼディウスにこそ、立ち止まって自分を見る頁が必要だと思った。
最後に、十年後の約束をした。
その頃、わたしがどこにいるかは分からない。
ゼディウスが同じ気持ちでいるかも分からない。
それでも、未来に約束が一つあれば、道を進む理由になる日もある。
二人が門の外へ立つのを見届け、わたしは歩き出した。
振り返ったのは、一度だけだった。
ルーデウスは、お守りを握っていた。
ゼディウスは、手帳を胸へ抱いていた。
二人とも泣いていなかった。
わたしも泣かなかった。
……少なくとも、見えるところでは。
◇
グレイラット家を出た最初の夜。
宿で夕食を取っている時、わたしは隣の空いた椅子へ話しかけそうになった。
「この肉は何の肉?」
ゼディウスなら、そう聞くと思った。
「焼き方を見る限り、保存用の塩漬け肉を戻したものです」
ルーデウスなら、質問される前にそう言ったかもしれない。
一人で食べる食事は、静かだった。
一人の旅に慣れていたはずなのに、静かすぎると思った。
部屋へ戻り、記録をつけようとして手帳がないことに気づいた。
自分で渡したのだから、当然だった。
翌朝、新しい手帳を買った。
一頁目へ、旅の目的を書こうとした。
水王級魔術を学ぶ。
知らない土地を見る。
教師としての経験を積む。
どれも間違っていない。
けれど、最初に書いたのは別の言葉だった。
『知らないことを、知っているふりをしない』
二行目。
『できないことを、できないまま隠さない』
三行目。
『違いを、すぐに上下へ並べない』
すべて、双子へ教えながら、自分が教わったことだった。
その三つを持って、旅を再開した。
実際の旅は、きれいな学びばかりではなかった。
冒険者の一団へ入れば、見た目で子供扱いされた。魔族だからと断られたこともある。
以前のわたしなら、実力を見せつけようとした。
一番難しい依頼を選ぶ。
大きな術を使う。
自分一人でできると証明する。
それで認められたこともある。
同時に、必要のない危険を増やしていた。
ある迷宮で、わたしは通路の先にいる魔物を一人で倒そうとした。
狭い場所だった。
味方を巻き込まないよう威力を絞り、前衛の横から術を通すつもりだった。
できると思った。
術は魔物へ当たったが、倒しきれなかった。
傷を負った魔物が突進し、前衛の一人を壁へ叩きつけた。
命は助かった。腕の骨が折れた。
治療を終えた後、わたしは謝った。
「次は先に言ってくれ」
前衛の男は、怒鳴らなかった。
「一人で通せないなら、俺が半歩下がる。お前の術に合わせて道を作る」
「ですが、それではあなたが──」
「俺の役目は、そこに立ち続けることじゃない。全員で帰ることだ」
ゼディウスの雲を思い出した。
足りないものを、別の力で補う。
それは魔術の中だけの話ではなかった。
次の戦いでは、先に相談した。
わたしは術を二つに分けた。
前衛が魔物の向きを変え、斥候が逃げ道を塞ぎ、最後にわたしが水で足を払う。
一人で大きな術を使うより、簡単に終わった。
迷宮を出た時、誰かがわたしの名前を褒めた。
けれど、その時はもう、自分一人の手柄だとは思わなかった。
できないことを認めるのは、負けではない。
助けを借りるのは、自分の価値を減らすことでもない。
双子へ言った言葉を、旅の中で何度も自分へ言い直した。
そのうち、少しずつ依頼が増えた。
派手な術を使うからではない。
少なくとも、それだけではなかった。
状況を見て術を選ぶ。
知らない魔物なら、知っている人へ聞く。
危険だと思えば戻る。
失敗した理由を手帳へ書き、次に変える。
そうしているうちに、名前が知られるようになった。
わたし自身は、あまり実感がなかった。
シーローン王国で王子の家庭教師をしないかと声を掛けられた時も、最初は人違いだと思った。
また教師になる。
……返事をするまで、少し迷った。
双子が特別だっただけではないか。
あの二人ほど熱心で、才能があり、互いに教え合える生徒でなければ、わたしには教えられないのではないか。
そんな不安があった。
けれど、それでは、何も学んでいないことになる。
同じ生徒はいない。
同じ方法で教えられる生徒もいない。
違うからこそ、見なければならない。
わたしは依頼を受けた。
そして、すぐに後悔しかけた。
パックス殿下は、ルーデウスともゼディウスとも違った。
頭はいい。才能もある。
けれど、学びたいものより、手に入れたいものの方が多かった。
褒めれば当然だと思う。
叱れば身分を持ち出す。
できない課題は教材が悪いと言う。
わたしの部屋を覗く。
服を持ち出す。
最初のわたしは、その違いを見るたびに双子を思い出した。
ルーデウスなら、もう理解していた。
ゼディウスなら、分からなくても先に手を動かした。
同じ年頃の二人にできたのだから、殿下にもできるはずだ。
そう考えた。
同じことを教えてもできない殿下を、努力が足りないのだと決めかけた。
ある日の授業。
殿下は、初級水魔術の水球を、決められた大きさで保つ課題に取り組んでいた。
魔力を込めすぎて水球が膨らむ。
小さくしようとして、今度は形が崩れる。
何度目かの失敗で、殿下は杖を机へ叩きつけた。
「こんなつまらん術に、何の意味がある!」
「大きな術ほど、細かな制御が必要になります」
「余なら、制御などせずとも力で押し切れる!」
「ルーデウスなら、この程度は一度で──」
途中で止めた。
遅かった。
「ルーデウスとは誰だ」
殿下の声が低くなった。
「以前、わたしが教えていた生徒です」
「余より上手いのか」
「それは……」
答えに迷ったこと自体が、答えになった。
殿下の顔が歪んだ。
「なら、そいつのところへ帰れ!」
水球が机へ叩きつけられた。
本も、紙も、わたしのローブも濡れた。
殿下は護衛を連れ、授業の途中で出ていった。
残された水を片づけながら、わたしは自分が何をしたのか考えた。
殿下の課題を見ていたはずだった。
実際には、ここにいないルーデウスを見ていた。
ルーデウスにできるのだから、ルーデウスより遅いから。
そうやって、一人の生徒を、別の生徒を測るための物差しにしていた。
双子を教えていた時、わたしは何度も言った。
違いは、優劣ではない。進み方が違うだけだと。
それなのに、相手が変わった途端、同じ間違いをした。
しかも、今度は比較する相手がその場にいない。
どれだけ努力しても、殿下はルーデウスにはなれない。
当然だ。
パックス殿下は、パックス殿下なのだから。
翌日。
わたしは授業の最初に頭を下げた。
「昨日は、申し訳ありませんでした」
「……何がだ」
「わたしは殿下を見ずに、昔の生徒と比べました」
殿下は疑うように目を細めた。
「余の方が劣っていると思ったのだろう」
「水球の制御について、以前の生徒の方が早く覚えたのは事実です」
「やはり──」
「ですが、それで殿下という人間の価値が決まるわけではありません」
顔を上げる。
「覚える速さも、得意な術も、学ぶ理由も、人によって違います。わたしは、その違いを見るために教師になったはずでした」
「綺麗事を言うな」
「そうかもしれません」
「余に嫌われるのが怖くなっただけだろう」
「それも、少しあります」
「あるのか!」
「教師でも、教え子には嫌われたくありませんから」
殿下が呆れた顔をした。
それから、その日の授業を始めた。
すぐに何かが変わったわけではない。
殿下は相変わらず命令した。
失敗すれば教材のせいにした。
気に入らなければ、授業を抜け出そうとした。
変える必要があったのは、まずわたしの見方だった。
他の生徒ならどうしたかではなく、昨日の殿下がどうだったかを見る。
記録を取り直した。
詠唱は、一度聞けば大半を覚える。
魔力を込めすぎる癖がある。
目的の分からない反復練習には飽きやすい。
反対に、何のために必要かを理解した課題は、終わるまで席を立たない。
叱られることを嫌う。
けれど、本当にできなかったことと、やらなかったことの違いは、自分でも分かっている。
今まで、双子の影に隠れて見落としていた、殿下自身の姿だった。
長所だけを褒め、機嫌を取ることもしなかった。
できたことは、何ができたのかを伝える。
できなかったことは、どうすれば次へ進めるかを伝える。
「昨日は水球を十数える間しか保てませんでした。今日は十三です」
「それだけか」
「三つ増えました」
「以前の生徒なら、もっとできたのだろう」
「今は殿下の授業です」
最初のうち、殿下はその答えに怒った。
何度聞かれても、同じように答えた。
「昨日は詠唱を三か所間違えました。今日は一か所です」
「あのルーデウスよりは?」
「比べません」
「余が負けているからか」
「殿下の進歩に、ルーデウスは関係ありません」
やがて、質問が少しだけ変わった。
「……昨日よりは、ましなのか」
「はい。昨日より、魔力を抑えられています」
「なら、もう一度やる」
次の授業では、わたしが教室へ入る前に教本が開かれていた。
殿下は、たまたまだと言った。
その次は、先に来ていたことを隠すため、わざわざ本を閉じた。
わたしは気づかないふりをした。
教本の頁に、指で押さえた跡が残っていた。
変化は、本当に少しずつだった。
命令口調は直らない。
自分の失敗を認めるまで時間がかかる。
今日も、わたしの下着を盗んだ。
立派になったとは、とても言えない。
けれど、以前なら授業を投げ出していた場面で、もう一度杖を持つ日が増えた。
誰かより上かではなく、昨日より進んだかと聞くようになった。
それは小さな違いだった。
けれど、道の始まりで向きがほんの少し変われば、遠い先では大きな距離になる。
今すぐ立派な人間にならなくてもいい。
今日、昨日とは違う方を選べたなら、その選択を見落としてはいけない。
生徒に合わせて方法を変えることと、生徒の代わりに成長を選ぶことは違う。
教師は、学ぶ場所を作れる。
道を示せる。
危険な時に止めることもできる。
けれど、歩くかどうかまでは決められない。
卒業試験の前、わたしが双子の答えを待ったように。
パックス殿下にも、自分で選ばなければならないところがある。
だから、何でも受け入れるのをやめた。
盗めば授業を止める。
他人を傷つければ、その日の課題は中止する。
謝罪を求める。
嫌われることを恐れて、教師の側が境界を消してはいけない。
それで殿下が立派になったかと聞かれれば、答えはまだ分からない。
それでも、失敗をすべて自分の無価値へ結びつけることはなくなった。
わたしに変えられるところは変える。
変えられないところまで抱え込まない。
それは諦めではない。
生徒を、自分とも、過去の教え子とも違う。一人の人間として扱うことだった。
◇
王宮の書庫には、グレイラット家にはなかった本が数えきれないほどあった。
最初に入った日、何から読むべきか分からなくなった。
治癒、召喚、古い魔術史、魔族について記した旅行記……水王級。
知りたいものが多すぎた。
ルーデウスも、いつか同じところで迷うだろうと思った。
彼は、できることを増やすのが上手い。
上手いからこそ、どれを先へ伸ばすか決められなくなるかもしれない。
ゼディウスは反対だ。
一つ見つけると、そこへ全力で走る。
火と剣へ夢中になり、他の道があることを忘れるかもしれない。
手紙を書くなら、そのことを伝えようと思った。
もっとも、まず自分が選ばなければならない。
わたしは、水王級魔術について記された古い本を取った。
そこに残されていたのは、一つの術。
水王級魔術『
水聖級になった時、自分の限界はここだと思ったことがある。
王級以上の術式は、簡単には手に入らない。使える魔術師も少ない。
少なくとも、シーローン王宮には『雷光』を実演できる者はいなかった。
ならば仕方がない。
そう言えば、諦める理由になった。
けれど、二人へ教えた。
できないことと、すべてを諦めることは別だと。
同じ場所から道が見つからないなら、場所を変えればいいと。
自分だけ、その言葉から逃げるわけにはいかなかった。
同じ頁を、何度も読んだ。
長い詠唱を書き写した。
消えかけた注釈を一文字ずつ拾った。
自分が知っている豪雷積層雲の術式と並べ、どこが同じで、どこから違うのかを分けた。
訓練場で試した。失敗した。
手帳へ、どの段階で雲が崩れたかを書く。
書庫へ戻り、また読み直す。
今度は雷を集めすぎて、狙いが外れた。
さらに書く。
教えてくれる人がいないなら、自分の失敗を教師にすればいい。
一度の失敗で分からなければ、十度に分ける。
術全体が見えなければ、できるところまで戻る。
ルーデウスが見せたように、仕組みを分ける。
ゼディウスが見せたように、自分の得意な術で、足りない部分を補う。
本に答えを付け足したわけではない。
本に書かれた答えへ、自分がたどり着ける道を作った。
そして今日。
ようやく『雷光』を完成させ、水王級へ届いた。
あの草原で、二人へ卒業を告げた時より二年。
今度は、わたしが一つ先へ進んだ。
◇
机の前。
手紙の最初へ、二人の名前を書く。
『ルーデウス、ゼディウスへ』
二人とも元気にしているだろうか。
ルーデウスは、もう門の外を一人で歩けるのか。
ゼディウスは、手帳の空白を埋めているのか。
友達はできただろうか……。
わたしはまだ知らない。
知らない二年が、二人の中にある。
少し寂しかった。
同時に、嬉しくもあった。
教師が見ていない場所でも、生徒の時間は進む。
わたしの知らない経験をし、わたしが与えなかった答えを見つける。
それでいい。
むしろ、そうでなければ困る。
近況を書く。
冒険者として迷宮へ潜ったこと、少し名前が知られ、王子の家庭教師になったこと。
王子は二人に似ている。
頭がよく、魔術の才能があるところはルーデウス。
何へでも興味を示し、元気なところはゼディウス。
尊大なところは、どちらにも似ていない。
着替えを覗き、下着を盗むところは、残念ながらルーデウスに似ている。
書きながら、手が止まった。
似ているところを見つけること自体が、悪いわけではない。
似ているから同じだと決めること。
一人を、もう一人の価値を測るために使うこと。
それが間違いなのだ。
手紙の中でなら、これは少し困った共通点として笑える。
けれど、授業で向き合う時、わたしの生徒はルーデウスに似た誰かではない。
パックス殿下だ。
ルーデウスのことだけを書くのは、不公平だろうか。
少し考え、卒業試験の前、馬の上でゼディウスの頭がわたしの胸へ当たったことも書き足した。
事故だったことは分かっている。
ただ、二人なら、この一文でしばらく言い争うはずだ。
想像すると、少し笑えた。
便箋の先で、水王級魔術を修得したことを報告する。
自分の限界だと思っていた場所から、まだ先へ行けたこと。
知らない術を記した本を開き、自分で試し続ければ、まだ道が続いていたこと。
ルーデウスへ。
できることを増やしすぎて、進む方向を見失っていないか。
ゼディウスへ。
火と剣ばかりを急いでいないか。無詠唱ができなくても、できないことを隠さず、自分に合う方法を探してほしい。
そして、二人へ。
近くにいるからこそ、互いの進み方がよく見える。
片方が先へ進んだように見えても、もう片方が止まったとは限らない。
比べるなら、昨日の自分と比べること。
同じ場所で道が見つからないなら、場所を変えること。
そこまで書き、読み返した。
教師らしい手紙になった。
少し偉そうでもある。
けれど、書いた言葉はすべて、今のわたしにも必要なものだった。
殿下がすぐに変わらなくても、今日の授業を昨日と同じにしない。
昨日とは違う方を選んだなら、どれほど小さくても見落とさない。
水王級になっても、そこで自分の限界を決めない。
誰かに追い越されても、自分が止まったと考えない。
知らないものを、怖いというだけで遠ざけない。
手紙は、生徒へ送るものだった。
同時に、二年前の自分へ返す答えでもあった。
最後へ名前を書く。
『ロキシー・ミグルディア』
インクが乾くのを待つ。
その時、扉が強く叩かれた。
「ロキシー!開けろ!」
王子の声だった。
「どうぞ」
扉が開く。
王子は不機嫌そうな顔で立っていた。片手には、見覚えのある布を握っている。
後ろの護衛が、深く頭を下げた。
「返してやる」
「返していただきます」
「同じだ!」
王子は下着を机へ投げようとして、手紙に気づいた。
「誰に書いている」
「以前の教え子です」
「余より優秀なのか?」
「比べる必要はありません」
「逃げたな」
「以前のわたしなら、心の中で比べていたと思います」
殿下の眉が動いた。
「殿下が術に失敗するたび、あの二人ならどうしたかと考えていました」
「では、やはり余の方が──」
「今は、そう考えません」
言葉を重ねる。
「あの二人はあの二人です。殿下は殿下です。違う人間を一つの物差しへ乗せて、どちらが上かを決めることに意味はありません」
王子は鼻を鳴らした。
「余の方が上に決まっている」
「殿下が目指したいなら、昨日の殿下より上へ進んでください」
「……余のことは、どう見ている」
思いがけない質問だった。
謝罪はまだない。返す物も、握ったままだ。
「一度聞いた詠唱を、ほとんど間違えずに覚えます」
「当然だ」
「魔力を込めすぎる癖があります」
「余の魔力が大きいからだ」
「言い訳が多いです」
「貴様!」
「ですが、何のための課題かを理解した後は、簡単には投げ出しません」
殿下が口を閉じた。
「昨日より今日の方が、水球を長く保てました。今日の殿下は、訓練場へ残った魔力へ勝手に近づかず、わたしの説明を最後まで聞きました」
「それだけか」
「それから」
殿下が握っている布を見る。
「盗んだ物を返すために、ここまで来ました」
「まだ返していない」
「では、最後までできるか待っています」
手を差し出した。
王子はしばらく顔をしかめていたが、やがて視線を逸らした。
「……勝手に持ち出したことは、悪かった」
とても小さな声だった。
「聞こえませんでした」
「二度も言わせるな!」
「では、今日のところは聞こえたことにします」
王子は乱暴に下着を押しつけてきた。
これで立派になったわけではない。
明日には、また別の問題を起こすかもしれない。
それでも、昨日までしなかったことを一つした。
昨日の自分と比べるなら、一歩だった。
殿下は、すぐには部屋を出なかった。
「余にも、その二人とは違う、得意な魔術があると思うか」
今度は、すぐに答えなかった。
「まだ分かりません」
「教師なのに分からないのか」
「教師だからこそ、見つける前から決めつけたくありません」
水が得意かもしれない、火かもしれない、攻撃魔術ではないかもしれない。
それを、過去の生徒を基準にして決めることはできない。
「授業を続ければ、一緒に探すことはできます」
「なら、見つかるまで教えろ」
「殿下も、自分で探すなら」
殿下は少し考え、鼻を鳴らした。
「まずは水球だ」
「はい」
「百を数える間、同じ大きさで保ってみせる」
「昨日は十三でした」
「だから百までやるのだ!」
「一日で、とは言っていませんね?」
「余がいつまでにやるかは、余が決める!」
ずいぶんと大きな目標だった。
それでも、誰かに勝つために掲げたものではない。
自分が昨日できなかったことを、明日はもう少し長く続ける。
殿下が初めて、自分自身を出発点にして決めた目標だった。
「授業を始めます。先に教室へ行っていてください」
「教師が後から来るつもりか!」
「手紙を封へ入れたら、すぐ行きます」
「早くしろ!」
王子は護衛を連れ、廊下を戻っていった。
その背中を見送り、息を吐く。
これだけで、殿下のすべてが変わるとは思わない。
明日には、また間違えるかもしれない。
わたしも、また殿下を見誤るかもしれない。
わたしは今も、教師として迷っている。
生徒にどこまで手を差し出すべきか。
いつ待つべきか、どこで止めるべきか。
答えは、生徒によって変わる。
同じ生徒でも、日によって変わる。
だから、教師は難しい。
そして、難しいからこそ、まだ学べる。
今日の小さな選択が、遠い未来のどこへ続くのかは分からない。
だからこそ、最初から悪い方へ続く道しかないと教師が決めつけてはいけない。
パックス殿下の道もまだ途中なのだ。
手紙を折り、封へ入れる。
宛名を二つ並べる。
ルーデウス・グレイラット。
ゼディウス・グレイラット。
封蝋を落とす前に、もう一度だけ便箋を開いた。
最後の一行へ、短く付け足す。
『いつか再会した時、わたしが驚くような話を聞かせてください』
二人がどんな話を持っているのか、まだ分からない。
ルーデウスは、今より遠くへ歩けるようになっているだろうか。
ゼディウスは、手帳へどんな景色を書いているだろうか。
もしかすると、二人はまた迷っているかもしれない。
それでも、わたしが答えを届ける必要はない。
手紙は、扉を開けるための小さなきっかけでいい。
選ぶのは、二人だ。
わたしは封を閉じた。
窓の外には、シーローンの王都が広がっている。
ブエナ村とは違う屋根、違う道、違う人々。
世界は、わたしが思っていたより広かった。
そして、きっとまだ広い。
わたしは一度、二人を卒業させた。
あの日まで、自分は生徒を導く側だと思っていた。
違った。
教えながら、教わっていた。
失敗しても、次へ使えばいいこと。
できないことだけで、自分のすべてを決めないこと。
違いを優劣へ変えないこと。
知らないなら、知りに行くこと。
怖くても、自分で一歩を選べること。
足りないなら、別のものに支えてもらっていいこと。
二人が卒業した日。
先生だったわたしもまた、あの家から卒業したのだ。
完成した教師としてではない。
学び続ける一人の魔術師として。
封を持ち、部屋を出る。
廊下の向こうでは、待ちきれなくなった王子がまた叫んでいた。
今日の授業が上手くいくかは分からない。
明日の魔術が、今日より先へ進むかも分からない。
それでも、昨日と同じ場所には立っていない。
次に二人から先生と呼ばれた時ーー。
その名を、胸を張って受け取れるように。
わたしは今日も、次の一歩を選んだ。