無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜 作:omugut
第十三話『一人分の歩幅』
朝、目を覚まして最初にしたのは、隣へ声を掛けることだった。
「ルディ、おはよう」
……返事はなかった。
当たり前だ。
隣の寝台は、昨夜から空いている。
掛け布は綺麗に畳まれ、枕元に積まれていた本もない。
先生からもらった杖も、緑色のペンダントも、黒い手袋も。
ルディが身につけていたものと、最低限の荷物はルディと一緒にロアへ向かった。
分かっている。
それでも、目を覚ましたばかりの頭は、昨日までの朝を覚えていた。
先に起きて本を読んでいた日。
俺が起きるまで布団の中で待っていた日。
目を開けたまま、もう少し寝ていたことにしようと二人で相談して二度寝をした日。
何かしら返事があった。
今日はない。
「……そっか」
声にすると、部屋の静かさのせいで、やけに自分の声だけが大きく響いた。
扉の向こうから、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
一人。
……少し遅れて、もう一人。
ノルンとアイシャだ。
今までは、二人同時に泣けば、俺とルディで一人ずつ抱いた。
けれど、ルディはもういない。
俺は寝台を降り、妹たちのいる部屋へ向かった。
寝籠の中で、二人とも顔を赤くして泣いている。
ノルンの方が声は大きい。
アイシャは途中で息を溜め、思い出したように一段大きな声を出す。
「今のはアイシャ」
答える相手はいなかった。
いつもなら、ルディがノルンだと言い張る。
それから二人で籠を覗き、どちらが正しかったか確かめる。
今日は最初から、二人とも泣いていた。
……まるで、俺の心の穴を表すかのように。
俺はアイシャを抱き上げる。
首を支え、胸へ寄せる。
ノルンも泣いている。
空いている腕を伸ばしかけた。
『一人で二人を抱かなくていいのよ』
昨日の母様の声が浮かび、手を止めた。
「母様」
呼ぶ。
一度では声が小さかった。
「母様!ノルンとアイシャが起きた!」
すぐに足音が近づく。
母様が部屋へ入り、ノルンを抱き上げた。
「呼べたわね」
「ノルンも泣いてたから」
「ええ」
母様は、それ以上何も言わなかった。
けれど、少しだけ安心したように笑った。
俺は一人で二人を抱かなかった。
ただ、それだけのことだった。
昨日までなら、最初から隣にルディがいた。
助けを呼ぶ必要もなかった。
これからは、一人で手が足りない時は自分で呼ばなければならない。
アイシャの背中を軽く叩く。
小さな手が、俺の服を握った。
ノルンも、母様の腕の中からこちらを見ている。
二人は、ルディがいなくなったことを知らない。
……なら、俺が覚えていなければならない。
この家には、本当はもう一人の兄がいる。
俺と同じ日に生まれた、ルーデウスという兄が。
「ルディは、仕事に行ったんだよ」
アイシャへ話す。
「五年したら帰ってくる。たぶん、ずっとすごくなって」
「朝から妹へ何を教えてるの」
母様が困ったように笑った。
「忘れないように」
「この子たちは、まだ名前も分からないわ」
「だから、これから言う」
一度では覚えられない。
それなら、毎日言えばいい。
ルディの話をしよう。
ルディがどんな魔術を使うか、剣術を使うか。
本を読む時、少しだけ眉間へ皺を寄せること。
難しいことを言う時ほど、指先が動くこと。
二人が言葉を覚え、話せるようになる頃、ルディはここにいない。
──それでも、名前だけは遠い人にしたくなかった。
母様は何か言おうとした。
やがて、ノルンをあやしながら、小さく頷いた。
「では、まず朝のご挨拶からね」
「うん」
「「おはよう」」
俺と母様は、二人へ何度もおはようと言った。
これまであったはずの一人分の声は、やはり戻ってこなかった。
◇
朝食の席には、四人と、二人の赤ん坊がいた。
父様。
母様。
リーリャ。
俺。
それから、交代で乳を飲ませてもらっているノルンとアイシャ。
本当なら、もう一人いる。
俺の向かいの椅子は、空けられていた。
片づけ忘れではない。
誰も、そこへ座ろうとしなかった。
父様の頬には、ルディの水弾が掠めた跡が残っている。
俺が裂いた袖は着替えられていた。
目が合う。
父様が先に口を開いた。
「頭はどうだ」
「痛い」
「今日は剣を振るな」
「治癒魔術を使えば治る」
「頭に使うなって言っただろ」
「じゃあ父様が治して」
「俺は治癒魔術を使えねえ」
「役に立たないね」
母様が、机を指で叩いた。
「ゼディ」
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
けれど、父様は怒らなかった。
「役に立たねえのは本当だ」
「認めるんだ」
「使えねえものは使えねえ」
気まずい。
以前なら、ルディが話題を変えてくれただろう。
今日の天気、妹たちの泣き方、俺の言い方が少し悪いこと。
……何でもいい。
俺と父様が言い合った時は、俺と父様の間へルディが言葉を一つ置いて繋いでくれていた。
今は自分で置かなければならない。
「今日、シルフィの家へ行くんだよね」
「ああ」
「俺も行く」
「約束したからな」
昨日話した通りのことをシルフィへ……ルディのことを伝える。
ルディが自分から約束を破ったのではないと、俺の口から話す。
そのために行く。
朝食を終え、父様と家を出た。
門を越える時、昨日の馬車を思い出した。
車輪の跡は、もうほとんど残っていない。
村人や荷車が同じ道を通り、土を踏み直した。
ルディが連れていかれた跡を道が残してくれるわけではなかった。
「ロアは、どっち?」
父様が道の先を示す。
「ずっとあっちだ」
「歩いたら?」
「ひと月以上かかる」
「走れば?」
「今のお前じゃ途中で倒れる」
「空を飛んだらすぐ?」
「なんだそりゃ。そりゃ、魔術を使えば空は飛べるかもしれんがお前は空を飛べないだろ。それに、第一どこへ飛べば着くのか分からねえだろ」
全部、正しかった。
だから余計に腹が立った。
空を飛ぶなんて、俺は急に何を考えているのやら。
……腹が立ったり、急に冷めたり今日は特に感情が忙しいようだ。
今話せば支離滅裂なことを言いかねないし、また父様に当たってしまう気がしたので黙って歩く。
父様も、無理に話しかけてこなかった。
ただ、時々こちらを見る。
俺が道の途中で走り出さないか、確かめているのかもしれない。
走らない。
シルフィに会って、落ち着いて全て話さなければいけないから。
それが今日一番大切なことだから。
◇
ロールズさんの家へ着くと、シルフィは庭にいた。
小さな水球を二つ浮かべている。
大きさを揃え、ゆっくり入れ替える。
ルディから教わった練習だ。
俺たちを見る。
水球が一つ、地面へ落ちた。
「ゼディ」
次に、父様を見る。
その後ろへ誰かがいるのではないかと、道へ顔を向ける。
「ルディは?」
胸が痛んだ。
昨日から、何度も聞いた言葉だった。
自分でも聞いた。
母様へ。
父様へ。
リーリャへ。
今度は、俺が答えなければならない。
「ロアへ行った」
「ロア?」
「仕事」
シルフィは意味が分からないように瞬きをした。
「いつ帰ってくるの?」
「……五年くらい」
浮いていたもう一つの水球も落ちた。
水は庭の乾いた土へと吸い込まれる。
「……五年?」
「うん」
「昨日は、何も言ってなかった」
「ルディも知らなかったから」
「どういうこと?」
父様が前へ出ようとした。
俺は手で止める。
俺が話すと決めた。
「父様が、ルディを気絶させて連れていった」
家の扉が開いた。
中からロールズさんが出てくる。
「パウロ?」
低い声だった。
「全部説明する」
父様が答える。
「まず、シルフィエットに話させてくれ」
シルフィは父様を見た。
怖がっているのとは違う。
初めて見るような目だった。
「どうして?」
「ルディとお前を、このまま一緒に置くのはよくないと思った」
「ぼくが、邪魔だったの?」
「違う」
「じゃあ、どうして?」
シルフィの声が揺れる。
父様が言葉を探す。
俺は昨日、父様から聞いたことを思い出す。
ルディが行かないなら、シルフィも他の場所を見なくていい。
シルフィが泣けば、ルディは行くのをやめる。
二人で手をつなぐことが、二人とも動けなくする時もある。
間違ってはいない。
けれど、それを俺がそのままシルフィへ言えば、傷つけるだけだ。
「……ルディは、仕事がしたいって言った」
まず、そこから話す。
「……俺たちだけで学校へ行くお金を稼ごうとした。シルフィの分も」
「ぼくの……」
「うん……でも父様は、ルディがシルフィのことを全部決めるのは違うと思った」
シルフィが俯く。
「ぼくは、一緒に行きたかった」
「知ってる」
「ルディと一緒なら、どこでもよかった」
「うん」
「それの何が駄目なの?」
すぐには答えられなかった。
俺だって、ルディと一緒ならどこでもいいと思った。
ルディが行くなら、自分も行くと言った。
その気持ちは、今も消えていない。
「……ルディと一緒にいたい、その気持ちは、駄目じゃない」
シルフィが顔を上げる。
「……でも、それしか選べないのは、たぶん違う」
「……分からない」
「俺も、全部は分からない」
父様のしたことを正しいとは思っていない。
話し合わず、力で決めた。
ルディからも、俺からも、選ぶ時間を奪った。
それでも、父様が心配したことまで間違いだとは言えなかった。
「ルディは、ぼくを置いていったの?」
「違う」
それだけは、すぐに答えられた。
「ルディは約束を破ってない。父様に連れていかれた」
「じゃあ、迎えに行こう」
シルフィが俺の服をつかんだ。
「ゼディなら、外へ行けるよね?魔術も使える。ぼくも行く。二人ならルディを連れて帰れる」
一緒に行こう。
喉まで、返事が出かかった。
ロアの方角は分かった。
魔物が出たら戦う。
食べ物は途中で買う。
お金が足りなければ、仕事をする。
先生の手帳もある。
──ルディを見つけ、家へ連れて帰る。
昨日から何度も考えた。
父様へ気づかれないよう、夜に出ればいい。
それでも、俺はシルフィの手へ自分の手を重ねなかった。
「行かない」
シルフィの指が止まる。
「どうして?」
「ルディが向こうでどうしたいか、まだ聞いてないから」
「連れていかれたんだよ?」
「うん。だから、父様のやり方は間違ってる。でも、俺たちが連れ戻したら、今度は俺たちがルディのことを勝手に決めることになる」
「ルディは帰りたいに決まってる!」
「俺も、そう思う」
「なら!」
「……思うだけじゃ……駄目なんだよ」
言いながら、胸の奥が痛んだ。
シルフィを泣かせたくない。
俺もルディへ会いたい。
今ここで頷けば、二つとも叶うように思える。
それでも、頷かなかった。
「ルディは、仕事を見つけたら働くって言ってた。五年やれば、学校へ行ける。向こうにはギレーヌっていう、父様より強い剣士もいる」
「五年も待てないよ……」
「うん」
「寂しい」
「俺も」
シルフィの目から涙が落ちた。
「ルディに、会いたい」
「俺も会いたい」
同じ言葉を返すことしかできなかった。
服をつかむ指から、力が抜ける。
シルフィはその場へ座り込んだ。
俺も隣へ座る。
泣き止ませる言葉を探さなかった。
ただ泣き止ませるだけなら、嘘の約束をすればいい。
明日迎えに行く。
すぐ連れて帰る。
何も変わらない。
どれも言えなかった。
しばらくして、シルフィが小さく聞いた。
「ゼディも、どこかへ行く?」
「分からない」
顔が強張る。
「行かないって言ってよ」
以前なら、言ったと思う。
シルフィが安心するなら、ずっといると答えただろう。
でも、俺は世界を見たい。
先生と旅をする約束もある。
ルディへ会いに行く日も来る。
「いつかは、行くかもしれない」
「……嫌だ」
「うん。でも、黙ってはいなくならない」
シルフィを見る。
「自分で行く時は、ちゃんとシルフィの顔を見て言う。どこへ行くのか、何をしに行くのか話す」
「本当?」
「約束する」
シルフィはすぐには頷かなかった。
やがて、袖で涙を拭いた。
「なら、ぼくも強くなる」
「ルディを追いかけるため?」
「それもある」
「それだけ?」
シルフィは考えた。
以前なら、すぐにそうだと答えたかもしれない。
「……置いていかれても、自分で立てるように」
小さな声だった。
「ぼくが、そうしたい」
俺は頷く。
「じゃあ、一緒に練習しよう」
「ゼディも?」
「俺も強くなりたい」
「ルディの代わりに?」
答えが止まった。
……シルフィは、時々鋭い。
「俺のため」
そう答えた。
嘘は言っていない。
ただ、全部がそうとは言えなかった。
◇
三日後。
頭の痛みが消えた。
庭へ出ると、父様が一本の木剣を持って待っていた。
前の剣より、少し太い。
持ち手には新しい布が巻かれ、俺の手に合うよう細く削られている。
「約束の剣だ」
剣を受け取る。
──重い。
ただ重いのではない。
先の方へ重さが寄せられている。
振れば、前の木剣より強く引かれる。
「丈夫にしろと言っただろ」
「重い」
「丈夫にすりゃ重くなる」
「父様なら、軽くて丈夫にできないの?」
「木に言え」
少しだけ笑いそうになったが、笑わなかった。
剣を両手で持つ。
「ありがとう」
「おう」
剣を受け取ることと、父様を許すことは別だ。
ありがとうと言うことと、あの日のことをなかったことにするのも別。
父様も分かっているのか、頭を撫でようとはしなかった。
自分の木剣を構える。
「まず、今のお前を確認する」
「剣神流中級。水神流と北神流は初級」
「そうだ」
「十歳までに、全部上級にする」
父様の眉が上がった。
「誰が決めた」
「俺」
「理由は?」
「強くなるため」
「そりゃ聞けば分かる。何のために強くなる」
「次は、届くため」
光った剣。
手から消えた木剣。
ルディへ届かなかった指。
忘れようとしても、目の奥へ焼きついている。
「闘気も使えるようになる」
「欲張りだな」
「駄目?」
「駄目とは言わねえ。だが、全部を一度には教えられん」
父様は木剣の先で、地面へ三本の線を引いた。
一本目。
「剣神流は、先に斬る」
二本目。
「水神流は、相手を見て、受けて返す」
三本目。
「北神流は、生き残るために、その場にあるものを全部使う」
改めて、それぞれの流派の本質についてだった。
「考え方が違う。同じ身体へ入れると、迷う時もある」
「父様は三つとも使える」
「俺ができるから、お前もすぐできるとは限らねえ」
「でも、教えることはできる」
「上級までならな」
父様が自分の胸を親指で指す。
「剣神流上級。水神流上級。北神流上級。俺が教えられるのは、そこまでだ」
「その先は?」
「それぞれの道場へ行くか、その流派の達人を探せ」
「ギレーヌは?」
「剣王だ」
「光の太刀を教えて」
父様の顔から、少しだけ軽さが消えた。
「俺は使えねえ」
「でも、見たことはある」
「ある。何度もな」
「なら、分かるところまで教えて」
父様はすぐに答えなかった。
「あれは、剣神流の奥義として、今のお前のさらに先にある技だ。抜く、踏み込む、振る……その全部を、相手が動くより先に終わらせる」
「知ってる」
「分かってねえよ」
木剣の先が、俺の額へ触れる。
避けられなかった。
「速く振るだけじゃない。身体の力を全部、剣先へそろえる。闘気で身体を強くしなきゃ、速さに腕も足も耐えられねえ」
「じゃあ、闘気から」
「それも、すぐには無理だ」
「一回できた」
「一回だけだ」
「一回できたなら、二回目もできる」
「やってみろ」
木剣を握り、あの日の感覚を思い出す。
皮膚の下へできた薄い膜。
骨と筋肉を外から締める力。
遠かった距離が、一歩で消えた。
魔力を身体の内側へ広げる。
いつも魔術を使う時は、指先へ流す。
今度は、腕。
胸。
背中。
足。
──全身へ。
「……っ」
力を込めるが、何も起きない。
ただ、身体の中を魔力が巡った。
行き先を失った魔力が、木剣を握る手へ集まる。
持ち手の布が熱くなった。
「止めろ」
父様が剣を叩く。
手から魔力が散った。
「今のは?」
「ただ魔力を流しただけだ」
「闘気と違う?」
「違う。たぶんな」
「たぶん?」
「俺は闘気を意識して使い始めたわけじゃねえ。剣を振ってるうちに、いつの間にか身体が覚えてた」
「……役に立たない」
「だから最初に言っただろ」
「じゃあ、あの日はどうしてできたの?」
「ルディを守りたいと思ったからだ」
その言葉へ縋る。
目を閉じた。
父様の木剣。
倒れるルディ。
門の外の馬車。
遠ざかる手。
嫌だ。
また奪われる。
今度はノルンか。
アイシャか。
母様か。
リーリャか。
シルフィか。
守らなければ。
胸が速く動く。
息が浅くなる。
「ゼディ」
もっと強く思う。
いなくなる。
届かない。
「ゼディ!」
肩をつかまれた。
目を開く。
父様が目の前にいた。
闘気は出ていない。
……代わりに、額から汗が流れていた。
「傷をえぐって力を出そうとするな」
「でも、あの日は出た」
「あの日のお前は、本当に追いつかなきゃルディがいなくなると思ってた。今は、自分で同じ気持ちを作ろうとしただけだ」
「何が違うの?」
「知らん」
「またそれ?」
「知らねえものは知らねえ」
父様は一度、空を見た。
「だが、守りたい奴が危なくなるたび、あの日のことを思い出さなきゃ力を出せねえなら、お前はいつまでもあの日から動けねえ」
言い返せなかった。
「闘気は、今は忘れろ」
「嫌だ」
「忘れろってのは、諦めろって意味じゃねえ。身体を作れ。剣を振れ。食え。寝ろ。俺の攻撃を見ろ。お前の身体が必要だと覚えるまで続けろ」
「いつ覚える?使える?」
「分からん」
「十歳までには?」
「約束できねえ」
「じゃあ、十歳まで毎日やる」
父様がため息をついた。
「一つ条件がある」
「何?」
「痛い時は言え。疲れた時は休め。夜は寝ろ」
「子供みたい」
「子供だ」
「七歳でも?」
「七歳だからだ」
「ルディは働いてる」
「ルディはルディだ」
すぐに返された。
「お前が兄貴の分まで稽古する必要はねえ」
「俺がやりたい」
「なら、自分のための、自分だけの分としてやれ」
父様は三本の線を、足で消した。
「剣神流だけの日、水神流だけの日、北神流だけの日を作る。それぞれの考え方を、まず一つずつ身体へ入れる」
「毎日、全部やれば早い」
「混ざる」
「父様は混ぜてる」
「分けて覚えた後にな」
先生も、同じことを言っていた。
最初から全部を一度にしなくていい。
作る。
保つ。
動かす。
分けて覚えて、後からつなぐ。
「……分かった」
「それから、七日に一日は休みだ」
「十日に一日」
「七日だ」
「じゃあ半日だけ休む」
「一日」
「午前だけ休む」
「それじゃあ休みって言わねぇよ……。お前、誰に似たんだろうな」
「父様じゃない?」
「なら仕方ねえ。だが、休みも訓練のうちだ。一日は休む日を作れ」
……母様に聞かれれば、今のやり取りは怒られるだろうな。
初日の稽古は、剣神流だった。
踏み込む。
振る。
重くなった木剣に、身体が引かれる。
父様へ届く前に、剣先が下がる。
もう一度。
踏み込む。
振る。
頭の中では、あの日のギレーヌの剣が光っていた。
俺の剣は、ただ風を切った。
◇
それから、生活の形が変わった。
朝、剣を振る。
剣神流の日は、父様より先へ一歩を置く。
水神流の日は、父様が動くまで待つ。
北神流の日は、庭だけでは終わらない。
畑の畦。
雨上がりの泥道。
柵の上。
時には、家畜小屋の裏。
足場が悪くても転ばないこと。
剣を落としたら、石でも土でも使うこと。
勝てないなら逃げること。
「北神流だけ、剣術じゃないみたい」
「生き残りゃ、後で剣を拾える」
父様は北神流はあまり好きではないようだが、答えとしては父様らしい答えだった。
昼は、家の手伝いをした。
ノルンとアイシャが同時に泣けば、一人を抱く。
もう一人は、母様かリーリャへ頼む。
一人で二人を抱こうとはしなかった。
その代わり、洗う布を二人分運んだ。
お湯を二人分作った。
寝籠が揺れないよう、床の傾きを直した。
一つずつ頼まれれば、全部引き受けた。
「ゼディウス坊ちゃま。こちらは私がいたします」
リーリャに言われても、首を横へ振った。
「俺、できるよ」
「できるかどうかではありません」
「じゃあ、何?」
「私の仕事でもあります」
手から布を半分取られた。
納得はできなかった。
仕事なんて、早く終わる方がいい。
俺ができるなら、俺がやればいい。
そうすればみんな困らない。
……それでも、リーリャは譲らなかった。
俺も譲らず、結局、一人分ずつ運んだ。
空いた時間は、シルフィと魔術を練習した。
以前は、ルディが先生だった。
俺とシルフィが並び、ルディの説明を聞く。
今は、二人だけだった。
最初の数日は、どちらもルディの名前ばかり口にした。
「ここ、ルディは何て言ってた?」
「水を作ってから、形を考える」
「ぼくは、形を考えたら水ができるよ」
「俺は、言葉がないと順番が飛ぶ」
「今は出せるでしょ?」
「落ち着いてたら」
手を前へ出す。
詠唱はしない。
水。
冷たさ。
重さ。
丸い形。
頭の中で一つずつ並べる。
手のひらの上へ、水球が生まれた。
無詠唱を覚えたばかりの頃なら、これだけでも何度か失敗していた。
今は、落ち着いて順番をたどれば出せる。
ただ、シルフィより遅い。
シルフィは、水を想像した時には、もう手の上へ水球がある。
俺は、水を作り、形を決め、保つ。
一つずつ確かめなければならない。
「どうしたらそんなに早く出せる?」
「分からない……ぼくも、感覚でやってるところがあるから……」
「それじゃわからない……」
「ごめん……」
「……こっちこそ、ごめん……」
こんなことを言いたいわけではなかった。
シルフィにこんなことを言っても、何も始まらないのに。
ただ、魔術に関しては、ルディやシルフィに置いていかれている気がする。
言って後悔する言葉が、最近増えた気がする。
ルディがいなくなってからだ。
……申し訳なくなってしまった。
「怒ってないよ」
「けど」
「説明できなかったのは、本当のことだから」
俺は、魔術を身体で覚える。
ルディやシルフィは、俺よりも魔術そのものに近い。
水が生まれる前の感覚を、自然に掴んでいる。
魔術の勘なら、ルディとシルフィの方が上だ。
悔しくないと言えば、嘘になる。
それでも、シルフィに遅くなってほしいとは思わなかった。
「もう一回見せて」
「うん」
シルフィの手を見る。
指先。
呼吸。
肩。
ほとんど動かない。
水球が生まれる。
「何を考えた?」
「水」
「その前」
「前?」
「水が出る前に、手から水が出ると思った?」
「出ると思ったよ」
「どうして?」
シルフィは困った顔をした。
「出るから」
それが、俺には一番難しかった。
手から水は出ない。
火も出ない。
風だって、土だって出ないのだ。
言葉を唱えれば、魔術が起きる。
前の世界……前の世界という概念すら正しいかわからないが、そこで何を知っていたのかは、もうほとんど覚えていない。
それでも、何も言わずに手から水が生まれることを、身体のどこかが不思議だと思っていた。
短くても、言葉を置けば迷わない。
詠唱が始まりを教えてくれる。
言葉さえ唱えれば、魔術は起きるのだ。
何も言わなければ、本当に始めていいのかと、一瞬だけ確かめてしまう。
「順番を、重ねてみたら?」
シルフィが言った。
「重ねる?」
「水にしてから丸くするんじゃなくて、水にしながら集めて丸めるの。ぼくは、たぶんそうしてる」
なるほど。
一つずつだった動きを、同時にする。
魔力を手へ集めながら、水へ変える。
水へ変えながら、丸くする。
先ほどより早く、水が生まれた。
ただし、拳ほどにするつもりだった水球は、俺の頭ほどもあった。
表面が大きく波打ち、手の上で崩れかける。
「大きいよ」
「早くしようとして、魔力も多く入れた」
「止められる?」
「やってみる」
増やすのではなく、減らす。
水球から少しずつ魔力を抜く。
頭ほどだった球が、拳ほどまで縮む。
揺れも止まった。
最後は水桶の上まで動かし、自分で形を解いた。
水が桶へ落ちる。
「今度はできた」
「うん」
シルフィが笑う。
ルディへ褒められた時とは、少し違う笑顔だった。
先生と生徒ではない。
二人で同じものを見つけた。
「明日は、最初からこの速さで小さくする」
「急がなくていいんじゃない?」
「できたから、次」
「ゼディ、最近そればっかり」
「何が?」
「できたら、すぐ次」
言われて、答えに詰まった。
止まっている時間が怖かった。
俺が一つ覚えている間に、ルディは向こうで二つ覚えているかもしれない。
剣術。
魔術。
読み書き。
算術。
ルディは、人へ教えることでさらに上手くなる。
俺も進まなければならない。
……次に会った時、また届かなかったら困る。
「早い方がいい」
それだけ答えた。
シルフィは、納得していない顔をした。
けれど、止めなかった。
シルフィも早く強くなりたいのだと思う。
二人とも、いない一人へ追いつこうとしていた。
◇
一か月が経った。
闘気は出なかった。
朝、身体へ魔力を巡らせる。
走る。
剣を振る。
父様の攻撃を受ける。
何度やっても、あの日の膜はできない。
皮膚の下が熱くなることはある。
足へ力が入ることもある。
ただの魔力。
ただの緊張。
父様は、意識するなと言う。
意識するなと言われるほど、意識した。
剣を振るたび、ギレーヌの一撃を思い出す。
剣を抜くところは見えなかった。
振るところも。
光ったと思った時には、俺の木剣が手から消えていた。
だから、見えなかった部分を作る。
構える。
踏み込む。
振り抜く。
一つの動きにする。
「遅い」
父様の剣が肩へ当たる。
もう一度。
「腰が残ってる」
脇腹。
もう一度。
「剣だけ先に行かせるな」
手首。
何度振っても、光らない。
当たり前だ。
今の俺は、剣神流中級。
光の太刀は、ずっと先にある。
それでも、毎日一度だけ、最後に真似をした。
父様は止めなかった。
「その一振りで、何を斬ってる」
「ギレーヌ」
「今のお前が斬り合ったら死ぬぞ」
「じゃあ、父様」
「親を斬るな」
「誰を考えればいいの?」
「相手じゃねえ。届かせる場所を決めろ」
剣先が通る一本の線。
父様はそう言った。
俺には、まだ見えなかった。
無詠唱は、少しずつ速くなった。
詠唱をしなくても、水球を作れる。
火を灯せる。
風を起こせる。
……落ち着いていれば。
一度、順番を決める。
必要な量を考える。
形を作る。
それさえできれば、言葉はいらない。
急がなければ、何も起きずに終わることはほとんどなくなった。
だから、自分は無詠唱をある程度制御できるようになったのだと思い始めていた。
間違いではない。
ただ、実際のところ、そうではなかった。
◇
その日は、北神流の稽古だった。
父様が庭へいくつもの障害物を置いた。
地面へ埋めた短い杭。
縄で吊った砂袋。
足を取る凸凹した浅い穴。
正面から父様へ近づけば、砂袋が横から揺れ、こちらにくる。
避ければ、穴のある場所へ追い込まれる。
剣だけを見ていれば負ける。
庭全部を見る。
父様が木剣を振る。
受けずに横へ避け、杭を蹴る。
地面から抜けた杭が、父様の足元へ転がる。
「悪くねえ」
父様が杭を踏み、止める。
その隙に距離を詰める。
砂袋が横から来る。
屈んで避ける。
避けた袋が今度は父様へ向かう。
父様は木剣で縄を切った。
袋が地面へ落ち、中の砂が広がる。
俺は砂を蹴り上げた。
「それは昨日、俺がやった」
「使えるから使った」
「なら、次は俺も知ってると思え」
父様が砂の中から出てくる。
──速い。
剣を合わせるも、重さに負け、後ろへ下がる。
足の下に穴があった。
踏み抜くと、身体が傾く。
転ぶ前に、手を地面へつく。
片手で身体を支え、反対の手で木剣を振る。
父様が一歩下がった。
「そこまで」
息を吐く。
一本も取れていない。
それでも、最初より長く立っていられるようになった。
庭の端で、シルフィが見ていた。
いつもの午後の魔術練習には、少し早い。
「今日は早いね」
「家の手伝いが早く終わったから」
シルフィが近づく。
その時、切られた縄が地面を滑った。
縄が、太い練習用の丸太を留めていた杭へ絡む。
落ちた砂袋の重みで、杭が抜けた。
斜面へ置かれていた丸太が動いた。
庭の端へ転がる。
──シルフィの方へ。
「危ない!」
考えるより先に、手を向けた。
風。
丸太を横へ押す。
それだけでいい。
……けれど、頭の中には別のものが浮かんだ。
シルフィが潰される。
守らなければ。
ルディはいない。
俺が止める。
俺が。
俺が。
俺が──!!!
魔力を注ぐ。
大きさを決める前に。
必要な量を考える前に。
身体が覚えた順番だけで、魔術が発動した。
空気が白く歪んだ。
音が消える。
──次の瞬間、風が爆発した。
丸太が砕けた。
いくつもの木片が、庭へ飛び散る。
砂袋が破れ、砂が壁のように舞い上がった。
……シルフィの身体が地面から浮く。
「シルフィ!」
父様が間へ入った。
木剣を振る。
水神流。
飛んできた大きな破片を、受け、流す。
一つ。
二つ。
三つ。
すべては止められない。
細かな木片が父様の腕へ刺さる。
シルフィは地面を転がった。
俺も爆風に押され、背中から倒れる。
家の窓が割れた。
奥の部屋から、二人分の泣き声が響いた。
「シルフィ!」
立ち上がる。
耳の奥が鳴っている。
シルフィは庭の端で、身体を丸めていた。
駆け寄る。
「大丈夫?」
返事がない。
服へ土がついている。
頬に細い傷。
血。
頭が真っ白になる。
──治す。
無詠唱で……?
手を伸ばす。
魔力を流す。
「待て!」
父様が俺の手首をつかんだ。
「離して!怪我してる!」
「今のお前が無詠唱を使うな!」
「治さないと!」
「詠唱しろ!」
強い声だった。
シルフィが僅かに動く。
「だい、じょうぶ……」
「大丈夫じゃない!」
「ゼディ」
シルフィが俺を見る。
「落ち……着いて、深呼吸……して」
言われて、自分だけが焦り続けて慌てていることに気づいた。
吸う。
吐く。
……もう一度。
父様は手首を離さない。
「言葉を使え」
頷く。
治癒魔術の詠唱を始める。
声が震えた。
一度、言葉を間違える。
最初から。
今度は最後まで唱えた。
淡い光が、シルフィの頬を包む。
傷が閉じる。
それだけだった。
大きな怪我はない。
シルフィは自分で身体を起こした。
「ごめん」
「うん」
「俺、守ろうとして」
「分かってる」
「でも、俺が」
「うん」
シルフィは、すぐに許すとは言わなかった。
大丈夫とも、もう言わなかった。
ただ、俺の手を見ていた。
魔術を出した手。
最初に水を浴びせた日にも、同じ手を見られた。
助けたいと思った。
力を使った。
その後に起きることまで、考えられなかった。
あの日と同じだった。
「ゼディ」
父様が呼ぶ。
腕には木片が刺さっている。
「父様も」
「俺は後でいい」
「でも」
「今、どれくらいの風を出すつもりだった」
地面を見る。
丸太は、形が残っていない。
庭の柵が一部倒れている。
窓が二枚割れた。
砂は家の壁まで届いていた。
「丸太を、少し横へ」
「あれが少しか?」
「違う」
「なら、何が起きた」
「……分からない」
父様は怒鳴らなかった。
その方が怖かった。
シルフィが、ゆっくり立ち上がる。
「魔力を、先に入れたんだと思う」
「先に?」
「いつものゼディは、大きさを考えてから魔力を入れる」
シルフィは、地面へ落ちた木片を見る。
「今は、守らなきゃって思った時に、いっぱい入った。風をどれくらいにするか考える前に」
その通りだった。
丸太を動かす。
その形を作る前に、魔力だけを流した。
「前は、何も出なかった」
ルディが連れていかれた日、ギレーヌに肩を押さえられ、火を出そうとした。
火。
芯。
空気。
順番が作れず、指先で火花が散っただけだった。
「前?」
「ルディを止められなかった時。頭の中がぐちゃぐちゃになったら、無詠唱は出なかった」
今は、出た。
練習した。
言葉がなくても、身体が順番を覚え始めた。
だから、不発にはならなかった。
考えが追いつかなくても、魔術は先へ進んだ。
止めるものがないまま、魔力だけを吸い上げた。
「使えるようになったから、爆発した……」
嬉しいことのはずだった。
無詠唱が使えるようになった。
それなのに、以前より危なくなった。
「今日は、もう魔術を使うな」
父様が言う。
「でも、片づけないと」
「手でやる」
「土魔術なら」
「使うな」
「直せる」
「ゼディ」
低い声だった。
また、父様が勝手に決める。
そう思った。
言い返そうとした時、家から母様とリーリャが出てきた。
それぞれの腕に、ノルンとアイシャを抱いている。
二人とも泣いていた。
俺の魔術で。
俺が大切な人を守らなければと思って出した魔術で。
「……分かった」
木片を拾う。
魔術は使わない。
一つずつ、手で集めた。
シルフィも隣へしゃがむ。
「休んでて」
「ぼくも片づける」
「俺が壊した」
「ぼくの練習する場所でもあるから」
断ろうとして、やめた。
二人で木片を拾う。
父様は腕へ刺さった破片を抜き、母様から治癒魔術を受けた。
母様とリーリャは、割れた窓から離れた部屋へ妹たちを移す。
誰も、俺一人に片づけさせなかった。
守ろうとしたのは俺だ。
壊したのも俺だ。
それでも、直す時には、何人もの手が動いていた。
◇
その日の夕方。
父様と母様とリーリャ。
知らせを受けて迎えに来たロールズさん。
それから俺とシルフィで、居間の机を囲んだ。
家族会議の時間だ。
前にその言葉を使った時は、父様とリーリャのことで家族が壊れそうになっていた。
今日は、俺の魔術についてだった。
シルフィは、大丈夫だからもう帰ると言った。
ロールズさんも、一度は連れ帰ろうとした。
俺が、残って話をしてほしいと頼んだ。
何を言われても、逃げずに聞かなければならないと思った。
「まず、シルフィちゃん」
母様が頭を下げる。
「ごめんなさい。うちの庭で怪我をさせてしまって」
「ゼニスさんのせいじゃないです」
「でも、ここは私たちの家だから」
母様は、もう一度頭を下げた。
リーリャも続く。
父様は最後に頭を下げた。
「俺の稽古道具の置き方が悪かった。すまん」
ロールズさんは、治ったシルフィの頬をもう一度確かめた。
「叱るのは、何が起きたのかを聞いてからにしましょう。次に同じことが起きないようにする方が先です」
「違う」
俺は立ち上がった。
「魔術を使ったのは俺だ」
「原因は一つじゃねえ」
「でも」
「お前一人だけの責任にする話でもねえ」
父様の言葉が、以前より少しだけ分かる。
だからといって、自分の責任がなくなるわけではない。
「シルフィ、ごめんなさい」
頭を下げる。
「守ろうとした。でも、どれくらい必要か考えなかった。怪我をさせた」
「……うん」
「許さなくていい」
「許さないなんて言ってないよ」
「けど」
「でも、怖かった」
胸の奥が縮む。
「ゼディが、じゃないよ」
シルフィは自分の両手を握った。
「何が起きたか分からなかった。丸太が来て、風が来て、飛ばされた。ゼディが助けようとしたのは分かる。でも、怖かった」
「うん」
「だから、次は先に呼んで」
「呼ぶ?」
「ぼくも魔術を使える。丸太くらいなら、風か土で止められたかもしれない」
俺一人で止めなくてもよかった。
シルフィは、守られるだけではない。
ルディから魔術を教わった。
俺より無詠唱が速い。
危ないと叫べば、自分で動けたかもしれない。
「ごめん」
「二回目」
「何回でも言う」
「じゃあ、もう一回」
「ごめんなさい」
「うん」
今度は、シルフィが少しだけ笑った。
話は、魔術の練習へ移った。
「ゼディ。あなたは、ルディより少ないというだけで、魔力量そのものはとても多いはずよ」
母様が言う。
「多いなら、少しくらい使いすぎても平気でしょ?」
「あなたの身体は、そうかもしれません。でも、周りは違います」
普通なら途中で魔力が尽きるほど注いでも、俺の中にはまだ残る。
長く魔術を使える。
何度も使える。
今までは、良いことだとしか思っていなかった。
「自分が倒れないからといって、外へ出した力まで安全とは限らないのよ」
無詠唱を禁止する。
母様は、そう言った。
俺は嫌だと答えた。
「危ないからです」
母様の声は強かった。
「危ないから練習するんだよ」
「また誰かが怪我をしたら?」
「人がいないところでする」
「一人では行かせません」
「父様と行く」
父様が自分を指さす。
「俺?」
「父様が一番丈夫」
「盾にする気かよ……」
「水神流で守って」
「お前な……」
父様は額へ手を当てた。
それでも、最後には引き受けてくれた。
村から離れた草原。
周りに人も家畜もいない場所。
無詠唱の練習は、必ず父様か母様が見ている時に行う。
最初に、どれだけの大きさにするか声へ出す。
発動する前に、一度息を吐く。
感情が大きく動いた時は、無詠唱を使わない。
「戦ってる時に、息を吐く時間がなかったら?」
聞くと、父様が答えた。
「その時でも使えるようにするための練習だ。今から危ない使い方をしていい理由にはならねえ」
「敵が目の前にいたら?」
「剣を使え」
「剣がなかったら?」
「逃げろ」
「逃げられなかったら?」
「その時は、失敗してでも使え」
母様が父様を見る。
「パウロ」
「最後の最後だ」
母様が父様を呼び捨てにする時は、本当に重大な時。
父様は俺を見る。
「自分か、守りたい奴が死ぬ時。周りを壊してでも止めなきゃならねえ時は、出せるだけ出せ」
「分かった」
「ただし、その時までは、出せることより止められることを覚えろ」
止める。
魔術を使わないのではない。
使う前に量を決める。
出した後も、自分で終わらせる。
先生が最初から言っていたことだった。
火を大きくする前に、消す方法を考えなさい。
二年も教わった。
分かったつもりになっていた。
……俺は、大きくすることばかり考えていた。
◇
それから、何か月も経った。
生活は、少しずつ新しい形へ馴染んだ。
朝になれば、隣の寝台が空いている。
それを見ても、毎日ルディへ挨拶することはなくなった。
代わりに、夜、ノルンとアイシャへ話をした。
今日、父様に何度倒されたか。
シルフィがどんな魔術を使ったか。
ルディなら、どう説明したと思うか。
二人は意味も分からず聞いている。
時々、途中で眠る。
それでも毎日、最後にルディの名前を言った。
妹たちが覚えるため。
俺が忘れないため。
剣術の稽古は続いた。
剣神流では、考えるより先に踏み込む。
水神流では、踏み込みたい気持ちを止め、相手が動くまで待つ。
北神流では、正しい形そのものを捨てる。
三つは、何度も頭の中でぶつかった。
剣神流の日に待ってしまう。
水神流の日に先へ出る。
北神流の日に、綺麗な型へ戻ろうとする。
父様に打たれた。
転んだ。
木剣を落とした。
拾った。
また振った。
身体の傷は、母様に見つかる前に隠そうとした。
……見つかった。
休めと言われた。
嫌だと言った。
父様に庭から担ぎ出された。
その次からは、痛い時に自分で言った。
言わなければ、二日休みにされるからだ。
一日休む方がましだった。
……闘気は、出なかった。
毎日走った。
食べた。
寝た。
身体は大きくなった。
剣も速くなった。
それでも、あの日の薄い膜だけは戻らない。
時々、父様の剣が迫る瞬間、身体の奥が熱くなった。
来る。
そう思う。
次の瞬間には地面へ転がされている。
闘気ではなかった。
光の太刀も、できない。
一日の最後。
構える。
踏み込む。
振る。
何回と繰り返した。
頭の中では、今もギレーヌの剣が光っている。
俺の剣は、一度も光らなかった。
それでも、最初よりは速くなった。
父様の木剣へ届く前に止められていたものが、時々ぶつかるようになった。
魔術も練習した。
何も言わず、水を出す。
火を出す。
風を出す。
落ち着いている時は、以前より速い。
必要な量を先に決めれば、小さな術も使える。
蝋燭へ火を灯す。
鉢一つ分の水を出す。
紙だけを動かす風を起こす。
小さくする練習を、何度もした。
感情が乱れると、瞬間的に魔力が増える気がした。
どこかの言葉で言うところの、アドレナリン……というやつだろうか。
それに合わせて、こめてしまう魔力量も増えるみたいだ。
父様の攻撃がシルフィの近くへ行った時。
家の中から妹の泣き声が聞こえた時。
遠くの道で、ロアへ向かう馬車に似た音を聞いた時。
術が予定より大きくなった。
けれど、あの日のような爆発は起こさなかった。
起こさなかったというより、起きる前に父様やシルフィが止めた。
「息」
シルフィが言う。
吐く。
「大きさ」
「桶、一つ」
「誰が危ない?」
周囲を見る。
「誰もいない」
「じゃあ、急がなくていい」
それから魔術を使う。
俺一人では、まだ止められない時があった。
だから、見てもらった。
以前なら、それを悔しいだけだと思った。
今も悔しい。
ただ、見てもらわずに誰かを傷つけるよりはいいと思えるようになった。
シルフィとの練習では、魔術以外のことも始めた。
先生の旅の手帳には、いくつかの土地で使われる言葉が書いてある。
魔族の挨拶。
獣族がよく使う短い言葉。
旅人が値段を聞く時の言い回し。
先生の文字を読み、二人で声に出す。
発音が正しいかは分からない。
ルディなら本を探し、規則を作っただろう。
俺たちは、分からないものへ印をつけた。
いつか先生に会った時、聞くために。
「ルディも、向こうで勉強してるかな」
シルフィが聞く。
「してるよ」
「どうして分かるの?」
「ルディだから」
それだけは、考えなくても分かった。
◇
七歳の一年が終わりに近づいた頃。
父様との稽古で、俺は初めて水神流の反撃を最後まで通した。
父様の横薙ぎを受ける。
力へ逆らわない。
剣先を滑らせ、身体を半歩ずらす。
空いた肩へ、木剣を返す。
父様は避けなかった。
俺の剣が、肩へ触れた。
「そこまで」
父様が剣を下ろす。
俺は息を吐いた。
「今のは?」
「水神流中級を名乗っていい」
「やっと」
「やっとって、お前なあ……。まだ一年も経ってねえぞ」
「北神流は?」
「そっちも中級でいい」
「いつから?」
「少し前から」
「どうして言わなかったの?」
「二つ同時に言った方が、驚くかと思って」
「驚かなかった」
「嬉しくは?」
「ある。嬉しい」
「ならいいだろ」
父様は笑った。
俺も、少しだけ笑った。
剣神流中級。
水神流中級。
北神流中級。
三つが、ようやく同じ場所へ並んだ。
目標は上級。
あと一段。
三つなら、三段。
十歳まで、ほぼ二年。
不思議と、届かない距離には思えなかった。
「次は剣神流上級」
「順番は俺が決める」
「俺が決める」
「また喧嘩するか?」
「話し合う」
「成長したな」
「父様もね」
父様の手が、俺の頭へ伸びかける。
一度、止まった。
俺を見る。
あの日のことを思い出したのだろう。
俺は逃げなかった。
手が頭へ置かれる。
乱暴に撫でられた。
許したわけではない。
あの日のことを、なかったことにもしない。
それでも、父様は俺の剣術の先生だった。
家族だった。
……父親だった。
嫌いなところがあっても、全部嫌いになる必要はない。
そう思えるくらいには、時間が経った。
その夜。
先生の手帳を開いた。
ルディがロアへ行ったと書いた頁から、何枚も先へ進んでいる。
剣術のこと。
無詠唱のこと。
割った窓。
シルフィへ怪我をさせたこと。
格好悪いことも、そのまま書いた。
その横には、送っていない手紙が何枚も重ねてある。
『ルディへ』
どれも、最初の一行は同じだった。
父様は、まだ送るなと言った。
ルディが向こうで自分の居場所を作るまでは送ってはいけない、と。
俺も、ルディがいない場所で自分の足場を作るまで。
今でも、その決め方は勝手だと思う。
だから、毎月一通書いた。
送れなくても書く。
いつか送っていいと言われた時、都合のいいことだけをまとめないために。
新しい紙を取る。
『ルディへ。
今日、父様から水神流と北神流も中級を名乗っていいと言われた。
剣神流と合わせて、三つとも中級になった。
闘気は、まだ出ない。
光の太刀もできない。
無詠唱は前より使えるようになった。
そのせいで、シルフィを守ろうとして、シルフィごと吹き飛ばした。
父様にも怪我をさせた。
使えないことだけが、失敗じゃなかった。
使えたのに、止められないことも失敗だった。
今は、小さく出す練習をしている。
ノルンとアイシャには、毎日ではないけど、ルディの話をしている。
まだ名前は呼ばない。
俺は、ルディの分まで──』
手が止まる。
その言葉を、線で消した。
『俺は、俺の分を頑張っている。
でも、たぶん頑張りすぎる時もある。
シルフィと父様に、よく止められる。
ルディも、一人で抱え込んでしまう時は、誰かに止めてもらってください。
次に会う時は、三つとも上級になっている。
ゼディウス』
書き終える。
読み返す。
俺の分。
そう書いた。
……本当にそう思えているかは、分からない。
朝は誰よりも早く起きる。
剣を振る。
妹たちの世話をする。
シルフィと魔術を練習する。
夜は先生の手帳を読む。
休んでいると、空いた寝台が見える。
だから、動く。
それを、俺のためと呼んでいいのだろうか。
分からなかった。
分からないまま、手紙を他の紙の上へ重ねた。
隣の寝台は空いている。
けれど、家の奥から妹たちの泣き声と寝息が聞こえる。
父様もいる。
母様も。
リーリャも。
昼になれば、シルフィも来る。
俺は一人になったわけではない。
ただ、ルディはいない。
その二つは別だった。
剣術は進んだ。
魔術も進んだ。
闘気は、あの日から一度も身体を包まない。
光の太刀は、今も目の奥にしか存在しない。
無詠唱は、落ち着いていれば思うように使える。
落ち着きを失えば、今度は使えないのではなく、止まらない。
以前の俺より、確かに強くなった。
強くなった分だけ、失敗した時に壊すものも増えた。
それでも、十歳までに先へ進む。
剣神流。
水神流。
北神流。
すべて上級へ。
闘気を、この身体へ。
いつか、目の奥に残った光へ、自分の剣を重ねる。
俺はまだ、一人で二人分になろうとしていた。
一人分の身体へ、二人分の役目を詰め込もうとしていた。
ただ、以前とは少しだけ違う。
抱えきれない時に、名前を呼ぶことを覚えた。
魔術が大きくなりすぎる前に、息を吐くことを覚えた。
剣を振れない日は、休むことを覚えた。
どれも、まだ誰かに言われてからだった。
自分で止まれるようになるには、時間がかかりそうだ。
この時の俺は、まだ知らなかった。
いつか、本当に止まっている暇のない場所へ落とされることを。
息を吐く間も、大きさを決める間も、誰かの名前を呼ぶ間もない場所で、俺だけが呼ばれる。
あの日、誰かを傷つけたこの暴発が、大勢の争いを一度だけ黙らせることを。
そして、その一撃が、俺の身体の奥を空にすることを。
その日へ向かって──。
俺はまだ、一人分の歩幅で歩き始めたばかりだった。