無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜 作:omugut
ノルンとアイシャが生まれて、一年が経った。
一年だ。
つまり、ルディが家を出てから過ぎた時間も、それとほとんど同じだった。
妹たちの一年には、初めてがいくつもあった。
初めて笑った日。初めて寝返りを打った日。初めて俺の指を離し、自分の行きたい方へ這っていった日。
ルディのいない一年には、目に見える初めてが少なかった。
朝になっても隣の寝台が空いている。夜になっても、その日の出来事を二人分の声で話せない。昨日と同じ不在が、今日もただそこにあるだけ。
同じ一年なのに、片方は毎日形を変え、もう片方は空いた形のまま残り続けた。
大人にとって一年が長いのか短いのか、俺には分からない。ただ、赤ん坊にとっての一年は、身体のほとんど全部を作り替えるほど長いらしい。
生まれたばかりの頃は、泣くか、眠るか、乳を飲むことしかできなかった。
今では寝返りを打つ。床を這う。何かへつかまれば、自分の足で立つ。
気に入らないことがあれば、泣く前に顔で教える。
ノルンは、知らない物へ手を伸ばすまで時間がかかる。俺が触り、母様が触り、危なくないと分かってから、ようやく指先で確かめる。どこか慎重な子だ。かつてのルディや俺にはない、真面目な子になりそうだ。
アイシャは、俺たちが止めるより先に触る。一度触って怒られた物ほど、誰かが見ているときは絶対に触らないが、誰も見ていない時にもう一度確かめようとする。賢い子なのだろう。ただかつてのルディや俺のように好奇心旺盛な子になりそうだ。
…違う。
どちらが賢いとか、どちらが勇敢だとか、今から決めるつもりはなかった。
ノルンが触らないのは、よく見ているからかもしれない。アイシャが触るのは、怖さをまだ知らないだけかもしれない。
先生は、同じ日に生まれ、同じ家で育った俺とルディを比べなかった。
だから俺も、二人を比べずに見たかった。
「ゼディ、さっきから何してるの?」
母様が聞いた。
俺は寝籠の前へ座り、二人の顔を交互に見ていた。
「待ってるんだ。名前を呼んでくれるのを」
母様が首を傾げる。
「朝からずっと?」
「うん」
「呼んでほしいなら、まず話しかけないと」
それはそうだった。
俺はノルンへ向き直る。
「ゼディだよ」
自分の胸を指す。
「ぜ、でぃ」
ゆっくり繰り返す。
ノルンは、俺の口元をじっと見た。
「だぁ」
「惜しい」
「どこが惜しいのよ」
母様が笑う。
今度はアイシャを見る。
「ゼディ」
「あー」
「最初の音が違う」
「まだ一歳なのよ」
「一歳なら、そろそろ言葉を話すって本に書いてあったよ?」
「本どおりの日に、全員が同じ言葉を話すわけではありません」
リーリャが洗った布を畳みながら言った。
「ルーデウス坊ちゃまとゼディウス坊ちゃまも、同じ日に同じ言葉を話し始めたわけではございませんよ」
「俺の方が早かった?」
「それは、お答えしない方がよろしいかと」
「どうして?」
「比べないと、今しがたお考えになっていたお顔でしたので」
考えているだけで顔に出ていたらしい。
俺はもう一度、二人を見る。
「急がなくていいよ」
言ってから、少し付け足す。
「でも、できれば早めに呼んで」
ノルンが俺の指をつかんだ。
アイシャは、その手へ自分の手を重ねた。
二人とも、まだ名前は呼ばなかった。
少しだけ残念だった。
けれど、何度も言わせて偶然できた音ではなく、二人が自分で俺を見つけ、俺へ向けて呼んだ声を聞きたかった。
それなら、待つ時間もきっと名前の中へ入る。
今日は、二人が生まれて初めて迎える誕生日だった。
◇
誕生日だからといって、この世界では毎年祝う習慣はない。
かつて、俺とルディが五歳の時に盛大に祝ってもらったように、ノルンやアイシャも次は五歳になった時に盛大に祝うのだ。
ただ、俺はせっかく二人が生まれて一年たったのだから、ささやかなプレゼントと、御飯くらいは豪華にしても良いのではないかと提案した。
リーリャは少し難しい顔をしたが、母様と父様が同意し、押し切ったことで根負けし、実は自分も祝えたら嬉しいと考えていたと言ってくれた。
二人はまだ固い菓子は食べられない。
母様とリーリャは、柔らかく煮た果物を潰し、少しだけ甘くした。
父様と俺は、二人のために木の玩具を作った。
丸い胴体へ、小さな車輪が四つ。紐を引けば、床の上を転がる。
俺はあくまで組み立てを手伝っただけなので、何の動物なのかは、分からなかった。
「馬だ」
父様が言った。
「耳丸くない……?足も短いし……」
「子供が刺さらないようにしたんだよ。足が短いのは……車輪がついてるからいいんだ」
「尻尾も太い……本当に馬?」
「引くための紐だ。これは立派な二人のための馬だ!」
「馬じゃないね」
「お前は文句しか言えねえのか」
ノルンとアイシャは、父様の説明を気にしなかった。
まぁ、まだわからないということもあるだろう。
床を進む木の塊を見て、二人とも声を上げる。
先に手を伸ばしたのはアイシャだった。車輪をつかみ、回す。
ノルンは少し離れて見ていた。木の馬が自分へ向かって転がってくると、母様の足へ隠れる。
けれど、アイシャが何度も遊ぶのを見た後、自分から紐をつかんだ。
父様は嬉しそうだった。
馬かどうかはともかく、玩具としては成功したらしい。
昼前になると、シルフィがロールズさんと一緒にやって来た。
手には、小さな布袋を二つ持っている。
「ノルンちゃん、アイシャちゃん、誕生日おめでとう」
返事の代わりに、アイシャが布袋へ手を伸ばした。
「待って。今、開けるから」
シルフィが床へ座る。
袋から出てきたのは、草の茎を編んで作った二つの輪だった。一つには白い花。もう一つには黄色い花が編み込まれている。
「腕輪?どっちがどっち?」
「頭につけるんだ。どっちがどっちかは決めてないよ……二人に選んでもらおうと思って!」
シルフィは二つの輪を床へ置いた。
アイシャは迷わず黄色へ手を伸ばす。
触る。
次に白を見る。
黄色から手を離し、白へ触れる。
もう一度黄色へ戻る。
決められないらしい。
ノルンは二つをじっと見た後、アイシャが触れていない方へ手を伸ばした。
結局、アイシャが黄色。ノルンが白になった。
「二人に選ばせたんだね」
「うん。勝手に決めたら、ゼディに怒られそうだから」
「俺、そんなに怒る?」
「怒るというより、難しい顔で話す」
シルフィが眉間へ皺を寄せた。
俺の真似らしい。
「こんな顔」
「似てない」
「似てるよ」
ロールズさんと母様が笑った。
シルフィも笑う。
俺は、もう一度違うと言おうとしてやめた。
最近のシルフィは、俺の真似をする。
剣を振る時の声。考え込んだ時の顔。父様へ言い返す時の言い方。
俺もシルフィの真似をする。
水球を作る時に首を僅かに傾けるところ。分からないことを聞く前に、口を二度開きかけるところ。
以前は、そんなものへ気づかなかった。
毎日一緒にいるうちに覚えた。
誕生日の食事が始まる。
ノルンとアイシャを中央へ座らせ、皆で囲む。
父様は何度も、自分を指しながら「父様」と教えた。
「とう、さま」
大きく、ゆっくり区切る。
アイシャが口を開いた。
「たぁ」
「おっ」
父様の顔が輝く。
「もう一回だ。父様」
「たー」
「聞いたか、ゼニス!リーリャ!」
「聞こえてるわ」
「聞こえています」
「父様って言ったぞ!」
「「『たー』でしょう」」
「最初と最後が合ってる」
「間が全部ありません」
「そもそも最初と最後も合っていません」
俺は朝の自分を思い出した。
人のことは言えない。
ノルンは母様の方へ手を伸ばす。
「ま」
「はい、母様ですよ」
母様が嬉しそうに抱き上げた。
リーリャは騒がず、アイシャの口元へ果物を運んでいる。
けれど、アイシャが顔を上げて「ま」と言った時、匙を持つ手が僅かに止まった。
「はい、お母さんですよ」
いつもと同じ声だった。
目だけが、少し潤んでいた。
俺は二人の言葉を最後まで待った。
父様。母様。リーリャ。
どれも、まだ一つの音に近い。
それでも、俺を指す音はなかった。
夕方、シルフィが帰る時に聞いた。
「俺の名前、難しいかな」
「三つも音があるから」
「ゼ、ディ。二つじゃない?」
「ゼディウスなら、四つ」
「ゼディで教えてる」
「急がなくていいよ。いずれ呼んでくれる」
朝、母様にも言われた。
「シルフィは、呼んでほしい名前とかある?」
「ぼく?」
「ルディは最初、シルフって呼んでた」
シルフィの頬が少し赤くなる。
「男の子だと思ってたから」
「今も、時々シルフって呼ばれたい?」
「ルディが呼ぶなら……少し」
小さな声だった。
俺が同じように呼んでも、きっと違う。
シルフという名には、ルディと出会った日の時間が入っている。
「じゃあ、俺はこれからもシルフィって呼ぶ」
「うん」
「シルフィも、俺をゼディって呼ぶ」
「ずっとそう呼んでるよ。これからも」
「うん。だから二人も、そのうち覚えるよね」
「たぶんね」
シルフィは少し考え、付け足した。
「名前を呼べなくても、二人はゼディのことを分かってると思うよ」
「どうして?」
「ゼディが部屋へ入ると、二人とも見るから」
言われるまで気づかなかった。
振り返る。
窓の向こう。母様に抱かれたノルンと、リーリャに抱かれたアイシャが、こちらを見ている。
俺が手を振る。
二人の手も動いた。
名前は、まだなかった。
それでも、俺へ向いた目は二つあった。
◇
春が深くなると、俺とシルフィは村の外れまで歩くようになった。
ロールズさんに頼まれた薬草を探す。先生の手帳へ載っている植物と見比べる。知らない道があれば、どこへ続くか確かめる。
最初の頃は、魔術の練習をするために会っていた。
今は、特に練習することがなくても会った。
畑の脇へ座り、雲の形を見る。川へ小枝を浮かべ、どちらが先に曲がり角へ着くか競争する。鳥の声を聞き、先生の手帳から名前を探す。
見つからなければ、勝手に名前をつけた。
「あれは、ハネナガミミナシドリ」
俺が言う。
「この辺りにいる耳がない鳥…というよりも、鳥は、ほとんどそうじゃない?」
「じゃあ、シロハラアカアシハネナガミミナシドリ」
「長いよ」
「分かりやすい」
「飛んでいくまでに呼べないよ」
シルフィは、その鳥を「ピィ」と呼んだ。
鳴き声がそう聞こえたかららしい。
先生に聞けば、どちらも間違っていると言われるだろう。
それでも、二人の間ではピィになった。
数日後、別の鳥を見ても、俺たちは同じ名前を呼んだ。
誰かと同じものを見て、同じ名前を使う。
それだけで、前に見た日のことまで思い出せる。
魔術の練習にも、名前を使うことにした。
無詠唱は、落ち着いていれば使える。
だが、急ぐと大きくなる。気持ちが乱れると、必要な量を決める前に魔力が動く。
全部の詠唱をすれば、安定する。
代わりに、時間がかかる。
なら、その間を作ればいい。
先生から届いた手紙にも書かれていた。
できなくても、詠唱を短くする方法はある。できないことを隠すより、自分に合う方法を探しなさい。
俺は、詠唱を一節ずつ減らした。
最初は、最後の一節だけを残す。次に、その半分。
最後には、術の名前だけ。
「
声へ出す。
その前に、大きさを決める。
拳一つ。水桶へ入れる。飛ばさない。
名前を合図に、魔力を流す。
拳ほどの水球が生まれた。
狙った大きさ。表面も揺れていない。
「成功?」
シルフィが聞く。
「うん」
「無詠唱でもできるのに、どうして言葉を増やすの?」
「止まるため」
「止まる?」
「何を出すか、どれくらい出すか。名前を言う前に決める。決まってなかったら、言わない」
「でも、急いでたら?」
「名前だけなら、すぐ言える」
「言えなかったら?」
答えが止まる。
丸太が転がってきた日。
危ないと思った時には、もう魔力を流していた。
「その時は、まだ分からない」
「じゃあ、ぼくが聞くよ」
「何を?」
「大きさ。他にも、焦ってる時とか、誰が危ないとか」
シルフィは、以前からそうしてくれている。
息。大きさ。誰が危ないのか。
俺の考えが一つへ集まるまで、短い言葉を置く。
「毎回、シルフィがいるとは限らないよ」
「いる時は聞けるよ」
「いない時は?」
「その時の練習は、一人の時にすればいい」
全部を今すぐ解決しなくていい。
先生も、ルディも、何度も教えた。
ついには、シルフィまで同じことを言うようになった。
「分かった。次」
「もう一回、同じ大きさ」
「今できた」
「一回できることと、いつでもできることは別だって、手帳に書いてたよ」
「勝手に読んだの?」
「ゼディが開いたまま置いてた」
「それは、読んでいいって意味じゃない」
「……ごめん」
「……本当に読んだ?」
「ルディのことが書いてある頁は、見てないよ」
シルフィは、俺が何を隠したいかまで分かるようになっていた。
「ならいい」
「いいの?」
「次からは聞いて」
「うん」
「もう一回やる」
拳一つ。水桶へ入れる。飛ばさない。
「
同じ大きさの水球が生まれる。
一度目より、僅かに早かった。
シルフィは満足そうに頷いた。
シルフィは先生でも、ルディでもない。
それでも、時々先生やルディより厳しかった。
◇
夏になる前、父様から剣神流上級を名乗ることを許された。
試験は、単純だった。
父様より先に踏み込み、肩へ巻いた赤い布へ剣先を触れさせる。
木剣で布だけを狙う。
父様は、俺が動くまで待たない。
こちらの呼吸が変われば踏み込む。重心が前へ動けば、それより先に剣を振る。
一度目は、構えた直後に額を打たれた。
二度目は、足が動く前に剣を弾かれた。
三度目からは、数えていない。
踏み込む。打たれる。
立つ。構える。また打たれる。
俺は、父様の肩ではなく、目の奥に残った光を追いかけた。
抜くところも見えなかった、ギレーヌの剣。
あれより速く。少しでも近く。
「今日は終わりだ」
父様が言う。
「まだできる」
「足が動いてねえ」
「動く」
踏み込もうとして、膝が揺れた。
父様が木剣を下ろす。
「休め」
「あと一回」
「明日だ」
「今日できなかった分、明日は二回やる」
「だからお前はいつも……。そういう数え方をするな」
肩をつかまれる。
振り払おうとした時、庭の端から声がした。
「ゼディ」
シルフィだった。
午後に来ると思っていた。まだ日は高くない。
「早いね」
「今日は、お父さんの仕事が早く終わったから」
シルフィは俺の顔ではなく、足を見ていた。
「怪我してる?」
「してない」
「歩き方が変だよ?」
「疲れただけ」
「なら休んで」
「父様と同じこと言わないで」
「同じなら、二人とも正しいんじゃない?」
「二人が言えば正しくなるわけじゃない!」
言い方が強くなった。
シルフィの肩が少し動く。
以前なら、ここで俯いたかもしれない。
だが、今は俺から目を逸らさなかった。
「ゼディは、また二人分やろうとしてる」
「やってない」
「やってるよ」
「俺の稽古だよ。ルディの分じゃない。ずっとそう言ってる……思ってる」
「じゃあ、どうして休まないの?」
「早く上級になりたいから」
「どうして早く?」
「次に会った時、ルディの隣に立つため」
「それなら、ルディの分が入ってるよ」
言い返せなかった。
「シルフィには関係ない」
代わりに、そんな言葉が出た。
口から離れた後で、間違えたと分かった。
シルフィの顔が固まる。
「そう」
短く答え、背を向けた。
「待って」
「関係ないんでしょ」
「今のは」
「魔術の練習も、一人ですればいいよ」
「シルフィ」
「ぼくはルディじゃないから」
足が止まった。
シルフィも、立ち止まる。
振り返らないまま続けた。
「ルディみたいに教えられない。ゼディが無茶をしても、全部止められない。ゼディが欲しい言葉も、ぼくには分からない」
「ルディの代わりにしてない」
「じゃあ、ぼくは何?」
答えようとして、言葉が出なかった。
ーー友達。
そう言えばいいはずだった。
けれど、俺たちはどうして友達になったのだろう。
最初にシルフィへ手を差し出したのはルディだった。魔術を教えたのも。家へ連れてきたのも。
ルディがいなくなり、二人だけになった。
だから一緒にいる。
それだけなのか。
俺が答えない間に、シルフィは歩き出した。
「待って!」
追いかけようとする。
右足へ痛みが走った。
膝が落ちる。
シルフィが振り返った。
すぐに駆け戻ってくる。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「嘘」
膝へ手を当てる。
治癒魔術の光が広がった。
「自分でできる」
「知ってる」
「怒ってるなら、放っておけばいい」
「……怒ってても、怪我は治せるよ」
光が消える。
痛みは少し残っている。
使いすぎた筋肉までは、完全に戻さなかったらしい。
「全部治したら、また剣を振るでしょ」
「振る」
「だから、少しだけ」
俺より俺の行動を分かっていた。
シルフィは立ち上がる。
「今日は帰る」
「明日は?」
「分からない」
今度は追いかけなかった。
関係ない。
自分で言った言葉が、いつまでも庭へ、自分へ残っていた。
◇
翌日、シルフィは来なかった。
午後になっても、門の向こうに緑の髪は見えない。
魔術の練習は、一人でした。
拳一つ。水桶へ入れる。飛ばさない。
「ウォーターボール」
水球が生まれる。
少し大きい。
シルフィなら、すぐに言ったはずだ。
大きいよ。
止められる?
俺は自分で水球を小さくした。
できる。
一人でも練習はできる。
けれど、成功した後に見る顔がない。
水を桶へ落とす。
二度目。
三度目。
全部成功した。
……嬉しくなかった。
その次の日も、シルフィは来なかった。
俺は剣を振った。
父様は、まだ剣神流の試験を再開しなかった。
足が完全に治るまで駄目だと言った。
魔術を使えば治せる。
そう言うと、疲れは怪我ではないと返された。
仕方なく、木剣を使わずに型だけを確かめた。
構える。踏み込まない。剣を振らない。
頭の中で動く。
ギレーヌの光。父様の剣。
昨日のシルフィの背中。
……一つも、思うようにはならなかった。
「行ってくれば?」
母様が言った。
庭の服や布を取り込んでいる。
「どこへ?」
「謝りたい相手のところへ」
「まだ謝るって言ってない」
「では、その顔の理由を聞きに行ってきなさい」
「どんな顔?」
「難しい顔」
シルフィにも言われた。
「母様も真似するの?」
「何の話?」
「なんでもない」
俺は木剣を置いた。
ノルンとアイシャのいる部屋を覗く。
二人は並んで眠っていた。
「行ってくる」
返事はない。
それでも、言ってから家を出た。
◇
ロールズさんの家へ着く。
扉を叩こうとして、手が止まった。
何を言うか、まだ決めていない。
ーーごめん。
それだけなら言える。
その後、シルフィは何なのかと、もう一度聞かれたら。
友達。
言葉は浮かぶ。
けれど、何を入れてその名前を使うのか、分からない。
扉が内側から開いた。
「ゼディ?」
シルフィが立っていた。
俺が来るのを待っていたのではない。手には空の籠を持っている。
外へ出ようとしていたらしい。
「どこか行くの?」
「薬草を取りに」
「一緒に行っていい?」
「足は?」
「もう痛くない」
「本当に?」
「少しだけ痛い」
「なら、ゆっくり歩いて」
断られなかった。
二人で、いつもの道を歩く。
言葉はない。
畑を抜ける。小さな川を越える。ピィと名づけた鳥の声がした。
シルフィが空を見る。
「「ピィ」」
同時に言った。
二人とも、少しだけ笑う。
「昨日、ごめん」
今なら言えた。
「うん」
「関係ないって言ったのは、違う」
「何が違うの?」
「シルフィは関係ある」
「どうして?」
昨日と同じ問いだった。
今度は、すぐ答えようとしなかった。
川の近くへ座る。
シルフィも、少し離れた場所へ腰を下ろした。
「ルディがいなくなったから、最初は一緒に練習した」
「うん」
「俺だけじゃ、無詠唱を上手くできなかった。シルフィも、一人だとルディのことを考えるから」
「うん」
「でも、今はそれだけじゃない」
「じゃあ、何?」
「シルフィが来ないと、成功しても面白くなかった」
上手い言葉ではなかった。
シルフィが瞬きをする。
「魔術を見てほしいってこと?」
「それもある。一緒に鳥の名前を考えたり、川で競争したりするのも、シルフィとしたい」
「ルディが帰ってきたら?」
「三人でする」
「ぼくとルディだけで遊びたいって言ったら?」
少し嫌だった。
それでも、答えは決まっていた。
「その時は、俺は別のことをする」
「寂しくない?」
「寂しい。でも、二人だけでいたい時もあるでしょ」
シルフィは膝を抱える。
「ルディは、ぼくの最初の友達」
「うん」
「魔術を教えてくれた先生でもある」
「うん」
「今も、一番会いたい」
「知ってる」
胸は痛まなかった。
先生とルディが二人で話していた時に感じたものとも違う。
それでいいと思った。
シルフィにとってのルディの場所を、俺が取る必要はない。
「ゼディは、違う」
「どう違う?」
「先生じゃない」
「教える時もある」
「ぼくも教える」
「剣は俺が教えてる」
「魔術はぼくが教えてる」
「じゃあ、同じくらい」
「うん。同じくらい」
シルフィが、少しこちらへ近づいた。
「ゼディには、怒れる」
「ルディには怒らないの?」
「怒ることがないから」
「ルディも結構、変なことするよ」
「たとえば?」
ーー先生の下着。
……言いかけてやめた。
シルフィへ教えない方が、ルディのためだと思う。
「たまに、難しい言葉を使いすぎる」
「それはある」
「あと、怒ってもいいよ。ルディにも」
「帰ってきたら?」
「今から練習する?」
「誰に怒るの?」
「俺」
「昨日、怒ったよ」
「できてるね」
シルフィが笑った。
「友達なら、怒ってもいいの?」
「怒っても、次の日にいなくならなければ」
「ぼく、二日行かなかったよ」
「三日目に会えた」
「ゼディが来たから」
「来てよかった?」
シルフィは少し考えた。
「うん」
それから、今度は間を置かずに言った。
「ゼディは、ぼくの親友」
「親友?」
「ただの友達より、いっぱい一緒にいる友達」
「怒れる友達じゃないの?」
「それも入ってる」
「ルディは?」
「ルディは……」
シルフィの頬がまた赤くなる。
「特別」
「親友より上?」
「上とか下じゃないよ」
先生が言いそうな言葉だった。
比べるのではなく、違う。
「じゃあ、シルフィも俺の親友」
「うん」
「怒っても、三日目までには会う」
「二日目」
「昨日は来なかった」
「ゼディが先に怒らせたから」
「じゃあ、怒らせた方が二日以内に行く」
「約束?」
「約束」
手を差し出す。
シルフィが握る。
林で、ルディが差し出した手とは違う。
助けるためでも、立たせるためでもない。
同じ高さで結ぶ手だった。
ルディがいなくなった穴へ、代わりに誰かを詰めたのではない。
ルディが帰ってきても消えないものを、俺とシルフィは二人で作っていた。
親友という名前は、その日まで一緒に過ごした時間へ、ようやくついた名前だった。
「それと」
シルフィが、手を離さずに言う。
「今日は剣を振らないで」
「もう足はほとんど痛くない」
「約束をやめる?」
「それとこれは別」
「同じ」
「……今日は振らない」
「うん」
親友は、やはり先生やルディより厳しいのかもしれない。
◇
三日休み、父様との試験を再開した。
シルフィは庭の端にいた。
見張るためではない。
「親友が上級になるところを見る」
そう言って、朝から来ていた。
父様の肩には、赤い布が巻かれている。
「準備は?」
「できてる」
「足は?」
「痛くない」
「嘘なら?」
「シルフィが怒る」
「俺も怒るぞ?」
木剣を構える。
今までは、ギレーヌの光を追っていた。
見えなかった速さ。届かなかった剣。
今日は、目の前の父様を見る。
右足。肩。剣先。
父様は、俺が踏み込む前に動く。
なら、踏み込もうと思った時には遅い。
思う前に動く。
どうすればいい。
父様の呼吸が、一度深くなる。
来る。
身体が先に出た。
父様も踏み込む。
木剣が迫る。
こちらの額へ届くより先に、剣先を赤い布へ届かせる。
布が肩から外れた。
同時に、父様の木剣が頭へ触れる。
痛くはない。
寸前で止まっていた。
赤い布が、地面へ落ちる。
「相打ち?」
俺が聞く。
「俺が止めなきゃ、お前は頭を割られてた」
「でも、布には触った」
「そうだな」
「上級?」
父様は地面の布を拾う。
剣先が触れた跡を見る。
「……剣神流上級を名乗っていい」
胸の奥が熱くなった。
「できた!」
シルフィの声が、俺より早かった。
振り返る。
自分のことのように笑っている。
俺も笑った。
あの日、水球を初めて作ったシルフィを、ルディが褒めた。
シルフィへ無詠唱を教えられた日、シルフィが俺より先に喜んだ。
今日も同じだった。
成功した時、見てほしい顔がある。
その顔が喜ぶと、自分の中だけにあった嬉しさが大きくなる。
「ただし」
父様が言う。
「今のは、技と踏み込みの話だ。闘気のある大人の上級剣士と正面から打ち合えば、力で負ける」
「闘気がなくても上級なの?」
「型と判断は届いてる。身体はこれからだ」
「光の太刀は?」
「まだ遠い」
「どれくらい?」
「今の百倍以上」
「本当?」
「知らん」
「適当に言ったね」
「遠いことだけは本当だ」
父様は俺の頭へ手を伸ばす。
今回は、途中で止めなかった。
俺も避けない。
乱暴に撫でられる。
「よくやった」
「うん」
「今日は終わりだ」
「水神流を」
「終わりだ」
シルフィがこちらを見る。
笑顔のまま、目だけがスッと細くなった。
「今日は終わる」
「聞き分けがよくなったな」
「親友が怖いから」
「父親の言うことも聞け」
「同じことを言ったら聞く」
「俺が先に言ったんだが」
父様がため息をつく。
シルフィは将来怖くなるかもしれない……ルディは大変かもしれないぞ、とこの時なぜか思った。
その日の午後は、剣を振らなかった。
代わりに、シルフィと川まで歩いた。
水へ小枝を二本浮かべる。
俺の枝が先に石へ引っかかった。
シルフィの枝が、曲がり角へ先に着いた。
剣では勝った。
小枝では負けた。
なぜか、どちらも同じくらい悔しかった。
◇
夏。
ノルンが、初めて何にもつかまらずに立った。
ほんの数秒だった。
両手を広げ、膝を震わせる。
俺は目の前へしゃがみ、いつ倒れても受け止められるようにした。
「ゆっくり」
ノルンが右足を上げる。
前へ置く前に、身体が傾いた。
胸へ飛び込んでくる。
抱き止める。
ノルンは驚いて目を丸くした後、声を上げて笑った。
「一歩だったよ」
「だぁ」
「もう一回する?」
すぐには立たなかった。
俺の服を握り、先ほど自分が立っていた場所を見る。
怖かったらしい。
「今日は終わりでもいいよ」
背中を撫でていると、少し離れたところで、アイシャがこちらを見ていた。
床へ両手をつき、立つ。
一歩。
二歩。
三歩目で転ぶ。
手をついたので、顔は打たなかった。
泣かない。
自分の足を見て、もう一度立とうとする。
ノルンが俺の腕の中から、その姿を見た。
服を握る力が緩む。
床へ降ろす。
今度は、俺の指を一本だけ握った。
一歩。
止まる。
もう一歩。
アイシャのところまで歩いた。
二人で顔を見合わせる。
何が嬉しいのか分からないまま、一緒に笑った。
「できたね」
声を掛けると、二人が同時に俺を見る。
「ゼディ」
自分を指す。
「ぜ、でぃ」
「あ」
アイシャが答える。
「最初へ戻った」
名前だけは、まだだった。
それから二人は、よく歩くようになった。
歩けるようになると、家の中で行ける場所が急に増える。
ノルンは、誰かの姿が見える範囲を歩いた。
母様から俺へ。俺から父様へ。父様から、また母様へ。
アイシャは、誰もいない方へも行った。
机の下。半分開いた物置。階段の一段目。
リーリャが入口を塞いでも、少し時間が経つと別の道を探した。
俺は階段の前へ低い柵を作った。
土魔術ならすぐに作れる。
けれど、家の中で暴発させれば、階段ごと壊す。
最初に高さを決める。幅。隙間。
「
名を呼ぶ。
膝より少し低い土の壁が生まれた。
表面を滑らかにする。角を丸くする。
アイシャは壁へ手を置き、押した。
動かない。
横を見る。
壁の端から回ろうとする。
端は、廊下の壁までつないである。
今度は上を見る。
足を掛ける場所はない。
「勝った」
言うと、アイシャは俺を見た。
次の瞬間、泣いた。
「ずるい」
そう言っているような気がした。
泣き声を聞いたノルンも来る。
理由も分からないまま、一緒に泣き始めた。
母様に、壁を低くしすぎて向こう側が見えるから余計に行きたがるのだと言われた。
結局、上の方へ細い木を渡し、普通に向こうが見える柵へ作り直した。
魔術ではなく、父様と木を削った。
時間はかかった。
その間、シルフィが二人を見てくれた。
「ノルンちゃん!そっちはまだ駄目だよ」
ノルンは止まる。
「アイシャちゃん!それは口に入れないで」
アイシャは、拾った木屑を背中へ隠す。
「見えてるよ」
シルフィが手を出す。
アイシャは少し考え、木屑を渡した。
「シルフィの言うことは聞くね」
俺が言うと、父様が鼻で笑った。
「お前の言うことも聞いてるだろ」
「泣かれた」
「駄目って言われたら泣くのも、聞いたうちに入る」
「そうなの?」
「たぶんな」
「また、たぶん」
「子育てなんざ、分からねえことばっかりだ」
父様は木を削りながら答えた。
「父様なのに?」
「父親になった日と、お前らが生まれた日は同じだぞ」
考えたことがなかった。
俺が兄になって一年。
父様は、父親になって八年。
俺より七年長いだけだ。
大人になれば、何でも分かるわけではないらしい。
それはそうだ。
ルディという一番近くにいた存在が物分かりがいいから、感覚がおかしくなっていたが、普通はそうなのだろう。
「じゃあ、俺も分からなくていい?」
「分からねえまま放っておくのは駄目だ。分からねえって言って、誰かに聞け」
「父様にも?」
「俺が分かることならな」
「分からなかったら?」
「ゼニスかリーリャに聞く」
「最初から二人に聞いた方が早くない?」
「……お前、最近ルディみたいなこと言うな」
少し前なら、褒められたように感じたと思う。
今は、少し違った。
「俺が言ったんだよ」
「そうだな」
父様は、すぐに言い直した。
「今のはゼディが言った」
「うん」
俺たちは二人で柵を完成させた。
アイシャは、その日のうちに留め具へ手を伸ばした。
さすがに開けられなかった。
次の日、留め具の下へ木箱を運ぼうとしていた。
誰に似たのか……油断はできない。
◇
夏の終わり。
父様が、北神流の試験をすると言った。
朝、村の外へ連れていかれる。
いつかの林の手前。
父様は俺の腰へ、青い布を結んだ。
自分の腰には、赤い布。
「日が真上へ来るまでに、俺の布を取って家へ戻れ」
「父様を倒して?」
「方法は何でもいい。ただし、魔術は禁止。刃物もなし。村人を巻き込むな」
「父様は?」
「俺も同じだ」
「逃げてもいい?」
「北神流だぞ」
勝つことではなく、生き残ること。
剣を失っても。足場が悪くても。相手の方が強くても。
その場にあるものを使う。
「始め」
父様が言った瞬間、俺は逃げた。
正面から戦えば負ける。
剣を持った父様は、俺より速い。力も強い。
林へ入る。
父様は追ってこない。
待っていれば、時間切れになる。
こちらから戻らなければならない。
木々の間を回り、父様の後ろへ出る。
ーー気づかれている。
石を投げる。
避けられた。
反対から近づく。
木剣を合わせる前に、蹴りで距離を作られた。
何度やっても、布へ手が届かない。
日は上がる。
焦る。
正面から踏み込む。
父様の剣が来る。
水神流で受けようとして、やめた。
剣を手放す。
父様の木剣が、空いた手の上を通る
懐へ入る。
それでも、布までは遠い。
肩をつかまれ、投げられた。
地面を転がる。
「悪くねえ。だが、同じ手は二度通らんぞ」
同じ手を使う必要はない。
落とした木剣を拾わず、また林へ逃げる。
父様は、俺の剣を遠くへ蹴った。
次に出れば、素手だ。
勝てない。
何でも使う。
木。石。土。
魔術は禁止。
村人を巻き込めない。
自分の腰にある青い布へ触れる。
取られてはいけないとは言われていない。
布を外す。
長く裂く。
木の枝へ結ぶ。
もう一方を、別の木へ。
細い青が、草の陰へ伸びる。
それを何本か作った。
父様の視界へ一度だけ姿を見せる。
追ってくる。
林の中へ誘う。
父様の足が、青い布へ触れた。
すぐに気づく。
転ばない。
木剣で布を地面へ押さえる。
その間に背後へ回る。
父様が振り向く。
俺は父様ではなく、足元の土を蹴った。
乾いた葉が舞う。
目を閉じた父様の腰へ手を伸ばす。
赤い布をつかむ。
同時に腕を取られた。
「取った」
「帰るまでが試験だ」
忘れていた。
父様が布を取り返そうとする。
俺は赤い布を口へ入れた。
「おまっ、汚えぞ!」
父様の腕へ噛みついたわけではない。
布を取られないよう、歯で布を噛んだだけだ。
空いた両手で父様の腕を抜ける。
走る。
父様も追う。
速い。
まともに競争すれば、すぐ捕まる。
俺は村への道ではなく、浅い川へ飛び込んだ。
水の中を走る。
足が重い。
父様も来る。
大きな身体は、俺より水の抵抗を受ける。
少しだけ距離が開いた。
川から上がり、畑の畦を走る。
家が見えた。
門。
その前に、シルフィがいた。
腕にはアイシャを抱いている。
母様はノルンを抱き、隣に立っていた。
どうやら、見に来たらしい。
「ゼディ!」
シルフィが呼ぶ。
後ろから父様の足音。
門まで、あと少し。
さっきからずっと走っている。
これまでかなり体力は作ってきていたと思ったが、身体が重い。息が苦しい。
闘気は出ない。
あの日の膜は、どこにもない。
……それでも走る。
門を越える。
直後、背中から父様に抱え上げられた。
「捕まえた」
口から赤い布を出す。
「ふぁふぃふぃふぁえっふあ」
(先に帰った)
「何言ってるか絶妙にわかりづれぇからやめろ……ぎりぎりな」
「ふぉふぉふぃふ?」
(上級?)
「……その前に、布を洗え」
「ふぉふぉふぃふふぁっふぁ?」
(上級なった?)
「分かったから口を濯げ!」
父様が俺を地面へ下ろす。
足に力が入らない。
布を口からとり、その場へ座り込んだ。
シルフィが近づく。
「大丈夫?」
「疲れただけ」
「今日は本当だね」
「……うん」
シルフィの腕の中で、アイシャが身を乗り出した。
俺へ手を伸ばす。
「あ」
「ただいま」
「で」
小さな音だった。
聞き間違いかと思った。
「今、何て言った?」
アイシャが、もう一度口を開く。
「でぃ」
胸の奥で、何かが止まった。
「俺?」
自分を指す。
「ゼディ?」
「でぃ」
アイシャが笑う。
母様の腕にいたノルンも、こちらへ手を伸ばした。
「ぜ」
母様が息を呑む。
ノルンは、一度唇を閉じた。
俺の顔を見る。
「ぜ、でぃ」
今度は、はっきり聞こえた。
立とうとした。
足に力が入らず、また膝をつく。
それでも両手を伸ばす。
母様とシルフィが、二人を下ろした。
ノルンは、ゆっくり歩く。
一歩。止まる。もう一歩。
アイシャは、その横を先に進む。
途中で振り返り、ノルンを待った。
二人が同時に、俺の胸へ倒れ込んでくる。
座ったまま抱き止めた。
「もう一回」
「でぃ」
「ぜでぃ」
「もう一回」
「でぃ」
「ぜ、でぃ」
何度でも聞きたかった。
ルディにも聞かせたかった。
二人が初めて俺の名を呼んだ瞬間を、隣で一緒に喜んでほしかった。
二人が俺の名前を呼ぶのと、ルディの名前を呼ぶのが一緒がよかった。
そう思うと胸の端は痛んだ。それでも、この声まで「ルディがいないから足りないもの」にしてはいけない気がした。
ノルンとアイシャは、今ここにいる俺を見つけて呼んだ。なら俺は、今ここで二人へ返事をする。
ルディには、いつか自分の声で話せばいい。
視界が滲んだ。
「泣いてるの?」
シルフィが聞く。
「川の水」
「目に?」
「走ったから」
「それは汗だよ」
「じゃあ汗」
父様が鼻を啜った。
俺が見ると、顔を背ける。
「なんで俺より、ゼディの名前の方が先なんだ」
「父様は『たー』って呼ばれてたでしょ」
「あれは……父様だ」
「じゃあ、俺も『でぃ』で呼ばれてた」
「ノルンは全部言ったぞ」
「俺の名前の方が呼びやすいから」
「毎日、ゼディが二人へ教えていたからでしょう」
母様が言う。
リーリャは、玄関の前に立っていた。
いつから見ていたのか分からない。
目元を指で拭う。
「二人とも、ゼディウス坊ちゃまのお帰りをお待ちしておりました」
「分かってたの?」
「朝から、門の音がするたびに見ておりましたので」
名前を呼ぶ前から、二人は俺を知っていた。
シルフィの言ったとおりだった。
……それでも、呼ばれると違った。
俺は、兄だ。
ルディがいない分まで、二人を守ろうとした。二人分の兄になろうとした。
けれど、二人が呼んだのは、お兄ちゃんではなかった。
ルディでもない。
ゼディ。
俺一人の名前だった。
「ただいま、ノルン。アイシャ」
二人を抱く腕へ、少しだけ力を込めた。
一人で二人を持ち上げようとはしない。
地面へ座り、二人の方から抱きついてもらう。
それなら、誰かの腕を借りなくても、三人でいられた。
「ゼディ」
シルフィが呼ぶ。
「なに?」
「北神流の試験は?」
忘れていた。
父様を見る。
父様は、赤い布を俺の頭へ載せた。
「北神流上級だ」
「本当?」
「剣を捨てたところも、布を罠にしたところも悪くなかった」
「口に入れたところは?」
「二度とやるな」
「でも、取られなかった」
「腹を壊して死んだら、生き残る流派の意味がねえだろ」
「洗えばいい?」
「口へ入れる前に洗えんのか?」
できない。
「次は別の方法にする」
「そうしろ」
剣神流上級。
北神流上級。
残るのは、水神流だった。
嬉しい。
けれど、その日だけは、上級になったことよりも、自分の名を呼ばれたことの方が大きかった。
◇
それから、家の中で俺の名前が増えた。
「でぃ」
朝、部屋を出るとアイシャが呼ぶ。
「ぜでぃ」
食事の途中で匙を落とし、ノルンが呼ぶ。
呼ばれるたびに振り向いた。
用事がなくても。ただ声にしてみただけでも。
毎回返事をした。
「なに?」
二人が笑う。
それだけの日もあった。
父様は、自分も名前で呼ばせようとした。
「パウロ」
胸を指す。
「ぱ」
ノルンが言う。
「そうだ。パウロ」
「ぱぱ」
「父様だ」
「ぱぱ」
「惜しい」
「もう、それでいいじゃない」
母様が笑う。
まぁ、実質パパもお父さんって意味だし……いいんじゃないだろうか。
「ゼディは全部呼ばれた」
「普段から皆がゼディと呼んでいるからでしょう」
「じゃあ、今日から俺もパウロにする」
「子供たちへ自分を呼び捨てにさせるの?」
「……父様でいい」
父様は、少し悔しそうだった。
母様は「まま」。
リーリャも、最初は同じ「まま」だった。
リーリャは、アイシャが自分と母様を同じ名で呼ぶことを気にしていた。
けれど母様が、
「この子たちには、二人とも母親みたいなものよ」
そう言うと、何も言わずに頭を下げた。
ノルンが母様へ「まま」と呼び、アイシャがリーリャへ「まま」と呼ぶ。
時には逆になる。
二人はまだ、母親が違うということを知らない。
知った後も、今のように互いの手を取れればいいと思った。
俺は、ルディの名前も教え続けた。
空いた寝台を指すのではなく、先生の手帳へ描いた下手な絵を見せる。
茶色い髪。緑の目。左目の下のホクロ。
隣には俺も描いた。
右目の下にホクロをつける。
シルフィに見せると、二人とも父様に似すぎていると言われた。
「前よりマシになった気がしたんだけど……絵が下手だから」
「ルディは、もう少し優しい顔だよ」
「俺は?」
「もう少し、じっとしてない顔」
「顔は動かないよ」
「ゼディの顔は動くよ」
分からなかった。
それでも描き直した。
ルディの眉を少し下げる。俺の口を少し開ける。
上手くなったかは分からない。
ノルンとアイシャへ、もう一度見せる。
「こっちがルディ」
「る」
ノルンが言った。
「ルディ」
「うでぃ」
アイシャが続く。
俺の名前ほど、まだ上手くはない。
当然だった。
二人は、ルディの顔を知らない。声も。抱かれた温かさも、覚えていない。
名前だけを先に覚える。
少し寂しい。
「帰ってきたら、本人に言ってもらおう。それで、二人に呼んでもらおう」
絵の中のルディへ言う。
「それまで、俺が教える」
ルディの代わりになるためではない。
ルディが帰ってきた時、初めから始めなくて済むように。
名前と、ここにあった場所だけを残す。
その先は、ルディが自分で二人と作ればいい。
◇
秋から冬にかけ、術名だけを使う魔術は安定していった。
「
蝋燭ほどの炎。
「
桶一つ分の水。
初級の魔術なら、名を口にするだけで形になる。
使い慣れた中級魔術にも、同じ方法で出せるものが少しずつ増えた。
発動だけを見れば、無詠唱より僅かに遅い。
それでも、迷う時間まで含めれば、俺には言葉がある方が速かった。
迷う時間がなくなるからだ。
先に大きさを決める。行き先を決める。終わらせ方を決める。
その後で名前を呼ぶ。
呼べば、決めたものが外へ出る。
シルフィは、変わらず無詠唱を使った。
俺より速い。水や風が生まれるまで、ほとんど間がない。
同じ方法へ揃える必要はなかった。
シルフィはシルフィのやり方。俺は俺のやり方。
同時に水球を作れば、シルフィが先に出す。
俺の方は、少し遅れて、決めた大きさへ正確に止まる。
「今日は同じ大きさ」
シルフィが二つを見比べる。
「昨日は俺の方が大きかった」
「一昨日は小さかったよ」
「今日は同じ」
「うん」
「明日は?」
「明日も同じにする」
「次へ行かないの?」
「いつでもできるようになってから」
シルフィが驚いた顔をする。
「なに?」
「ゼディが急がない」
「急いでるよ」
「前よりは」
「シルフィに止められる前に、止まった」
「成長したね」
「同い年なのに、大人みたいに言わないで」
「親友だから」
「親友は大人なの?」
「ゼディよりは」
「剣なら俺の方が上」
「魔術はぼくの方が速い」
「走る?」
「今日は魔術の練習」
勝負は、次の日になった。
走るだけなら、俺が勝った。
途中でシルフィが風魔術を使ったので、やり直しになった。
魔術を使っていい勝負では、シルフィが勝った。
どちらが本当の勝ちかで、その日は日が暮れるまで言い合った。
◇
この一年で初の雪が降った。
その日、父様は庭の中央へ一本の杭を立てた。
杭の先には、小さな鈴がついている。
「水神流の試験だ」
父様が言う。
「この鈴を鳴らさせるな」
「父様の剣から守る?」
「そうだ」
「どれくらい?」
「お前が俺へ一本返すまで」
水神流は、相手を見て、受け、返す。
守るだけでは終わらない。
相手の力を流し、できた隙へ反撃する。
俺が杭の前へ立つ。
父様が木剣を構えた。
雪が降る。
地面は白く、少し滑る。
庭の端には、母様とリーリャ。
厚い布へ包まれたノルンとアイシャ。
シルフィもいる。
「ゼディ」
ノルンが呼ぶ。
「ゼディ」
アイシャも呼ぶ。
この頃には、二人ともはっきりゼディと呼べるようになっていた。
振り返りたい。
今は前を見る。
「始めるぞ」
父様が踏み込む。
速い。
ーー右から。
木剣を合わせる。
力を正面から受けない。
横へ流す。
父様の剣は、軌道を変えながら杭へ向かう。
もう一度触れ、外へ押す。
鈴は鳴らない。
二撃目。
ーー下から。
受ける。
父様は途中で力を抜いた。
剣が軽くなる。
流そうとした俺の身体だけが動く。
誘われた。
杭への道が空く。
足を入れる。
剣では間に合わない。
父様の木剣が、俺の脛へ当たる。
痛い。
それでも、杭へは届かなかった。
「身体で守るな」
「鳴ってない」
「怪我を増やして守るのは最後だ」
父様が距離を取る。
三撃目。
ーー正面。
速さは、先ほどまでと変わらない。
ただ、重い。
受ければ押し切られる。
避ければ鈴が鳴る。
剣先だけを見るな。
父様の足。腰。肩。
力が一つの線へ集まる。
その線へ、こちらから入る。
ぶつかる前に剣の腹へ触れる。
僅かに横へ向ける。
父様の力が、杭の脇を通り過ぎた。
同時に一歩入る。
返す。
俺の木剣が、父様の胸へ向かう。
届く直前で、手を止めた。
父様も動かなかった。
雪だけが、剣と胸の間を落ちていく。
鈴は鳴っていない。
「そこまで」
父様が息を吐いた。
「今のは?」
「水神流上級」
「三つとも?」
「ああ」
剣神流。水神流。北神流。
すべて、上級。
目標へ届いた。
「ゼディ!」
シルフィが走ってくる。
「ゼディ!」
ノルンも呼ぶ。
「ゼディ!」
アイシャが両手を叩く。
自分の名が、三つの場所から聞こえた。
「父様」
「なんだ」
「これで、父様と同じ?」
父様はすぐに頷かなかった。
「流派の段位だけならな」
「剣では?」
「まだ俺が勝つ」
「闘気があるから?」
「それもある。そして、身体の大きさ、力、経験だ。他にも含めてお前にないものは多い」
「俺にあって、父様にないものは?」
「若さ」
「それだけ?」
「三つを覚える速さは、俺より上だ」
父様が笑う。
「だが、段位は強さの全部じゃねえ。上級を三つ名乗れたからって、王級の剣士一人に勝てるわけでもない」
ギレーヌの光を思い出す。
上級へ届いた今でも、あの剣が動くところは想像できない。
「闘気は?」
「出てねえな」
「一回も?」
「あの日からはな」
「光の太刀は?」
「今の一撃は、欠片にも届いてねえ」
目標へ届いたはずなのに、その先は変わらず遠かった。
嬉しさが、少しだけ萎む。
父様が俺の額を指で弾いた。
「一つ届いた日に、届いてねえものばかり数えるな」
「でも」
「今日のお前は、昨日のお前より一つ先へいる」
先生の言葉に似ていた。
比べるなら、昨日の自分と。
「今日は喜べ。明日からまた悩め」
「今日も、少し練習したい」
「話を聞け」
「少しだけ」
「親友として反対します」
隣でシルフィが言った。
「兄の休養を求めます」
母様の腕から、ノルンが何かを言った。
いや、正確にはノルンではないが。
「アイシャも同意見でございます」
リーリャが続ける。
アイシャは手を叩いているだけだった。
「多数決?」
「そうだ」
父様が俺の木剣を取った。
「今日は終わり」
この場にいるのは七人。
父様、母様、リーリャ、ノルン、アイシャ、シルフィ……そして、俺。
反対しているのは、たぶん俺以外の全員だった。
「分かった」
自分で止まった。
少なくとも、口ではそう言った。
◇
冬を迎える頃、俺は九歳になろうとしていた。
この一年で、変わったことは多い。
ノルンとアイシャは、一歳になり、今は二歳へ近づいている。
歩ける。俺の名前を呼べる。
まだ長い話はできない。
けれど、嬉しい時と嫌な時は、声と顔と手で教えてくれる。
シルフィとは、親友になった。
ルディがいなくても会う。魔術を使わなくても遊ぶ。
怒る。謝る。何かあっても必ず二日以内に会う。
ルディは、シルフィにとって今も特別だった。
それを聞いても、俺は困らない。
俺はルディではない。
ルディの場所へ立たなくても、シルフィの隣には立てる。
魔術は、無詠唱を使える。
……落ち着いていれば。
使い慣れた初級魔術と、一部の中級魔術なら、術名だけでも発動できるようになった。
言葉は遅れではない。
俺にとっては、始める場所と止まる場所を決める目印だった。
感情が乱れれば、今も魔力は多くなる。
以前より、自分で気づけることは増えた。
気づいてから止められる日も。
ただ、シルフィや父様に止められる日の方が、まだ多かった。
剣術は、三流派すべて上級。
闘気は使えない。
光の太刀もできない。
一日の最後に、今も一度だけ真似をする。
構える。踏み込む。振る。
剣は速くなった。
光らない。
それでも続けた。
その夜も、先生の手帳を開いた。
新しい頁へ、一年分の終わりを書く。
『ルディへ。
ノルンとアイシャが、俺の名前を呼んだ。
アイシャは最初、「でぃ」だった。ノルンは「ぜでぃ」と言った。今は二人とも前より正確に呼べるようになったと思う。
何度も呼ぶ。
ルディの名前も教えている。まだ上手く言えないし、二人はルディの顔を知らない。
帰ってきたら、自分で教えて。二人に兄がもう一人いることを。
シルフィとは親友になった。
ルディは、シルフィにとって今も特別だそうです。だから安心していい。
でも、シルフィが俺の親友なのは、ルディがいない間だけではない。帰ってきても、たぶん変わらない。
三人で遊ぶ。二人でいたい時は、二人にする。俺とルディも、二人で話す。
今度は、誰かが一緒にいることと、他の誰かがいらないことを混ぜない。
剣神流、水神流、北神流。三つとも上級になった。
闘気はまだ。光の太刀もまだ。
魔術は、名前だけで使えるようになってきた。無詠唱より少し遅いけど、俺には合っている。
ルディは、何ができるようになりましたか。
ゼディウス』
手紙を畳む。
送らない手紙は、また一枚増えた。
以前は、届かないなら書く意味がないと思ったこともある。
今は違う。
いつか渡すため。
渡す日が来るまで、自分が何を考えていたかを忘れないため。
名前を呼ぶ。
魔術なら、形が決まる。
人なら、振り向く。
関係へ名前をつけても、それだけですべてが決まるわけではない。
親友と呼んでも、喧嘩はする。兄と呼ばれても、何でも守れるわけではない。上級と呼ばれても、勝てない相手はいる。
それでも、名前があれば、何を見ているのかを互いに確かめられる。
シルフィ。
ノルン、アイシャ。
父様、母様、リーリャ。
……ロキシー先生。
そして、ルディ。
呼べば、すぐに返事が来る名前。
呼んでも、今は返らない名前。
どちらも、俺の中にある。
隣の寝台は、まだ空いていた。
けれど、空いた場所を埋めるために、自分の形を変えることは減った。
俺はゼディウスだ。
ノルンとアイシャが、自分たちの意志で初めて俺をそう呼んでくれた。
三つの上級へ届き、術名だけで魔術を使えるようになっても、闘気と、光の太刀、その二つだけは、変わらず遠い。
進めば、次の道が見つかる。
この時の俺は、まだそう信じていた。
道の先に、進み方の分からない壁があることも。
その壁の前で、剣と魔術のどちらを選ぶか問われる日が来ることも。
そして、選んだ答えを持って迎える十歳の誕生日が、家族と同じ場所で過ごす最後の日になることも。
九歳になる前の俺は、まだ知らなかった。
ただ、名前を呼べば返ってくる声の中で。
次の一年も、そのまた次の一年も、ずっと同じように続くのだと思っていた。