無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜 作:omugut
二歳になった。
正確には、二歳になってから少し経った。
もう自分の足で歩ける。
まだ時々ふらつくし、急いで走ろうとすれば転ぶ。けれど、行きたい場所へ自分の意思で行けるようになった。
これは大きい。
赤ん坊の頃は、窓の外を見るためだけに何度も床を這った。
椅子を動かそうとしてリーリャを驚かせたこともある。
今なら、歩いて窓まで行ける。
背は足りないので、結局は椅子か誰かの助けが必要だけど。
「ゼディ、また外を見ているの?」
「うん」
母さんに聞かれ、俺は窓辺から振り返った。
以前なら、意味も分からず笑っていただけだった。
今は言葉が分かる。
自分でも話せる。
「とり、いたよ」
「鳥?」
「あっち」
俺が指差した時には、青い鳥は屋根の向こうへ消えていた。
「あら、行ってしまったわね」
「うん……」
「そんな顔をしなくても、また来るわよ」
母さんが笑いながら頭を撫でてくれる。
俺はもう一度、窓の外を見た。
空は広い。
村の向こうには麦畑や草原があり、さらに遠くには森が見える。
森の向こうに何があるのか、俺はまだ知らない。
父さんの話では、森には魔物がいたりしてその向こうには別の村や町があったりするらしい。
さらに遠くには、大きな街や国もある。
海という、途方もなく大きな水溜まりもあるそうだ。
世界は広い。
そう考えるだけで胸が躍った。
なぜ外にこれほど惹かれるのか、自分でも分からない。
昔、どこかに閉じ込められていた気がする。
暗い部屋。
閉じた扉。
窓の向こうを見ながら、外へ出ることを願っていたような──。
けれど、それが本当に自分の記憶なのかも分からない。
以前のことは、ほとんど思い出せなくなっていた。
真っ直ぐな道。
夜でも明るい街。
空を飛ぶ、大きな何か。
断片は残っている。
けれど、そこに誰がいたのか。
俺がどんな名前だったのか。
どんな暮らしをしていたのか。
もう何も思い出せない。
思い出そうとすると、濃い霧がかかる。
そして最近では、思い出せないことを寂しいとも思わなくなっていた。
父さんがいて。
母さんがいて。
リーリャがいて。
ルディがいる。
俺はゼディウス・グレイラットだ。
今は、それだけでいい。
◇
言葉を覚えるのは、それほど難しくなかった。
父さんや母さんが毎日話しかけてくれたからだ。
リーリャも、物の名前を一つずつ教えてくれた。
これは皿。
これは机。
これは椅子。
これは剣。
これは本。
同じ音を繰り返し聞き、物と結び付ければ、自然と理解できるようになった。
俺は以前の記憶をほとんど失っている。
頭の中に残っている知識も少ない。
そのせいか、新しい言葉は驚くほど素直に入ってきた。
何か別の言葉が邪魔をすることもない。
父さんが話す音を、そのまま言葉として覚えられる。
ルディも同じくらい、言葉を覚えるのが早かった。
ただし、覚え方は少し違う。
俺は人との会話で覚えた。
父さんや母さんの言葉を聞き、自分でも真似をする。
間違えれば直してもらう。
そうやって少しずつ身につけていった。
ルディは、ほとんど喋らずに聞いていた。
父さんと母さんの会話。
リーリャの独り言。
村の人が訪ねてきた時の話。
じっと黙って聞いている。
そして、ある日突然、正しい言葉を使う。
俺が繰り返し口に出して覚えるなら、ルディは頭の中で整理してから使う。
相変わらず、変な兄だった。
文字を覚え始めたのも、ほとんど同じ時期だった。
きっかけは父さんの読み聞かせだ。
父さんは時々、俺たちを両脇へ座らせて本を読んだ。
「昔々、アスラ王国のある町に──」
父さんは読むのがあまり上手くない。
ところどころ言葉に詰まる。
難しい言葉があると小さく唸り、何事もなかったように読み飛ばすこともある。
けれど声は大きい。
登場人物ごとに声色も変える。
剣士が登場すれば勇ましく。
魔術師ならば怪しげに。
魔物が出てくれば、俺たちを驚かせるような低い声を出した。
「グオオオオッ!」
「きゃはは!」
俺は笑った。
ルディは真顔だった。
「ルディ、怖かったか?」
「べつに」
二歳児とは思えない平坦な声だった。
「可愛くないなぁ。ゼディを見ろ。こんなに喜んでるぞ」
「もう一回!」
「おう、もう一回だ!」
父さんがまた魔物の声を出す。
俺は笑う。
ルディは呆れたように父さんを見ていた。
やっぱり変な兄だ。
でも、父さんが読み上げた言葉と、指でなぞった文字は俺たちの頭に残った。
同じ本を何度も読んでもらううちに、どの文字がどの音を表しているのか分かるようになる。
一度分かり始めると、後は早かった。
この世界の文字は、見たことのない形をしている。
けれど規則はある。
似た形。
繰り返し出てくる並び。
前後の言葉。
それらを一つずつ結び付ける。
分からない文字があれば父さんに聞いた。
父さんが分からなければ母さんへ。
二人とも分からなければリーリャへ。
「どうして最後はいつもリーリャなんだ?」
父さんは少し不満そうだった。
「旦那様がもう少し勉学に励んでいらっしゃれば、私の出番も減るかと」
「俺は剣士だからいいんだよ」
「では、ゼディウス様とルーデウス様には剣術以外の質問をなさらない方がよろしいと、お伝えしておきますね」
「ぐっ……」
リーリャは強かった。
◇
家には以前、本棚があった。
しかし俺とルディがまだ歩けなかった頃、何度も本棚へ近づいたせいで撤去されてしまった。
ルディは本そのものを取りたがった。
俺はルディが本棚へ近づくのを見て、椅子を運べば上まで届くのではないかと考えた。
結局、椅子はほとんど動かなかったが……。
けれど俺たちが何をしようとしているか察したらしいリーリャが、母さんへ報告した。
数日後、本棚から本が消えた。
本は木製の大きな箱へ収められ、その箱も俺たちの手が届きにくい場所へ移された。
ルディが興味を示していたということもあったので、正直、少し残念だった。
けれど二歳になり、歩けるようになった俺たちは、その木箱を見つけた。
正確には、ルディが先に見つけた。
「ゼディ」
ある日、ルディが俺の部屋へ来た。
「なに?」
「こっちです」
それだけ言って歩き出す。
ルディはまだ2歳なのに、この頃から敬語で話していた。
時折大人っぽく見えるのは、多分この敬語のせいもあったと思う。
俺はついていった。
廊下の奥。
一応今後ルディの部屋になる予定の部屋。
俺の部屋になる予定の部屋の隣の部屋だ。
今はまだ仮の物置的な、普段あまり使われていない部屋の隅に、大きな木箱が置かれていた。
ルディは箱の前へしゃがみ込む。
「これです」
「はこ?」
「本です」
ルディは確信していた。
「なんで分かるの?」
「リーリャが、入れてました」
見ていたらしい。
半年以上も前のことなのに覚えていた。
俺にも、その場面を見た記憶はある。
けれど箱の場所までは覚えていなかった。
ルディは蓋へ手を掛けた。
「お、重いです……」
「いっしょにやろう」
二人で蓋を持ち上げる。
木が擦れる音を立てながら、少しずつ開いた。
「おお……」
ルディが目を輝かせた。
中には5冊の本が入っていた。
どれも俺たちの手には少し大きく、厚い。
俺は一番上の本を取り出した。
表紙には、地図らしき絵が描かれている
「『せかいを、あるく』」
俺がゆっくり読み上げる。
『世界を歩く』。
世界各地の国や土地について書かれた本だった。
俺は床へ座り、その場で本を開いた。
「ゼディ、それ読むんですか?」
「うん」
「そう」
ルディは短く答え、別の本へ手を伸ばした。
選んだのは『魔術教本』だった。
俺たちは箱の前へ並んで座り、それぞれの本を開いた。
◇
家にあった本は5冊。
『世界を歩く』
国や町、文化、土地の特徴が記された本。
『フィットアの魔物の生態・弱点』
この周辺に生息する魔物と、その対処法をまとめたもの。
『魔術教本』
初級から上級までの攻撃魔術を解説した本。
『ペルギウスの伝説』
空中城塞の主と仲間たちが、魔神と戦う物語。
『三剣士と迷宮』
異なる流派を修めた三人の剣士が、迷宮へ挑む冒険譚。
最初に俺が夢中になったのは、『世界を歩く』だった。
地図というものが載っていた。
世界を上から見たような図。
大陸。
海。
国境。
山脈。
森。
俺たちが住んでいるアスラ王国は、中央大陸の西側にあるらしい。
フィットア領は、そのアスラ王国の中でも北東に位置している。
地図の上では、俺たちがいる場所は小さな点にもならない。
その事実に、なぜか嬉しくなった。
世界はこんなにも広い。
行ったことのない国がある。
見たことのない景色がある。
知らない人間が暮らしている。
いつか行ってみたい。
全部を見ることはできなくても、ここではない場所へ行ってみたい。
「ゼディ」
「ん?」
隣からルディが覗き込んでいた。
「それ、面白いですか?」
「面白いよ。世界がいっぱいある」
「世界は一つですよ……」
「国がいっぱい。外についてたくさん書かれてる」
「そう」
ルディはあまり興味がなさそうだった。
なんなら、俺が外の話をするといつもとことんつまらなさそうな顔をする
「ルディのは?」
「魔術についてですね」
「面白い?」
「面白いです」
今度はルディが即答した。
俺も魔術教本を覗き込む。
攻撃魔術。
治癒魔術。
召喚魔術。
魔力。
詠唱。
魔法陣。
聞いたことのない言葉が並んでいる。
「魔術って、本当にあるの?」
「あります。母さんが使えます」
ルディが言った。
確かに母さんは治癒術が使えるはずだ。
ルディが頭から転げ落ちた時に手を当ててくれたことがある。
柔らかな光が灯り、痛みが消えた。
あれが魔術だったのだろう。
「ルディもやるの?」
「まだ読んでる途中ですけど、やってみたいですね」
「やるなら教えて」
「……うん」
返事まで少し間があった。
何か企んでいる顔だった。
それでも俺は、すぐに魔術教本を読む気にはならなかった。
『世界を歩く』の次は、『三剣士と迷宮』を読んだ。
三人の剣士が、剣一本で魔物を倒していく。
使う剣も、戦い方も違う。
一人は相手を圧倒するように攻める。
一人は相手の力を受け流す。
一人は一瞬の隙を突く。
父さんが庭で振っている剣にも、こうした違いがあるのだろうか。
物語を読んだ後で父さんの訓練を見ると、以前とは違って見えた。
足の位置。
腰の動き。
剣を振る直前の呼吸。
俺は窓辺に立ち、父さんの動きを何度も目で追った。
「ゼディも剣をやりたいのか?」
訓練を終えた父さんが聞いてきた。
「やりたい」
「そうか!」
父さんは満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり俺の息子だな!もう少し大きくなったら、俺が教えてやる!」
「ほんと?」
「ああ。お前には剣神流を覚えて欲しいが、やりたいなら水神流も北神流も、全部だ!」
「あなた、二歳の子に何を教えるつもりですか」
母さんが家の中から呆れた声を上げた。
「今すぐじゃないぞ!」
「木剣を持たせようとしていたでしょう?」
父さんの手には、小さく削った木の棒があった。
「これは、その……準備だ」
「没収です」
「あっ」
木の棒は母さんに取り上げられた。
父さんは悲しそうだった。俺も悲しい。
◇
それから一年ほどが過ぎた。
俺たちは三歳になっていた。
文字はかなり読めるようになった。
簡単な文章なら書くこともできる。
俺は5冊の本を何度も読んだ。
特に『世界を歩く』と『三剣士と迷宮』は、内容をほとんど覚えてしまうほどだった。
ルディは『魔術教本』を繰り返し読んでいた。
他の本も読む。
けれど、最後には必ず魔術教本へ戻ってくる。
時折、俺が近づくと本を閉じることもあった。
「何読んでるの?」
「魔術教本ですよ」
「それは見れば分かるよ」
「じゃあ聞かなくていいじゃないですか」
言葉遣いまで、ますます子供らしくなくなっていた。
「魔術、やらないの?」
「まだ」
「ずっと読んでる」
「先に覚えてるんですよ」
「何を?」
「いろいろです」
ルディはそれ以上教えてくれなかった。
昔から妙に秘密が多い。
俺も無理に聞こうとはしなかった。
兄弟とはいえ、何でも一緒にする必要はない。
俺には俺の好きなものがある。
ルディにはルディの好きなものがある。
それに、俺はルディのことを兄弟として、家族として好きだからだ。
関係が壊れることを望んでいないし、ルディが秘密にしたいことを無理に暴く必要なんてない。
その頃、俺たちには別々の部屋が与えられていた。
同じ家にいるし、互いの部屋を行き来することも多い。
けれど眠る時や一人で本を読む時は、それぞれ自分の部屋を使う。
ルディが自室で何をしているのか、俺は知らなかった。
少なくとも──その日までは。
◇
その日の午後。
俺は自分の部屋で『世界を歩く』を読んでいた。
何度も読んだ本だ。
それでも、新しく気付くことがある。
魔大陸。
ミリス大陸。
ベガリット大陸。
天大陸。
地図の端に描かれた土地は、挿絵だけでも俺の想像をかき立てた。
魔族の住む荒野。
巨大な森。
砂に覆われた大地。
空に近い高山。
俺は指で地図をなぞる。
ここから一番遠い場所はどこだろう。
歩いて行けるのだろうか。
海はどうやって渡るのだろう。
そんなことを考えていると、隣の部屋から物音がした。
ばしゃり。
水を床へぶちまけたような音だった。
「……?」
ルディの部屋だ。
少し待つ。
……何も聞こえない。
以前なら気にしなかったかもしれない。
けれど妙に胸騒ぎがした。
「ルディ?」
声を掛ける。
返事はない。
本を置き、部屋を出る。
隣の扉は、少しだけ開いていた。
「入るよ」
返事を待たずに扉を押す。
最初に目へ入ったのは、濡れた床だった。
木の床に水が広がっている。
倒れた桶はない。
水差しも机の上に置かれたまま。
それなのに、床だけが濡れていた。
「何これ……」
次に、床へ落ちた魔術教本が見えた。
そして。
「ルディ?」
兄が倒れていた。
本の傍ら。
右手を前へ伸ばしていたような姿勢のまま、床に伏せている。
一瞬、何が起きているのか分からなかった。
眠っている。
そう思おうとした。
けれどベッドではない。
床は濡れている。
魔術教本は開かれたまま落ちている。
「ルディ」
近づき、肩へ触れる。
返事がない。
「ルディ?」
もう一度、少し強く揺する。
身体は温かい。
息もしている。
それでも起きない。
胸の奥が、急に冷たくなった。
「ルディ、起きて」
頬へ手を当てる。
「ねえ」
返事はない。
「ルディ!」
声が大きくなった。
それでも動かない。
さっきまでの胸騒ぎが、はっきりした恐怖に変わった。
兄が死ぬ。
なぜか、そんな考えが浮かんだ。
死ぬということを、俺は知っている。
どこで覚えたのかは分からない。
本で読んだからかもしれない。
以前の記憶の残りなのかもしれない。
人は死ぬと動かなくなる。
話さなくなる。
二度と目を開けなくなる。
そういうものだと知っていた。
「いやだ」
口から言葉が漏れた。
「起きてよ、ルディ」
肩を揺する。
「ルディ……!」
正直、兄は嫌な奴だ。
多分俺のことはあまり好きじゃないはずだ。
何を考えているのか分からない。
俺に隠し事をする。
外へ出ようと誘っても、嫌そうな顔をする。
父さんがふざけても、俺ほどは笑わない。
俺がいないと笑ってたかも。
それでも、生まれた時から隣にいた。
最初に触れたのも、ルディの手だった。
兄なのだ。
いなくなるなんて考えられなかった。
「かあさま!」
俺は立ち上がった。
この時、これまで母さん、ママ、などふにゃふにゃした呼び方をしていた俺が初めてルディのように母さんのことを"かあさま"と呼んだ気がする。
急ぎすぎて足がもつれそうになる。
扉を開け、廊下へ飛び出す。
「かあさま!リーリャ!」
階段へ向かいながら叫ぶ。
「ど、どうしたの、ゼディ?」
下から母様の声がした。
いつもの俺の様子と違い、母様も少し驚いているようだった。
「ルディが!」
喉が詰まる。
上手く説明できない。
「ルディが、起きない!」
母様の顔色が変わった。
「リーリャ!」
「はい!」
二人が駆け上がってくる。
俺は母様の手を引いた。
「こっち!」
部屋へ戻る。
母様は倒れたルディを見るなり、すぐに抱き上げた。
「ルディ!」
胸へ耳を当てる。
口元へ手を近づける。
「息はあります」
リーリャが言った。
「熱も……ないようですね」
「どうして倒れているの?」
母様が周囲を見回す。
床の水。
落ちた魔術教本。
伸ばされた右手。
リーリャが眉を寄せた。
「まさか……」
「何?」
「いえ、まずはベッドへ」
二人はルディを運んだ。
俺もついていこうとする。
けれど濡れた床で足を滑らせた。
「わっ」
転びそうになったところを、リーリャが支えてくれる。
「ゼディウス坊ちゃま、お気をつけください」
「ルディは?」
「大丈夫です。呼吸は安定しています」
「ほんと?」
「はい」
リーリャははっきり答えた。
俺を安心させるためだけの言葉ではない。
そのことが表情から分かった。
それでも胸のざわめきは消えなかった。
◇
しばらくして、父様も呼ばれた。
ルディはベッドで眠っていた。
母様が傍らに座り、何度も額へ手を当てている。
「ただの疲れじゃないのか?」
父様が言った。
「床で倒れていたのよ」
「遊んでるうちに寝たとか」
「床が水浸しでした」
リーリャの言葉に、父様は床を見た。
「水差しを倒したんじゃないのか?」
「水差しは机の上にありました」
「じゃあ、漏らしたとか」
「こんなに大量に?」
「いや……そうだな」
父様は腕を組む。
俺はベッドの傍で、ルディの顔を見ていた。
呼吸はしている。
顔色も悪くない。
眠っているだけに見える。
それでも、目を開けるまでは安心できなかった。
「ゼディ」
父様が俺の頭へ手を置いた。
「お前が見つけたのか?」
「うん」
「よく呼んでくれたな」
「ルディ、大丈夫?」
「ああ。大丈夫だ」
父様は笑った。
いつもより少し固い笑顔だった。
「お前の兄貴は、これぐらいじゃどうにもならない」
「ほんと?」
「本当だ。俺の息子だからな」
「私の息子でもあります」
母様が言った。
「あ、ああ。俺たちの息子だからだ……それに、お前のお兄ちゃんだからな」
父様は言い直した。
少しだけ、いつもの空気が戻った。
それから間もなく、ルディが目を開けた。
「……ん」
「ルディ!」
母様が顔を近づける。
「大丈夫?どこか痛いところはない?」
ルディは何度か瞬きをした。
周囲を見回す。
母様。
父様。
リーリャ。
そして俺。
「ゼディ……?」
「起きた」
胸の奥に溜まっていたものが、一気に抜けた。
「よかった……」
思わずベッドへ顔を伏せる。
泣くつもりはなかった。
けれど目が熱くなった。
「ゼディ?」
「ばか」
「え?」
「倒れるなら言ってよ」
「いや、倒れる前には言えないですよ」
ルディは困った顔をした。
そういうことを言っているんじゃない。
「何してたの?」
「本を読んでました」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあ、水は?」
ルディが黙った。
視線が一瞬だけ魔術教本へ向く。
その反応を俺は見逃さなかった。
「ルディ」
「眠たいです……」
ルディは目を閉じた。
明らかに誤魔化した。
「ねえ」
「ゼディウス坊ちゃま」
リーリャが俺の肩へ手を置く。
「ルーデウス坊ちゃまはまだお疲れです。今は休ませて差し上げましょう」
「でも」
「お目覚めになったのですから、もう大丈夫です」
その言葉を聞き、俺は渋々頷いた。
「……分かった」
ベッドから離れる。
扉へ向かう前に、もう一度ルディを振り返った。
目を閉じている。
けれど眠ってはいない。
瞼がわずかに動いていた。
何かを隠している。
それは間違いない。
◇
結局、その日は読書中に眠ってしまったことにされた。
床の水については、ルディがおねしょをしたのだろうという、かなり無理のある結論に落ち着いた。
母はまは二歳──ではなく、もう三歳なのだから、眠くなったらきちんとベッドへ行くようにとルディを叱った。
ルディは非常に不満そうだった。色々な意味で。
俺も、その説明を信じてはいない。
水はルディの身体の下だけでなく、前方へ広がっていた。
それに右手を伸ばした姿勢。
落ちた魔術教本。
魔術を使った。
きっと、そうだ。
あの本に書かれていた水の魔術。
ルディはそれを自分で試した。
そして倒れた。
そこまでは分かる。
けれど、なぜ隠すのだろう。
俺にも教えると言ったのに。
「ルディ」
夜。
寝る前に、兄の部屋を訪ねた。
「何ですか?」
ルディはベッドの中から答えた。
「今日、魔術使った?」
「使ってないですよ」
「嘘だ」
「使ってないです」
「じゃあ、あの水は?」
「……漏らした」
ルディは目を逸らした。
大変、不服そうだが。
「そんなに出ないよ」
「俺は出るんだ!」
流石にしつこいと感じたのか、この時初めて敬語が抜けた兄の言葉を聞いたかもしれない。
「変なの」
「……そういう体質なんです」
絶対に嘘だ。
「……もう倒れない?」
俺が聞くと、ルディはこちらを見た。
少し驚いたような顔だった。
「……たぶん」
「たぶんじゃだめ」
「気をつけますよ」
「本当に?」
「本当」
「約束」
「分かりました。約束です」
俺は手を伸ばした。
ルディもそれに伴って手を差し出す。
小指同士を絡める。
いつ覚えたのか分からない仕草だった。
前の世界の記憶かもしれない。
けれどルディも何も言わず、その意味を理解したように指を絡めた。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、ゼディ」
部屋を出る。
扉を閉じる前に、ルディが枕元の魔術教本へ目を向けた。
俺は気付かないふりをした。
この時の俺は、まだ知らなかった。
ルディがこの日を境に、毎日のように隠れて魔術を使い始めることを。
魔力を使い果たし。
眠り、再び起きて昨日より多くの魔術を使う。
そんな訓練を、誰にも知られないように続けることを。
そして俺自身も、少し遅れてその秘密へ足を踏み入れることになる。
この頃のルディは、俺より一歩先を歩いていた。
言葉も。
魔術も。
新しいものを見つける速さも。
けれど、不思議と悔しくはなかった。
俺が見たいのは、兄の背中だけではない。
窓の向こう。
地図の先。
この家の外へ続く、広い世界だ。
魔術がそこへ行くために必要なら、俺も覚える。
剣が必要なら、剣も振る。
まだ何も知らない三歳の俺は、そんなことを考えていた。
自分がいつか、遥か遠い土地へ飛ばされることも。
剣と魔術の両方を手に、数え切れない命を背負うことも。
もちろん、知るはずがなかった。