無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜   作:omugut

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第五話『窓の向こうの世界』

ロキシー先生がグレイラット家へ来てから、俺たちの生活と俺自身の心は大きく変わった。

 

朝食を終えると、午前中はロキシー先生とルディと魔術の授業。

昼食を挟み、午後からは父様との鍛錬。

夕方になれば自由時間。

夕食を食べ、風呂に入り、本を読んで、また少しロキシー先生から座学を学び眠る。

 

少し前まで、外を眺めているだけで一日が終わっていた。

それが今では、一日がいくらあっても足りない。

 

覚えたいことが、たくさんあった。

 

 

「腰が高い!」

 

「はい!」

 

「足を止めるな!止まったら転ぶぞ!」

 

「分かった!」

 

「分かったじゃなくて、はい!」

 

「はい!」

 

午後。

父様の声が庭に響く。

 

俺は庭の端から端まで走り、置かれた木の棒を飛び越えた。

着地。

 

そのまま身体を低くして、次の棒をくぐる。

少し先には、地面から突き出した杭が並んでいる。

その間を、ぶつからないように走り抜ける。

 

「よし、そのまま来い!」

 

最後に待っているのは父様だ。

 

最近は結構力がついてきたからか、父様も敵が迫ってくることを想定した鍛錬を用意してくれる。

俺が外の世界に興味を惹かれているからだと思う。

 

勿論、手加減はした上で。

 

俺が目の前まで来ると、父様は右手を伸ばした。

顔を狙っている。

俺は身体を横へ倒す。

 

父様の手が髪を掠めた。

 

「おっ」

 

避けられた。

そう思った瞬間、足を払われた。

 

「わっ!」

 

空が見えた。

背中から地面へ落ちる。

 

息が詰まった。

……手加減はしてくれているはず。

 

「止まるなと言っただろ」

 

「避けたのに……」

 

「一つ避けたからって安心するな。敵が一回しか攻撃してこないとは限らないぞ」

 

父様が手を差し出す。

俺はその手を掴み、起き上がった。

 

「もう一回」

 

「少し休め」

 

「まだできる」

 

俺は悔しいので食い下がらない。

 

「駄目だ。膝を見てみろ」

 

言われて足を見る。

確かに、膝が少し震えていた。

 

自分ではまだ動けるつもりだった。

 

「身体が動くのと、正しく動けるのは別だ。疲れた状態で無理をすると、変な癖がつく」

 

「癖?」

 

「こういうやつだ」

 

父様が剣を持つ真似をする。

腰が引け、肩だけで腕を振る。

 

「疲れてる時にこれを繰り返すと、身体が間違った動きを覚える。だったら休んだ方がいい」

 

「でも、いっぱいやった方が強くなるんでしょ?」

 

「いっぱいやればいいってもんじゃない。休むのも鍛錬のうちだ。それに、自分の体調くらい自分で管理しないと一人前とはいえないな」

 

少し意外だった。

父様なら、倒れるまで走れと言いそうなのに。

 

もっとも、自分が自分のことを1番わかっていないといけないのは当然だ。

……父様も時々突っ走ったりする部分があるからあまり言えてない気がするけど、大切なことなので頭に入れておく。

 

「父様も休むの?」

 

「俺は大人だからな」

 

「休まないの?」

 

「休む」

 

「じゃあ一緒だ」

 

「……そうだな」

 

父様は少し笑った。

 

「お前はルディより、身体の使い方が素直だ」

 

「ルディより?」

 

「あいつは頭で考えすぎる。動く前に色々考えて、身体が遅れる」

 

父様は家の方を見る。

少し離れた場所で、ルディが腕立て伏せをしていた。

 

一回。

二回。

三回目

……十回目辺りで腕が震え、地面へ倒れる。

 

三歳児で十回もできたら十分だろう。

今の所、俺の場合はルディよりも先に体力作りを始めていたこともあり、二十回でバテ始めると言ったところだろうか。

 

俺とルディの間には魔術の力で差がまだまだある。

しかし、体力面では逆の意味で差があった。

 

俺の方が先に始めたから、今はまだ俺の方が体力はあるだろう。

ただ、魔術の差は努力量だけでは埋まらないが、体力は努力量ですぐ埋まってしまう。

せめて、体力くらいは、剣術くらいは、ルディに何か勝ちたい。

 

ルディのことは大好きだし、大切だと思っている。すごい兄であることを理解しているから尊敬もしている。

だが、魔術がすごくて、頭もかなり良い兄を持つと、必然と何か一つくらいは勝ちたい!と稽古を始めてから思うようになった。

 

「ぐっ……」

 

「ルディ!そこで寝るな!あと二回だ!」

 

「無理です!」

 

「無理じゃない!」

 

「精神論で筋力は増えませんよ!」

 

「口を動かす余裕はあるようだな!」

 

ルディは父様に首根っこを掴まれ、無理やり起こされた。

小動物の親子みたいで俺は少し笑った。

もっとも、父様は小動物といえる器ではないほど大きいわけだが。

 

「何を笑ってる、ゼディ!お前は腹筋十回追加だ!」

 

「なんで!?」

 

「兄弟は連帯責任だ!」

 

「そんなのおかしい!」

 

「口答えでさらに五回!」

 

父様は理不尽だった。

だが、俺には俺の、ルディにはルディのその時できる量を見極めて与えている。

そういった辺り、見てくれるところは見てくれてるので、なんだかんだ良い父親で師匠なのだ。

 

 

ルディは、剣術の鍛錬があまり好きではないらしい。

運動そのものを嫌っているわけではない。

 

決められた回数はやる。

父様に言われれば走る。

最低限の努力は怠らない。

けれど、終わりの時間になれば真っ先に家へ戻った。

 

俺は逆だった。

鍛錬が終わっても、庭に残ることが多かった。

息を整えながら空を見る。

身体が疲れているのに、気持ちは軽い。

 

昨日より一歩だけ速く走れた。

父様の手を一度避けられた。

それだけで嬉しかった。

 

「ゼディは元気ですね」

 

家へ戻ろうとしない俺を見て、ロキシー先生が言った。

先生は木陰に座り、本を読んでいる。

 

「先生は鍛錬しないの?」

 

「わたしは魔術師ですから」

 

「魔術師は走らない?」

 

「必要なら走ります」

 

「父様は、魔術師も体力が必要って言ってた」

 

「パウロさんは何でも筋肉で解決しようとする傾向があります」

 

「そうなの?」

 

「そうです」

 

先生は本から顔を上げない。

 

「けれど、体力があって困ることはありません。旅をするなら、なおさらです」

 

「旅」

 

その言葉に反応する。

 

「先生は、いろんな場所へ行った?」

 

「それなりには」

 

「海を見た?」

 

「見ました」

 

「魔大陸も?」

 

「わたしは魔大陸の生まれです」

 

「砂しかない国は?」

 

「ベガリット大陸のことでしょうか。そこへはまだ行ったことがありませんね。迷宮があるようですが」

 

「空に近い山は?」

 

「天大陸ですね。あそこもありません。なかなか住んでいる種族も含めた珍しい場所みたいですね」

 

「じゃあ、まだ知らない場所がある?」

 

「当然です」

 

先生がようやく本を閉じた。

 

「世界は広いです。わたしが知っていることなど、その一部でしかありません」

 

その言葉を聞くだけで胸が高鳴った。

ロキシー先生は、俺が本でしか知らない場所を実際に歩いたことがある。

それでも、まだ知らない場所がある。

 

「俺も旅できる?」

 

「大人になれば」

 

「魔術を覚えたら?」

 

「魔術だけでは旅はできません」

 

「剣も?」

 

「剣だけでもできません」

 

「じゃあ、何がいるの?」

 

「知識とお金。それから、危険を見極める力です」

 

先生は指を一本ずつ立てる。

 

「どれだけ強くても、食料がなければ倒れます。道を知らなければ迷います。相手が自分より強いと分からなければ、逃げることもできません」

 

「強ければ、全部倒せるんじゃない?」

 

「世界には、パウロさんより強い人もたくさんいます」

 

「父様より?」

 

「たくさん、というのは少し言いすぎかもしれませんが、確実にいます」

 

「先生より強い人も?」

 

「います」

 

先生はあっさり認めた。

 

「強さだけで世界を測ってはいけません。外へ出たいなら、まずは世界を知ることです」

 

「じゃあ、ロキシー先生の知ってる場所、沢山教えて!」

 

「そうですね。私のこれまで行った場所でよろしければ」

 

ロキシー先生が話してくれれば何に対しても俺は楽しく聞き、浮かぶ疑問が尽きないうちは質問を繰り返し続けた。

その日は、ロキシー先生とこれまで以上に話をした気がする。

 

「ロキシー先生、俺といつか旅、してね。まだ行ったことのない場所に2人で行こうね」

 

なぜこう話したかは自分でもわからない。

ただ、外の世界の話をしてくれるロキシー先生がとても素敵に見えたのかもしれない。

 

「ゼディが旅に出れるような年齢になって、あと十数年して気が変わらなかったらまた声をかけてくださいね」

 

そう言ってぶっきらぼうに頭を撫でられた。

 

その日から、俺は魔術の授業と同じくらい、先生がする旅の話を楽しみにするようになった。

 

 

魔術の授業も、少しずつ難しくなっていった。

最初は一つの魔術を作り、飛ばすだけだった。

 

水弾。

火球。

風の刃。

土の塊。

 

それぞれの形を覚え、大きさを変え、速さを変え、狙った場所へ当てる。

 

ルディは、どの系統でも器用だった。

一度教われば、すぐに形を再現する。

そこから自分なりに変化させ、先生が教えていないことまで試し始める。

 

「ゼディ、見てください」

 

「何?」

 

ルディの手のひらに小さな水球が浮かんでいる。

その隣には火。

 

「水と火を一緒にします」

 

「消えるんじゃない?」

 

「普通にぶつければ、そうですね」

 

ルディが二つをゆっくり近づける。

火は水へ触れる前に弱くなった。

代わりに、水球から白い湯気が上がる。

 

「お湯?」

 

「そうです」

 

ルディが桶へ水球を落とす。

指を入れてみると、温かい。

 

「すごい」

 

「火で水を温めただけですけどね」

 

「魔術が二ついる」

 

「同時に使うと、かなり疲れます」

 

ルディは少し得意そうだった。

俺も真似をしてみる。

 

右手に水。

左手に火。

 

水球は作れる。

火も問題ない。

 

けれど二つ同時となると、意識が左右へ引っ張られる。

火へ集中すると水が崩れ,水を保とうとすると火が大きくなる。

 

「あっ」

 

火が水へ飛び込んだ。

じゅっ、と音を立てて両方消える。

 

「難しい」

 

「別々に考えすぎなんです」

 

「別々の魔術だよ?」

 

「最初はそうです。でも、最終的に一つの結果を作るなら、一つの魔術みたいに考えた方がいい」

 

「一つ……」

 

水を作る。

その水を温める。

 

二つの作業ではなく、最初から温かい水を作る。

そう考える。

 

手のひらに小さな水球が生まれた。

表面から、僅かに湯気が立つ。

 

「できた」

 

「……早いですね」

 

ルディが少し嫌そうな顔をした。

 

「ルディが教えたから」

 

「それでも、もう少し苦戦すると思いました」

 

「火がある方が分かりやすい」

 

「また火ですか」

 

横で見ていたロキシー先生が近づいてくる。

 

「複合魔術は、一つの系統だけを使うより多くの魔力を消費します。今は小さな規模に留めてください」

 

「はい」

 

「ルーデウスもです。勝手に浴槽いっぱいのお湯を作ろうとしないように」

 

「考えていただけです」

 

「顔に出ています」

 

先生はルディの考えをよく読む。

 

 

水と火を組み合わせれば、お湯ができる。

水から熱を奪うように意識すれば、氷ができる。

土へ水を混ぜれば、泥になる。

泥から水分を抜けば、硬い土になる。

風を使えば、火の勢いを強くできる。

逆に火の周囲から空気を遠ざければ、火を弱められる。

 

魔術は、本に書かれた技をそのまま使うだけではなかった。

考え方次第で、できることが増える。

 

俺は特に、火を別の魔術と組み合わせるのが好きだった。

 

火と風。

炎を風に乗せて伸ばしたり、熱い風を吹かせることができる。

 

火と土。

土の塊を熱し、表面を硬くする。土以外の硬い鉱物を作ることだってできる。

 

火と水。

お湯を生み出すことができる。

 

魔力切れを起こすまでやることがあるので、しばしば先生に止められながらも、何度も試した。

 

「火の扱いが上達しましたね」

 

「上級できるかな?」

 

「ゼディは急ぐ癖があるので、まだ教えられないですね」

 

「もう少し?」

 

「段階というものを軽く考えないでください」

 

「でも、前より大きくできるようになった」

 

「それだけでは駄目です」

 

先生は小さな炎を生み出した。

爪の先ほど。

揺れもほとんどない。

 

「大きな火を作るより、この大きさを一定に保ち続ける方が難しい場合もあります」

 

「保つくらい簡単そうなのに」

 

「魔術は小さく、細かく、正確にしようとするほど、制御と魔力が必要になります」

 

俺も真似をする。

 

指先に火を灯す。

少し小さくする。

さらに小さく。

 

消えそうになる。

消さないように力を注ぐと、今度は大きくなった。

 

「むずかしい」

 

「だから練習するのです」

 

ルディは隣で、針の先ほどの水滴を作ろうとしていた。

水滴が震え、弾ける。

 

もう一度。

 

今度は少し小さい。

失敗しても、すぐに繰り返す。

 

俺も負けたくなかった。

火を小さくする。

保つ。

 

大きくなれば抑え。

消えそうになれば、ほんの少しだけ力を足す。

夕方になる頃には、指先ほどの炎をしばらく保てるようになっていた。

 

その代わり、身体がひどく重くなった。

 

「今日はここまでです」

 

「まだできる」

 

「駄目です」

 

「もう一回だけ」

 

「倒れたら、明日の授業は休みにします」

 

「やめる」

 

翌日の授業を失う方が嫌だった。

 

 

夜になると、家は静かになる。

 

父様と母様。

リーリャ。

ロキシー先生。

ルディ。

俺。

 

皆がそれぞれの部屋へ戻る。

 

俺とルディは、ロキシー先生が来てから同じ部屋を使うようになった。

もともと二人に一部屋ずつ与えられていたが、先生の部屋が必要になったからだ。

 

俺は特に不満はなかった。

ルディはどこか気まずそうにしてたけど。

生まれた時から、ルディは隣にいた。

むしろ別々の部屋になった時の方が、少し変な感じがしていた。

 

「ルディ、まだ寝ないの?」

 

「もう少しだけ」

 

ルディは小さな水球をいくつも浮かべている。

 

昼間の授業が終わっても、魔力が残っている限り練習するらしい。

 

「先生、限界までやるなって言ってたよ」

 

「限界の少し手前で止めます」

 

「分かるの?」

 

「最近は分かるようになりました」

 

「倒れない?」

 

「倒れません」

 

「約束」

 

「分かってます」

 

俺はベッドへ入った。

ルディが魔術を使う小さな音を聞きながら目を閉じる。

 

しばらくすると、どこからか、ぎし、ぎし、と音が聞こえてきた。

 

「……何の音?」

 

目を開ける。

 

「気にしなくていいですよ」

 

ルディは素っ気なく答えた。

音は父様と母様の寝室から聞こえてくる。

時折、母様のあん、とか、あなた!とかいう声も混じる。

どこか辛そうだ。

 

「母様、痛いのかな」

 

「違います」

 

「じゃあ、何してるの?」

 

「運動です」

 

「夜にも鍛錬するの?」

 

「そういうものです」

 

「父様、昼も鍛錬してるのに」

 

「元気なんでしょう」

 

よく分からなかった。

ただ、ルディ曰く、母様は苦しんでいるわけではないらしい。

ルディが妙に落ち着いているので、そう判断した。

 

ルディはなんでも詳しい。

 

何日か経つと、音にも慣れた。

夜になると時々聞こえる。

 

しばらく続き、やがて止まる。

俺やルディがトイレに行く時も音はピタリと止まる。

 

何をしているのか尋ねても、父様も母様も顔を赤くするだけだった。

リーリャへ聞くと、

 

「お二人は仲がよろしいのです」

 

と涼しい顔をして答えた。

仲が良いと、部屋が軋むらしい。

 

不思議だった。

 

 

ある夜。

俺は水を飲むため、部屋を出ようとした。

 

すると扉が開いていた。

どうやら、ルディが先に扉を開けて廊下へ出ていたようだ。

 

抜き足。

差し足。

忍び足。

 

音を立てないように廊下へ出る。

 

「ルディ?」

 

「しっ」

 

口元へ指を当てられる。

 

「んん!?ぐるじ!……何してるの?」

 

唐突に手を当てられたことで、俺が苦しそうにしたらすぐに手は離された。

ちょっと申し訳なさそう。

 

「トイレです」

 

「どうして静かにするの?」

 

「両親を驚かせないためです」

 

よく分からない。

俺も後ろからついていった。

 

「ゼディは来なくていいですよ」

 

「水飲む」

 

「後にしてください」

 

「喉乾いた」

 

「……では、静かに」

 

廊下は暗かった。

窓から入る月明かりだけが、床を薄く照らしている。

 

父様たちの部屋からは、いつもの音が聞こえていた。

 

その部屋の前に、誰かがいた。

 

青い髪。

──ロキシー先生だ。

 

扉の近くへ座り込み、隙間から中を見ている。

 

先生の頬は赤かった。

俺たちの存在には気づいていない。

 

ローブの中で、片手を落ち着きなく動かしていた。

具合が悪いのだろうか。

 

「先生、何して──」

 

言い終わる前に、ルディにまた口を塞がれた。

声をかけてはいけなかったのだろうか、瞬間的にそれを察し、苦しいが黙る。

そのまま肩を掴まれ、部屋まで引き戻される。

 

扉が静かに閉じられた。

 

「何するの」

 

「見なかったことにしてください」

 

「先生、変だった」

 

「大人には色々あるんです」

 

「お腹痛いの?」

 

「そういうことにしておきましょう」

 

「母様たちの部屋を見てた」

 

「忘れてください」

 

「でも」

 

「忘れるんです」

 

ルディは妙に真剣だった。

 

「先生に言わない方がいいの?」

 

「絶対に言わない方がいいです」

 

「分かった」

 

理由は分からない。

けれど、先生に知られたくないことなのだろう。

俺はその晩の出来事を、誰にも言わなかった。

 

何年か後。

身体が成長し、男女の営みについて学んだ頃。

 

俺はふと、この夜のことを思い出す。

そして一人で頭を抱えることになるのだが……。

 

この時の俺には、ロキシー先生が何をしていたのか理解できなかった。

隣ではルディが、何やら満足そうな顔をしていた。

 

「ルディ、楽しそう」

 

「気のせいです」

 

「笑ってる」

 

「笑っていません」

 

「変なの」

 

ルディはやはり変な兄だった。

 

 

ロキシー先生が来てから、四か月ほどが経った。

俺とルディは、いくつかの中級魔術を扱えるようになっていた。

 

もっとも、同じ中級でも差はある。

ルディは水、火、風、土の全てを器用に使う。

 

無詠唱で形を作り、大きさを変え、速度を調整する。

 

先生が一度見せれば、それを自分なりに分解して覚える。

俺は、ルディほど全てを均等には使えなかった。

 

水はまだ少し苦労する。

特に、複雑な形を保ちながら動かすのが難しい。

 

土は分かりやすい。ルディの真似をして遊んでいる過程で、少し扱いが上手くなった気がする。

風も身体を動かす感覚に近く、嫌いではない。

 

そして火だけは……。

教わるほどに、手足のように馴染んでいった。

 

「炎壁」

 

詠唱と同時に、地面から炎が立ち上がる。

中級の火魔術。

初めて中級魔法で覚えた魔術だ。

 

高さは俺の背丈ほど。

横幅は、両手を広げた程度。

 

先生が見せたものよりは小さい。

けれど形は崩れていない。

 

「維持してください」

 

「はい」

 

炎の高さを揃える。

風で揺れても、中心を保つ。

 

「今度は右側だけ弱く」

 

右の力を低くする。

 

「左側を強く」

 

左へ力を送る。

炎が大きくなる。

 

「消して」

 

意識を切る。

炎は一瞬で消えた。

焦げた地面から煙が上がる。

 

「よくできました」

 

「中級、できた?」

 

「今の魔術については合格です」

 

「やった!」

 

「ただし、威力を上げすぎないように。火魔術は、制御を失えば周囲へ被害が出ます」

 

「はい」

 

「ゼディウスは火を怖がらなさすぎます」

 

「自分の火だから」

 

「自分の魔術でも、失敗すれば自分を焼きます」

 

先生は少し厳しい顔をした。

 

「得意だからこそ、慎重になってください」

 

得意だからこそ。

その言葉を覚えておく。

 

ふと、ルディが先に水の中級魔術を使った時、家の壁を壊したことを思い出した。

火なら、壁だけでは済まないかもしれない。

 

「分かりました」

 

俺が答えると、先生は頷いた。

 

 

魔術の実技が進むにつれ、夜には座学も行われるようになった。

 

父様との鍛錬。

魔術の練習。

夕食。

 

その後、俺とルディは机へ並んで座る。

ロキシー先生が向かい側に立ち、授業用に用意された魔術に関する本を開く。

 

内容は魔術だけではなかった。

歴史。

地理。

種族。

魔物。

魔獣。

魔道具。

 

先生は、俺たちが質問すれば何でも答えてくれた。

 

知らないことは、知らないと言う。

曖昧なことは、曖昧だと教える。

その上で、先生が知っている範囲を丁寧に説明してくれた。

 

「人族以外にも、たくさん人がいるの?」

 

俺が尋ねる。

 

「はい」

 

先生は黒板へ文字を書く。

 

「長耳族。炭鉱族。獣族。海族。そして、魔族と呼ばれる様々な種族です」

 

「先生も魔族?」

 

「そうです。正式には、魔大陸ビエゴヤ地方に暮らすミグルド族です」

 

俺は先生の青い髪を見る。

空とか海みたいな綺麗な色だと思う。

人族とは大きく違う。けれど、先生は先生だ。

 

「ミグルド族は、みんな青い髪?」

 

「概ねそうです」

 

「先生みたいに小さい?」

 

「小さくありません」

 

「でも、父様よりずっと小さい」

 

「パウロさんと比べないでください」

 

「母様よりも」

 

「ゼディウス」

 

「はい」

 

先生の目が少し怖くなった。

それ以上は言わない方がいいらしい。

 

「魔族と人族は、仲が悪いのでしょうか?」

 

ルディが聞いた。

 

「昔ほどではありません。ですが、良いとも言えません」

 

「戦争があったから?」

 

「そうです」

 

先生は、ラプラス戦役と人魔大戦について話した。

およそ8000年前から人族と魔族は戦争を繰り返しているらしい。

 

魔神ラプラスが魔族を率い、人族と戦争をしたこと。

戦いは長く続き、多くの土地が荒れ、たくさんの命が失われたこと。

そして七人の英雄がラプラスを倒し、戦争を終わらせたこと。

 

どの世界でも戦争は何も生み出さないように感じる。

……漠然とだが、なぜかそう感じた。

 

「ペルギウスもでてきた?」

 

「よく知っていますね」

 

「本で読んだ」

 

「そうです。現在も生きているとされる、甲龍王ペルギウスもその一人ですね」

 

「今も生きてるの?」

 

「そう言われています」

 

「会える?」

 

「簡単には会えません」

 

「どこにいるの?」

 

「空中城塞ケイオスブレイカーで、世界を巡っているそうです」

 

空を飛ぶ城。

本に描かれた物語ではなく、本当に存在するらしい。

 

「見たい」

 

「運が良ければ、いつか遠くから見られるかもしれません」

 

「中に入りたい」

 

「それはもっと難しいでしょうね」

 

「どうすれば入れる?」

 

「まずは、ペルギウス様に招かれるほどの人物になってください」

 

どんな人物なら招かれるのだろう。

 

強い人。

偉い人。

世界を救った人。

 

今の俺には想像もできなかった。

 

先生も実は魔族なんだという話から、魔族の話に戻り、先生は魔族の中でも、特に恐れられている種族について話してくれた。

 

「それで結局、魔族という種族の定義はどうなっているのでしょうか?」

 

ルディがそう聞いた。

確かに、俺たちだって魔術が使えるからあまり魔族も人族も関係ないような。

語源と定義がわからないからなんともいえない。

 

「魔族というのは、結構定義が難しいのです。『一番新しい戦争で魔族側についていた種族』というのが一番わかりやすいでしょうか。例外もあるんですが……」

 

「じゃあ、さっき話したラプラス戦役がそうなの?」

 

「よく勉強してますね。その通りです」

 

「もっと魔族の種類とか知りたい」

 

「魔族の中にも良い魔族と悪い魔族はいるんですか?」

 

俺がアバウトな疑問を持ったからだろう。

ルディが答えやすい質問を聞いてくれた。

 

「そうですね……。魔族は一般的に、緑に近い髪色を持つ種族ほど凶暴で危険だと言われています。特にわたしの髪は、光の加減では緑に見えなくもないですから……。パウロさんやゼニスさんも初めてお会いした時は驚いていたでしょう?」

 

「あれは先生が小さいから驚いたのでは?」

 

「小さくありません。驚いたのは髪の色のせいです」

 

ルディは時に良いことを言ったかと思えば、時に失礼なことを言う。

先生は小さいと言われるといつも、む、とする。

そんな仕草もどこか可愛いと思えてしまう。

やはり、小さいからだろうか。

 

「先生の髪は綺麗ですよ」

 

ロキシー先生が少しむっとしていたこともあり、急にルディはこちらも恥ずかしくなるようなセリフを言う。

この家限定かはわからないけど、父様も母様もルディも平然とこういう甘い言葉をすっと口に出す。

 

「…………ありがとうございます。でも、そういう事は将来好きな子ができた時に言ってあげてください」

 

「僕、先生のこと、好きですよ」

 

……迷わず言うじゃないか。

俺なら言えないようなこと、できないようなことをやってのけるのがルディだ。

 

「そうですか。あと十数年した時に考えが変わらなかったらもう一度言ってください」

 

いつか、俺が先生に旅をしようと言った時のようにルディに返す。

 

「はい、先生」

 

ルディもノリノリで返事する。

 

……俺はなぜかそのやりとりに対して、あまり面白いと思えなかった。

いつもは先生の話はなんだって面白いのに……。

 

「兎に角、二人とも!エメラルドグリーンの髪と、額に赤い宝石を持つ魔族を見たら、決して近づいてはいけません」

 

「どうして?」

 

「スペルド族だからです」

 

先生の声が少し低くなる。

 

「スペルド族は、ラプラス戦役で敵味方を問わず殺したと伝えられています。戦争が終わった後も恐れられ、世界から恐れられ、避けられています」

 

「そんなに嫌われているんですか?」

 

俺も思ったことをルディが聞いてくれる。

 

「そんなにです。……敵味方問わず殺したという以外にも、味方の魔族の集落を襲って女子供を皆殺しにしたりとか、兎に角殺しについてのそういう逸話を子供の頃に何度も聞きました。夜遅くまで起きていると、スペルド族がやってきて食べてしまうぞ、と」

 

俺はこの手の子供騙しな迷信は信じないので、最後のものは早く寝ない子供への迷信だろうと理解した。

先生も夜、なかなかに寝るのが遅かった子供なのだろうと考えると少し可愛くて、思わず笑ってしまいそうだ。

 

けど、

 

「本当にスペルド族は悪かったのかな」

 

ふと思った。

俺が聞くと、先生は少し黙った。

 

「……分かりません」

 

意外な答えだった。

 

「先生も会ったことない?」

 

「ありません。会ったら泣いて逃げてしまうかもしれないです」

 

「じゃあ、悪いか分からないよね」

 

意地悪な言い方をしてしまったかもしれない。

 

「……たしかに、伝承が全て正しいとは限りません。ですが、危険だという話があまりにも多い。子供に対して、確かめてから判断しろとは言えません」

 

「会ったら逃げる?」

 

「はい」

 

「話しかけられたら?」

 

「相手を刺激せず、丁寧に応じてください。隙を見て離れるのです」

 

「怒らせたら?」

 

「家族ごと殺されるかもしれません」

 

家族。

その言葉に、身体が固くなった。

 

父様。

母様。

リーリャ。

ルディ。

……ロキシー先生。

 

誰かに傷つけられる姿を想像する。

嫌だった。

 

思わずルディをぱっと見ると、偶然かルディも俺の方を見ていた。

 

「俺が強くなったら、守れる?」

 

「相手の強さも分からないうちから、戦うことを考えてはいけません」

 

「でも、逃げられなかったら?」

 

「その時のために、学ぶのです」

 

先生は俺を見つめる。

 

「戦う方法だけではありません。逃げる方法。話す方法。危険を避ける方法。知らなければ、選ぶこともできません」

 

「……はい」

 

「強さとは、敵を倒す力だけではありません」

 

その言葉も、胸に残った。

 

父様は身体と剣を教える。

ロキシー先生は魔術と世界を教える。

 

二人の言う強さは、少し違う。

けれど、どちらも必要なのだと思った。

 

 

授業が終わった後。

俺は庭に出た。

 

夜空には星が広がっている。

 

家の中からは、ロキシー先生とルディの声が聞こえた。

ルディはまだ、先生へ何か質問しているらしい。

 

俺は草の上へ座り、空を見上げる。

 

……この空の向こうではない、この同じ空の下に、ミグルド族が暮らす土地がある。

獣族が住む大森林がある。

空を飛ぶ城がある。

四百年前の戦争の跡がある。

恐ろしいとされるスペルド族が、今もどこかを歩いているかもしれない。

 

本で読んでいた世界が、先生の話を聞くたびに本物の場所へ変わっていく。

 

「ゼディ」

 

振り返る。

ルディが立っていた。

 

「何してるんです?」

 

「世界見てる」

 

「庭から見えるのはせいぜいブエナ村の麦畑と、空だけですよ」

 

「この空、全部の国とか世界につながってる」

 

「まあ、そうですけど」

 

ルディは俺の隣へ座った。

珍しい。

今日は自分から外へ出てきた。

 

「寒くない?」

 

「少し」

 

「戻る?」

 

「もう少しだけなら」

 

二人で空を見る。

 

「あの星、魔大陸からも見えるかな」

 

「距離や角度によって、見え方は変わるでしょうね」

 

「同じ星もある?」

 

「たぶん」

 

「先生も小さい頃、見てたかな」

 

「どうでしょう」

 

ルディは興味がなさそうな口調だった。

それでも部屋へ戻ろうとはしない。

 

「ルディは、外に行きたくない?」

 

「今は別に」

 

「いつかは?」

 

「……分かりません」

 

「俺は行きたい」

 

「知ってます」

 

「一緒に行く?」

 

ルディが黙る。

以前なら、すぐに断っただろう。

けれど今は空を見たまま、少しだけ考えていた。

 

「その時になったら考えます」

 

「そっか」

 

断られなかった。

それだけでよかった。

 

「その時は俺が守るね」

 

俺が言うと、ルディがこちらを見た。

 

「何からです?」

 

「魔物とか、スペルド族とか」

 

「スペルド族を相手に戦うつもりですか?」

 

「逃げられなかったら」

 

「三歳児が言うことじゃありませんね」

 

「ルディも三歳だよ」

 

「そうでした」

 

「ルディは魔術で守って」

 

「ゼディは?」

 

「剣と火」

 

「まだまともな剣も持たせてもらってないのに?」

 

「これから強くなる」

 

俺は両手を握る。

 

「父様から剣を習って、先生から魔術を習って、世界のことも覚える」

 

「欲張りですね」

 

「ルディは欲張らないの?」

 

「俺は……」

 

ルディは少し考えた。

 

「魔術なら、誰にも負けたくありません」

 

「じゃあ一緒だ」

 

「どこがです?」

 

「二人とも強くなりたい」

 

「理由は随分違うと思いますけどね」

 

それでも、同じところは少しくらいある。

俺たちは、グレイラットの双子なのだから。

 

「ゼディ」

 

「なに?」

 

「さっき言ったこと」

 

「守る?」

 

「はい」

 

ルディは少し気まずそうに目を逸らした。

 

「俺の方が兄なので、守るのは俺です」

 

「二人で守ればいいよ」

 

「……そういうことにしておきます」

 

また空を見る。

 

先生から教わった世界は、広く、危険で、知らないもので溢れている。

だからこそ、行ってみたかった。

 

父様と鍛えた身体。

先生から教わった魔術。

ルディと学んだ知識。

 

まだどれも、小さな力にすぎない。

それでも、昨日の俺より今日の俺の方が少しだけ遠くへ行ける。

そんな気がした。

 

ロキシー先生が来て、四か月。

 

俺は魔術だけではなく、世界の広さと、強さの意味と、兄と並んで歩く方法を少しずつ学び始めていた。

 

まだこの頃の俺は、家の外に広がる世界をほとんど知らない。

けれど先生は、本の中にしかなかった場所へ名前を与え、そこに人が暮らし、争い、笑い、生きているのだと教えてくれた。

 

窓の向こうは、ただ遠いだけの景色ではない。

いつか自分の足で辿り着ける場所なのだと。

そう思わせてくれたのは、ロキシー先生が初めてだった。

 

──だからきっと、この先、俺がどれだけ遠くへ行っても、どれだけ多くの国を見て、どれだけたくさんの人と出会っても。

……世界へ向かう最初の扉を開いてくれたこの人のことだけは、忘れない。

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