無冠転生〜もう一人のグレイラットも本気出す〜   作:omugut

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第七話『それぞれの一歩』

翌朝。

 

目を覚ますと、隣のベッドはもう空になっていた。

けれど、ルディの姿がないわけではない。

 

窓の前。

……正確には、窓から少し離れたところに立ち、閉じられたカーテンを見つめている。

 

服も既に着替えていた。

昨日、リーリャからもらった黒い手袋もはめている。

ただ、ロキシー先生からもらったロッドだけは、机の上へ置かれたままだった。

 

「ルディ」

 

声を掛けると、肩が僅かに跳ねた。

 

「……起きましたか」

 

「うん」

 

「よく眠れました?」

 

「寝たよ。ルディは?」

 

「寝ました」

 

「ほんと?」

 

「目を閉じて、朝まで横になっていました」

 

「それ、寝たって言わないんじゃない?」

 

「身体は休まりました」

 

否定はしなかった。

きっと、ほとんど眠れなかったのだろう。

目の下が少し暗い。

 

それでも服を着替え、手袋までつけている。

昨日の話を、なかったことにはしていないらしい。

 

俺もベッドから降りる。

床へ足をつけると、ひんやりと朝の冷たさが足裏から上がってきた。

 

「昨日の約束、覚えてますか」

 

「覚えてる」

 

「門までです」

 

「うん」

 

「途中で戻ると言ったら」

 

「一緒に戻る」

 

「笑わない?」

 

「笑わない」

 

「話を」

 

「ずっとする」

 

ルディが俺を見る。

 

昨日と同じ確認だった。

けれど昨日より、声が硬い。

 

一晩眠れば、少し怖くなくなる、なんてことはなかったのだろう。

むしろ朝になり、本当に門へ行く時間が近づいたことで、怖さがさらに大きくなっているみたいだった。

 

「……今日は、やめてもいいんだよ」

 

「……分かっています」

 

「じゃあ、どうする?」

 

「朝食を食べます」

 

「行くの?」

 

「その後に決めます」

 

少しずるい答えだった。

でも、それでいいと思った。

 

今、全部を決めなくていい。

先生も昨日、そう言っていた。

 

俺は自分の服へ着替え、濃い茶色の手袋をはめた。

机の上には、同じ形をした二本のロッドが並んでいる。

俺は自分のものを取り、ルディのものも差し出した。

 

「持っていく?」

 

「門まで行くだけですよ」

 

「その先まで行きたくなったら、取りに戻る?」

 

ルディはロッドを見る。

赤い魔石。

 

先生が俺たちのために作ってくれた、俺たちの初めての杖。

やがて、ルディはそれを受け取った。

 

「荷物になるほど大きくありませんから」

 

「うん」

 

「試験を受けると決めたわけではありません」

 

「分かってる」

 

「……ならいいです」

 

ロッドを握る手に、少し力が入っていた。

 

 

朝食の席は、いつもより静かだった。

 

父様は何度も何かを言おうとして、そのたびに母様から脇を小突かれている。

母様も明るく振る舞おうとしていたが、俺たちの顔を見る回数が多い。

リーリャだけは、いつもとほとんど変わらないように見える。

 

パンを切り、温かいスープをよそい、俺とルディの前へ置く。

 

「食べられる分だけで構いません。ですが、何も口にしないまま出掛けることはお勧めいたしません」

 

「はい」

 

ルディは答え、少しずつスープを飲んだ。

 

ロキシー先生は、その向かいへ座っている。

既にいつものローブを身につけ、杖を立て掛けていた。

 

「今日は、まず門の外まで行きます」

 

先生が言った。

 

父様が身を乗り出す。

 

「そこから試験へ行くんだろ?」

 

「まだ決まっていません」

 

「でも馬はもう用意してあるぞ」

 

「使わなければ、厩へ戻すだけです」

 

「そうか……」

 

父様がルディを見る。

心配しているのだと思う。

 

けれど、ルディが何を不安がっているのかは、俺からもロキシー先生からも話してはいないので、父様も母様もリーリャもルディが漠然と外に行くのが嫌なのだろうと察した上での心配だった。

 

「ルディ」

 

父様が口を開く。

ルディの匙が止まった。

 

「無理だけはするな」

 

それだけだった。

 

もっと、男なら行け、とか、外は怖くない、とか。

いつもの父様なら言うかもしれないと思っていた。

 

けれど、言わなかった。

 

「……はい」

 

ルディの肩から、僅かに力が抜ける。

 

「ゼディもだぞ」

 

「俺も?」

 

「お前は嬉しくなったり、興味のあるものを見たりすると周りが見えなくなるからな。勝手に走っていくなよ」

 

「走らないよ」

 

「昨日は庭を五周した後で、まだ十周できると言っていただろ」

 

「できたよ」

 

「そういうところだ」

 

父様が俺の額を指で弾いた。

少し痛い。

けれど、そのやり取りのおかげで、食卓の空気が少しだけいつもに戻った。

 

食事を終えると、リーリャが小さな荷物を先生へ渡した。

 

「着替えと布を入れてあります。水聖級魔術を使われるのでしたら、必要になるかと」

 

「助かります」

 

「簡単な昼食も用意いたしました」

 

「試験へ行くかは、まだ」

 

ルディが言う。

 

「承知しております。戻られる場合には、こちらで召し上がってください」

 

リーリャは淡々と答えた。

行くことも、戻ることも、どちらも最初から受け入れているような言い方だった。

 

母様が立ち上がり、俺とルディの首へ薄い外套を掛ける。

 

「朝はまだ冷えるから」

 

「ありがとう、母様」

 

「ありがとうございます」

 

母様は俺の頬を撫でた。

 

次にルディの頬へ手を伸ばす。

ルディは一瞬だけ身体を固くしたが、逃げなかった。

 

「行ってらっしゃい」

 

母様は言った。

頑張って、とは言わなかった。

 

「……行ってきます」

 

ルディが答える。

まだ門の外へ行くだけなのに、その言葉は随分と重く聞こえた。

 

 

玄関を出る。

庭には、父様の馬が待っていた。

カラヴァッジョだ。

俺は前からよく餌をやったことがあるし、父様に一度乗せてもらったことがあるから顔見知りだ。

 

既に鞍がつけられ、手綱は柵へ結ばれている。

父様が朝のうちに準備してくれたらしい。

 

カラヴァッジョはこちらを見て、ぶるる、と鼻を鳴らした。

 

「やっぱり大きいなあ」

 

近くで見ると、俺たちなんかよりずっと大きい。

 

「ゼディは、馬に乗ったことがあるんですか…?」

 

俺のやっぱり、という言葉にルディは何か思うことがあったのか、そう聞いてくる。

 

「あるよ。父様に一回だけ乗せてもらった。あとは、餌やったくらいかな」

 

「そうなんですか……」

 

ルディの顔が、少しだけ曇ったような気がした。

 

「近づく時は、急に走らないでください」

 

ロキシー先生が馬の首を撫でる。

 

「横から、ゆっくり。驚かせなければ大人しい馬です」

 

俺はいつも餌をあげる時と同じ感覚で、ゆっくり近づき、鼻先へ手を出した。

カラヴァッジョは匂いを嗅ぎ、俺の手袋へ鼻を押しつけた。

温かい。

 

「ルディも触る?」

 

「今はいいです」

 

ルディは玄関の近くに立っていた。

カラヴァッジョではなく、庭の端を見ている。

 

門。

いつも見ていた門。

 

父様や母様、リーリャやロキシー先生が出入りする場所。

村の人が訪ねてくる時に開く場所。

 

俺も、その向こうへは行ったことはない。

出る時はルディと一緒でなければいけない。

今度こそ、何故か一度も出たことのない外にそう思っていた。

 

窓から見ていた道は、門のすぐ先にある。

ただの土の道だ。

特別なものには見えない。

それでも、ルディにとっては壁のようなのだろう。

 

先生が門側へ近づく。

まずは、カラヴァッジョには乗らず、歩いて門まで行ってみることになった。

 

門にたどり着く前に、振り返った。

 

「進んでも、よろしいですか」

 

ルディは答えなかった。

 

先生は待つ。

父様も、母様も、リーリャも、玄関の前から動かなかった。

 

誰も急かさない。

風が庭を通る。

葉が揺れる。

 

カラヴァッジョの尾が、ぱしりと鳴った。

 

「……お願いします」

 

やがてルディが言った。

 

先生が門を越える。

 

門の向こうには、道ある。

昨日までと同じ道。

先生が家と道の間を越えたことで、さらに道が道らしく現れた気がする。

 

「行こう」

 

俺が言うと、ルディの顔が強張った。

 

しまった。

昨日、待つと決めたばかりなのに。

 

「……じゃなくて」

 

言い直す。

 

「手、いる?」

 

ルディは俺を見る。

それから、差し出した手を見る。

 

すぐには取らなかった。

俺も動かさない。

 

しばらくして、小さな手が重なった。

 

黒い手袋と、茶色い手袋。

リーリャが俺たちのために作ってくれたもの。

 

ぎゅっと握られる。

 

「痛い?」

 

「……痛いですか」

 

「少し」

 

ルディの指が緩みかける。

 

俺は握り返した。

 

「でも、離さなくていいよ」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

二人で門へ近づく。

 

一歩。

 

もう一歩。

 

門まで、あと少し。

 

ルディの足が止まった。

俺も止まる。

 

右足は庭の中。

左足を出せば、その先は道だ。

 

ルディの呼吸が浅くなる。

握られた手が震えていた。

 

「ルディ」

 

「話を」

 

掠れた声で言われた。

 

「何でもいいから」

 

「うん。えっと……昨日の星の本にね、旅する人は星を見て、進む向きを決めるって書いてあった」

 

「知ってます」

 

「ルディの植物の本には?」

 

「夜に花を開く植物が載っていました」

 

「星の光で咲くの?」

 

「月の光です。たぶん」

 

「じゃあ、夜に旅したら見つけられるかな」

 

「……道の近くに生えていれば」

 

話している間にも、ルディは門を見ていた。

俺も見た。

 

境目がある。

庭の草が途切れ、踏み固められた土へ変わる境目。

それだけだ。

でも、ルディにとっては、それだけではない。

 

「数える?」

 

ルディに聞いた。

 

「一、二、三って」

 

「……それはやめておきましょう。子供みたいなので」

 

「五歳だよ」

 

「分かっています!」

 

少しだけ、いつもの声に戻った。

 

「じゃあ、ルディが決めて」

 

「何をです」

 

「出る時」

 

「……」

 

ルディが息を吸う。

吐く。

もう一度、吸う。

 

「今」

 

俺たちは、同時に足を出した。

左足が、土へ触れる。

次に右足。

 

門が、背中側へ移る。

庭の外。

家の外。

 

生まれて初めて、俺たちは二人で門を越えた。

 

「……っ」

 

ルディの膝が折れかける。

俺は手を離さず、肩を支えた。

先生も反対側へ回る。

 

「戻りますか」

 

静かな声だった。

ルディは答えない。

 

背後を振り返る。

 

門の向こうに、父様と母様とリーリャがいる。

家もある。

庭もある。

さっきまでと、何も変わっていない。

 

「ある」

 

ルディが呟いた。

 

「何が?」

 

「家です」

 

「うん」

 

「外へ出ても、まだある」

 

「あるよ」

 

当たり前のことだった。

 

けれどルディは、本当に確かめるように何度も瞬きをした。

ロキシー先生が、俺とルディと同じ高さまで腰を落とす。

 

「門を越えました」

 

「……はい」

 

「今日の目的は、もう果たしています。戻っても構いません」

 

ルディがふと、カラヴァッジョを見る。

門の中にいる家族を見る。

最後に俺を見た。

 

「カラヴァッジョに乗って……」

 

「うん」

 

「今度は、試験の場所に行くときのように、カラヴァッジョに乗って門の外に行きます」

 

「分かりました」

 

先生が立ち上がる。

 

俺たちは手を繋いだまま、カラヴァッジョへ向かった。

数十歩もない距離だった。

それでも、一歩ごとにルディの足が地面を確かめている。

 

カラヴァッジョの前へ着く。

先生が鞍と手綱を確認した。

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

ふと、ロキシー先生がルディのことを真剣に呼んだ。

 

「前へ乗せてもよろしいですか」

 

ルディがカラヴァッジョを見上げる。

どうやら、ロキシー先生としては、ルディに少しでも最前で外に慣れて欲しいという意味があるようだ。

 

「落ちませんか」

 

「わたしが後ろから支えます」

 

「途中で降りたくなったら」

 

「止まります」

 

「ローブを掴んでも?」

 

「昨日言ったとおりです。破らない程度なら、いくらでも」

 

ルディの口元が、ほんの少し動いた。

 

「……乗せてください」

 

先生は頷く。

ルディの身体を抱き上げ、鞍の前へゆっくり座らせた。

 

当然、放り投げたりはしない。

両足が落ち着くまで支え、手を置く場所も教える。

それから先生自身が後ろへ乗った。

 

先生の腕が、ルディの左右から手綱へ伸びる。

 

「ゼディは、ルディの後ろでもいいですか?」

 

「わかった」

 

「ルディのことを、後ろから見守っていてください」

 

「わかった」

 

昨日言っていた冗談の通りになってしまった。

ルディに怒られないといいが、ルディにも今はそんな余裕はない。

 

言われた通りにするため、いざ、俺は鐙へ足を掛けようとした。

届かない。改めて、自分は5歳なのだと思った。

 

何度か跳ねていると、父様が後ろから身体を持ち上げた。

 

「勝手に走るなよ」

 

「分かってる」

 

「先生を落とすな」

 

「俺が?」

 

「冗談だ……。お前は、そんなことはしないな」

 

父様は何故か含みのあるように笑い、俺をルディの後ろへ乗せた。

そして、ロキシー先生もカラヴァッジョの上に乗る。

 

ふと、後ろのロキシー先生にもたれかかってみる。

身体のどこかがほんのりとだけ柔らかく、当たる。

 

「ひゃっ……ゼディ、急にもたれないでください。急に来られると落ちてしまいます」

 

「ゼディも隅におけないなぁ!」

 

「こら、あなた!」

 

……多分、触れない方が良いところに触れてしまったようだった。

場の空気が少しだけ暖かくなったような、だが、冷えたような気もした。

 

「ゼディ……羨ましい。場所変わってくれよ……」

 

ルディが恐らくどころか120%本気の本音で、俺にしか聞こえない声で話しかけてきた。

……俺は何か本当に良くないことをしてしまったらしい。

 

ただ、幼い身体。

まるで少女のようで、いやまあ……ロキシー先生は少女か。

 

「こほん」

 

ロキシー先生が場を戻すため、ひとつ咳払いをした。

……俺は本当に良くないことをしたようだ。忘れよう。

 

三人分の重さを感じたのか、カラヴァッジョが鼻を鳴らした。

 

「二人を乗せることができて、カラヴァッジョも嬉しいみたいですよ」

 

「俺もカラヴァッジョにルディとロキシー先生と乗れて嬉しいよ!」

 

俺のその声に、カラヴァッジョはまた鼻を鳴らす。

うちのカラヴァッジョは、どこかパウロと似ているのか誉められていたり、誇らしいことがあったりすると鼻を鳴らす癖があるようだ。

飼っている動物が飼い主に似るとはこういうことを言うのだろうか。

 

「行ってこい。怪我だけはするな!」

 

父様が言う。

 

「行ってらっしゃい」

 

母様が言う。

 

「いつでもお戻りください」

 

リーリャが言う。

 

ルディは正面を見たまま、先生のローブを掴んだ。

強く、俺の手を握った時と同じように。

……間に俺がいることでその力で引っ張ると破れそうな気もするが、たかが五歳児の力なので実際にそんなことは起きない。

 

そんな中でも、逃げるように目を閉じなかった。

 

「ロキシー先生」

 

「はい」

 

「試験の場所まで……行きます」

 

ロキシーとゼディの瞳が僅かに見開かれる。

 

「門までではなく?」

 

「僕が決めていいと言いましたよね」

 

「言いました」

 

「なら、行きます」

 

声は震えていた。

けれど、昨日よりはっきりしていた。

 

「分かりました」

 

先生が手綱を握り直す。

 

「では、これより二人の卒業試験へ向かいます」

 

カラヴァッジョが一歩、前へ進んだ。

俺たちは家から離れ始めた。

 

 

カラヴァッジョは、村の道をゆっくり歩いた。

父様が走らせる時よりも、ずっと遅いだろう。

人が歩く速さとあまり変わらない。

 

それでも景色は少しずつ後ろへ流れていく。

 

家の前の柵。

母様が大切にしている庭木。

父様が鍛錬に使う丸太。

 

窓から何度も見たものが、いつもとは違う角度から見えた。

 

「すごい」

 

思わず声が出る。

 

「まだ家の前ですよ」

 

ルディが言う。

 

「でも、窓から見るのと違う」

 

「窓は動きませんからね」

 

「ルディ、あっち見て。屋根が低く見える」

 

「話をするのは頼みましたが、急に身体を動かさないでください」

 

「ごめん」

 

俺が身を乗り出すたび、ルディも先生も揺れてしまう。

 

後ろからでは、ルディの顔は見えにくかった。

けれど、先生のローブを掴む手は見える。

 

まだ離していない。

目的地はまだまだ。

 

村の中心に近づくにつれ、人の姿が増えていく。

畑へ向かう人。

水を運ぶ人。

家の前を掃く人。

 

俺たちを見つけると、何人かが足を止めた。

 

「おや、ロキシーさん」

 

畑道の脇にいた老人が声を掛けてくる。

 

「おはようございます」

 

先生が会釈をする。

 

「後ろの子らは、パウロんとこの坊主か?」

 

「はい。ルーデウスとゼディウスです」

 

「もう五歳だったか。二人とも大きくなったなぁ」

 

老人が笑う。

馬鹿にする笑い方ではない。

 

父様が俺たちを見る時と少し似ている。

 

「こんにちは!」

 

俺が言う。

 

「こ、こんにちは」

 

ルディも少し遅れて答えた。

 

「おう。気をつけて行ってこい」

 

老人はそれだけ言い、また畑へ向かった。

ルディの手は、まだ先生のローブを掴んでいる。

 

けれど指の力は、少しだけ弱くなっていた。

さっきよりも、ローブは緩く弛み、俺の隣を越してルディの手にある。

 

次に会った女性は、俺たちを珍しそうに見た。

その後ろにいた子供も、じっとこちらを見ている。

 

ルディの背中が固くなった。

 

「見てる」

 

小さな声が聞こえた。

 

「うん」

 

「どうして」

 

「俺たちが初めて外にいるからじゃない?」

 

「それだけだと思いますか」

 

「分からない」

 

「またそれですか」

 

「でも、笑ってないよ」

 

女性は俺たちに軽く頭を下げ、そのまま通り過ぎていった。

子供も母親らしい女性を追いかける。

こちらを振り返ったが、何も言わなかった。

 

「人の視線には、いろいろな意味があります」

 

ロキシー先生が前を見たまま言う。

 

「好意。警戒。興味。驚き。単に、動くものが目に入っただけということもあります」

 

「先生も、見られたことがありますか」

 

ルディが聞く。

 

「この村へ来た日は、今のあなたより見られました」

 

「怖くなかったんですか」

 

「怖かったですよ」

 

即座に返ってきた言葉だった。

俺も少し驚いた。

 

先生は、何も怖がらないと思っていた。

一人で世界を旅して、魔物とも戦える人だから。

 

「先生でも?」

 

「わたしでもです。魔族を快く思わない人族は、今もいます。何か言われるのではないか。石を投げられるのではないか。最初は、そう考えました」

 

「じゃあ、どうして来たんです?」

 

「仕事を引き受けたからです」

 

「それだけ?」

 

俺が尋ねる。

 

「それと、知らない場所を見てみたかったからです」

 

先生らしい答えだった。

 

「怖くても、来たの?」

 

「それよりも、怖いものが過去にあったからかもしれません」

 

先生の怖いもの、なんだろう。

聞いたことがなかったけど、聞かない方がいいのだろう。

この時、ルディの外の悩みに対して聞いてこなかった理由とは別に、漠然とそう感じた。

今は、そのタイミングではない、と。

 

カラヴァッジョの蹄が、土を踏む。

一定の音。

 

先生は続ける。

 

「怖いまま進んで、何も起こらない日を一日ずつ増やしました。そうしているうちに、この村で挨拶をしてくれる人が増えました」

 

「全員がいい人だった?」

 

「いいえ」

 

「嫌なことも言われた?」

 

「少しは」

 

先生は嘘をつかなかった。

 

「ですが、嫌な人が一人いたからといって、他の全員まで同じ人になるわけではありません」

 

ルディが黙る。

 

「先生だから、できたんじゃないですか」

 

「わたしも、教師になる前はただの魔術師でした」

 

「すごい魔術師ですよ」

 

「今のわたしを見ているから、そう思うだけです」

 

先生は少しだけ、声を柔らかくした。

 

「ルーデウス、ゼディウス。今日のあなた達を知らない人が、何年か後のあなた達を見れば、同じことを言うかもしれません」

 

「僕が、すごい人になったら?」

 

「なるつもりがないのですか」

 

「俺はあるよ」

 

「……僕だってあります」

 

「でしたら、その時までに今日の一歩を忘れないことです」

 

ルディの手が、また少し緩んだ。

 

「ゼディウス」

 

「はい」

 

「話が止まっています」

 

「先生が話してたから」

 

「あなたが話していてほしいと頼まれたのでしょう」

 

「そうだった」

 

何を話そう。

 

昨日約束したものは三つある。

星。

植物。

父様の変な動き。

 

「ルディ。旅する人が星で道を決めるなら、今は何で決めるの?」

 

「太陽と地形です」

 

「先生、俺たち今どっちに進んでる?」

 

「村の南西です」

 

「太陽はあっちだから……」

 

俺は空を見上げる。

朝の太陽は、左側にある。

 

「東が左?」

 

「おおよそは」

 

「じゃあ夜は、星で同じことができる?」

 

「北を示す星を覚えれば、できます」

 

「本に載ってた」

 

「帰ったら見せてください」

 

「先生も知らないの?」

 

「知っています。あなたがどの星を覚えたのか確認するだけです」

 

先生は少しむっとしていた。

顔が見えないが、声で分かる。

 

ルディが小さく息を漏らした。

笑ったのだろうか。

 

道の脇には、背の低い草が生えている。

白い小さな花も咲いていた。

 

「あの花、ルディの本に載ってた?」

 

「遠くて分かりません」

 

「降りて見る?」

 

「今はいいです」

 

「食べられるかな」

 

「何でも口に入れようとしないでください」

 

「入れないよ」

 

「昨日、見たことのない木の実を食べようとしていたでしょう」

 

「父様が食べられるって言った」

 

「父様はその直後、母様に怒られていました」

 

「酸っぱかったね」

 

「食べたんですか?」

 

「少しだけ」

 

「馬鹿ですか!」

 

ルディの声が大きくなった。

前を歩いていた村人が振り返る。

ルディは身体を固くした。

けれど、その村人は何事もなかったように前を向いた。

 

「……笑いませんでしたね」

 

「うん」

 

「うるさいとは思ったかもしれません」

 

「それは俺たちがうるさかったから仕方ないよ」

 

「ゼディのせいです」

 

「ルディが大きな声出した」

 

「誰の心配をしたと思ってるんですか」

 

いつもの調子だった。

 

俺は少し嬉しくなる。

 

「そういえば父様、昨日も変だったよ」

 

「何をしたんです?」

 

「お風呂の後、片足で立って剣を振る練習してた」

 

「またですか」

 

「今度は滑って、桶にお尻から入った」

 

「……」

 

「桶、割れた」

 

ルディの肩が揺れた。

 

「笑ってる?」

 

「笑っていません」

 

「声出てるよ」

 

「父様が悪いんです」

 

「母様、すごく怒ってた」

 

「当然でしょう」

 

先生の肩も、少しだけ揺れていた。

 

「先生も笑ってる?」

 

「前を見てください」

 

「先生」

 

「馬上で騒ぐと危険です」

 

答えてくれなかった。

けれど、多分笑っていた。

 

 

やがて家は見えなくなった。

屋根が、周囲の木々へ隠れていく。

村の家も少しずつ減る。

畑が増え、道の左右へ広がっていった。

 

俺は景色を見るのに夢中だった。

 

麦の穂が風で同じ方向へ倒れ、また起き上がる。

遠くで鳥が飛ぶ。

畑の間を細い水路が走っている。

 

本で読んだもの。

窓から見えていたもの。

全部が近くにある。

 

「止めてください」

 

突然、ルディが言った。

先生はすぐに手綱を引いた。

カラヴァッジョが止まる。

 

「どうしました」

 

「家が」

 

ルディが振り返ろうとする。

俺と先生がいるため、大きくは動けない。

 

「家が見えません」

 

声が浅い。

ローブを掴む指に、また力が入る。

 

「戻る?」

 

俺は聞いた。

約束した。

帰ると言ったら一緒に帰る。

 

「……」

 

ルディは答えない。

先生も急かさない。

 

風で麦が擦れる音だけが聞こえる。

 

「家は、どこですか」

 

「来た道を戻ればあります」

 

先生が答える。

 

「見えなくなっただけで、なくなったわけではありません」

 

ルディが目を閉じる。

 

「道、覚えてる?」

 

俺が聞く。

 

「一本道でした」

 

「うん。俺も覚えてる」

 

「先生も?」

 

「何度も通った道です」

 

「カラヴァッジョも?」

 

「わたしたちより詳しいでしょうね」

 

カラヴァッジョが同意するように鼻を鳴らした。

ルディはしばらく動かなかった。

 

「戻りますか」

 

先生が尋ねる。

 

「戻っても、今日ここまで来たことはなくなりません」

 

「……試験の場所まで、あとどれくらいですか」

 

「十分ほどです」

 

「家までは?」

 

「今なら十五分ほどでしょう」

 

「戻る方が遠い」

 

「少しだけです」

 

「なら」

 

ルディが息を吐く。

 

「進みます」

 

「いいの?」

 

「戻る方が遠いからです」

 

「そっか」

 

「それだけですよ」

 

きっと、それだけではない。

でも今は、そういうことにしておいた。

 

先生が手綱を動かす。

カラヴァッジョは再び歩き始めた。

 

家は見えない。

それでも帰る道は、俺たちの後ろへずっと続いている。

 

ルディはもう一度だけ振り返ろうとして、やめた。

代わりに前を見る。

俺も前を見た。

 

畑が終わる。

その先に、広い草原が現れた。

 

「……すごい」

 

二度目の言葉だった。

でも、さっきとは意味が違う。

 

庭より広い。

村より広い。

地面が、ずっと先まで続いている。

遠くには薄い山の影。

頭の上には、遮るもののない空。

 

本で見た地図の中へ、そのまま入ったようだった。

 

「世界だ」

 

「ここもブエナ村の近くですよ」

 

ルディが言う。

 

「でも、世界だよ」

 

「……そうですね」

 

ルディも、目を閉じてはいなかった。

顔はまだ強張っている。

それでも草原を見ていた。

 

窓の向こうにしかなかった景色を。

俺たちは今、その中を進んでいた。

 

 

草原の中に、一本だけ大きな木が立っていた。

先生はそこから少し離れた場所でカラヴァッジョを止める。

 

先に自分が降り、次にルディを抱いて地面へ下ろした。

俺も先生の肩へ手を置き、飛び降りる。

 

足が草へ沈んだ。

庭の草より長い。

 

膝の少し下まで伸びた葉が、外套へ触れる。

風が吹くたび、見渡す限りの草が同じ方向へ揺れた。

 

「ルディ、見て」

 

「見ています」

 

ルディはカラヴァッジョの側に立っていた。

両足で地面を踏み、周囲をゆっくり見回している。

 

ここには知らない人はいない。

家もない。

ただ、空と草原がある。

 

それでも先生のローブから手を離すまで、少し時間がかかった。

 

「ここで試験を行います」

 

先生が言う。

ルディの手が止まる。

 

「受けられますか」

 

「……はい」

 

「今からでも戻れます」

 

「ここまで来たんです」

 

「ここまで来たことと、試験を受けることは別です」

 

「分かっています」

 

ルディは先生のローブから手を離した。

代わりに、自分のロッドを両手で持つ。

 

「僕が受けると決めました」

 

先生は数秒、ルディの顔を見る。

 

「分かりました」

 

俺にも視線を向ける。

 

「ゼディウスは?」

 

「受ける」

 

俺はすぐに答えた。

 

胸が高鳴っている。

 

外へ出たこと。

初めて馬へ乗ったこと。

初めて村を見たこと。

初めて草原へ来たこと。

 

それだけでも、今日一日にたくさんの初めてがあった。

そのうえ、これから先生の一番得意な魔術を見る。

 

不安もある。

水魔術。

俺がルディより苦手とする系統。

けれど、それ以上に見てみたかった。

 

「分かりました。では、準備をします」

 

先生はカラヴァッジョの手綱を引き、さらに離れた場所へ移動させた。

 

「カラヴァッジョも雨に濡れる?」

 

「濡れます」

 

「雷は?」

 

「近くへ落ちる可能性があります」

 

「危なくない?」

 

俺が聞くと、先生の動きが止まった。

 

カラヴァッジョを見る。

次に、一本だけ立っている木を見る。

少し考えた後、杖を地面へ向けた。

 

「……念のため、守っておきましょう」

 

詠唱を行う。

 

地面が盛り上がり、カラヴァッジョの周囲へ厚い土の壁を作る。

完全に閉じ込めるのではなく、上へ屋根をつけ、風が通る隙間を残した小さな小屋。

 

中にはリーリャから預かった荷物も置かれた。

 

「これなら、すぐ近くへ雷が落ちても大丈夫です」

 

「カラヴァッジョ、暗いの怖くないかな」

 

「先ほどから、カラヴァッジョの心配ばかりですね」

 

「だって、父様の馬だから」

 

「人間の心配もしてください」

 

「先生が守ってくれるでしょ?」

 

「……ええ。守ります」

 

先生は小さく息を吐き、俺たちを木から離れた平らな場所へ連れていった。

 

「改めて説明します」

 

先生が杖を立てる。

俺とルディは並んだ。

 

「これから、わたしは水聖級攻撃魔術、豪雷積層雲(キュムロニンバス)を使います」

 

豪雷積層雲(キュムロニンバス)

 

ルディが魔術名を繰り返す。

 

「はい。広い範囲へ、雷を伴う豪雨を降らせる魔術です」

 

「一度見た後、同じものを使う?」

 

「基本的には」

 

先生は空を見上げる。

 

「わたしは実演のため、一分ほどで雲を散らします。本来なら、一定の時間維持できれば合格にするつもりでした」

 

「今回は違うのですか?」

 

ルディが聞く。

 

「通常であれば、それを合格の目安にします」

 

「通常?」

 

「二人は得意とすることが違います。まったく同じ規模、まったく同じ維持時間を求めるつもりはありません」

 

先生が俺を見る。

 

「ゼディウスには、術の構造を理解し、苦手な部分をどう補うかを見せてもらいます」

 

次にルディを見る。

 

「ルーデウスには、理解した構造を、どこまで自分のものとして扱えるかを見せてもらいます」

 

「僕の方が難しくないですか?」

 

「あなたは水魔術を得意としているのでしょう」

 

「そうですけど」

 

「ゼディウスと同じ基準で測ってほしかったのですか」

 

「……いいえ」

 

「ならば始めます」

 

先生は俺たちから離れる。

空へ向かい、杖を掲げた。

 

「詠唱をよく聞いてください。言葉だけではなく、どこへ魔力を流し、何を動かしているかを見なさい」

 

俺たちは頷く。

 

先生が息を吸った。

 

「雄大なる水の精霊にして、天に昇りし雷帝の王子よ──」

 

長い詠唱が始まった。

 

初級や中級の比ではない。

水。

雲。

雨。

雷。

 

一つの魔術の中に、いくつもの流れが重なっている。

言葉が続くたび、先生の杖へ魔力が集まった。

 

「我が願いを叶え、凶暴なる恵みをもたらし、矮小なる存在に力を見せつけよ!

神なる金槌を金床に打ち付けて畏怖を示し、大地を水で埋め尽くせ!

ああ、雨よ!全てを押し流し、あらゆるものを駆逐せよ!」

 

それらは地面へ向かわない。

 

空へーー。

俺たちの頭上より、さらに高い場所へ昇っていく。

 

最初は何もなかった。

やがて、小さな白い雲が生まれる。

雲は膨らむ。

 

白から灰色へ。

灰色から、光を通さない黒へ。

 

「キュムロニンバス!」

 

最後の言葉と同時に、空が夜のように暗くなった。

 

「うわっ」

 

風が吹く。

ただの風ではない。

身体ごと押されるほど強い。

俺は足を開き、地面を踏んだ。

 

ルディがよろめく。

腕を掴むと、今度はルディも俺を掴んだ。

 

雨が落ちる。

最初は一滴。

次の瞬間には、空から水の塊を投げつけられたような豪雨になった。

 

外套も髪も、すぐに濡れる。

目を開けているのも難しい。

 

それでも空を見る。

雲の中で、光が走った。

白い。

青い。

一瞬だけ、空の中へ炎の筋が生まれたように見えた。

 

けれど火とは違う。

熱くない。

それなのに、胸の奥が強く引かれた。

 

空気が裂ける。

ーー直後。

 

ばがん!と地面まで揺れる音がした。

 

「っ!」

 

俺とルディは同時に身を縮めた。

少し離れた地面から、土と草が跳ね上がる。

……雷が落ちたのだ。

 

先生が杖を下ろす。

雲へ流れていた魔力が途切れ、激しい風が少しずつ弱くなる。

黒い雲も、端から崩れていった。

 

一分ほどで雨が止む。

残ったのは、濡れた草原と、耳の奥へ響き続ける雷の音。

それから、全身びしょ濡れになった俺たちだった。

 

「……すごい」

 

今日、三度目だった。

けれど、これまでで一番強く出た言葉だった。

 

「これが、水聖級」

 

ルディも空を見ている。

恐怖を忘れたような顔だった。

目の前の魔術へ、全ての意識を奪われている。

 

「見えましたか」

 

先生が尋ねる。

 

「雲を作るだけではないですね」

 

ルディが答える。

 

「風を中で回している。下から押し上げて、上で冷やして……水だけの魔術じゃない」

 

先生の眉が僅かに上がる。

 

「一度で、そこまで分かりましたか」

 

「全部ではありません。実際にやってみないと」

 

ルディの手が、ロッドを握り直す。

その横顔には、さっきまでとは違う緊張があった。

 

知らない人が怖い。

外が怖い。

それでも魔術を前にすると、ルディは前へ出られる。

 

「僕からやります」

 

「よろしいのですか」

 

「ゼディが先に成功したら、余計に緊張するので」

 

「失敗する前提にしないでよ」

 

「成功すると思っているから言ってるんです」

 

ルディが俺を見る。

 

「それに、僕は兄ですから」

 

少しだけ強がった笑顔。

でも、仮面を被った笑い方ではなかった。

 

「分かった。頑張って」

 

「見ていてください」

 

ルディが先生の前へ立つ。

ロッドを空へ向ける。

 

「始めます」

 

先生が頷いた。

ルディは先ほど聞いたばかりの長い詠唱を、一度も止まらず唱え始めた。

 

先生より少し速い。

それでも言葉は崩れない。

俺は途中でいくつか忘れかけていたのに、ルディは最初から最後まで覚えている。

 

詠唱が進む。

ルディのロッドから魔力が昇る。

雲ができた。

 

先生のものより、最初は小さい。

けれど、詠唱が終わっても膨らみ続ける。

 

「キュムロニンバス!」

 

雨が降り始める。

もう一度、風が吹く。

 

ルディはロッドを下ろさない。

片手で持ち替え、空いた手を地面へ向けた。

足元の空気が温かくなる。

 

次に上へ手を向ける。

冷たい風が、空へ昇っていく。

 

「下を温めて、上を冷やす……」

 

ルディが呟く。

 

「風を斜めに。中で回す。雲を押し上げて……」

 

一つずつ確かめるように、魔術を重ねる。

雲が縦へ大きく伸びた。

 

先生の目が見開かれる。

 

「まさか……」

 

風が雲を散らすのではない。

ルディが作った風は、雲をさらに大きく育てていく。

 

雨が強くなる。

空のあちこちで雷が鳴った。

先生が使った時より、広い。

 

俺たちの上だけではない。

草原のずっと向こうまで、黒い影が伸びている。

 

「ルディ、もういいですよ」

 

先生が言う。

 

「まだ一時間経っていません」

 

「必要ありません。あれを一時間も放置すれば、草原が水浸しになります」

 

「でも」

 

「合格です」

 

ルディの動きが止まる。

 

「……合格?」

 

「はい。ですので、早く雲を消してください」

 

先生の声が少し焦っていた。

ルディは慌てて空を見る。

 

作る時とは反対。

地面を冷やし、上を温め、風を下へ。

 

それでも大きくなりすぎた雲は、すぐには消えなかった。

 

「先生、手伝ってください!」

 

「自分で作った魔術です。まず自分でどうにかしなさい」

 

「試験官が厳しい!」

 

「ゼディウスの試験ができなくなるでしょう!」

 

「それは困ります!」

 

ルディはさらに風を強くした。

しばらくして、雲へ切れ間ができる。

そこから光が差した。

少しずつ黒い雲が薄まり、最後には白い雲だけが残って流れていく。

 

雨が止んだ。

ルディは大きく息を吐き、その場へ座り込む。

 

「疲れた……」

 

「魔力切れ?」

 

俺は駆け寄る。

 

「違います。緊張が切れただけです」

 

「ほんと?」

 

「魔力は、まだあります」

 

「よかった」

 

ルディの手を引く。

立ち上がったルディの顔には、雨と汗が混じっていた。

 

先生が正面へ立つ。

 

「ルーデウス・グレイラット」

 

「はい」

 

「あなたは水聖級攻撃魔術、豪雷積層雲を修得しました。これより、水聖級魔術師を名乗ることを認めます」

 

「……五歳で、水聖級」

 

自分で口にして、ルディは少し呆然とした。

 

「おめでとう、ルディ!」

 

俺は抱きついた。

 

「濡れてます!」

 

「ルディも濡れてるよ」

 

「だから余計に冷たいんです!」

 

文句を言いながら、押し返してはこなかった。

 

「おめでとうございます」

 

先生も言う。

 

「あなたは、わたしが想像していた以上の魔術師です」

 

ルディが先生を見る。

 

「先生より?」

 

「今はまだ、経験ならわたしの方が上です」

 

「今は、ですか」

 

「すぐ追い越されるつもりはありません」

 

先生は僅かに胸を張った。

ルディが笑う。

 

「僕も、止まるつもりはありませんよ」

 

二人とも負けず嫌いだった。

 

「次は、ゼディウスです」

 

先生の言葉で、胸が跳ねる。

 

「はい」

 

さっきまでは早くやりたかった。

けれど、ルディの魔術を見た後では、少し怖い。

 

空を覆うほどの雲。

先生がすぐに合格と言うほどの魔術。

 

俺に同じことができるだろうか。

 

「ゼディ」

 

ルディが呼ぶ。

 

「なに?」

 

「僕と同じものを作ろうとしないでください」

 

「先生と同じ試験だよ」

 

「試験は同じでも、やり方まで同じである必要はありません」

 

「でも、ルディみたいに大きくできないかも」

 

「先生がさっき言ったでしょう。求めているものが違うと」

 

ルディは、昔と同じように俺の隣へ立った。

初めて水弾の飛ばし方を教えてくれた時と同じ。

 

「最初から全部を完璧にしようとしなくていいんです」

 

覚えていた。

俺も覚えている。

 

崩れないようにするのではなく、崩れるより先に動かす。

飛ばしながら形を整える。

 

「うん」

 

「それと」

 

「まだある?」

 

「失敗しても、笑いません」

 

ルディは少し気まずそうに言った。

昨日、俺が言ったことを返してくれたのだろう。

 

「ありがとう」

 

俺は前へ出た。

先生が立っている。

 

さっきまでルディの雲があった空は、もう明るい。

 

「準備はよろしいですか」

 

「はい」

 

ロッドを両手で持つ。

リーリャの手袋が、濡れた柄をしっかり掴んでくれる。

 

「始めます」

 

先生の詠唱を思い出す。

ルディほど、一度で全部を覚えられたわけではない。

けれど、言葉の流れは残っている。

 

水を空へ。

風を雲へ。

雨を地面へ。

雷を、その中へ。

 

俺はゆっくり詠唱した。

途中で一度、言葉が止まりかける。

 

先生は何も言わない。

ルディも黙っている。

待ってくれている。

 

思い出す。

続ける。

 

最後まで唱え、ロッドを空へ掲げた。

 

「キュムロニンバス!」

 

魔力を空へ押し出す。

雲が生まれた。

拳ほどの白い塊。

そこへさらに水を送る。

 

雲は俺の身体より大きくなる。

灰色へ変わる。

けれど、その先へ進まない。

風に端を削られ、形が崩れていく。

 

「くっ……」

 

水を増やす。

形を保つ。

同時に動かす。

昔から苦手だったものが、一度に押し寄せてくる。

 

一つへ意識を向ければ、別の場所が崩れる。

水を増やせば風が止まる。

風を動かせば雲が薄くなる。

 

ロッドを握る腕が重くなった。

ルディの雲とは比べものにならない。

先生のものより、ずっと小さい。

 

同じ双子なのに。

その言葉が、頭へ浮かんだ。

 

昨日、ルディが恐れていた言葉。

俺も、違う形でずっと気にしていた。

魔術ではルディの方が先にいる。

 

水なら、もっと遠い。

それでも。

 

「ゼディウス」

 

先生が呼ぶ。

 

「水だけで作る必要はありません」

 

「……はい」

 

「あなたは、何を得意としていますか」

 

火。

それから、風。

身体を動かすように扱えるもの。

 

水と火を合わせれば、お湯になる。

もっと熱くすれば、白い湯気になる。

 

風へ乗せれば、上へ運べる。

高い場所で冷やせば、また水へ戻る。

 

これまでに混合魔術は何度も試した。

先生とルディから教わった。

知らない術ではない。

全部、これまで使ってきた魔術だ。

 

俺は水を完璧に保とうとするのをやめた。

 

少し崩れたまま、熱を加える。

白い霧へ変わった。

 

それを風で押し上げる。

雲の下へ、温かい空気を送る。

 

上へ。

もっと上へ。

 

「動け」

 

剣を振る時のように、足で地面を踏む。

腰を回す。

肩。

腕。

最後にロッド。

身体の動きへ、風の流れを重ねる。

 

びゅう、と草原の草が渦を巻いた。

風が霧を巻き込み、空へ昇る。

 

薄くなりかけていた雲が、もう一度膨らんだ。

 

「そうだ」

 

水だけを掴もうとしなくていい。

風で支える。

火で押し上げる。

上へ送った水を、冷たい空気で閉じ込める。

 

雲が灰色から黒へ変わる。

規模は小さい。

うちの庭を覆うくらいだろうか。

 

ルディや先生の雲のように、草原の果てまでは届かない。

それでも、雲の中で水と風が回っているのが分かった。

 

自分の腕を回しているように。

走り続ける時の足のように。

胸の奥で燃える火のように。

 

全部が繋がっていた。

 

雨が落ちる。

最初は細い。

やがて、俺たち三人の周囲へ、はっきりとした雨が降り始める。

 

「できた……」

 

まだ終わりではない。

 

雲を保つ。

火が強すぎれば雲が散る。

弱ければ風が止まる。

水を増やしすぎれば、俺の制御から外れる。

一つずつではない。

 

身体全体を同時に動かすように、全部を感じる。

雲の中で、小さな光が走った。

さっき見た白い炎。

水から生まれた、熱くない火。

 

もっと見たいと思った。

その瞬間、光が雲の外へ落ちた。

 

ばちん、と乾いた音。

 

先生の雷とは比べものにならない。

地面を抉るほどでもない。

それでも間違いなく、空から地面へ光が走った。

 

「雷……」

 

胸の奥が震えた。

 

怖いのとは違う。

火を初めて見た時と似ている。

どう動いているのか。

なぜ水の中から生まれるのか。

 

まだ分からない。

でも、分かるようになりたい。

 

「ゼディウス」

 

先生の声で我に返る。

 

「はい」

 

「雲を散らしてください」

 

「もう?」

 

「十分です」

 

「一時間、経ってない」

 

「誰かと同じことを言いますね」

 

先生がルディを見る。

ルディは気まずそうに目を逸らした。

 

「ですが、合格です」

 

「……本当に?」

 

「自分の魔術を見なさい」

 

先生が空を示す。

 

小さくとも、黒い雲がある。

雨が降っている。

風が回っている。

そして、雷も生まれた。

 

「あなたは豪雷積層雲の構造を理解し、自分が不得意とする水の制御を、火と風で補いました。規模はルーデウスに及びませんが、術として成立しています」

 

「じゃあ」

 

「水聖級を名乗って構いません」

 

胸が熱くなる。

火魔術を使っているからではない。

 

「俺も、水聖級?」

 

「はい」

 

「ルディと同じ?」

 

「階級は同じです」

 

先生はそこで言葉を切った。

 

「ですが、同じ魔術師ではありません」

 

俺とルディを見る。

 

「ルーデウスは水を中心に、術全体を理解して組み上げました。ゼディウスは火と風を中心に、崩れかけた術を身体で支えた」

 

「どっちが上?」

 

少しだけ気になって、聞いてしまう。

先生は呆れたように息を吐いた。

 

「まだ聞きますか」

 

「少しだけ」

 

「今日の規模と完成度だけなら、ルーデウスです」

 

「やっぱり」

 

胸が少し痛む。

けれど、嫌ではなかった。

 

「ただし、火と風を用いて魔力の負担を分散させた点は、ゼディウスの方が優れています。今後、同じ術を何度も使うのであれば、あなたの方法にも利点があります」

 

「じゃあ、両方すごい?」

 

「最初から、そう言っています」

 

「先生」

 

ルディが口を挟む。

 

「ゼディは褒める時、分かりやすく言わないと伝わりませんよ」

 

「ルディに言われたくないよ」

 

「僕は分かっています」

 

「さっき先生よりすごいか聞いてた」

 

「確認です」

 

「俺も確認」

 

先生が額へ手を当てた。

 

「二人とも、まず雲を消してください」

 

忘れていた。

俺は慌てて火を弱め、風を外へ逃がす。

 

ルディの時より雲が小さい分、今度はすぐに散っていった。

 

雨が止む。

もう何度濡れたか分からない俺たちの頭上に、青い空が戻った。

 

 

先生は俺たちを並ばせた。

 

濡れた髪が顔へ張りついている。

服も重い。

靴の中へ水が入って、少し動くたびに音が鳴る。

 

それでも背筋を伸ばした。

 

先生の顔はいつもと同じように見えた。

けれど、杖を握る手が僅かに強い。

 

「ルーデウス・グレイラット」

 

「はい」

 

「ゼディウス・グレイラット」

 

「はい」

 

「二人とも、卒業試験に合格です」

 

風が吹く。

雨で冷えた身体には寒い。

それでも胸の内側は温かかった。

 

「今日まで、二人はわたしの生徒でした」

 

先生が続ける。

 

「教えられたことを覚え、言われたとおりに練習する。失敗すれば、わたしが直す。危険があれば、わたしが止める。そういう生徒です」

 

先生は俺たちの前へ膝をつく。

 

「ですが、今日からは違います」

 

俺とルディの頭へ、片方ずつ手を置いた。

 

「これからは、自分で考え、自分で選び、自分の魔術へ責任を持ちなさい。できないことがあれば、どう補うかを考える。怖いことがあれば、逃げるか、進むか、立ち止まるかを自分で決める」

 

先生の手は小さい。

父様の手より、ずっと小さい。

 

それでも今は、大きく感じた。

 

「もちろん、誰かへ助けを求めても構いません。一人で決めることと、一人きりで全てを行うことは違います」

 

ルディが俺を見る。

俺も見返した。

 

「あなたたちは今日から、わたしの教え子です。そして、一人の魔術師です」

 

先生が手を離す。

立ち上がり、ほんの僅かに笑った。

 

「卒業、おめでとうございます」

 

「ありがとうございます、先生」

 

ルディが深く頭を下げる。

俺も慌てて真似をした。

 

「ありがとうございます、ロキシー先生」

 

口にすると、本当に終わってしまったのだと分かった。

 

毎朝、一緒に庭へ出る。

先生の詠唱を聞く。

失敗すれば直してもらう。

夜になれば世界の話を聞く。

 

そういう時間が、終わる。

 

「先生」

 

「はい」

 

「卒業したら、いなくなるの?」

 

昨日も聞いたこと。

先生は今度は黙って誤魔化さなかった。

 

「明日、グレイラット家を発ちます」

 

胸の奥が、急に冷たくなる。

 

「明日?」

 

「はい」

 

「早いよ」

 

「二年前から、二人が上級魔術を修得した時には出ようと決めていました」

 

「でも、まだ先生に教えてもらってないことがいっぱいある」

 

「わたしにも、教えられないことがたくさんあります」

 

「火の聖級とか」

 

「それもです」

 

「じゃあ先生が覚えて、教えて」

 

先生の目が僅かに揺れた。

 

「そのためにも、わたしは旅へ出ます」

 

「俺たちのため?」

 

「自分のためです」

 

きっぱりと言う。

 

「二人を教えて、自分が知らないことの多さを改めて知りました。このまま同じ場所に留まれば、わたしは二人へ教えたことを、自分では守れなくなります」

 

「自分で進む?」

 

「はい」

 

先生も卒業するのだろうか。

どこからかは分からない。

 

けれど俺たちと同じように、次へ進むのだ。

 

「前に約束した」

 

「何をですか」

 

「大きくなったら、一緒に旅するって」

 

「十数年しても気が変わらなければ、と言いました」

 

「変わらない」

 

「まだそんなに経っていません」

 

「二年経ってるよ」

 

先生が来てから、ずっと世界の話を聞いてきた。

先生と旅をしたいと思った日からも、かなり経っている。

 

「そうでしたね」

 

先生は少しだけ目を細めた。

 

「では、十数年後にもう一度聞かせてください」

 

「うん」

 

「返事は、はい」

 

「はい」

 

先生の手が、もう一度俺の頭へ置かれた。

不器用に撫でられる。

 

「その時までに、わたしが驚くような魔術師になってください」

 

「先生より?」

 

「二人揃って、同じことを聞かないでください」

 

今度は、先生がはっきり笑った。

 

小さな笑顔だった。

 

でも、よく見えた。

 

 

着替えを済ませ、リーリャが用意してくれた昼食を食べてから、俺たちは帰路についた。

行きと同じく、ルディが先生の前。

俺がルディの後ろ。

そして、先生が俺の後ろだ。

 

ただ、ルディはもう先生のローブを掴んでいなかった。

手は鞍へ置かれている。

 

人とすれ違うたびに肩は強張る。

家が見えるまで、何度も後ろを確かめる。

 

それでも、戻ってきた道を自分の目で見ていた。

 

「ルディ」

 

「何ですか」

 

「また外、出られる?」

 

「分かりません」

 

「今日出られたよ」

 

「今日できたから、明日もできるとは限りません」

 

「そっか」

 

「でも」

 

ルディが少しだけ顔を横へ向ける。

 

「出られないと決める必要も、もうないと思います」

 

「うん」

 

草原が畑へ変わる。

やがて家の屋根が見えた。

 

ルディが長く息を吐いた。

 

「ありましたね」

 

「なくならないって言ったでしょ」

 

「確認しただけです」

 

門の前には、父様と母様とリーリャが待っていた。

先生がカラヴァッジョを止める。

 

今度は抱き下ろされる前に、ルディが自分から地面へ降りたいと言った。

先生に支えられながら草へ足をつけ、開いた門を越える。

俺もその後へ続いた。

 

「ただいま!」

 

「……ただいま、帰りました」

 

「おかえりなさい!」

 

母様が俺たち二人をまとめて抱きしめた。

父様は先生へ結果を尋ねる。

 

「二人とも合格です。水聖級魔術を修得しました」

 

「二人とも!?」

 

父様の声が村中へ響きそうなほど大きくなる。

 

「声を抑えてください。五歳の水聖級が二人いると広まれば、面倒な者まで集まる可能性があります」

 

「そ、そうか。だが、二人ともか!」

 

父様は結局、俺とルディを交互に抱き上げた。

母様も泣きながら笑っている。

リーリャはいつものように静かだったが、俺たちの濡れた髪を拭く手は優しかった。

 

家へ戻った。

それだけなのに、朝までとは何かが違う。

 

門の外には、怖いものもある。

知らない人もいる。

家が見えなくなる場所もある。

 

けれど、道を戻れば帰ってこられる。

俺たちは今日、それを知った。

 

 

その夜。

ベッドへ入っても、なかなか眠れなかった。

 

明日、先生がいなくなる。

そう考えるたび、胸の中に穴が開いたような気持ちになる。

 

「ゼディ」

 

暗い部屋で、ルディが呼んだ。

 

「起きてるよ」

 

「今日は……ありがとうございました」

 

「何が?」

 

「手を離さなかったことです。それから、話をしてくれたこと」

 

「友達だから」

 

「兄でもあります」

 

「うん。兄で友達」

 

「欲張りですね」

 

「ルディもでしょ」

 

少し間が空く。

 

「……そうですね」

 

「明日、先生を門まで見送る?」

 

「行きます」

 

「外だよ」

 

「知っています」

 

「怖くない?」

 

「怖いですよ」

 

ルディははっきり答えた。

 

「それでも、先生が見えなくなるまで見送ります」

 

俺も同じ気持ちだった。

 

「じゃあ、明日も一緒に行こう」

 

「はい」

 

 

翌朝。

ロキシー先生は、二年前にこの家へ来た時と同じような旅装で玄関に立っていた。

 

茶色いローブ。

杖。

背負った荷物。

 

けれど二年前と違い、先生を見送るために俺たちがいる。

 

「本当に行くのか?」

 

父様が最後まで聞く。

 

「はい。お世話になりました」

 

「ロキシーちゃん、いつでも戻ってきていいのよ!?なんだったら、いつまでもいていいのよ……。まだ教えていないお料理も一杯あるし」

 

母様は目元を赤くしていた。

 

「ありがとうございます。けれど、今回の事で自分の無力さを思い知りました。しばらくは世界を旅しながら、魔術の腕を磨くつもりです」

 

先生は父様と母様へ頭を下げ、リーリャとも短く言葉を交わした。

それから俺たちの前へ来る。

 

「卒業祝いを、まだ渡していませんでした」

 

「昨日のロッドは?」

 

「あれは誕生日の贈り物です」

 

先生はローブの内側から、緑色の金属で作られたペンダントを取り出した。

三本の槍を組み合わせたような形をしている。

 

「ルーデウスに。ミグルド族のお守りです」

 

「僕に?」

 

「魔族と出会った時、これを見せてわたしの名を出せば、少しくらいは話を聞いてもらえるかもしれません」

 

先生はルディの首へ掛ける。

 

「過信してはいけません。ですが、知らない相手を最初から恐れるのではなく、話すためのきっかけにはなるでしょう」

 

ルディはペンダントを両手で包んだ。

 

「大切にします」

 

「はい」

 

次に先生が取り出したのは、小さな革張りの手帳だった。

使い込まれ、角が丸くなっている。

 

「ゼディウスには、こちらを」

 

開くと、先生の細かな字と、簡単な地図が並んでいた。

 

町の名前。

通った道。

見た魔物。

泊まった宿のこと。

 

先生が旅で見てきたものが、何冊もの本より小さな手帳へ詰まっている。

後ろの方には、まだ何も書かれていない頁が残っていた。

 

「先生の旅?」

 

「一部だけです。わたしが最初の旅で使っていたものです」

 

「もらっていいの?」

 

「あなたは、わたしが話した世界をいつも楽しそうに聞いていましたから」

 

先生が空白の頁を開く。

 

「続きは、自分で見て書きなさい」

 

「先生と一緒に?」

 

「それは十数年後に決めます」

 

「忘れないでね」

 

「あなたこそ」

 

俺は手帳を胸へ抱えた。

寂しさが急に大きくなる。

 

「先生」

 

気づけば、先生の腰へ抱きついていた。

小さな身体が固まる。

 

少しして、頭へ手が置かれた。

 

「ゼディウス」

 

「はい」

 

「火は便利で、恐ろしい魔術です。あなたなら、わたしが知らないところまで進めるでしょう」

 

「うん」

 

「返事は、はい」

 

「はい」

 

「強くなることだけを急がないでください。何のために使うのかを、忘れないように」

 

「皆を守るため」

 

「それだけではありません。温めるため。照らすため。道を示すためにも使えます」

 

先生は俺を離し、ルディを見る。

 

「ルーデウスも。できないことがあっても、他の全てまで諦めないように」

 

「はい」

 

「怖い時は、誰かの手を借りても構いません」

 

ルディが俺を見た。

 

「借りることにします」

 

「いつでも貸すよ」

 

「毎回は困ります」

 

先生が小さく笑った。

 

「では、行きます」

 

扉が開く。

先生は庭を進み、門を越えた。

俺も追いかける。

 

門の外へ出てから振り返ると、ルディが境目の前で止まっていた。

昨日と同じ。

 

でも、俺は手を差し出さなかった。

 

ルディは自分で足元を見る。

息を吸う。

 

そして、自分から一歩を踏み出した。

俺の隣へ並ぶ。

 

「今日は手、いらない?」

 

「必要になったら言います」

 

「うん」

 

先生は少し離れた場所で俺たちを待っていた。

二人が門の外へ出たことを確認し、杖を持つ手を上げる。

 

「また会いましょう」

 

「はい!」

 

「また、先生」

 

俺たちは、先生の背中が見えなくなるまで見送った。

 

昨日まで、窓の向こうにしかなかった道。

先生はその道を歩き、世界へ戻っていく。

 

手元には、ロッドと旅の手帳。

頭の中には、先生から教わった魔術と世界のこと。

 

そして胸の奥には、雲の中を走った、あの白い光が残っていた。

 

ルディにとって昨日は、怖さを抱えたまま外へ出た日だった。

俺にとっては、憧れていた世界へ初めて触れた日だった。

 

同じ門を越えた。

同じ試験を受けた。

けれど、越えたものも、見つけたものも違う。

 

それでいい。

同じでなくても、隣を歩くことはできる。

 

俺とルディは、先生が消えた道をもう少しだけ見つめた。

それから二人で門の内側へ戻る。

こうして、俺たちはロキシー先生のもとを卒業した。

 

最初の日は手を繋いで。

次の日は、それぞれの足で。

二日続けて、自分の意思で世界へ踏み出した。

 

それはまだ、家の前の道へつけた二人分の小さな足跡にすぎない。

けれど間違いなく、俺たちがそれぞれの未来へ向かう、最初の一歩だった。

 

 

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