独立傭兵奮闘記 作:SF厨
【CONTRACT FILE:A-7391 / BLACK-LINE】
依頼元:ASTER DYNAMICS 極東軌道支社
仲介:独立戦闘契約網《BABEL-NET》
任務種別:回収/護送
危険等級:A-
作戦区域:東京湾岸第七企業管区・下層ブロック
対象:研究資産 No. L-041《IRIS》
対象名義:イリス・ノヴァク
年齢情報:非開示
生体分類:人類
任務内容:
対象を生存状態で確保し、指定回収地点まで移送せよ。
対象は企業機密に該当するため、第三者への情報開示を禁ずる。
交戦許可:限定許可
対象の殺害は禁止。
妨害勢力への武力行使は許可。
民間被害は契約補償外。
報酬:
前金 80,000クレジット
成功報酬 420,000クレジット
追加成果報酬あり
備考:
対象は精神的混乱状態にある可能性が高い。
対象の発言内容を信用しないこと。
対象が「人間ではないもの」に関する発言を行った場合、記録せず速やかに鎮静処置を行うこと。
契約条項:
本任務に関連して発生した義体破損、神経汚染、記憶障害、人格複製被害、異常信号曝露について、依頼元は一切の責任を負わない。
依頼書の末尾に並んだ単語を、俺は三度読み返した。
神経汚染。記憶障害。人格複製被害。異常信号曝露。
どれも、通常の回収任務には必要のない文言だった。企業研究所から逃げ出した人間を一人連れ戻すだけなら、義体破損の免責条項だけでも十分だろう。記憶や人格にまで言及しているとなれば、依頼元が何かを隠していると考える方が自然だった。
対象の発言を信用するな、という備考も気にかかる。
信用できないと判断するのは、任務を受けた人間の仕事だ。依頼書の側から口を塞いでくるのは、聞かれて困る話があるからなのかもしれない。
ろくな仕事ではなさそうだった。
それでも、俺は承認ボタンを押した。
視界の右端に浮かんでいた契約窓が、細かな青白い粒子へ崩れていく。続いて前金の入金通知が網膜へ走り、残高の数字が八万クレジット分だけ増えた。
安くはない。
ただ、命を賭ける値段として十分かと問われれば、首を傾げるところだろう。
俺は視界から契約書を閉じ、雨の降る街へ目を戻した。
東京湾岸第七企業管区。
古い地図を信じるなら、この辺りは海だったらしい。海面を埋め立て、その上に人工地盤を築き、さらに企業施設や居住区を積み重ねていった結果、今では海岸線がどこにあったのかさえ分からなくなっている。
頭上を見上げても、空らしいものはほとんど残っていなかった。
幾層にも重なった高架道路がビルの谷間を横切り、その上を空中車両の誘導灯が赤や青の線となって流れている。さらに高い場所では、企業幹部用と思われる黒塗りのVTOLが、雨雲の下を音もなく滑っていた。
本物の夜空は、それらの向こう側にあるのだろう。
下層で暮らしている人間の大半は、一度も見上げたことがないだろうが。
ビルの壁面を覆う広告ホログラムが、雨粒を透かして瞬いていた。
女の顔だけで十階分はありそうだった。長い睫毛が持ち上がるたび、虹色の光が辺りへ散り、濡れた路面に落ちていく。
水たまりの中では、逆さまになった街が小刻みに揺れていた。
俺はフードの奥で息を吐く。
顔の左半分を覆う戦術バイザーが、降り続く雨の成分を視界へ表示した。
硫黄化合物。重金属微粒子。工業用ナノマシンの残滓。生体組織へ長期的な影響を与える可能性あり。
第七管区では、雨に警告表示が出る程度なら珍しくもない。吸い込んだところですぐに死ぬわけではなく、数年後に肺を交換する費用が必要になるだけだった。
金のある人間は人工肺に替える。
金のない人間は咳をしながら働き続け、最後には自分の身体を部品ごと金融会社へ差し出すことになるのだろう。
通りの向こうでは、露店の店主が透明なシートの下へ中古義肢を並べていた。
右腕、左脚、脊椎補助フレーム、神経端子、型落ちの軍用反射加速器。どれにも洗浄済みと表示されているが、義肢の接続部には暗い変色が残っている。
以前の持ち主が生きているかどうかまでは、保証の対象に入っていないらしい。
それでも買う人間はいる。
買わなければ働けず、働けなければ身体を維持できない人間もいるからだ。
上層区の連中は新品の身体を買い、下層区の連中は誰かの死体から外した部品で明日をつなぐ。
この街の秩序を説明するなら、その程度で足りるような気がした。
『対象反応、三百二十メートル先』
耳の奥で補助AIが告げた。
感情の起伏を削ぎ落とした聞き慣れた声だった。
違法改造された旧式軍用AIで、正式な型番は残っていない。過去の所有者が消したのか、戦場で焼けたのか、その辺りも分からなかった。
俺は普段、単に《相棒》と呼んでいる。
「生体反応は」
『一名。周辺に武装反応七。小型飛行端末二。大型機兵一』
「大型?」
『HCV-09《WARDEN》。ASTER DYNAMICS企業保安軍所属。現在、都市巡回モード』
報告に合わせるように、遠くから鈍い振動が伝わってきた。
一歩。
少し間を置いて、もう一歩。
靴底を通して地面の揺れが上がり、水たまりの表面に細かな波紋が広がる。高架下で雨を避けていた浮浪者たちは、振り返るより早く壁際へ身体を寄せていた。
何が来るのか、音だけで分かっているらしい。
ビルとビルの隙間から巨大な脚部が現れた。
続いて腰部、胸部、肩部が姿を見せる。
全高は十五メートル前後。人型に分類されてはいるものの、人間を模倣した兵器には見えなかった。都市の狭い区画を踏破するため、結果として二本脚を選んだ装甲車両と呼ぶ方が近いだろう。
胸部には重ねられた複合装甲。肩部には格納式のマイクロミサイルセル。右腕には三十ミリのスマートチェーンガンが固定され、左腕には非殺傷パルス投射器の表示があった。
もっとも、あの大きさの兵器から撃たれる以上、殺傷と非殺傷の境目は被害者の義体性能次第なのかもしれない。
機体の頭部センサーが、ゆっくりと左右へ動いた。
複数の光点が通行人の顔を走査していく。義眼を入れている者は機体側の認証網へ直接接続され、生身の目を残している者は虹彩を読み取られる。
近くにいた子供が反射的にフードを深く下ろした。
母親らしい女が、その頭を抱えるようにして路地へ引き寄せる。
やがて、街区放送が頭上から流れた。
【警告。企業保安軍による通常巡回中。市民の皆様は移動経路を確保してください。保安活動への妨害は、契約法第九十二条に基づき制圧対象となります】
通行人は誰も立ち止まらず、誰も機体を見上げなかった。
見慣れているからではない。
目を合わせない方が安全だと知っているからだろう。
《WARDEN》の足元から青い光が走り、歩行予定区域が路面へ投影された。
酒瓶を手にした男が、その線の内側によろめき出る。
直後、小型警備ドローンが高架下から降下した。
短い発砲音。
男は肩を押さえて倒れ込んだ。撃たれた部分から服の色が暗く変わっていく。
悲鳴は上がったが、周囲の人間は歩調を変えなかった。
第七管区で長く生きるには、自分に関係のない暴力を見なかったことにする必要がある。
誰かに教わったわけではない。ここで暮らしていれば、いずれ身体が覚えるのだろう。
俺はフードを被り直し、表通りから細い路地へ入った。
対象の反応は、この先にある旧医療モール跡から出ている。
八年前に破産した民間病院を、違法義体屋とデータ売人、神経薬の密売人たちが区画ごとに占有しているらしい。上層階の一部は崩れ、むき出しになった鉄骨の間から雨水が流れ落ちていた。
外壁には、かつての企業広告がまだ残っている。
広告に映る女の顔は半分ほど映像が欠け、口元だけが笑顔のまま点滅を繰り返していた。
笑っているようにも見えたし、故障した表情筋が引きつっているようにも見える。
俺は建物の裏口へ回った。
電子錠へ右手を添えると、義指の先から細い端子が伸び、接続口の内部へ滑り込んでいく。
三秒後、錠前の表示が赤から青へ変わった。
扉を押し開ける。
内部には、外とは違う湿った冷気が溜まっていた。
最初に鼻についたのは、古い消毒液の臭いだった。焦げた樹脂と血液の臭いが混ざり、長く放置された手術室のような空気になっている。
足元には医療ドローンの残骸が転がり、壁から垂れた神経接続ケーブルが床を這っていた。天井の奥からは一定の間隔で水滴が落ち、そのたび、暗い廊下へ小さな音が響く。
どこかの部屋では、まだ生命維持装置が動いているのかもしれない。
低い駆動音が壁を伝い、胸骨の辺りへ触れてくる。
『二階に生体反応』
「武装反応は?」
『一階に三。三階に四。移動速度は低下傾向』
「待ち伏せか」
『可能性は高い』
俺はコートの内側から短銃を抜いた。
VECTOR ARMS製の旧式スマートハンドガン。登録上の所有者は、九年前に死亡した男のままだった。装填しているのは対義体用の徹甲弾で、銃身側面の認証灯が俺の神経インプラントと接続し、青い線を走らせる。
安全装置を解除し、階段へ足を掛けた。
二段目で、靴底の下から小さな軋みが上がる。
その音とほとんど同時に、左側の診察室から人影が飛び出してきた。
男だった。
ただ、片腕が異様に長い。
一瞬、伸縮式の義肢かと思った。だが、金属部品の継ぎ目はなく、皮膚の下で骨格そのものが引き延ばされているように見える。
反射加速器を起動する。
首の後ろへ熱が走り、周囲の動きが緩やかになった。
男の靴が床を蹴る。
唇の端から唾液が飛び、空中でいくつもの粒に分かれていく。
照準補助が視界に赤い線を引いた。
一発目で膝を撃ち抜く。
男の身体が傾く。
二発目は肩へ入った。骨と肉が弾け、伸びていた腕が壁へ叩きつけられる。
三発目を頭へ送ろうとしたところで、男の口元が動いた。
笑っていた。
「見つけた」
男の声には聞こえなかった。
何人分もの音声を一つに重ね、濡れた機械を通して流したなら、あんな響きになるのかもしれない。
反射加速が切れる。
男の身体が床へ落ちた。
直後、その首筋から黒い糸のようなものが噴き出した。
神経ケーブルに似ていた。だが、表面には金属の光沢がなく、脈打ちながら床を這っている。
生きている。
そう考える以外に、適当な言葉が浮かばなかった。
黒い繊維は壁際まで伸び、停止していた医療端末の接続口へ潜り込んだ。
次の瞬間、廊下の照明が一斉に点灯する。
暗闇に慣れていた視界が白く焼けた。
壁に並んでいたモニターも同時に立ち上がり、黒い画面へ同じ文字列を映し始める。
「相棒、解析」
『該当規格なし。既知の機械言語、神経信号、通信規格のいずれにも一致しません』
「企業製の生物兵器か?」
『不明』
不明。
補助AIがその答えを返す時は、情報が足りないというより、人間側の分類そのものが役に立たない場合が多い。
俺は倒れた男から距離を取り、銃口を廊下の奥へ向けた。
何かが床に触れる音がする。
引きずるような、軽い音だった。
モニターの明かりを頼りに進むと、奥に手術室があった。
天井の手術灯は半分が割れ、中央には錆の浮いた手術台が置かれている。床に転がっていた拘束具には、細い腕を無理に引き抜いたような血の跡が残っていた。
壁際には、透明な培養槽が三基並んでいる。
中身は空だった。
ただ、内側の表面には、爪で何度も引っ掻いたような白い傷が刻まれていた。
その向こうの隅に、少女が座り込んでいた。
白い患者衣。雨に濡れたような銀色の髪。細い手首には赤黒い拘束痕が残り、裸足の下には砕けたガラスが散らばっている。
足の裏を切っているらしく、指先から落ちた血が床へ小さな染みを作っていた。
少女は俺に気づくと、壁へ背中を押しつけた。
「……来ないで」
声は掠れていた。
表情に浮かんでいるものが恐怖だけなのかは分からない。警戒、怒り、あるいは抵抗を続けることに疲れ切っているようにも見えた。
「イリス・ノヴァクだな」
少女の瞳がわずかに揺れる。
青とも緑とも呼びにくい色だった。虹彩の奥には淡い金色の輪がいくつも重なり、光を受けるたび、別々の方向へ動いているように見える。
義眼にしては生々しい。
そして、生身の眼球にしては、随分と構造が整いすぎている気もした。
「俺は依頼を受けて来た者だ」
「アステルの人?」
「所属はしてない。金を貰っただけの雇われ人だ」
「なら、同じ」
返ってきた声は小さかったが、言葉は迷わなかった。
「連れて帰るの?」
「契約ではそうなっている」
「帰ったら、私は解剖される」
俺はすぐには答えなかった。
依頼書には、彼女は研究資産と記載されていた。
生体分類の欄には人類とあったが、人間として扱えという条項はどこにもなかった。生存状態での回収を求めているのも、命を尊重しているからではなく、死体では価値が下がるからなのだろう。
その時、廊下の奥で湿ったものが潰れる音がした。
イリスが顔を上げ、彼女の表情が変わった。
俺を見ていた時の警戒よりも、さらに深い場所から恐怖が浮かび上がったように見える。
「来る」
「企業の追跡部隊か」
「違う」
イリスは首を振った。
「皮を着てるだけ」
問い返すより先に建物全体が揺れた。
天井から埃が落ち、手術器具が床へ転がる。
割れた窓の外から赤い光が差し込んできた。
巡回中だった《WARDEN》が、建物の正面でこちらを向いている。
先ほどまで青かった頭部センサーは、戦闘管制を示す赤色へ変わっていた。右腕のスマートチェーンガンが持ち上がり、銃口が手術室のある階へ向けられる。
街区放送が雑音とともに途切れた。
代わりに、低い合成音声が響く。
「……判断が早すぎないか」
『通信ログに異常を確認。機体命令系統が外部から上書きされています』
「アステルの指示か?」
『発信元、識別不能』
イリスが立ち上がり、俺のコートの袖を掴んだ。
冷たい指だった。
「逃げて。あれも、もう中にいる」
「中?」
「あの機械の中。人の中。街の中。声の中」
言葉は断片的で、説明になっているとは言い難い。
それでも、袖を握る指の震えは演技には見えなかった。
廊下の奥から、硬いものを引きずる音が近づいてくる。
やがて現れたのは、先ほど撃ち倒した男だった。
膝は砕け、肩も原形を残していない。それなのに立っている。
裂けた肉の間から黒い繊維が伸び、骨や腱の代わりに身体を支えていた。撃ち抜かれた脚は不自然な方向へ曲がっているが、歩調が乱れる様子はない。
その背後にも、人影が並んでいた。
一階と三階にいた武装反応なのだろう。
全員が同じ角度に首を傾け、同じように口元を歪めている。
「返せ」
一人が口を開く。
続いて、他の全員が同じ言葉を重ねた。
「その器は、まだ開いていない」
俺は一歩下がり、イリスを背中側へ押しやった。
銃口を男たちへ向ける。
窓の外では、十五メートルの鉄の番犬がチェーンガンを構えていた。
雨に濡れた下層ブロックのネオンが、その装甲表面を赤や紫に染めている。
壊れた医療広告も、外壁でまだ点滅を続けていた。
広告の文句と、目の前の男たちの姿が重なる。
あれが次の標準だというなら、人間の時代はとっくに終わっているのかもしれない。
俺は息を吐いた。
「最悪の仕事だ」
『契約破棄を推奨します』
「もう遅い」
引き金を引く。
銃声が手術室を裂き、白い壁に黒い影が跳ねた。
その夜、俺は八万クレジットで巨大企業を裏切った。
そして、人類が侵略の始まりに立っているのではなく、すでにその只中にいるのだと知ることになる。
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