独立傭兵奮闘記 作:SF厨
装甲機兵が交差点へ足を下ろしたのは、イリスが俺の車に乗り込んでから四十七秒後だった。
最初に聞こえたのは、警告放送でも砲身の作動音でもない。地の底から這い上がってくるような駆動音と、それに少し遅れて路面の下を伝わってきた振動だった。
ダッシュボードに転がしていた空薬莢が、細かな音を立てながら端から端へ滑っていく。車体を叩いていた雨音も、その瞬間だけは遠くなったように感じられた。
どこかでガラスが割れる。
続けて、甲高い悲鳴が上がった。
助手席のイリスは顔を伏せたままだった。
濡れた銀色の髪が頬に張りつき、首筋を伝った雨水が、薄い患者衣の襟へ吸い込まれている。両腕には、旧式の医療端末らしき白い筐体を抱えていた。端の部分から滴が落ち、膝の上へ赤黒い染みを作っている。
彼女自身の血なのか、別の誰かのものなのかは分からなかった。
「出して」
車へ乗り込んでからイリスが口にしたのはそれだけだった。
俺は正面の交差点へ目を戻す。
雨の向こうでは赤や紫のネオンが輪郭を失い、濡れたビルの外壁へ溶け込んでいた。頭上の空中道路を流れる車列は、まるで水槽の中を泳ぐ発光魚の群れのようだ。
その光を遮りながら、巨大な脚部装甲が建物の陰から姿を現した。
つま先だけでも小型車一台分ほどはありそうな巨体だ。
黒い装甲板の隙間から排熱が吐き出され、路面に溜まった雨水を白い蒸気へ変えていく。膝部の姿勢制御用スラスターは、機体が一歩進むたびに青い火を瞬かせていた。
企業保安軍の重装警備機兵。
この辺りに暮らす連中は、正式名称では呼ばない。
企業の紋章を背負って街路を歩き、命令ひとつで人を撃つあれを、皮肉と諦めを込めて《番犬》と呼んでいた。
《番犬》に搭載された頭部の複合センサーが、ゆっくりとこちらへ向く。
ビルの四階ほどの高さにある赤い光点が、雨の幕を通して車内を覗き込んでくる。
左眼の義眼に警告表示が重なった。
「何をした」
イリスへ訊ねたものの、返事はなかった。
代わりに、端末を抱く指へ力が入る。血の気を失った爪の隙間には、乾きかけた赤いものが残っていた。
「企業機兵が都市戦闘モードに入ってる。逃亡者を一人捕まえるための装備じゃないだろ」
「……分かってる」
「なら、理由も分かるはずだ」
イリスの唇がかすかに開いた。
何かを言おうとしたようだが、声にはならなかった。怯えているようにも見えたし、何を話しても信じてもらえないと思っているのかもしれない。
少なくとも、《WARDEN》が現れること自体は予想していたらしい。
機体の肩部装甲が左右へ展開した。
内部から現れたのは、群衆制圧用の音響投射器ではない。小型誘導弾を束ねた軍用発射セルだった。
俺はハンドル脇の起動キーへ手を伸ばす。
「座席の下にベルトがある。着けろ」
「そんな時間――」
「時間がないから着けるんだよ」
イリスが足元を探る間に、車両システムを起動した。
正確には、昔ながらのエンジンが載っているわけではない。後部の小型核融合セルから電力が供給され、四輪の独立駆動モーターが低く唸り始める。
十七年前に製造された地上走行車だ。
上層区へ持ち込めば骨董品か廃棄物として扱われるだろう。それでも都市交通管制に操縦権限を預けていないという一点だけで、俺にとっては最新の自動運転車より価値があった。
ダッシュボードへ警告灯が並ぶ。
右前輪の磁気懸架に異常。
排熱系統は交換推奨時期を二千キロ超過。
神経接続補助装置は非認証。
いつものことだ。
フロントガラスの向こうで、《WARDEN》の胸部投光器が点灯する。
強烈な白い光に照らされ、通行人たちが一斉に建物の陰へ走った。歩道に並んでいた露店の屋根が巨体の腕に触れて倒れ、中古義肢や神経端子が雨水の中へ散らばっていく。
店主らしい老人が商品へ手を伸ばした。
その胸に警備ドローンの照準光が止まると、老人は動きを止め、両手を上げた。
雑音混じりの街区放送が流れ始める。
【――第七企業管区において、機密研究資産の不正持ち出しが確認されました。市民の皆様は現在地で待機し、企業保安部隊の指示に従ってください】
イリスの肩がわずかに強張った。
研究資産。
人間へ使う呼び方ではないように思えるが、企業の契約文書では珍しいものでもない。義体化率が一定値を超えた労働者も、特許遺伝子を組み込まれた胎児も、所有権を証明する番号と一緒に資産台帳へ載る時代だ。
少女一人が物品として読み上げられたところで、アステルの法務部は文言の修正すら必要ないと判断するだろう。
【――対象には武装した独立契約者が同行している可能性があります。抵抗を確認した場合、現場判断による致死措置が許可されています。】
「ハッ、俺まで処分対象に入ったらしい」
「……ごめんなさい」
「謝るのは逃げ切ったあとにしろ」
誘導弾セルから、四つの光が飛び出した。
アクセルを踏み込む。
車体が前方へ弾かれ、イリスの身体が座席へ押しつけられた。抱えていた医療端末が膝の上で跳ねる。
最初の一発は、ついさっきまで車を停めていた場所に着弾した。
爆発というより、空気そのものを巨大な板で叩き潰したような衝撃だった。後部ガラスが内側へ大きく撓み、義眼の視界を赤い警告表示が埋めていく。
二発目は頭上の空中歩道へ命中した。
透明な床材が砕け、人影とガラス片が雨の中へ落ちてくる。
俺はハンドルを切り、倒れかけた広告塔の下へ車体を滑り込ませた。
巨大な女性の顔が路面へ崩れ落ち、虹色のノイズを撒き散らしている。
広告の唇だけが故障を免れたらしい。瓦礫に埋もれたまま、同じ文句を繰り返していた。
バックミラーには、《WARDEN》の上半身が映っている。
機体は周囲の建物を避けようともしなかった。肩部装甲で外壁を削りながら身体を回し、右腕のチェーンガンをこちらへ向ける。外れた看板や配管が、火花とともに路上へ降り注いだ。
「行き先は?」
走行音に負けないよう、声を張る。
「どこでもいい」
「一番困る答えだな。まるで晩御飯について話し合う親子だ」
「……アステルの管理区画じゃなければ」
「おいおい、この湾岸でアステルと無関係な土地を探す方が難しいんだが」
正面の路地へ車を滑り込ませた。
両側の建物が近すぎて、サイドミラーが垂れ下がった電線を弾く。上階からは洗濯物や排水管が張り出し、窓辺にいた住人たちが驚いた顔を覗かせていた。
背後で重い発砲音が響く。
右側の壁が内側へ弾け、コンクリート片が車体へ降り注いだ。
三十ミリ弾が建物を一枚挟んだまま、こちらの進路を追っている。
射撃は正確だった。
ただし、直接車体を狙っているわけではない。逃走経路だけを少しずつ削り、進める方向を限定しているように見える。
「生け捕りか」
俺の呟きを、イリスが拾った。
「私を殺すつもりはないと思う」
「そういう契約か」
「私はまだ、使えるから」
そこには自分を哀れむような響きさえなかった。
何度もそう言われ、いつしか動かしようのない事実として受け入れてしまったのかもしれない。
正面の信号表示が赤へ変わった。
止まるつもりはなかったが、交差する空中車両が一斉に高度を下げてくる。都市交通管制がこちらの進路を塞ごうとしているらしい。
「その端末を貸せ」
俺はイリスが抱えている白い筐体を顎で示した。
「これは……」
「路地ごと機兵に潰されたくなければ寄越せ。都市網に割り込む」
イリスは端末と俺の顔を交互に見た。
ほんの一瞬だけ迷ったあと、両手で差し出してくる。
受け取った途端、義指の内部へ軽い痺れが走った。
医療用にしては重量が不自然だった。筐体の内部に生体組織の保存装置でも積んでいるのかもしれない。
側面には、消えかけた管理番号とアステル・ダイナミクス生体研究部門の旧ロゴが刻まれている。
その下に、細い文字があった。
視界の端で、イリスの横顔を窺う。
契約書に書かれていた番号と一致している。
端末ではなく、彼女自身を示す管理番号なのだろう。
俺は接続口へ義指のケーブルを差し込んだ。
次の瞬間、視界が白く焼けた。
走行音が消える。
ハンドルを握る指の感触も、座席から伝わる振動も、一拍だけ遠くへ引いていった。
代わりに見えたのは、暗い空間だった。
上下も距離も分からない闇の中に、無数の白い線が浮かんでいる。神経網のようにも見えたし、星々をつないだ航路図にも見えた。
それらは枝分かれを繰り返し、先端に宿った淡い光が、心臓の鼓動に似た間隔で明滅している。
その奥に、何かがいた。
形は捉えられなかった。
見ようと意識を向けた瞬間、逆にこちらを覗き返されたような感覚だけが残った。
『接続を切断してください』
補助AIの声が耳の奥で響く。
『未登録信号を検出。神経系への侵入を確認しました』
俺は反射的にケーブルを引き抜いた。
街の音が戻ってくる。
正面には、大型貨物車が迫っていた。
ハンドルを大きく切り、側面を擦りながら脇を抜ける。窓の外へ火花が流れ、イリスの頭が助手席のガラスへぶつかった。
「何を入れた?!」
「何も」
「……今のが何もなら、俺の義眼は雨漏りでもしたらしいな」
イリスは答えず、端末を胸元へ引き戻した。
その顔色は、車へ乗り込んできた時よりも悪くなっている。
「あなたにも見えたの……?」
「見えたというほど、はっきりしたものじゃない。神経汚染か、粗悪な幻覚信号かもしれないな」
「違う」
「なら何だ」
イリスは窓の外へ顔を向けた。
高架下を逃げ惑う人々。
雨の中で点滅する義体広告。
路上診療所の軒下へ積まれた中古臓器の保冷容器。
その上を飛ぶ企業警備ドローン。
どれを見ているのかは分からなかった。
「向こうから見てる」
「誰が」
「分からない。でも、ずっと前からいる」
その声は小さく、車体の軋みと走行音に呑まれかけていた。
背後で轟音が響く。
路地の入口にあった建物が大きく傾き、《WARDEN》の右腕が壁を突き破って現れた。
三本指のマニピュレーターが外壁を掴み、鉄骨ごと引き剥がしていく。
地上を走り続ければ、いずれ進路を塞がれるだろう。
俺は左手で車を操りながら、右手をダッシュボードの下へ伸ばし、隠し蓋を開けた。
中には、車両登録上は存在しない切り替えレバーが収まっている。
イリスがそれを見て、眉を寄せた。
「この車、飛べるの?」
「落ちるまでの時間を少し延ばす事ができる」
「それは飛べるって言わない」
「フン、よく分かってるじゃないか」
レバーを引く。
車体下部で火薬式ボルトが連続して弾け、古い外装パネルが路面へ落ちた。
露出した補助スラスターへ電力が流れ、足元から唸りが伝わってくる。
推力は想定値の八割。
右後部の噴射器は点火不良。
表示される数字だけを見れば、試すべきではない状態だった。
それでも、他の道があるようには思えなかった。
路地の先に見える高架道路へ向けて速度を上げる。
正面には工事用の資材運搬路が斜めに伸びていた。途中で切れており、向こう側の空中道路までは二十メートルほど離れている。
「掴まれ」
「ベルトはしてる」
「そういう話じゃない。手が届くものなら何でもいい、とにかく捕まれ」
イリスがドア上部の取っ手を握った。
車体が運搬路へ乗り上げる。
薄い鋼板が重量に耐えきれず、通過した箇所から順に崩れ始めた。タイヤが継ぎ目を跳ねるたび、視界が大きく揺れる。
背後から赤い照準線が伸びてきた。
《WARDEN》が右腕の機関砲を構えている。
俺はアクセルを床まで踏み込んだ。
途切れた運搬路の端が迫る。
補助スラスターを点火。
背中を殴られたような衝撃とともに、車体が宙へ飛び出した。
一瞬だけ、街の音が薄くなる。
眼下には、第七企業管区の夜景が広がっていた。
積層された居住区の隙間を、工業設備の赤い排熱が川のように流れている。無数の空中道路が都市の谷間を縫い、そのさらに上では、軌道エレベーターの支柱が雨雲を貫いていた。
雲の裂け目に浮かんでいるのは月ではない。
低軌道工廠と、そこへ接続された居住ステーションの明かりだった。
人類は宇宙へ進出しても、夜を暗いままにはしておけなかったらしい。
車体が右へ傾く。
死んでいる後部推進器のせいで、着地点がずれていた。
「右へ寄れ!」
「どっちの右?」
「俺から見て右だ」
「? 同じでしょ」
「話が早くて助かる」
イリスが身体を寄せる。
車体は横滑りしながら、空中道路の側壁へ激突した。
金属が押し潰される音。
窓の外へ散る火花。
車内を舞うガラス片。
左前輪がどうにか路面へ乗り、続いて後輪が叩きつけられた。右側面は側壁を削ったままだったが、車体は空中道路の上へ戻る。
衝撃で助手席のエアバッグが開き、イリスの顔を覆った。
「……生きてるか?」
白い袋の向こうから返事があった。
音が籠もって聞き取れなかったものの、悪態をつける程度の余裕は残っているらしい。
バックミラーを見る。
追ってきた《WARDEN》は、路地の向こうで立ち止まっていた。
あの巨体を空中道路まで跳ばせるだけの推進器は搭載されていないのだろう。
これで撒けた。
そう考えかけた時、街の照明が一斉に消えた。
空中道路の誘導灯。
広告ホログラム。
ビルの窓明かり。
順番に落ちたのではない。同じ瞬間に、都市から光だけが抜き取られた。
残ったのは車の前照灯と、雨雲の上から差し込む軌道施設の白い光だった。
都市の音も変わっていく。
反重力タクシーの駆動音が途切れ、自律配送機が空中で停止した。遠くでは、管制を失った車両同士がぶつかり、乾いた衝突音が続いている。
「停電か……?」
俺が呟くと、イリスはエアバッグを押しのけた。
「違う」
彼女の瞳の奥に、淡い金色の輪が浮かんでいた。
義眼の発光とは違う。
虹彩そのものが、内側から照らされているように見える。
「止められた」
「誰に」
イリスは答えなかった。
代わりに、胸へ抱えていた端末の画面が点灯する。
電源は切れていたはずだった。
黒い画面へ、白い文字が一つずつ浮かんでいく。
次の行。
さらにその下へ、見覚えのない記号が並び始めた。
文字に近い形ではあるが、人間の言語体系には見えない。曲線と直線が幾重にも重なり、脈打つたびに形を変えている。
耳の奥で補助AIが警告を発した。
『通信回線への侵入を確認』
「遮断しろ」
『外部回線はすでに遮断されています』
「なら、どこから入った」
返事はなかった。
義眼に表示されていたAIの応答アイコンが消える。
一秒。
二秒。
やがて、聞き慣れているはずの声が、わずかに異なる抑揚で戻ってきた。
『御堂迅』
思わず息を止めた。
補助AIが俺の名前を口にしたことはない。
呼ぶようには設定していないし、そもそも名前を教えた覚えもなかった。
『見つけた』
車内スピーカー。
義眼の骨伝導端子。
イリスの端末。
異なる場所から、同じ声が重なって聞こえる。
男とも女とも判別できなかった。
人間の声を模倣してはいるものの、息継ぎの位置がおかしい。複数の発声器官から出した音を、あとから一つの言葉に縫い合わせているのかもしれない。
イリスが俺の腕を掴んだ。
濡れているせいだけでは説明できないほど、指先が冷たかった。
「切って!」
「回線は切れてる──!」
「違う! あなたの中にある機械を切って!」
「義眼まで落とせってか?!」
「早く!」
左耳の後ろへ指を差し込み、皮下に埋め込まれた緊急遮断スイッチを押す。
視界の左半分が暗くなった。
補助表示が消え、義眼は光を映さない黒いレンズへ変わる。聴覚補助も停止し、車内の音が急に遠ざかった。
それでも、声は消えなかった。
頭蓋の奥から、直接響いてくる。
『返して』
イリスが両手で耳を塞いだ。
「聞かないで……!」
「聞くなと言われて止められるなら、神経端子なんて入れてないんだが」
「違う! 意味を考えないで」
端末の画面へ、新しい文字列が増えていく。
その一部が、人間の文字へ置き換わった。
俺はイリスを見る。
彼女も同じ文章を読んだらしい。
唇から血の気が引いていた。
暗闇の先で、赤い光が一つ灯る。
続いて二つ。
そして、三つ。
空中道路の両側で停止していた車両が、一斉に前照灯をこちらへ向けた。
運転席にいる人々は、身動き一つしない。
顔の大半は影に隠れていた。それでも、全員が同じ角度でこちらを見ているように感じられた。
中央の車両から、一人の男が降りてくる。
アステル企業保安部の制服を着ていた。
雨に濡れながら、こちらへ歩いてくる。
右脚を引きずっていた。膝から下が壊れているのか、足を運ぶたびに足首が人間の関節ではありえない方向へ折れ曲がる。
それでも男は止まらなかった。
車の前照灯がその顔を照らす。
皮膚の下で細いものが動いていた。
頬から首筋にかけ、黒い糸のような隆起が走っている。神経配線にも見えたが、生身の皮膚の下で脈打つものをケーブルと呼ぶには無理がある。
男の口が開いた。
「返せ」
頭の中へ響いていた声と同じだった。
周囲の車両からも人が降り始める。
スーツ姿の会社員。
子供を抱えた女。
路上労働者。
警備兵。
年齢も義体化の程度もばらばらだった。
ただ、全員が同じ歩幅でこちらへ近づいてくる。
イリスが俺の袖を握る力を強めた。
「これが研究所を襲ったのか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「……最初からいたの」
イリスの声が震えていた。
「研究員の中にも、警備員の中にもいた。私を調べていた人の中にも。いつから入れ替わっていたのか、誰にも分からなかった……」
「お前には分かったのか」
イリスは自分の胸元へ視線を落とした。
患者衣の下、心臓よりも少し上の辺りへ指を添えている。
「聞こえるから」
「何が」
「人間じゃないものが、身体を動かす音が」
空中道路の後方から、新しい振動が伝わってきた。
巨大な足音。
振り返ると、離れた高架道路の上に《WARDEN》の頭部が現れている。
地上から追ってきた機体ではない。
別の一機が先回りしていたらしい。
さらに、隣接するビルの陰から二機目。
その奥で、肩部灯を赤く点滅させる三機目。
企業が逃亡者一人へ差し向ける戦力としては、いくら何でも多すぎる。
あるいは、あれらを動かしているものは、もう企業の意思ではないのかもしれない。
車載端末が勝手に起動した。
通信を遮断したはずの《BABEL-NET》契約管理画面が、フロントガラスへ投影される。
【CONTRACT FILE:A-7391 / BLACK-LINE】
依頼元:ASTER DYNAMICS 極東軌道支社
任務種別:回収/護送
対象:研究資産 No. L-041《IRIS》
対象名義:イリス・ノヴァク
生体分類:人類
危険等級:A-
任務内容:
対象を生存状態で確保し、指定回収地点まで移送せよ。
特記事項:
対象が「人間ではないもの」に関する発言を行った場合、記録せず速やかに鎮静処置を行うこと。
免責条項:
本任務に関連して発生した義体破損、神経汚染、記憶障害、人格複製被害、異常信号曝露について、依頼元は一切の責任を負わない。
依頼を受けたのは、三時間前だった。
報酬は五十万クレジット。
研究施設から逃げ出した少女を一人、指定地点へ運ぶ。それだけの仕事だと聞かされていた。
依頼人は、彼女が妄想症状を訴える可能性があると言っていた。
人間ではないものがいる。
人の皮を被っている。
声を聞いてはいけない。
契約書には、そうした発言を信用するなと書かれていた。
今になって読み返すと、ずいぶんと丁寧な注意書きだったようにも思える。
信用されたくない話を、あらかじめ妄言として処理しておきたかったのだろう。
「御堂迅」
イリスが俺の名前を呼んだ。
「どうして知ってる」
「画面に出てる」
見れば、契約書の受注者欄が勝手に展開されていた。
独立傭兵登録名、御堂迅。
生体認証番号。
義体化率。
保有兵装。
過去の契約違反歴。
秘匿設定にしていた情報まで、すべて表示されている。
さらに画面の最下部には、見覚えのない選択肢が追加されていた。
報酬欄の数字が増えていく。
五十万。
百万。
五百万。
一千万。
下層区で一生暮らすだけなら、それでも足りるだろう。
火星行きの移民船へ乗り、正規市民権を買うこともできるかもしれない。損傷した義眼も、旧式の脊椎補助器も、新品へ交換できる。
イリスは画面を見ていなかった。
近づいてくる人々だけを見つめている。
逃げ道を探しているというより、いつ捕まるのかを待っているような顔だった。
……もう諦めているのかもしれない。
あるいは──、最初から誰も信用していなかっただけなのだろう。
研究資産と呼ばれ、解剖されるために管理され、逃げた先でも傭兵に売り戻される。そんな人生なら、他人の善意を信じない方が合理的ではある。
俺は画面の《NO》を押した。
表示が乱れる。
「前金はいくらだったの」
イリスが訊ねた。
「八万」
「それだけで裏切るの?」
「お前のせいで車が半壊した。修理費まで考えればもう赤字だ」
「じゃあ、どうして──」
答える代わりに、助手席足元のロックを解除する。
床板が開き、格納していた短機関銃と予備弾倉がせり上がった。
対義体用徹甲弾。
企業保安兵を相手にするには心許ないが、素手よりはましだろう。
銃を手に取り、装填状態を確認する。
「依頼書に嘘が多すぎた」
「それだけ?」
「契約屋にとっては十分だ。そうだろ?」
車外では、人間の形をしたものが距離を詰めていた。
先頭の男は、もう十メートルほど先まで来ている。
口元だけが笑っていた。
その背後では三機の《WARDEN》が武装を展開し、頭上には企業警備ドローンが集まり始めている。
逃げ道らしいものは見当たらない。
だからといって、ここでイリスを引き渡したところで、俺まで見逃される保証はなかった。
敵の提示する条件を信用しないのは、傭兵として最低限の習慣だ。
「イリス」
少女がこちらを見る。
「今のところ、そう呼ばれてるだけ」
「他の名前があるのか」
「ないと思う」
「なら、今はイリスでいい。お前、あの機兵を止められるか」
「無理」
「無理か」
「でも、少しなら聞かせられる」
「何を──」
金色の輪が、彼女の瞳の中で広がっていく。
車外の男が手を伸ばした。
俺は銃口を向ける。
イリスが端末を抱き締めたまま、短く息を吸った。
その瞬間、都市が悲鳴を上げた。
音ではなかった。
少なくとも、耳で聞こえる種類のものではない。
空中道路の照明が白く明滅し、停止していた車両の窓が内側から砕ける。近づいていた人々は一斉に頭を押さえ、膝から崩れ落ちた。
《WARDEN》の動きも止まる。
三機の巨体が、糸を切られた操り人形のように揺れた。頭部センサーが赤、青、白と不規則に切り替わり、肩部兵装が意味もなく開閉を繰り返す。
俺の頭蓋の内側にも何かが流れ込んできた。
暗闇。
白い枝。
星と星の間を埋め尽くすほど巨大な影。
そこから伸びる、数え切れないほどの腕。
あれは通信なのか。
誰かの記憶なのか。
それとも、遠い宇宙にいる何かが見ている夢なのかもしれない。
視界が大きく歪む中で、イリスの声だけが聞こえた。
「今!」
俺はアクセルをめいいっぱい踏み込んだ。
膝をついた男を撥ね飛ばし、停止した車両の隙間へ突っ込む。車体後部で何かが砕けたが、確認している余裕はなかった。
《WARDEN》の一機が腕を振り下ろす。
巨大な指先が車体後部を掠め、荷室の外装を剥ぎ取っていった。
それでも車は前へ進む。
都市の暗闇を、前照灯の光だけで切り開いていく。
助手席では、イリスが端末を抱えたまま荒い呼吸を繰り返していた。鼻から血が流れ、患者衣の胸元へ新しい赤い染みが広がっている。
「死ぬなよ」
「……死なない」
「なんでそう言い切れる?」
「だって──、今まで死なせてもらえなかったから」
冗談には聞こえなかった。
背後で機関砲が火を噴く。
路面が連続して弾け、車体が跳ねた。
前方には、第七企業管区と旧港湾区を隔てる防壁が見えている。検問ゲートは閉鎖され、上部では二連装の自動砲塔が旋回を始めていた。
突破できる確率を計算する補助AIは、今も沈黙したままだ。
それでも旧港湾区まで抜ければ、都市ネットワークの密度は下がる。企業機兵も、今ほど自由には動けないだろう。
イリスを拾った時点で、まともな選択肢は残っていなかったのかもしれない。
壊れかけた車を、さらに加速させる。
雨の向こうで、検問ゲートの砲塔がこちらを向いた。
そのさらに上。
雨雲に隠れていた空の一部が、ゆっくりと明るくなっていく。
軌道工廠の照明ではない。
月でもなかった。
見たことのない細長い光が、大気圏の外側から地上へ向かって伸びている。
イリスも気づいたらしい。
窓の外へ顔を向けたまま、唇を動かした。
「ぁ……、来る」
「何が!?」
「迎えに」
「もう少し主語ってやつをなぁ、お前は!」
雨の夜空を裂き、光は少しずつ太くなっていく。
あれが何なのか、俺にはまだ分からなかった。
ただ、企業研究所から逃げてきた少女一人を巡る騒ぎだけでは終わらないのだろう。
そんな予感だけは、今のところ外れそうになかった。
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