姫森ルーナがピアノを弾く話。

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第1話

この古い木床が立てる微かな軋みと、冷え切った劇場の座席の感触だけが、私の肉体をかろうじてこの地上へと繋ぎ止める錨だった。日々の喧騒に擦り切れた私の魂にとって、ここは世界で唯一の、そして絶対的な救いの聖域。四方を分厚い夜の帳に包まれた小さな演奏ホールは、さながら世界の果てに打ち捨てられた小舟のよう。中央に置かれた一台のグランドピアノだけが、天の割れ目から降り注ぐ一筋の白光を浴びて、やけに神聖に浮き上がっている。観客席を見渡しても私以外の影は見当たらない。誰も立ち入らぬこの閉ざされた空間において、時間はただ重苦しく沈殿していくのを待つばかりだった。劇が始まる前の不吉な静寂、いや、もっとたちの悪い、大嵐が襲来する直前の天と地が息をひそめる一瞬の空白。心臓の音がうるさくて、耳の奥がじりじりと熱い。

その張り詰めた結界を破るようにして、鍵盤の前へと進み出て腰を下ろしたひとりの少女の姿を、私はただ凝視することしかできなかった。世界にただ一つの光を拝むように、私はその姿を網膜に焼き付ける。

 

頭上の小さな銀のティアラが舞台照明を撥ねてきらめいている。お菓子の国という、語るも遥かなる童話の領土から迷い込んだかのような甘い気品。けれど、今宵の彼女が纏う空気は、どこか見知らぬ異郷の宮廷が持つあの冷徹な厳かさを帯びていた。いつもの長い髪を潔く払い落としたボブカットの髪型は、彼女の項を容赦なく露わにしている。その剥き出しの白さは無防備で、酷く幼い。

彼女の髪は、日本の古き絵巻より抜け出たかのような「今様色」を呈していた。気高くもいじらしい紅梅のピンク。だが、首筋に沿って切り揃えられた毛先の内側には、「藤紫」から「水浅葱」へと移ろう冷涼たる夜のグラデーションが静かに潜んでいる。甘い夢から夜空の現実へ。頭頂部で小さく弧を描いて跳ねる一房のアホ毛だけが、彼女の生まれ持つ無垢な本性を主張するように、さっきからぴょこぴょこと小刻みに震えていた。その間抜けなほどの愛らしさが、かえってこの空間の異常さを引き立てる。

私は静かに息をひそめ、彼女の横顔を見つめた。瞳は、天上の星々の運行をそのまま写し取ったかのような、神秘的な双眸。上部には「桔梗色」の深い紫が沈み込み、瞳孔の奥に向かって「若竹色」の鮮やかなミントグリーン、そして淡いライトブルーへと色彩の融和を繰り返している。劇場の光が睫毛をかすめるたび、右と左がそれぞれ異なる規則で光を撥ね返す、歪なオッドアイ。ぷっくりとした涙袋がその双眸を優しく縁取り、守ってあげたくなるような愛嬌をそこに留めていた。

 

彼女が身に纏うのは、ノースリーブのドレスワンピース。ネイビーの深淵から水色の黎明へと流れるその生地には、満ち欠けを繰り返す黄金の月と数多の星群が全面に刺繍されている。胸元で結ばれた大きな白いリボンと、肩を覆う白いセーラーカラー。

その手首で上品なブレスレットが微かな金属音を立て、白く細い指先が鍵盤の上に添えられた。

 

その瞬間、彼女の指先がほんの一瞬だけ、内側へときゅっと丸められた。

何かを恐れるように。あるいは、これから触れる漆黒の木箱に対して、最大限の敬意を払うかのように。その指の震えは、観客席にいる私にまで彼女の内に渦巻く緊張の質量を伝えてくる。彼女の唇が、声を出さずに小さく動いた。誰に宛てたわけでもない、彼女自身の内に潜む甘えと、それを押し殺そうとする矜持。もちもちとした柔らかそうな頬が緊張で微かに強張り、それがかえって彼女の庇護欲をそそる幼さを引き立てていた。その一挙手一投足を見洩らすまいと、私はただ呼吸を止める。

 

最初の打鍵は、劇的な一撃だった。

 

重厚な和音がホールの壁を叩き、私の鼓膜を震わせる。古の悲劇の序幕、王の崩御を告げる鐘の音、あるいは天空から轟く雷鳴。先ほどまで頭の中で反芻していた彼女の色彩や衣装のノイズは、この音の奔流によって一瞬にして吹き飛ばされた。意識が、完全にその指先が紡ぎ出す音の世界へと引きずり込まれていく。

彼女の右手が鍵盤の上を高音部へと駆け上がっていく。その動きに伴って、藤紫のインナーカラーが鮮やかに翻り、光の軌跡を描いた。高音はまるできらめく星屑がガラスの床に飛び散るかのように鋭く、冷たい。彼女は首を微かに左へと傾げ、自らが放った音の残響を確かめるように、動きを一時的に止めた。その「間」の取り方は、彼女が日常で見せる独特の間拍子を思い出させる。言葉を途中で切り、相手の反応を窺うような、あの無意識の呼吸と完全に一致していた。

言葉としての語尾を優しく引き摺るあの喋り方が、いまやピアノのサスティンペダルを踏み込み、音をどこまでも引き延ばす残響の処理へと昇華されている。音楽が彼女の肉体を通じて、雄弁な言語となって私に話しかけてくる。

それにしても、この音の重さは何だろう。彼女の小さな身体のどこに、これほどの情念が隠されていたのか。

左手が重々しい低音を刻み始める。鍵盤の黒漆に、彼女の爪のピンクが、まるで水面に落ちた花弁のように微かに映り込んでは消えた。彼女の背中が、音の強弱に合わせて大きく前後に揺れる。ドレスのセーラーカラーが波打ち、星空の刺繍が生き物のように蠢いていた。

 

彼女の思考は、私の関知せぬ領域で完全に音楽の論理に支配されているのだろう。しかし、その激しい打鍵の合間に、指先が鍵盤を「叩く」のではなく「撫でる」ように滑る瞬間があった。それは、まるで誰かの衣服の袖をそっと掴んで引き止めるような、彼女が日常の中で無意識に行う甘えの所作そのもので、私は胸が締め付けられるような錯覚を覚える。かつて遠く淡い夢の中で、世界を無邪気に照らしていたあの愛らしい仕草が、今この瞬間、高潔な芸術へと昇華されている。舞台の上の彼女は、私の知っている彼女であり、同時に全く知らない化け物のようでもあった。

 

精度を高めていく旋律がホールの隅々を支配する。その激しさとは裏腹に、鍵盤を追う彼女の小さな鼻腔からは規則正しい、小動物のような呼吸が漏れていた。首筋から立ち上る微かな熱気までが、この暗闇を通じて伝わってくるかのようだ。曲調は悲劇的な短調から、一転して宮廷の舞踏会を思わせる軽快な長調へと移り変わる。彼女の足元、ドレスの裾から覗く上品な靴が、ペダルを小刻みに踏み分けた。

彼女の瞳、桔梗色と若竹色の境界線が、光を受けて妖しく明滅していた。楽譜などそこにはない。彼女は見ているのではない、感じているのだ。

彼女の視線は、時折、私の座る客席の暗闇へと真っ直ぐに向かう。その視線には、明確な意思はないのかもしれない。ただ、己の音楽が正しく届いているか、己の存在がこの空間で孤立していないかを確かめようとする、本能的な視線の彷徨。秘密の悪戯を共有する子供のように、彼女の視線は私という存在をこの劇の共犯者に仕立て上げていく

 

旋律はさらに複雑さを増し、まるで二声の対話のように絡み合っていった。一方はどこまでも高く天を駆ける少女の笑い声、もう一方はそれを地上へと引き戻そうとする重々しい低音。彼女の両手はその二つの役割を演じ分けていた。右手の指がトリルを刻むたび、手首のアクセサリーが擦れ合い、楽音とは異なる金属的な微鳴を立てる。その耳障りなノイズさえも、いまや彼女の構築する壮大な劇の一部だった。

彼女の呼吸が、徐々に荒くなっていくのが見える。ボブカットの毛先が汗で微かに肌に張り付き、今様色のベースカラーが、舞台の光の下でより一層鮮烈な赤みを帯びていった。上気したその素肌は、桃の花弁が朝露に濡れたような瑞々しさを放ち、視界が滲む。彼女は一度、大きく息を吐き出し、鍵盤に激しく突進した。自らの持つすべての感情を叩きつけるかのような、狂おしいまでのフォルテッシモ。ホールの古い木壁が悲鳴を上げるように共鳴し、私の胸の奥にまでその振動が突き刺さる。

 

だが、その頂点に達した瞬間、彼女はふっと力を抜いた。

 

世界が静止したかのような静寂が、一瞬だけホールの隙間に滑り込む。彼女の手は鍵盤の上に浮いたまま、止まっていた。その指先は、やはり小さく丸められている。彼女の無意識が、次の音を紡ぐことを躊躇っているかのようであった。あるいは、この美しい時間の終わりを察知し、それを引き延ばそうと抵抗しているのかもしれない。彼女の顔に、ほんの僅かだけ、寂しげな陰影が差したのを私は見逃さなかった。左右で異なる輝きを放つ瞳が、濡れたように光を湛え、またたきと共にその色彩を変化させる。

 

やがて、彼女の手はゆっくりと下降し、最後の一音、最も優しく、最も深い和音を静かに押し込んだ。

 

音は消え入るように、しかし確かな存在感を持って、ホールの隅々へと染み渡っていく。サスティンペダルから足が離され、ダンパーが弦の震えを止めるその瞬間まで、彼女は背筋を伸ばしたまま、鍵盤を見つめ続けていた。ネイビーのドレスに散りばめられた満ち欠けする月が、舞台の照明が徐々にフェードアウトしていく中で、最後の鈍い輝きを放つ。頭頂部のアホ毛が、全ての緊張から解放されたかのように、ぽつんと静止した。

彼女は鍵盤から手を離し、それを自身の膝の上へと戻した。その手は、小さく握りしめられている。彼女の視線は、もう私の方を向いてはいなかった。ただ、自らが作り出し、そして消え去っていった音の骸の状態を確かめるように、鍵盤の並びをじっと見つめている。ふと、彼女の小さな肩が、安堵からか微かに丸まった。

 

彼女は静かに立ち上がり、ドレスの裾を軽く整えた。そして歩き出すまでの間に、ほんの一瞬、動きを止めて客席の私へと顔を向けた。その瞳に宿る桔梗色の深みと若竹色の輝きが、暗闇の中の私を真っ直ぐに射抜く。それは言葉のない確かな対話であり、表現者として、そして一人の少女としてのすべてを私に委ねたかのような瞬きの時間であった。彼女はあえて目を合わせ続けることはせず、すぐに小さな顎を引いて前を向くと、私に背を向けて舞台の袖へと歩き出した。

劇場の空気は、元の冷涼な静寂へと戻りつつあった。しかし、私の皮膚に残る振動と、今様色の髪が残した視覚の残像は、容易には消え去らない。その足取りは、どこか名残惜しげで、歩幅を小さく刻む彼女独特の癖を残したままであった。私はその背中が闇に消えていくのを、ただ網膜に焼き付けるように見送り、名もなき守護者としての、消えぬ誓いを胸に、手元の冷え切った座席の手すりを、もう一度強く握りしめた。


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