正義は六週間後に届く 作:何もない一般人
庁舎の空調は午後四時二分に停止した。五階の在室者は二百七十一人。室温は一時間で二・八度上がった。窓は防弾仕様で開かなかった。職員は飲料水を分け、トイレの列を作った。
外の現場指揮所では、建物図面に曝露予測が重ねられた。噴霧器一本が全量放出された場合、五階中央区画は四分で有効濃度に達する。階段室の防火扉が閉じていれば、他階への拡散は遅らせられる。突入による衝撃、誤射、転倒のどれも、容器を壊す可能性があった。
指揮所は庁舎向かいの研修棟一階に置かれた。窓には遮光布が張られ、机の上で三系統の無線が同時に鳴っていた。救急搬送先は四病院に分散され、うち一つはMFI曝露者を受け入れる隔離設備がなかった。病床調整だけで四十七分を使った。
カンナは突入案を三つ提出させた。屋上からの進入、東階段からの盾隊形、外壁を破っての直接進入。どの案にも、サンプル位置が一メートルずれれば破損確率が急上昇するという注記が付いた。
「確率で職員を撃つわけにはいかない」
カンナは三案とも保留した。却下ではなかった。交渉が破綻した場合、保留案のどれかを選ばなければならない。選ばないという決定にも、期限があった。
交渉は三時間続いた。シキの声量、話速、論旨に変化はなかった。要求も変わらなかった。
交渉担当は二十分ごとに生存確認を求めた。職員名簿から無作為に五人を選び、本人の声を聞く。シキは応じた。職員に台本を読ませず、自由に話させた。一人が「怖い」と言ったときも通信を切らなかった。
その録音は指揮所で再生された。背景に空調音がないこと、咳が増えていること、給湯室のタイマーが鳴っていることまで分析された。MFIが漏れている兆候はなかった。漏れていないことが、膠着を長引かせた。
先生は鑑定付属資料を読み直した。MFIは、現地住民に固有の高密度神秘場結合を標的にする。転写者である先生にも神秘場による身体機能の補助はあるが、結合様式は同一ではない。培養試験では阻害率が検出限界以下だった。
検出限界以下は、影響がないという意味ではなかった。現在の測定法では差を見つけられないという意味だった。先生の身体を使った曝露試験は行われていない。安全を保証する資料はどこにもなかった。
医療担当は先生の基礎血液を採取し、曝露後比較用として保管した。皮膚センサー、線量計、位置発信器を衣服の下へ貼った。呼吸保護具は付けなかった。マスクを着ければ、シキは自分だけを守って入ってきたと受け取る可能性があった。
「私が行くよ」
カンナは首を振った。
「待て、先生。効かないことと、撃たれないことは別だ」
「うん。だから武器は持たない。話すためじゃなく、サンプルのそばまで行ける人が必要なんだ」
「……作戦として聞く。交渉担当を先生に替える理由はあるのか」
「ないよ。私は交渉役じゃなくて、回収役として入る」
カンナは机に両手を置いた。
「本官は許可を出す。だが、危険が増えたと判断したら、先生の合図がなくても突入する」
「分かった」
「分かっていない顔だ」
「カンナもね」
カンナは一度だけ目を閉じ、入室許可書へ署名した。
侵入ではなく入室になった。シキは先生一人なら受け入れると回答した。
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五階には、汗、コピー用紙、停止した空調のフィルターの臭いが溜まっていた。床に座った職員のヘイローが、非常灯の下で重なって見えた。
先生は両手を見せて歩いた。中央机まで十二メートル。シキが机の向こうに立ち、ミナは職員側、ノエは防火扉、リンは通信室の入口にいた。
床には飲み終えたボトルが並び、通路を示す目印に使われていた。ミナの手書きの避難順が壁へ貼られている。先生は紙を読みながら歩いた。重症者、歩行困難者、一般職員、占拠側。占拠した者たちは最後に置かれていた。
ノエの小銃は肩から下がっていた。安全装置は掛かっていた。リンは通信室の机に拳銃を置き、手を触れていなかった。処理班員だけが、先生の動きに合わせて銃口をわずかに動かした。
「シキ。もう、それを手放して」先生が言った。
「公表が先だ」
「MFIは、もう、なかったことにはならない。ゲヘナで押収された検体がある」
「散布計画は消える。製造元も消える」
「裁判の証拠にできなくても、調査を始める理由にはできる。君たちが見つけたものまで、全部消えるわけじゃない」
「六週間かけてか」
「……うん。もっと、かかるかもしれない」
シキは笑わなかった。机の表面を見た。
「バスで間違えた」
「うん」
「迷わず言うんだな」
「あの護衛の子は、まだ左目が見えていない」
ミナが顔を伏せた。報告を知らなかった。
「視力は戻るのか」シキが聞いた。
「分からない。二回目の手術を待ってる」
「死者は」
「いない」
シキはそれを聞いて息を吐いた。安堵してよい情報ではなかった。安堵はした。
「あそこから先は、MFIを止めるためじゃなかった」シキは言った。「分かっている。分かっていて、ここまで来た」
室温は二十八度を超えていた。奥で職員の一人が立ち上がった。トイレへ行きたいと訴えた。処理班員が制止し、職員が腕を振り払った。別の者が支えようとした。三人の身体が机の端へ寄った。
机が六センチ動いた。
外装箱が傾き、床へ落ちた。
高さは七十四センチ。外装の角が先に当たり、内部緩衝材がずれた。噴霧器の安全弁に亀裂が入り、白いエアロゾルが細い筋になって噴いた。
先生は箱を抱え、亀裂を床側へ向けた。
エアロゾルは床面を這わず、上昇気流に乗って胸の高さまで上がった。先生の皮膚センサーが警報を出した。耳元で一秒おきに短い音が鳴った。
近くにいた職員二人のヘイローが明滅した。ミナは一人の腕を肩へ回し、もう一人を処理班員へ渡した。処理班員は銃を捨て、職員を抱えた。床に落ちた銃を拾う者はいなかった。
「防火扉を開けろ。全員、階段へ」
ミナが最初に動いた。職員を列にし、ヘイローの明滅している者を二人一組で運ばせた。ノエは防火扉の鎖を切った。リンは通信室から退避開始を連絡した。
シキは箱に手を伸ばしかけ、止めた。先生が言った。
「触らないで、シキ。今は私が運ぶ」
シキは手を下ろした。
先生は回収用密閉ドラムまで四十七メートル歩いた。噴霧音は三十一秒で止まった。外装表面から採取された量は、全内容量の〇・六パーセントだった。
四十七メートルの途中に防火扉が二枚あった。一枚目はノエが開けた。二枚目は外側の制圧隊員が開けた。先生と隊員の間には透明な化学防護シートが張られ、箱だけを通す受渡口が作られていた。
先生は箱を密閉ドラムへ入れ、蓋のクランプを四か所締めた。三か所目で右手が滑った。手袋の表面に白い粉が付着していた。四か所目を締め、封印確認をしてから、除染班が先生の衣服を切った。
簡易検査では先生の神秘場結合に有意な低下はなかった。血液検査の結果は翌日まで出ない。先生は隔離室へ入り、ガラス越しに制圧の無線を聞いた。
カンナが隔離室の外へ来た。化学防護服のフードを外せず、透明面の内側が呼気で曇っていた。壁の通話器を使った。
『先生、体調は』
「今のところ大丈夫。みんなは?」
『退避中だ。曝露者は医療班が見ている。第三小隊は武装解除に応じると連絡があった』
「そう」
『……本官は、もっと早く止めるべきだった』
「今、それを決めなくていいよ」
『先生はいつも、そう言うな』
「カンナは今から、逮捕する側だから」
カンナは通話器を持ったまま黙った。隔離室のガラスには、先生の姿とカンナの防護服が重なって映った。
『ヒナから連絡があった。ゲヘナの検体は安全だ。あちらの証拠保管庫へ移された』
「シキに伝えられる?」
『逮捕前の説得材料として伝えれば、供述の任意性を争われる可能性がある』
「じゃあ、逮捕した後に」
『今度は接見手続きが要る』
「……そうだね」
正しい知らせにも、届けてよい時刻が決められていた。カンナは通話器を戻し、制圧指揮所へ戻った。
五階で軽度曝露した職員は十四人。うち三人は階段で転倒し、骨折した。神秘場結合の低下中だったため治癒は遅れたが、死亡者は出なかった。
医療班は曝露者の手首へ赤いタグを付け、一般負傷者と分けた。普段なら経過観察で済む擦過傷も、深さと出血量を測った。階段で手のひらを切った職員は、十分経っても血が止まらず、自分の傷を何度も見た。撃たれた経験はあっても、紙で切った傷が閉じない経験はなかった。
ヘイローの明滅は曝露から平均十八分で収まった。光が戻っても、神秘場結合の数値は元へ戻らなかった。医療班は十四人を隔離病棟へ移し、銃器の持込みを禁止した。病棟では通常から禁止されているが、今回は入口の掲示を二枚に増やした。
ミナが作った搬送順により、最初の曝露者は警報から六分で医療班へ引き渡された。検証報告には、被疑者の作成した避難計画が人的被害を軽減したと記載された。同じ報告書の結論欄には、被疑者らが危険を発生させた主体であると記載された。二つの記述は相殺されなかった。
サンプルを失った占拠側は、午後七時四十八分に武器を床へ置いた。制圧部隊は一人ずつ手錠を掛け、氏名、時刻、所持品を記録した。
最初に出てきたのは職員だった。二百七十一人を階段だけで降ろすのに二十六分かかった。エレベーターは空調停止と同時に使用不能になっていた。歩ける者から降ろすと重症者が後になるため、ミナの順番どおりに搬出した。
占拠側は最後まで五階に残った。ノエは床の銃から弾倉を抜き、薬室を確認し、銃と弾倉を離して置いた。制圧隊員にとって安全な状態を作る動作だった。それ自体が、彼女の受けた訓練を示していた。
処理班員の一人が、街を守るためだったと叫んだ。返事をした者はいなかった。録画だけが継続した。
シキの番になった。両手を後ろへ回しながら、彼女はミナ、ノエ、リンを順に見た。
「すまない」
声は小さく、ボディカメラの音声には入らなかった。ミナには聞こえた。ノエにも聞こえた。リンは聞こえなかった。
午後八時十六分、第三小隊は庁舎を出た。玄関前には雨が残り、靴底から落ちた水が護送車の床を濡らした。
カンナは玄関の内側にいた。隊員へ声をかけなかった。逮捕時の発言は供述として扱われる可能性がある。公安局長が感情を示せば、後の処分へ影響したと主張される。シキが前を通るとき、カンナは敬礼をしなかった。シキも見なかった。
護送車が出たあと、庁舎内の現場検証が始まった。飲みかけのボトル、切断された鎖、手書きの避難順、開けられた自動販売機。すべてに番号札が置かれた。ミナが作った避難順も、職員を助けた資料ではなく、占拠計画の一部として押収された。