正義は六週間後に届く   作:何もない一般人

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手続きの壁

 外面残留物の速報は、押収から五十三時間後にシャーレへ届いた。

 

 先生は封筒の開封時刻を記入し、鑑定担当者の署名と検体番号を押収記録に照合した。番号は一致した。報告は七ページあり、結論は六ページ目にあった。

 

 試料は吸入用エアロゾルの基剤を含む。既知の毒性物質は検出されない。培養組織を用いた予備試験では、神秘場と細胞組織の結合係数が対照群の十二パーセントまで低下した。作用は可逆性を示さず、曝露量と相関した。分析班は暫定名称として《Mystic Field Inhibitor》、略号MFIを付けていた。

 

 付属写真には、同じ培養組織を入れた透明容器が二つ並んでいた。対照群の傷は二時間で閉鎖している。試料群では切開線が開いたまま、容器の底へ血清が溜まっていた。切開幅は一・二ミリ。肉眼では糸のように見える傷だった。

 

 実験は三回行われ、三回とも同じ傾向を示した。四回目は中止されていた。隔離槽の神秘場センサーが校正範囲を下回り、施設側の安全規程に抵触したためだった。分析班は、正式鑑定には別棟の高封じ込め設備が必要と見積もっていた。予約枠は通常なら三週間待ちだった。

 

 先生は分析主任へ電話をかけた。

 

「人への影響は、どこまで言える?」

 

『培養組織の結果だけでは断定できません。ただ、アルタイの返送先という情報が正しいなら、製造側はすでに別のデータを持っている可能性があります』

 

「三週間は待てない」

 

『分かっています。だから通常予約を取り消して、設備の洗浄中に割り込みます。洗浄をやり直す費用と、別の鑑定が二件遅れることは、先生の名義で承認してください』

 

「送って。私が署名する」

 

 署名欄には、鑑定の優先順位を変えた結果について、申請者が行政責任を負うと書かれていた。先生は最後まで読み、署名した。

 

 先生は《結合係数》の語を二度読んだ。

 

 計算式の形に見覚えがあった。どこで見たのかは分からなかった。記憶を探すと、式ではなく、白い天井と消毒剤の臭いだけが浮かび、それもすぐ消えた。

 

 先生は余白に《既知感あり。出所不明》と書いた。個人的な感覚を鑑定結果へ混ぜないため、括弧で囲んだ。

 

 この街では、生徒同士の銃撃は傷害事件として処理されることが多い。救急搬送後、神秘場による組織修復が始まる。死亡に至る事例は少なく、武器使用の心理的な閾値もそれを前提に形成されていた。

 

 結合係数が十二パーセントまで落ちれば、その前提だけが失われる。武器も射撃頻度も変わらない。変わるのは転帰だった。

 

 先生は正式鑑定の優先処理を申請した。同時に、アルタイ地区への越境捜索許可について百花繚乱紛争調停委員会へ照会した。

 

 三日後、回答が届いた。

 

 回答書の作成部署は調停委員会事務局越境審査課だった。担当者名、連絡先、異議申立ての方法が末尾に記載されていた。先生は担当者へ直接電話した。保留音が十一分続いた。

 

『規程上、こちらから期間を短縮することはできません』

 

「散布された場合、死者が出る可能性がある」

 

『その可能性を裏づける正式鑑定が、まだ添付されていません』

 

「正式鑑定を待てば、輸送日を越える」

 

『ですから、暫定所見を根拠とした短縮審議の申請を御案内しています』

 

「その可否判断に二週間かかる」

 

『はい』

 

 担当者の声に悪意はなかった。背後で紙をめくる音と、別の電話の呼出音が聞こえた。担当者は同じ日に、学園境界の農業用水、廃棄物運搬、武装警備員の越境についても処理していた。MFIだけのために設けられた窓口ではなかった。

 

 申請には公安局長の署名、対象施設を特定する疎明資料、対象自治区への事前通告、関係学園の意見書が必要。標準審議期間は六週間。短縮審議の適用可否を判断する予備審査は二週間。

 

 輸送予定日まで六日だった。

 

 先生は短縮審議を申請した。差し戻しは二回あった。一回目は検体番号の記載箇所、二回目は地図の縮尺だった。担当者はどちらも規程を正しく適用していた。

 

 翌日の午後、先生は第三小隊へ進捗を共有した。標準六週間、予備審査二週間、残り五日。評価や指示は付けなかった。数値だけを送った。

 

 送信後、先生は宛先を見直した。第三小隊の共有アドレス、特別行動部長、公安局法務、連邦捜査部分析班。必要な相手はすべて入っていた。送らないという選択肢もあった。期限を知れば現場が独自に動く可能性は予測できた。しかし、期限を伏せれば、現場は危険を評価できない。情報共有の原則は後者を許さなかった。

 

 先生は追加で《現時点では越境行動を承認しない》と書きかけ、消した。先生には第三小隊の指揮権がなかった。権限のない命令は、命令として機能しないだけでなく、責任の所在を曖昧にする。

 

 待機室でシキは画面を読んだ。除湿機は満水のままだった。ミナが弾倉を数え、ノエは保護マスクの吸収缶の期限を確認していた。

 

 画面の下部には返信用の選択肢があった。《了解》《追加説明を要請》《異議あり》。シキはどれも押さなかった。了解すれば待つことを受け入れたように見える。異議を出しても、審議期間は変わらない。追加説明は、先生に同じ数字を別の文章で書かせるだけだった。

 

 ミナは輸送予定日をホワイトボードへ書いた。残り五日。翌日の欄には射撃訓練、二日後には健康診断、三日後には車両整備が予定されていた。通常勤務は危機を知らずに埋まっていた。

 

「訓練は中止しますか」

 

「まだしない」シキが言った。「中止理由を出せない」

 

 翌朝の射撃訓練は予定どおり行われた。シキは百発撃ち、九十四発を規定円内へ入れた。普段より三発少なかった。教官は睡眠不足として記録した。

 

「事後承認で出た案件を抽出してくれ」シキが言った。

 

 ミナはすぐには端末を開かなかった。

 

「何件分ですか」

 

「会長失踪後、全部」

 

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