王都の中心部にある王国軍参謀本部は、魔神王との戦争が始まって以来、昼夜を問わず灯りが消えることがなかった。
石造りの巨大な建物は、まるで戦場の砦のように重々しく、近づくだけで胸の奥が引き締まる。
門をくぐれば、兵士たちが慌ただしく行き交い、伝令が駆け、書類を抱えた参謀官が廊下を早足で進む。
その空気は、王都の華やかさとは無縁だった。
兵站、補給、徴兵、戦死者記録、村落消失報告――
膨大な書類が積み上がり、参謀たちの机は常に埋まっている。
魔神王との戦争は、前線だけでなく、後方の参謀本部にも確実に疲労を蓄積させていた。
イザボー・ヴァルン、3等従騎士。
士官学校を優秀な成績で卒業し、賢者の学院で魔術と精霊術の学位を取得した若き士官は、参謀本部の一室に呼び出されていた。
部屋の中央には、黒い革表紙の分厚い冊子が置かれている。
表紙には赤字で「極秘」と記されていた。
その存在感は、ただの資料ではないことを示していた。
イザボーは姿勢を正し、参謀長レオン・ヴァルター侯爵を見つめた。
レオンは魔神王との戦争を長年支えてきた実務家であり、軍政・兵站の権威でもある。
その眼差しは鋭く、戦場を知る者の重みがあった。
「……これが、今回の任務に関わる資料でありますか?」
「そうだ。まずは読め。お前の任務は、この資料を理解しなければ始まらん。」
イザボーは冊子を開いた。
そこには、冒険者ギルドの依頼達成率、辺境村落の消失記録、人口動態、巣穴発生率――
膨大な統計が並んでいた。
ページをめくるたび、イザボーの眉がわずかに動く。
数字の羅列は冷たく、しかし残酷な現実を突きつけてくる。
「……新人冒険者一党が一組結成するごとに、ゴブリン巣穴が一つ発生……?
いやそんなまさか。」
「そうだ。」
レオンは静かに答えた。
「過去十年間の辺境地域の記録を参謀本部が独自に集計した結果だ。
ギルドは統計を取らん。死者数も依頼失敗も、ただの“記録”として流している。
だが軍は違う。戦争をしている以上、数字を見なければならん。」
イザボーはページをめくる。
新人冒険者のゴブリン退治依頼達成率:38%
壊滅率:30%
生存者のうち廃業:15%
犯罪者化:10%
村落消失の83%がゴブリン巣穴近隣で発生
ゴブリン繁殖速度は人族の4~5倍
数字は淡々としているが、その裏にある死者の数は膨大だ。
イザボーは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「……これは、災害です。」
思わず声が漏れた。
レオンは頷く。
「そうだ。ゴブリンは“弱い魔物”ではない。
人間の人口増加に比例して増える、災害性生物だ。
だがギルドはそれを理解していない。
新人が死ぬのは自己責任だと考えている。」
イザボーは冊子を閉じ、深く息を吸った。
数字の冷たさが、逆に現実の重さを際立たせる。
「閣下……このままでは、辺境が崩壊します。」
「だからお前を送る。」
レオンは机に肘をつき、イザボーを見据えた。
「軍は魔神王との戦争で手いっぱいだ。
辺境の治安維持に兵力を割く余裕はない。
だが、冒険者ギルドは国営組織でありながら、冒険者を教育しない。
新人が死ぬ。村が滅ぶ。ゴブリンが増える。
この負の連鎖を断ち切るには、軍式の戦術を……最低でも戦闘のイロハを理解した者が必要だ。」
イザボーは背筋を伸ばした。
その言葉は、彼女の胸に深く響いた。
「……私が、その役目を果たすのでありますか。」
「そうだ。」
レオンは淡々と言った。
「お前は魔法剣士として優秀だ。
魔術と精霊術の学位を持ち、戦士としても基礎ができている。
そして何より――お前は民を守ることに迷いがない。」
イザボーは胸の奥が熱くなるのを感じた。
士官学校で学んだ軍人としての使命感。
賢者の学院で学んだ知識。
そして、幼い頃に見た“守られる側の民”の姿。
戦場で泣き叫ぶ子供。
家を失い、途方に暮れる老人。
怪物に襲われ、助けを求める声。
そのすべてが、イザボーの原点だった。
「……微力ながら、尽力いたします。」
レオンは頷き、資料の別ページを開いた。
「だが、覚えておけ。
これは軍の総意ではない。
我々参謀本部・実務派の判断だ。
国王閥はギルドへの介入を嫌う。
ギルドも軍を警戒している。
お前は政治の狭間に立つことになる。」
イザボーは一瞬だけ沈黙した。
政治――その言葉は、彼女にとって遠いものだった。
「……私は政治には疎いですが、民衆を守るためならば、どのような任務でも遂行いたします。」
レオンはわずかに微笑んだ。
「それでいい。お前は政治を知らなくていい。
ただし、利用されることは覚悟しておけ。」
イザボーは敬礼した。
「承知しました。」
そのとき、部屋の隅で控えていた若手参謀エルネスト・ハーシェルが口を開いた。
「イザボー……気をつけろ。
ギルドは軍を歓迎しない。
お前がどれほど真面目でも、向こうは警戒する。」
イザボーは彼に向き直り、静かに頷いた。
「心得ています。
ですが、私は辺境の民衆を救いたい。
それが結果的に新人冒険者を守ることになるのなら、迷いはありません。」
エルネストは苦笑した。
「……変わらないな、お前は。」
レオンが立ち上がり、イザボーに命令書を手渡した。
「3等従騎士イザボー・ヴァルン。
王国軍参謀本部の命により、辺境ギルド支部へ出向を命ずる。
任務は新人冒険者の生存率向上、およびゴブリン巣穴の殲滅支援。
軍式戦術の導入と、現場の実態調査を兼ねる。」
イザボーは命令書を受け取り、深く敬礼した。
「――はっ。必ずや、任務を遂行してみせます。」
参謀本部の重い扉を出ると、王都の空は曇っていた。
遠くで鐘の音が鳴り、戦場へ向かう兵士たちの行進が聞こえる。
その音は、イザボーにとって日常であり、同時に戦争の現実を突きつけるものだった。
イザボーは胸に手を当て、静かに呟いた。
「……辺境の民を守る。
新人冒険者を救う。
ゴブリンの脅威を断つ。
それが、私に与えられた使命。」
風が吹き、赤いリボンが揺れた。
その揺れは、彼女の決意を象徴するようだった。
イザボーは歩き出した。
軍とギルド、政治と現場、統計と現実――
その狭間へ向かうために。