それとも人はその手で未来を刻み込んでいくのだろうか。
一人の若い女性が人々の未来を変える一歩を踏み出すきっかけとなる、小さな奇跡。
熱帯特有の暖かい湿った風が密集したバラックの隙間を吹き抜け、人々の生活の匂いを運んでくる。炊事の薪の匂いにパーム油の甘い匂い、魚の干物の塩辛い匂い、熟れ過ぎた果物の匂いも混ざっている。
だがそれ以上に、今までは無かった化学臭も感じられた。発生源はあちこちに置かれた、液体がなみなみと入ったポリバケツだ。たまに液体が減っているバケツがあるかと思えば、いつの間にか注ぎ足されている。
その匂いには、もう慣れるしかない。
アミナタはその匂いを長く吸っていると気分が悪くなってくるため、バケツの横を足早に通り過ぎた。
昨日の雨で赤土の道は水溜まりだらけで、ぬかるんでいる。アミナタは折角用意した一張羅の外出着を汚さないように、原色の巻きスカートをたくし上げながら、わずかに乾いたところを見付け、飛び跳ねるように渡る。その度に白いブラウスがふわりと揺れ、ウッドビーズのネックレスがカラカラと小気味のいい音を立てる。
お昼前の強い日差しが、彼女の艶のあるダークブラウンの肌で反射する。
粗末な住宅街の向こうには、湿地の中に黄色く色づいた稲の田んぼが広がっている。
9月になれば雨季も後半。今年の雨季は十分に雨が降ったおかげで稲の育ちはよく、豊作といえるだろう。
だがその喜ぶべき光景も、今はどこか虚しかった。
そして視線を前にやると、少し先を歩いていたはずのファトゥの姿がない。
何事も生真面目な彼女のことだ、アミナタがこんなところでよそ見をしているとは思わずに、先に行ってしまったのだろう。
そういったきっちりした性格は外国の人には受けがいいけど、ここにはここの時間の流れというものがある。
『もう少しのんびりしてもいいのにな・・・』とアミナタは思う。本人に言えばお説教が返って来ることは分かっているので、言ったことはなかったが。
でも今日の集まりは重要なものなので、ファトゥが急ぐのも無理はない。アミナタ自身も今日のために、少なからず準備をしてきた。
ファトゥに小言を言われない程度には急いだほうがいいだろう。
アミナタは大通りに入り、市場の前を通りかかる。
ようやく活気の戻り始めていた市場は、また閑散としている。ここでも漂うのは香辛料の香りではなく、例の化学臭だ。
『一体私たちが何をしたというのよ・・・』
ファトゥからよく能天気と評されているアミナタも、その光景を見れば気が沈む。
アミナタはその思いを振り払うように足を速めるが、市場の一画に張られた、小さなテントが目に入る。
一見すると占いのテントのようだが、そうだとすれば今の情勢を考えれば、あまりに不自然だ。今は占いなどやっている場合ではないのだ。
だがアミナタの目はそのテントから離れない。
テントには『パーム・リーディング』と大きく書かれている。初めて見る言葉だ。
『手のひらを読む? 何のこと?』
アミナタの中で好奇心がどんどん膨れ上がって来る。
いつの間にかアミナタの足はそのテントに向かっていた。
「こんにちは・・・」
「いらっしゃい、お嬢さん」
アミナタがおそるおそるテントの布をめくると、それを待っていたかのように、中に座っていた老人と目が合った。見たことのない顔だった。
「占って行かれるかな?」
「え?」
老人はそのために来たんだろう、というような調子で言う。
「ここって占いなの?」
アミナタの知る占いとは、貝殻や木の実を投げるものだ。だがテーブルの上にはそのどちらもない。
「そうだ。手相占いという」
アミナタは老人の視線に促されるように、向かいの粗末なパイプ椅子に座る。
「手相って?」
アミナタは首をかしげるが、老人はそれに答えることなく、話し始める。
「先天的な宿命と、これから切り開かれる未来。お嬢さんの知りたいのはどちらかな?」
「それは未来でしょ」
「では右手を出しなさい」
「はい」
素直に右手を差し出す。薄いテーブル板にコツンと当たる。
老人はその右手をじっと見つめる。
「・・・多大な困難の中でも前向きさとユーモアを忘れない素晴らしい手相だ。お嬢さんの姿に周りの人間は励まされ、お嬢さんを中心として幸せが巡るだろう。お嬢さんの道は間違っていない」
「ふ~ん・・・ あ、お値段聞いてなかった」
「お代は結構」
老人は満足げに言う。
「え、でも・・・」
その時、後ろからファトゥの呼ぶ声がした。途中でアミナタが付いて来ていないことに気付いて、戻って来たのだろう。
「行きなさい。お嬢さんの助けを待っている人たちがいる」
「はい・・・」
老人が静かに頷く。
テントから出ると、ファトゥはすぐにアミナタを見つける。
「ちょっと、こんなとこで何やってるの。じいさまたちはあんたとじゃなきゃ話はしないって言ってるんだから。早く行くよ!」
ファトゥはアミナタの腕を取って走り出す。子どもじゃないんだから、とは思ったが、たった今も寄り道をしていたのだから文句は言えない。
そして着いたのは、広場の一画に大きなトタン屋根が掛けられ、木製のベンチが並べられた集会所だ。壁はないので、遠くからでも各地域のチーフがすでに集まっているのが見える。
二人はそこに駆け込んでいく。
「お待たせして申し訳ありません」
アミナタは開口一番にそう言うが、遅刻についてはそれほど気にしている様子はない。
こういう場合の挨拶と言えば握手とハグだが、それは今は避けられているため、アミナタは手を胸に当てて挨拶とする。チーフたちも同様に返してくる。
そしてチーフの一人に促され、二人もベンチに腰掛ける。
「外国人たちのやっていることについて話があるということだったが?」
「はい。今日はおじいさまたちにお願いがあって集まっていただきました」
「言ってみなさい」
アミナタは深呼吸をした。
この国ではまだ男尊女卑と年功序列が根強い。自分のような若い女が長老を動かすことができるだろうか。
だが今はそれをやらなければならない。
「村の人たちはまだ外国の医療スタッフを信用していません。医療スタッフが現地の人間に襲われたなどという話も聞きます。この熱病は今までのコレラやマラリアとはわけが違います。外国の医療スタッフの助けは絶対に必要です。おじいさまたちから協力するよう、村の人たちに言ってください」
「協力とは何をするのだ。もう消毒薬は置かせてやっているぞ」
それだけで十分だろう、とチーフの一人が言う。
「熱病になった人間は一人も隠すことなく、彼らのテントに連れて行くことです。家で隠して看病しようとすれば、一家全員が熱病で命を落とすことになります」
「だが・・・」
チーフたちが顔を見合わせる。
アミナタは村人が外国の医療機関に行きたがらないわけを知っていた。そしてチーフたちもその噂を半ば信じていることも。
「おじいさまたちの口から、『外国人が病院で村人を殺して、遺体から内臓を抜き取っている』などというバカげたデマをきっぱりと否定してください」
「う、うむ・・・」
アミナタに機先を制され、チーフたちは何も言えなくなる。
「彼らはこの国のためにわざわざ来てくれた医療スタッフです。大昔の呪術医ではありません」
「それは分かっているが・・・ わしらが言ったところで・・・」
チーフたちはそう口を濁す。
「噂はあくまで噂でしかありません。おじいさまたちが『それは嘘だ。白いガウンの者たちは我々を助けに来たのだ』と明言すれば、みんなそれに従います」
アミナタはそう断言する。
「・・・分かった。言ってみよう」
「お願いします。それともう一つ」
アミナタは自然と居住まいを正した。
「この熱病は遺体からもうつります。みんなで遺体に触れる伝統的な葬儀の中断を徹底させてください」
「最後の別れをするなと言うのか」
チーフの一人が声を上げる。
アミナタもこの国の人間だ。チーフや村人たちの気持ちはよく分かる。
近しい者が亡くなれば全員でその遺体を清め、綺麗な服を着せて、代わるがわる抱きしめ、涙を流して別れを惜しむ。そして故人の冥福を祈り、みんなで運んで埋葬する。それが当たり前の光景だ。
アミナタもこんなことは言いたくはない。だが今はその当たり前さえも変えなければならない事態だ。
「生きている人間を守るためです。そうやって家族全員が亡くなっているのです」
「では聞くが、お前の父母が亡くなった時、あんな袋に入れられて重機の掘った穴に投げ込まれて、幸せになれると思うのか」
アミナタは言葉に詰まる。
それが今の外国主導のやり方だった。白い防護服に包まれたどこの誰とも分からない男たちが家族たちを引き離し、遺体を不透明な遺体袋に入れて、持ち去っていく。遺体の引き渡しに応じない場合は、武力を盾に、泣き叫ぶ家族の元から強引に奪っていくようなこともあったと聞く。当然、トラブルも多発している。
「混乱を招いているのは外国の連中の傲慢さだ。確かに我々は連中からすれば無知かもしれん。だが、だからといって我々の文化を無視していいとはならんのではないか?」
「・・・おっしゃる通りです」
チーフの言葉にアミナタは頷いた。
「それは向こうのスタッフにも考えてもらうよう、言わなければなりませんね」
アミナタは左手でしっかりとメモを取った。
「おじいさまたちからは、他に要望などはございませんか?」
「田んぼのことだ」
そう別のチーフも声を上げる。
「互いに近寄るな、触るなと言うが、それでは稲の収穫は出来ん。折角実ったのに、このままでは無駄になってしまうぞ」
「それは私の方から、外国の組織に食糧支援を要請してあります」
ファトゥがそう応える。
「十分な量とは言えないかもしれませんが、飢えることのない量は絶対に出させます」
「おじいさまたちはそれを公平に分配する算段をお願いします。外国のスタッフが直接分配すれば、必ず問題が起きます。みんなを納得させられるのはおじいさまたちだけです」
アミナタも、そう言い加える。
「・・・やってはみるが、そううまくいくかね」
「絶対にうまくいきます」
どこか懐疑的なチーフの声に、アミナタはそう断言した。
「うまくいかなかったら、うまくいくまでやりましょう。私たちの手でこの災厄を終わらせるんです」
アミナタの言葉に迷いはなかった。
「・・・一度目の悲劇は我々が何とか収束させた。今度はその中から立ち上がってきた者たちに任せてみてもいいのではないか?」
チーフの一人が彼女の右手を見ながら言う。
「分かった。村の者たちには、我々から言って聞かせよう。だが、葬儀の件もよろしく頼むぞ」
「はい。ありがとうございます」
アミナタとファトゥは立ち上がって礼を言う。
「立派になったな。もう村のことも国のことも任せられる。お前たちの力でこの国を救ってくれ」
そう言ったチーフの目はいつものように、独り立ちした孫娘を見るものに戻っていた。
「アミナタ、いつにもまして自信満々だったね」
集会所を後にすると、ファトゥがそんな風に言ってくる。内心、不安も大きかったのだが、ファトゥにはそう見えたらしい。
「なんか変な占い師がいたでしょ? その人のお陰かな。いいこと言ってもらったんだ」
「占い師って?」
「あの市場の隅にテント立ててたでしょ?」
「今時分、占い師なんてやってるわけないでしょ。あんた壁に向かって何か言ってたけど、占い師と話してる設定だったの?」
「だって、私のこの手を見て、いい手相だって・・・」
「手相って?」
「・・・さぁ」
改めて聞かれると、アミナタにも説明はできない。こんな色褪せて擦り傷だらけのプラスチックを見て何が分かるというのだろう。
「何それ・・・ いいから次の会議行くよ。今度はイギリス支援の埋葬班もいるから、さっきのじいさまたちの要望、ばしっと突き付けてやってね」
「もちろん」
アミナタは、今度は遅れることなくファトゥに付いて行った。
その後、彼女はチーフたちの同意を取り付け、2014年、シエラレオネ地方医療相互ネットワークを立ち上げた。
西アフリカで猛威を振るったエボラ出血熱の感染拡大を食い止め、数千の命を救うことになる若きリーダーの第一歩だった。