すずかが姉の忍へと相談した時、忍は二つ返事で即答した。
「別にいいわよ?」
嫌な予感はあった。
ユウと忍を会わせるのはそれが初めてだったし、二人揃って人格に欠点を抱えていた。
時にそれは美徳へと成り得るのは承知していたし、すずか自身羨ましいと思うこともあった。
しかし、やはり不安なものは不安だった。どうしてこんなに不安なのだろうと考え込む。ユウを家に連れて行く間考えていたが、答えは出ないままに二人を会わせることになった。
「ユウ君って言ったっけ? 私、月村忍。すずかの姉よ。よろしくね」
「よろしくお願いします」
忍は組んだ膝の上に肘をつき、その上に顎を乗せる格好でユウを観察していた。
もしもすずかがその視線に晒されたとしたら、居心地が悪くて仕方がなかっただろうが、ユウ本人は何とも思っていなさそうな顔で忍を見返していた。
「すずかにある程度話を聞いているのだけど、冗談を言えるようになりたいらしいわね。どういう事情があるのかしら?」
忍の問いかけに、ユウは経緯を説明した。
要約すると、自分の言動や態度が原因で他人を傷つけてしまったので、それを直したいと言うことだった。
人当たりをよくし、冗談の一つも言えるようになればそんなこともなくなるだろうと。
忍はにこやかな表情で聞いていた。
大変だったわねえと感想を述べ、意味ありげな視線をすずかに向けた。
「君は今の自分が嫌なのかしら? 故意ではなかったとしても、他人を傷つけちゃった自分を許せないとか、そう言う感情はある?」
「……嫌と言うほどのことはないですが、ただ誰かを泣かすのはもうごめんです」
「ふーん。そう」
組んでいた足をもとに戻した忍は、手のひらをこすり合わせ始めた。
ゆっくりとしたその動きは、まるでハンドクリームを塗っているかのような動作だった。
「理由が何であれ、立派なことだと思うわよ。他人のために変わろうと思うのはね。普通、そう言うのは好きな人が出来たとか、大切な人のためにするもので、赤の他人のために変わろうと思うのは普通ではないと思うけど」
その言葉だけを見るのなら皮肉が込められているように感じる。しかし、実際に忍の言葉を聞くと、楽し気な響きが籠っていた。
メイドの一人がすずかとユウの前に紅茶を差し出した。ユウは会釈して礼を言う。
忍の前には透明なグラスが置かれた。ウイスキーグラスと呼ばれるものだった。
グラスに琥珀色の液体が注がれるのを見て、すずかは表情から感情を消し去った。
「ま、いいでしょう。君が普通じゃないのは恭也に聞いてたし、話してる感じ邪悪でもないみたいだしね」
「恭也さんは俺のことなんて言ってました?」
「えー知りたいのー?」
忍はグラスを呷りながら意地悪な笑みを浮かべる。
「そんなに知りたい?」
「教えていただけるなら」
「将来の義弟って言ってたわよ」
ちらりとすずかが横目にユウを伺う。ユウは少しだけ顔をしかめていた。
「恭也さんは本当にそんなことを言ってましたか?」
「もちろん冗談」
「笑えない冗談ですね」
「冗談の八割は笑えないものよ。だからお笑い芸能人なんて職業があるんじゃない」
半分ほどもウイスキーを飲んだ後、忍は気持ち良さそうな口調で続ける。
「そもそも、君はそこを勘違いしてるのね。大方の人間が冗談を言うのは、他人のためじゃないわよ。自分のために言ってるんだから」
「はあ」
納得しかねると言う表情で相槌を打つユウ。それを見て、忍は笑みを深めた。
「何のためにと思ってるでしょ? 自分が気持ちよくなりたいから。答えはそれだけなのよ」
「冗談を言って、どうして気持ちよくなるんですか?」
「相手の反応が面白いから」
忍は再び膝を組み、ゆらゆらとグラスを振った。
琥珀色の液体が左右に揺れ、それすらも面白そうに見ていた。
「例えば私が今おちんちんって言ったら、君はどういう反応をする?」
「呆れました」
「それが見たいのよ」
グラスを置いた手でユウを指さしながらそう言った。
ユウは自分に向けられた人差し指を見つめている。
「忍さんがそう言う性癖を持っていると言うことでしょうか」
「人の性癖はSとMに分けられるそうよ。知ってる? サドとマゾ」
「はあ」
何とも理解しがたい話をしているなとすずかは思った。すずか自身はそれについて知っていたが、ここで口を挟めば巻き込まれるのは目に見えていたので、息を潜めて存在感を消す努力をした。
「そう言う顔をさせたことに快感を得るか、向けられる視線に快感を得るか。別に笑ってもらわなくても構わないのよ。それでお金をもらっているわけじゃないし」
「はあ……」
「私は私が言いたいから冗談を言うの。下ネタだって言うわよ? だって言いたいんだもの」
グラスを掲げ、高らかに「うんちー!」と言い始めた姉の姿は、すずかにとって直視に堪えうるものではなく、両手で顔を覆って顔を背けた。
「ちょっと、笑いなさいよ。今の小学生なら大うけよ」
「俺はもう小学生じゃないです」
「ついこの間まで小学生だったくせに、一丁前に大人ぶるのは子供が背伸びしてるみたいで可愛いものね。本当は笑いたいんでしょ?」
言外に子供だと言われ、ユウは考える。
八神はやてと言う狸の教えを思い出し、少し言い過ぎてみることにした。
「すいません。初対面でこんなことを言うのは非常に失礼だとは思うのですが、忍さんはもう少し大人としての振る舞いを身に着けるべきではないでしょうか?」
「あら? このグラスが目に入らないのかしら?」
「酒です……。いえ、酒を飲んだら大人って言うわけじゃないでしょ?」
「そう。君は未成年飲酒に賛成なのね? いけないわ。風紀が乱れる」
「乱してるのはあなたです」
「うんちとおちんちんで乱れる風紀なんて大した風紀じゃないもの。ペニスとマンコから風紀は乱れ始めるのよ」
ユウは俯いた。その顔は困惑で一杯だった。すずかは指の隙間からその表情を捉えていた。ごめんねと内心で謝る。
「冗談は人のためにあるんじゃなく、自分のためにあるもの。君はまずはそこから学びなさいな」
「別にどっちでもいいと思いますけど……」
「どっちでも良くないわ。だって君、他人に笑ってもらおうとして難しく考えすぎているのだから」
飲み干したグラスが置かれ、側に控えていたメイドが注ぎ足した。一顧だにせず、忍はユウに人差し指を向ける。
「人なんて千差万別。君がどんなに上手い冗談を言ったとしても、それで笑ってくれる人なんて半分ぐらいが精々でしょう。その場の空気もあるし、その時の気分もある。そんな曖昧なものに一喜一憂するのは馬鹿らしいとは思わない?」
「……それはその通りかもしれませんが……」
「だから、君はまず自分が言いたい冗談を言いなさい。何だっていいのよ。布団が吹っ飛んだでも、イルカはいるかでも何でもね。自信がないならまず私に言いなさい。爆笑する自信があるわ。だってお酒が入っているから」
「それは冗談ではなく親父ギャグです」
「何が違うの?」
愕然としたユウの呟きがすずかの耳に届く。
「酒に脳がやられている……」全く持ってその通りだった。
「君は物を知らなさ過ぎて話し甲斐がある男の子ね。決めた。今日は泊まって行きなさい。部屋を用意させるから」
「すみません。今日は用事があるのでこれで失礼させていただきます」
「遠慮する必要はないのよ。夕飯は君の好きなカレーにするから」
「遠慮なんてしてないです。それと別にカレーは好きじゃありません」
「恭也が君はカレーが好きだって言ってたのよ。何? 私の彼氏が嘘を言っていると言うつもり? いくら君自身のこととは言え許さないわよ」
「いや、あの……」
理不尽な難癖をつけられて答えに窮している。すずかは内心で何度目かになる謝罪を述べ、ユウの擁護に回る決心を固めた。
「お姉ちゃん、ユウ君が泊まらないって言ってるんだし、明日も学校があるんだから……」
「大丈夫よ。明日はこの子休ませるから」
は?と言う顔をユウがした。すずかも同じような顔をしていた。
「折角だし、明日一日かけてこの子を調教……精神的に追いつめることにするわ。すずかは学校に行きなさい。帰ってくるまでには全部終わらせておくから」
ユウとすずかが顔を見合わせる。
忍がにっこりと笑みを作った。
「逃げられるなんて思わないことね」
「……やくざかよ」
ユウが呟いた。すずかも同意する。
忍はそれを聞き流したが、ユウを見る瞳に怜悧な光が宿っていた。
◇ ◇ ◇
「すずか。ちょっと話があるわ」
夕食を終えた後、すずかは忍と二人でダイニングテーブルに座っていた。
この場にいないユウは、先に風呂に入れと忍に言われ、メイドの一人に浴室に案内されていった。
去り際、「お背中お流ししますか?」「結構です」と会話を交わしているのがすずかの耳に届いたが、冗談だろうと思うことにした。
「お姉ちゃん? 話ってなに?」
「彼、あなたの恋人?」
唐突な問いかけに、すずかは一瞬言葉をなくす。
「違うけど……」
「じゃあ好きな人?」
「それも違うよ」
予想していた質問に対し、強い意志でもって否定する。
すずかはユウのことを友人とは思っていたが、異性とは思っていなかった。正確には、そう思わないようにしていた。
「あら、そうなの」
「ユウ君はいい友達だよ」
「いい友達?」
忍はその言葉を鼻で笑う。
「悪い友達の間違いじゃなくて?」
「ユウ君は別に悪くなんて……」
「性格や言動じゃなくて在り方の話よ」
ああいう子も珍しいわねと忍は独り言のように呟く。
「ま、あんたの近くにあの子がいたって言うのも何かの縁でしょうから、少しばかし人間らしさってものを教えてあげるわ」
忍の言い様に、すずかは何と言っていいか分からなかった。
間違いなく人間であるはずのユウに、月村忍が人間らしさを教えようとしている。傍目に見て、なんて滑稽な図だろうか。
「あの子にも言うつもりだけど、いい機会だからあんたにも言っておくわ。いい加減、自分を幸せにしてあげなさい」
「なんで? 私は幸せだよ。十分幸せ」
友達がいて、家族がいて、何不自由なく暮らしている。これ以上の幸せはないだろう。
すずかはそういう思いからその言葉を口にしたが、そんなすずかのことを忍は慈しむような目で見ていた。
「幸せに限りなんてないのよ。私は恭也がいてくれて、もっと幸せになれたから、あんたも早く誰か見つけなさい」
「大丈夫だよ、私は」
向けられる優しさに対し、反発するようにそう言ってしまう。
すずかは自分の気持ちに思いを至らせようとし、すんでのところで思いとどまった。知ってしまったら後戻りできないかもしれない。ならば知らない方がいいと思った。
「強情ね。ま、いいわ。彼には少し期待してるから」
「本当にユウ君はそう言うのじゃないから」
「別に誰だっていいのよ。彼でも彼じゃなくても。なんなら女の子でも」
幸せってそう言うものよとすずかに語る忍は、やはり優し気な眼差しですずかのことを見ていた。
「明日を楽しみにして、今日は寝なさい」
「……ユウ君に変なことしないでね」
「大丈夫よ。当たり前のことしか言うつもりはないもの」
本当に大丈夫だろうかとすずかは心配する。
姉の酒癖の悪さは妹であるすずかが良く分かっている。変なことにならないといいけどと思いながら、すずかは浴室へと念のための確認へ向かった。