時は2125年、人類は滅亡した。
大魔女・月代ユキによる、魔女因子を用いた人類への復讐は頓挫し、世界は人と魔女の狭間にある生き物が繫栄するようになっていた。
余命僅かな月代ユキは落ちこぼれの魔女見習い・白蛇エナにより牢屋敷から連れ出され、その修行に付き合うことになる。
月代ユキは魔女のありかたについて教授するため、100年前に起きた月代ユキと魔女候補、そして彼女の祖父の物語をエナに教えることになった。
2024年 3月3日(日) 11:40
JR立川駅から100メートル とある雑居ビルの屋上にて
正しくないことに敏感な少女、二階堂ヒロにとって、2023年はやや気の抜けない一年となった。
口火を切ったのはチョコレートだった。5月の初め、メキシコの各地でカカオが大繁殖したのだ。洪水のように国中のコカ栽培地へ侵入し、次々と壊滅させたそれは、現地の人々に「トラロックの星」と崇められた。後にこの花は人工地での繁殖に特化していることが発見され、自然界ではあり得ない【変異種】として専門家の注目を集めた。8月はエジプトの最も貧困の激しい砂漠地帯に発生した小麦が、地下深くの塩を吸い取って成長し始めた。
そして二か月ほど前、全国の自然地域で在来植物の一部が変異し、特殊な薬効や生態を示しつつあることがとある私立大学によって発表された。
常識では理解できない出来事が世界の至る所で起こり、その秩序が乱れている
「ほら、何をボーッとしているんですかヒロ。突っ立ってないでこっちに座ってください」
「正しくない」
しかし彼女にとってこの一年でもっとも奇妙で正しくないのは、まさに今目の前に座り、平坦で透き通った声で呼びかけてくる銀髪の親友のいで立ちだった。
「…なあ、ユキ」
「何ですか、ヒロ?」
「君は確かに言ったな?【一緒に植物採集に行こう】と。私が何を教えたか、もう一度確認してみないか?」
「肌が露出しない格好、丈夫なはさみ、観察用のルーペでしょう?」
「迷彩服と、大鎌と、スナイパーライフルに見えるぞ」
「失礼ですね、立派な観察器具です」
「銃床のついた観察器具を私は知らない」
冷や汗を流しながら、二階堂ヒロは月代ユキの全身を見回す。胴体は物々しい迷彩服に覆われ、左右に網のついたリュックの右には火炎放射器、左にはバイオハザードマークの付いた水筒が揺れている。
ハチの巣駆除、それどころかハチの巣を狙うクマ退治にも過剰と思えるような物騒な装備の数々が、つま先から頭までずっしりと揃えられていた。
「頼む、今から10秒で状況を説明してくれ、それか悪いことは言わないから警察に行こう。またいじめっ子の仕業か?」
「何のことはありませんよヒロ。植物採集から企画を変更して、今から
「ありがとう、何分でもいいから余計な比喩を外して全部説明してくれないか?」
ヒロは、その迂遠な話し方を今度こそ矯正させようと心に誓った。彼女の難解で浮世離れした言動にはもとから定評があったが、今の振る舞いは彼女の正しさを2回りほど振り切っている。
期末テスト後の休憩として話題の植物公園に連れて行ってほしいという簡単な誘い。元来陰気で厭世的な月代ユキがそんな前向きな提案をしてきたことに、その時は素直に喜んでいた。喜んでいたのだが……
「ユキ、私は君が出かけたいと言ったからついてきたんだ、それ相応の準備もしてきた。もしこの冗談みたいな状況に深刻な事情がないなら、先に話しておくのが道理じゃないか?」
「深刻でないと言えば噓になりますね、私だけでなく、あなたにとっても」
「だからそれも含めて全部―」
「エマを誑かす害虫の正体を、今この場から暴き立てようというのですよ」
ヒロの思考が止まった。月代ユキの回答は混乱を解決するには役に立たないが、感情のままに叱責する衝動を霧散させるには充分だった。
「ねえヒロ、あなたが短期留学から戻ってもうすぐ一年が経ちますが…」
「…正確には11か月だが。それがどうかしたのか?」
「別にそれそのものに重要性はありません。でもあなたが留学に出かけてから、少しずつエマがおかしくなっていることに気づきませんか?」
「......ある。」
桜羽エマ。二階堂ヒロにとっては無二の幼馴染であり、同時に月代ユキを学内のいじめからケアする唯一の仲間。
いじめっ子への抑止力となるヒロ。
頼れる幼馴染ヒロに甘えるエマ。
そしてエマに好意を持っているユキ。
この奇妙なつながりは自然と強固な友情へ変わり、一年を終えるころには、毎日のように一緒に過ごす関係になっていた。
...それに揺らぎが生じたのは、ヒロが短期留学によって学校に不在となった時である。
この時ヒロは、ユキの世話をエマ一人に託すことにした。
最初はユキのために留学を辞退するべきかと思案したが、エマに愛着を示す彼女の姿を見れば、大人しく引き下がるしかなかった。
一抹の不安を抱えて海外に飛び、留学先で迎えた最初の朝。ヒロはスケジュールを確認するためにスマートフォンを開いた。
『ユキちゃんが死んじゃう』
『みんなおかしくなってる』
『お願いだから』『一人じゃ無理』『早く』『ねえ』
『不在着信』
『不在着信』
『不在着信』
『不在着信』
『不在着信』
反射的にアプリの通話ボタンを押し、スピーカー音量にすると、すぐさまエマの「ひ、ヒロちゃん!?」という間の抜けた返事が返ってきた。呼び出したのはエマなのに、なぜそちらが驚くのか。柄にもないことを考えながら、彼女が置かれている状況を徹底的に問い詰めた。
意志も度胸も頼りないエマ。その一方、ユキへのいじめは、一つ潰すたびに二重三重となって噴き出してくる。死に物狂いで指示を出し、海の向こうから月代ユキ防衛網を築き終えたのは、留学生活が最後の三日間に差し掛かった頃だった。
二階堂ヒロは自らの正義が良い結果を生んだことに安堵した。その安堵の裏で、わずかにヒロの心へ引っかかっていたのは、この事件を機に、その振る舞いが徐々に行動的に…そして不安定になったことだ。
春学期、週末いつも一緒だったエマが、日曜の誘いを断るようになった。夏学期の期末、事あるごとに助けをねだっていたエマが、慌てて勉強を教えてほしいと言わなくなった。
2週間前。1年前はいじめっ子にも愛想笑いしていたエマが、廊下の影から教室を睨みつけるのが見えた。
「…ほら、だんだん思い返してきたでしょう。」
「ああ」ヒロの意識がユキの声色に引き戻された。「違和感がないか、と言われれば嘘になる。しかし…」
「しかし?」
「極端にひどい変化を見せているわけではない。少なくとも強引に詮索する理由にはならないだろう」
ヒロはそう切り返した。今までがべったりしすぎているのもあるし、ひとりで勉強して成績が上がったことは、客観的に正しく喜ばしいことでもある。
その回答に月代ユキはふふ、と笑み交じりのため息をこぼした。「では、これを見てもう一度言ってください」と手元のスマートフォンを押すと、ヒロのスマホに着信音が鳴った。LINEのトーク欄に『証拠品』と名付けられたアルバムが表示される。
「ちょうど火曜日ごろでしょうか。街を歩いていたところをばったりエマのお母様と遭遇しました。エマに似て大変愛想のいい人でしたよ、『週末まで毎日エマと遊んでくれて』と」
「…毎日?」
「はい、毎日と。ところで前に私たちが集まったのは…」
「いつも通り、土曜に、私の家で。」少し間をおいてヒロは続けた。「毎日、というのは誰がいっているんだ?エマのお母様の勘違いか、それともエマからそう伝えられていたのか?」
「エマが母に嘘をつくのは無理でしょう。ただし…これ、あなたの画面でも見えますか?」
その指示に従って、2行目の右の写真を拡大した。キッチンでエマが米らしきものをにぎにぎしている。
「...いつもエマが食べるおにぎりの量は多くても3個程度、副菜がないから4個程度...すでにエマの側には8個ある」
「ちなみにこの日のエマは普通に帰って晩御飯を食べたそうです。ちょうどエマが二人いた計算になりますね」
「同じ趣味の子供と親しくなる、ということ自体は不自然なことでもないが…」
平静を装いつつも、二階堂ヒロの手は徐々にせわしなく画面を動かし、視線も吸い込まれている。
泥や小枝が付着し、擦り剥けたかのように損傷した服装。
知らぬ間に自室に植えられた、エマの小遣いでは手の届かない植物たち。
不自然に減りが早い救急品。
そして最後の写真…いや動画だ。インターフォンのカメラだろうか?
右上に表示される時刻は午後10時半ごろ、暗い道路から家に近づくにつれ、徐々にエマの姿が映し出され…
「……!」
ヒロは次の一枚、動画から切り抜かれた一瞬に目を凝らした。桜羽エマの顔に、何かが映っている。左目の目元から頬まで、その輪郭に沿って黒ずんでいる。
まるで殴られた痕のように。
二階堂ヒロの背筋が凍った。
「お母さまによれば、月曜の朝にはすっかり痕跡が消えていて、何も問題ない様子で登校したようですね。顔のあざに気づいたのはカメラを見てからだとか」
「...君は、何か気づいていたのか?」
「いつものエマでしたよ。その「いつも」が若干変わっているのはヒロも気づいているとおりですが」
淡々とした口調は、暗に自分を非難しているように思えた。こうして証拠を突きつけられては言い返す言葉もない。
『「変異種」で自活する子どもたち 長野の里山から各地の貧困層へ拡大』
...二階堂ヒロの脳内に、いつか偶然見たニュースの題名がちらついた。
「……エマの母は試しに「今週もヒロちゃんも会うの?」と尋ねてみたようですね。エマは「駅で待ち合わせる」と返答したようで。その時エマの漏らした待ち合わせ時間から30分を引いたのが、あなたに伝えた合流時間です」
ユキがジェスチャーのように時計をヒロに見せる。その眼は今までと何ら変わらないように見えた。感情も思考も読めない、青い宝石でできた殻のような目。
ただ、その奥にあるものは、自分が思うよりずっと深いのではないか、などと感じる。
「エマに近づくものが何であれ、危険な者には一刻も早く取り除くのが「正しい」ものではありませんか?」
「......わかった」しぶしぶと言った表情でヒロが頷く。「君の主張にも、一定の理はあるな」
「ええ、よくできましたねヒロ」
二階堂ヒロは肩にかけっぱなしだったスポーツバッグを下ろす。
そして月代ユキの隣に立つ…のではなく後ろに回った。
そのまま月代ユキが背負っている鞄のファスナーをつまんで、ずずず、と引っ張る。
「...ヒロ、右手が正しくないようですが」
「なに、待ち合わせ相手を調べる前に、まず余計なものを片付けておこうと思ってな」
小指の緩やかな圧力に呼応して、ユキも肩をすぼめる。ヒロは指を五本に増やして対抗した。
「ヒロ、同じ話を二周させるものではありませんよ、これは調査に必要なものです」
「ならこの瓶の中身と用途は?」
「火炎噴射機と特製の催涙瓶ですよ。害虫に浴びせるための」
「やはり今日の君は正しくない!」
リュックサックの引っ張り合いは軽い取っ組み合いにまで発展していた。鞄の口を掴んだ綱引きはヒロが優勢だが、ユキも負けじとしがみつく。
「なんで正面からドンパチする前提なんだ!?穏健に解決する発想はないのか?」
「甘いことを言いますね、放っておけば、手遅れになる、かもしれないでしょう!?」
「相手が相手なら、なおさら正しい段階を、踏むべきだろう!」
ギュルルルという音を立ててファスナーが走る。二人は見るに堪えない顔で両手両足に力を込めている。一歩、二歩、永遠と呼べるような競り合いが続き―
否、30秒ののち、ナイロンのリュックサックはその限界を超えて裂け、その勢いで少女ふたりを引き飛ばした。
「...ユキ!」
月代ユキはヒロの対角線上、屋上の柵に叩きつけられた。すぐさまヒロが駆け寄り、後頭部をさするが出血は見られない。しかしユキの視線の先にあるものを見ると、鞄が真っ二つに割かれているのが見えた。
「…謝りはしないぞ。君の愚かな計画を止めるためのものだ」
「まったくもって、あなたの強情と頑固は治りませんね」
2人はすっかり興奮が抜けた様子でへたり込んだ。鞄があのざまでは肝心の装備も運ぶことはできない。
「周辺調査には付き合うが、乱闘や私刑には手を貸さない。エマが巻き込まれているものが何であれ、その真相はエマの口から語られるべきだ。それが最大限の譲歩だよ」
ユキは口をとがらせながらも、手に取っていたもう一つのボトルを手渡した。「その真相次第では、責を負うのはエマかもしれないのですよ」
「その時は正しく責任を取らせたうえで支えるだけだよ。それとその服も変えるように、ポケットのナイフもな」
「まったく騙し甲斐のない人ですね」
「だいたい、なんで迷彩服なんだ」ヒロが愚か者を見る目でぼやいた。「山奥で鉢合わせる前に街中で笑いものに…….笑いものになる、ぞ…?」
「「?」….?」
突然、語尾を濁して失速したヒロの説教に、ユキは首をかしげてその顔を向いた。
ヒロは柵を背に寝転がったまま、顎を上げ、首を限界まで後ろへ反らしていた。つまり彼女は、頭頂部を地面へ近づけるような格好で、背後の柵越しに駅前広場を逆さまに覗き込んでいたのである。
間もなくその無茶な体制をやめ、体を外に向けて広場を覗き込む。
(珍しいですね、ヒロが会話を無視して入れ込むなんて。)
月代ユキも、手元の双眼鏡をヒロと同じ角度に傾け、つぶらな眼球をレンズに張り付ける。
覗いて分かったことは、目立つだの物騒だのという友人の指摘は、もはや気にする必要もないということだ。
立川は都心の明るさと田舎の静けさを両立した程よい休息地であり、駅北口にあるデッキアーチは格好の待ち合わせ場所である。行き交う老若男女は晴れの空を楽しもうと、思い思いのファッションに身を包んでいる。
しかしその中心、植木沿いのベンチでクルミを弄ぶ少年の姿は、東京の多様性に紛れてなお希釈することのできない異質さをまとっていた。
「…ユキ、今日はハロウィンでは無いな?」
「ええ、名前のない、ただの日曜日ですね」
そんなことはわかっていた。「ハロウィン」という単語で、目の前の奇妙な服装をどうにか理解の範疇へ押し込みたかっただけだ。
それは肩にかぶさったポンチョだったり、低い身長を嵩増しするような高い帽子だったり、手首に着けられたタッセル付きの装飾だったりした。一言でいうなれば、中世の旅芸人を彷彿とさせるような民族衣装。
彼自身で縫い合わせたのか、随所に見えるほころびや汚れと、何よりも彼自身の容姿が単なるコスプレにない異質感を与えていた。中東系を思わせる鋭利な顔の彫り、中性的なロングウルフに切りそろえられたクリーム色の髪が放射状に広がる。
「...あのスカートからして女の子、でしょうか?」
「いや、骨格からして男性のものだろう、どこを切り取っても奇特だが…」
「そんなに困惑する事もないでしょう、衆愚に染まらないことは良いことです」
「彼がエマの隣に立つとして、同じことが言えるか?」
「へ?」
ヒロのスマホには『証拠品』の一つ、エマの持ってきた花が表示される。そのうち2、3種映った部分が拡大表示された。続いて女装少年の方を指す。
彼の右隣に置かれた瓶。その中の花は、写真のものとすべて一致していた。
「...いや別に、流行の花を持っているのは...いや花を持ち歩くのは珍しいですね」
「持ち歩くのも珍しいし、あの花自体も珍しい」
「知っているのですか?」
「図鑑に載っていない花は珍しいとしか言えないだろう」
逆に、図鑑に載っているものは覚えているのか、と思いつつ、今度は倍率をより上げて少年を観察する。
突然、少年の顔が立川駅舎の陰を向き、その方向に向けてクルミを持った手をブンブンと振り始めた。勢いあまってクルミを投げ飛ばしそう、と思うほど大きく。
駅前を行き交う幾十の影。そのうちの一つが、明確に列を逸れて直進しているのが見えた。
袖の膨らんだ白いブラウスに黒いポンチョ、彼女にしては珍しい紺色のロングスカート。
春の季節によく似合った白髪と桃色のグラデーション。
そして犬歯のよく見える、太陽のようにかわいい笑顔。
「「桜羽....エマ....!?」」
大魔女・月代ユキは、生まれて初めて二階堂ヒロと同じ心境を共有したように感じた。
2024年 3月3日(日) 12:55
JR立川駅周辺 新設のフラワーマーケットにて
新宿や渋谷で遠くの人間から1分でも目を離せば、再び見つけられる可能性は皆無に近い。西東京の街中であっても同じことである。
二階堂ヒロと月代ユキが裂けたリュックサックと危険物をロッカーにしまい、数百メートル離れた駅に着くまでは30分を要した。それはまず片づけを優先すべきというヒロの良心でもあったが、同時に遅れても遅すぎることは無いだろうという安心感があったからである。
「見てくださいヒロ、人がゴミのようにエマの周りに群がっていますよ」
「エマと、その友人もだな」
「エマはかわいいですね」
あの派手な格好をした2人を、見逃すほうが難しいだろう。
エマの格好もまた奇特である。花のブローチが括りつけられた腕部にゴシック風の刺繍が施されたポンチョ。現代的ではなく、中世の視点からも分類に困る格好だ。
おそらくは少年のセンスによるものだろうか。2人の顔の良さで奇跡的に破綻しないバランスを保っているファッションと言えた。
「『ねえハナ君、あそこ見て、バラのシュークリームってやつ!一緒に半分こしようよ!』...また食べ物の話か」
「ヒロ、その距離でなんで会話の内容が聞こえるのですか?」
「聞こえなくとも、唇の動きを読めば大体はわかるよ」
「あなたはたまに気持ち悪いですね」
2人はバラバラに、売り場近くの棚に身を隠しながら、エマたちの動向を観察していた。この建物は花屋や売店、カフェなどが境界なく立ち並んでおり、視界から逸れるための材料に事欠かない。
そのうちの一つ、2F中心に位置するカフェの売り場で、エマと少年は5回目の「半分こ」をしている。エマが頬を染めて一口サイズをほおばっているのに対し、もう一つの塊を渡された、ハナと呼ばれた少年は若干死んだ目でクリームを舐める。
「食べ物でエマを懐柔し、弱った姿を見せて庇護欲まで刺激する。随分と手慣れていますね」
天井から伸びるツタを弄りながら月代ユキが毒づく。彼女がメモに書き込む間にもエマは彼の手を両手で引き、屋台の列へ向かって進路を変えていたが、ヒロは何も言わないことにした。
「それにしてもやけに豪華なホームセンターができたものですね。園芸用品で建物一個使うだなんて」
「ホームセンターではなく自然複合施設だよ。ここ一年に起きたことで、若年層の関心も増えたからな」
二階堂ヒロは周囲を見回す。天井のグロウライトと柱のように立つ木々に彩られた花市場は昼間の樹海のようで、自分たち以外にも若者たちがその景観をスマホに収めている。施設の八割を園芸関係で独占する、という挑戦的な計画がこうして成功を収めたのも、世間を騒がせる『変異種』によるものだろうか、とヒロは思った。
「案外冷静に語るものなのですね、初めて発見されたとき、正しくないものに触れるなとあれほど嫌そうにしていたのに」
「「正体不明の物体を素人が触れるのは正しくない」と言ったんだ、拡大解釈は止めてくれ」
ヒロはじっとりとした目でユキを睨んだ。流石に専門的な物事に持論を振り回すほど狭量になった覚えはない。
改めてもう一周、屋内の光景を見渡す。ヒロが施設の扉をくぐってから目にした花の種類は数百、この季節に咲く花の大半が視界に入る。
そして自身のスマホ...エマの写真に映り、彼が持ち歩いている花が、そのどこにもないことを再確認した。
『ハナ君はさ、今のボク一人でお世話するのってどれくらいのがいいと思う?』
『どのくらい?うーん...トマトとか、他にメロンとかは?』
『メロン!どれくらい難しいんだっけ..?』
『種類的に父さん母さんに手伝ってもらいやすいし、エマも意識できるから20点くらい』
『技術的な話じゃないの!?』
『キャパの問題かと思って...』
読唇術にも難易度というものが存在する。口を大きく開けて喋るエマはとても分かりやすかった。しかし、人目を避けるように囁くもうハナ少年の言葉は文脈から読み取るのが関の山だ。
今のところ言動に問題は見られない。怪しいのに見られない、という状況が余計にもどかしい
『とりあえず、ボクらが持っていない花はこれくらいかな。そろそろレジ行こう?』
『え、あいや、まだお金はあるし、南側のとか見てないよ?』
『だーめ。もう三千円近く使ってるよ。残りはお昼と電車代』
エマは小さく『共用』と書かれた封筒を見せた。そのまま少年の手を引いてレジに向かう。二人へ注目する人々を目くらましにして、ストーカーたちも移動した。人影と遮蔽物の位置を読み、一定の距離を保って進んでいく。
そうして棚を通り過ぎていくこと数回、突如として視界から二人が消えた。
「.....へぇ?」
通話越しに、ユキが地響きのような低音を発するのが聞こえる。近づいてみると小柄な少年が立ち止まり、かかとを伸ばして桜羽エマの首元に腕を回しているのが見えた。
ユキがいら立つような口調で何かを指示するのが聞こえる。しかし二階堂ヒロは意識に留めていなかった。
エ
マ
ちょうどユキには見えない位置...エマの耳元で少年が囁くところが、はっきりと捉えられたからだ。
『エマの斜め後ろのコーナーにある花、何本か見た目が悪くなってるのが見える?』
ヒロはつられてその方向を見た。中央から見て南側に積まれた〇〇の花は、中央のものと比べて売れ残りが激しく、若干傷んでいる。
『多分すぐ売って、残ったのは廃棄するんだと思う。明日中には枯れちゃけど、すぐ家に持っていったら、別のと繋いで生かせる』
続く言葉を予感するように、エマの方がピクリと跳ねるのが見えた。少年は素知らぬ素振りで自分の財布と、南側の花壇をちらちらと見ている。
『...いや、でもお金は後までためておかないと―』
『花は経費でもあるでしょ?エマが世話してくれるなら、練習にもなるし』
『うぅ...ね、値段は何円くらいなの?』
『4本合わせて2200円。本に使ってた分を回せば足りるよ』
先ほど買う予定だったものと合わせて4950円、とヒロは計算した。視界の向こうではハナがエマに向き直り、鞄からビニール財布を取り出す。
そこからちょうど五千円札が引き抜かれた。
『...え、エマ?』
『半分に分けて、1100円。お年玉持ってきたから』
『この流れで遠慮させるようなこと言う人初めて見たけど...』
「遠慮しながら受け取れって行ってるんだよ!」目を細めてエマが声を張った。「ある分だけ全部使う癖!今のうちに治さないと後悔するよ!」
張り上げられた声にハナ少年、ヒロ、そしてユキが順に身を震わせた。子犬が飛びかかってきたような態度の急変に、三者の脳が追いつかない。
ハナ少年の唇は陸に打ち上げられた魚のようにパクパクと動くだけで、僅かに紡がれた言葉を読み取るのも難しい。それとは対照的にエマの声は、もはやユキの耳にも通るほど響いている。
『ちょっとエマ、落ち着いて、
「ああそう!?なら帰ってから今月の出費とか、時間の使い方とか全部確認するからね!お庭仕事ばっかやってたら言いつける!」
『いやそれはあとで履歴とか送って...』
「ほら、行くよ‼」
エマはぷんすかと怒りながら、フリーズしたハナ少年を引きずってそそくさとレジのほうに消えていった。この年頃の男子にしては珍しい身長もあって、異性というより姉弟のような雰囲気が出ている。
「エマが、姉...」
その声がどちらの口から出たものか、当人には判別がつかない。どちらも自分の声だと思っていた。
2024年 3月3日(日) 13:28
JR立川駅構内のカフェにて
「...以上が今回の調査結果だ。とりあえずこれを元手にエマに話を―」
「ダメです」
「これ以上正しくないことを続けるのは正しくない」
「あなたも共犯じゃないですか」
月代ユキは壊れたロボットのようにふるまう二階堂ヒロの姿を眺める。
立川駅改札のすぐ隣、窓越しに駅構内が見える簡素なカフェで昼食を口にしながら、月代ユキは腑抜けた幼馴染をたたき起こそうと腐心していた。
「落ち着いて聞いてください、私たちがエマと蛆虫の調査を始めてから......まだ1時間経っていません。ストーカーにまで手を染めておいて今更日和るなんて、ヒロの正義は随分とやわになったのですね」
「ウッ...いや、だが君もわかるだろう?これ以上詮索して得られるものがあるか?ただのデートじゃないか」
「こういうものは言いがかりが1000個作れるまで疑ってかかり、犯人を吊るすつもりで一片まで検証し続けるものなのですよ」
「魔女裁判だ…」
「訴訟も辞しません、あとエマたちが来ましたよ」
窓側にちら、と目を向けた。端には改札を通り抜けたらしいエマとハナ少年が、エマのスマホを覗き込んでいる―少年のスマホは無いのだろうか?振り返るとユキは容量いっぱいまで溜まったスマホ映像を、思い切りヒロに突き付けた。
「いいですかヒロ、この件で私たちが得た情報はゼロです。エマに変な趣味を教え込んだあの男が結局何者なのか、納得したなら説明してください」
「聞いて納得する顔には見えないよユキ、君こそこれで彼の危険性を証明できるとは言わないだろう?」
「そういう無害な男ほど外面を取り繕っているものです」
「『エマが嘘をつくのは無理』なんだろう?」
予想外の返しに、ユキは虚を突かれたように黙り込む。ヒロは頭を冷やすようにコップのアイスティーを飲み干した。
「...今だからこそ言えることだが、この調査は私たちが思っているほど難しいものでは無かった。意志薄弱なエマが、誰かから受けた影響を隠し通すことなど無理な話だからね」
「しれっとディスってませんか?」
「そんなことは...いやこれは訂正しないでおこう。弱いと思ったからこんな馬鹿な真似してるんだ。だが今日わたしたちが見たエマは、私たち三人の時と大して変わらなかった。」
それどころか―と付け加えそうになって止めた。若干喉仏に引っかかるような感触を覚えるからだ。
「―ともかく、エマが平常心で、いい奴なままに接しているというのが、あの少年の性格を端的に表しているとは見えないか?」
「エマの性格、ですか。...あるいはその『変わらない』表面すらも偽装で、実際は何も感じなくなっている、なんてことも言えるのではないですか?」
「空っぽなら、これ以上有利なことは無い。少し強めに話せばボロが出るってことだからな」
「処スノート」を鞄にしまう。「何はともあれ、これ以上犯罪まがいの行為を続ける意味もないだろう。私たちも何か―」
そう言った瞬間、視界の端で、窓に何かがぺたりと張りついた。きれいな長方形の影に気づき、外側へ目をやる。
空調の風に押しつけられていたのは、紙幣だった。左下に『1000』と記された白地の紙。右側には深い皺の刻まれた老人が描かれている。その上の文字は――
『Banco De México』
「...メキシコ?」
「メキシコペソ…?」
ユキが呆けたようにつぶやく。ヒロは身を乗り出して、その向こうを凝視した。改札付近、切符売り場の端でリュックサックがひっくり返り、中から紙幣が散らばっているのが見える。
黄土色、青、赤...いずれも日本とは離れた色の通貨。それらを慌ててかき集めようと、花の刺繍が目立つブラウスが伸びているのが見えた。
エマと、ハナの少年の手が。
「...!」
電流を流されたようなスピードでヒロの体が席を離れた。数瞬遅れて周囲の状況と、数瞬前に見たものと、次にとる行動が大脳を駆け巡る。
鞄を閉じて階段を下りていく二人の、その頭上には―
「...ユキ!先に行って2人を!」
「行くも何も、もう間に合いま―」
「間に合うかどうかだけ調べてくれればいい!」
周囲を憚る暇もなくヒロの喉と口が動いた。一拍遅れてユキの口元が歪み、待ち構えていたように「では、遠慮なく」とだけ残し、扉から走り去った。
『図鑑に載っていない花は珍しいとしか言えないだろう』
セルフレジを正しい手順で操作しながら、ヒロは乱れた思考を並べ直していく。
少年が携えていた、オレンジ色の星形の花。
そして、今のメキシコで数万ペソを動かしているもの。
スマートフォンの検索画面を開いた
「トラロックの星」
数秒のローディングを終えるとすぐに
(明らかにこの国と異なる容姿、周囲に馴染まない格好や振る舞い...海外から変異種の密輸や栽培に関わっていたいうことか?さっきの「経費」や「収入」も...!)
Googleを閉じ、代わりに開いたのは写真アプリだった。2人が階段を降りだした時、彼らの頭上にあったもの...電車案内の上段には「特急あずさ・松本行き」と表示され、その下には大月行き快速が来ることが書かれている
「あれだけの外貨を動かすほどの栽培量、ちっぽけな施設じゃあ担いきれないだろう。「あずさ」の停車駅は8つ、研究施設のある町を探れば4つ程度まで絞り込める!」
ヒロはスマートフォンを握り直した。
「エマ。君に近づいた毒虫の正体――すまないが、今度こそ暴かせてもらう!」
2024年 3月3日(日) 13:28
JR中央線 快速 大月行き 車両内
『まもなく本列車は日野駅に到着いたします』
「普通電車に乗った…?」
「よくできなかったみたいですね」
二階堂ヒロは人生でかつてないほど俊敏に、地図アプリの画面に指を滑らせていた。隣では、月代ユキが落ち着きなく窓の外を眺めている。まもなく現れるホームの人混みで、二両前にいるエマと少年の姿を見逃すまいとしているのだ。
ヒロがホームへ着いて目にしたのは、平然と快速・大月行を待つエマたちの姿だった。特急列車を用いて遠くの栽培拠点まで飛ぶ、という予想はまんまと外れたわけである。
「結果的に追跡は途切れなかったものの、降車するときに人が多くて見つけられなければ詰み、少なくてこちらを見られても詰み...降車駅をネットで予測するより、近づいたほうがマシでは?」
「せめて顔を隠す何かがあれば…」
「写真に収められれば、直接見ずとも絞り込めますよ」
ユキはスマホカバーを外した。車両を繋ぐ貫通扉の陰に身を寄せ、窓の端からレンズだけを突き出す。
「ほら、降りる瞬間くらいは見えるでしょう」
「一理あるが、まだ不十分だ。田舎に行くほどバスを経由してもっと経路は複雑になる。もっと徹底的に調べないと―」
「だとしても、そうやってチマチマ候補地を絞り込むのは無茶なように思えますよ」
「ならどうする!?
『ドアが閉まります、ご注意ください』
無機質なアナウンス音が2人の耳を塞いだ。
互いに口を開く間もなく、加速する電車の側面に張り付く。幸いにも彼らの姿は見えなかった。
――いや。すでに改札へ向かい、人混みの奥へ消えた後かもしれない。
ヒロとユキは互いになんと切り出すべきか迷った。何を提案しても悪手に思えてくる。
そうして焦っているうちに、また今のようなドジを...
「ドジ、を?」
「...ヒロ?」
「ユキ、君はいつ二人の姿を視認した?」
「いつって―」唐突な質問に、一瞬、間が空いた。「お札がこちらに飛んできて、私たちが窓に目をやった時でしょう?」
「その前は?」
「20分近くかけて、あなたの説得に腐心していましたね」
「つまり二人がいつから居たかとか、紙幣の回収に何分かけたかは、何もわかっていないということだな!?」
「まあ、そういうことに―あっ!」
月代ユキは息をのんで検索画面を開いた。立川駅のホームページから5番線の時刻表が見える。
「13時31分発、高尾行き快速…先の特急列車の一分前です!」
「目視できる限り私たちとエマの間には15メートルほどの距離があった...空調の影響も込みとはいえ、その距離まで紙幣が散らばったと仮定すれば、電車が来てから..3分間くらいロスしても可笑しくはない!だが...」
ヒロは自分のスマホ画面を見下ろした。立川駅までの道沿いにある私有地、その中で秘密裏に希少植物を栽培できるものなど―「あるじゃないですか、一番西にとびきり大きなものが」
「なに?」ヒロはたじろいだ。「そんなものがあるなら、とっくに検索されても―」
「木を隠すなら森の中と言うでしょう?」
そう言って、ユキがキーボードを打ち込んだ。
2024年 3月3日(日) 13:46
高尾山
二階堂ヒロがこの一年間、真夏のように不快な空気を感じながら過ごしたのは、偏に2人の親友のためだけではなかった。
それは終わりの見えない東欧の戦乱であり、リビングで飽きるほど流れる暗いニュースであり、それに影響された町の、電車の、校舎の囁き声だった。
とにかく重要なことは、ヒロの感じた不快感は、今目の前ではなく、もはや過ぎ去った数百日のどこか、踏み込むことも探ることも叶わない場所で現れたということだ。
川の流れを乱す石の崩落、樹海の中の火種、一本の行列に割り込むケモノ。
一度目を逸らせば、逸らした長さに反比例して恐れは引いていく。ふと気づいたときには、手のひらに収まる程度に縮んでいて「向き合ってもいいか」などと、能天気な考えと好奇心に踊らされている。
目を逸らされたものは、長さに比例してその暗闇を広げていると。あのメキシコ通貨を見たときに、二階堂ヒロはその摂理を自覚しておくべきだったのだ。
「...受け入れられないなら、眠っていても構いませんよ」
冷や汗に塗れた手のひらをがたがたと震わせる姿を見て、月代ユキは心の中でそう毒づいた。
困惑、恐怖、畏怖。まぶたを限界まで押し広げた先にあったものは、まさしく彼女らが期待していた通りのものだっただろう。
数十メートルの高みまで伸びた一本のブナが。
そこから放射状に広がる、根という根で覆いつくされた地面が。
結晶のような枝葉から降り注ぐ紫のグロウライトが。
視界に見える限りに幾千の草花を咲かせた風景が、「栽培」だと理解できるのなら。
恐ろしくも幻惑的な光景を、二人は山腹の高台から覗き込んでいた。
ブナを構成する茶色の血管がひしめく絨毯の上を、桜羽エマと、花の少年が無遠慮に上っていくのが見える。
「...唇から何か読み取ることはできますか?」
「無理だ」恐れるように即答した。「私たちのいる場所では到底、読み取れない」
ただ二人が根の隙間に、切り花を1輪ずつ植えていくところを目で追うしかない。
せっせと作業を進めるエマを置いて、少年は幹のほうまで淡々と歩いていく。ふと立ち止まって、黒い球のようなものを袖から取り出した。
それがクルミの実だとわかったのは、手を離れて宙に浮いたと思った後、地面に突き刺すように根を生やした時だ。根が互いに絡まりながら細長く伸び、虚空からシルエットを描き出すように、クルミの実は杖となる。
呼応するように木々も動き出した。触手を伸ばすように根が広がり、切り花と接続する。そうして瞬く間に萎れた花弁が脱げ、みずみずしい色彩に脱皮していく。
「花を、取り込んだ…?」
「いや、あの状態はむしろ、樹が花々を自分に寄生させているような...」
その推測が当たっているのか、自分でも信じられない。花は寄生しない。それを言うなら樹はグロウライトなど発さないし、クルミもあんな根は伸ばさない。そもそもあんな速さで成長する植物は存在しない。
極彩色の花々がまとわりつく木の中心を、少年がナイフで切り裂くのが見えた。見えた、というのは、腕を斜め下に振り下ろした後、その軌道に沿うように線が走り、そこを伝う桜色の蜜が光っていたからだ。それは樹液を採取するお決まりの動作だった。
樹液の水道が向かう先は、もう一つの小瓶。大樹の側にエマも近寄ってくる。
エマはそれを飲んだ。
「エマっ…!?」
あまりにも、あっさりとしていた。
数刻前の魔術的な儀式とは比べものにならない。栄養ドリンクでも流し込むように、エマはその液体を喉の奥へ落とした。
そのあっけなさに困惑する暇もなく、効能は現れ始めた。
エマの背中から、黒い霧のようなものが滲み出す。それは空中で霧散し、また集まり、何かの形をかたどっていく。
その工程が終わり、それが質量と輪郭を見せたとき、ヒロは思い当たるものがあった。
「…恐竜?」
昔、博物館で見たプテラノドンの骨格標本を、ヒロは思い出した。
細い胴体。背中から左右へ伸びる、何メートルもの翼。歪んで、若干黄ばんだ欠片が、巨大なパズルのピースのように宙に並べられ、秩序正しい生き物の輪郭をかたどるさまがヒロは好きだった。
エマの背中に「生えている」ものは、まさしくそれだった。
人骨じみた、しかし標本とは思えないほど白く清らかなオブジェクトが、空中に規則正しく浮かび、翼の形を作っている。
二対の翼、一対の尾。二人の身体を包み込むように広がり、宙に浮かばせる、異形の骨格。
その影から、まぎれもないエマの輪郭が再び照らされた。見た目はほぼ変わらない...否。
ブラウスから露出した首に、黒いシミが猛毒のようにその皮膚を這っている。まるで痣のように。
「なあ、ユキ?」恐れと焦りのこもった声でそう呼びかけた。「羽が生えた人間とか、どこかで見たことあるか?」
「見た、と主張する人は大勢いますが、少なくとも記録されたことはありませんね」
「なら悪魔は?」
「ありません」
「じゃあ今のエマは何なんだ!?」
胸にあるものを吐き出すようなその叫びは、横から伸びた手のひらが口をふさぐことで中断された。口に苦痛と強制力を感じさせる握力。いつも大人しいユキから向けられるのは初めての、制御を失った、感情的な振る舞いだった。
その視線の向こうで、そのいかれた戯れはエスカレートしている。少年を抱えたエマの足が、何の予兆もなく地面から離れ、身長の数倍の高さまで打ち上がった。
翼は羽ばたいていない。
それでも身体は一気に木々の高さを越え、白い骨格だけが紫光を反射しながら山腹へ滑っていく。やがて二人の影は枝葉の向こうへ消えた。
ーーーー私は夢でも見ているのだろうか?
仮に彼女一人だったとすれば、そう結論付けていたかもしれない。どこかのニュースで見たような、宇宙人やUMAの目撃のような幻覚に惑わされたのだと。数百メートル先の風景を証明するものは脳に送るものはぼやけた目と、常人ほどの耳しかないのだから。
しかし、ヒロの隣には同じ目撃者がいる。自分の口元をふさぐ手の根元をたどった先、月代ユキの姿は、もう一つの視線を絶対的に拘束していた。
見開かれた青い瞳、膨張と収縮を繰り返す喉、眉間に走るしわ。
それはヒロが抱えているのと同じ、恐怖や困惑を意味するのと同時に、より強烈な感情を見るものに刻み付けた。
普段、殴られて、叩かれて、汚水をかぶせられても、人形のように決して見せることのなかったもの。
「魔女...!」
怒りだ。
投稿が思ったより空いてしまって申し訳ありませんでした。
お気に入り登録してくださった読者の皆様、誠にありがとうございます。