執務室でシュナが淹れてくれた極上の紅茶を傾けていた、その時のことだった。
「――ん?」
突然、世界そのものがぐにゃりと歪んだような、奇妙な感覚に襲われた。
地震のような物理的な揺れはない。だが、魂の根幹を撫でられるような不気味な浮遊感が、数秒間だけテンペスト全域を包み込んだ。
『リムル様! ご無事ですか!』
念話越しに、ベニマルたちの焦った声が次々と飛び込んでくる。
「ああ、俺は無事だ。街に被害は?」
『皆無です。ですが……街を覆う結界の”外”の様子が、おかしいのです。今すぐ、執務室の窓から外を……』
言われるがままに窓の外へ視線を向ける。
中央都市リムルの美しい街並みはいつも通りだ。だが、その向こう側に広がるはずのジュラの大森林の景色が、全くの別物にすり替わっていた。
見慣れた木々の植生ではない。空の色すら、どこか淀んだような深い青色に変わっている。
《告。大規模な空間歪曲および世界線の移動を確認。当座標は、既存の世界とは異なる次元宇宙であると推測されます》
脳内に響く、相棒(シエル)の冷静な声。
(次元宇宙が違う? つまり、テンペスト丸ごと別の世界に転移したってことか?)
《肯定します。また、この世界の大気中には『魔素』が存在しません》
(魔素がない!? じゃあ、みんなの生存や魔法はどうなるんだ?)
《問題ありません。テンペスト内部には巨大な魔素の循環サイクル(主にヴェルドラやリムル等の存在)が確立されています。むしろ、魔素が存在しないこの世界において、テンペストは『無尽蔵の魔力源』として異常な数値を弾き出しています》
つまり、真っ暗闇の密室に、超強力なサーチライトを持ち込んだような状態らしい。目立ちすぎるにも程がある。
《さらに報告します。この世界独自の法則として、『位階魔法(ユグドラシルシステム)』および少数の『始源の魔法』なる事象改変能力を確認。現在、これら全ての法則の解析及び、当陣営のスキル群との統合・最適化を完了しました。いつでも使用・妨害が可能です》
(転移して数秒でもうこの世界のシステム乗っ取ってるよ、この先生……)
俺がシエルの規格外すぎる有能さに呆れていると、執務室の空間が音もなく歪み、漆黒の執事服に身を包んだ悪魔が優雅に跪いた。
「クフフフ……リムル様。どうやら我々は、新たな遊び場に招待されたようです」
原初の黒(ノワール)、ディアブロだ。その目は歓喜に歪んでいる。
「遊び場って……お前な。暴走するなよ? とりあえず、周囲の状況確認が最優先だ」
「はっ。すでにソウエイが『影』を放ち、周辺地域のマッピングを開始しております」
ディアブロがそう言った直後、俺の影から音もなくソウエイが実体化した。
「リムル様、ご報告いたします」
「早いな! で、外はどうなってる?」
「ここは巨大な森の中央部のようです。森の南西およそ10キロの地点に、人間族の小さな集落を発見。……現在、その集落は武装した騎士団による襲撃を受けており、住民の虐殺が行われています」
「なんだと?」
俺は眉をひそめた。
異世界に転移して早々、人間の村が襲われている?
「武装集団の所属は?」
「装備を見る限り、どこかの正規兵のようですが、偽装工作が施されています。統率の取れた動きで、村人を逃がさぬよう包囲して殺戮を行っている模様」
……見過ごすわけにはいかないな。
今後の情報収集の足がかりとしても、現地人への恩は売っておいて損はない。それに、無抵抗な村人が理不尽に殺されるのを黙って見ている趣味は、俺にはない。
「よし、介入するぞ。生存者を保護し、襲撃者を制圧して情報を吐かせろ。誰か行く奴は――」
「「「はいっ!!」」」
執務室のドアが勢いよく開き、ベニマル、シオン、そしてなぜかゴブタまでが部屋に雪崩れ込んできた。
「リムル様! ぜひ私めにお任せを!」
シオンが目を輝かせて、愛刀の剛力丸を振り回す。執務室が壊れるからやめてほしい。
「いや、シオンは加減を知らないからな……。ベニマル、お前が」
「リムル様! ここは私の出番です! 新たな世界でリムル様の威光を示す第一歩、このシオンが完璧に完遂してみせます!!」
あまりの熱意(と、断ると泣き出しそうな顔)に、俺は思わずため息をついた。
「……はぁ、わかった。シオン、お前に任せる。ただし! 相手は人間だ。絶対に『殺しすぎるな』よ? 情報が欲しいんだからな」
「ははっ! お任せください! 峰打ちで優しく捕縛いたします!」
絶対に峰打ちで済まない笑顔だった。
俺は一抹の不安を覚え、傍らにいたゴブタの首根っこを掴んだ。
「ゴブタ、お前もついて行け。シオンが暴走しそうになったら止めろ」
「ええええっ!? オイラがシオンさんのストッパーっすか!? 無理っすよ死んじゃうっすよ!」
「いいから行け。ランガも連れて行っていいから」
『お任せを、我が主(マスター)!』
俺の影からランガが嬉しそうに飛び出し、ゴブタを背中に乗せる。
「シオン、ゴブタ。空間転移で一気に村の上空へ送る。生存者の救済と、襲撃者の無力化を頼んだぞ」
「御意!」
「ひえええ、行くっすー!」
俺が空間操作の魔法を発動すると、二人の姿が執務室からパッと消え失せた。
「……やりすぎないといいけどな」
俺の呟きに、ディアブロが深く頭を下げる。
「クフフ……リムル様の慈悲深さ、新世界の者たちの心に深く刻まれることでしょう」
こうして、テンペストの新世界への介入は、カルネ村の上空に「暴走気味のポンコツ秘書」と「天才肌のホブゴブリン」を投下するという形で幕を開けたのだった。