例年、秋が深まる頃。
リ・エスティーズ王国とバハルス帝国は、国境付近に広がる荒野『カッツェ平野』において、互いの国威と領土を賭けた大規模な軍事衝突を繰り返していた。
王国軍、およそ二十五万。対する帝国軍、六万。
両軍が平野を埋め尽くし、無数の旗が風に翻る様は、新世界の人類の歴史において最も壮大な光景の一つと言えた。
――しかし。今年のカッツェ平野は、例年とは全く異なる異様な空気に包まれていた。
「……陛下。陣形は整っております。いかがなさいましょうか?」
帝国軍の総本陣。
皇帝直属の近衛騎士団長が、玉座に腰掛ける皇帝ジルクニフに下知を仰ぐ。しかし、新世界が誇る『鮮血帝』の顔色は、まるで死人のように青白く、その額からは滝のような冷や汗が流れ落ちていた。
「待て。動くな。……絶対に、こちらから攻撃を仕掛けるな。一歩でも前に出た者は反逆罪で八つ裂きにするぞ」
「は……? し、しかし……」
騎士団長は困惑した。帝国軍は常備軍であり、農民兵の集まりである王国軍を一方的に蹂躙するのがいつもの定石だ。なぜ皇帝は、これほどまでに怯えているのか。
(動けるわけがないだろうが……ッ!!)
ジルクニフは、自身の震える手を押さえつけながら、内心で血を吐くような悲鳴を上げていた。
彼の視線は、王国軍ではなく、カッツェ平野のずっと向こう……トブの大森林の方角へ向けられている。
数日前、彼の執務室に現れた悪魔(ディアブロ)の言葉が、今も耳にこびりついて離れない。
『戦争? ええ、どうぞご自由に。ただ……あの平野の真ん中には、明日から我が国の工作部隊が”ハイウェイ”を建設する予定ですので。我々の商売の邪魔をしない範囲で、静かに遊んでいてくださいね?』
(遊んでいろ、だと……!? この国家の存亡を賭けた戦争を、あの悪魔は子供の砂遊びとしか思っていない! もしここで派手に魔法でもぶっ放して平野の地形を変えようものなら、帝国は明日には滅ぼされるぞ!)
ジルクニフは胃薬の入った小瓶を取り出し、一気に飲み干した。
すでに帝国は、事実上テンペストの恐怖支配下に置かれている。突然戦争を中止すれば国内の貴族が反発するため、やむを得ず軍を出したが、これはもはや戦争ではなく「いかにテンペストの機嫌を損ねずに軍を撤退させるか」という命がけのチキンレースであった。
一方、迎え撃つリ・エスティーズ王国軍の陣営も、負けず劣らず重苦しい空気に包まれていた。
「……なぜ帝国は動かんのだ。いつもなら、すでに魔法詠唱部隊の攻撃が始まっている時間帯だぞ」
陣幕の中で、王国軍の指揮を執るレエブン侯が怪訝そうに呟く。
その傍らに立つ戦士長ガゼフ・ストロノフは、帝国軍の不気味な沈黙の理由を、痛いほど理解していた。
王国もまた、数日前に王都を訪れた悪魔(テスタロッサ)によって、完全に『心を折られて』いるのだ。
「レエブン侯……帝国も、気づいているのでしょう。我々が、絶対的な強者の『庭先』で剣を振り回す愚を犯していることに」
「……テンペスト、か。戦士長殿がそこまで恐れる存在。未だに信じられんが……」
両軍が互いに「どうやって帰ろうか」と牽制し合い、三十万人以上の人間がカッツェ平野でただ睨み合うだけの硬直状態が続いた。
その時だった。
「――なんだ? あれは」
最前線の兵士の一人が、平野の横合いから立ち昇る土煙に気づいた。
騎兵の部隊だ。しかし、その数は少ない。たったの百騎ほど。
「帝国軍の別働隊か!?」
「いや、違う! なんだあの魔獣は……狼!? 狼の上に、緑色の小鬼(ゴブリン)が乗っているぞ!」
ざわめきが両軍に広がる。
土煙を上げてカッツェ平野の中央――両軍のちょうど真ん中の緩衝地帯に堂々と乗り込んできたのは、テンペストが誇る『ゴブリンライダー部隊』だった。
そして、その先頭を走る巨大な漆黒の狼(ランガ)の背には、深紅の髪を揺らす一人の美しい鬼人――テンペスト軍総大将、ベニマルが腕を組んで立っていた。
「……やれやれ。リムル様から『適当に停戦させてこい』と言われて来てみれば……。なんですか、このお遊戯会は」
ベニマルは、周囲を取り囲む三十万の人間たちの陣形を見回し、呆れたように溜息をついた。
「スキだらけ、連携もバラバラ、個々の練度も底辺。こんな烏合の衆が何十万集まったところで、我が国のブラックナンバーズ(黒色軍団)どころか、ゴブタの部隊一つで半日もたずに殲滅できますよ」
「うっす! オイラたちだけでも楽勝っすね!」
ゴブタが鼻をこすりながら同意する。
「貴様ら、何者だ! ここを神聖な戦場と知っての狼藉か!」
王国の貴族の一人が、ベニマルに向かって剣を突きつけて怒鳴った。
「戦場? ああ、そういえばそうでしたね」
ベニマルは全く動じず、ただ右手を軽く持ち上げた。
「俺は魔国連邦(テンペスト)の軍務を取り仕切る、ベニマルという。人間たちよ、よく聞け。お前たちがここで何をしようと勝手だが……この場所は明日から、我が国のゲルドたちが『テンペストと人間圏を繋ぐ大街道』を建設するための工事現場になる」
ベニマルの声は、魔法による拡声もしていないのに、三十万の兵士全員の耳に直接、雷鳴のように響き渡った。
「だから、今すぐそのおもちゃの剣をしまって、国へ帰れ。――これは、交渉ではない。警告だ」
「ふ、ふざけるな! 亜人の分際で、我々三十万の軍勢を前に――」
「言葉で言っても分からないなら、少し『実力』を見せるしかありませんね」
ベニマルは、持ち上げた右手の指先に、米粒ほどの極小の『黒い炎』を灯した。
黒炎獄(ヘルフレア)の、極限まで威力を絞ったほんの欠片。
「あそこの小高い山……邪魔ですね。道路を真っ直ぐ引くために、ちょうどいい」
ベニマルが指先を軽く弾いた。
米粒ほどの黒い炎が、カッツェ平野の端にある岩山(高さ数百メートル)に向かって音もなく飛んでいく。
次の瞬間。
太陽が落ちたかのような、灼熱の閃光。
鼓膜を破るほどの爆音と共に、巨大な岩山が、跡形もなく『蒸発』した。
飛び散る岩石すらない。数万度の黒炎によって、山そのものが一瞬でプラズマ化し、消え失せたのだ。
「「「………………」」」
カッツェ平野を、文字通りの『完全な沈黙』が支配した。
剣を掲げていた王国の貴族は、口から泡を吹いて馬から転げ落ちた。
レエブン侯は自身の目を疑い、ガゼフは絶望に目を閉じた。
ジルクニフに至っては、「だから言っただろうがァァァ!」と内心で叫びながら、玉座でガチガチと歯を鳴らしている。
米粒一つの魔法で、山が消えた。
もしあれが、自分たちの軍列に放たれていたら?
三十万の軍隊など、一瞬で消し炭になる。戦争という概念そのものが、彼らの前では無意味だったのだ。
「さて、ご理解いただけましたか? では、直ちに撤収を――」
ベニマルがそう言いかけた、まさにその時である。
――ピキッ、ピキピキピキッ……!!
空から、硝子が割れるような奇妙な音が響いた。
ベニマルが眉をひそめて上空を見上げる。人間たちは、山が消えた恐怖でそれどころではない。
パァァァァァァァァァンッ!!!!
突如として、カッツェ平野の上空数百メートルの『空間(次元の壁)』が、物理的に粉砕された。
ぽっかりと空いた漆黒の次元の裂け目から、この世のすべての魔力を凝縮したような、赤と青の極光が滝のように降り注ぐ。
『――みぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃつけたぞぉぉぉぉぉぉっ!!!!!』
その声は、世界そのものを震わせる絶対的な『竜(ドラゴン)』の咆哮だった。
「な、なんだ!? 今度は何が起きた!?」
パニックに陥る三十万の人間たち。
光の奔流と共に、次元の裂け目から一つの小さな影が弾丸のように飛び出し、カッツェ平野のど真ん中――ベニマルのすぐ目の前に、隕石のごとく激突した。
ドッッッゴォォォォォォォォォォォォォォォォン!!!!
激突の衝撃波だけで、大地が波打ち、平野にいた両軍の最前線の兵士数万人が、まるで落ち葉のように空高く吹き飛ばされた(幸い、衝撃波のみで直接的な殺傷力は抑えられていたが、全員が気絶した)。
もうもうと立ち込める巨大な土煙。
その中心に空いた、直径数百メートルの巨大なクレーターの底から、ツインテールのピンク色の髪を埃まみれにした『少女』が、プンプンと怒りながら立ち上がった。
「もぉぉぉぉぉっ!! リムルのバカバカバカ!! 私を置いて、自分たちだけ面白そうな異世界に引っ越しするなんて、ズルいぞズルいぞズルいぞーーっ!!」
現れたのは、最古の魔王の一柱。
『破壊の暴君(デストロイ)』こと、ミリム・ナーヴァであった。
「げっ……ミリム様!?」
ベニマルの顔から、先ほどまでの余裕が完全に消え去り、冷や汗が吹き出した。
「なぜここに!? 空間の断層をどうやって……いや、力ずくで破ってきたのか!?」
「当たり前なのだ! 私の『竜眼(ミリムアイ)』でヴェルドラの気配を探して、次元の壁をぶん殴って穴を開けてきたのだ! ふはははは! 褒めてもいいぞ!」
腰に手を当ててふんぞり返るミリム。しかし、彼女の放つ『竜気』は、先ほどのベニマルの黒炎など比較にならないほどの、星そのものを破壊しかねない絶対的なプレッシャーだった。
「あ、あぁ……アァァ……」
クレーターの縁からその光景を見ていたジルクニフの心は、ここで完全にへし折れた。
(山を消す魔人が焦っている……。あの少女から放たれる力、間違いない。神だ。神の怒りが顕現したのだ……我々人類は、今日ここで滅びるのだ……!!)
王国の兵士たちも、帝国の兵士たちも、全員が武器を放り出し、ただ地面に這いつくばってガタガタと震えながら、神に許しを乞うように祈り始めてしまった。
「お? なんだなんだ?」
ミリムが、這いつくばる三十万の人間たちに気づき、目を輝かせた。
「お前たち、人間同士で戦争ごっこをしていたのか!? 面白そうだな! 私も混ぜてくれ!!」
「絶対駄目です!!」
ベニマルが血相を変えてミリムの前に立ち塞がった。
「ミリム様が混ざったら、王国も帝国も、ついでにこの平野も消え去ってしまいます!! リムル様に怒られますよ!」
「えーっ! ケチ!! せっかく遊びに来たのに!!」
地団駄を踏むミリム。その度に大地が激しく揺れ、人間たちはさらに悲鳴を上げて涙を流す。
「わ、分かりました! リムル様が、ミリム様のためにシュナの特製プリンと、最高級のハチミツを用意してお待ちです! 今すぐテンペストへご案内しますから!」
「ほ、本当か!? ハチミツ!? プリン!!」
その言葉を聞いた瞬間、ミリムの背中からバサァッと美しい竜の翼が展開した。
「よし! ならばこんな所で油を売っている場合ではないな! 急ぐぞベニマル!!」
「は、はい! ……おい人間ども! 命拾いしたな。さっさと帰って道を作る準備をしておけ!!」
ベニマルは捨て台詞を残し、ゴブタを引っ掴むと、ミリムと共に空間転移の光に包まれて逃げるように消え去った。
……後には、完全に地形が変わり果てたカッツェ平野と、二度と戦争などする気になれず、魂まで恐怖に染め上げられた三十万の人間たちだけが残された。
この日、リ・エスティーズ王国とバハルス帝国の間に『恒久的な絶対不可侵および和平条約』が締結された。
両国は手を取り合い、テンペストの道路建設に国の全予算を投じて協力することを、満場一致で決定したのである。
新世界の歴史において、これほどまでに平和的(?)かつ迅速に戦争が終結した日は、後にも先にも存在しなかった。