大陸の南方に位置する『竜王国』。
そこは今、文字通りの地獄絵図と化していた。
「……また、防衛都市が一つ落ちたか。食われた領民の数は?」
「お、およそ十万人にのぼるかと……。獣人(ビーストマン)どもは、我々人間を『保存食』として生かしたまま解体し、貪り食っております……!」
竜王国の女王、ドラウドゥロン・オリクルスは、玉座で深く絶望の溜息をついた。
彼女は真なる竜王(ドラゴンロード)の血を引く存在だが、その力は薄く、見た目は幼い少女のままである。しかし、彼女の背負う重圧は一国の存亡そのものだった。
隣国である獣人国から雪崩れ込んできた、数百万にも及ぶ獣人の大群。彼らにとって人間はただの『餌』でしかない。
竜王国軍は決死の抵抗を続けているが、身体能力で圧倒的に劣る人間が獣人に勝てるはずもなかった。
「……もはや、手段はない。私が『始源の魔法(ワイルドマジック)』を使うしかないわね」
「じょ、女王陛下! それはなりません! あの魔法を使えば、代償としてさらに数百万の領民の命(魂)を捧げることになりますぞ!」
「ならどうしろと言うのじゃ!! このままでは、我が国の民は一人残らず獣人の胃袋に収まるのじゃぞ! だったら、私の手で……!」
ドラウドゥロンが血の涙を流し、究極の選択を下そうとした、まさにその時だった。
「――おやおや。ずいぶんと陰惨な空気が漂っていますねぇ。これでは、せっかくの美味しいお茶の味が落ちてしまいますよ」
「……誰じゃ!?」
玉座の間の空間が歪み、そこから三つの影が現れた。
一人は、黒いスーツに身を包んだ、赤いメッシュの髪の悪魔(ディアブロ)。
もう一人は、豪奢な着物を纏い、背後に九本の黄金の尻尾を揺らす、息を呑むほど妖艶な絶世の美女(クマラ)。
そして最後の一人は――身の丈2メートルを優に超える巨体と、豚の顔を持つ重戦士(ゲルド)だった。
「なっ……亜人!? しかも悪魔だと!? 衛兵! 衛兵!!」
「無駄ですよ。ここはすでに私(ディアブロ)が空間を隔離しました。……ご挨拶が遅れましたね、竜王国の女王陛下。我々は魔国連邦(テンペスト)の使節団です」
「てん、ぺすと……? トブの大森林に現れたという、あの謎の国家か……」
ドラウドゥロンは警戒を露わにした。獣人に滅ぼされる前に、今度は別の魔物に国を乗っ取られるのか、と。
「安心してください、我々は野蛮な略奪者ではありません」
ディアブロが優雅に微笑む。
「リムル様は、南方の特産品(果物や海産物)の取引ルートを開拓したいと仰られました。しかし、商売相手が獣人に食べられてしまっては困る。そこで、少々『害獣駆除』のお手伝いをさせていただこうかと」
「害獣駆除、じゃと? 笑わせるな! 相手は数百万の獣人の大軍じゃぞ! 貴様ら三人で何ができる――」
「俺が行こう」
野太く、しかしどこまでも静かで重い声が、玉座の間に響いた。
重戦士――猪人王(オークキング)のゲルドである。
ゲルドは、水晶モニターに映し出されている「獣人が人間を貪り食う凄惨な光景」を、血の涙を流すような悲痛な瞳で見つめていた。
「かつて、俺たちの種族(オーク)も、飢えに狂い、他種族を貪り食うだけの哀れな獣に堕ちたことがあった。……だが、リムル様は俺たちの罪を許し、腹を満たし、誇りを与えてくださった」
ゲルドが、巨大な肉切り包丁(斬葉包丁)を肩に担ぐ。
「飢えを満たすためではない。ただの娯楽と暴虐のために他者を食らう獣など、我が主の治めるこの世界には不要だ。……俺が、盾となろう」
「ふふっ。ゲルド殿は真面目でありんすねぇ」
妖狐のクマラが、煙管を吹かしながら色っぽく笑う。
「わっちは、あの下等な獣どもに『真の獣の頂点』というものを教えてやりたいと思いましてよ。……さぁ、女王様。バルコニーへどうぞ。特等席で、害獣駆除をご覧にいれましょう」
竜王国の王都の数キロ手前。
地平線を黒く染め上げるほどの獣人の大軍が、歓声を上げながら王都へ向かって進軍していた。
「ヒャハハハ! 人間の王都だ! 一番美味い子供の肉は俺がもらうぜ!!」
獣人皇帝が舌舐めずりをし、全軍に突撃の号令をかけようとした。
ズンッ……!
地響きと共に、王都と獣人軍の間に、たった一人の巨漢が降り立った。
黄色いフルプレートアーマーを纏ったゲルドである。
「あぁ? なんだあの豚は? オークか? 人間の国で飼われてる非常食かよ!」
獣人たちがゲルドを見てゲラゲラと嘲笑う。
「おい、まずはあの豚から血祭りにあげて――」
「――【守護者(ガーディアン)】」
ゲルドが、手にした巨大な塔盾を、大地にドンッ!と突き立てた。
その瞬間。
ゴゴゴゴゴゴォォォォォンッ!!!
ゲルドの足元から、黄色い魔力の波動が放射状に広がり、王都全体を囲むように、高さ数十メートル、厚さ数メートルにも及ぶ『絶対不可侵の魔法城壁』が、文字通り一瞬にして隆起したのである。
「な、なんだ!? 壁が、一瞬で生えてきたぞ!?」
「ただの土壁だろ! ぶっ壊せ!!」
獣人たちが一斉に壁に突撃し、武器や魔法を叩きつける。
しかし、ゲルドの『鉄壁』のユニークスキルと融合したその城壁は、彼らの攻撃を物理的に完全に弾き返し、傷一つ、ヒビ一つ入らない。
「無駄だ」
ゲルドの野太い声が、獣人軍全体に響く。
「この壁は俺の肉体と同義。俺の背後にある命は、誰にも奪わせん」
「ふざけんな! たかが豚一匹に何ができる! 全軍で押し潰せ!!」
獣人皇帝が怒り狂って叫ぶ。数百万の軍勢が、ゲルドたった一人に向かって殺到しようとした。
「……あらあら。数の暴力とは、品がありませんねぇ」
城壁の上から、クマラが優雅に飛び降りた。
「お前たち。自分たちが『獣の強者』だと勘違いしているようでありんすが……。井の中の蛙、いや、森の中のネズミでありんすね」
クマラが、ニッコリと微笑んだ。
そして、彼女の背後で揺れていた九本の黄金の尻尾が、一気に扇状に展開された。
――ピシィッ!!!
新世界の『物理法則』が、音を立てて凍りついた。
「ガ、アァァァァッ!!?」
獣人軍の先頭を走っていた数十万の兵士たちが、不可視の巨大な重圧に押し潰され、一斉に地面に這いつくばった。口から血と泡を吹き、眼球をひん剥いて痙攣する。
クマラから放たれたのは、幻獣の頂点たる『妖狐』の、そして迷宮九十階層の守護者としての圧倒的な【魔王覇気】。
新世界の獣人など、彼女のオーラの前では「獲物」にすらならない。ただの「塵」であった。
「さぁ、我が愛しき八部衆たちよ。ご飯の時間でありんすよ」
クマラの影から、巨大な白猿、黒鼠、雷虎、飛鳥といった、新世界の魔物とは次元の違う『幻獣』たちが次々と顕現する。彼らは咆哮を上げながら、怯えきった獣人軍の群れへと楽しそうに飛び込んでいった。
「ひぃぃぃっ!! バケモノだ! こいつら、人間じゃない! 逃げろ!!」
「皇帝陛下! 駄目です、兵士たちが恐怖で一歩も動けません!!」
さきほどまで人間を餌と呼んでいた獣人たちは、今度は自分たちが『真の捕食者』の餌となる絶望を味わっていた。八部衆の蹂躙により、数百万の軍勢はわずか数分で完全に瓦解。戦線は崩壊し、文字通り泣き叫びながら四散していく。
竜王国のバルコニー。
ドラウドゥロン女王は、手の中に持っていた高級なワイングラスを、ポトリと落とした。
「……終わった……?」
「ええ。ゲルド殿とクマラ殿には『適度に脅して追い払うように』と伝えてあります。彼らは殺戮を楽しむ趣味はありませんので、獣人の国の中枢まで潰すようなことはしないでしょう」
ディアブロが、紅茶を淹れながら優雅に微笑んだ。
「さて、女王陛下。害獣は駆除されました。これで、ゆっくりと『交易』のお話ができますね? 我が国は、貴国の果物や海産物を適正な価格で買い取らせていただきます。その代わり、我が国の特産品(極上の回復薬やシルク、そしてテンペスト通貨)の流通を許可していただきたい」
ドラウドゥロンは、震える手でディアブロの淹れた紅茶を受け取った。
一口飲む。……美味い。今までの人生で飲んできたどんな茶よりも、圧倒的に美味い。
この恐ろしい悪魔たちは、武力で国を滅ぼすことなど一瞬でできるのに、わざわざ自分たちを助け、対等な「商取引」を持ちかけてきているのだ。
(いや、対等なわけがない。この茶一つとっても、我々はもう、彼らの文化なしでは生きていけなくなる……!)
ドラウドゥロンは幼い少女の顔のまま、すべてを悟ったようにふっと笑った。
「……相分かった。竜王国は、魔国連邦の経済圏に全面参加しよう。……どうせ、抗うことなど神々にも不可能じゃ」
こうして、竜王国は獣人の脅威から完全に解放されると同時に、テンペストの『南の果樹園およびリゾート地』として、平和で豊かな(そして完全に依存しきった)属国生活をスタートさせることになったのである。