トブの大森林の辺境に位置するカルネ村は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「はぁっ、はぁっ……! ネム、走って!」
村の娘エンリ・エモットは、幼い妹の手を引きながら必死に走っていた。背後からは、村人たちを容赦なく虐殺する完全武装の騎士たちの足音が迫っている。
両親は、自分たち姉妹を逃がすために盾となり、すでに血の海に沈んだ。
「きゃっ!?」
木の根に足を取られ、エンリは無様に転倒してしまう。
振り返ると、冷たい金属の鎧に身を包んだ騎士が、感情の読めない瞳で剣を振り上げていた。
(ああ、ここで死ぬんだ……)
エンリが妹を抱きしめ、絶望に目を閉じた、その瞬間。
ドゴォォォォォォォンッ!!!
耳を劈く轟音と共に、エンリの目の前の地面が爆発したかのように弾け飛んだ。
もうもうと立ち込める土煙。そして、凄まじい風圧が騎士を吹き飛ばし、民家の壁に激突させる。
「え……?」
土煙が晴れたクレーターの中心に立っていたのは、信じられないほど美しい女性だった。
黒いスーツに身を包み、頭には一本の凛々しい角。そして、彼女の身長ほどもある巨大な大剣(剛力丸)を、片手で軽々と担いでいる。
「ふむ、座標は完璧ですね。リムル様のお手を煩わせるまでもありませんでした」
紫の髪をなびかせながら、その女性――シオンは、ニコリとエンリたちに微笑みかけた。
「怪我はありませんか、小さき人間たち? 私は偉大なるリムル様が第一秘書、シオンと申します。安心なさい、あの方の慈悲により、あなたたちは救われました」
「ひ、ひしょ……? あ、あの……?」
エンリが混乱していると、上空からさらに奇妙な声が降ってきた。
「ちょっとシオンさーん! 着地が雑っすよ! 村まで壊しちゃったらリムル様に怒られるっす!」
ズシンッ! と、さらに大きな影が降り立つ。
それは、家屋よりも巨大な漆黒の狼(ランガ)と、その背に乗る、どこか間の抜けた顔をした小柄な魔物(ゴブタ)だった。
「ひぃっ!? 魔物……!」
巨大な狼のプレッシャーに、エンリは恐怖で腰を抜かす。
「あ、怖がらせちゃったっすね。ランガ、少し小さくなるっす」
『承知した』
恐ろしい声で返事をした狼は、ポンッと音を立てて大型犬ほどのサイズに縮んだ。常識外れの光景に、エンリはただ呆然とするしかない。
その時、吹き飛ばされた騎士たちが態勢を立て直し、わらわらと集まってきた。
「な、なんだ貴様らは!? 亜人か? ええい、構わん! まとめて殺せ!」
隊長の号令と共に、十数名の騎士が剣を構えてシオンに殺到する。
「……野蛮な方々ですね。せっかくのスーツが汚れてしまいます」
シオンはため息をつきながら、巨大な剛力丸をゆっくりと上段に構えた。
「リムル様より『殺しすぎるな』と厳命を受けておりますゆえ。特別に――峰打ちで許して差し上げます」
ブゥゥンッ!!
シオンが剛力丸を横薙ぎに一閃した。
刃は誰一人にも触れていない。ただ『素振り』をしただけである。
しかし、剛力丸が空気を切り裂いたことで発生した超圧縮された暴風の衝撃波が、騎士たちを次々と撥ね飛ばした。
「ぐわぁぁぁぁっ!?」
「あばばばばばっ!?」
鎧がひしゃげ、木々をへし折りながら、十数人の騎士が一瞬にして宙を舞い、白目を剥いて地面に転がった。全身の骨が数本折れているだろうが、シオンの絶妙なコントロールにより、不思議と致命傷には至っていない。
「よし、峰打ちですね」
「いや、ただの暴風による範囲攻撃っすよねそれ……」
ゴブタのツッコミをシオンは華麗にスルーした。
「さて、ゴブタ。私はあのしぶとい騎士たちを捕縛します。あなたは村人たちの治療を」
「了解っす! ほら、そこのお嬢ちゃん。これ飲むっす」
ゴブタはエンリの元に駆け寄ると、懐から試験管のような小瓶を取り出した。中には、美しく輝く青紫色の液体(フルポーション)が入っている。
「これを、あそこに倒れてる両親に振りかけるっす。早くしないと手遅れになるっすよ」
「えっ……で、でも、お父さんとお母さんは、背中を深く斬られて、もう息が……!」
「いいからいいから!」
半信半疑のまま、エンリは受け取った液体を両親の傷口に振りかけた。
次の瞬間――新世界の常識が崩壊した。
淡い光と共に、ぱっくりと開いていた致命傷が『一瞬で』塞がり、失われた血液すらも元通りになった。それどころか、肌のツヤまで良くなっている。
「う、うーん……? あれ、私は……」
「お、お母さん!? お父さん!!」
エンリは涙を流して両親に抱きついた。新世界の最高位の神官が使う魔法でも、完全回復には時間がかかる。この『ただの液体』は、明らかに神の領域の秘宝だった。
「な、なんだあのポーションは!? しかも、あの大剣の女、ただの魔物ではないぞ……!」
生き残った騎士の隊長が、恐怖に顔を引き攣らせながら後ずさる。
彼は懐から一枚の羊皮紙(マジックアイテム)を取り出し、叫んだ。
「ええい! こうなれば天使の召喚だ! 出でよ、威光の主天使(プリンシパリティ・オブ・オブザベーション)!!」
光の柱が立ち昇り、重武装した神聖な天使が顕現する。スレイン法国が誇る、高位の召喚魔法だった。
「おお! 行け、天使よ! その邪悪な魔物を浄化――」
「……誰が邪悪ですって?」
シオンの顔から笑顔が消えた。
彼女から立ち昇る、圧倒的な闘気と妖気。それは、召喚された天使すらも本能的な恐怖で後退りさせるほどの絶対的な『死』のプレッシャーだった。
「私は魔物ではありません。リムル様に名を与えられし、誇り高き『悪鬼(オニ)』です。その程度の羽虫と一緒にしないでいただきたいですね」
シオンが剛力丸を片手で軽く振り下ろす。
今度は衝撃波すら発生しなかった。ただ、シオンのユニークスキル『料理人(サバクモノ)』の力が刃に乗っただけ。
「斬られる」という結果だけが事象として確定し――新世界の高位天使は、悲鳴を上げる間もなく、空間ごと真っ二つに両断されて光の粒子となって消滅した。
「あ……ぁ……」
隊長は完全に心が折れ、その場にへたり込んだ。
「さぁ、大人しく降伏なさい。我らが主、リムル様があなたの話を聞きたいそうです」
シオンが極上の笑みを浮かべ、絶望する隊長の首根っこを掴み上げた、まさにその時である。
「そこまでだ、帝国の騎士ども! ……って、あれ?」
村の入り口から、馬を駆って飛び込んできた一人の男。
リ・エスティーズ王国戦士長、ガゼフ・ストロノフが、抜刀したまま呆然と立ち尽くしていた。
彼の目に映ったのは、無傷の村人たちと、縛り上げられた帝国騎士(偽装)、そして……彼らを一網打尽にした、絶世の美女と、犬に乗った小柄な魔物という、理解の範疇を超えた光景だった。