テンペスト地下迷宮、第九十五階層。
幽幻王(ゼギオン)の無慈悲な拳が、絶望に顔を歪める『常闇の竜王』と『七彩の竜王』を次元ごと圧殺しようとした、まさにその瞬間だった。
「――クアハハハハ! 待て待てゼギオン! そいつらの相手は、この我が引き受けよう!」
ドゴォォォォォォォォォォォォンッ!!!
応接室の扉ではなく、ゼギオンの背後の『壁』が理不尽な暴力によって粉砕された。
もうもうと立ち込める土煙の中から現れたのは、褐色の肌に金色の髪を揺らす屈強な男――ヴェルドラ=テンペストと、彼の肩に乗って「あーっ! また壁壊した! 修理代!」と叫んでいる妖精女王ラミリスであった。
「……ヴェルドラ様。それに、ラミリス様」
ゼギオンは即座に拳を止め、音もなく片膝をついて最敬礼の姿勢をとった。
「うむ! 迷宮の防衛、大儀である。だがなゼギオンよ、我もたまには体を動かしたくてウズウズしておったのだ。そのトカゲどもの処遇、我に任せてはくれまいか?」
「御意。我が主(リムル様)の盟友にして、この迷宮の最奥を護るヴェルドラ様の御心のままに」
ゼギオンは静かに立ち上がり、スッと空間の影へと溶け込むように後退した。
残されたのは、半死半生で床に倒れ伏す二柱の竜王と、壁の隅でモップを抱えてガタガタと震える『絶死絶命』と白金の竜王(ツァインドルクス)である。
「な、なんだ貴様は……? スライムの配下には、まだあのようなバケモノ(ゼギオン)以上の手合が潜んでいるというのか……!」
常闇の竜王が、ひび割れた鱗から瘴気を漏らしながら、必死に身を起こす。
彼ら竜王の感覚は、目の前に現れた「人間の姿をした男」から、一切の魔力を感じ取れなかった。
しかし、彼らの『竜としての本能』が、魂の底から警鐘を鳴らし、悲鳴を上げている。
目の前の存在は、竜ではない。
いや、竜という種族の『概念の頂点』そのものが、たまたま人間の形をとって顕現しているだけなのだ。
「お、おい、常闇よ……」
七彩の竜王が、恐怖で歯の根を合わなくさせながら呟いた。
「こいつ、どこかで見たことがないか? あぁ、思い出した……先日のカッツェ平野で、白金(ツァインドルクス)の奴が一瞬で屈服させられたという、あの未知の……!」
「いかにも!」
ヴェルドラは腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。
「我こそは、『暴風竜』ヴェルドラ=テンペスト!! 貴様らのような地の底を這いずるトカゲどもに、本物の『竜気』というものを教えてやろう!」
ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!
ヴェルドラが、ほんのわずかに【覇気】を解放した。
ただそれだけで、迷宮九十五階層の空間が「ミシミシ」と物理的な悲鳴を上げ、重力が数十倍に跳ね上がったかのような錯覚が竜王たちを襲った。
「ガ、アァァァァァァッ!!?」
「ぐ、グォォォ……ッ! 体が、潰れる……!」
常闇の竜王も、七彩の竜王も、自らの意志とは無関係に、床に顔を擦り付けさせられた。
彼らが何百年もの間、新世界の頂点として誇ってきた「始源の魔法(ワイルドマジック)」を練り上げる事すらできない。
絶対的な格の違い。
星のエネルギーの化身である【真なる竜】の前にあっては、新世界の竜王など、文字通り「ただのトカゲ」と同義であった。
「クアハハハ! どうしたどうした! まだ我は指一本動かしておらんぞ! さぁ、貴様らの自慢の魔法とやらを撃ってこい! 我の新しい必殺技で相殺してくれよう!」
ヴェルドラは嬉しそうに両手を広げ、漫画の主人公のような構えをとった。
しかし、竜王たちには反撃する力など微塵も残されていなかった。
「ま、待て……! 降伏だ! 我らの負けだ!! 偉大なる真なる竜よ、どうか命だけは……!!」
「アァァ、我々が愚かだった! 許してくれェェ!!」
かつて八欲王を相手に世界を守るために戦ったという誇り高き竜王たちは、完全にプライドを粉砕され、涙と鼻水を流しながら命乞いを始めた。
「……えっ」
ヴェルドラの顔から、笑顔がスッと消えた。
「な、なんじゃお前たち……。もう終わりか? せっかく我は、この『ヴェルドラ・スーパー・覇気』の奥義を試そうと、わざわざここまで出向いてきたというのに……。一発も撃ってこないなど、あまりにも張り合いがないではないか!」
ヴェルドラは不満そうに頬を膨らませた。
「ええい、つまらん! ゼギオンよ、やっぱりこいつらはお前に任せる! 好きに処分して良いぞ!」
「ちょっと待ったぁぁぁっ!!」
ゼギオンが再び静かに右手を上げようとした瞬間、部屋の隅から悲痛な叫び声が上がった。
ピンク色のフリルエプロンを着た白金色の鎧――ツァインドルクスである。
「お、お願いですヴェルドラ様、ラミリス様! どうかその者たちの命はお助けを!」
ツァインドルクスはモップを放り出し、這いつくばって猛烈な勢いで土下座をした。
「おお、白金ではないか。貴様の知り合いだったな」
「は、はい! 彼らは私のかつての同胞! 無知ゆえにこの迷宮に足を踏み入れた阿呆どもですが、力と体力だけは腐るほどあります! ですから、ですからどうか……!」
ツァインドルクスは、常闇と七彩の竜王を振り返り、血を吐くような声で言った。
「彼らを、私の『清掃チーム』の部下として雇ってはいただけないでしょうか!! ここ迷宮の下層は、我々の常識を絶する超高濃度の魔素に満ちており、毎日凄まじい量の『魔力結晶(超重量のクリスタル)』が勝手に生えてくるのです! しかも、各階層の主の方々が手合わせをする余波で、地形ごと吹き飛ぶこともしばしば……! 人間の冒険者など数階層で全滅するため下層には来ませんが、それでも私と絶死絶命だけでは、日々の修復と清掃の手が回らないのです!!」
「「…………は?」」
常闇と七彩の竜王は、かつての同胞の口から出たあまりにも悲惨な提案に、完全に思考が停止した。
しかし、ラミリスは「おっ」と身を乗り出した。
「なるほど! アンタたち、力仕事なら得意そうね! 絶死絶命とツァインドルクスだけだと、九十階層以下の整備はキツいって不満が出てたところなのよ!」
ラミリスは空中で腕を組み、うんうんと頷いた。
「それに、アンタたち、アタシの迷宮の天井を派手にぶっ壊してくれたわよね? この修理代、金貨数万枚は下らないわよ。……体で払ってもらうからね!」
「ま、待て! 我々は竜王だぞ! この世界の支配者たる我々が、なぜダンジョンの清掃などという屈辱的な真似を――」
常闇の竜王が反発しようとした。
「ほう? 我の温情と、ラミリスの寛大な処置を断るというのか?」
ヴェルドラが、目をスッと細めて見下ろした。
その瞳の奥に宿る『真なる竜』の深淵なる暴力の気配に触れ、常闇の竜王の言葉は一瞬で凍りついた。
「い、いえ……! 喜んで、お掃除させていただきますゥゥゥッ!!」
「ピカピカに磨き上げますゥゥゥッ!!」
二柱の竜王は、ここに新世界における全ての権力と誇りを完全に放棄し、テンペスト迷宮の『終身名誉清掃員』としての契約書(ラミリスの手書き)に泣きながらサインをしたのだった。
――一方、その頃。
迷宮の騒動が行われていた真上の、遥か上空。
『ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃっ……!!』
天空を覆い尽くさんばかりの超巨体を誇る『聖天の竜王(ヘブンリー・ドラゴンロード)』は、雲の上から下界の惨劇を感知し、ガチガチと牙を鳴らしながら震え上がっていた。
彼は、ツァインドルクス救出のために常闇たちと共にやってきたものの、自身の巨体が目立つため、上空で待機していたのだ。
しかし、彼の感知能力は、地下深くに潜ったはずの同胞たちの魔力が、突如現れた『規格外の嵐の気配(ヴェルドラ)』によって、一瞬にして消沈させられたのを正確に捉えていた。
『バ、バカな……! 常闇も七彩も、手も足も出ずに降伏したというのか!? アレはなんだ! アレは竜ではない、世界を終わらせる破滅そのものではないか!!』
聖天の竜王は、一秒でも早くこの場から逃げ出そうと、巨大な翼を広げて身を翻した。
トブの大森林から離れ、人間の手の届かないはるか西の空の彼方へ、息を潜めて永遠に隠れ住もう。そう決意した時だった。
「おーい! そこのデカいの! 待てーっ!」
『……え?』
聖天の竜王が振り返ると。
彼の顔のすぐ横、高度数千メートルの上空を、ツインテールのピンク色の髪をした人間の少女が、信じられない速度で並走して飛んでいた。
最古の魔王の一柱、『破壊の暴君(デストロイ)』ミリム・ナーヴァである。
「お前、おっきくてカッコイイな! 空飛ぶお城みたいだぞ!」
ミリムが目を輝かせながら、無邪気に笑いかける。
『き、貴様ぁ! 余の行く手を阻むなど、何たる不敬! 消え失せろ!! 【天外の聖閃(ヘブンリー・パニッシュメント)】!!』
極度のパニック状態にあった聖天の竜王は、有無を言わさず自身の最強の始源の魔法――天空の星々の光を凝縮し、万物を原子レベルで浄化・消滅させる絶対的な極光のブレスを、至近距離からミリムに向けて解き放った。
空が、真っ白に染まった。
新世界の常識であれば、これを受けた者は竜王であろうと細胞一つ残さず消え去る。
だが。
「わっ! まぶしっ!」
光の奔流の中心で、ミリムはただ『少し目を細めて、両手で顔を覆った』だけだった。
『……は?』
聖天の竜王のブレスが途切れる。
そこには、服の裾一つ、髪の毛一本すら焦げていないミリムが、「びっくりしたのだ!」とケラケラ笑いながら浮いていた。
『ば、馬鹿な……! 余の、渾身の始源の魔法が……無傷だと!?』
「あー、びっくりした! お前、いきなり眩しい光を出すなんて、面白い挨拶をするんだな!」
ミリムが、嬉しそうに拳を握りしめた。
「よし! ならば私も、お前に挨拶を返してやるぞ! えーっと、リムルに『手加減しろ』って言われてるから……こんなもんか!」
ミリムは、一切の魔力を込めず、魔法も使わず。
ただ純粋な『筋力』だけで、聖天の竜王の巨大な顔面に向かって、ペチッと軽く右の拳を突き出した。
ドバゴォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
「――――ッ!!?」
音などという生易しいものではなかった。
ミリムの放った『ただの物理的なパンチ』の風圧(ショックウェーブ)が、大気を超圧縮し、聖天の竜王の顔面の横をすり抜けた。
拳が直接当たったわけではない。
しかし、その風圧だけで、聖天の竜王の数百メートルに及ぶ巨体が、まるで木の葉のように空中で錐揉み回転しながら吹き飛ばされたのだ。
それだけではない。
ミリムのパンチの余波は、そのまま遥か彼方の地平線まで突き抜け――遠くに見えていた無人の岩山を、一瞬にして『粉々に粉砕』し、空を覆っていた分厚い雲を、大陸の端から端まで真っ二つに切り裂いてしまった。
ただの、ちょっと手加減しただけの、遊びのパンチの風圧で、である。
『ア…………? ア…………?』
吹き飛ばされ、どうにか空中で体勢を立て直した聖天の竜王は、完全に思考がショートしていた。
魔法ではない。スキルでもない。純粋な『力の暴力』。
もしあの拳が直撃していれば、自分は頭部ごと宇宙の果てまで吹き飛ばされて死んでいた。竜王としてのプライドなど、この絶望的な『格の違い』の前には塵以下の価値しかなかった。
「なぁなぁ! お前、私の新しいペットになれ! 背中に乗って遊んだら、絶対楽しいぞ!」
ミリムが、無邪気な、そして一切の拒否権を許さない笑顔で言い放った。
『ヒッ……!! は、はいぃぃぃぃっ!! 喜んで、背中をお貸しいたしますゥゥゥッ!!』
神の如き暴君の前に、世界最大を誇る竜王は、己の全てを捨てて泣き叫びながら服従を誓った。
こうして。
新世界において最強と謳われた六柱の竜王のうち、なんと四柱までもが、たった一日のうちにテンペスト陣営(およびその友人)の「清掃員」と「乗り物」に成り下がるという、歴史的な大惨事(彼らにとっての)が引き起こされたのである。
後日、テンペストの空を、嬉しそうに笑うミリムを乗せた『超巨大な雲の竜』が、毎日ビクビクしながら遊覧飛行させられている姿が、新世界の住民たちによって頻繁に目撃されることになる。
「……なんか最近、空に変なデカいドラゴンが飛んでるけど、あれミリムの新しいペットかなんかか?」
「ええ、リムル様。ミリム様が『空飛ぶお城を捕まえた!』と喜んでおられましたので、放っておいてよろしいかと」
執務室から空を見上げて首を傾げるリムルと、笑顔で紅茶を注ぐディアブロ。
彼らが無自覚に新世界の「世界の理(システム)」を完全に崩壊させ、真の支配者たる竜王たちを完膚なきまでに調教したことなど、テンペストの平和な日常の中では、取るに足らない些事であった。