新世界全土が魔国連邦(テンペスト)の絶対的な『平和と経済の暴力』に飲み込まれてから、さらに数ヶ月の時が流れた。
かつてリ・エスティーズ王国とバハルス帝国の国境地帯に位置していた城塞都市『エ・ランテル』は、現在テンペスト主導の大規模な都市開発によって、超近代的な巨大交易都市へと生まれ変わっていた。
街灯には魔石が輝き、舗装された道路をテンペスト製の魔導貨物車が行き交う。人間の商人たちと、テンペストの魔物たちが肩を並べて商売をしている光景は、もはやこの街の日常となっていた。
しかし、そんな活気あふれるエ・ランテルの街の中で、ただ一箇所だけ、お通夜のような重苦しい空気に包まれている建物があった。
『冒険者ギルド・エ・ランテル支部』である。
「……ギルド長。本日も、魔物討伐の依頼(クエスト)は……ゼロです」
「そうか……」
ギルドマスターであるアインザックは、受付嬢からの報告に深く溜息をつき、頭を抱えた。
無理もない。
テンペストのゲルド率いる工作部隊が整備した『大街道』には、ゴブタ率いるゴブリンライダー部隊が定期的にパトロールを行っている。彼らは「新世界の基準では英雄クラス」の力を持つバケモノの集団であり、街道に近づく魔物や野盗は、彼らによって文字通り一瞬で『物理的に処理』されてしまうのだ。
さらに、森の奥深くに住む強力な魔物たちも、トブの大森林の中央に座す『テンペストの絶対者たち』から漏れ出る狂気じみた魔素のプレッシャーに震え上がり、巣から一歩も出てこなくなってしまった。
結果として。
「魔物を狩り、人々の安全を守る」という冒険者本来の仕事は完全に消滅。現在の冒険者ギルドの依頼板(ボード)に貼られているのは、『逃げたペットの捜索』や『農家の収穫の手伝い』『ドブさらい』といった、雑用ばかりになっていた。
「我が国が誇っていた最高峰のアダマンタイト級チーム『蒼の薔薇』は、あの吸血姫がスライムの魔王様に狂信してしまい事実上の解散……。他の腕利きの連中も、みんなテンペストの地下迷宮(ダンジョン)に一攫千金を夢見て潜っては、心を折られて死に戻り、今ではすっかり迷宮周辺の露天商に転職してしまった」
アインザックは、自身のギルドが歴史的使命を終えつつあることを痛感していた。
「……いっそ、私もギルドを畳んで、テンペスト資本の『ラーメン屋』でも開こうか……」
アインザックがそんな現実逃避の呟きを漏らした、まさにその時だった。
カランコロン、と。
ギルドの重厚な木製の扉が開いた。
「へぇー! ここが冒険者ギルドか! なかなか雰囲気あるじゃないか!」
「うっす! オイラ、こういう酒場みたいな匂い、嫌いじゃないっすよ!」
入ってきたのは、二人連れ(と一匹)だった。
一人は、どこか気の抜けた顔をした緑色の小鬼(ホブゴブリン)。
その足元には、大型犬ほどのサイズに縮んだ、星のマークを額に持つ漆黒の狼。
そして、先頭を歩くのは――銀色に輝く青みがかった長い髪を一つに結んだ、中性的な顔立ちの少年(あるいは少女)だった。
少年の顔には、奇妙な文様が刻まれた『抗魔の仮面』が被られており、その表情を窺い知ることはできない。
しかし、その三人を見た瞬間。
ギルド内にいた数少ない冒険者たちと、受付嬢たちの動きが完全に凍りついた。
二階のギルドマスター室から顔を出していたアインザックは、心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に堪え、その場にガクガクと膝をついた。
(ば、馬鹿なッ!? なぜ、なぜあのお方がこんな辺境のギルドに!?)
アインザックは知っていた。
あの一見するとただの小鬼に見えるのは、帝国の近衛騎士団を単騎で壊滅させると噂されるテンペスト軍団長の一人、ゴブタ。
そして、あの抗魔の仮面を被った銀髪の少年こそが――。
(間違いない……! 全世界の王たちを、すき焼きの肉一枚で服従させたという、規格外の絶対神……魔王リムル=テンペストその人だ!!)
アインザックは全身から滝のような冷や汗を流しながら、必死に思考を回転させた。
なぜ、あの絶対者がギルドに? 視察か? それとも、役に立たなくなったギルドを解体しに来たのか? 逆らえば国が……いや、この大陸が消し飛ぶぞ!
「すいませーん、ちょっと冒険者の登録をしたいんですけどー」
仮面の少年――リムルが、のんきな声で受付嬢に話しかけた。
受付嬢は顔を真っ青にして小刻みに震え、今にも泡を吹いて倒れそうだった。
(冒険者登録、だと……!? 神が、お忍びで冒険者ごっこを始めようというのか!)
アインザックは、即座に階段を駆け下り、受付嬢を押し退けてリムルの前に進み出た。ここで無礼があれば世界が終わる。
「よ、よくぞお越しくださいました!! 私がこのギルドの責任者、アインザックと申します! ぼ、冒険者登録をご希望で!?」
「お、おう。なんかすごい勢いだな」
リムルが少し驚いたように後ずさる。
「あー、その。俺、サトルって言うんだけど。ちょっと世界が平和になりすぎて暇……いや、見聞を広めようと思ってさ。一から冒険者をやってみようかなって」
(サトル……偽名を使ってお忍びを楽しみたいということか! 絶対に正体をバラしてはならないという暗黙の脅迫!!)
アインザックは心の中で血の涙を流しながら、営業スマイルを顔に貼り付けた。
「さ、サトル様ですね! 素晴らしい! 当ギルドはサトル様のような有望な新人(バケモノ)を心より歓迎いたします! つきましては、実力測定のための『魔力測定水晶』に手を触れていただきたく……!」
アインザックは、新世界で最も純度の高い、魔力を測るための巨大な水晶玉をカウンターにドンと置いた。
「へぇ、これで実力が分かるのか。面白そうだな」
リムルが、面白半分に水晶玉に手を伸ばす。
「あ、サトル様! 手加減を……!」
アインザックが叫ぼうとしたが、遅かった。
リムルの指先が、水晶玉にほんのわずかに――ミクロン単位で触れた瞬間。
ピカァァァァァァァァァァァァッ!!!!!
水晶玉が、太陽の如き暴力的で絶対的な閃光を放った。
「目がぁっ!?」
ギルド内にいた全員が両目を手で覆い、悲鳴を上げる。
次の瞬間。
パァンッ!!
魔力測定水晶は、リムルから流れ込んだ『ほんのわずかな魔力漏れ』のキャパシティに全く耐えきれず、限界を超えて原子レベルで粉々に砕け散り、キラキラと輝く光の塵となって空間に消滅した。
「「「…………」」」
ギルド内は、完全な沈黙に包まれた。
数百年の歴史を持つ、絶対に壊れないはずの測定水晶が、触れただけで消滅した。
これが意味することは一つ。この少年は、測定という概念すらおこがましい「世界の理(ルール)」の枠外にいる存在であるということだ。
「あ、やべっ。壊しちゃった。ご、ごめん! 弁償するよ!」
リムルが慌てて懐から金貨を出そうとする。
「い、いえええええッ!! とんでもございませんッ!!」
アインザックは土下座の勢いで頭を下げた。
「水晶が古くなっていたのです! さ、サトル様の実力は完全に測定いたしました! 測定不能の圧倒的パワー! よって、特別措置として……サトル様は本日から、最高位の『アダマンタイト級(英雄)』冒険者として登録させていただきます!!」
「えっ!? いきなり最高位!? いやいや、俺、一番下の銅(カッパー)から地道にスライムとか狩ってランクを上げるのを楽しみにきたんだけど……!」
(スライムの魔王がスライム狩りをしてランクを上げるという高度なギャグ……ッ!! いや、笑っている場合ではない! このお方に下働きなどさせたら、後で配下の悪魔たちに私が八つ裂きにされる!!)
「そ、そんな! サトル様のような御方にスライム狩りなど、世界の損失です! ぜひ、このアダマンタイト級のプレートをお受け取りください!!」
アインザックは、ギルドの奥に一つだけ残っていた最高級の黒い金属プレートを、震える手でリムルに押し付けた。
「むぅ……まぁ、いいか。じゃあ、さっそく何か依頼を受けてみようかな」
リムルが依頼板(ボード)に向かって歩き出す。
アインザックは焦った。今のギルドには「ドブさらい」か「草むしり」しかない。魔王に草むしりをさせたと知れれば、エ・ランテルの街ごと消し飛ばされかねない。
「お、お待ちくださいサトル様!!」
アインザックはギルドの奥底の金庫から、一枚の古ぼけた、血に染まったような羊皮紙を引っ張り出してきた。
「サトル様ほどの英雄には、こちらの依頼が相応しいかと存じます!」
「ん? なになに……『東の荒野に眠る災厄獣(カタストロフィ・ビースト)の討伐』?」
それは、冒険者ギルドが設立されて以来、数百年間にわたって誰もクリアできなかった『絶対不可侵の神話級クエスト』であった。
かつて六大神すら封印することしかできなかった、山のように巨大な魔獣。その封印が近年弱まり、周辺に毒気を振り撒いているという。
スレイン法国の漆黒の聖典ですら「触らぬ神に祟りなし」と放置していた、正真正銘のバケモノである。
(これなら、魔王様も少しは冒険を楽しめるはず! しかも街から遠く離れた荒野なら、いくら暴れて地形が消し飛んでも被害はない!! 私の完璧な采配だ!)
アインザックは自身の機転を内心で自画自賛した。
「へぇ、災厄獣ね。よし、ゴブタ、ランガ! 最初のクエストはこれに決まりだ! 行くぞ!」
「うっす! 晩飯までに終わらせて、ラーメン食って帰るっすよ!」
『クゥン!』
リムルたちは嬉しそうに依頼書を引っ剥がすと、意気揚々とギルドを出て行った。
「……ふぅ。寿命が、十年は縮んだぞ……」
アインザックは床にへたり込み、安堵の息を吐いた。
これで数日は帰ってこないだろう。その間に、ギルドを畳んでテンペストに媚びを売る準備を進めよう。そう決意したのである。
――それから、わずか二時間後。
ドズンッ!! ズズズズズズンッ!!!
エ・ランテルの街全体を揺るがすような、異常な地響きが鳴り響いた。
「な、なんだ!? 地震か!?」
「違う! 門の外だ! 門の外に、山が……山が動いてくるぞぉぉっ!!」
アインザックが慌ててギルドを飛び出し、城壁の上へと駆け上がると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
「あ……あぁ……?」
エ・ランテルの正門へと向かって、全長百メートルはあろうかという、漆黒の毛皮と六本の巨大な角を持つ凶悪な魔獣――数百年前に封印されたはずの『災厄獣(カタストロフィ・ビースト)』が、地響きを立てて歩いてくるではないか。
だが、おかしい。
その巨大なバケモノの顔は、なぜか「嬉しそうにデレデレ」しており、尻尾を千切れんばかりにブンブンと振っている。
そして、そのバケモノの鼻先を歩いているのは。
「おーい、アインザックさーん! 依頼、終わったよー!」
リムル=テンペストが、片手を振りながらのんきに歩いてきていた。
そして、リムルの手には「太いロープ」が握られており、そのロープの先は――なんと、災厄獣の首に『リード』として繋がれていたのである。
「は……?」
アインザックの脳みそが、完全に処理能力の限界を迎えた。
「いやー、こいつさぁ。俺たちが荒野に行ったら、いきなり封印破って飛び出してきたんだけど」
リムルが、災厄獣の巨大な鼻先をポンポンと撫でながら笑う。
「なんか、寝起きで機嫌が悪かったみたいだから、ランガがちょっと『威嚇』したらさ。いきなりお腹を見せて降伏してきてさー」
『この程度の雑犬、一睨みで十分である!』
ランガが誇らしげに胸を張る。
「で、よく見たら毛並みもいいし、なんか『ワンッ』って鳴いて懐いてきたから、殺すのも可哀想だし、テイムして連れてきちゃった! 名前は『ポチ』にしたから、これからギルドの看板犬(?)として飼ってよ!」
「ワォォォン!!(※嬉しそうな神話級魔獣の咆哮。風圧だけで城門の兵士が数人気絶)」
(神話のバケモノを……犬扱いして、散歩のようにお持ち帰りしてきただとぉぉぉっ!!?)
アインザックは、泡を吹いて後ろに倒れそうになるのを、気合いだけで踏みとどまった。
討伐するどころか、ペットにして連れ帰ってきた。
しかも、数百年誰も勝てなかったバケモノを、狼の魔物(ランガ)が「一睨み」しただけで。
「あ、そうだ。討伐じゃなくてテイムしちゃったんだけど、これって依頼達成になる? 報酬もらえるかな?」
リムルが、首を傾げながら純粋な瞳で問いかけてくる。
「も、ももも、もちろんでございますサトル様ァァァッ!! 完璧な達成! 神業的な解決でございます!!」
アインザックは城壁の上から、半泣きになりながら叫び返した。
「よーし! ゴブタ、ランガ、初クエスト大成功だな! 報酬で一番高いラーメン奢ってやるぞ!」
「やったー! さすがサトル様っす!!」
魔王とその配下は、災厄獣(ポチ)をエ・ランテルの城壁の外に「お座り」させると、嬉しそうに街のラーメン屋へと向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、アインザックは静かに空を仰いだ。
城門の外では、全長百メートルの災厄獣が「ハッハッハッ」と舌を出して、おとなしく伏せをしている。
「……もう、無理だ。人間の常識なんて、あの魔王様の前には砂粒ほどの意味もない」
アインザックは、自身のギルドマスターのバッジをそっと取り外した。
「よし……ラーメン屋になろう。テンペストのラーメン、めちゃくちゃ美味いらしいし」
こうして、新世界における冒険者の歴史と常識は、スライムの「ちょっとしたお忍びの冒険者ごっこ」によって、完全に、そして物理的に破壊し尽くされたのである。
世界は今日も、魔国連邦の理不尽と圧倒的な文化の前に、幸せな白旗を揚げ続けていた。