テンペスト地下迷宮・第二十階層のセーフエリア(安全地帯)。
階層の天井には、魔力によって再現された抜けるような青空が広がり、心地よい微風が草原のテクスチャを揺らしている。どこからか小鳥のさえずりすら聞こえてくるこの空間は、血みどろの死闘を繰り広げてきた探索者たちにとって、まさに砂漠のオアシスであった。
「フハハハッ! 見たかフールーダ! そして騎士団長よ! ついに、ついに第二十階層の踏破だ! 今回はただの一度も『全滅(ワイプ)』しなかったぞ!」
バハルス帝国の若き皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは、泥とスライムの粘液、そして薄っすらと魔物の血にまみれながらも、満面の笑みで『セーブポイント』の巨大な水晶碑に触れていた。
『ピロリンッ♪』という軽快な電子音が鳴り、彼らのこれまでの進行状況(プログレス)が完全に記録される。
「お見事です陛下! 陛下の絶妙なヘイト管理、そしてステップによる回避の数々、まさに神業の領域に達しておられます!」
「フオォォッ! 私のマナポーション節約術と、第一位階魔法による徹底したリソース管理も完璧でございましたな! ボスの第二形態にも、全く動じることなく対処できましたぞ!」
かつて、新世界の覇権を懸けて策謀を巡らせていた大帝国のトップたちは、今や身分も誇りもかなぐり捨て、純粋な『ゲーマー』として完全に仕上がっていた。
彼らは子供のようにハイタッチを交わし、セーフエリアの奥に設置された木造の山小屋――アイテムの売買や武具の修理を行う『ショップ』へと向かう。
「おお、白金(プラチナ)の旦那! 限界まで酷使した剣と盾の修理を頼む! それと常闇(ディープダークネス)の旦那、回復ポーションをありったけと、麻痺消し草を補充してくれ!」
カウンターの奥では、二人の男が死んだ魚のような目をしながら立っていた。
一人は、輝くようなプラチナブロンドの髪を持つ美青年。もう一人は、闇そのものを纏ったような底知れぬ気配を持つ男。
「……いらっしゃいませ。毎度あり」
「……銅貨はそこのトレイに置いてくれ。ポーションの空き瓶はリサイクルするから捨てずに返却しろ」
かつて、新世界の最強存在として君臨し、人類はおろか神にも等しい力を持っていた『白金の竜王(ツァインドルクス=ヴァイシオン)』と『常闇の竜王』は、すっかり板についたテンペスト指定のエプロン姿で、マニュアル通りの接客を行っていた。
(我らはいったい、こんな所で何をやっているのだ……)
白金の竜王は、ジルクニフから受け取ったボロボロの魔鋼剣に、始源の魔法(ワイルド・マジック)の残りカスを込めて修復しながら、深いため息をついた。
かつては世界を憂い、強大なプレイヤーたちの脅威から世界を守護するという崇高な使命を持っていたはずだった。それが今や、武器の修理代として銅貨数枚を受け取り、日々のノルマをこなすだけのしがないNPC店員である。
しかし、逆を言えば、それだけこの魔国連邦(テンペスト)という国が圧倒的であり、同時に「平和」であったということだ。
すべてが喜劇的で、すべてが娯楽(エンターテインメント)として消費される世界。
このテーマパークにおいては、絶望も恐怖も、死すらも『アトラクション』の一つに過ぎない。誰もがそう信じて疑わなかった。
――その、『音』を聞くまでは。
パリンッ――――…………!!
それは、地下迷宮の第二十階層のみならず、新世界全土、果てはテンペスト王都の空にまで響き渡った、文字通り『世界そのものにヒビが入る音』だった。
「……ん?」
ジルクニフが、ポーションの瓶を受け取ろうとした手を止め、空を見上げる。
セーフエリアの天井に投影されていた、美しく穏やかな青空のテクスチャ。それが、まるで物理的な巨大なガラス窓にハンマーを叩きつけたかのように、放射状にひび割れていた。
「なんだ、あれは……? 天空のひび割れ……? テンペストの新しい演出(イベント)か?」
騎士団長が呑気に首を傾げる。
「ふむ、第二十階層のクリア記念の特殊演出やもしれませぬな。いやはや、芸が細かい」
フールーダもまた、白い髭を撫でながら興味深そうに空を観察していた。
しかし。
カウンターの奥にいた二体の竜王の様子は、完全に常軌を逸していた。
白金の竜王の手から、修復を終えたばかりの剣が滑り落ち、硬い石の床にガランと音を立てる。
常闇の竜王に至っては、手の中の銅貨をばら撒き、カウンターに縋り付くようにしてガタガタと全身を震わせていた。彼らの竜の瞳孔は極限まで収縮し、呼吸すら忘れたように硬直している。
「おい、竜王の旦那たち? 一体どうしたというのだ。顔が真っ青だぞ?」
ジルクニフが怪訝に思って尋ねた瞬間。
ズドォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
単なる地震ではない。上下左右の感覚が喪失し、空間そのものが雑巾のように絞り上げられるような、次元の根幹を揺るがす大震動。
空のひび割れが一気に拡大し、そこからドロドロとした『赤黒いノイズの塊』が、滝のように溢れ出し始めた。
それは、幾何学的なポリゴンのようなバグの塊と、純粋な漆黒の魔力が融合した、名状しがたい超巨大な亀裂だった。
『――■■■■■■■■■■■■■ッ!!!!』
亀裂の奥から、音声という概念を超越した『世界の軋み』のような咆哮が響き渡る。
その咆哮を聞いた瞬間。
ジルクニフたちの周囲に満ちていた魔素(エネルギー)が、文字通り『超巨大な真空掃除機に吸い上げられる』ように、凄まじい勢いで亀裂の奥へと吸い込まれ始めた。
「ガッ……!? ひっ……!? 息が、息ができぬッ!?」
真っ先に異変をきたしたのは、高位の魔法詠唱者であるフールーダだった。彼は喉を掻きむしり、その場に倒れ伏して泡を吹き始めた。大気中の魔力のみならず、彼自身の内側にある魔力すらも、強制的に引き剥がされようとしていたのだ。
「フールーダ!? どうした、しっかりしろ! ポーションだ、誰か早く!」
ジルクニフが叫ぶが、騎士たちもまた、その場に膝をついて激しく嘔吐していた。
彼らの本能が、細胞の全域から警鐘を鳴らしていた。
『あれを見てはいけない』『あれに触れれば、存在が消滅する』と。
「……皇帝。逃げろ」
背後から、ひび割れたような声が聞こえた。
振り返ると、白金の竜王が、自身の唇を噛み切りながら、血走った目で空の亀裂を睨みつけていた。
「あれは……プレイヤーなどという生易しいものではない。かつて、我々の世界を汚染した【ユグドラシル】という理(システム)の深淵そのものだ……」
「ユグドラシル……? 深淵……? 何を言っている、テンペストの魔物よりもヤバいイベントだというのか!?」
「イベントなどではないッ!!」
常闇の竜王が、狂乱したように叫んだ。
「お前たち人間は知らないだろうが、我ら竜王は古い記憶を継承している! かつて世界を蹂躙した八欲王や六大神……彼ら『プレイヤー』たちですら震え上がり、時に数百人がかりで挑んでなお全滅を余儀なくされたという、究極の絶望の象徴だ!」
白金の竜王が、絶望に染まった声で決定的なその名を口にした。
「アレは――『世界敵(ワールド・エネミー)』だ……ッ!!」
「世界……敵……?」
「次元が繋がり、新世界の法則が乱れたことで、かつての世界の根底に眠っていたシステムの残滓(バグ)が、このテンペストの無限の魔素を喰らって、現実の宇宙的脅威として顕現してしまったのだ!!」
ただそこに存在するだけで、星の生命を削り取る終末の化身。
ステータスやレベルといった概念を無視し、触れるもの全てのデータを『削除』する歩く大災害。
「いいか皇帝! 『迷宮(アトラクション)での死』などという甘ったるい遊びは、たった今終わったのだ! あれに魂を喰われれば、テンペストの復活の腕輪すら意味をなさない! 文字通りの【存在の完全消滅(ロスト)】だ!!」
その言葉に、ジルクニフの顔から、ついにゲーマーとしての余裕が完全に消え去った。
遊びではない。絶対の安全圏からのゲームオーバーではない。
真の、どうしようもない『死の恐怖』が、彼らの心臓を鷲掴みにした。
一方、その頃。
魔国連邦(テンペスト)王都、中央指令室。
平時であれば、執務机に足を乗せ、お茶とケーキを嗜みながら迷宮の監視モニターを見てゲラゲラと笑っている最高幹部たち。
しかし現在、その広大な指令室の空間には、けたたましいレッドアラートのサイレンが鳴り響き、壁面全体を覆う無数のモニターが、全て危険を知らせる深紅の警告色に染まっていた。
指令室の空気は、針葉樹林の奥深くのように冷え切っている。
『《告。新世界座標上空、および迷宮各層における、次元境界の完全崩壊を確認》』
リムルの脳内に直接響く相棒――『神智核(シエル)』の声は、いつになく冷徹で、そして、計算機が異常な数値を弾き出した時のような『わずかな警戒』の念を帯びていた。
「シエル。何が起きた? この途方もない魔素の乱れは、ヴェルドラの魔素漏れ(おもらし)レベルじゃ済まないぞ」
執務席から静かに立ち上がったリムルは、鋭い黄金の瞳でメインモニターを睨みつけた。
スライムの姿から、完全な人型の、魔王としての威厳に満ちた姿へと変わっている。
『《演算完了。新世界に残存していた『ユグドラシル』のシステムコードの残骸が、何らかの要因で暴走・変異しました。当該コードは、テンペスト側の高密度な魔素(エネルギー)を強制的に吸収・融合し、現在、理論上の存在であった超高密度エネルギー体――通称『世界敵(ワールド・エネミー)』として現実空間に顕現しつつあります。現在も、際限なく存在値(EP)を増大させ続けています》』
「……放置したら、どうなる?」
『《現時点の膨張速度から推測し、約十二時間後に『新世界』の座標を持つ惑星が完全に消滅。その後、次元の裂け目を通じ、当テンペスト側の宇宙空間も崩壊の危機に瀕します。》』
指令室に、氷のような静寂が落ちた。
星が消滅し、宇宙が崩壊する。冗談のようなスケールの災害報告。
「クフフフフ……!!」
最初にその沈黙を破ったのは、黒の悪魔――ディアブロだった。
彼は片手で顔を覆いながら、肩を震わせて狂気に満ちた笑い声を上げた。しかし、その瞳にはいつもの慇懃無礼な余裕はなく、明確で純粋な『殺意』が、黒い炎となって揺らめいていた。
「これは驚きました。リムル様が丹精込めて作り上げたこの平和な箱庭に、泥を塗り、あまつさえ星ごと食い破ろうとするゴミ屑が現れるとは。万死に値するどころの話ではありませんね」
「全くだ。……久々の戦いになりそうだ」
軍団長たるベニマルが、腰の太刀『紅蓮』の柄に手をかけ、鋭く熱を帯びた息を吐いた。彼の全身からは、すでに陽炎のような闘気が立ち昇っている。
「ええ。全会一致ですね」
テスタロッサが、美しい白髪をかき上げながら、極寒の微笑を浮かべた。
「世界の底が抜けたのなら、私たちが新たな底になって差し上げるだけのこと。あんな薄汚いバグの塊、一瞬で跡形もなく掃除してご覧に入れますよ」
「アハハ! 久しぶりに思いっきり暴れてもいいってことだよね、リムル様!」
ウルティマが無邪気な、しかし血の凍るような笑顔で笑う。
「ふん。我が君の箱庭を荒らす身の程知らずには、絶対の死を。私の『黄金銃(アバドン)』で、あのひび割れごと次元の彼方へ消し飛ばすだけさ」
カレラもまた、主であるリムルへの絶対的な忠誠と、原初の悪魔としての凄まじい破壊衝動を隠そうともせず、獰猛に舌なめずりをした。
「我が大太刀で、奴らの存在そのものを斬り刻んで差し上げましょう」
シオンが冷たい目でモニターを睨み据え、
「俺の盾は、テンペストの民、そしてリムル様の領土を絶対に守り抜く」
ゲルドが、巌のような決意と共に一歩前に出た。
『聖魔十二守護王』をはじめとする最高幹部たち。
テンペストの頂点に君臨する彼ら全員から放たれる覇気は、もはやそれ自体が世界を押し潰すほどの絶大さを誇っていた。これまでのコメディめいた空気は完全に霧散し、あるのはただ「絶対的な敵を殲滅する」という、無慈悲なまでの冷徹な意志のみ。
リムルは、彼らの顔をぐるりと見渡し、静かに、そして力強く頷いた。
その瞳は、万物を統べる『神』のそれであった。
「テンペスト全軍に次ぐ!! これより我々は、非常事態体制(コード・レッド)に移行する!」
リムルの声が、思念伝達(テレパシー)を通じて、テンペストの全軍団、地下迷宮の全階層、そして新世界全土の隅々にまで響き渡った。
それは、慈悲深き主からの避難勧告であり、同時に、理不尽なまでの暴力を振るう魔王からの『戦争の宣誓』でもあった。
「新世界の一般人、観光客、および迷宮内の探索者は、全ての行動を即座に中止し、直ちに最寄りのワープゲートを通って安全圏へ避難しろ! 竜王たちにも手伝わせろ、一人残らずだ!」
玉座から一歩踏み出したリムルは、右手を前方に突き出した。
「各軍団長は直ちに出撃態勢を整えろ! あの次元のバグの塊を、空間ごと隔離し、一切の慈悲なく殲滅する!! 行くぞお前ら!!」
『ハハッ――――!!!!』
指令室を揺るがす、最高幹部たちの完璧に統制された返答。
世界の底が抜けた日。
真の絶望たる『世界敵(ワールド・エネミー)』の顕現を前に、それを遥かに凌駕する真の理不尽――『魔国連邦(テンペスト)』という名の圧倒的な暴力の化身たちが、ついに静かに、そして苛烈に動き出したのだった。