魔王リムル・テンペストによる『非常事態体制(コード・レッド)』の宣言が世界中に響き渡った直後。
テンペスト地下迷宮の第二十階層――先ほどまで平和な「セーフエリア」であったその場所は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「走れ! 振り返るな皇帝!! ワープゲートへ飛び込めッ!!」
「はぁッ、はぁッ……!! 騎士団長、フールーダ! 遅れるな!!」
白金の竜王の怒号に背を押され、ジルクニフたちは転移陣(ワープゲート)へと全速力で駆け出していた。
彼らの背後、ひび割れた空のテクスチャから滝のように溢れ出した『赤黒いノイズの塊』は、地面に落ちると同時にウネウネと蠢き、実体を持った怪物――『世界敵の眷属』へとその姿を固定化させていた。
それは、およそこの世の生物とは呼べない代物だった。
天使のような純白の翼を持っているかと思えば、体は幾何学的なポリゴンのような無機物で構成されており、顔があるべき場所には、空間そのものを抉り取るような『黒い穴(ブラックホール)』がポッカリと開いている。
輪郭が常にノイズのようにブレており、「存在する」こと自体が周囲の空間に深刻なエラーを引き起こしていた。
『――ギ、ギギギ……【対象データ:削除開始】』
機械的な、しかし底知れぬ悪意に満ちた音声が響く。
眷属の一体が、空間の黒い穴から『光線』を放った。
それは熱線でも魔力波でもなく、触れたものをシステム的に無に帰す『消去の光』であった。
光線が、セーフエリアの端にあった山小屋(アイテム屋)を掠める。
スッ……、と。
爆発音も、燃え上がる炎もなかった。ただ、光線が触れた部分の空間だけが、まるで最初からそこに何も存在しなかったかのように『完全な無』となって削り取られたのだ。
「ヒッ……!?」
走りながらそれを横目で見たフールーダが、恐怖に顔を引き攣らせた。
「ば、馬鹿な……。事象そのものの消去だと!? あのような真似、神の御業(みわざ)ですら不可能だぞ!」
「だから言っただろうが! アレは世界(システム)を喰らうバグだ! 触れられれば魂ごと消滅(ロスト)するぞ!!」
常闇の竜王が、これまでにない必死の形相で叫ぶ。
その時、逃げ惑う彼らの進路上に、空から新たな『眷属』が三体、ドスンドスンと降り立った。
ワープゲートへの道を完全に塞がれてしまう。
「クソッ……! どけぇぇぇぇッ!!」
帝国最強の騎士団長が、決死の覚悟で剣を振りかぶり、眷属に斬りかかった。
先ほどまで、彼らを楽しませていたゲームの理(ステータス)が通用するか。
「うおおおおッ!!」
ガキンッ!!
渾身の魔力を込めた一撃は、眷属のポリゴンのような皮膚に触れた瞬間、金属音と共に『剣ごと』粉々に砕け散った。
ダメージゼロ。それどころか、剣に込められていた魔力ごと、存在を削除されたのだ。
『【敵対存在・感知。排除シマス】』
眷属の巨大な腕が、騎士団長へと振り下ろされる。
「騎士団長ォォォッ!!」
ジルクニフが絶望の叫びを上げた、その刹那。
「退(さが)れ、人間」
冷たく、威厳に満ちた声が響き渡った。
ジルクニフたちの頭上を飛び越え、巨大な白金(プラチナ)の竜が前に出た。
かつて八欲王と死闘を繰り広げ、世界の守護者を自負していた最強の竜王――『白金の竜王(ツァインドルクス=ヴァイシオン)』の真体であった。
彼は大きく息を吸い込み、魂そのものを削って放つ究極の力『始源の魔法(ワイルド・マジック)』を解放した。
「【究極爆滅(ワールド・ブレイク)】ッ!!!」
それは、世界そのものの法則を捻じ曲げ、対象を原子レベルで消し飛ばす、竜王最強の絶対破壊魔法。
まばゆい白閃が、三体の眷属を完全に呑み込んだ。新世界のいかなる存在であろうと、この一撃を受ければ塵一つ残らない。
フールーダもジルクニフも、あまりの魔力波に目を庇いながら、敵の消滅を確信した。
しかし。
『【無効なデータ・アクセスを検知】』
『【ワールドプロテクション:作動。対象ノ攻撃ヲ『無効化(レジスト)』シマシタ】』
光が収まった後。
そこには、全くの無傷で佇む眷属たちの姿があった。
彼らは『世界敵(ワールド・エネミー)』の分体であるがゆえに、ユグドラシルのシステムにおける【ワールドアイテム級の効果】あるいは【同等の世界干渉能力】を完全に無効化する絶対耐性を持っていたのだ。
「な……ッ!?」
白金の竜王の巨大な瞳が、絶望に震えた。
自身の魂を削った究極の魔法が、そよ風のように無効化された。これこそが、かつてプレイヤーたちをも絶望させた理不尽の極致。
『【反撃:開始】』
無傷の眷属たちが、一斉に『消去の光線』を白金の竜王へと向けてチャージし始めた。
(……終わった)
竜王も、ジルクニフたちも、完全なる死(ロスト)を覚悟して目を閉じた。
――シュパンッ!!!!
何かが、空気を鋭く裂く音がした。
次の瞬間。
『【エラ……ー……?】』
チャージを行っていた三体の眷属たちの首が、ズルリと滑り落ち、そのまま幾何学的な胴体が『細切れ』となって崩れ落ちた。
血すら出ない。ただ、サイコロ状に切り刻まれたバグの塊が、音を立てて床に散らばったのだ。
「……え?」
呆然とするジルクニフたちの前に、一人の男が立っていた。
蒼い髪を持ち、漆黒の装束に身を包んだ、氷のように冷たい美貌を持つ魔人――テンペストの『影』、ソウエイである。
彼の手には、目に見えないほど細く、そして絶対の切断力を誇る『粘鋼糸』が握られていた。
「遅い。貴様ら、リムル様の避難勧告が聞こえなかったのか?」
ソウエイは、振り返りもせずに冷徹な声で言い放った。
「あ、あなた様は、テンペストの……ッ」
「下らぬ魔法で足止めを試みた心意気だけは評価してやるが、邪魔だ。一秒以内にそのゲートに入れ」
その言葉にハッと我に返った白金の竜王とジルクニフたちは、慌ててワープゲートへと飛び込んだ。
(一撃……。我らの究極魔法すら無効化した理不尽の化身を、ただの糸で、まるで豆腐のように切り刻んだだと……!?)
ゲートに吸い込まれる直前、ジルクニフが見たのは、無数に降り注ぐ眷属の大群に向かって、単騎で涼しい顔をして歩みを進めるソウエイの、恐ろしいほどに頼もしい背中だった。
ジルクニフたちがゲートを抜け、テンペストの王都(絶対安全圏)へ到着したのと時を同じくして。
『新世界』の各主要都市の上空は、完全なる終末の光景に包まれていた。
リ・エスティーゼ王国の王都、バハルス帝国の帝都、スレイン法国の聖都。
それら全ての上空の空がガラスのように割れ、そこから数万、数十万という単位の『世界敵の眷属』たちが、空を覆い尽くすように降臨し始めていた。
太陽の光は遮られ、空は赤黒いノイズに染まっている。
「あ、ああ……神よ……」
法国の神官たちが、空を見上げて絶望の祈りを捧げる。
王国の民草は逃げ惑い、帝国の近衛兵たちは震える手で槍を構えたが、相手は一体一体が竜王クラスの存在値を誇るバグの化身だ。人間の軍隊など、文字通り一瞬で消去される運命にある。
世界が終わる。
新世界の人々が、誰もがそう悟り、目を伏せようとしたその時。
上空の赤黒いノイズを、内側から『強引に破り捨てる』ように、巨大な黄金の魔法陣が展開された。
規格外・超巨大な転移魔法陣であった。
『――新世界の皆々様。ご安心を』
美しく、そしてどこまでも恐ろしい女の声が、新世界の全ての生命の脳内に直接響き渡った。
『我が君の愛するこの箱庭を、下等なバグの塊ごときに蹂躙させるわけにはいきません。これより、魔国連邦(テンペスト)による【大掃除】を開始します』
空を覆う黄金の魔法陣から、閃光と共に『彼ら』が降臨した。
帝国上空には、真紅の髪を揺らす軍団長、ベニマルが。
法国上空には、冷酷な笑みを浮かべる原初の黄、カレラが。
王国上空には、大太刀を肩に担いだ紫克衆の筆頭、シオンが。
そして、最も眷属の数が多い新世界の中央座標の上空には――
純白の髪を持つ原初の白(テスタロッサ)と、可憐な紫の髪を持つ原初の紫(ウルティマ)が、優雅に空を舞い降りていた。
「アハハッ! すごい数! これならどれだけ殺しても文句言われないよね!」
ウルティマが、禍々しい紫色の魔力を全身から立ち昇らせながら、歓喜の笑声を上げる。
「ええ。ですが、あまり街を壊してはリムル様に叱られてしまいます。街に被害を出さず、敵対存在だけを美しく蒸発させる。……少し、骨が折れますね」
テスタロッサは、口元を扇子で隠しながら、極寒の笑みを浮かべた。
二人の原初の悪魔の眼下に広がるのは、新世界の空間を喰らい尽くさんとする、数十万という世界敵の眷属たちの群れ。
いかなる魔法も通じず、ゲームの理を無視して全てを削除する、理不尽の極致。
しかし、原初の悪魔たちにとって、そのような『システムのルール』など、何の価値もない。
無効化されるというのなら、無効化という概念そのものを力で圧し折り、破壊するのみ。
「さぁて、それじゃあ……」
「極上の死(ダンス)を、踊りましょうか」
絶望に染まる新世界の空に。
かつてユグドラシルを恐怖のどん底に陥れた『システム』と、理不尽極まりない魔国連邦の『神々』による、次元を超えた超常の殲滅戦の幕が、切って落とされた。