「な、何が起きたのだ……?」
リ・エスティーズ王国戦士長、ガゼフ・ストロノフは、馬上で完全に硬直していた。
彼が駆けつけた時、村はすでに帝国騎士団(偽装したスレイン法国の陽光聖典だが、ガゼフはまだ知らない)によって火の海になっているはずだった。
しかし、現実はどうだ。
村人は無傷。それどころか、王国最強と自負する自分ですら苦戦を免れないであろう完全武装の騎士たちが、赤子のように縛り上げられ、絶望に顔を歪ませて地面に転がっている。
そして、その中心に立つのは、身の丈ほどの大剣を片手で弄ぶ紫髪の美女。
傍らには、見慣れぬ衣服を着た小柄なゴブリンと、伝説の魔獣のような威圧感を放つ漆黒の狼。
「おや、増援ですか?」
シオンがふわりと微笑み、ガゼフへと視線を向けた。
その瞬間、ガゼフの全身の毛穴が開き、本能が警鐘を鳴らした。
(――バケモノだ。勝てる道理など万に一つもない!)
ガゼフは歴戦の勘で即座に悟った。この女は、人間が束になってどうにかなる次元の存在ではない。剣を抜いたまま馬上で硬直している自分は、彼女にとって「いつでも刈り取れる雑草」程度の認識でしかないのだと。
ガゼフはゆっくりと、敵意がないことを示すように剣を鞘に収め、馬を降りた。
「……私はリ・エスティーズ王国戦士長、ガゼフ・ストロノフ。村人を救っていただいたこと、王国を代表して深く感謝する。あなた方は……一体?」
「王国、ですか。それは丁度良いですね」
シオンは小首を傾げると、優雅に一礼した。
「私は魔国連邦(テンペスト)の盟主、リムル=テンペスト様が第一秘書、シオンと申します。そちらのホブゴブリンは軍団長のゴブタです」
「うっす。ゴブタっす」
「魔国……連邦?」
聞いたこともない国名だった。だが、目の前の規格外の強者たちが所属しているという事実だけで、それがどれほどの脅威か嫌でも理解できる。
「実は、我々は少々事情がありまして、この土地へやってきたばかりなのです。主であるリムル様が、この世界について詳しいお話を聞きたいと申しておりまして。……王国の戦士長殿、ご同行願えますか?」
丁寧な言葉尻だが、有無を言わさぬ圧があった。
ガゼフは冷や汗を流しながらも、戦士長としての矜持を保ち答える。
「……承知した。命の恩人の頼みとあらば断れまい。だが、この村の安全が確保されるまでは離れるわけには――」
「ああ、それなら心配いりませんよ」
シオンが指を鳴らすと、ガゼフの背後の空間がぐにゃりと歪んだ。
そこから音もなく現れたのは、真っ黒な装束に身を包んだ複数の影(ソウエイの配下たち)だった。
「ひっ!?」
ガゼフの部下の兵士たちが悲鳴を上げる。彼らがいつ現れたのか、ガゼフですら全く気配を感じ取れなかった。
「この村の護衛と、捕縛した襲撃者の身柄は彼らに任せます。さぁ、戦士長殿。リムル様がお待ちです」
シオンが空間に向けて大剣を軽く振るうと、空中に巨大な『扉』が出現した。
空間転移のゲート。新世界の最高位魔法使いですら容易には扱えない大魔法を、この女は「ただドアを開けるように」行使したのだ。
「ゴブタ、あなたは先に村人たちのケアをお願いします。私は戦士長殿をご案内しますので」
「了解っす! ランガ、手伝って」
『ウオォォン!』
ガゼフはゴクリと唾を飲み込み、部下たちに「村の防衛を手伝え。私に何かあっても決して手を出すな」と命じると、覚悟を決めてシオンの後に続き、ゲートの中へと足を踏み入れた。
「――な、なんだこれは……ッ!?」
ゲートを抜けた先。
ガゼフ・ストロノフは、生涯で最も大きな衝撃を受け、その場にへたり込みそうになった。
「ようこそ、我が国、テンペストへ」
シオンが誇らしげに腕を広げる。
ガゼフの目の前に広がっていたのは、王都すらも遥かに凌駕する、見たこともない超近代的な大都市だった。
トブの大森林の中央に、こんな場所が存在するはずがない。いや、人間の歴史上、これほど豊かで美しい街が存在したことなどない。
足元は平らに舗装され(アスファルト)、立ち並ぶ美しい建築物の窓には、貴重なはずのガラスが惜しげもなく使われている。
道ゆく人々は色鮮やかで上質な衣服(シルクや高級麻)を纏い、誰もが満ち足りた笑顔で笑い合っていた。
だが、ガゼフの心を最も折ったのは『住人の種族』だった。
「おや、シオン様。お帰りなさいませ」
「ご苦労様です、シオン様」
すれ違う住人たち。角の生えた鬼人族、屈強な獣人族、そして――ホブゴブリンたち。
王国の兵士が数人がかりで討伐するような強力な魔物たちが、ごく自然に、まるで人間のように挨拶を交わして通り過ぎていく。
しかも、その辺を歩いている名もなき一般市民(に見える魔物)から立ち昇るオーラが、どれもこれもガゼフの精鋭部隊を凌駕しているのだ。
(狂っている……! 私の部下より、この街で掃除をしているゴブリンの方が強いだと!? ここは神々の国か、それとも魔王の箱庭か……!)
ガゼフはめまいを覚えながら、王国の未来を案じずにはいられなかった。
もし、この『テンペスト』なる国が王国に牙を剥けば、戦争にすらならない。ものの数日で、王国は地図から消滅するだろう。
「さぁ、戦士長殿。リムル様はあちらの迎賓館でお待ちです。緊張なさらずとも、我らが主はとても慈悲深く、気さくなお方ですから」
(あれだけの配下を従える絶対者が、気さくなはずがないだろう……!)
ガゼフは決死の覚悟で、シオンが指し示す巨大な迎賓館へと重い足を引きずって向かった。
迎賓館の扉が開かれた瞬間、ガゼフは再び己の常識を打ち砕かれることになった。
床には豪奢だが悪趣味さのない、ふかふかの絨毯が敷き詰められ、天井からは見たこともない技術で発光する魔石のシャンデリアが柔らかな光を落としている。壁に飾られた絵画や調度品の数々は、王国の国宝ですら霞んで見えるほどの芸術品ばかりだった。
「こちらへどうぞ」
シオンに促され、ガゼフは広々とした応接室のふかふかなソファに腰を下ろした。
緊張で全身が強張るガゼフの前に、桜色の髪をした巫女服姿の可憐な少女(シュナ)が、ふわりと微笑みながらお茶と茶菓子を運んでくる。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。まずは温かいお茶で、お疲れを癒やしてくださいませ」
「あ、あぁ……かたじけない」
勧められるままに、透き通るような白い陶器のカップに口をつける。
――美味い。
一口飲んだ瞬間、ガゼフは目を見開いた。芳醇な香りと深いコク、それでいてスッと体に馴染むような澄んだ味わい。王族が愛飲する最高級の茶葉すら、これに比べればただの泥水に思えた。添えられた焼き菓子に至っては、口の中で雪のように溶け、上品な甘さが脳を直接揺さぶってくる。
(ただのお茶出しの娘ですら、この気品と美貌。しかも、この尋常ではない魔力……。間違いなく、高位の魔物だ)
ガゼフが戦慄していると、応接室の奥の扉が開き、この国の主が姿を現した。
「いやー、待たせてごめんな。急にお客さんが来るって言うから、ちょっとドタバタしちゃってさ」
現れたのは、銀色に輝く青みがかった長い髪を揺らす、中性的な顔立ちの少年(あるいは少女)だった。豪華な衣装に身を包んではいるが、その足取りは驚くほど軽く、威圧感など微塵も感じさせない。
ガゼフは即座に立ち上がり、深く頭を下げようとした。
しかし、彼の戦士としての本能が、激しい警告を発して硬直した。
(――なにも、感じない?)
目の前の存在からは、魔力も、闘気も、気配すらも一切感じられないのだ。
シオンやシュナといった配下たちからは、隠しきれないほどの強大なオーラが漏れ出ているというのに。まるで、そこに『世界そのもの』がポツンと存在しているかのような、圧倒的な虚無。
極限まで力を持った者は、己の力を完全に隠蔽することができる。
ガゼフは悟った。この少年の姿をした存在こそが、数多のバケモノたちを従える絶対の頂点なのだと。
「リ、リ・エスティーズ王国戦士長、ガゼフ・ストロノフと申します。我が王国の民を救っていただいたこと、心より感謝申し上げます」
「あ、うん。俺はリムル=テンペスト。この国の代表をやってる。まぁ、楽にしてよ。お茶、美味しかった?」
気さくに笑いかけられ、ガゼフは逆に額に冷や汗をにじませながらソファに座り直した。リムルの背後には、シオンだけでなく、漆黒の執事服を着た悪魔(ディアブロ)が音もなく控えており、その笑みのプレッシャーだけで息が詰まりそうだった。
「さて、単刀直入に聞くけど。俺たち、ちょっとした事故でこの森に国ごと転移してきちゃったみたいなんだよね。ここら辺の地理とか、人間の国の勢力図とか、教えてもらえないかな?」
「転移……国ごと、ですか。にわかには信じがたい話ですが、この街の威容を見れば納得せざるを得ません」
ガゼフは慎重に言葉を選びながら、現在位置であるトブの大森林のこと、隣接するリ・エスティーズ王国、バハルス帝国、スレイン法国の力関係について説明した。
リムルは時折「へぇ」と相槌を打ちながら真剣に聞いていたが、その傍らで控えるディアブロが、クフフと喉の奥で笑い声を漏らした。
「なるほど。つまり、この周辺には我が国とまともに取引できそうな『豊かな経済圏』が存在しないということですね。リムル様、これは好機かと」
「え? そうか?」
「ええ。未発達な市場ほど、我々の技術と文化で容易に塗り替えられます。まずは交通網を整備し、物流を独占。彼らが我々の物資なしでは生活できない状態を作り上げた上で――」
「ストップ、ストップ」
リムルが呆れたようにディアブロを制止した。
「お前はすぐ話をでかくするな。俺たちは別に侵略したいわけじゃない。美味しいご飯を食べて、みんなで安全に交易できればそれでいいんだよ。なぁ、ガゼフさん。王国とは仲良くできそうかな?」
リムルは無邪気な笑顔を向けてくる。
しかし、ガゼフの脳内では警鐘が鳴り響いていた。
(……美味しいご飯と、安全な交易、だと? いや、それは建前だ!)
ガゼフは、リムルの背後に控える悪魔の言葉を反芻した。
『技術と文化で塗り替え、物流を独占し、依存させる』。
それこそが、この魔王の真の目的なのだ。武力で国を焼き払うことなど、彼らにとっては児戯に等しい。だからこそ、敢えて「経済」と「文化」という見えざる手で、人間の国家を内側から完全に支配しようとしているのだ。
王国と仲良くできるか、という問いは、事実上の『降伏勧告』に他ならない。
「……我が王国は、あなた方のような強大で文化的な国家との交流を、歓迎する道を探るべきだと愚考します。国王陛下にも、私から必ずやこのテンペストの『素晴らしさ』を伝えさせていただきましょう」
ガゼフの決死の返答に、リムルはパッと顔を輝かせた。
「おっ、本当? それは助かるな! よし、じゃあお近づきの印に、宴会でもしようか! ガゼフさんたちも疲れてるだろうし、うちの温泉に入って、美味しいもの食べていってよ!」
「宴会……ですか?」
「そうそう。うちの料理人は腕がいいからさ」
(宴会……いや、これは我々を油断させるための罠か? あるいは、この国の豊かさをさらに見せつけ、我々の心を完全に折るための計略……!)
ガゼフの深読みは止まらない。
だが、彼に拒否権などなかった。
「……ありがたく、お受けいたします」
こうして、リ・エスティーズ王国最強の戦士は、テンペストの誇る「温泉」と「極上の宴会料理」、そして「スライムの底知れぬ恐ろしさ(勘違い)」によって、完全に胃袋と心を掌握されることとなるのだった。