トブの大森林、その上空。
かつて新世界の中心であり、豊かな緑と魔獣たちが息づいていた広大な空は、今や完全に異界の景色へと変貌していた。
空を埋め尽くすのは、赤黒いノイズを発する幾何学的な天使たち――『世界敵(ワールド・エネミー)の眷属』。その数は数万、数十万と膨れ上がり、空のひび割れから今もなお滝のように無限に湧き出し続けている。
『【対象エリア内の生命反応、および魔素の強制接収を開始。全データを削除(デリート)シマス】』
無機質なシステム音声が新世界の空気を震わせた瞬間、数十万の眷属たちが一斉に『消去の光線』のチャージを開始した。
もしこれが放たれれば、トブの大森林のみならず、周囲の国家群の地表ごと完全に消滅する。物理的な破壊ではなく、「存在しなかったこと」になるのだ。
しかし。
その圧倒的な絶望の群れのド真ん中、ポツンと浮かぶ二つの美しい人影は、欠伸が出るほど退屈そうにその光景を眺めていた。
「ねぇテスタ、あれ見てよ。みんな同じ顔、同じ動き。まるで壊れたおもちゃみたいだね。全然可愛くないし、美しくない」
紫の髪をツインテールに結った少女、原初の紫(ウルティマ)は、空中で足をパタパタとさせながら不満げに頬を膨らませた。
「ええ、全くですね。個の意志も、魂の輝きもない。ただプログラムされた通りに動くだけのゴミ屑……。あのような薄汚いバグが、リムル様の箱庭を汚していると思うと、本当に、反吐が出ますわ」
純白の髪をなびかせる美女、原初の白(テスタロッサ)は、優雅に扇子を広げながら、その瞳の奥に絶対零度の殺意を宿した。
『【未確認の高密度魔力体を検知。脅威度:極大。最優先排除対象としてロックオン】』
二人の原初の悪魔の異常な存在値(エネルギー)をシステムが感知した瞬間。
眷属たちの標的が一斉にテスタロッサとウルティマへと向き、数十万条もの『消去の光線』が、彼女たちを囲むように四方八方から放たれた。
「アハハッ! アタシたちを消すつもりだって! 面白いこと言うね!」
ウルティマが、無邪気な笑声を上げながら右手を軽く振るう。
その瞬間、二人の周囲の空間が『歪んだ』。
ユグドラシルのシステムにおいて絶対の法則であったはずの消去光線は、ウルティマの展開した『空間断裂の防壁』に触れた途端、まるで鏡に反射する光のように明後日の方向へと逸れていく。
『【エラー。対象ノ消去ニ失敗。物理・魔法無効化バリアヲ確認。システム定義:貫通不能】』
「さてと。まずはアタシから遊んでいいよね、テスタ!」
「ええ、構いませんよ。ただし、森を焼き払ったらリムル様に怒られますから、加減はしなさいな」
「わかってるってば!」
ウルティマは嬉々として両手を天に掲げた。
彼女の指先から、ドス黒く濁った紫色の魔力が、インクを水に落としたように空中に滲み出していく。それは瞬く間に広がり、空を覆う数十万の眷属たちを包み込む『紫の霧』となった。
『【警告。未知ノ魔力成分ヲ検知】』
『【状態異常:猛毒(ポイズン)ヲ検知。ワールドプロテクション:作動。毒無効化(ポイズン・レジスト)ヲ適用シマス】』
機械的な音声が響く。
ユグドラシルのシステムにおいて、世界敵の眷属は【あらゆる状態異常を無効化する】という絶対の耐性を持っている。毒、麻痺、呪い。ゲームのルールにおいて、それらは彼らに一切通用しない。
「アハハハハハッ!! 毒無効化ぁ?」
ウルティマは、腹を抱えて大爆笑した。
「あのさぁ、勘違いしないでよ? アタシの毒はね、肉体を蝕むなんてチャチなもんじゃないの。アタシの究極能力(アルティメットスキル)『死毒之王(サマエル)』が放つこれは――お前たちの『データ(存在)』そのものを腐らせて殺す、破滅の理(ことわり)なんだよ!!」
『【――エラー。毒無効化(レジスト)……失敗。エラー、エラ、エ、エ、エェェェェ……ッ!?】』
システムの無機質な音声が、初めて『悲鳴』のようなバグ音を上げた。
眷属たちのポリゴンのような体が、紫の霧に触れた端からドロドロと溶け始めたのだ。
物理法則もシステムの耐性も関係ない。ウルティマの放つ『毒』は、相手の魔素構造、ひいては存在を定義するシステムコードそのものを直接書き換え、強制的に崩壊させる絶対の死の劇薬。
「ギ、ギギギ……ッ!! 【自己修復プロセ、ス……不能……】」
数十万いた眷属の半数が、紫の霧の中で抵抗すらできず、まるで熱湯に放り込まれた飴玉のように溶け落ちていく。残るのは、完全に機能を停止したシステムの残骸だけ。
「あーあ、つまんない。無効化とか言うからちょっとは耐えるかと思ったのに、数秒も持たないじゃない」
ウルティマが退屈そうにため息をつく。
残された半数の眷属たちは、明らかなバグ挙動を示しながら後退し始めた。
『【システム警告。対象ハ、ユグドラシルノ法則外(イレギュラー)存在。既存ノ耐性データガ通用シマセン】』
「あら、ようやく自分が井の中の蛙の残骸だと理解しましたか? 哀れなバグたち」
テスタロッサが、扇子をパチンと閉じて一歩前に出た。
「あなたたちのシステムルールなんて、リムル様の統べるこの世界では紙屑以下の価値しかありません。無効化されるというのなら、その『無効化という概念』ごと破壊する。それが、私たち(テンペスト)のルールです」
テスタロッサの右手に、底知れぬ漆黒の魔力が集束していく。
空気が凍りつくような、完全なる『死』の気配。
彼女が放つのは、かつて帝国軍数十万を一切の抵抗を許さずに刈り取った、広域殲滅魔法の極致。
「【死の祝福(デス・ストリーク)】」
テスタロッサの指先から、黒い閃光が放たれた。
それは紫の霧をすり抜け、残る数十万の眷属たち、そして空のひび割れから現れようとしていた増援の群れを、一瞬にして透過した。
熱も、衝撃波もない。
ただ、静かに『黒い光』が通り抜けただけ。
『【警告。即死効果(デス)ヲ検知。即死無効化(デス・レジスト)ヲ作動――】』
システムが、再びゲームの理を押し付けようとする。
アンデッドや非生命体、世界敵の眷属に対して、即死魔法など通用するはずがないのだ。
しかし。
「即死無効? ふふ、本当に頭が悪いですね」
テスタロッサは、極寒の微笑を浮かべたまま、冷酷に言い放った。
「これは『状態異常』ではありません。あなたたちが今この瞬間、『完全に死んだ』という事実を、世界に強制的に書き込むための【究極の魔法】。……私の究極能力『死界之王(ベリアル)』の前で、生だの死だの、そのようなシステム上の定義が通用すると思いましたか?」
『【エラー。エラ、エ、エ――システムログ……完全停止(シャットダウン)】』
ピタリ、と。
空を覆い尽くしていた数十万の眷属たちの動きが、文字通り完全に停止した。
即死無効の耐性など関係ない。テスタロッサの魔法は、彼らの存在そのものを「生命活動(システム稼働)の停止」へと強制的に上書きしたのだ。
無数の幾何学的な天使たちが、空中で静止し――次の瞬間。
サラサラサラ……ッ。
細かい砂のように、黒い灰となって空から崩れ落ちていく。
数分前まで新世界の空を覆い、絶望の象徴として降臨した世界のバグたちは、一切の抵抗も、断末魔を上げることも許されず、ただの塵芥へと変えられた。
「あら、もう終わりですか? 準備運動にもなりませんでしたわね」
「本当だねー。あんなにいっぱいいたのに、テスタの一撃で全部灰になっちゃった」
二人の原初の悪魔は、空から降り注ぐ黒い灰の雨の中を、服を汚すまいと優雅に避けながら、朗らかに笑い合っている。
その光景を、テンペスト王都の避難所に設置された巨大モニター越しに見上げていた新世界の人々は――完全に、その『圧倒的な美しさと力』に魂を奪われていた。
「あぁ……なんという、なんという凄まじい力だ……!!」
バハルス帝国の皇帝ジルクニフは、モニターに映る二人の悪魔の姿に、恐怖など微塵も感じていなかった。彼の瞳は、極上の芸術品を見たかのようにキラキラと輝き、感嘆の声を漏らしていた。
「我らがいかに足掻こうと抗えなかったあの絶望の化身どもを、瞬く間に、そしてあんなにも優雅に消し飛ばしてしまうとは……! テンペストの幹部たち……原初の悪魔。これほどまでに強大で、恐ろしく、美しい存在がこの世にあったとは!」
「おおおお……ッ! 素晴らしい! あまりにも素晴らしいぞ!!」
フールーダに至っては、膝をつき、両手で顔を覆いながら歓喜の涙を流していた。
魔の深淵を探求し続けた彼にとって、テスタロッサやウルティマの放った魔法は、まさに『神の到達点』であった。
「絶対の耐性を力でねじ伏せ、概念そのものを強引に書き換える究極の魔法! これぞ魔法の極致! 世界の理すらも己の足元にひれ伏させる、まさに神々の御業(みわざ)ではないか! 私は……私は長生きして本当に良かったッ!」
新世界を長年見守ってきた白金の竜王もまた、人型の姿のまま、深く、深く感銘を受けたように息を吐き出した。
「……見事だ。我らの究極魔法(ワイルド・マジック)すらエラーとして弾いた絶対の理不尽を、こうも容易く粉砕するとはな。桁が違う。次元そのものが違うのだ」
白金の竜王の顔には、かつてプレイヤーたちを恐れていた頃の苦悩は欠片も残っていなかった。あるのは、絶対的な強者に対する純粋な敬意と、深い安堵感だ。
「なんという強さだ……。我ら新世界は、なんと頼もしく、偉大な守護者を得たことか。ユグドラシルの残骸など、あの御方たちの前では本当にただの『掃除すべきゴミ』に過ぎないのだな」
「全くだ! 一時期はどうなる事かと思ったが、味方にいることに心から感謝せねばならない」
ジルクニフが力強く頷き、避難所に集まった新世界の人々もまた、モニターに映るテンペストの神々の活躍に、歓喜の歓声と拍手を送り始めていた。
彼らにとって、テンペストの存在はもはや「恐ろしい魔物の国」などではなかった。
どんな絶望が訪れようと必ず自分たちを守り抜き、勝利をもたらしてくれる――『最強にして最高の味方』に変わったのだ。
「さて、ウルティマ。私たちの担当エリアの掃除は終わりました。次は、カレラやベニマルの様子を見に――」
テスタロッサが振り返ろうとした、その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
トブの大森林の上空、完全に崩壊した空間の亀裂の奥から、先ほどの眷属たちとは比較にならないほどの『莫大な魔素のうねり』が響き渡った。
空間そのものが悲鳴を上げ、テンペスト側の次元の壁すらも歪み始める。
「おや?」
テスタロッサの瞳が、僅かに細められた。
「へぇ……。どうやら、親玉のお出ましみたいだね」
ウルティマが、楽しそうに唇を舐める。
亀裂の奥からゆっくりと姿を現したのは、全長数千メートルに及ぶ、巨大な機械と生肉が融合したような『超巨大要塞型モンスター』――世界敵の第一軍団長(レイドボス)クラスのバグ生命体であった。
新世界の人々は一瞬息を呑んだが、もはや絶望する者はいなかった。
彼らはモニター越しに、拳を握りしめて熱い声援を送る。
テンペストの幹部たちにとっての『本当の遊戯(ゲーム)』は、ここからが本番であった。