スレイン法国、聖都上空。
神を信仰し、人類の守護者を自負するこの国の人々は今、空を見上げて呆然としていた。
彼らの頭上に浮かんでいるのは、かつての彼らの信仰対象であった『天使』などという生易しいものではなかった。
全身が幾何学的な純白のクリスタルで構成され、背中には無数の光輪(ハイロウ)を背負った、超巨大なシステム兵器――世界敵・第二軍団長クラス『絶対法神(メタトロン・バグ)』。
その存在は、周囲の物理法則を強制的に書き換え、重力、熱力学、そして生命の生死という概念すらも『自身に有利なデータ』へと再構築し続けていた。
『【対象エリアの信仰エネルギー(マナ)を接収。神聖領域を展開。イレギュラー存在の排除を実行シマス】』
無機質な宣告と共に、絶対法神の周囲から無数の『光の槍』が生成された。
それは触れた者の存在座標を削り取る消去の槍。それが数万本という単位で、空中に浮かぶ一人の女性へと一斉に射出された。
「あははははっ! いいね、数だけはいっちょ前じゃない!」
その致死の雨のど真ん中で、原初の黄(カレラ)は、まるで極上の音楽に合わせてワルツを踊るかのように、優雅に空を舞っていた。
彼女の手には、黄金に輝く一丁の拳銃『黄金銃(アバドン)』が握られている。
「けどさぁ……弾幕ってのは、こうやって張るものよ!」
カレラが引き金を引く。
パンッ、パンッ、パンッ!!
軽快な銃声が響くたび、銃口から放たれた魔力弾が空中で無数に分裂し、絶対法神の放った数万の光の槍と空中で正確に激突し、次々と相殺して爆散していく。
空は眩い黄金と純白の閃光に包まれ、まるで白昼夢のような花火大会が繰り広げられていた。
『【警告。対象の射撃精度、異常。物理的迎撃率100%。――戦術変更。概念消去プロセスへ移行】』
絶対法神の巨大な光輪が回転し、カレラの周囲の空間が突如として『四角い檻』のように切り取られた。
『【隔離完了。対象座標内の酸素データ、および熱量データを『ゼロ』に書き換えます】』
瞬間、カレラを囲む空間の温度が絶対零度に達し、呼吸すら不可能な完全な真空状態へと変貌した。
ユグドラシルのシステムにおける最高位の環境操作。生物であれば、一瞬で細胞が凍結し、窒息して死に至る絶対の処刑空間。
「……は? なにこれ」
しかし、真空と絶対零度の檻の中で、カレラはつまらなそうにため息をついた。
彼女の美しい金髪は凍りつくこともなく、その呼吸が乱れることもない。原初の悪魔にとって、呼吸などという生物的な活動はとうの昔に超越しており、環境要因によるダメージなど究極能力の前に完全に無効化される。
「ねぇ、あなた馬鹿なの? そんなチャチな『環境(ルール)』で、私を殺せると思ったわけ?」
カレラが黄金銃の銃身で、空間の檻を軽く小突く。
パリンッ、というガラスが割れるような音と共に、システムが構築した絶対の隔離空間が、いとも容易く粉砕された。
『【エラー。法則の書き換えに失敗。対象の存在強度が、システム許容値をオーバーロード】』
「あなたのルールは退屈ね。だから――私のルールで上書きしてあげる」
カレラの瞳が、獰猛な黄金色に輝いた。
彼女の全身から、空を焦がすほどの莫大な覇気と、純粋な『破壊』の魔力が立ち昇る。
究極能力『死滅之王(アバドン)』――対象のいかなる防御、耐性、法則すらも無視し、全てを平等に破壊し尽くす絶対の権能。
カレラは黄金銃の銃口を、空を覆う巨大な絶対法神のコアへと向けた。
「さぁ、受け取りな。我が君に仇なす愚か者に贈る、特大の破滅(プレゼント)よ!」
魔力が極限まで圧縮され、銃口に漆黒の重力球(ブラックホール)が生成される。
彼女がそれに込めたのは、最上位の核撃魔法『重力崩壊(グラビティー・コラプス)』をさらに究極能力で圧縮・強化した、狂気の魔力弾。
『【脅威度:限界突破。絶対反射(リフレクト・シールド)全開展開――】』
絶対法神が、システム上でいかなる攻撃も跳ね返す無敵の盾を展開する。
「抜けッ!! 【終末の崩弾(アビス・バレット)】ッ!!」
引き金が引かれた瞬間、放たれた漆黒の弾丸は、空間そのものを『抉り飛ばしながら』直進した。
絶対法神が展開した無敵の反射盾に直撃した刹那――システムは弾丸を反射しようと計算を始めたが、弾丸に込められた『破壊の概念』が、計算処理を物理的に粉砕した。
ガキンッ――パリパリンッ!!
反射盾は一瞬で飴細工のように砕け散り、漆黒の弾丸は絶対法神の幾何学的な巨大な胴体を真正面からぶち抜いた。
『【エ、エラ……アァァァァァァァァッ!?】』
弾丸が直撃した内部から、圧縮されていた超重力と破滅のエネルギーが爆発的に膨張する。
数千メートルに及ぶ絶対法神の巨体が、内側からボコボコと膨れ上がり、ひび割れ、そこから漆黒の光が四方八方へと漏れ出した。
「ふふっ、これで終わりじゃないわよ! 街に被害を出さないように、ちゃんと『箱』にしまってあげる!」
カレラが左手を握り込む。
膨張する大爆発の周囲に、彼女が展開した超高強度の魔力結界が形成された。
本来ならスレイン法国全土を更地にするほどの核撃の連鎖爆発が、上空の『結界の箱』の中だけで荒れ狂い、絶対法神の巨体を素粒子レベルまで粉々にすり潰していく。
数秒後。
結界を解除すると、空には熱風一つ残らず、絶対法神は完全に存在を抹消されていた。
同時刻。
リ・エスティーゼ王国の王都上空。
そこには、巨大な要塞の如き重装甲を持つ亀型の世界敵――『絶対防壁(アイギス・バグ)』が鎮座していた。
いかなる物理攻撃も魔法攻撃も吸収し、攻撃者にその威力を10倍にして『反射』するという、理不尽極まりない防御特化のレイドボスである。
王都の冒険者や魔術師たちが総出で放った魔法や矢は、すべて空中で反射され、逆に王都の防壁や建造物を次々と破壊する結果となっていた。
「あぁ……終わりだ……。いかなる攻撃も通じないなど……」
王都の広場で、人々が絶望に泣き崩れていたその時。
彼らの目の前の空間が、陽炎のように揺らいだ。
音もなく、風すらも立てず。ただ『そこにある』という圧倒的な存在感と共に、一つの影が虚空から歩み出た。
それは、人の形をした『虫』であった。
暗闇すらも斬り裂くような、深く美しい漆黒と赤の甲殻。頭部には鋭い一本の角が天を突き、その立ち姿は武の極致を体現したかのように隙がない。
テンペスト地下迷宮・絶対の守護者――ゼギオンである。
「な、なんだあの化け物は……ッ!?」
王都の民衆が、空の絶望を忘れて悲鳴を上げた。
ゼギオンから放たれる覇気は、空に浮かぶバグすらも凌駕するほどの、純粋で濃密な『死の気配』であったからだ。
しかし、ゼギオンは足元で震える人間たちには目もくれず、ただ静かに、冷徹な複眼で空の『絶対防壁』を見据えた。
「リムル様の創り給うた箱庭を荒らす、システム(理)の残骸か。……身の程を知れ」
ゼギオンの声が、直接人々の脳内に響き渡る。
それは感情の起伏を一切感じさせない、ただ絶対なる処刑の宣告であった。
『【対象の敵対行動を検知。カウンター・プロトコル、スタンバイ。全反射装甲(フル・リフレクト)展開】』
亀型の巨大バグが、ゼギオンを『最大の脅威』と認識し、装甲の表面に幾何学的な光の膜を展開した。これこそが、世界に存在するあらゆるエネルギーを計算し、弾き返す究極のシステム盾。
ゼギオンは、右手をゆっくりと持ち上げた。
指を揃え、手刀の構えをとる。ただそれだけの動作で、周囲の空間が悲鳴を上げ、大気がビリビリと震え始めた。
「絶対の防御、いかなる攻撃も反射する、か」
ゼギオンは、甲殻の奥で微かに嘲笑したように見えた。
「――虚仮威(こけおど)しが。我が究極能力『幻想之王(メフィスト)』の前に、システムが定義した物理法則など、児戯に等しい」
ゼギオンの姿が、ブレた。
否、移動したのではない。彼の『存在座標』そのものが、空間の理を無視して亀型バグの眼前へと転移したのだ。
『【空間転移を検知。迎撃――】』
システムが反応するよりも早く。
「【次元斬線(ディメンション・レイ)】」
ゼギオンの手刀が、無造作に振り下ろされた。
それは、物理的な斬撃ではない。彼の究極能力によって極限まで研ぎ澄まされた、空間そのものを切り離す『次元の断裂』。
システムは「攻撃のエネルギー」を計算して反射しようとした。だが、ゼギオンの放ったものはエネルギーではなく、「空間をそこで終わらせる」という事象の書き換えであった。
ズレェッ……!!!
絶対の防御を誇った光の膜が、いかなる抵抗もできずに『空間ごと』真っ二つにズレた。
亀型バグの超重装甲も、内部のコアも、一切のダメージ判定(システム・ログ)すら残さずに、完璧な断面を見せて両断される。
『【エラー。防御定義、不明。ダメージ算出……不能。存在データが……分断サレ……】』
「我が刃は、幻を現実に変え、現実を幻へと帰す。貴様が『反射できる』と信じているそのシステムそのものが、既に我が掌の上の幻想(プログラム)に過ぎない」
ゼギオンが右手を軽く握り込む。
瞬間、両断された亀型バグの巨体が、内側から発生した『無数の次元の断層』によって、まるで賽の目状に細切れにされていく。
反撃も、自己修復も、何もかもが遅すぎた。
物理演算すらも追いつかない武の絶技の前に、世界敵はただのデータ・スクラップへと成り果てた。
「消えよ。リムル様の視界を汚すな」
ゼギオンが手を振ると同時、細切れになったバグの塊は、次元の狭間へと強制的に放逐され、王都の空から塵一つ残さず完全に消え去った。
王都の人々は、声を発することすら忘れていた。
あの絶望の要塞が、たった一振りの手刀消滅した。
恐ろしい虫の化け物。だが、彼らが今、ゼギオンに向ける視線は、恐怖から『純粋な畏敬』へと変わっていた。圧倒的すぎる力は、時に神性すらも帯びるのだ。
ゼギオンは一切の歓声を聞くことなく、ただ静かに、再び陽炎のように虚空へと溶けて消えた。
そして、バハルス帝国の上空。
そこは、他の戦線とは異なり、数え切れないほどの有翼型の眷属たちが、文字通り空の隙間が見えないほどに密集して群れを成していた。
まるで空を覆う黒い雲。その数、優に数百万。
彼らは一体一体が集まり、陣形を組み、帝国全土を覆い尽くすほどの『超巨大な魔法陣』を上空に構築しようとしていた。
『【全個体の魔力を同期。広域事象消去魔法(ワールド・デリート)、発動準備。帝国座標の完全消去まで、残り30秒】』
地上では、皇帝ジルクニフと白金の竜王がモニター越しにそれを見て、再び冷や汗を流していた。数百万の軍勢による、理不尽なまでの絨毯爆撃。
だが、その黒雲のような群れの前に、たった一人で立ちはだかる男がいた。
深紅の髪を揺らし、燃え盛るような覇気を放つテンペストの侍大将――ベニマル。
彼は、数百万の敵を前にしても、腰の太刀『紅蓮』の柄に手をかけたまま、微動だにしていなかった。
「……虫けらが群れたところで、何かが変わるとでも思っているのか」
ベニマルは、深く、静かに息を吸い込んだ。
『【対象の魔力密度、急上昇。脅威度判定:規格外。広域事象消去魔法の標的を、眼前の個体へ変更】』
数百万の眷属たちが一斉にベニマルに狙いを定め、空を覆う魔法陣から、星すらも焼き尽くすほどの極太の『消去の光線』が放たれた。
それは、光の奔流となってベニマルを飲み込もうと迫る。
「陽炎(かげろう)のように、消え去れ」
カァンッ……!!
ベニマルが太刀を抜く。その抜刀の音は、数百万の敵が発するノイズを打ち消し、世界そのものに響き渡るほど澄み切っていた。
究極能力『陽炎之王(アマテラス)』。
光と熱を完全に支配し、自身の意志で絶対的な加速と破壊をもたらす、炎の極致。
「【赫炎の太刀(プロミネンス・アクセラレーション)】」
ベニマルが太刀を一閃した。
放たれたのは、細く、どこまでも鋭い『一本の赤い線』。
しかし、その赤い線が消去の光線と激突した瞬間。光線は赤い線に触れた端から『燃え上がり』、逆に光線を伝って、上空の数百万の眷属たちへと炎が逆流していった。
『【エラー。熱量制御不能。システムの防御限界を突破――ッ!!】』
数百万のバグたちが、悲鳴を上げる間もなく、ベニマルの放った絶対の炎に包み込まれた。
それは単なる熱ではない。相手の存在を定義するシステム構造そのものを「燃料」として燃やし尽くす、概念の炎。
空を覆っていた黒雲は、文字通り『一瞬で』燃え尽き、チリ一つ残さず蒸発した。
あれだけの凄まじい炎の嵐を引き起こしておきながら、地上の帝国には熱風すら届いていない。ベニマルの、狂気的なまでの熱量制御の賜物であった。
チャキッ、と。
ベニマルが太刀を鞘に収める音が、静まり返った帝国の空に心地よく響いた。
魔国連邦、中央指令室。
モニターには、新世界の各戦線で完全な勝利を収め、敵を塵芥一つ残さず殲滅した最高幹部たちの姿が映し出されていた。
スレイン法国、リ・エスティーゼ王国、バハルス帝国、トブの大森林。
全ての空から赤黒いノイズの亀裂は消え去り、平和な青空が戻っている。
「ふむ、さすがだな。見事な手際だ。ゼギオンも相変わらず無駄がない」
リムルは玉座に深く腰掛け、満足げに頷いた。
「シエル、残存するバグの反応は?」
『《告。新世界における『世界敵』の眷属、およびレイドボスクラスの存在は、完全に消滅(デリート)されました。……しかし》』
シエルの声が、微かに、しかし明確な『警戒』のトーンへと変わった。
その瞬間。
指令室のメインモニターに、激しいノイズが走った。
新世界の青空を映していた映像が突如として暗転し、宇宙空間――新世界の惑星を外から見下ろす衛星軌道上の映像へと切り替わる。
「……なんだ、これは?」
指令室に控えていたディアブロが、目を細めてモニターを睨んだ。
星の外側。
宇宙空間の暗闇の中に、星の裏側から、とてつもない質量を持った『何か』が姿を現しつつあった。
それは、数千メートルなどという次元ではない。
惑星のサイズそのものに匹敵する、宇宙を覆い尽くすほどの超巨大な『大蛇』のようなシルエット。
その体は純粋な宇宙の闇と、赤黒いノイズの極地で構成されており、幾千もの巨大な眼球が、ギラギラと星を見下ろしていた。
『《警告。新世界にて消去された『世界敵』たちの残存データが、宇宙空間にて一箇所に収束。ユグドラシルシステムにおける、完全なる終末プロトコルが起動しました。……データが収束し、新たな脅威が出現しようとしてます。真なる世界敵の頂点。『九耀の世界喰らい(ウロボロス・バグ)』》』
システムが、その世界の全てをリセットするために用意した、真の最終絶望。
それはもはや惑星に降り立つことはない。
惑星そのものを、外側から『丸呑み』にして消去する、文字通りの宇宙規模のバグ。
「……星ごと食い殺すつもりか。ずいぶんとスケールがでかいバグだな」
リムルは、玉座の手すりに肘をつき、静かに息を吐いた。
モニター越しに見える『世界喰らい』の巨大な顎(あぎと)が開き、新世界の惑星を丸ごと飲み込もうと迫り来るのが見えた。
このままでは、ベニマルたちが守り抜いた地上の民もろとも、星そのものが虚無へと帰す。
「幹部たちを呼び戻しますか、リムル様。星の外の戦闘となれば、流石の彼らも手こずるやもしれません」
ディアブロが進み出て、慇懃に尋ねた。
「いや、いい」
リムルはゆっくりと玉座から立ち上がった。
その瞬間、彼の背後から、宇宙空間すらも歪めるほどの、底知れぬ魔素(エネルギー)が爆発的に膨れ上がった。
指令室の空気がビリビリと震え、ディアブロでさえもその圧倒的な神気に一歩後ずさる。
「あいつらは十分すぎるほどやってくれた。残りのゴミ掃除は――俺が直接、終わらせる」
万物を統べる魔王(神)の瞳が、黄金の光を放ってモニターの奥の『終末』を睨み据えた。
テーマパークの延長などではない。
世界の理を乱す真の異物に対し、最強のスライムが、ついにその絶対の権能を振るう時が来たのだった。