『《……リンク切断完了まで、残り10秒》』
脳内に響く神智核(シエル)のカウントダウンが、永遠のように長く感じられた。
宇宙空間を埋め尽くすほどの極太の『事象崩壊光線』。その強大なエネルギーの奔流のド真ん中で、リムル・テンペストはただ一人、薄皮一枚の結界を纏って前進を続けていた。
一歩踏み出すごとに、結界と光線が衝突して宇宙空間に凄まじいプラズマの嵐が巻き起こる。
リムルの身体を構成する魔素が悲鳴を上げ、金色の神血が宇宙の闇に散っては蒸発していく。
『【警告。対象ノ接近ヲ許容デキズ。……出力、論理限界値ヲ突破(オーバーライド)。300%ヘ強制ブースト】』
九耀の世界喰らい(ウロボロス・バグ)が、己に迫り来る小さな魔王への『恐怖』に似たエラーを吐き出し、自らのシステム中枢を焼き切りながら更なるエネルギーを注ぎ込んだ。
光線は真っ黒な虚無の柱となり、周囲の空間座標そのものを削り取りながらリムルを呑み込もうとする。
「ぐ、う、おおおおおおッ……!!」
リムルの身体が大きく仰け反った。防御を集中させていた腕の肉が弾け飛び、骨格を為す高密度の魔素構造が剥き出しになる。
これだけの痛みを味わうのは、いつ以来だろうか。
だが、その黄金の瞳の奥にある闘志の炎は、いささかも揺らいではいなかった。
『《……5。4》』
「ははっ……。もっと、もっと来いよ……!」
『《……3。2》』
「俺の後ろの星には、指一本……ッ!」
『《……1。》』
リムルが、血に塗れた顔を上げ、獰猛に牙を剥いた。
「――触れさせねぇって、言ってんだろッ!!」
『《告。対象と新世界の惑星コアを繋ぐ情報リンク、および次元拘束コードの『完全切断』に成功しました。新世界へのエネルギー逆流の心配はありません》』
そのシエルの涼やかな声が響いた瞬間。
リムルの全身から、痛みに耐えるような緊張感がフッと抜け落ちた。
押し寄せる光線の中、両腕をだらりと下げ、彼は深く、静かに息を吐き出した。
『【エ、エラー!? 対象惑星トノ同期リンクガ……消失!? ドコニモ、見ツカラ……ナイ!?】』
ウロボロス・バグの無機質な音声が、明らかな『恐慌』をきたしてバグり始めた。
自身が絶対の盾としていた人質(新世界)が、いかなる手段を用いたのか、システム上から完全に切り離されてしまったのだ。
「ご苦労様、シエル。最高の仕事だ」
『《ふふ。マスターのためですから》』
リムルがゆっくりと首を鳴らす。
「さてと……。随分と派手にやってくれたな、ポンコツシステム。おかげで服はボロボロ、体中痛くて敵わん」
リムルが呟いた直後、彼の千切れた両腕や傷だらけの肉体が、スライムの持つ超速再生能力――否、神の自己修復によって『瞬きする間もなく』完全に復元された。
それと同時に、魔素による物質創造で、ボロボロだった神話級(ゴッズ)の装束が、真新しい漆黒の魔王の衣服へと再構築される。
たった一瞬。
文字通りの一瞬で、リムルは『完全無傷の絶対者』としての姿を取り戻したのだ。
『【脅威度、測定不能! 測定不能! 対象ノ存在値ガ、宇宙ノ総熱量ヲ上回ッテイマス!! エラー! 逃走プロトコル起動!!】』
数万キロメートルに及ぶ超巨大な大蛇が、光線の照射を突如として停止し、無様な身のこなしで虚空に次元の穴を開け、そこへ逃げ込もうと体を捻った。
先ほどまでの絶対的な破壊者の威容は見る影もなく、ただ捕食者に怯える虫ケラのような逃走劇。
「逃がすかよ」
リムルの黄金の瞳が、絶対零度の冷酷さを帯びた。
「俺の愛する世界を人質に取り、俺の民を怯えさせ、あまつさえ俺に痛みを味わわせたんだ。……楽に死ねると思うなよ」
リムルが右手を天に掲げた。
その瞬間。
宇宙空間の「時間」そのものが、ピタリと静止した。
『【――!?】』
逃げ込もうとしていた次元の穴も、ウロボロス・バグの巨大な体も、一切の動きを封じられる。
究極能力『時間支配』。システムによる時間停止耐性など、真なる神の権能の前では紙切れ以下の意味しか持たない。
静止した時間の中で、リムルだけがゆっくりと歩を進める。
彼の背後に、先ほど見せた巨大なスライムの影とは比較にならないほど、おぞましく、そして美しい『真っ黒な虚無の空間』が広がっていった。
究極能力『虚無之神(アザトース)』。
その最奥に封じられた、万物を創り、万物を消し去る究極の破壊エネルギー――『虚無崩壊』。
「終わりだ。てめえのシステムごと、俺の胃袋で消化してやる」
リムルが右手を振り下ろした。
「【虚無喰らい(アザトース・イーター)】」
停止した時間が動き出した瞬間。
ウロボロス・バグの視界を覆い尽くしたのは、星そのものを呑み込むほどの巨大な『漆黒の顎(あぎと)』であった。
『【ガ、アァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッッ!!!!??】』
声帯を持たないはずのシステムバグが、宇宙空間に断末魔の絶叫を響き渡らせた。
リムルの放った『虚無』は、数万キロの巨体を頭から丸呑みにし始めたのだ。
物理的な破壊ではない。存在の削除ですらない。
『ユグドラシル』というシステムが構築した概念、歴史、プログラムのソースコードの一文字に至るまで、全てを「リムル・テンペストの一部」として強制的に捕食・還元していく絶対の捕食。
バグの巨大な体が、漆黒の渦の中へとズルズルと吸い込まれていく。
数千、数万の眼球が絶望に明滅し、光線や重力場を放とうと足掻くが、虚無空間の中ではいかなるエネルギーも発生した瞬間に『無』へと帰す。
「ギ、ギギ……【ワタシハ、セカイヲ、リセット、スル、タメニ……システムノ、絶対ノ、リ……】」
「お前のルールは、ここで終わりだ」
リムルが冷たく言い放つ。
ズズズズズズズズズッ……!!
最後の抵抗も虚しく、数万キロに及ぶ世界喰らいの巨体は、わずか数十秒の間に、リムルの背後に広がる虚数空間へと完全に吸い込まれ、消失した。
爆発の光も、衝撃波も、熱量すらも一切発生しない。
ただ、そこにあったはずの『宇宙規模の絶望』が、文字通り跡形もなく消え去ったのだ。
後には、新世界の美しい惑星と、静寂を取り戻した宇宙空間、そして、小さくも絶対的な存在感を放つ一人の魔王だけが残された。
「ふぅ……。食い応えのあるポンコツだったな」
リムルは小さくゲップをする真似をして、自身の腹をぽんと叩いた。
『《告。ウロボロス・バグの完全捕食、および残存するユグドラシルシステムのコア権限の吸収を完了しました。新世界における『世界敵』の脅威は、これにて完全に消滅しました》』
「サンキュー、シエル。お前がいなきゃ、あのまま星ごと吹き飛ばすハメになってたよ」
リムルは宇宙空間でクルリと振り返り、眼下に広がる青と緑の惑星――『新世界』を見下ろした。
自身の庇護下にある、美しい箱庭。
その地表では、何億という命が、空を見上げて息を潜めていることだろう。
リムルは、新世界の全生命に向けて、そしてテンペストで待つ仲間たちに向けて、思念伝達(テレパシー)のチャンネルを開いた。
『――新世界の皆、そしてテンペストの皆。待たせたな』
優しく、しかし絶対的な安心感を伴った魔王の声が、世界中に響き渡る。
『大掃除は終わった。悪い虫は俺が全部食っちまったから、もう空が割れることも、星が消えることもない。……今日からまた、最高の一日の続きを楽しんでくれ』
その宣言が響き渡った瞬間。
新世界全土は、数秒の完全な沈黙の後、爆発するような歓喜の渦に包み込まれた。
「おおおおおおおッ!! 神よ! 魔王リムル様ァァァァァッ!!」
バハルス帝国の帝都では、皇帝ジルクニフが玉座の間で号泣しながら、天に向かって両手を掲げていた。
「なんという御方だ……! 己の身を挺して我々の世界を護り抜き、あの絶望を文字通り『一呑み』にしてしまわれるとは……! 我々は、なんと偉大で、慈悲深き神の箱庭に招かれたのだ!!」
「奇跡だ……! これぞ真の魔法、いや、神の御業ッ!!」
フールーダは床に頭を擦り付け、祈りの言葉を何度も何度も繰り返し叫んでいた。
白金の竜王は、空を見上げながら、深く安堵の息を吐き出した。
「終わったのだな……。かつて我々を絶望の淵に追いやった『プレイヤー』たちの大本たるシステム。それすらも、あの御方の前ではただの塵芥に過ぎなかった。……もはやこの世界に、我々が恐れるものは何もない。あるとすれば、それはあの偉大なる魔王様の怒りを買うことだけだ」
彼らの心には、もはやテンペストに対する疑念や恐れは一切残っていなかった。
あるのは、世界を救ってくれた絶対者への、純度100%の感謝と絶対的な忠誠心だけであった。
一方、魔国連邦・中央指令室。
「アハハハハハハハッ!! 素晴らしい! 素晴らしい素晴らしい素晴らしいッ!!」
ディアブロが、両腕を広げて天井を仰ぎ、狂喜の笑い声を上げていた。
彼の瞳には、先ほどまでの怒りは微塵もなく、至高の主が成し遂げた圧倒的な偉業に対する至福の涙が浮かんでいる。
「これぞリムル様! ユグドラシルなどというちっぽけなシステムの残骸が、リムル様に勝てるはずなど万に一つもありませんでした! ああ、リムル様が我が主であることを、今ほど誇らしく思う瞬間はありませんッ!」
「リムル様……っ! ああ、ご無事で本当に良かった……!」
シオンはモニターの前にへたり込み、大粒の涙をポロポロと零しながら安堵の声を漏らしていた。
ベニマルもまた、固く握りしめていた拳を解き、深く息を吐き出した。
「まったく、心臓に悪いですよ。だが……最高にカッコよかったですよ、リムル様」
「当然だ。我らが主の御前では、星を喰らう怪物すらも、ただの餌に過ぎないのだからな」
ゼギオンが静かに腕を組み、誇り高く頷く。
世界が終わるはずだった日。
それは、魔国連邦(テンペスト)という国の絶対的な力が新世界のすべてを呑み込み、そして『完全なる救済』をもたらした、新たな神話の始まりの日となったのであった。