リ・エスティーズ王国、王城ヴァ・ランティエル。
その最奥に位置する壮麗な謁見の間は、ただならぬ緊迫感と、それに反比例するような嘲笑の空気に包まれていた。
「――以上が、トブの大森林の中央に突如として出現した国家、『魔国連邦(テンペスト)』に関する報告の全てです。国王陛下」
玉座の前に片膝をつき、重々しい声で報告を終えたのは王国戦士長ガゼフ・ストロノフだった。
彼の顔には深い疲労と、拭いきれない恐怖の残滓が刻まれている。しかし、周囲を取り囲む大貴族たちの反応は、ガゼフの危機感とは全く温度の違うものだった。
「ふはははは! なにを馬鹿なことを! 戦士長殿ともあろうお方が、亜人の幻術にでもかかりおったか!」
丸々と太った大貴族の一人、ボウロップ侯が腹を揺らして大笑いした。それに同調するように、周囲の貴族たちからも失笑が漏れる。
「『剣を振るうことすらなく、風圧のみで完全武装の騎士十数名を吹き飛ばす女』だと? まるで吟遊詩人の三流の伽話ではないか」
「その上、『ゴブリンが我が国の精鋭より強いオーラを放っていた』などと……。ガゼフよ、平民上がりのお前には、ゴブリンとオーガの区別もつかんのか?」
次々と投げかけられる侮蔑の言葉に、ガゼフはギリッと奥歯を噛み締めた。
無理もない。ガゼフ自身、実際にあの理不尽の塊のような都市を目にし、圧倒的な力を持つ魔物たちと相対していなければ、こんな報告を信じはしなかっただろう。
だが、現実は小説よりもはるかに残酷だ。
「……信じられないのは分かります。しかし、これは紛れもない事実! あの国は、我々人間の常識が一切通用しない化け物たちの巣窟です! もし彼らの機嫌を損ねれば、我が王国など数日……いや、数時間で地図から消滅しますぞ!」
ガゼフの悲痛な叫びが謁見の間に響き渡る。
玉座に座る老王、ランポッサ三世は深く眉をひそめ、その横に立つ黄金の髪を持つ美しい姫――ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフは、その翡翠の瞳の奥で静かに思考を巡らせていた。
「ガゼフよ、そなたの忠義と眼力は余が一番よく知っておる。……しかし、亜人の国がそれほどの力を持っているとは、にわかには信じがたいのも事実」
「陛下……ッ!」
ランポッサ三世が言葉を濁したその時、重厚な謁見の間の扉が外から慌ただしく叩かれた。
「ほ、報告いたします!!」
顔を真っ青にした近衛兵が、転がるように謁見の間に飛び込んでくる。
「何事だ! 御前であるぞ!」
「も、申し訳ありません! し、しかし、城門の前に……『魔国連邦』からの外交使節団を名乗る者が到着いたしました!」
「なに? 来たというのか」
ガゼフの背筋に氷のような悪寒が走った。
あの女だ。昨晩、自分を一瞥しただけで魂を凍りつかせた、あの「美しき死の象徴」が、ついにこの王城に足を踏み入れたのだ。
「使節団の規模は? 兵を何千連れてきたのだ!」
ボウロップ侯が声を荒らげる。ガゼフの報告を信じていないとはいえ、亜人の軍勢が王都に迫っているとなれば話は別だ。
「そ、それが……馬車が、一台のみ。お供らしき者も、ほんの数名しか……」
「一台だと? 舐めおって。亜人の分際で、我が王国にそのような少人数で乗り込んでくるとは! 陛下、直ちに捕縛し、彼奴らの思い上がりを正してやるべきです!」
鼻息を荒くする貴族たちをよそに、ガゼフは絶望的な思いで天を仰いだ。
(違う……! 軍隊を連れてこなかったのではない。彼女たちにとって、人間の国など『たった数名で十分制圧できる』と判断されているのだ!)
「……通せ。使者として来たのであれば、礼を尽くすのが王国の作法というものだ」
ランポッサ三世の鶴の一声により、扉が開かれた。
コツン、コツン。
静寂に包まれた謁見の間に、ヒールの音が優雅に響き渡る。
「――お初にお目に掛かりますわ。リ・エスティーズ王国の国王陛下」
現れたのは、息を呑むほどに美しい真紅の髪の女だった。
軍服を思わせる純白のドレスに身を包み、その一挙手一投足には、王族すら霞むほどの洗練された気品が漂っている。彼女の後ろには、人の良さそうな老紳士の執事(ヴェイロン)と、無邪気な笑みを浮かべる少年の従者(モス)が恭しく控えていた。
謁見の間にいたすべての男たちが、一瞬、テスタロッサの放つ魔性とも言える美貌に心を奪われ、言葉を失った。
しかし、すぐに彼らの心に「亜人に対する傲慢さ」が蘇る。
「無礼者! 貴様、陛下の御前であるぞ! なぜ跪かん!」
リティン伯と呼ばれる若い貴族が、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
「亜人の分際で、王国の地を立って歩くことすらおぞましい! 地べたに這いつくばり、泥を舐めて許しを乞え!」
その言葉に、ガゼフは心臓が止まるかと思った。
(馬鹿野郎!! 相手が誰だか分かっているのか!?)
しかし、テスタロッサは怒るどころか、扇子で口元を隠してふふっと上品に笑った。
「まぁ、元気のよろしい小鳥さん。でも、ごめんなさいね。私は我が主であるリムル様にのみ忠誠を誓う身。他国の王に跪くような安い膝は持ち合わせておりませんの」
「なんだと!? 貴様ら、あの女を力ずくで押さえつけろ!」
リティン伯の命により、謁見の間の壁際に控えていた重武装の近衛騎士四名が、剣の柄に手をかけながらテスタロッサへと殺到した。
「やめろ!! 手を出すな!!」
ガゼフが制止の声を上げたが、遅かった。
騎士たちの無骨な手がテスタロッサの華奢な肩に触れようとした、その刹那。
「……お嬢様のお体に、薄汚い手で触れるなど。万死に値する無作法ですな」
老執事――ヴェイロンが、瞬きほどの間にテスタロッサの前に立ち塞がっていた。
彼は武器すら抜かない。ただ、手に持っていた給仕用の白いタオルを、まるで埃を払うかのように軽く振るった。
パァァァンッ!!
「ぐはぁッ!?」
「がはッ!?」
鋼鉄のフルプレートアーマーを着込んだ大柄な騎士四人が、目に見えない巨大なハンマーで殴られたかのように宙を舞い、謁見の間の大理石の柱に激突して白目を剥いた。
鎧はベコベコにひしゃげ、タオルの当たった部分だけが鋭利な刃物で斬り裂かれたように綺麗に切断されている。
「な……!?」
謁見の間に、死のような静寂が落ちた。
老人がタオルを振っただけ。魔力すら感じなかった。ただの物理的な動作で、王国の誇る精鋭が紙屑のように吹き飛ばされたのだ。
「ひぃっ!? や、やれ! 宮廷魔法詠唱者たちよ! その化け物どもを焼き尽くせ!!」
パニックに陥った貴族の指示で、数名の魔法使いが即座に杖を掲げた。
「『火球(ファイアーボール)』!!」
「『雷撃(ライトニング)』!!」
王国最高峰の魔法使いたちが放つ、第三位階の攻撃魔法。赤蓮の炎と紫電の稲妻が、テスタロッサたちを飲み込もうと殺到する。
だが、テスタロッサは瞬き一つしなかった。
代わりに、小柄な少年――モスが一歩前に出た。
「うーん……。魔素が全く乗ってない、ただの物理現象だね。味気なくてマズそうだけど、お嬢様に当てるわけにはいかないし」
モスが口を大きく開けた。
次の瞬間、炎も雷も、まるで掃除機に吸い込まれるようにモスの小さな口の中に飛び込み――『ゴクン』という咀嚼音とともに、跡形もなく消滅した。
「ゲップ。……やっぱり、全然美味しくないや」
「ま、魔法を……食べた、だと……?」
宮廷魔法使いたちが、自分たちの杖を取り落とし、恐怖に腰を抜かす。
物理攻撃も魔法も、彼らの次元には一切届かない。
「……もう、よろしいかしら?」
テスタロッサが、ふわりと扇子を閉じた。
その瞬間だった。
――ズンッ!!
謁見の間の重力が、数十倍に跳ね上がったかのような錯覚。
いや、違う。これは重力ではない。
テスタロッサから漏れ出した、ほんのわずかな『覇気(妖気)』。
原初の悪魔としての、新世界を消し飛ばすほどの深淵の魔力の一端が、空気を物理的に圧迫しているのだ。
「ガ、アァァ……ッ!?」
「ひ、息、が……ッ!」
先ほどまで威勢よく吠えていた貴族たちが、次々と膝から崩れ落ち、喉を掻きむしりながら床に這いつくばった。
呼吸ができない。心臓が恐怖で凍りつき、血液が逆流するような絶対的な死のプレッシャー。
ガゼフですら、全身から滝のような冷や汗を流し、大剣を杖代わりにして辛うじて片膝をついて耐えるのが精一杯だった。
この中でマトモに意識を保てているのは、テスタロッサが意図的に覇気を避けた国王ランポッサ三世と、ラナー王女だけだ。
「……思い上がりも甚だしいですわね、人間の皆様方」
床で苦悶する貴族たちを見下ろしながら、テスタロッサは冷酷で美しい笑みを浮かべた。
「我々は、お遊びで此処へ来たのではありません。リムル様は『友好的な交易』をお望みです。ですが……我々が本気になれば、この程度の国、私のこの手一つで、今夜の夕食の準備ができる前に地図から消し去ることができるのですよ?」
彼女の言葉は、一切の誇張を含まない純然たる事実であった。
その事実を、謁見の間にいる全員が、本能で、魂の底から理解させられた。
自分たちは今、神の逆鱗に触れたのだと。
(――ああ、なんて……なんて美しいの!!)
しかし、その地獄のような光景の中で、ただ一人だけ、全く別の感情を抱いている者がいた。
黄金の姫、ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフである。
彼女は、床に這いつくばる愚かな貴族たちと、神の如き力で彼らを蹂躙するテスタロッサを見比べながら、自身の『完璧な計画』を瞬時に書き換えていた。
(王国の権力など、この方たちの前では砂上の楼閣。ならば……私がテンペスト側に付けば、クライムとの未来を誰にも邪魔されずに、永遠に安全な箱庭で暮らせる……!)
ラナーの異常な頭脳は、即座にテスタロッサを利用し、王国を内側からテンペストに売り渡すシナリオを構築し始めていた。彼女の瞳には、恐怖ではなく、狂気に満ちた希望の光が宿っている。
「……テスタロッサ、殿」
苦しい息のなか、玉座のランポッサ三世が絞り出すように声を発した。
「我が家臣たちの無礼……どうか、許していただきたい。貴国の……リムル殿の意向は、よく分かった。我が王国は、魔国連邦との交易を……歓迎、しよう」
「まぁ。やはり国王陛下は、とても聡明な方ですわね」
テスタロッサが微笑むと同時に、謁見の間を支配していた死のプレッシャーが嘘のように霧散した。
貴族たちは一斉に咳き込み、床に倒れ伏したまま大口を開けて空気を吸い込んでいる。
「では、こちらの条約書にサインを。……ご安心くださいませ。我々は不当な要求は一切いたしません。ただ、我が国の特産品(ポーションや武具)を関税なしで持ち込ませていただき、独自の商会を設立する許可をいただくだけですわ」
テスタロッサは、優雅に羊皮紙を差し出した。
それは表向きは公平な交易条約。しかし、圧倒的な品質と価格破壊力を持つテンペストの物資が王国に流れ込めば、王国の経済が完全にテンペストに依存する(実質的な属国化)のは時間の問題だった。
「これから、末永く……『仲良く』いたしましょうね?」
美しき死神のその言葉は、リ・エスティーズ王国という国家の、事実上の終焉を告げる死の宣告であった。